はてなキーワード: 赤城山とは
赤城山にでも住んでるタヌキかな?
そのころ私は伊東温泉に住んでいた。伊東には川奈に日本一のゴルフ場がある。もっとも、当時は占領軍に接収されていて、日本人は立入ることができなかった。
私の住居から百メートルぐらいのところに尾崎士郎さんが住んでた。士郎さんのところへ出入りする人で、彼の小説の中でカチンスキーとよばれて登場する怪人物がいる。カチンスキーといっても先祖代々の日本人であるが、ゴルフ界で顔の売れた世話人である。私がゴルフ道具を手に入れたときいて、やってきて、
と誘う。
「あそこは日本人が行けないのでしょう」
「普通はそうですが、ボクと一しょなら行けるんです。進駐軍が川奈を接収したとき、司令官に頼まれて、いわれた数だけのゴルフ用具をそろえてやったんです。お礼に何をやろうかといわれたときに、ボクとボクの友だちにゴルフをさせろといってみたんです。よろしい、ではお前とその他七人のお前の友だちはゴルフをしてよろしいということになったんです。七人の名前を書きだしてきましたが、要するに一度に七人以内ならだれでもいいんですよ」
「それは、ありがたいね。じゃア、あなたにゴルフを教えてもらおう」
「ぼくはゴルフをやらないんです。ぼくはゴルフの道具を銀行、会社へ売りこんだり、ゴルフ場の工事を請負ったりしてたでしょう。ボクがヘタでなってないフォームでバカな振り方をやるとお客がよろこんで、つまり、商売のコツだから、ボクは昔からゴルフやらんです。ハハ」
怪人物の言辞はモーローとして心もとないから、私は士郎さんをたずねて、きいた。
「カチンスキー氏が川奈のゴルフ場へ出入できるというのは本当ですかね」
「それは本当だ。とても顔がきくんだ。司令官がでてきて、食堂へ案内してコーヒーをのませるぐらい顔がきくよ」
「イヤ、キミはこまらんよ。司令官が食堂へつれて行くのはカチンスキーだけだ。先日カチンスキーの会社の社長が彼の案内で川奈へ行ったが司令官はカチンスキーだけ食堂へつれて行ってコーヒーをのませてくれて、カチンスキーは二時間ぐらいコーヒーをのんでたそうだ。社長はその間、吹きさらしのゴルフ場へ放ッぽりだされていたそうだよ。キミも食堂へ案内される心配はない」
妙な人物がいるものだ。カチンスキー氏の社長はゴルフを知ってるだろうから、吹きさらしの中で二時間放ッぽりだされても持つかも知れんが全然ゴルフを知らない私はカゼをひくだけの話である。
こういう次第で、日本一のゴルフ場で人のできない練習の機会には恵まれていたが、私は怖れをなして行かなかったのである。
4
一九五二年二月二十九日というハンパな日に、私は群馬県桐生市という赤城山麓の織物都市へ引っ越した。
私は引っ越してくるまで知らなかったが、そこは書上文左衛門という桐生一の旧家で桐生一の富豪の母屋であった。せまい部屋が一ツもない。どの部屋からも一陣の突風が吹き起りそうな広さがあった。
ここを探してくれたのは作家の南川潤である。潤さんはこの母屋に人が住んでいないことを知っていたが、まさか人に貸すとは思わずに、念のため訊いてもらったのだそうだ。すると意外にも実にアッサリ貸してくれたのだそうで、私も引っ越してみて、貸すのが当り前だと思った。
誰かが住んでいなければ、夜な夜な怪風吹き起り、日中といえども台所や座敷などにツムジ風などが起り、ネズミその他のジャングルとなるであろう。かと云って、タダモノの住みこなせる家ではない。第一、当家の人々が奥の方に然るべき住み心持よき家をつくって移住しているほどだ。トラック一台の荷物なぞは、片隅のゴミのようでしかない。
どうしたら人間が住めるであろうかと皆々が思案投首というところへ、文左衛門さんがやってきて、
「山寺のようでしょう」
「まったく、そうです」
「やりません」
「道具があるじゃありませんか」
私は返事をしなかった。ゴルフの道具はある。たしかである。しかし、ゴルフは知らない。たしかである。そのナゼであるかは、何年前かに文六さんのウィスキーの肴にされたテンマツから話をしないと、誰にもわかってもらえない。そして、そのテンマツを語るにはハナシ家が高座で一席うかがうぐらいのイキサツがあって、途中できりあげることも、途中から切りだすこともできない。要するに、返答しない方が無難なのである。
しかし、文左衛門さんはイサイかまわず「私のウチの裏庭にゴルフの練習場があります。戦前に造ったもので、いたんでいますが、練習に差支えはありませんから、御自由にお使いなさい」
言いのこしてさッさと行ってしまった。文左衛門さんはその後私の顔を見るたびに裏庭の練習場を使いなさいとすすめるが、私はかりそめにもゴルフクラブを手にとらなかった。それは文六教祖の訓戒をケンケンフクヨウしているからで、はじめにはプロについて正しいフォームを習いなさい、この一ヶ条だけは守りなさいという。だいたい教祖の言辞が学校の先生や大臣、長官の訓辞よりもなぜ信仰されるかというに、たいがい教祖の訓戒は一ヶ条ぐらいしかない。ここが教祖の自信マンマンたるところで、また実力あるところである。大臣や先生どもの訓辞はとてもこうはいかない。
ここ数カ月のポケモンはほんと神がかっていると思う。
毎月のコミュデイが定着。絶妙なタイミングで入れ替わり立ち代わりトレーナーを飽きさせない伝説レイド。フィールドリサーチ・リワードは新規に優しい過去伝説再版機能を持ち、もちろん古参もそれなりにうれしい。形骸化しかけていたフレンド機能に幻リサーチタスクや地域限定ポケモンタマゴ流通機能をプラスして再度フレンドブースト。そしていま界隈では話題のメルタン仕込み。
上手い。本当に魅力的なアプリになった。
来月のコミュデイはなんとダンバル!デオキシスも実装するらしいしシンオウもそろそろ…と楽しみにしている今日この頃。
しかしなお今後期待していきたい点を列挙する。
・もっとトレーナー間で協力・連携を促す仕組みがないかな。今もレイドやジムでは協力プレイできるんだが、局所的すぎる。物足りないというほどじゃないけど、せっかくこんなポテンシャルを感じるゲームがもうちょっと踏み込んでいかないのはもったいない。具体的に言うと、イングレスで言うアーティファクト的な試みが欲しい…。しかしポケモンGOでどうやるんだ…。
・原作的なロケット団プラズマ団的な敵組織が欲しい。3チーム(インスティンクト・ミスティック・バーラー)共通の敵。世界中のジムが○○団に占拠された!とか、イベントやってほしい。世界中で殲滅作戦とかしてみたい。画面に○○団の戦力ゲージだしたりしてさ。現行のグローバルチャレンジも、良い試みではあるんだけど渋すぎるし臨場感に欠ける。
ふだん一緒にやってるポケゴ勢がチームバラバラで、それ故レイドなど一緒にしていてもチームボーナス格差が生じるのでなんとなくモヤっとしたりする(フレンドボーナスがついたので若干は救済されたが。)のでそういうのが全くない環境欲しい。
・ウィロー博士・スパーク・ブランシェ・キャンデラをもっとちゃんと使ってほしい。ウィロー博士はまだいい。最近幻リサーチで出てくるようになったから。メルタン動画でもオーキドとのやり取りよかったし。問題はリーダーたち。それぞれポケモンの孵化と直感・進化と知性・強化と情熱を研究テーマとして博士の助手?をしつつ全国のトレーナーを束ねているという設定だった気がするけどこいつら今ただの個体値判定ツールじゃねえか。なんかもっとさあ!あるでしょやること!!
・要するにもう少しストーリー性がほしい。使命感に燃えつつやりたい。敵を倒すとかなにか目的のために行動するとか。そういう意味ではイングレスの方が圧倒的に強い。こんなだから幻ポケモンリサーチタスクは割と好きだしメルタンに関するウィロー博士とオーキド博士の動画は燃えた。しかし幻リサーチタスクって結局ゴリゴリの個人プレーなんだけどね。もうちょっとみんなで一つの使命に燃えたい。ジムやレイドみたいな局所的な話ではなく。
・PvPは要るでしょ。年内実装の噂とかあったけど続報がない。しかしやるにしても今のジムバトル形式じゃクソつまらんのでPvP専用バトルルールとか要るんじゃないかなって思ってる。マルチバトルとかしたい。あと初期のジムバトルであったようにAR連携でバトルしたい。
・シンオウイッシュカロスはよ。
・あと地域限定というか、原作に基づいたポケモンの巣とかレイドとかあったらすげえいいなあって思うんだけど難しいのかな…たとえばだけど淡路島では年中ルギアレイドやってるとか、赤城山はピッピの巣とか。んで特別な技もちとか。旅行の記念になるようなのがいいな。位置即位ゲーなのに遠方旅行したときの記念品がジムバッジだけでさみしい。しかしまあ常時伝説レイド発生地区なんかにしたら現地で暮らす人たちには迷惑か…。
『“文学少女”』シリーズは、本が大好きすぎて食べてしまうと自称する遠子先輩が、身の周りで起こった事件に文学的な妄想で挑んでいくミステリ作品である。彼女は事件を解決するにあたって、当然のように文学作品を引用する。何故なら、彼女の周囲で発生する事件は、常に文学作品をなぞらえたものだからである。真相を自供する黒幕は、文学作品の登場人物に同一化した自分の心情を滔々と語る。もちろん、その現場には文学的知識に欠けた間抜け野郎は一人もいない。
それらを読んで私は思ったものだ。
何やこの世界、と。
読書は数ある趣味の中でも至高のものであり、そうでない人間は野蛮だという雰囲気に。
本が好きだと嘯きながら、その読み方や語り口は色恋沙汰に目がないゴシップ好きの中年女性と大差ない俗物の文学少女に。
感想を他者とは共有しづらい「味覚」を媒介に垂れ流し、萌え豚よりも動物的に本を消費する文学少女の姿に。
それらの中に、本読みの無自覚な自己肯定と高慢さが透け見えるようで、反吐が出そうだった。
『“文学少女”』シリーズはかように本好きの自己肯定の願望を充足させるために特化された作品シリーズである。シリーズを通して、読書は無条件で肯定され称揚されるものという思想が通底しており、それが現在進行形で本を読む者の自己愛を満たしてやまない構造となっている。
また、私は野村美月の書く恋愛描写も嫌いである。彼女の作品には、「押しの強い男が受動的な女を連れだし幸せにしてくれる」という形式が、手を変え品を変え現れている。デビュー作である『赤城山卓球場に歌声は響く』から始まる『卓球場』シリーズでは主人公の女子大生視点から、友情や友人婚約者へのドキドキ感を描いている。続く『フォーマイダーリン!』では男を振り向かせるために自分を磨いて待つ少女が描かれている。野球では女教師が不良生徒に迫られ、『BadDaddy』シリーズでは男くささとは無縁の父親が、父性と庇護欲を全開でヒロインたる娘を愛してかかる。『“文学少女”』シリーズでは群像劇の色合いを強くし、そこらじゅうでメンヘラモドキが男に救われるのを待っている。
初期作品群ではシンプルな形で流れていた、強い男を待つという構造が、筆力の向上と合わさってより巧妙かつ露骨な形で物語のメインの骨組みとして現れるようになるため、順を追って読んでいくと徐々に苛立ちが強くなっていく。ミステリなりハーレムものなりに変奏してるものの、そこに繰り返し描かれているのはド直球のシンデレラ願望である。源氏物語をベースにした『ヒカル』シリーズでは、さらに一人の男性キャラクターを魅力的な女性キャラクターが取り巻くハーレムものの構造が重ねることで、その訴求力をさらに高いものにしている。
本を読んでいるだけで褒められる子供時代はとうに過ぎ、世間は本を読む人間には意外と素っ気ない。
待てど暮らせど王子様は迎えに来ない【ルビ:Some day my prince won't come】。
我々は自己肯定を切り崩し、現実を生きながら、せめて虚構に夢を見る。
野村美月は、そんな世界に生きる我々が抱く「こうだったらいいな」に巧みにアプローチし得る作家である。彼女の選び出す場面は陳腐でありながらセンシティブで、多くの人の心を捕えて離さない。私は彼女の作品を読む間、間違いなく赤城山で友の手を取り、帚木の咲く地で亡き思い人を見た。作中人物の情動は素朴でありながら率直であり、揺さぶられてしまう。ぱっとしない女の子への感情移入をフックにひっかけられ、気が付いたら魔法にかけられている。好きでもない白球を追って胸を高鳴らせている。
こんなにも嫌いなのに、こんなにも満たされたくないのに、彼女の作品は私を捕えて離さない。
『“文学少女”』シリーズは、本が大好きすぎて食べてしまうと自称する遠子先輩が、身の周りで起こった事件に文学的な妄想で挑んでいくミステリ作品である。彼女は事件を解決するにあたって、当然のように文学作品を引用する。何故なら、彼女の周囲で発生する事件は、常に文学作品をなぞらえたものだからである。真相を自供する黒幕は、文学作品の登場人物に同一化した自分の心情を滔々と語る。もちろん、その現場には文学的知識に欠けた間抜け野郎は一人もいない。
それらを読んで私は思ったものだ。
何やこの世界、と。
読書は数ある趣味の中でも至高のものであり、そうでない人間は野蛮だという雰囲気に。
本が好きだと嘯きながら、その読み方や語り口は色恋沙汰に目がないゴシップ好きの中年女性と大差ない俗物の文学少女に。
感想を他者とは共有しづらい「味覚」を媒介に垂れ流し、萌え豚よりも動物的に本を消費する文学少女の姿に。
それらの中に、本読みの無自覚な自己肯定と高慢さが透け見えるようで、反吐が出そうだった。
『“文学少女”』シリーズはかように本好きの自己肯定の願望を充足させるために特化された作品シリーズである。シリーズを通して、読書は無条件で肯定され称揚されるものという思想が通底しており、それが現在進行形で本を読む者の自己愛を満たしてやまない構造となっている。
また、私は野村美月の書く恋愛描写も嫌いである。彼女の作品には、「押しの強い男が受動的な女を連れだし幸せにしてくれる」という形式が、手を変え品を変え現れている。デビュー作である『赤城山卓球場に歌声は響く』から始まる『卓球場』シリーズでは主人公の女子大生視点から、友情や友人婚約者へのドキドキ感を描いている。続く『フォーマイダーリン!』では男を振り向かせるために自分を磨いて待つ少女が描かれている。野球では女教師が不良生徒に迫られ、『BadDaddy』シリーズでは男くささとは無縁の父親が、父性と庇護欲を全開でヒロインたる娘を愛してかかる。『“文学少女”』シリーズでは群像劇の色合いを強くし、そこらじゅうでメンヘラモドキが男に救われるのを待っている。
初期作品群ではシンプルな形で流れていた、強い男を待つという構造が、筆力の向上と合わさってより巧妙かつ露骨な形で物語のメインの骨組みとして現れるようになるため、順を追って読んでいくと徐々に苛立ちが強くなっていく。ミステリなりハーレムものなりに変奏してるものの、そこに繰り返し描かれているのはド直球のシンデレラ願望である。源氏物語をベースにした『ヒカル』シリーズでは、さらに一人の男性キャラクターを魅力的な女性キャラクターが取り巻くハーレムものの構造が重ねることで、その訴求力をさらに高いものにしている。
本を読んでいるだけで褒められる子供時代はとうに過ぎ、世間は本を読む人間には意外と素っ気ない。
待てど暮らせど王子様は迎えに来ない【ルビ:Some day my prince won't come】。
我々は自己肯定を切り崩し、現実を生きながら、せめて虚構に夢を見る。
野村美月は、そんな世界に生きる我々が抱く「こうだったらいいな」に巧みにアプローチし得る作家である。彼女の選び出す場面は陳腐でありながらセンシティブで、多くの人の心を捕えて離さない。私は彼女の作品を読む間、間違いなく赤城山で友の手を取り、帚木の咲く地で亡き思い人を見た。作中人物の情動は素朴でありながら率直であり、揺さぶられてしまう。ぱっとしない女の子への感情移入をフックにひっかけられ、気が付いたら魔法にかけられている。好きでもない白球を追って胸を高鳴らせている。
こんなにも嫌いなのに、こんなにも満たされたくないのに、彼女の作品は私を捕えて離さない。