2025-01-12

女性AEDを使ったら訴えられた話

 街中で突然倒れた人を見かけたら、まず声をかけて反応を確認し、必要に応じて救急車を呼ぶ。そして意識がない、呼吸もないといった状況なら、AEDを使って心肺蘇生を試みる。――これは、学校での救命講習や各種啓発イベントなどで何度となく耳にしてきた基本中の基本だろう。わたしも何度か講習を受けた経験があるし、いざというときに手をこまねいてしまわないよう、頭ではしっかり理解していた。実際、その知識が役に立つと思った瞬間があった。まさか、その行為が原因で後に大きな問題に巻き込まれるとは想像していなかったのだが……。

 あの日わたし会社帰りに駅前広場を通り抜けていた。残業続きでクタクタだったとはいえ、そこまで遅い時間ではなかったし、人通りも多かった。目の前で、一人の女性がふらふらと歩いていて、そのままバタリと倒れ込んだのだ。最初は何が起きたのかわからず、周囲の人も「大丈夫ですか!?」と声をあげていた。わたしは少し離れた場所にいたが、一瞬で「AED必要かもしれない」と頭をよぎった。

 近くに設置されているAED場所は、駅前広場にある公衆トイレの壁に設置されたケースの中だったはずだ。わたしは意を決して走り出した。「AEDを持ってきます!」と周囲の人に声をかけると、誰かが「お願いします!」と呼応してくれた。すぐに赤いボックスを取り出し、倒れた女性のもとへ戻った。

 女性は目を閉じ、完全に意識を失っているように見えた。周囲には数人が集まっていたが、どうやらCPR(心肺蘇生法)を施せる人はいないらしく、誰も直接触れることができずに戸惑っていた。わたしはできるだけ落ち着いて「誰か救急車を呼んでください!」と叫び、同時に脈や呼吸の確認を試みた。わたし医療資格を持っているわけではないが、研修で学んだことを思い出しながら、AEDのパッドを貼る準備をした。

 そのとき女性服装は薄手のブラウススカートだった。AEDを装着するには上半身露出させなければならない。わたしはできるだけ周囲の視線を遮るように上着を掛けるなどの配慮をしたつもりだった。そしてパッドを貼り、「解析中です」という機械アナウンスに従いながら、電気ショック必要判断されたタイミングボタンを押した。まるでテキストで習った通りの手順だった。

 しばらくすると、女性はうっすらと意識を取り戻し、救急隊員が到着。たしかに緊迫した状況ではあったけれど、結果的にはAEDが功を奏したのか、彼女は命を取り留めたようだった。救急隊員が女性を運び出すとき「応急処置ありがとうございました」と言ってくれたのを覚えている。わたしは内心、ほっと胸を撫でおろしたし、自分がやったことが正しいはずだと信じて疑わなかった。

 ところが、それから数日後、衝撃的な出来事が起こった。わたし会社仕事をしていると、受付から内線が入り、「警察の方が訪ねて来られています」と呼び出しがあった。慌てて応対に出ると、どうやら先日のAEDの件について話を聞きたいという。救助活動に関して事情聴取をすることがあるのは知っていたから、そのときは「あの日の状況説明かな」と思い、素直に協力するつもりだった。

 しかし、警察署で説明を受けて初めて知ったのは、「助けた女性わたしを訴えようとしている」という事実だ。正直、意味がわからなかった。そのときわたしに与えられた情報では、彼女が主張しているのは「不必要に胸を触られた」「身体を晒されて恥ずかしい思いをした」というものしかった。わたしAED使用するためにやむを得ず、服をめくり、胸にパッドを貼っただけだ。わいせつ目的などあるはずもない。警察担当者からは「いまはまだ疑いの段階で、詳しく事情を聞かせてください」と言われ、まるでショックで頭が真っ白になった。

 訴えられると言っても、すぐに裁判になるわけではない。まずは警察事実関係を捜査し、検察に送るかどうかの判断が下される。その流れ自体ニュースなどで聞いたことがあるが、まさか自分当事者になるなんて思いもしなかった。警察の取り調べは冷静で丁寧だったが、いざ尋問されると「AED必要だったんです」と言いながらも、自分がきちんと説明できているのか不安でたまらなかった。どんな些細な言葉尻を捉えられて、好ましくない形で記録されるかわからいからだ。

 わたしが行った行為は「緊急避難」「正当行為」という文脈正当化されるはずだ――多くの人がそう言ってくれた。会社の同僚や友人も「むしろ表彰されるようなことだ」「訴えられるなんて信じられない」と口々に励ましてくれた。それに救急隊員も「早い段階でAEDを使ってもらったことが幸いだった」という言い方をしていた。だからこそ、訴えられること自体理解しがたいし、憤りすら感じる。

 当の女性は、倒れたとき記憶曖昧なまま搬送され、その後で周囲の人から「胸をはだけられていた」「男性が服を脱がせていた」といった断片的な情報を聞いたのだろう。さらにその“目撃情報”の内容が正しく伝わっていない可能性もある。結果として、「あの人に性的意図身体を触られたのかもしれない」という不信感が芽生え、誰かの入れ知恵もあって警察に訴えるという流れになったのではないか……そんな推測をするしかない。本人から直接話を聞ければいいのだが、今は弁護士を通じた対応しかできないとのことだった。

 その後、警察での事情聴取は何度か続いた。具体的な手順を改めて説明するたびに、「AEDのパッドを貼るために胸を露出させる必要がある」「女性場合下着を外す、またはずらしてパッドを貼ることもある」といった、あまりデリケートな部分の話を繰り返さなければならなかった。担当警察官は専門知識を持っていて理解を示してくれたものの、自分自身のことをどこか客観視してしまうというか、いつの間にか「本当にやましい気持ちはなかったのか」と自問してしまう始末だった。わかっているのに、言葉を尽くしても、どこか孤独な気分になる。こういうのが"疑われる側"の心理なのかもしれない。

 さらに、女性代理人からは「意識のない状態で胸を晒されたことに強い精神的苦痛を感じている。損害賠償検討している」といった内容の通告もあったと聞いた。その文言わたしの耳に「感謝ではなく金銭要求する」というふうにしか響かなかったが、本人の主張としては、「意図的に身体を見られたかもしれない」「AEDを使わなくてもよかったのでは」とまで思い込んでいるようなのだAEDに関する知識が乏しいまま、自分が倒れていたあいだに行われたことを全て悪意として捉えてしまっている可能性が高い。たしか医療現場知識を全く持たない人からすれば、ショックも大きいのかもしれない。でも、それでも納得いかないのが正直なところだった。

 わたしとしては誠実に説明し、「あなたが助かって本当に良かった」と伝えたい。しかし、直接連絡を取ることは叶わない。救急隊員や目撃者証言が集められ、また街頭カメラ映像からも、わたし行為に「過剰さや悪意はなかった」と証明されるはずだと弁護士には言われている。「AED必要のない状況だった」という可能性は極めて低いし、第一現場判断としては心停止かもしれない、という最悪の事態に備えるのが当然の行動だ。むしろ何もしなければ、そのまま命を落としていたかもしれない。

 結論から言えば、結局は不起訴処分で終わった。それでも、女性代理人民事での損害賠償請求を取り下げるまでにはもう少し時間がかかった。最終的には裁判所で「わたし行為は緊急対応として必要不可欠であったこと」「医学的にもAED使用は正当な手段であり、やましい意図がなかったこと」が認められ、相手側も引き下がる形で決着した。長い長い時間精神的な疲労を強いられたが、無事にわたしの"無実"が確定した形だ。

 もしかしたら、「AED使用で訴えられたらどうしよう」という話は都市伝説のように囁かれていたのを聞いた人もいるかもしれない。わたし自身、その噂程度には耳にしたことがあるが、実際にそこまで発展するのは極めて稀なケースだろう。しかし、可能性としてはゼロではなかったのだ。女性本人のショックや、その周囲の偏ったアドバイス、あるいは金銭的な思惑が絡むと、こんなにもおかしな方向へ転がってしまうのかと痛感した。AEDを使うことが推奨されているにもかかわらず、こうした事例が広がると、いざというときに誰も助けようとしなくなるかもしれない。それが一番怖い。

 今回の経験を通じて、わたしあらためて「いざというとき、人を救う行動をとるのは大事」だと思う反面、「誤解やトラブルリスクゼロではない」ことを強く意識するようになった。だからといって、それを理由救命行為をためらうのは本末転倒だし、AEDの普及や救命講習の啓発に逆行する。実際、わたしももう一度同じ状況に遭遇したら、必ず行動に移すだろうと思う。命を守るために必要行為が「訴えられるかもしれない」と萎縮されるような世の中になってほしくないし、そうならないように、どうにか制度理解もっと進むことを願うばかりだ。

 いま振り返ると、一番辛かったのは「そういう意図はなかった」ということを何度も何度も説明し、あたかこちらが加害者であるかのように扱われる時間だった。無罪を勝ち取るとか、問題なく終わるとか、そういう言い方では表せないくらい、人を救おうとした行為否定される精神ダメージは大きい。世の中にはやはりいろいろな考え方があるし、誰もが医学知識を十分に持っているわけではない。だからこそ、「AEDを使うときの手順や必然性プライバシーへの配慮」について、もっとしっかりと周知される必要があるのだと思う。

 最終的に女性とは直接会話をすることはなかったが、代理人を通じて「結果的に命を救っていただいたことを感謝しています」という伝言けが届いた。それが真に彼女本心なのか、あるいは形だけの言葉なのか、わたしには判断できない。だけど少なくとも、彼女健康を取り戻したという事実のものは素直に喜びたい。誰かの命を救う可能性があるAED存在意義は、決して否定されるべきではないからだ。

 この一連の出来事は、わたしにとって大きな教訓になった。AEDの使い方や救命措置の手順を頭に叩き込むのは大切だが、それだけでなく、助ける側も「法的トラブルリスク」を認識し、適切な配慮をしたうえで行動する必要がある。現場ではなかなか難しい話とはいえ、できる限り第三者の協力や証人を確保する、周囲の目がある場所で行う、といった工夫も大事なのかもしれない。救助者の立場を守るための仕組みも、行政社会全体で整備されてほしいと切に願う。

 結局のところ、人を助ける行為尊いが、そこに伴うリスクを完全に排除することは難しい。それでも、誰かが命の危険さらされているなら、迷わず手を差し伸べる世界であってほしい。わたし自身も今回の苦い経験に折れることなく、次に同じ状況が起きたら、やはり躊躇なくAEDを使うだろう。命を救うために必要行為を、社会として後押しできるような意識ルール作り――それが進んでいくことを強く願っている。

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