はてなキーワード: 主義主張とは
大昔の話になるが沢田研二という人気があった歌手がオッサンになってからコンサートで歌わずにひたすら政治談義をするというのがワイドショーでやってた。
アーティストが戦争反対を訴えるべきだと考える人らはそういうのも許容できるのか?
高いチケット代払って、期待してたものとは違うライブを見せられるのってファンは耐え忍ぶべきだと考えるわけだな?
あなたが、お金を払って、求めた対価とは違うものを「正しい主義主張」であれば許容できる、と。
もっというと、
某自民党議員がテレビで「国会前デモはごっこ遊び」って発言してパヨクたちが「ボクちゃんたちを怒らせたあ~~~プンプン😡」っつって週末にその議員の地元でデモやるらしいけど、完全に術中にハマってて草生える
届出を出して安全圏で、武力制圧される危険もなく、他文化を盗用してキャッキャ騒いで、それでいて民意がどうのこうのってよく言えたもんだな
客観的に自分たちを見なくても生きていける人間はある意味無敵だが、自分の行動がかならず誰かの迷惑となり、それが自分がターゲットとしていなかった人だった場合にどうやって責任取るのか見物だなって思う
だって結局【平和平和と叫んでアピールしてる自分】が好きなだけで、平和も安寧も興味がないことが丸わかりなんだから
適切な方法と手段で主義主張を持つのならそれは各々の自由だからどうでもいいよね
パヨクは、自分のことしか興味がないくせに多様性や平等を自分たちのとっておきの武器として使おうとするところが顰蹙を買っているということにあと1000年くらい経たないと気づかないのかもね
各種レビューサイトの評価が低いように、私も残念な気持ちになった。
まず第一に、失念術と称しながら、その内容は気晴らしの方法でしかなく、記憶術の逆関数ではない。
話の内容は失念という機能から外れ、いつの間にか不快の根源を絶つ方法の話に逸れていく。
そもそも話が違う。
第二に、失念術は記憶術より有益ながらも誰も唱えていない、などと冒頭でもったいぶりながら、終盤には結局は宗教であるなどと既知の概念に着地する。
こういった仕草を感じ取った人間に対して私は距離を置くことにしている。
『人の性質一ならされは其方法亦一ならさる』ゆえに『成るへく數多の種類を集めて其人の資性に適合せるものを用ふる方針を取らさるへからす』とはいうが、
要するに何もわかっていないので「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」というに過ぎない。
ならばせめて、これを著述する己自身はどの方策を採用したのか書けばいいものを、そういった誠実さもない。
私はこういうのを「良かれの法」と呼んでいる。
現代でいえば、投資家がごもっともらしく述べる『ラテマネー』の概念がこれだ。
休憩時間の飲料を節約したからといって、それが資産形成において何だというのか。
いったい誰が、そんな種銭にもならない小銭で投資の世界を勝ち抜いたというのか。
説教のために強引にノウハウをひり出し、努力の余地を粉飾し、あたかも読者の努力不足かのように感じさせる。
ただそれだけのことである。
第四に、筆者の主義主張を含む命題をあたかも自明であるかのように論を進める点。
『人の人たる所以は全く高等の思想を有するに在れは』だの、『下等の体欲情欲』だの、
世界にその名をある意味轟かせたpayokuは、文章構成力が著しく欠如していることがよく見受けられる
彼らの作るハッシュタグを見たことがある人の大半はこう思ったはずだ
そもそもハッシュタグとは「分かりやすく目に付く」ことで効果を発揮するもので、ただ#をつけてその後にダラダラと長文を披露するのは、いつものお気持ち表明と大差がない
つまり、彼らは他人の言葉に頼らなければ文を紡ぐことも出来ないと自白しているようなものである
そのような烏合の衆を世間が両腕を広げて歓迎すると思っているのだろうか?
『君たちの思想が正しい、こちらが間違っていた』と本気で言うと思っているのだろうか?
本気でそう思っているとしたら頭が悪いが、そう思っていないのならその思想とやらは彼らにとって金になる程度のものであろう
『平和を願い国家権力に抗っている輝かしい自分』が好きなだけである
本当に平和を願っているわけではない、むしろ本当の平和が訪れたら自分が目立たなくなるから困るとすら思っているかもしれない
1955年に発生した「紫雲丸(しうんまる)事故」と、2014年以降の辺野古新基地建設をめぐる「抗議船事故(衝突・転覆事案)」は、いずれも海上で発生した悲劇的な、あるいは重大な事案ですが、その報道のあり方には決定的な違いがあります。
これらの違いを比較し、なぜ報道のスタンスがこれほどまでに異なるのか、その背景にある社会的・政治的要因を考察します。
1955年5月11日、瀬戸内海で国鉄の連絡船「紫雲丸」が衝突・沈没し、修学旅行中の児童・生徒を含む168名が犠牲となったこの事故は、当時の新聞において「絶対的な公の悲劇」として扱われました。
朝日、毎日、読売などの全国紙は連日トップで報じ、犠牲者の遺影や遺族の悲痛な声を詳細に掲載しました。報道は、国民全体で悲しみを共有する「ナショナル・モーニング(国家的な喪に服すこと)」の様相を呈しました。
論調の焦点: 報道の矛先は一貫して「安全対策の欠如」と「国鉄(公的機関)の責任」に向けられました。レーダーの不活用や濃霧下での無理な航行など、技術的・組織的な欠陥を厳しく追及し、それが後の「瀬戸大橋建設」や「水泳教育の義務化」という具体的政策へと世論を動かしました。
一方、辺野古の新基地建設を巡る海上抗議活動中に発生した衝突や転覆事案(2014年や2015年の事案など)は、「政治的対立の一場面」として報じられます。
報道の仕方は「新聞社による温度差」が極めて顕著です。沖縄タイムスや琉球新報などの地元紙は、海上保安庁の規制の過酷さや抗議者の負傷を「人権侵害」や「強権的」として大きく報じます。一方で、一部の保守系全国紙では、抗議活動側の過失や違法性を強調し、海保の正当性を支持する書き方がなされます。
事故そのものの安全性よりも、「基地建設の是非」や「法執行の妥当性」という政治的文脈が主役となります。犠牲者や負傷者に対する純粋な哀悼よりも、「どちらに非があるか」という責任の所在を巡る言論戦の道具となる傾向があります。
なぜ、同じ海上の事故でありながら、一方は「国民の教訓」となり、他方は「分断の火種」となるのでしょうか。
紫雲丸事故の際、被害者は「修学旅行中の子供たち」という、社会全体が守るべき純粋な存在でした。彼らが犠牲になったことに対して、社会に異論の余地はありません。したがって、新聞は「加害者(国鉄)vs 被害者(子供・国民)」という明確な構図で、全社一致の批判を展開できました。
対して辺野古の事案では、当事者が「政治的目的を持った活動家」と「公権力の執行者」です。この場合、社会の中で「どちらを応援すべきか」というコンセンサスが取れていません。そのため、新聞社は自社のイデオロギーに基づき、事実の切り取り方を選択することになります。
紫雲丸事故の時代、新聞は「再発防止」と「制度改善」を最大の使命としていました。高度経済成長へ向かう中で、技術的な未熟さを克服するという「社会の進歩」に寄与する報道が求められていたのです。
しかし、現代の辺野古報道における新聞は、特定の政治的スタンスを代表する「代弁者」としての役割が強まっています。事故は独立した出来事ではなく、基地問題という巨大なパズルの一片として扱われるため、純粋な事故調査よりも「政治的影響力」が優先されます。
事故原因の調査は海上保安庁や事故調査機関が行い、新聞はその客観的な数値を基に批判を展開しました。
現場が規制線の中であり、情報源が「海上保安庁の発表」か「抗議団体側の動画・証言」の二極化しています。中立的な第三者の目撃が難しいため、新聞社は自分が信頼する(あるいは支持する)側の情報を採用せざるを得ず、結果として報道内容が乖離します。
紫雲丸事故の報道は、悲劇をきっかけに社会の安全基準を根底から書き換えた「統合の報道」でした。一方、辺野古の事故報道は、既存の社会的分断をさらに浮き彫りにする「鏡の報道」であると言えます。
新聞の取り上げ方の違いは、単なる事象の違いではなく、日本社会における「公共性」の捉え方の変化、そしてメディアが「客観的な記録者」から「主義主張のプラットフォーム」へと変質していった過程を映し出しているのです。
良くAIイラストや、それに対しての下手な絵(あえてこの表現にするけど)が投稿されたときに
「AIイラストなんかよりも下手でも、描かれた絵のほうが好きです!」
ってのをよく見る。
これって、生成AI叩きが先行してて、下手な絵師を踏み台にしてる行動だと自分は考えている。
実際問題、こういう「手書きの絵のほうが好きです!」って言うやつが、間違いなく言えるけど、下手な手描きのイラストをRTなりしてるのを見たことがない。
これを投稿した絵描きを盾に自分の主義主張を通す最低な行動だと、自分は感じてしまっている。
自分がそういうことを言うのならスジは通してほしい。君のための絵じゃないんだぞ。
現代政治における最大の不幸はLawful Goodの人たちによるリベラリズムの簒奪だよなぁと思う。
本来リベラリズム、すなわち自由主義とはChaoticな人々に最も向いた主義主張だ。私は典型的なChaotic Neutralだが、自由主義に出会ったときに「これほど自分にしっくり来る思想があるとは!」と電撃に打たれたかのような衝撃を受け、それ以来自由主義者=リベラリストと名乗っている。J.S.ミルとかすごいよな。今読んでもめっちゃ頷けるもん。
でも、いつの間にか「リベラル」の旗印がLGに乗っ取られてしまった。Lな人たちは自由主義者と水と油の関係だ。というかぶっちゃけると、私のようなCな人にとっての主敵はLな人たちだ(Evilは人数が少ないからあんまり会わないけど、LGはそこらじゅうにいるからしょっちゅう衝突するので)。
それなのにLGの人たちが自称リベラルとして大手を振って歩いている。私から見ると彼らはたまさか一部の論点(同性婚、選択的夫婦別姓)についてリベラルと意見が一致するだけでちっともリベラルには見えないのだが(複婚や近親婚には反対する連中のどこがリベラルなのか)(カジノに反対する際に、賭博はけしからん、というような言い方をされたらリベラルな私としては支持できるわけないじゃん。安倍政権のカジノ法は不合理かつ非リベラルだから改正or廃止すべきと言うべきなのに)、世間的にはリベラルといえば彼らのような主張をする人たちという認識になってしまった。本当に勘弁してほしい。
敵対者はリベラリズムという思想を誤解するし、Cの人たちは自分にピッタリ来るラベルを奪われてしまっているし、LGの人たちは本来自分たちに向いてない教義を必死に解釈してLGを正当化しなければいけなくなっている。誰も幸せになってないやつ。
人は誰しも、生来的にしっくり来る思想と来ない思想がある、と個人的には思う。だって自分がそうだったから。保守主義も左翼も向いてなかった。自由主義に出会って「これだよ! 俺に向いている思想は!」と思った。だから世の中には保守主義や左翼思想が向いている人たちもいるんだろう。そういう人たちは「反体制=リベラル」という浅い思い込みを捨ててちゃんと左翼とか社会主義者とか自分にピッタリの主義主張を名乗ってほしい。内心では自由がぜんぜん好きじゃないのにリベラルを名乗られても困る。