はてなキーワード: 幸せとは
高校在学中に同級生を孕ませちゃってそのまま結婚したけど幸せですという男が皆無な時点でね
自分は子供時代を享受して大人の今ですら結婚せず子供がいないくせに他人の子供時代は奪いたい
最近インフルエンサーが17歳の時に同級生孕ませたの発覚したけど案の定女に全部押しつけて逃げて今は金持ちなのに養育費一切払ってない男らしいパターンだった
九州出身で故郷への怨嗟を漫画にした男性といえば諫山創だけど、
結局は主人公がヤンチャ(無辜の民を大虐殺)してもガキの頃からのダチが「ったくお前はよぉ……wしょうがねえなあw」くらいの感じで武勇伝みたいに扱ってくれて仲間内で英雄視されるエンドで
シスターフッドや自立がテーマとして描かれていた女性キャラも「知らない男と無理やりお見合い結婚させられて子どもを産まされたけど今はなんだかんだで幸せなママさんですw女友達なんて思い出しもしませんw」に落ち着いた
追記を読み、元増田はもう読まないかもしれないけどシオカラーズ推しからのアオリちゃん情報をおすすめ順に列挙していく
スプラトゥーンは任天堂にしては珍しくキャラクター内部描写が凝っているし、シリーズ一貫しているのでハマると抜けられないです。(他にはメトロイドくらいか)
https://www.nintendo.com/jp/switch/aab6a/sp/archives/novel/index.html
というのが一般イメージだけど、内面描写をされたのはこの小説が初。これを読んで2のヒロモをやると彼女のことがより深く理解できると思うし
辛いことがあったから3でまたシオカラーズを続けているんだな、としみじみすると思う
ちなみにファンの間では連載中、Twitterで阿鼻叫喚だった
■SPLATOON LIVE IN MAKUHARI -シオカライブ CD★有料
何がオススメかというとこのCDでしか聴けないドラマCDがある。
イカ語で喋っているので、会話の内容は我々ニンゲンには理解できないのだが、ファンならなにが起きてなにを喋っているのか伝わるのが実に絶妙。アオリちゃんの表では見せない一面が伺える。
ブックレットはキャラクターデザイナーの井上さんの描き下ろしシオカラーズが見れる。笑顔で手をつなぐ2人が見れるのもこのブックレットだけ
テンタクルズやオクトエキスパンションがメインだと思われがちだけど
2のヒーローモードの初期コンセプト漫画が読めるのが最大の見どころ
ゲームでは採用されなかった要素やセリフもわかり、アオリちゃんはどれだけホタルちゃんのことが大切なのかがわかると思う
アート・デザイン担当の井上さんが動画を勉強されていたので、初代スプラトゥーンは手描きアニメーションがいくつか作られた。やはり動くアオリちゃんはかわいい。
https://youtu.be/_PsBfxHrQHY?si=gL4B8wasCd5-31Od
https://youtu.be/4RBG4KLnGjY?si=oDK_f_QIJVBtsFna
https://youtu.be/MMf22gLlD5Y?si=fOVr0en3D1NAW9_p
■スプラトゥーン2★有料
もう増田は遊ぶと決めたらしいが、やはりプレイ動画見るのと自分で遊ぶことでは違うのでオススメしたい。
ヒーローモードの一番はじめのステージにはアオリちゃんとホタルちゃんのハートが割れた相合傘のらくがきが隠されている。
ゲーム進行には全く関係ないけど、シオカラーズファンとして大切な要素だというのが増田にはわかると思う
クリアしたらタコツボキャニオンに行ってアオリちゃんとの会話を間近で見てほしい
■初代スプラトゥーン フェス会話、ニュース会話のプレイ動画★無料
もうWiiUのネットワークサービスは終了してしまったので、正規の方法では見ることができない
テキストでまとめたものもあるが、やはりアオリちゃん本人が動いて喋っているのを見るのが一番幸せになれる
一番購入難易度が高いと思う。何よりネットワークサービスは終了している。
だがシオカラーズファンとしてはヒーローモードを遊ぶ価値はあると思う。増田はもう購入する予定らしいが、是非17歳のアオリちゃんは今より口が悪いのを味わってほしい
初代と2の設定資料集
アオリちゃんのチアガール初期案や、2のヒーローモードの悪役アオリちゃんの様々な衣装が見える。
私の場合、愛想が良い子・素直な子は血縁とか関係なく可愛い・好きだと思う。そういう子は成長しても可愛いし、大人になっても今も幸せだといいなと思ってる。でもクソガキはちっとも可愛いと思えない。
結局大人と同じで「子供でも人間性が好ましければ好きになる」て感じだ。
「子どもが好き」て人は子どもの性格とか人間性とか関係なく小さければ何でも可愛いと思うのだろうか?逆に大きくなれば愛着もなくなるのだろうか?
妹(24)が結婚する事になったが素直に喜べない。昨日話を聞いてから内心ずっとモヤモヤしている。
家族という身近な人間が自分より若い年齢で人生を前に進めてる事に焦りを感じる。
でもまぁ妹とその彼氏は高校生の頃から付き合ってるし結婚してもおかしくないよね…って折り合いをつけようとしてたら、母親に「あなたももうすぐだよね?」って言われて完全に心が折れた。
私は数ヶ月前から彼氏と同棲し始めたけれどプロポーズはされていない。彼氏と話し合って結婚を視野に入れた同棲ってことで始めたけど、実際に籍を入れるのはいつになるかわからない。私も早く結婚したい。
そして結婚が決まった妹が羨ましい。 これから妹が妊娠したり子供を産んだりするたびに嫉妬してしまう気がする。
妹もその彼氏も一人暮らし経験がないから、一緒に住み始めた段階で家事に疲れたりして大喧嘩したりしちゃえばいいのにとか思ってしまった。
結婚しない理由が子供で一緒にいる人は欲しい、の場合は結婚相談所で相談してみた方がいいよ。
あと、幸せな人はソーシャルメディアで発信しないから、子育ては皆それぞれの地獄があるんだな〜くらいに思っておいた方がいいと思う。
それが今は朝から子どもの蹴りに起こされ、保育園に送り出し、仕事を終えたと思えば保育園に迎えに行き、21時まで拘束される。今は子どもが小さいから夜泣きで対応することもある。
FPS経験者なら分かるけど試合中の離席、迷惑でしかない。こんな状態でゲームなんかできっこない。
子どもと旦那と楽しく過ごす日々も幸せだけど、どうしてもゲームをやりたい。ネッ友とボイチャで話しながら夜中までやって、時には朝までやってたい。
先日、友人に誘われて初めて婚活パーティーに参加した。世間では「婚活市場は女性優位」と言われるが、実際に足を運んでみると、その空気感にはまるで女王様のような傲慢さが漂っていた。失礼ながら、そんな態度を目の当たりにしてしまうと、こちらからも一歩引いてしまうものだ。もちろん参加者全員がそうではないにしても、当たり前のように男性に条件を突きつける人々が多く、正直驚きを禁じ得なかった。
どんな条件を突きつけられたかというと、まず年収が最低でも500万円以上、身長は170センチを超えていてほしい、学歴は四年制大学卒業以上が望ましい……という具合だ。こういったリクエスト自体は、ある程度の価値観や希望を明確にするためには必要なのかもしれない。しかし、それを口にする際の態度が問題なのだ。まるで「私は選ぶ側にいる」という意識を隠そうともせず、相手が自分の条件に合致するかどうかだけを確認して、少しでも合わないとわかると容赦なく切り捨てる。あるいは、興味がない相手に対して挨拶もろくにしないというケースまであった。そうした姿勢を見ると、人として大切な部分が欠けているのではないかと感じてしまう。
実際に会話をしていても、自分の理想や要求ばかりを語り、こちらの話に耳を傾けようとしない女性が散見された。たとえば仕事や趣味の話を振っても、あからさまに興味がなさそうな表情を浮かべ、「へえ、そうなんだ」で終わりにされることもしばしば。まるで、男性をただの『条件の羅列』としか見ていないかのようだった。
さらに驚いたのは、そうした女性たちが「何でいい人がいないの?」と嘆いている姿だ。傍から見れば、その態度こそが「いい人」を遠ざけてしまう一因になっているのだが、当の本人にはなかなか気づけないらしい。もちろん、男性側にも問題があるケースはあるだろう。だが、少なくとも私が出会った場面では、多くの男性が真剣に向き合おうとしていた印象がある。それにもかかわらず、女性の側が高飛車な態度を取り続けることで、せっかくのチャンスを自ら逃しているように見えた。もしかすると、彼女たちは結婚そのものよりも「周囲から羨ましがられるような完璧な相手」を探すことに固執しているのではないか。もしそうだとすれば、それは本末転倒と言わざるを得ない。
もちろん、希望条件を持つこと自体は悪いことではない。誰だって、自分が幸せになれる相手を見つけたいのだから、ある程度の要望を抱くのは自然な流れだ。ただし、相手を思いやる気持ちやコミュニケーションを大切にする姿勢を忘れてしまえば、本来の婚活の意義はどこへやら、ただの『条件比較ゲーム』に成り下がってしまうだろう。お互いに譲れない部分はあるかもしれないが、最低限の礼儀と相手への関心を示すことは、人としての基本中の基本ではないだろうか。もし婚活で真剣にパートナーを探しているのならば、単に条件を並べるだけでなく、相手の個性や考え方を尊重し、自分自身も成長していくという姿勢が必要不可欠だと思う。にもかかわらず、傲慢な態度をとる女性を見るたびに、「なぜそこに気づけないのか」と残念な気持ちにならざるを得ない。結局のところ、自分自身を高める努力を怠り、相手にばかり理想を押しつける人は、どれほど条件の合う相手と結婚しても、心からの幸せを得ることは難しいのではないだろうか。
婚活はあくまでパートナー探しの場であり、相互理解と尊重が前提であるはずだ。もし女性が自らを“選ぶ側”と勘違いし、その立場を振りかざすような振る舞いを続けるのであれば、その傲慢さに呆れる男性は増えていくばかりだろう。真の意味で幸せな関係を築くためには、まずは謙虚さと思いやりを取り戻すことが大切だと強く感じる。
高校を半分以上潰してさ
んで、子供が成人したらさ
やり捨てされた経験から今度は弱者男性でも妥協するようになってるだろうから、余生は弱者男性と幸せな家庭築いたらいいよ
こうすることで子供の数が倍になるんだよな
どうよ
2025-01-18
それだけで、いつの間にか日が暮れてしまったが、気持ちよかったので良しとしておく。
こんな感じでどうでしょうか?
現実もだいたいこんなもんでしょ?
一芸に頼って飯を食ってる人、みんな謙虚さを失ってる。
自分が人生を預けた一芸が如何に素晴らしいかを日々他人にPRし続けているうちに自己洗脳が進んでしまって悲惨なことになってる。
「こんな素晴らしいスキルを持っている俺様はなんて価値のある人間なんだろう。俺達に比べたら世の中にいる大多数はゴミカスのようなものだ」
本気でこんなことを考えている人間になる。
ネットだと他分野を見下すIT系が散見されるが、アレは何もITに関わったことじゃなくてあらゆる「一芸勝負の業界」で同じことが起きている。
言うまでもないことだが、この世界にあるあらゆる業種が他分野の助けを借りている。
たとえばプログラマーなんて電気がなくなれば何の職能もないクソ無能に成り下がるが、彼らの中には電気工事士を内心で「頭脳労働ができないから小手先でチョコチョコっと単純作業をすることで飯を食っている低知能ブルーカラー」として下に見ているものも少なくないわけだ。
なぜそんなことになるかと言えば、先に述べたように日夜「俺のスキルはこんなに凄いんです!だから俺は沢山給料をもらうべきだし、休みも沢山貰って良いはずなんだ」と喧伝していく必要が資本主義社会では発生するからである。
一芸で飯を食って、一芸が出来る自分を売って暮らす以外の生き方をしているとそれとは全く逆のことを言いながら働くことになる。
他分野の人達相手に「色んなスキルが重要ですよね。いやー貴方のスキルがなかったら僕達本当に困っちゃうな~~~」みたいな感じであっちにもこっちにも媚びていくことになる。
すると自然と「世の中ってやっぱ色んな人達がいて成り立っているんだよな」と考えられるようになる。
これはとても幸せなことだ。
自分の一芸に頼っていきていくうちに、自分たち以外のあらゆる人種を見下しはじめた連中の醜さときたら溜まったものではない。
狭い業界の中における権威ばかりが全てとなって、世界中の99%の人にとってはどうでもいいような物差しを持って他人を差別していきていくなんて、まともな生き方ではないのだから。
世界中のメディアがイーロン・マスクを天才経営者として讃えるたび、心の奥底に沸き起こるのは猛烈な反発心だ。彼の壮大なビジョンや野心的な計画がもたらすインパクトは計り知れない。電気自動車での革新、宇宙事業への投資、さらにはSNSプラットフォームを買収して世界の言論空間を一変させようとする姿勢――どれをとっても、彼が稀有な才能を持つリーダーであることは否定できないだろう。しかし、その裏側には、人を顧みない強引さや、誰もが乗り気でない環境を一方的に変革しようとする独善性が垣間見える。彼は常に「未来を創る」と言うが、その方法に正当性はあるのか。私は強い疑問を抱かずにはいられない。
特に、彼がSNS上で見せる軽率な発言は、私の中にある嫌悪感をさらに増幅させる。刺激的なツイートで株価や暗号通貨の相場を乱高下させ、批判者を嘲笑し、炎上を煽るかのような行動を繰り返す姿は、リーダーというより権力を得た“トリックスター”のようだ。彼の言動を追いかける投資家や支持者は多く、SNSでは絶え間なく祭り上げられている。しかし、そうした「熱狂」が生まれるほどに、私は逆に強い反発を覚える。確かに並外れた頭脳や行動力を持つ人物ではあるが、その影響力をどう使うかという点で、彼はあまりにも無自覚ではないだろうか。
テスラの急成長がもたらした電気自動車市場の拡大は、間違いなく自動車産業に大きな変革をもたらした。それまでガソリン車が主流だった市場をひっくり返し、世界的な環境意識の高まりに合わせて時代を先取りする――その功績は称賛に値する。だが同時に、「内部告発を試みた社員への圧力」「過酷な労働環境」などが報じられるたび、私は苛立ちを禁じ得ない。美しい未来を掲げる一方で、その裏では「効率化」「革新」という名のもとに弱い立場の人々を切り捨ててはいないか。企業トップとして、多大な責任を負っているはずの人物が、利益とスピードのためなら人間性を犠牲にしても良いと思っているのではないか――そんな疑念が拭えないのだ。
さらにツイッターを買収したことによって、彼の性格がより露わになったと感じる。コンテンツ規制や言論の自由をめぐって賛否両論あるのは当然だが、長年にわたって築き上げられてきたプラットフォームの秩序を、一夜にして根本から覆そうとする様子には乱暴さを感じる。彼が純粋に「言論の自由」を守りたいと考えている部分もあるのかもしれない。だがそのやり方は、あまりにも一方的で、議論よりも強制が先に立っているように見えるのだ。市場やユーザーコミュニティに計り知れない影響を及ぼすのに、まるで実験場のように扱っている――そんな印象を拭えない。
イーロン・マスクを支持する人々は、彼の天才性に魅せられているのだろう。既存の常識を打ち破り、火星移住やハイパーループなど、大胆不敵な夢を語る。そのビジョンの壮大さは、多くの人の心を掴むだけのパワーを確かに持っている。だが私は、その華々しい夢の裏側を常に見てしまう。膨大な資金を動かし、何千何万という人々を働かせ、社会のルールを変えてしまうほどの権力を持っていながら、彼の言葉からは「共感」や「謙虚さ」が感じられない。むしろ「自分だけが正しい」という慢心が透けて見え、周囲を振り回すことで注目を集めているようにすら思う。
なぜここまで拒否反応が強いのか。それはひとえに、彼が持つ「影響力の大きさ」にある。誰かが極端な意見を言うこと自体は、表現の自由の範疇だろう。しかし、イーロン・マスクほどの知名度や資本力を伴う人間が放つ言葉は、社会全体を揺るがしかねない重みを持っている。ところが、その発言や行動に時として慎重さがまるで感じられないのだ。「自分はあくまで一般人としてツイートしている」というような言い訳をするが、何千万・何億というフォロワーがいる「一般人」など存在するはずもない。こうした言動を繰り返す彼に対して、憎しみすら覚えてしまうのは、私だけではないだろう。
また、彼のコミュニケーション・スタイルがしばしば相手を嘲笑するように感じられることも、嫌悪の理由だ。議論や批判に対して真摯に向き合うより、自分の正当性を訴え、批判者をからかったり攻撃したりする。そのような姿勢は、強いリーダーシップというよりは、単なる攻撃衝動に近いものではないかと思う。カリスマ性を持つトップがそのように振る舞えば、多くの人が追従し、さらに対立や分断が深まる構図が生まれるだろう。まるで、大きな声で威圧した者が勝つかのような、乱暴な言論空間を助長しているようにさえ感じる。
もちろん、メディアは過剰に彼を煽っている部分もあるかもしれない。私たちが知るイーロン・マスク像は、メディアとSNSを介して編集された一面だけだろう。しかし、そこから受け取れる情報だけでも十分に「過激」であることは間違いない。もし彼に穏やかで思いやり深い一面があったとしても、表に出るのは挑発的な発言や、予測不能な行動ばかり。まるで、彼は注目を浴びるために、あえて波風を立てているようにすら見える。そして、その姿勢こそが彼のカリスマを強化し、信奉者を増やす一方で、私のような反発を覚える人間を確実に増やしているのだ。
私はイーロン・マスクの実績をすべて否定するつもりはない。電気自動車市場の発展は、環境問題への意識を高め、産業構造を大きく変えるほどの影響力を持った。また、宇宙事業への参入によってスペース業界全体が活性化した面もあるだろう。だが、それらの「功績」がすべて肯定されるべきかというと、そうとは思えないのだ。なぜなら、そのプロセスや彼の姿勢に数多くの疑問や問題が散在しているからである。テスラの工場では社員への過重労働が報じられ、Twitter社の買収後には大量解雇が行われた。一方的なリストラは、社員だけでなく利用者の信頼も損ねる結果になったはずだ。
「革命児」と呼ばれる彼だが、そもそもその革命は誰のためのものなのか。人類全体の未来を切り開くために行動しているのか、それとも自己顕示と自己満足のためなのか。もちろん、野心や自己顕示欲が全否定されるわけではないし、彼のような強烈なビジョンに突き動かされてこそ社会が進歩する面もある。だが、そこに「協調」や「周囲への配慮」が欠けていれば、残るのは混沌と犠牲だけではないだろうか。彼の一連の言動を見ていると、より良い未来を本当に望んでいるのか、それとも周囲を振り回しながら称賛を得ることに酔いしれているのか、判断に迷ってしまう。
彼のメディア露出やSNSでの動向は常にセンセーショナルだ。発言のひとつひとつが見出しになり、多くの人が熱狂的に反応する。その状況がさらに彼の影響力を拡大し、支持者は彼を「現代の発明王」として崇拝する。だが、それは彼自身が意図して作り出しているイメージ戦略でもあるかもしれない。自動車からロケット、そしてSNS運営まで、多岐にわたる分野で「既存の常識を壊す男」としてのブランドを強烈に打ち出す。その裏には、おそらく綿密なマーケティングも働いているはずだ。
こうした「自己プロデュース」の巧みさもまた、私の嫌悪感をあおる。もし彼が本当に未来のためだけを思って行動しているのなら、わざわざ挑発的な言動を繰り返したり、周囲を見下すような態度を取ったりしないのではないか。むしろ、その尖った姿勢こそが注目を集める秘訣であり、巨額の利益を生み出すエンジンになっている――そう考えると、ますます彼への不信感が募るばかりである。
また、彼のビジネス戦略や資金調達の手法も、ときに「投機的」であるとして批判されてきた。彼のツイートひとつで暗号通貨の価格が乱高下する様子は、社会全体を巻き込む大博打のようにも見える。もちろん、投資家たちはリスクを承知のうえで参入しているのだろうが、そこに新たに巻き込まれる一般層もいるだろう。巨大な影響力を手にした人物が、その力をどこまで自制しているのか、外からは判断がつきにくい。彼がいかに「自由」を標榜したところで、そうしたパワーバランスの偏りは真の自由からはほど遠いのではないか。
イーロン・マスクが嫌いだ、と口にすると、彼を称賛する人々から「嫉妬」や「時代遅れの思考」と批判されることもある。しかし、それでも私は彼の一挙手一投足に警戒心を解くことができない。彼のような存在が絶対的支持を集める社会は、一種の危うさを孕んでいると感じるからだ。リーダーが強引に物事を推し進めることで、一見スピード感のある変革が進んでいるように見える。しかし、その過程で切り捨てられる価値観や人々の声を、私たちは本当に無視してよいのだろうか。
私が彼を憎む理由は、こうした「社会的影響」を踏まえてもなお、彼があまりにも自己中心的に感じられるからだと言えるかもしれない。自分のビジョンこそが絶対に正しいと信じ、批判する者には容赦なく噛みつき、さらには軽率な一言で世界中を混乱させる。そのカリスマが絶大だからこそ、多くの人が振り回されてしまう。それが彼の望む未来の形であれ、人々に「ついていかざるを得ない」状況を作り出すことこそが、彼の真の目論みなのではないか。そう疑ってしまうほど、彼の支配力は強力だ。
もちろん、この強烈な拒否感は私自身の問題でもある。彼のように型破りな人間を受け入れられない、自分の閉鎖的な思考が投影されているのかもしれない。あるいは、あれほど自由奔放にふるまいながら次々と成果を上げていく姿への嫉妬心や劣等感もあるのだろう。しかし、それでもなお、「イーロン・マスクが憎い」という感情は消えない。むしろ、その感情が湧き上がるほどに、彼の存在が大きいこと、そして社会全体に与えるインパクトが桁外れであることを痛感させられる。
だからこそ、私は敢えて彼を批判し続ける必要を感じている。イーロン・マスクのような人物を「天才」「革命児」として無条件に称賛する風潮は、危うい夢を見せると同時に、多くの問題を覆い隠してしまう可能性がある。私たちは、彼のような突出した才能を「絶対の存在」として祭り上げるのではなく、その言動の裏にある思惑や影響力の行使について常に疑問を持ち、検証し続けなければならない。彼がもたらす革新が本当に世界を良くしているのか、それとも特定の価値観や層だけが恩恵を受け、他の多くが犠牲を強いられているのか、冷静に見極める必要があるのだ。
最終的に、イーロン・マスクをどう評価するかは人それぞれだろう。彼の型破りな行動力こそが新しい地平を切り開く鍵になると信じる人もいれば、私のように憎しみや反発を覚える人もいる。しかし、多様な意見が存在することこそが社会を前進させる。この「憎しみ」の声すらも、一つの大切な批判的視点として意義があるのではないかと思う。彼の眩いばかりの成功とカリスマに目を奪われる一方で、その裏側で踏みにじられているかもしれない人々の声に耳を傾ける必要がある。そうでなければ、未来を創るという名のもとに、ただ独裁的な支配が生まれてしまうかもしれないのだから。
私は、イーロン・マスクの存在自体をすべて否定するわけではない。むしろ、彼ほどの影響力を持つ人間が、もう少し「他者に対する配慮」や「謙虚さ」を備えていれば、今よりももっと多くの人々から純粋に支持されるだろうに、と残念でならない。そして、この憎しみの感情は、そんな「あり得たかもしれない別の姿」への期待を裏切られ続けてきた結果なのだろう。私は彼の言葉を聞くたびに、ああ、また無責任な発言で誰かを傷つけているのではないか、と心配になる。その繰り返しが、私の中の反発心を強固なものにしているのだ。
イーロン・マスクが語る夢やヴィジョンは確かに魅力的だ。火星移住に胸を躍らせる人もいるだろうし、電気自動車によるクリーンな未来に希望を見いだす人もいるだろう。彼が巻き起こしているイノベーションは、間違いなく人類の歴史に残る大きな一歩でもある。だが、その過程で生まれる軋轢や混乱、そして彼自身の傲慢ともいえる態度を見過ごしてはいけない。そこには、私たちの社会が本来持つべき「相互理解」や「多様性の尊重」が欠けているように思えてならない。
だからこそ、「イーロン・マスクが憎い」という私の感情は、単なる個人の感情以上の意味を持つのだと信じたい。彼のように突出した存在が現れるとき、社会は否応なく揺さぶられ、さまざまな価値観の衝突が起こる。そのとき、無批判に称賛するだけでは、本質的な問題には気づけないかもしれない。むしろ、強い反発心を抱く人々の声にこそ、彼の手法や態度が孕む危うさが映し出されていると考えてもよいのではないか。
私たち一人ひとりが彼をどう捉えるかによって、社会の未来は微妙に変化する。もしイーロン・マスクが真に誰もが幸せになる未来を望んでいるのなら、批判や反発の声にも耳を傾け、何が問題とされているのかを真摯に考えてほしい。その一方で、私たちもまた、自分たちが彼に何を求めているのかを見直す必要があるのだろう。彼の冒険心に夢を見たいのか、それとも彼が作るかもしれない新たな秩序に身を委ねたいのか。そして、そうした未来像に抵抗を覚えるならば、なぜ覚えるのか。その理由を自分自身に問い続けることこそが、彼のような巨大な存在に対する「本当の対抗手段」になるはずだ。
私がイーロン・マスクに憎しみに近い感情を抱くのは、彼が象徴するものが、私たちの社会の抱える矛盾や欲望をはっきりと映し出しているからかもしれない。彼の波乱万丈の行動は、私たちの心の奥底にある「常識を超えたい」「歴史に名を残したい」という野心を代弁している。同時に、そのためには他者を踏みにじってもよいという暗黙の了解すら示唆している。私はそこに嫌悪感を覚えずにはいられない。より良い未来を見たいと思いつつ、その実現手段にどうしようもない違和感を覚える。この相反する感情が「憎しみ」という強い言葉となって表出しているのだ。
最終的に、イーロン・マスクを憎むかどうかは個人の価値観によるだろう。彼を救世主のように思う人もいれば、私のように嫌悪感を募らせる人もいる。ただ、どちらの感情も社会にとっては大切な警鐘であり、そこから生まれる議論や検証こそが真の進歩へと繋がっていくのではないかと思う。彼が生み出す革新の光と影を直視し、その功罪を冷静に評価する。それこそが、私たちが「イーロン・マスク」という巨大な存在と向き合うために欠かせない姿勢ではないだろうか。私が「イーロン・マスクが憎い」と感じるのは、きっと彼が放つまばゆい光の強さに目が焼かれ、影に潜む危険を見逃せないからなのである。彼は目を背けられないほどの影響力を持っているがゆえに、私たちに葛藤を強いる。だからこそ、その存在について問い続けることが、社会の未来にとっても重要なのだろう。
完全に嫉妬ですよね。自分の旦那さんが優しくなくて本当は優しくしてほしいのに現実はそうじゃないから、優しい旦那さんがいる人に当たってるんだと思います
自分の本心を自分で把握してない人ほど他人様と自分の境界が曖昧で、自分の感情すら他人様のせいにするんですよね
自分が結婚できてないことに納得がいってないんでしょうね…。諦めたのは自分自身なのに、そうなってる現実そのものが受け入れられてないから悔しくて幸せな人に片っ端から嫉妬してるんじゃないかと…
俺はね、今日もチーズ牛丼のことを考えてたんだ。なんでかっていうと、朝起きたら夢の中でチーズ牛丼が喋ってたからさ。そう、あの濃厚なチーズが「俺を食べてくれ!」って叫んでたんだ。だから、朝ごはんに何を食べようか迷った挙句、結局チーズ牛丼のことしか頭に浮かばなかった。まるで宇宙の中で一番大切な星を探す旅みたいにさ。
でも、考えてみると、チーズ牛丼ってただの食べ物じゃないよな。あれは俺の人生そのものだ。牛肉が柔らかくて、チーズがトロトロしてて、それを見てるだけで心が踊る。まるで猫が毛糸玉を追いかけてるみたいな感じだよ。でも、猫は毛糸玉を追いかけても捕まえられないこともあるから、俺もチーズ牛丼を追いかけ続けなきゃならない。
そういえば、友達と一緒に食べた時のことを思い出した。あの日は雨が降ってて、傘も壊れてて、でもチーズ牛丼を食べながら「これが最高だ!」って言った瞬間、雷が鳴ったんだ。まるで神様も同意してくれたみたいだった。それからというもの、俺はチーズ牛丼を食べるたびに雷の音を思い出す。変な話だけど、それが俺の特別な思い出になってる。
でもさ、もしもチーズ牛丼がこの世から消えたらどうなるんだろう?想像するだけで恐ろしい。街中に漂う香りもなくなってしまうなんて、それはまるで空気が抜けた風船みたいだ。ふわふわしていたものが、一瞬にしてペシャンコになる感じ。それはまるで夢から覚めた瞬間みたいだ。
だからこそ、俺は今この瞬間を大切にしたい。チーズ牛丼を食べながら、自分の好きなことや夢について語り合う時間、それこそが本当の幸せなんじゃないかと思うんだ。このシンプルな料理がもたらす感情や思い出は、俺の日常を彩る大切な要素なんだから。
そう考えると、次回チーズ牛丼を食べるときには、もっと大きな声で「愛してる!」って叫びたい気分になる。でも、その前にまずは店に行かなきゃならない。ああ、早く食べたい!でも雨降ったらどうしよう?傘持って行かなきゃ!いや待てよ、その前に靴下は履いたっけ?