はてなキーワード: 蔑称とは
ジャパンの蔑称啼き喚く無敵の致死病原ぞが「良い影響を与えられたら」語り
う~んこの「ぞあっ」流行らさせたいんか?ヌケヌケニチャニチャ覚醒かもしれない?
https://mynameistaboo.livedoor.blog/archives/21623373.html
https://livedoor.blogimg.jp/mynameistaboo/imgs/c/9/c97f70aa.png
緊張走らせ幾年月だたり「失」具足状態「上げさせとる」だたりを
無自覚気取り乙めでてェ
「できること」出したり引っ込めたり百までぶりで「今年もよろしく」とは一体
寧ろ壺認定されたドツカこそが権勢揮ってなんぼの世界線と見受けるしか
「絵や文章を通じて~」
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やはり貴様はテクウヨ先生であり、正体を表してしまったようだな。
「学問を権威主義と呼んでいる」という虚像を勝手に立て、それに「テクウヨ」という政治的蔑称を貼り付けて思考停止する。
これは反論ではない。定義のすり替えと人格攻撃を混ぜた、議論拒否の自己放尿だ。
こちらが批判しているのは学問そのものではない。反証可能性や検証手続きを放棄し、「専門外だから黙れ」「資格がないから発言権がない」と言った瞬間に、学問の名を借りて権威だけを行使する振る舞いだ。
学問とは、方法と結果で殴り合う制度であって、肩書で沈黙を強いる装置ではない。にもかかわらず、その区別を意図的に潰して「学問=権威」という等式を押し付けるのは、学問への最大の侮辱ですらある。
「テクウヨ仕草」という言葉遣いも滑稽だ。技術的合理性や手続き的厳密さを要求した瞬間に、政治的レッテルを貼って黙らせようとする態度は、理屈で勝てない側の自己放尿に過ぎない。
自分は論証できない、しかし場の主導権は失いたくない。そのときに出てくるのが、内容ではなく属性への攻撃だ。これは学問的態度ではないし、ましてや批判精神でもない。単なる言論統制の簡易版だ。
学問は反権威主義的であるべきだ。その関係が逆転した瞬間、学問は宗教に堕ちる。
「専門外は黙れ」という言葉は、真理を守るための防波堤ではなく、既存の誤りを温存するための柵である。
それを指摘されて逆上し、「学問を侮辱するな」「テクウヨだ」と叫ぶのは、自分が守っているものが学問ではなく身分であると自白しているに等しい。
貴様の主張は、こちらの主張に一切触れていない。学問と権威主義を区別できない人間が、区別できている人間に向かって「学問を否定するな」と怒鳴って自己放尿しているだけ。
女を嘲る時の蔑称“まんさん”に対抗して女が“ちんこ”とか“ちんさん”って言うんだけど女なんてそのチンコを挿入されただけで涎垂らして変な喘ぎ声出さずにいられない生き物なわけでそもそも同じ土俵にも立ってすらなく釣り合えてないんだよな
男がチー牛なら女は豚丼!って安直に決めたディスを連呼するな。ちゃんとディスれ。
まずチー牛はあの画像とスレの流れありきで決まったもので、そこにちゃんと意味があるのに、豚丼には何の意味もないからディスとしてあまりにも弱すぎる。何のカウンターにもなっていない。全く効いてないのに効いてるwと思う奴が多すぎる。本当につまらない。自分が思う蔑称を連呼することは全くもってレスバではない。自分ルールで戦うな。相手をもっと的確に傷つけてほしい。小学生がバリア!無敵バリア!とバリア連呼をしているところを見るような感覚であり、それを画面の前でいい大人がやっているのだから「はあ、そうですか」と思うのみだ。
スイーツ(笑)と言われた方がまだ効く。実際女性は豚丼よりも甘いものの方が食べるので該当性が高く、スイーツ(笑)の方が文脈がしっかりしている。
20代半ば以降で恋人のいない実家住みなら子供部屋おばさんも効くと思う。無産様は相手が子供が欲しい大前提の元なので打率が低いし鬼滅の刃のキャラクターの捩りなのでガキっぽさが強すぎる。
チー牛は文脈のあるディスであり、豚丼のような意味がわからない文脈もないミラーリングもどきでディスられても自己満足だ。チー牛のように雑に使いたいのならスイーツ(笑)の方が効く女性は多いと思う。道端で突然「ブス!」と叫ばれたら嫌な気持ちになるが、道端で突然「エアコン!」などと言われても何言ってんだこいつで終わる。相手にとってエアコンは蔑称のつもりなのかもしれないが、あまりにも文脈も該当性もなさすぎるので言われた側としてはほぼノーダメ。意味はわからないが何かしら悪く言われているんだろうなと思わせることは全く無意味ではないが、せいぜい服の裾に泥がついた程度の不快感なのでドヤることではない。豚丼はそんな感じだ。ラップバトルの中で組み込まれるディスの一つくらいにすべきであり、豚丼をメインに構成するラッパーはセンスがない。
チー牛は文脈がしっかりしているので良いディスだとは思うが、元々は男性の自虐で作られたものなので、男性を傷つけるために女性が使うのは虎の威を借る狐のような行為であるとは思う。男性が男性をディスるのに使われる時こそ真価を発揮すると思うが、そう使われることは今や滅多にないだろう。とても残念だ。
でも豚丼は本当に意味がわからない中身のないふわっとしたディス未満のただの言葉なので、喜び使っている人らはとにかくスカっていることはわかってほしい。
「乳袋」ってのは、絵が下手な奴がやらかす「不自然な服の描き方」の代名詞だったの。
「ボディペイントかよ」と笑われて、オタクのあいだでも馬鹿にされてたんだよ。
いわゆる「萌え属性」ではなく、「ハンコ絵」なんかと同じニュアンスの用語だったんだよ。
もちろん「巨乳を自然に描くと太って見えるから乳袋も仕方ない」みたいな話はあった。
が、それは下手な絵師を擁護するための一種の言い訳でしかなかった。
乳袋が人気だったこともないし、乳袋がエロいと思われていたこともない。
それなのに、表現規制論者との終わりなき戦いを経てオタクたちは変質し、
いつのまにか「乳袋こそオタクの誇り!」みたいなことを言い出している。
これが歴史修正というやつなのか。
俺は本当に悲しいよ。
2019年に橘玲が『上級国民/下級国民』を出したとき、俺たちはまだ「知識社会化・リベラル化・グローバル化」という流れが不可避だと思っていた。
でもそれから6年。コロナ、物価高、政治不信を経て、**リベラルな理想そのものが「敵」として見られ始めている**。
今、目の前で起きているのは単なる格差拡大じゃない。**「リベラル・エリートvs普通の人々」という新しい分断**だ。
橘の『上級国民/下級国民』は、その理想の裏側で進行する**「上級」と「下級」への静かな分断**を描いた本だった。
でも、この本が前提にしていた「リベラル化の進行」という大前提が、2020年代に入って揺らぎ始める。 <h3>o- **</h3>
2020年のコロナ禍は、「誰がリモートで働けるか」をあからさまにした。
この分断は、橘が描いた「知識社会の勝者/敗者」をリアルタイムで演出する舞台装置になった。
2022年以降の物価高は、エネルギーと食料品を中心に中間層の生活を圧迫した。
統計上も、**所得分布全体が下方にシフト**し、「生活が苦しい」と答える層が増加している。
「真面目に働けば中流」という物語は完全に終わった。 <h3>o- **</h3>
そしてここからが本題だ。
2010年代まで、「自分らしく生きる」「多様性を尊重する」というリベラルな価値観は、多くの人にとって**「解放の約束」**だった。
でも、低成長と格差固定化が続く中で、それらの言葉は次第に別の意味を持ち始める。
さらに、ネット上で可視化されたのは、**「リベラルを名乗る人たちの不寛容さ」**だった。
こうして、「リベラル=寛容」というイメージは崩壊し、**「リベラル=マウント取ってくるエリート」**という新しいイメージに置き換わった。 <h3>o- **</h3>
もはや、「リベラルか保守か」ではなく、**「誰も自分たちを見ていない」という疎外感**こそが核心になっている。 <h3>o- **</h3>
この土壌の上で、ポピュリズムが再び息を吹き返す。
ポピュリズムとは、「純粋な民衆 vs 腐敗したエリート」という単純な対立構造を描き、**政治家・メディア・リベラル知識人をまとめて「敵」に仕立てる言説**だ。
重要なのは、多くの人がポピュリズムを**「強固な右派イデオロギー」として選んでいるわけではない**という点。
それはむしろ、**「リベラルも保守も信用できない」「生活感覚を無視され続けてきた」という怒りの出口**として選ばれている。
だからこそ、政策の整合性より、**「はっきりものを言う」「既得権を叩いてくれそう」というスタイル**が支持される。 <h3>o- **</h3>
この視点から見直すと、「上級国民/下級国民」というラベルも変質しているように見える。
2010年代まで、この言葉は主に**「事故を起こしても逮捕されない高齢官僚」**など、古典的な既得権層への怒りを表していた。
しかし2020年代には、**リベラルな知識人、都市部の専門職、さらにはSDGsや多様性を掲げる企業やメディア**までもが「上級国民」として揶揄されるようになった。
「リベラル知識人」はなぜ嫌われるのか?ノーベル賞作家が暴いた欺瞞とは | ニュースな本 | ダイヤモンド・オンライン
こうした変化を精神史としてまとめるなら、2010年代までの「リベラルな知識社会の内側に生じる上級/下級の分断」に、**次の2行を付け足す必要がある**。
自由、平等、多様性、自分らしさ——これらは本来、多くの人を解放するはずの言葉だった。
だが、低成長と格差の固定化が続く状況では、それらは**「達成できない理想」「できない自分を責める基準」**として働き、自分の現実を否定する言葉に変わっていった。
上級/下級という枠組みは、いまや収入や学歴だけでなく、**「どちら側の言葉を話しているか」「どちら側の世界観を信じているか」**を区別する境界線にもなりつつある。
リベラルな言葉を使う側は、自覚の有無にかかわらず「上級国民」として見られ、
それに違和感や怒りを覚える側は、**「自分たちを侮辱してきた世界」そのものから距離を取り、簡単で感情に寄り添ってくれる語りへと引き寄せられていく。** <h3>o- **</h3>
この2行が付け加わったとき、「上級/下級国民」という図式は、
であるだけでなく、
としても読み替えられる。 <h3>o- **</h3>