コメント
コントロールをしてはいけない、しかし・・・
ほんと、考えさせられるます。少し思索したことをコメントさせてもらいます。
他者をコントロールしてはいけない、なぜならそれは根本解決にならないから、、、これが前のワタシのコメントです。村野瀬さんの正義を押し付け、他者の内面を封鎖し、表面的にコントロールすれば新たな差別を産む気もします。
だから、村野瀬さんは、
>自分の中にある差別意識に敏感で自分で自分の差別意識を改善できる態度を持った人を増やすしかない
と、考えた。共感します。
でもね実際は、そも「社会」というものが他者(構成員)をコントロールして(することで)成り立っている、のかもしれません。つまり「社会」と「差別」は不可分なのかもしれない。古今東西「差別」のない「社会」はほぼ皆無(証明はできませんが、多分ね)ということをも考えてしまいます。
だから
>「差別」を「社会」から無くしていく
は不可能。
悲しいことですが、まさしく
>どうしたらいいのかは正直言ってわかりません
です。
おそらく人間は「社会」の否定はできませんので、不可分である「差別」とも永久に付き合わなければなりません。
だから、何を言っても無駄とか、何をやっても意味ない、と言いたいわけではありません。「差別」がある限り「差別をなくさなければならない」という意志も「社会」と不可分。でもそれはつまりゴールのないマラソンを永遠に走り続けなければならない、ということでしょうね。自分が終わっても受け継がれて走り続けなければならないと考えると、ゴールのないリレーかもしれません。そのリレーが「社会」そのものなのかも。
すこしでも多くの人に「差別性」を気づいてもらうには、他者の差別を指摘するよりも、自分の「差別」を内包せざるえない「社会」の一員であり、自分も差別に加担しているかもしれない、の内省を、またそこからの解放を、広く示せば、
>自分の中にある差別意識に敏感で自分で自分の差別意識を改善できる態度を持った人
が増えるかもしれないと考えてしまいます。そんな人が多い社会は宿命であるコントールの部分が多少は減るかもね。
しまった、また長くなってしまった。すみません。
誰でも差別することもされることもある。
それから当然のことながら差別は人種による差別だけではありません。ネトウヨは低収入で低学歴といってみたりすることじたいがすでに差別でもあると思います。無意識にも低学歴で低収入の人がネトウヨになるんじゃないかと思ってしまうことがすでにその人の心の中にある差別なんだと思いますよ。人種差別に反対してる人もこういう差別は平気でやってるんじゃないですか?
最後の部分がもっとも重要なことかと思うので賛同します。差別することもされることも関係ないといえる人は少ないはずなんです。だから差別の問題は自分の問題ととらえる必要があると思います。でも差別とは無縁のような顔をしてる人が多いのが気になるところです。
いますねぇ
私もレイシストについては容赦なくスパム通報していますが本当に腐るほど多く情けない限りです。最近勉強しているメンタル系の資格取得で知った事なのですが、決して一個人では行動を起こせないものが集団になると危険な発言や行動を起こす現象をリスキーシフト現象といいます。
これらには5つの分類がありますが、レイシストについて言うなら主に欲求不満説の可能性が濃厚です。その他にも普遍性、数の圧力、感染説。暗示・模倣説とあります。放置してはとんでもない事なのは言うまでもありません。
毒多さんへ
<質問の0>
>他者をコントロールしてはいけない、なぜならそれは根本解決にならないから、、、これが前のワタシのコメントです。
少し検索してみましたが、「前のコメント」が見つかりませんでした。場所をぜひお教えください。
(そちらを読めば、今回のコメントの内容の不明点が理解でき、もしかしたら以下の質問は不要になるかもしれません、が、まあせっかくなので(というより、次に時間が取れるのがいつになるかわからないので)書くことにします。)
<質問の1>
>村野瀬さんの正義を押し付け、他者の内面を封鎖し、表面的にコントロールすれば新たな差別を産む気もします。
なぜ「新たな差別を生む気が」するのかが、私にはよくわかりませんでした。
例えば、私(を含む多くの人)は「人を殺してはならない」という「正義」を人生の先輩方から押し付けられて育ち、今でもそれに従って生きていますが、これがどのような新しい差別を生んできたのかが、パッと浮かんでこないのです。
これは私が差別に疎いからなのか、多くの人が生んでいる(加担している)差別だから意識しづらいのか、それとも一般化できる話ではなくて「『村野瀬さんの』正義」(もしかして前のコメントに具体的に書かれていますか?)という限定的な話なのでしょうか?
<質問の2>
>だから、村野瀬さんは、
>>自分の中にある差別意識に敏感で自分で自分の差別意識を改善できる態度を持った人を増やすしかない
>と、考えた。共感します。
「だから」は、何を受けているのでしょうか?
「根本解決にならないから」でしょうか?
それとも「新たな差別を生む気がするから」でしょうか?
いずれにしても、「だから」「村野瀬さんが」「と、考えた」と断言できるだけの根拠は、いったいどこにあるのでしょうか(もしかして前のコメントを読めばわかるのでしょうか)?
本エントリーだけを読む限り、「差別主義者を(そんなことが仮にできたとして)コントロールして差別行為だけをやめさせても、そんな人はまた別の誰か(国とか)にコントロールされて差別行為をするようになるから」ってのも捨てがたい、と思うのですが。
<質問の3>
>でもね実際は、そも「社会」というものが他者(構成員)をコントロールして(することで)成り立っている、のかもしれません。つまり「社会」と「差別」は不可分なのかもしれない。古今東西「差別」のない「社会」はほぼ皆無(証明はできませんが、多分ね)ということをも考えてしまいます。
ここまでは「気もします」「かもしれません」と仮定の話なのに、なぜその直後に
>だから
>>「差別」を「社会」から無くしていく
>は不可能。
と、いきなり断定された(できた)のでしょうか?
しかも「根絶する」ではなく「無くしていく」ことすら不可能という。
それぞれの根拠はなんなのでしょうか?
私が何か読み落としているのでしょうか?
<質問の4>
>おそらく人間は「社会」の否定はできませんので、不可分である「差別」とも永久に付き合わなければなりません。
だから、何を言っても無駄とか、何をやっても意味ない、と言いたいわけではありません。「差別」がある限り「差別をなくさなければならない」という意志も「社会」と不可分。でもそれはつまりゴールのないマラソンを永遠に走り続けなければならない、ということでしょうね。自分が終わっても受け継がれて走り続けなければならないと考えると、ゴールのないリレーかもしれません。そのリレーが「社会」そのものなのかも。
「「差別」がある限り「差別をなくさなければならない」という意志も「社会」と不可分」などとは考えない人、つまり「べつに差別はなくならなくてよい」と考える人も、世の中にはきっと大勢いることでしょう。
その場合、毒多さんの「コントロール禁止則」に従えば、そのような人に「差別をなくさなければならない」という「正義を押し付ける」ことは「他者の内面を封鎖し、表面的にコントロールすれば新たな差別を産む気も」するので不可能(かもしれません)。
したがって、リレーのバトンは「なくさなければならない」側の人々だけで受け渡さなければならない(かもしれません)。
・・・ところで、生まれてきた子供たちは、「なくさなければならない」「なくさなくてもよい」おそらくはどちらかの考え方を、いったいどうやって体得するんでしょうか(それにそもそも我々はどのように体得してきたのでしょうか)?
つまり、「教育」とは「押し付け」である(かもしれない)ので、今生きている人がすべて死んでしまったら、このリレーは残念ながら終了(かもしれませんね)!
さて、ここからが質問の本丸です。
「コントロール」って、いったいなんなのでしょうか?
「他者をコントロールしてはいけない」が成り立つのであれば、その逆の「他者からコントロールされてはならない」も成り立つのでしょうか?
コントロール(しようと)して/され(ようとし)ているというのは、外からはどうやってわかるものなのでしょうか?
「我が党へ清き一票を」っていうのは、やっぱりコントロールだからいけないのでしょうか?
国家・法律はいわゆる「コントロール装置」ですが、だからこれも存在自体がいけないのでしょうか?
自らの考え方を主張することは、他人をコントロールする(可能性がある)からいけないのでしょうか?
他人の考え方を受け入れることは、その他人にコントロールされた結果である(とみなされる(可能性がある))からいけないのでしょうか?
「他者をコントロールしてはいけない」という考え方を主張することは、その考え方を人に「押し付けて」いることにはならないのでしょうか?
「他者をコントロールしてはいけない」という考え方を受け入れたということは、結局はその考え方に「コントロールされた」のだ、ということになりはしないのでしょうか?
もしそうならば・・・質問の2の「だから」が「毒多さんの考え方を受け入れたので」という意味合いであるならば(そしてそれが正しければ)、村野瀬さんは「他者をコントロールしてはいけない」という毒多さんの考え方に「コントロールされている」ことになり、これは毒多さんにとって好ましくない展開だと思われますがいかがでしょう?
<質問の5>
>すこしでも多くの人に「差別性」を気づいてもらうには、他者の差別を指摘するよりも、自分の「差別」を内包せざるえない「社会」の一員であり、自分も差別に加担しているかもしれない、の内省を、またそこからの解放を、広く示せば、
>>自分の中にある差別意識に敏感で自分で自分の差別意識を改善できる態度を持った人
>が増えるかもしれないと考えてしまいます。そんな人が多い社会は宿命であるコントールの部分が多少は減るかもね
「加害者としての差別克服の方法を、自らの中から生み出す助けとする」くらいであれば、私もそう思います。
ただ「すこしでも多くの人に「差別性」を気づいてもらう」というのであれば、その人にとっては他者の「内省」などを示すより、その人自身が関与している(ほとんどの場合は加害者側でしょう)差別について指摘する方がよほど「気づきやすい」と考えます。
(でなければ「自分とは関係ない差別者の内省」として(別にオレ差別してねーしー、ってな具合に)消費される可能性が高いでしょう。なにしろ「気づいてもらう」段階なのですから。)
つまり、ブログ等で広く呼びかける場合には、ネタは一般的であるほうが(確率的に)好ましく、それに対して加担している(いた)か被害を受けている(いた)かは問題ではなく、書かれた内容のみが問われるべきでしょう。
なぜか。
差別の加害者側や無関係な人の中には、たとえば被害者側から「正論」が示されたとき、「論」自体よりも「立ち位置」に反発する人が少なくないようです(もっともこれは「差別」に限らないようですが)。
しかし、そのような反発を「自分自身で」乗り越えてこそ、
>自分の中にある差別意識に敏感で自分で自分の差別意識を改善できる態度
に近づけるのであり、この手の葛藤を省略した「乗り越え」はおよそありえない、と私は考えるからです。
例のごとくでとーっても長くなってしまいましたが、質問はこれで終わりです。
もしこの書き込みに気がついて、なおかつお時間がございましたら、回答をいただけるとありがたいです。
funaboristaさんへ
と、いっても以前ワタシ(rom)が秘書課で注目したコメ欄の対話の片方がfunaboristaさんだったのでお久しぶりと言いたいとこですが、、、、よっぽど馬があうのだろうか? ほんとは村野瀬さんと対話がしたかったんですが、、。村野瀬さんには相手にされず、他の方(しかもfunaboristaさん!!)との対話になってしまうのは、いかにも秘書課らしいや(笑)。まあ、いいのですが。
えっと早速ですが、質問0ですね。進行の早いブログなので左カラムの「最近の記事」から落ちてしまっていますが、「日本の出版界とは違って、憎悪を商品にしようとは考えていない中国の出版界」という2014-3-16付けのエントリーです。ただし、コメ欄がアレてますので、もう少し案内しますが、ワタシのコメント22846と、あとは一番最後のほうのコメントです。(途中の荒れた部分は感知しませんが)
はじめて秘書室で村野瀬さんよりレス頂いたので、結構、力をいれてレスしたのですが、再レスはいただけなかった、、、、それで、こちらのエントリーがワタシのレスを読んでもらった「なにか要素」が「あるかもしれない」とワタシが勝手に「妄想」してコメントをしました。
(ワタシのなかでは)対話するという前提なので、とうぜん違うならば「違う」というレスを期待してのコメントになりました。よって、お指摘の「だから」とか、「と、考えた」と書いたわけです。(まあfunaboristaさんにしても、このあたりの細かい言葉遣いを指摘したいわけではないと思いますが、、、)
で、こちらのコメントにも村野瀬さんからは何もいただけなかった、なので「妄想」は継続中です。ちゅうか、もういいや、と決めた矢先なのですが(笑)。よってここのみのコメントのワタシの仮想対話妄想部分はfunaboristaさんには???かもしれません。まあ、それ以上に、気を抜いて書いたということもありますが、、、、でも、折角ワタシ自身再度思索できるような興味深い質問をいただいたので、喜んでレスしたいと思います。まずは、ワタシのコメントで思索頂いたことに感謝します。ありがとう。
ただ、ちょっと時間がかかりそうなので、その間に質問0の「対話にならなかった」コメ欄を読んで頂けるとありがたい、、、かな?
読んで、時間のムダだった、、、と思われたら、悲しいけどさ。
あと、ここのコメ欄ではゼロシミンさんのコメントが共感するなぁ。と付け加えておこ。ではのちほど、、、、
毒多さんへ(その2)
日々お忙しいこととお察しします。ご回答はお時間がかかっても構いませんのでお気になさらずに。
(このコメント自体、私自身の遅レスの自己弁護ですからw)
>ワタシのコメント22846と、あとは一番最後のほうのコメントです。
23179ですね、拝読しました。
(「途中の部分」はとりあえず読み飛ばしましたw。いや、知ってる人が登場しているんで後で読みますが。)
読んでよかったと思っています。
22846と23179を読めば、22846がそもそも「問いかけ」(というか(失礼ながら)「かまをかける」くらいがピッタリ)であり、「思想統制(この感性は嫌いです)することがお望みですか?」が「毒多さん自身そもそもそのようには思っていないだろう」という認識のもとに書かれたものであることは私でも容易に理解できます。
しかし、少々せっかちな人だと、22846を読んだ時点で「村野瀬さんはそういう人だ」とか「村野瀬さんはそういう人だ、と毒多さんは考えている」と判断しかねないとも思いました。
その場合、(その後コメント欄が荒れたことも相まって)23179は読まれないまま終わってしまうでしょう。
(以前、他のブログのコメント欄に「世の中には『経済成長は終わった』っていう説がありますよね」と(それに対してあなただったらどう反論しますか、というつもりで)書いたら、いきなり「この新自由主義者めが!」と罵倒されてコメント禁止になったことを思い出しましたw。・・・ということで、ここを読んでいる方で23179をまだ読んでいない方は読まれることをお勧めします。)
コメント欄であっても、対話前提である形式の場合、「問いかけ」は(それが「かまをかける」レベルであっても)私は「あり」だと思っていますが(なにしろ「『人を殺してはならない』という『正義』を人生の先輩方から押し付けられて育ち」とか書くくらいですw)、しかし、それは常に「誤解される」危険をはらんでいるものでもあると思います。
また、「かまをかけている」もんだと思って読み進めていたら、実は「本気でそう思っていた」ということもしばしば(どころじゃない?)ありますよね。
・・・いや、毒多さんがそう、というのではなくて、以前「『猪瀬への投票を反省しろってのは、つまり投票資格がないから棄権しろってこと?』と、『かまをかけ』ているのかと思っていたら『ガチで誤読』していた方」っていうのをこちらのコメント欄で紹介したことがありまして・・・最近たまにしかコメントしない私の、「質問」した相手の多くがそういう人たち(もちろんすべてじゃないですよw)でして・・・だもんで、(少なくとも現時点で)このコメントを読んでいる人が「毒多さんはそういう人だ」とか「毒多さんはそういう人だ、とfunaboristaは考えている」とか判断されてしまうのはよくないなあとか思ったり・・・
(・・・と、遠回しにコメント23267の自己弁護を試みる(爆))
・・・では、コメントの読み手各自が「言外の意図」に留意して読めばいいのでしょうか?
私はそれだけではダメだと考えます。
というのも、言外の意図を想像するのも読み手自身である以上、「その人の限界を超えるものは想像できない」からです。
よく「論争が進んで、今まで表面化していなかった対立点が浮かび上がった」とか言われるとき、案外その実態は「(論争に必要なため)論を丁寧に書いたら、(当人たちは理解していた)対立点が読者にも理解されるようになった」だったりするのではないでしょうか。
今回毒多さんが書かれている話題は、そのような「想像力の限界を以って埋もれさせてしまう」にはあまりにも惜しい。
そう思ってあのような理詰めカチカチの質問コメントを書かせていただきました。
(もちろん私が私自身の想像力の限界を痛いほど理解しているから、でもあるのですが(爆爆))
それではまた。ご回答お待ちしております。
funaboristaさんへ
(その2)のレスを下書きしましたが、めちゃくちゃ長くなってしまい、短く書きなおしました。要点のみにしました。
funaboristaさんの「理詰めの質問(笑、失礼)」のレスを書かなかったのは、忙しかったのではなく、funaboristaさんが前スレのコメ「23179」を読んで頂けたかどうか知りたかった、こと。
前スレに村野瀬さんがなんらかのレスを頂けると書いていて、それを読んでからでもいいかと思った、こと。
の2つが理由です。
>カマをかける・・・常に「誤解される」危険をはらんでいるものでもあると思います。
ワタシもfunaboristaさんを誤解していたかもしれない、と、(その2)を読んで感じております。
>「言外の意図」
前スレのワタシの最初のコメ「22846」は、村野瀬さんへの疑問提示で、一定の信頼関係はある(甘えかもしれませんが)という前提で、他の読者は意識してませんでした。他への読者の配慮が足らず申し訳ない(と謝りながら、同じことを繰り返しますのもまた必然ですが、、)。
件のコメが、もし村野瀬さんの「限界を超える」ものであれば、なんらかの反応がある(という甘え)、がありました。実際村野瀬さんからレスを頂けてよかったと思っています。
ご指摘の「限界を越えよう」という意志がない(もしくは気づかない)人との対峙に注意しなければならない、というのはワタシも言っているのに、一方で「限界を越えようとしない者」など相手にできるかいな!!、という自分もいることはご指摘の通りです。オノレの未熟さを感じます。
>「想像力の限界を以って埋もれさせてしまう」にはあまりにも惜しい。
評価をいただき、ありがとうございます。
コメント(その2)へのレスの下書きではこの5倍ほど書きましたが、他所様のお庭で、あまりにも図々しく感じましたので、短く要点のみにしました。行間はお察しください。)
さて、
〈質問の1〉から〈質問4〉は手短にします
(その2)を頂き、funaboristaさんが23179を読んで頂いたことが解りましたので、重要な部分(質問の2・質問の5)以外は、ある程度略してお応えします。別のベクトルの議論にいってしまいそうなので、今回はこの程度でご堪忍ください。もとのコメが論戦用に考えたものではありませんので、抜け落ちだらけです。論戦としては負けを認めますので何卒お許しを・・・お代官様、、とこういうことを書くから長くなるorz。
〈質問の1〉
「人を殺さない正義」という無茶振り(すみません、笑)に応えるとするとどうなるんだろう、「死刑存置賛成の人」差別・・・ちょっと違うか? 現行法があるうえでの殺人被害者遺族の感情に対する差別・・・これもツッコまれそうだな? むしろ殺人犯の人権に対する差別かな? 長くなりそうだ。違うベクトルに行きそうなので、別の機会に。(誤解なきよう書けば、ワタシは死刑廃止論者です。秘書室のFAQには採用されてません。おそらく限界超えなんでしょう。爆!!)
差別者の根本要因のひとつは「生育歴」であり、親と教育の問題は大きいと考えます。「親の問題」に深く関与するのが社会要因ですね。その社会要因には差別も含まれますので、負の連鎖になっていまいます。その連鎖を断ち切ることが大切ですが、生育歴の呪縛は深く硬い、負の連鎖もしかり。深く硬いものに表面から解らせようとしても、無理だと考えます。もし一つの差別を解らせても別の差別に走ることになる、と考えています。
また教育の問題も根は深く、教育と国家との因果もちゃんと考えていかなければならない。差別をなくすとは国家(権力)との闘いでもあることは秘書室と同意します。
また全てを生育歴・教育のせいにして、そこに甘える態度を許容するものではありません。
〈質問の2〉
>「だから」「村野瀬さんが」「と、考えた」
前スレからの続きとしての、ワタシの(レスのない)村野瀬さんへの(エントリーのなかでレスしているのではないか、という)妄想及び希望です。
>「差別主義者を(そんなことが仮にできたとして)コントロールして差別行為だけをやめさせても、そんな人はまた別の誰か(国とか)にコントロールされて差別行為をするようになるから」ってのも捨てがたい
このセンテンスは非常に面白いので、別途書きます。
〈質問の3〉
>「気もします」「かもしれません」と
言葉の使用ミスです。最初から断定すべきでした。(最初から断定すると「キツイ」という感覚があり、何気なく書かせたのでしょう。「言外の配慮」というか)
〈質問の4〉
>「べつに差別はなくならなくてよい」と考える人も、世の中にはきっと大勢いる
そういう人々、もしくはオノレの差別性に気づいていない人に、「差別は拙い」と本心(根本)から自らを省みるよう話をすることに、異議はありません。そこを放置して、差別性に気づいている人のみの「リレー」を想定したわけではありません。なのでポイントは(質問の5)だと考えます。
>村野瀬さんは「他者をコントロールしてはいけない」という毒多さんの考え方に「コントロールされている」ことになり
前スレのコメント23719を読んで頂き、そういいたいのではない、と書いたことで理解してください。
ここからが本題です
>「差別主義者を(そんなことが仮にできたとして)コントロールして差別行為だけをやめさせても、そんな人はまた別の誰か(国とか)にコントロールされて差別行為をするようになるから」ってのも捨てがたい
「国家(権力)」(分かりやすくするためここでは「社会」を「国家(権力)」とします)がある限り差別はなくならない。なので、差別主義者とは国家に純粋順応していると言えます。サヨっちの斎藤貴男あたりの言葉でいえば「国家に隷属している」となる。即ちオノレ(国家)の差別を許容している、となるでしょう。となると、仰るように「コントロール」して表面的な差別言動を止めさせることは不可能です。仮に対処療法的にコントロールできた(これも仰るとおり論理的にもありえませんが、)としても、再度
>(国とか)にコントロールされて差別行為をするようになる
のは必然ですね。
では差別主義者をどうするか?
ワタシの主張する(笑)「根本療法」による解決は、上のように考えると「国家」をなくすことになり、そんなことは不可能だろ?となります。(本当はね、「世界市民」なんて大風呂敷広げるくらいなら「国家なんて要らない」まで言えよ、といいたいのですが、現実的ではないことは解っていますので、大きい声では言いません。)
差別者の根本要因は「国家目線」なのだけど、「国家目線」は国家の希望する目線で、そこに呪縛される限り根本治療はできません。
ワタシは差別についての根本要因は「国家目線」ではなく「人間目線」としたい。人間側の目線とはつまり「国家は差別を生み出すものだ」を俯瞰できるかどうか。一人の人間としての自分と国家の関係を客観視することができるか。国家に属させられている、ではなく、国家に属してやっているぐらいの上から目線で結構。つまり、国家に属しているからといって、「差別を生み出す」こと(内心)まで国家に乗っ取られていいのですか?、国家つまり国民以前に、苦しむ被差別者がいることは悲しいと感じる一人の人間でしょ、と言いたいわけです。
また23719にも書きましたが、ワタシが「差別はダメだ」という正義によって権力になってしまっては、国家と同じ構造で差別の再生産に陥る可能性が大きいよな?と自問しなければならないと考えます。
さらに考えたいのが、国家に対し上から目線になっても、国家に隷属させられている人にまで上から目線になってしまっていいものか? で〈質問の5〉に続きます。(ワタシは差別者を、あくまで隷属「させられている」と考えます。)
〈質問の5〉
あらためて、funaboristaさん〈質問の5〉を読み直しましたが、ワタシも同じことを繰り返しているようですね。「立ち位置」を「国家目線」と言い換えているだけです。
>そのような反発を「自分自身で」乗り越えてこそ、
>>自分の中にある差別意識に敏感で自分で自分の差別意識を改善できる態度
>に近づけるのであり、この手の葛藤を省略した「乗り越え」はおよそありえない、と私は考えるからです。
異議はありません。ワタシも同様に考えます。というか、ワタシもサヨっち先輩に糾弾され「差別」を乗り越えました(笑)。もしくは「未だに乗り越えられていない、かもしれない」、ぐらいの自覚はもっています。 、、、でも、少し付け加えます。
昔、雨宮処凛が面白いことを言っていて話題にしたことがあるのですが、それは、「優しいウヨク、厳しいサヨク」というセンテンスです。
これは面白かった。
「立ち位置」や「国家」にアイデンティティを持とうとする人は、もとより不安を抱えていたり、メンタリティが弱かったりする気がしています。なので、「立ち位置」や「国家」すがりたくなる。で、「弱い」ので「優しい」に走る。そう「優しいウヨク」に走ることになる。優しく話を聞いてくれるから。そして「ウヨク」に傾倒していく、、、、
誰も皆「厳しいサヨク」の糾弾に耐えて葛藤を乗り越えることができる者ばかりではありません。むしろ強くない人が多数です。では、そうした人々にどうしたらよいか? 最終的には自分の責任において、葛藤を乗り越えるしかないことは解りますが、ブログを開いて社会を変えていこう、とするなら「厳しさ」以外にも、なんらか方法はあるのではないか?とは思うんです。
なにもウヨクの二番煎じ的に優しくしたらいいんじゃね、とは言いませんが・・・。
いろいろ書きましたが、秘書室が、ネトウヨどころか、どちらでもない人、あろうことかサヨっちにまで、「ちょっとおかしくないか」と言われている現状をみると、非常に残念である、、というのがワタシの「“ほんと”の言外の意図」です。
余談ですが、差別と闘う者自体がオノレを「国家目線」におき、差別主義者と闘えば、オノレに矛盾が生じ差別者(国家隷属者)を納得させることや改めさせることはできない、とワタシは考えます。
が、左カラムにある「慰安婦問題」のFK君の子どものような最後のコメをみて、解ってもらうのは至難の業だなぁ、ということも実感しています。ふぅ。
自己言及と行間と
では、さっそく始めます。
・・・・・・・・・・
>ワタシもfunaboristaさんを誤解していたかもしれない、と、(その2)を読んで感じております。
もしかしたら、直近の長文コメント(http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-4666.html)を読まれていたがゆえの誤解、でしょうか?
(といっても、こんなのが「以前ワタシ(rom)が秘書課で注目したコメ欄の対話」だとは思いませんがw)。
そもそもB氏のコメントは、態度があんなんな上に内容が終始メチャクチャでしたから、対応もあんなんなんであって、基本的には(もちろん私基準ではありますが)(たとえそれなりにでも)「内容さえ伴っていれば」、たとえ態度が尊大であったとしても、ああいうことはありませんので。
それでは本題へ。
・・・・・・・・・・
<質問の1>
>村野瀬さんの正義を押し付け、他者の内面を封鎖し、表面的にコントロールすれば新たな差別を産む気もします。
↑なぜ? という質問でしたが・・・
ごめんなさい、何度も読みましたがよくわかりませんでした。
「もし一つの差別を解らせても別の差別に走ることになる」と「新たな差別を産む」は全然違いますよね。
なぜ新たに産むのか・・・私は全くその可能性を感じないので、毒多さんがなぜそのように思うのか、想像もつかないのです。
当人がそもそも持っていたものが現出する、というのならわかるのですが・・・
また、差別をしない/させないという「正の連鎖」が世界に存在しないかのような表現も気になりました。
こちらも、負の連鎖同様(もしかしたらそれ以上に)「深く硬い」ものかもしれませんよ。
<質問の2>
了解です。
<質問の3>
了解です・・・と言いたいところですが、それだと質問が続いてしまいます。つまり「なぜ断定できるのですか?」・・・と続けたいところですが、ここは「行間を読みます」。→了解です。
・・・・・・・・・・
<質問の4>
>>村野瀬さんは「他者をコントロールしてはいけない」という毒多さんの考え方に「コントロールされている」ことになり
>前スレのコメント23719を読んで頂き、そういいたいのではない、と書いたことで理解してください。
ここは全く了解できません、ので以下少し長く書きます。
(その1)
村野瀬さんは、下記のように書いています。
>ヘイト本がこれほど多く出されていることを異常であると批判しているということです。それらの異常な本への批判が高まって、売れ行きも悪くなり、出版社の企業イメージも悪くなるからということで市場から消えればいいと思います。
この「異常な本への批判が高まって」「売れ行きも悪くなり」自体が、実は「消費者側が変化することでしか起こり得ない」事です。
現状の、そのようなことが起こらない状況から、消費者側にいろいろな言論で影響を与えることによって彼ら自身の変化を促し、その結果「そのようなことが起こる」状況へと変化させたい、そういうことですよね。
もちろんこの時点で、全ての人が「買う」から「買わない」へ変化したわけではないけれど、一定数が変化したことは確かであり、ある一つの行為が全ての人をフォローする必要もなければ、それはもともと不可能というものでしょう。
したがって、毒多さんの
>売らなくなるから買えないだろう、は、買う人(買ってしまう人)への問題解決ではないですね。
は、村野瀬さんがそもそもそのようなことは主張していない、つまり全くの的外れな批判のように思えます。
(その2)
>と、ここに書いたことも毒多の考える「正しさ」を基に書いています。それを秘書室に押し付けるつもりは全くありません。
と主張するのは、今回の場合そもそも「無理」なのです。
一般的な話ではありません。
毒多さんが、この一連のコメントで、それを主張するのは「矛盾」なのです。
なぜか。
もしこれがOKならば、村野瀬さんは毎回ブログの締めに
「と、ここに書いたことも村野瀬の考える「正しさ」を基に書いています。それをみなさまに押し付けるつもりは全くありません。」
とでも書けばいいのです。
いや、あらためて書かなくても、この手の批判?には「常に行間にそう書いてある」と主張しさえすればいい。
行間を読めない貴方が悪いのよ・・・って。
これで、「押し付けていない」という主張の一丁上がりです。
・・・ところで、
コミュニケーションって、そんなもんなんでしょうか?
(↑太字の気分)
むしろ「コミュニケーションとは『押し付ける=影響を与えることから逃れることができない』」性格のものなのではないですか?
(↑ここも太字の気分)
(なんか以前、秘書課のコメント欄で同じことを書いたような気がしますw。それががおそらく「以前ワタシ(rom)が秘書課で注目したコメ欄の対話」ですよね?あの時の話、表面上は「憲法と日の丸と批判」の話でしたが、本質的には「民主主義の根幹」に関わる問題でした。ただ、相手方にはそのような認識がなかったためか、残念ながらそこまでたどり着くことができませんでした。そういえばあのときの人も、自分が間違った主張をしているくせにずいぶんと横柄でしたねぇ。)
それから、ブログ運営における「権力が云々」という批判?は、(本来「ブログの運営はブログ主の自由である=ブログ主は権力者である」という前提がある以上)もし傍からそう見えるのであれば、それは寧ろコメント者の側に問題があるのではないでしょうか。
そして、村野瀬さんは自らの「正しさ」という基準でブログを運営しているでしょうから、それに対する批判であれば「村野瀬さんのその『正しさ』は間違っている」で充分、むしろ「権力」などという単語を出してはいけないと考えます。
そして「一般化された『権力化はいけない』」、それこそが「外部から表面的にコントロールしようとする言説」と呼ばれるべきでしょう。
長いので、ここで一旦区切ります。
優しさの非対称性
の前に<質問の2>再び
>国家なんて要らない
いやー、とってもいいんじゃないですか。
私自身「国家とは克服されるべき過程」だと思っていますし、今後数百年のうちに地球上から国家というものが消滅している可能性は意外と小さくないと考えています。
たとえば、金明秀氏あたりでもこんなこと(https://twitter.com/han_org/status/472552669320863744)を言っちゃう(あの人は昔からこんな人ってツッコミは置いといてw)くらいの右傾化した世の中、こちらから世間に譲歩する必要なんかまったくありません。
それこそ「根本解決」を自ら放棄しているようなものです。
大きな声で「国家なんかイラネー」と叫びましょうよ。
(フツーの人には過激すぎて、たいがい「国歌」と聞き間違えてくれますw。それくらいでいいんです。)
差別自体は国家が消滅してもなお存在する、とは思いますが、ここは「行間を読みます」。
ただ、
>ワタシが「差別はダメだ」という正義によって権力になってしまっては、国家と同じ構造で差別の再生産に陥る可能性が大きいよな?と自問しなければならないと考えます。
ってのは、これはまったく意味が解りませんね。
正義は実現したら権力になるから、したがって差別を生み出す???
それが国家と同じ構造???
理路が全くわかりません。
理路はわかりませんが、そのように「左を批判する人たちが存在する」のは知っていますよ。
ですからこの点、私はその理路を<質問の4>で質問している(つもり)なのですが(“本丸”とも書いています)、
>前スレのコメント23719を読んで頂き、そういいたいのではない、と書いたことで理解してください。
の一言で終わりでしたね。
それでいて、「ワタシが「差別はダメだ」という正義によって~と自問しなければならないと考えます。」と繰り返します。
今回、「私が毒多さんの文章の行間をどのように読んだか」については書きません(私らしくはないですが)。
コメント欄を荒らすのが目的ではないからです(自ブログにはそのうち書くつもりです)。
このコメントを読んでいる方は、「私がどのように行間を読んだか」については、ここまでの私の文章の「行間を読んで」ください。
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>ブログを開いて社会を変えていこう、とするなら「厳しさ」以外にも、なんらか方法はあるのではないか?とは思うんです。
これについては、「でしたらそれは、毒多さん自身が実践してください」としか言いようがありません(っていうか、きっと実践していらっしゃるのでしょうから、それを是非・・・いや、これはやめときましょう(草を生やすのも自粛します))。
「秘書課広報室」がそういう存在になる必要がある、とは全く思いません。
それとも、「秘書課広報室」とは、以前は「そういう存在」だったのでしょうか?
(っていうか、村野瀬さんってそもそも「厳しい」ですか?某ブログのコメント欄での私及びブログ主の口癖は「村野瀬さんは優しいから」なんですけどねぇ。たとえば最近だと「FK」というコメンターの扱いだってかなり「優しい」ですよね。これが例えばApemanさんの所なんかだと、一発目でボコボコにされておしまいだと思いますよ。それとも毒多さん、左派巻き返しのためにはApemanさんのところにも「厳しさ以外の方法が~」って意見しに行きますか?)
自民党は、田母神がいるから、安倍が「それよりは」真ん中寄りに見える。
橋下がさらに真ん中で、東国原なんかもう左に見えてるんじゃないですかね、日本でフツーの人達には。
翻って左翼。
例えば社会党が、自社さ政権時に「国民に優しい」存在になったことが、現在の地滑り的左派崩壊の原因の一つだ・・・と私などは思っていたのですが、毒多さんの見解は少々異なりそうですね。
左派は「優しく」なんて狙っちゃいけません。
毒多さんも、「国家解体」をガンガン主張すればいい。
そうすれば、今はフツーの人達が「優しいサヨク」になってくれます。
(そういう人たちの将来のポジションを奪ってはいけませんw)
左翼を自負する人は「報われようとしてはいけません」。
時代の捨て石になる覚悟でなけりゃ、そもそもこんなことなんかやってられない・・・と思うんですが、いかがでしょう?
(ちなみに私は、結婚はしていますが、いわゆる「籍を入れ」てはいません。なんでって聞かれたので「戸籍は天皇の臣民簿だから(参考文献:佐藤文明)」って説明したら、親戚付き合いが減りましたw。将来の子供に対する虐待だ、とまで言われました。ご近所でも「籍を入れていない」はちょっとした話題です。でも「この程度」のことはやりますよ。なんたって左翼ですからw。)
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ご存じかどうかは知りませんが、少し前に、こんなの(http://takoashi.air-nifty.com/diary/2014/05/post-c711.html、これに対する批判はhttp://d.hatena.ne.jp/yamtom/20140514/1400101359)が話題になりましたね。
この一件では小田島氏の「本質」が実によく透けて見えてしまったわけですが、この小田島氏を育てたのは、結局は日本という「小田島氏のような人間に『優しい社会』」ですよね(だから都議会のヤジのようなことも起きる)。
そして「社会が優しい」限り、小田島氏が、そして大勢の小田島氏的な人が、この先「気づく」ことはかなり絶望的であろうことも想像に難くないですよね。
なにしろ、「優しい」それ自体がこの手の差別の本質なのですから。
私は思うんです。
この件、山口氏の指摘するように、むしろバックラッシュ側の方がヒステリックなのですが、もしその事実を正しく指摘しただけで「厳しさ以外の方法が~」と言ってその指摘を批判するとしたら、それは結局小田島氏が「気づく」ことをスポイルしてしまう行為なのではないか、と。
つまり、「厳しさ」を排除することは、「根本解決」を妨げる行為も他ならないのではないでしょうか。
そしてもしかしたら、「『厳しさ』以外にも、なんらか方法はあるのではないか?」などと主張することは、 “実はそもそもありもしないことを主張すること”であり、結果的に「根本解決」を妨げる行為になってしまう、かもしれません。
毒多さんは雨宮処凛氏の話をされましたが、彼女は結局「優しいウヨク」に留まることをしませんでした。
「もっと優しいサヨク」が存在したからそちらに惹かれた、のでしょうか?
違いますよね。
厳しい=媚びずに正しい主張を展開する左翼がいたから、その主張が伝わったから、考え方を変えることができた、そうですよね。
どんな世界でも入門編ってのはあって、導入の部分で「優しさ」が存在するのは私とて否定しません。
しかし、それは内容を減じていいという訳ではなく、さらに誰もがそれをやる必要はない(すべてを一人でやる必要はない)と考えます。
それが必要だと思った人がやればいいのです。
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>秘書室が、ネトウヨどころか、どちらでもない人、あろうことかサヨっちにまで、「ちょっとおかしくないか」と言われている現状をみると、非常に残念である、、というのがワタシの「“ほんと”の言外の意図」です。
これは、これだけではなんとも言えませんね。
「あろうことかサヨっちにまで」とおっしゃいますが、そもそもサヨっちにもいろいろ(ちょっと、どころかだいぶおかしい人も)いることは、私がこのコメントで出した例でもおわかりいただけると思います。
そして私の目にした(まあ忙しい身wなので数はとても少ないですが)他ブログ等で行われている「秘書課広報室批判」で、これは的を射た批判だなぁとなあ思うものは、残念ながら?非常に少ないというのが私の率直な印象です。
そりゃあ私だって、「村野瀬さんは完璧だ」なんて全然思っていませんよ。
間違っていると思えばコメントも入れます(例えば、肯定的に引用した内田樹氏の文章のおかしな内容を批判したこちらhttp://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-3780.htmlなど)。
ただ、最近はなかなかパソコンに向かう時間もないため(このレスも遅くなって本当にごめんなさい)、そういう貢献もなかなかできていません。
ただ、ここにきてやっと時間を作ることができ始めたので、コメント投稿もそろそろ再開したいなあとは思っています(その前に自分のブログを何とかしなければ、ですけれど)。
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最後に。
一方的ではありますが、今回のやり取りはここで終わりにしたいと思います。
理由は三つあります。
一つは、秘書課広報室にこのコメント欄へのアンサーエントリーともいうべき記事がUPされたこと(「なぜ日本の左派は日本の右派に勝てないのか」という問い:http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-5686.html/村野瀬さんは時々こういうことをする、本当に真面目な方だと思う)。
実はこのmojimoji氏のこのエントリー、今回の毒多さんとのやり取りの中で私も引用しようと思っていました。
二つ目は、あれからひと月以上経って、毒多さんにもいろいろあって、以前と=上のコメントと同じようには考えていない可能性がある、と思ったからです。
なぜそう思ったかは・・・いや、やめときましょう。
そしてもう一つは、もしかしたら私がまた長く待たせてしまう可能性があることw。
誰かに聞かれたかもしれませんが、今の私は貧乏暇なしを地で行く生活で、本当になかなかパソコンに向かう時間がとれないんです。
それと、今回の件に絡んで、ここまでのコメントには書いていないことが実はまだ山のようにあるのですが、それは本題である秘書課広報室の運営とは直接関係がないことなので、今後気が向いたら自ブログにでも書くことにします。
では、今回はおつきあいいただき、ありがとうございました。
>毒多さん、funaboristaさん
お返事いつとはお約束できませんが心の片隅にとめてあります。すみません。
クテシフォン#NHK が #大河べらぼう で遊女の裸の死体を出したことに、女性を性的消費したいという欲望の発露を感じざるをえなかった。 #マスメディアへの不信No title 11日の土曜日に再放送があるのでそれを観てみる必要はあると思いますが(ただし再放送ではカットされたり修正されている可能性もある)、報じられた情報を鑑みる限り、シークテシフォン「高齢者か若者か」という誤った二者択一を迫る、たとえば国民民主党玉木雄一郎役職停止中は支持できません。単なるテキトーな感想ですが。玉木雄一郎投手は、SMが趣味の自民党大物議員に嵌められて、いまはYouTuber同然になってしまったのではないのでしょうか?工作員z「批判したがらないZ世代の美徳」??記事を書きましたfunaborista さま
お久しぶりです。
触発されて、記事を書きました。(ネーム参照)
竹田青嗣さん、なんか子どもを低く見てますねえ。単なる好悪で発話している子kuroneko「批判したがらないZ世代の美徳」??日本で「批判」はどのように教えられているか>「批判」という行為の意味や意義を伝えることに日本の教育は失敗しているのでしょうか。
その通り。私たちは「批判」の意味を伝えることに失敗している。しかし、そもそfunaborista小池百合子都政のプロジェクションマッピングは税金で電通を潤すだけで都民全体のための使い方ではない。報道業者はそこをほとんど批判しない。 #マスメディアへの不満経済効果なんて、まやかしです!これ、まだ続いているんですか!
周囲に、ノンポリの東京見物に行きたがる田舎のおっさんとか姉さんがいますが、若い子から年寄りまで、これを見に行きたいと言う話は、聞k.Mina「民主主義のコストがなぜ自民党への献金でなければならないんでしょうか?」 (山添拓・日本共産党参議院議員) #自民党は利権と汚職と税金泥棒先日娘を褒めた話先日、小学生の娘に「国会ではどんなことが話されているのか」と質問されました。
こちらの記事のことが浮かんで、政党助成金や企業献金の話を始めたところで、
「えっ、funaborista死刑FAQ (適宜更新)ジンバブエの死刑廃止を歓迎するアフリカ南部のジンバブエで12月31日死刑が正式に廃止されました。
エマーソン・ムナンガグワ大統領は死刑囚約60人の刑を禁錮刑に減刑する法律に署名しました。
ジンバブエ閉口朝鮮高級学校高校無償化排除訴訟を3年間取材したドキュメンタリー映画「差別」日本語版オンライン公開 @jioon73日本の恥と日本の誇り朝鮮学校を無償化の対象から排除したり、補助金を打ち切ったりといった不法な行為。
帝国主義日本の加害の歴史を消すことも目的の一つでしょう。
これは「日本の恥」といっ閉口「批判したがらないZ世代の美徳」??安保粉砕!闘争勝利!新しい年2025年がスタートしました。
村野瀬さんにとって良い1年になりますことを祈っています。
さて、前世紀末の1999年は国旗国歌法、周辺事態法、通信傍受法、派遣閉口自由競争の中では高すぎる核発電を日本国民に押し付ける役割の日本政府という存在運転停止・点検中の志賀原発は、令和6年1月1日の能登の大地震で、変圧器と核燃料プールのポンプが破損し、火災を起こしていたようです。万が一、稼働中であれば、メルトダ工作員z自由競争の中では高すぎる核発電を日本国民に押し付ける役割の日本政府という存在明けましておめでとうございますアメリカからして、北朝鮮と前提条件無しで米朝平和友好条約を締結しようで双方が合意して、北朝鮮自ら、核廃絶して東アジア全体が平和と安定に繋がれば、韓国がフランスをasa新成人を市長として祝う道義的資格のない #永野耕平岸和田市長の辞職を求めます #SaveSACHICONo title やっかいなことに既にNHK党の立花孝志党首が動き出しており、被害者に対するセカンドレイプを盛大に始めたそうです。また、彼は議会選挙後の二度目の不信任案可決によるクテシフォン自由競争の中では高すぎる核発電を日本国民に押し付ける役割の日本政府という存在もってけ泥棒料金原発は需要に応じた出力調整ができませんし、蓄電もほとんどできません。で、東電の場合、いつも使ってくれるなら、
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17~2時々拝見自由競争の中では高すぎる核発電を日本国民に押し付ける役割の日本政府という存在能登の大地震で停止中の志賀原発は、変圧器が破損し火災が起きたり、核燃料プールのポンプが故障したようですが、運転中ならメルトダウンしてたかもしれないでしょう。工作員z映画監督園子温、同梅川治男、同榊英雄、俳優木下ほうかの性加害の事例についての批判的なメモ。性加害のない日本社会にしたいので。映画監督は小天皇映画監督は小天皇なのでしょう。その場の思いつきで性的な演技を女優に強制する、または性暴力を奮う。裸婦を描くために呼ばれたヌードモデルが画家から性暴力を受けるなとTakeshi自由競争の中では高すぎる核発電を日本国民に押し付ける役割の日本政府という存在原発シャブ中だな、この国。&卑劣なお年賀失敗から学ぶのは愚か者の所業であるが、それすらも出来ない日本の「お上」。そして日本国民のある者は諦観しどうにでもなれとなって目先の快楽ばかり追求し、ある者は強気もーやだこの国「日本のネトウヨの一部に見られる10個の特徴」 (by Tran Van Quyen(チャン・バン.クエン) (@vplusasia) さん)返しが見事一点、補足
自国文化の美化、というか、粉飾した自国文化の美化の方がより近いかと。
地方文化の多様性は認めないし
明治以前、庶民が持ってなかった姓にこだわるし
夜が時々拝見「原爆で亡くなった死者に対する償いは、日本政府は全くしていないという事実をお知りいただきたい」 (被団協、田中熙巳(てるみ)代表委員、2024年ノーベル平和賞授賞式で)「原爆乙女」の笹森恵子さん亡くなる。 1945年に広島で13歳の時に被爆し、上半身や手に重度のやけどを受け、55年にジャーナリストの援助により渡米し、再建手術を受けた笹森恵子さんが2024年12月にカリフォルニTakeshi民主主義を求め守る韓国民の過去から現在までの姿を伝える韓国の新年ニュース (メモ)No title村野瀬様をはじめ、常連コメンテーターの皆様へ
本年もよろしくお願いいたします。
ユンに対する拘束執行が停止なのが何ともですね。
追い込むにはまだ足りないことがあるアンドリュー・バルトフェルド一歩一歩Bonne année !あけましておめでとうございます
私は、今年こそ「退歩」にならないように、抗うつ剤とともにやっていきたいと思います…(^^;)
不肖者の私ですが、今年もよろしくお願いた津木野宇佐儀「日本のネトウヨの一部に見られる10個の特徴」 (by Tran Van Quyen(チャン・バン.クエン) (@vplusasia) さん)無邪気・無自覚な愛国主義ほど質の悪いものはない。出来れば是非考察していただきたいと思い、取り敢えず取り急ぎ。
銀座にずらりと並ぶ日本国旗、そしてそれを無邪気に喜ぶ日本国民……
一言で言って、ヤバい。もーやだこの国「日本のネトウヨの一部に見られる10個の特徴」 (by Tran Van Quyen(チャン・バン.クエン) (@vplusasia) さん)転向者の存在戦前は共産党員や社会主義者であった者が反共に転じた例はあります。佐野学、鍋山貞親、田中清玄、赤尾敏などです。三田村四郎も該当すると言ってよいでしょう。共産党員やTakeshi中居正広によるフジテレビ女性アナウンサーへの性暴力の「お膳立て」をフジテレビ社員が行なったと報じられたことについて (メモ)性接待、性上納 愛は苦しく、性は楽しいとも言われます。フランスの古い歌に「愛の喜び」という歌があり、「愛の喜びは一瞬でしかなく、愛の苦しみは一生続く」という歌詞になっていますTakeshi一歩一歩Un paso a la vez あけましておめでとうございます。
一歩ずつというのは、スペイン語ではUn paso a la vez、韓国語ではハンコルムシックと言うのでしょうか。私は健康を維持するため、Takeshi性暴力と性暴力容認思想・性暴力無罪化への一般人の怒りと怖れに対する法務関係者・医療関係者らによる冷笑の例 (メモ)No title 裁判がなぜ公開されているかというと、広く批判検証の対象にするためです。批判対象は冤罪事例が多いですが、性犯罪事件でよくあるような不当な無罪や軽い量刑の事案が批クテシフォン社会保障費と文教費と軍事予算 (メモ)No title 憲法9条の役割の一つに、戦前の日本のように際限なく軍事に金を使ってこの国に暮らす人々の生活を蔑ろにする事を防止するというものがあります。9条を空洞化し、ひいてクテシフォン社会保障費と文教費と軍事予算 (メモ)日本の教育にかける税金からの費用は異様に少ないと思います。
「国旗」代、「武道」の畳代込み。時々拝見社会保障費と文教費と軍事予算 (メモ)来年度一般会計予算案の我が考察。日本の歳出の1/3が社会保障費ですが、実際の福祉費は、その1/3。例えば100の歳出予算があり、福祉はその内10で防衛費7.5とあまり変わらない。一方、100の歳入予算の内、税工作員z