はてなキーワード: 音痴とは
40、50の手習いレベルの素人おぢさんの嫉妬まじりなんだろうけど、
棘にある動画レベルでそのまま出場だとしたら、ちょっと拙すぎる、こういうコンセプトなんだ、というのは伝わるけど
多分、流石にフジロックレベルに出るのだから、色々な人たちがサポート、介入してクォリティは上がるんだろうけど
それから、ロック淑女とか、リアルけいおん!リアルぼっちみたいなポストもあるけど、
正攻法でこの技術だったら、正直素人にも勝てない気がするんだけど、
思うけど、後ろからパクって追いかけてきた演奏とかの技術力高いやつらに負けちゃう気もする
あと、女子高生がやってるからウケてるんで、同じことをおぢさんやおぢいさんがやっても当たらない気がする…
同じ土俵でプロを抜くというか、下克上というか、道場破りというか、フィクションの物語だったらそういう正攻法だと思うんだよね
結局、音楽理論って、音楽って自由なようで全然自由じゃない、ことを示していて、
オーディエンスが気持ち良くなるサウンドは、ある程度パターンが決まってたりする、それを提供して観客を満足させるのが仕事、みたいなところがあるし、
いやいや、俺はそんな音楽理論なんて知ったことか、感性で100%やってるんだよ、みたいな人もいるけどね、
昨日、ジミーヘンドリックスのインタビュー眺めてて、あなたは楽譜が読めますか?読めませんよ、だから何?みたいな会話があったけど、
たしかにジミヘンは楽譜読めないし、チューニングさえ怪しい狂ってる、
でも、音選びは実に音楽理論というか、黒人が発明したブルースの音楽理論にかなってるんだよね
例えば、ジミヘンコードって有名なコードがあるけど、あれはコードで考えるなら、7thとマイナー7thの音が混在している
混在したら不協和音というか、古い西洋白人の音楽理論からしたら、おかしいよね?という話になるんだけど、
黒人の発明したブルース、これは今のポピュラー音楽では普通になってる、なんかモータウンっぽいみたいなコード進行とかもそう、
今のハードロックやメタルの原点も黒人ブルースにたどり着くと思うんだけど、
ブルースの何が凄いって、いわゆる長調短調、メジャーマイナースケールが混在している、どちらでもない、みたいな音選びができちゃう
自分の感覚で書いちゃうと、しかもマイナーを更にマイナーにする、みたいなこともできちゃう
マイナーに転調するって、単純に言えないけど、要は雰囲気が暗くなる
それを更なる転調で更にどマイナー、暗くすることもできる
転調、部分転調みたいな解釈もできるけど、そんなのウザったいぐらい、どっちの解釈もできちゃう
ミクソリディアンのスケール、コード進行で、マイナーペンタトニック演奏するだけでカッコよく決まってしまう、AC/DCは特にそうだし、ボンジョビもそういう曲ある
黒人がブルースを発明したときは、黒人は差別される存在だったから、黒人音楽自体が否定された
悪魔が作って弾いてる音楽みたいなジャッジを白人に下された、特に白人の親がそうだった
しかし、白人の中にも黒人音楽に魅せられるもの、いわゆる不良少年みたいなのもいるわけで、そこからロックンロール、ロカビリー、いわゆるリーゼントヘアーにツイストダンスである
メジャーであり、マイナーでもある、という音楽は、非常にふらふらした印象を抱かせる、そこがいいのである
しかし、黒人音楽ブルースはロックとして市民権を得るが、例えばメタルは演奏はほぼ白人メインであり、黒人のプレイヤーは未だに少ない
以前としてブルースプレイヤーの黒人はいるが、そこから黒人はジャズに向かって行った印象がある
ジミーヘンドリックスは黒人に分類されるのかもしれないが、偉大なロックプレイヤーである、それは自分も認める、偉そうに言える立場ではないがそこは否定しようがない
最近視聴したNHKのSONGSの星野源のインタビューも面白かったが、ギターで作曲すると、いかにもギターで作曲したな、という曲になりがちである
ギターはそんなに難しい楽器ではない、自分はピアノよりも簡単だと思っている
だって、天下のジミヘンが楽譜読めないのに、カッコイイ演奏ができるんだぜ?
ジミヘンも凄いけど、そもそも黒人のブルースの発明だって、楽譜読み書きして、論理的にロジックで作曲してたらああはならない
だけど、ギターの凄い所は、なんとなく適当に弾いても、音楽理論的に正しいものに抑え込まれがち、というところだと思う
自分はこのことに気が付いて、鍵盤やらなきゃ、譜面読まなきゃ、打ち込みやらなきゃ、敢えて人間が弾けないものを試したりしないと、新しい音楽は作れない、と思ってたんだけど、
NHKで星野源が同じこと言ってて、誰しもが通る通過地点というか、厨二病じゃないけど、ギターによる作曲、ピアノによる作曲、既存の音楽理論や作曲に対する限界を感じてる
だからって、音楽理論を徹底的に破壊すると、現代音楽というか、完全に聴いていて不快な曲にしかならない
アニメだろうが、映画だろうが、まともな絵が出てくる前提があるわけで、印象的でよく分からん絵がひたすら表示されたり、それこそ1時間白い画面黒い画面でも構わないけど、
近年の宮崎駿のアニメも、なんかどんどん実験映像っぽくなってるようなところがあるし、そういうのもなんだかんだ自分は気に入らない
結局、物語として、作品として破綻しているわけで、本人は好きな絵が動かせて面白いだろうが、自己満足であろう
宮崎駿は天才だから許されているが、天才じゃなかったら、作画は凄いけど、意味わかんね、と総スカンくらうことだって十分ありうる、千と千尋とかハウルも
話を戻すと、ジミヘンは感覚で弾いてようが、楽譜が読めなかろうが、そもそもギターを演奏するのに楽譜が読める必要はない
それぐらいギターを弾くのは本当は簡単なんだけど、弾けない人はコツが分かってない、努力する方向を勘違いしてる、もしくは本質的に音楽に向いてない、
いわゆる音痴、らちょう、というか、音痴にも色々あって、脳で正しく音程を認識できている人、脳レベルで認識できてない人、というのがいる
脳で音程を正しく理解できてない、音楽として何が良いのか、みたいなのも理解できてない人は普通にいて、それは特に障害者でもないし、
会社の飲み会でカラオケを強要されるとかなければ問題なかろう、というか、カラオケを強要させる文化が俺はそもそも嫌い
また話が脱線したが、ジミヘン以前に、ギターはなんとなくフィーリングで弾けちゃう楽器で、フィーリングで弾いたものは音楽理論的にハマってる
逆にハマり過ぎる、いわゆる手癖とかもそういうことで、そうなるとマンネリな作曲しかできなくなる可能性がある
ここでギター以外の楽器に手を出したり、意図的にマンネリを打破する必要がある
また話がズレた、ジミヘンというか、そもそもブルースを発明した黒人は、感性で新しい音楽理論を切り開いたことは凄いんだけど、
手品のタネを知った後の後出しじゃんけんなのは分かるけど、何度も書いてるように、そもそもギターを適当に弾いても音楽理論に抑え込まれるので、
元々ブルースを発明した人たちは、既存の音楽理論を壊したい、というか、そんなもん知るか、の精神と、なんだかんだギターに音楽理論的に抑え込まれる、その狭間で生まれのがブルースだと思ってる
ジミヘンは凄いけど、ジミヘンコードにしろ、ジミヘンの楽曲、プレイにしろ、それはジミヘン以前の黒人ブルースの積み重ね、巨人の肩の上に成り立っている
感覚的にジミヘンコードにたどり着いたにしろ、ジミヘンコードは音楽理論的にも実に理にかなっている
守破離という言葉があるように、まずは上手い人をひたすら真似る、音楽理論を受け入れるのが大事
そのうち、上手い人の作曲やプレイがマンネリに思えてきて、音楽理論自体を壊したくなるけど、完全に壊した現代音楽を聴いて、完全に壊すのは無理だわ、とがっかりする
もしくは、パパ、現代音楽で食っていこうと思うんや、となる人もいるんだろうけど、自分には無理だわ
話を最初に戻すと、打ち込みのリズム隊で、キーボード兼ベース、ボーカル兼ギター、女子高生、テクノ、とか微妙な変化球で、
変化球でもストライクゾーン狙いで、明後日の方向に投げていいわけではない、というのが音楽の難しい所だと思う、商業と芸術の間で揺れ動くところ
がんばってくだちい
以下身の上
・アラサー女
・ADHD診断済み
・前はコンサータを飲んでたけど眠気がとれるぐらいの効き目だった&仕事に慣れて思い詰めなくなったので今は何も飲んでない
・不注意&何も片付けられない&授業中に一生便覧読んでるタイプ
・仕事はサボりがち&要領も良くないけど馬力でなんとか帳尻合わせてる、評価は人並み(だと思う)
・メンタル面も今の所不調なし
・弟も未診断だけどASDの気がある
・親族に他にも怪しい人がチラホラ
・運が良かったので経歴に大きな穴は開いてない公立中高→地方国立大→中堅メーカー技術職
・すごい単位落としたとか、何かの依存症で身を崩したとかはないけど、上限まで遅刻したし課題はギリギリだし風呂には入らずゴミも出せずで生活は整ってなかった
・大人になってからあれ……私ってみんなと同じようにできてない……??って気づいた
・思い返すと中学生の時にハブられたこともあるし黒歴史は多いし普通の人ではなかった
・数年前に所謂理解ある彼くん枠の女性経験のない大人しめの旦那と結婚
子どもは欲しいね〜って言ってるんだけど、これが遺伝したら子どもがかわいそうだなと思う、でも私はこのように生まれて親を恨んでるかと言われるとそうではないし、まあまあ幸せだなと思う時もある
産んでいいんだろうか
産んでもし障害があったら療育も通うし最大限教育に金をかけるつもり
でもやっぱり申し訳ないな
いやでも客観的に見て
・両親の平均を取るとまあ悪くはないIQ
・両親の平均を取るとまあ低くはない身長
をプレゼントできる
・発達障害
・共に友達が少ない陰気な両親
・天パ
・近眼
・音痴
・短足
も付いてくるけど やっぱ駄目かも
>Jリーグ事務局がジャパネットが全額出資して作った長崎を将来像として提示してるのは、レッズもそれなりに金を出せって事では?
長崎のは素晴らしいスタジアムなので各方面から称賛されて然るべきですが、Jリーグがことさら、長崎だけを将来像として推しているページは確認できませんでした。可能なら誰かソースを教えてほしいです。
>ガンバも広島も自社出資で公的施設を改修したうえで指定管理者になってるわけで
自社出資・・・ガンバは法人、個人からの寄付が大半ですので、自主財源、民間資金とは言えると思います。自社出資じゃないですけどね。自社ってパナのこと?なら、(Jチームは法人化してるから正しくないけど)、法人寄付の内訳を見ないとわかりません。
改修・・・新設です。どちらも元のスタジアムは現存しています。
この短文にこれだけ真偽の怪しい内容をぶっこむのは、生成AIでもできんて
俺は幼少から重度の鼻炎で鼻詰まりが酷く、耳も悪く、常に口呼吸で喉も痛めてて声はガラガラだった
当然音痴だし、クラス合唱を録音を聞いて明らかに変な声が混ざってて、それが自分だと知った時はかなりショックだった
毎年強制で合唱祭が有り、そのために朝と帰りに合唱する、祭の期間が近付くと休み時間や放課後も練習、その期間は毎年不登校気味だった
音楽の授業も嫌だった
歌のテストって何だよ、才能ゲー過ぎるだろ
しかも人前で1人とか少人数で実施って他の教科で中々無いような事を日常的にやらされる
体育と音楽どちらが悪かでは無く、体育とか芸術は学校で強制したり評価すべきじゃないって話
基礎時数を減らして選択性にすべきとも思う
この中では「雨月物語」しか読めていない。確か角川ソフィア文庫で読んでいる。
村上春樹「海辺のカフカ」で言及されていたので興味を持った。物語集として面白いのだが、序文に紫式部を持ってくる自意識の強さが良い。あと、僕はそもそも怪奇物語が好きだ。好きなのは凄惨なスプラッタやお化け屋敷的なジャンプスケアではない。何か人知を超えた存在がいるという驚きや恐れなのだ。
これは僕の感傷マゾとつながっているのだろうが、言い出せない妄念を抱えた死者というモチーフが好きだし、神話物語に通じる奇譚が好きで、だから仏教説話も説教臭い割に好きだ。
ところで、東京創元社の編纂したSF短篇集「時を歩く」にピンとくる言葉があった。空木春宵によれば、幽霊とは虐げられた人々の象徴で、だから怖いというよりも親しみを感じるそうだ。その言葉にはたと膝を打った。だから僕もお化けや妖怪が好きなのだ。異様な姿をしていて、理解できるのかできないのかわからない、その「他者」っぽさが面白いんだ。モンスターが深い知性を持っているという設定、大好き。
ちなみに、小林泰三「酔歩する男」の元ネタ菟原処女伝説が、「浅茅が宿」でも触れられている。これを書いていたら小林泰三をまた読みたくなってきた。
「菊花の約」は小泉八雲が「怪談」で翻案している。小泉八雲も上と同じ理由で好きだ。一度彼が翻案する前の原典を読んでみたい。僕は箱庭的世界というモチーフが好きなので「安芸之助の夢」が特に大好きだ。
ところで小泉八雲の朝ドラをやるそうだ。大好きな作家だが、きっと観ないんだろうな。僕がテレビを見る習慣をなくしたのは、一つはイケメンの歯の浮くようなセリフを聞きたくないからなのだが、もう一つは小説家を目指すために、帰宅してから寝るまでの時間をずっと執筆にあてていたからなのだ。あと、ドラマを見ていると本編を放っておいて、史実ではどうなっていたかを調べる悪癖もある。
というわけで、残りの物語もそのうち読む予定。
これも「おくのほそ道」しか読んでいない。たしかビギナーズ・クラシックスだ。人々と交流しながら俳句を作っているのが楽しそうだけれど、地元に句会の記録が実は山ほど残っていたりしないんだろうか。
そういえば句会に通う友人にそそのかされて試みに俳句を作ってみたけれど、短歌と比べて情報量が圧倒的に凝縮されている。言葉選びが極めて厳密で、密度が高い。短歌は十四文字だけの余裕があるがあるから、聞いていてもゆとりがある気がする。僕は散文の文学の良さは情報の圧縮困難性、言い換えるならばどういう話かあらすじを短くまとめると魅力が失われる度合いが高いものを高く買っている。逆に、詩文はどこまで世界を圧縮できるかだ。しかしながら、短歌は枕詞で五文字も使う。なぜこんな効率の悪いことをしているのかは不思議だ。
短歌は与謝野晶子、俵万智、穂村弘あたりを読み、俳句は他に高浜虚子あたりを読んだ。
俳句じゃなくて短歌だが、与謝野晶子は熱量がすごくて読むのにえらく時間がかかった。また、穂村弘は生々しい男の生理が表現されていて何となく好ましく思う。しかしそれを荒っぽくぶつけているようできっちりと計算して表現している。形式があらかじめ用意されているからこそか。「台風の来るを喜ぶ不精髭小便のみが色濃く熱し」「男の子はまるで違うねおしっこの湯気の匂いも叫ぶ寝言も」「泳ぎながら小便たれるこの俺についてくるなよ星もおまえも」。僕は意外と暴力的なものが好きらしい。
俳句は数が多く、未読が多く、次々に新しいのが生まれており、追いつけない。ここに載せられた作品もいつかは読みたいが、記憶に残らないこともあるだろう。しかし、すべてを記憶しておかないと不安だというのも強迫観念に過ぎない。読んだその場で一期一会の幸せを覚えれば、それでいいのかも。ちなみに、俳句が作者の目の前で論評されるバラエティは、かつて通った小説創作講座を思い出して胸が苦しくなるから、見ていない。あれ残酷だよね。
こうしてみればわかると思うが、平安時代の文学と比べると、まだまだ読めていないのが江戸時代の作品だ。開き直って現代語訳でどしどし読みたい。
古典は急がない。いつまでも待ってくれている。世間で流行っている作品とか必読書とかそんなのとは無縁だ。千年前の作品を読むのが一年や二年遅れたところで、どうということはない。
ところで脱線するけれど、いま生きている人を推せる人って偉いと思う。だって、いつスキャンダルで裏切られるかわからないからだ。それこそ明治の文豪がクズだったとかいう話はよく聞くけれど、今となっては本人を含めて関係者がみんな死んでるので、多少は冷静でいられる。新たに醜聞が掘り起こされても「昔の人だからね」とどこか冷静になれる。今の人だとこうは行かない(以下、きちんと謝罪をしなかったためその態度に非常に腹が立ってファンをやめた人や、音痴なイケメン歌手の実例を事細かに挙げるつもりだったが、見苦しいので削除した)。他にも存命人物だと、事件を起こす前のオウム真理教を面白がってた著名人や、古本屋で見つけたロリコン写真集に「これぞ芸術」と推薦文を寄せていた文化人に「逃げるなァァァ」と言いたくなることがある。
やっぱり推しは死んでいる人に限る。どんな差別発言をしていても過去の人間だから納得できてしまう。そんなことを頭の片隅に置いてネットサーフィンをしていたら、芥川龍之介が「侏儒の言葉」で似たようなことを言っているのを見つけた(正確には、悲観主義について調べており、そこから哲学者フィリップ・マインレンダーを見つけ、そこから偶然にも「侏儒の言葉」の言葉にたどり着いた)。
古典の作者の幸福なる所以は兎に角彼等の死んでいることである。
又
「侏儒の言葉」は好きなんだけど、読んでいると段々と彼の鬱に巻き込まれていく。いつか芥川全集をぶっ通しで読みたいが、晩年の作品を読むと真実を言い当てすぎていて心底気分が悪くなってくる。二十代の頃のようにシニシズムを楽しむだけの体力がもはやない。ネヴァーモア! 昔はアンブローズ・ビアス「悪魔の辞典」とか大好きだったんだけどな。
とはいえ、数百年前の古典を無批判に読んでいると、人間に身分の上下があることやとりあえず天皇家が偉いことが自明に思えてくるし、人命がアホみたいに軽いことに感覚がマヒしてくるので、これもまたよろしくない。
こういうことを考えている時は大抵は体調不良のときなので、筋トレなりストレッチをしたりするのがいいのである。僕らは結局肉体を備えた存在で、そこからの入力がどんな言葉よりも助けになることが多い。というか、言葉が自家中毒を起こすことはよくあるのだ。ペッペデス。頭が良すぎて不幸になった人間の物語は好きだが、芥川には生きて戦後を見てほしかった。
さて、池澤夏樹の全集では、これ以降の巻では明治の作品が扱われる。しかし、ここまで書いてきてかなり長くなってしまった。ひとまず、江戸時代までで一区切りとし、近代の作品はまた別の機会としたい。おそらく本気になって書いたら、作家ごとに思い入れのある作品は多く、言いたいことはたくさんあるので、もっと長いエントリになることだろう。近現代作家集に至ってはIからIIIまであり、合わせて何十人もの作家が紹介されている。倍近くになるだろう。
ただし、その機会がいつ訪れるかはわからない。先にドストエフスキーや中島敦、ポーやラブクラフトについて書くかもしれない。あるいは、文学にかこつけた自分語りが一段落したので、これで終わりにすることも大いにありうる。
なお、次のエントリでは、有名どころだが話の流れから言及できなかった作品について述べる。
さっきは何が苦手かについて書いてしまったので、逆に何が好きかについても少しは語ろう。芥川賞をはじめとした現代文学を読んでいて、どういう作品が自分に刺さるかを整理すると、知識が豊富な語り手の小説が一番好きで、その次が自分の巨大な感情を論理的に言語化するのがうまい人が語り手であるものだ。それから、無軌道な性欲や暴力衝動、ひがみなどの負の感情を抑えきれない人間が出てくるのが続く。自分が中高生の頃、そうしたダークな受賞作が連続していたと記憶している。田中慎弥「共喰い」とか、時代は下るが西村賢太「苦役列車」とか、砂川文次「ブラックボックス」とか、自分の暴力衝動に屈する人間を描いたのが好きだ。青来有一「聖水」とかもそうだ。世間からはみ出してしまった、汚らしい人間が好きだった時期がある。おそらく「悪とは?」が内なるテーマだったんだろう。
芥川賞は一つの賞でしかなく、世間的には評判が良くてもピンこと来ない作品はどうしてもある。若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」は最初から自分の中の無意識の声たちについて説明しすぎていて、「それだったら最初っから意識の流れとか無意識って言えよ」って思ってしまって、それ以来ずっと批判的にしか読めなかった。あれは高齢者向けの一人で生きることを学ぶ教養小説なんだよな。あと、又吉直樹の作品に結構な頻度で、的外れな批判をしてくる劇団員の女性が出てくるけれど、「お前、本当は社会的な作品批評が嫌いだろ?」っておちょくってやりたくなる。村田沙耶香「コンビニ人間」については前回のエントリで名前を伏せてチクリとやってしまった(最後まで読んでいないくせに!)。
理想を言えば性別だとか人種だとか国籍だとか年齢だとか思想だとか、そういうのを抜きにして作品を評価したいんだけれど、ある程度年齢を重ねてくると、十代の頃のように素直にストーリーを受け止められず、若いころのように思考の柔軟性がなくなり、労働で疲れていては異質なものを楽しむゆとりが減る。どうしても自分の属性や性格が近い人の文章が面白く感じるので、公平に評価するためにマイノリティ枠を設けるってのは、いくつかの問題点があるとはいえ、一つの知恵だと思う。なお、文学的に優れていることと、そのときの自分に刺さって面白いのと、今の社会が必要としているのとは、まったく違うので、話題の小説がいつも面白いわけにはいかないのはしょうがないのだろう。
脱線すると、芥川賞を取ってもその後書き続けられた作家のほうが面白い。というか、受賞作がつまらなくてもその後面白くなる作家も多い。しかし、逆に芥川賞を取る前の青臭い作品にしかない魅力もある。長編を連載するだけの構成力も体力もないデビューしたての漫画家の初期短編集からしか得られない栄養素があるのと同じだ。
なお、僕は大体漫画を買うときは短編が多い。「Fellows!」「ハルタ」「エロティクス・エフ」「楽園」「アフタヌーン」出身の漫画あたりから、絵が好みなのを選んでいるようだ。
というか、みんなあれだけ長編の少年漫画を読むだけの体力があってすごい。ただし、僕がなかなか長編漫画が読めないのは、活字のようにぶっ通しで一気に読もうとしているからという可能性がある。連載を追うペースで、ゆっくりと読めばいいはずだ。
なんでこんなことを言うのかというと、僕は同世代的経験に相対的に乏しいためだ。例えばゲームが下手すぎて、ドラクエやファイナルファンタジーなどの多くの作品をプレイできていない。ポケモンでさえ途中で飽きる人間なのだ。自分が好きなペースで刺さった作品を読んでいるだけなのだが、時折どうしても疎外感を覚える。若いころにもっと流行りのJ-POP聞いてりゃよかったよ。そりゃあ人は人、自分は自分だけれど、寂しい。
とはいえ、少年漫画の多くは恋愛が扱われるので、そこまで読みたい気分でもないのである。
こういうことを書くと「課題の分離」とかいう話になりそうだけど、個人的にはアドラー心理学はそこまで信用していない。さっき書いた「課題の分離」をはじめとした有益な概念は多いし、原因を探るよりもまず対処法を考えるのは、実生活で非常に役に立つ。というか、実際に役に立った。だが、「嫌われる勇気」をはじめとした本ではいいことを言っている一方で、「私に反論するとしたら、それは私の理論を理解していないからだ」という、反証可能性を潰すような自己完結した思考をしているのがいただけない。これは初期のフロイト派の「私に反論するとしたら、それは私に父親を見出しているからだ」とか、古い時代のフェミニストの「私に反論するとしたら、あなたが女性差別を乗り越えられていないからだ」とか、それらと同様の理屈だ。なにか自己完結した、人の話を聞かない嫌らしさを感じる。
自己完結と言えば、たとえば何人かの反出生主義者が(もちろん別の哲学的立場でもいい、実例は見たことがある)、予期される反論に対してすべて想定問答を作ってガチガチに自己防衛をしているのを見ると、圧倒的な壁のような「他者」を感じる。この人と議論しても、自分も相手も何も変わらないだろうなという、諦念を感じることがある。互いに変化をもたらす「対話」にならないのだ。
意識の高い人たちが叩かれるのはこれも理由かもしれない。会話をしても意見を変えてくれないだろうと感じるのだ。一方的な議論をしたいのなら活字でいい。僕は対話がしたいのだ。