フランスの歴史教科書 (2) (「イル・サンジェルマンの散歩道」から)
- 2010/06/19
- 22:00


「フランスの歴史教科書」、前回に続いて、「イル・サンジェルマンの散歩道」のjeanvaljeanさんの、フランスの歴史教科書についての労作記事を勉強のためにお持ち帰りさせていただきます。かつて敵対していた二国間の歴史認識の共有について勉強になります。今回は特に、仏独共同歴史教科書です。文章だけを転載しますが、写真などがリンク先にありますので、興味ある人はぜひご参照をお願いします。
jeanvaljeanさん、労作のまとめをありがとうございます。
(転載ここまで)●イル・サンジェルマンの散歩道
■仏独共同歴史教科書 No.1 二つの大戦間の自由民主主義の変化
http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-231.html
今日からフランスのLycée 1(高校2年に相当)の文学・社会経済コースの仏独共同教科書の中の、大戦間のフランスとドイツを紹介します。
自由民主主義の危機(1918年-1939年)
第1節 二つの大戦間の自由民主主義の変化
<ヨーロッパにおける民主主義の勝利を弱めたのは何か?>
民主主義の枠内でおこなわれた政治的動員 1919年の総選挙で運動中のドイツ社会民主党の党員たち
・第一次世界大戦後の自由民主主義の勝利?
中央権力による専制的な政府に対する西洋型議会民主主義の勝利は、ヨーロッパにおいて民主主義への道を開いたといえる。ドイツにおける1918年11月の革命は、ヴィルヘルム二世の退位をもたらし、ワイマール共和制を誕生させた。民主主義的政府は、中央ヨーロッパと西ヨーロッパの新しい国家において確立した。イギリスでは女性の投票権が勝ち取られ、最初のうちは制限がもうけられたが、すでに深く根を下ろしていた政治的権利が拡大する。
こうして政府は、より大きな合法性を手にする。しかし選ばれた代表は、自分の選挙人たちの利害を守り、また自分が決定したことを選挙人たちに理解させる能力が、さらに問われるのである。そうでなければ選挙人たちは、独裁体制によって危機からの早急な脱出を約束する運動に、充分な活動の余地を与えることになる。
・第一次大戦の経済的影響
戦争はヨーロッパの経済に、しばらくのあいだ重くのしかかった。戦争の期間中の負債により、イギリスとフランスは財政的にアメリカに従属した。すべての国において、戦争による破壊を修復しなければならず、また戦時経済を平時に戻さなければならなかった。失業とインフレーションは社会的緊張を高め、ストライキや暴動を引き起した。
1926年、ロシア革命がヨーロッパにも広がるのではないかと危惧したイギリス政府は、鉱山労働者のゼネストを鎮圧するために軍隊の助けを借りた。ハンガリーでは1919年に、ソヴィエトをモデルとする評議会共和国が形成された。元海軍大将のMiklos Horthyは共和国と闘い、軍部独裁をうちたてるために軍隊を召集した。ポーランドでは、平価切り下げと失業が議会体制を不安定にし、そのうえ政府は汚職を糾弾された。1926年、Jozef Pilsdskiga元帥が、政治「浄化」と称するクーデタによって権力を握った。
・ナショナリズムと独裁的体制の台頭
講和条約の領土条項は、遺恨と悲痛を呼び起こした。要求がすべて受け入れられなかったイタリアは、「傷つけられた」勝利を非難した。ドイツとハンガリーは、領土の大部分を奪われた。とくにドイツでは極右の政党が、条約の見直しを訴えて精力的に活動した。イタリアのファシズムとドイツの国家社会主義の運動は、自分たちのナショナリズム的綱領に社会的要求をつけ加え、躊躇なく暴力的手段に訴える、軍隊的に編成されたグループに依拠した。
国民のフラストレーションを背景に、スペインにおけるカタルニア運動のような分離独立主義の運動が高まりをみせたが、強い国家を切望する軍隊の攻撃を受けた。1923年から1930年の間に、Miguel Primo de Riveraが軍事独裁をうちたてた。
自由民主主義は、第一次世界大戦後に建国もしくは再建した国々において最も挫折し、独裁体制の登場を許した。そしてイギリスやスカンディナヴィア諸国の君主制やフランスの共和制のように議会主義の伝統が長い国では、自由民主主義は維持され、政治危機は克服される。
<ポイントとなる基礎知識>
軍事独裁-将校あるいは将校のグループによって実行される独裁体制。多くの場合、クーデタによってつくられる。
独裁体制-国益を守るためと称して、民主主義的政治参加を制限し、表現と集会の自由を妨害し、利益団体(例えば労働組合)の代表を制限する政治体制。
分離独立主義-自治国家、独立あるいは他の国への併合の実現をめざし、多くの場合国の底辺から組織する政治運動。
■仏独共同歴史教科書 No.2 フランスにおける共和制の危機
http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-232.html
*これはフランスのLycée 1(高校2年に相当)で使われる文学・社会経済コースの仏独共同教科書です。
第2節 フランスにおける共和制の危機
<経済危機は、フランスの政治にどのような影響を与えたのか?>
危機にある議会主義 国家共和主義者の宣伝部のポスター 1934年 「議会体制の崩壊!」「憲法改正」と書かれている。
・フランス、世界的経済恐慌のなかの例外
1929年にアメリカを襲い、ヨーロッパの工業国に伝播した世界経済恐慌は、しばらくの間フランスを埒外においた。1926年にポアンカレ首相が実現した財政再建は、戦争いらい価値を下げ続けるフランを安定させることに成功した。工業生産は1924年から伸び続け、失業者数はこれまでの最低となった。しかしながらそれは、経済が健康状態にあるということを示すサインではない。
実際のところ1920年の終わりから、経済危機の予兆があった。1927年から輸出高が減少し、1929年から物価が下がりだした。今度はフランスが、まともに恐慌に襲われたのである。そして長引く。つまり1938年には、経済活動の水準は1928年のそれを下回った。農業価格(とくに穀物)の下落は、就労人口の33%を占める農民の収入を激減させた。物価の下落はまた、職人や小売商店、したがって共和的体制の社会的な土台を形成する層の生活を直撃したのである。
・経済的危機から政治的危機
歴代の政府が危機に対して無力であることが明らかになった。経済活動の低下と失業の増大は税収を減らし、予算の赤字を大きくした。1935年にラバル内閣がとったデフレーション政策は、何の成果もあげなかった。
政府の連立の弱さが、議会制度の停止を引き起した。1932年の選挙では左翼が勝利したが、社会党は急進社会党との連立を拒否した。こうして急進社会党は、中道右派および中道左派と一時的な同盟を結んだ。明確で継続的な多数派を形成できずに、政府は簡単に倒された。1932年から1934年までに、7つの内閣が交替した。内閣の不安定性は、政治に対する国民の不満を増大させ、共和主義的体制における信頼をぐらつかせた。「国の改革」と呼ばれた、行政権の強化をめざす計画は挫折した。なぜならば、それは共和主義的伝統に反するように見えたからである。
・反議会主義の台頭
議会体制にたいする不人気は、極端な動きを生む。右翼はナショナリストの諸連盟は、強力な行政権を要求した。もっとも影響力のある連盟の中でも、とりわけ火の十字団Croix de Feuは、第一次世界大戦の退役軍人をまとめた。またアクシオン・フランセーズAction Fran醇Maisあるいは愛国青年Jeunesses pqtiiotesのような連盟は、国民のすべての階層から会員を集めた。そのなかには知識人も含まれる。
反議会主義はスタヴィスキー事件によって引き起された政治スキャンダルのときに最高の高まりを見せた。1934年2月6日、連盟に対してあまりに手心を加えたとしてJean Chiappeが罷免された後、在郷軍人会と諸連盟がブルボン宮、つまり下院の前にデモを組織した。デモは暴動に発展し、15名の死者と2千名の負傷者を出した。「殺人者の政府」と呼ばれた、ダラディエの中道政府は退陣し、右翼が牛耳る国民連合Union nationalによって取って代わられた。左翼の諸政党は2月6日中に、ファシストのクーデタの試みであると非難し、2月12日に極右の脅しに対する合同のデモをおこなった。
■仏独共同歴史教科書 No.3 人民戦線下のフランス
http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-233.html
*これはフランスのLycée 1(高校2年に相当)で使われる文学・社会経済コースの仏独共同教科書です。
第3節 人民戦線下のフランス
人民戦線の宣誓。1935年7月14日に組織されたデモ。人民戦線の選挙協力は、7月15日に公式に確認された。
プラカードからは、次のような文が読み取れます。「我々は軍備縮小し、ファシスト諸連盟を解散させるために、公式の宣誓をする。民主主義的自由を守り、発展させるため・・・」
・人民戦線の形成
1934年2月6日の事件は、左翼の諸政党にとって衝撃であった。それは前年のドイツのように、左翼同士の反目が極右の政権奪取に利するのではないかと危惧していたからである。
こうした状況のなかで、反ファシストの知識人が左翼勢力の統一に努力する。共産党PCFとCGTは、これまでの「ブルジョア」との対決という方針を放棄し、社会党SFIOと急進社会党との統一を考慮して活動するようになる。1935年7月14日、モーリス・トレーズ(共産党)、レオン・ブルム(社会党)、エドゥアール・ダラディエ(社会急進党)の指導の下に、人民戦線の選挙協力が公表される。
人民戦線は、1936年の選挙に勝利した。しかしこの成功は、期待されたほど大きなものではなかった。社会党は下院で第一党となり、社会党のレオン・ブルムが首相になった。共産党は政権には参加せず、新政府を支持した。
・ストライキと社会改革:1936年の「つかの間の晴天」
1936年5月の人民戦線勝利の知らせは、前例のない、工場占拠を含む自然発生的なストライキの波を引き起した。ブルム内閣は、はじめて経営者と労働組合との間に会談の場をもうけた。会談の結果は、6月7日のマチニョン協定の調印までに至った。少し後に可決された法律によって政府は、週48時間労働を40時間に短縮し、年あたり2週間の有給休暇を労働者に与えた。スポーツ・余暇担当の閣外大臣のレオ・ラグランジュがイニシアティーブをとり、運賃割引の乗車券の創設、ユース・ホステル建設の助成などによって、庶民の余暇を奨励した。
人民戦線は軍事産業を国有化し、200人の大株主、いわゆる「200家族」*1 の影響を弱めるためにフランス銀行を改革した。また農業価格の暴落を阻止するために、小麦異業種間公社ONIB *2 を設置した。一定の速度で進められるこれらの改革は、ブルムが後に危機の中の「つかの間の晴天」と称した、期待と再生の雰囲気を維持した。
*1 人民戦線のときに、左翼がその過度の影響力を批判した、産業界・金融界の大ブルジョアを指す表現。
*2 農業従事者、農業食品産業、国、消費者の代表で構成される。ここで農業従事者の収入を保護するために穀物価格を決める。
・人民戦線の挫折
人民戦線は、「ファシストの恐れ」のある、極右の諸連盟の活動を禁止した。にもかかわらず、右翼の新聞による暴力的キャンペーンにも立ち向かわねばならなかった。こうした新聞は、ブルム個人を反ユダヤ攻撃の標的にしたのである。
その一方で人民戦線の運動は、左翼の対立も引き起した。対外政策においてブルムは、連立相手の急進社会党とイギリスの圧力のもとで、スペイン内乱への不介入を余儀なくされた。これは共産党の激しい批判にさらされた。ナチスドイツによる威嚇の増大を前にして、ブルムは再軍備を早急に整えることを決定した。そして1937年2月に、改革の「中休み」を発表した。この中休みによって経済が立ち直ることも、失業者数が目に見えて減少することもなかった。
急進社会党がブルムの支持を撤回したので、ブルムは1937年6月に辞任した。1938年4月にエドゥアール・ダラディエが、社会党を除外した国民連合の政府を発足させた。すなわち人民戦線の終結である。
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マチニョン協定
協定は、ストライキの最中の1936年6月7日にマチニョン館(首相官邸)において、経営者と労働組合の代表、そして政府によって調印された。
1項-経営者の代表は、労働団体協約の即時作成を認めること。
3項-法律の遵守はすべての市民に課されているのであり、雇用者は、言論の自由そして職業的労働組合に自由に加入し、属する権利を認める。
4項-全ての労働者に適用される実質賃金* は、[・・・] 最低賃金に対する15%に始まり、最高賃金に対する7%に至るまで、賃金体系に応じて調整される。
5項-労働者10名以上の事業所においては、規模の大きさに応じて、2名もしくは数名の労働者の代表を配置する。これらの代表は、個々人の要求を職場長に伝える権限をもつ。[・・・] それは法律、政令、労働法の条項、賃金表および衛生安全基準の適用の対象となる。
6項-経営者の代表は、ストライキ行為に対していかなる処罰もおこなわないということを誓う。労働者連盟の代表は、企業の経営陣が斡旋案を受け入れた時点でただちに、ストライキ中の労働者に労働を再開することを求める。
* 労働者の購買力を守るために、物価の高騰に配慮した賃金。
■仏独共同歴史教科書N0.4 大戦間の自由民主主義の変化 (学習の足跡)
http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-235.html
*これはフランスのLycée 1(高校2年に相当)で使われる文学・社会経済コースの仏独共同教科書です。
各節の終わりに、資料に関する質問が設けてあります。題して「学習の足跡」。かなり読み込まないと難しい質問です。
Piste de travail 学習の足跡
左上から下へ、右上から下へ。共和制あるいは前共和制、君主制、非主権の君主制、民主主義の確立、共産主義体制、反民主主義の進行(君主制、ファシスト独裁)
第1節 二つの大戦間の自由民主主義の変化
1.1918年以後のヨーロッパにおける政治体制の展開を述べよ。
2.地図の中から、大戦間に民主主義が失敗した三つの国を挙げよ。国ごとにその失敗の原因を調べ、比較せよ。
3.イギリスの炭鉱ゼネストについて、二つの見解が対立するのは何においてか?イギリスの労働組合運動の方針について、何を推論できるか?
(The Times紙とThe British Worker紙を比較して )
(結論として)
4.1914年から1918年までの戦争の後で、ヨーロッパの民主主義を強めたり、弱めたりする要因facteursはなにか?
第2節 フランスにおける共和制の危機
1.このポスターは、どんな政治的メッセージを伝えようとしているのか?あなたの考えでは、どのような政治的潮流がこのポスターによって意見を述べようとしているのか?
(ポスター「危機にある議会主義」<No.2を参照>について)
2.経済危機の政治的影響はなにか?
3.エルネスト・メルシエは、どのような表現で議会体制を批判しているのか?
4.1934年2月6日の事件についての二つの記述を比較せよ。歴史的背景を参考にしながら、それらの情報源を説明せよ。 (左翼の意見と右翼の意見を並列させて)
(結論として)
5.1930年代のフランスにおける「共和制の危機」について、何を語ることができるか?
第3節 人民戦線下のフランス
1.人民戦線の結集は、どのような一致点に基づいていたか?左翼連合の政府は、どのような行動の中で限界にぶつかったか? (人民戦線の宣誓のポスター、議会の勢力図を参照して)
2.人民戦線は、どのようにして経済危機を乗り越えようとしたか?どの分野で、主な前進がみられたか?
(マチニョン協定の合意事項<No.3を参照>を参照して)
3.ダラディエはどのような論拠で人民戦線を批判したか?彼の演説が暗示した危惧とはどのようなものであったか?あなたにとって、それは論拠のあるものか?
(マチニョン協定の合意事項を参照して)
改革が労働市場にもたらした効果はどのようなものであったか?この文脈のなかで、1938年にダラディエがおこなった進路変更について説明せよ。
(ダラディエの40時間労働制の放棄についての演説にたいして)
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40時間労働制の放棄
1938年11月12日の、ダラディエのラジオ演説
「国力、独立の保障は、軍事力のみでは確立できない。すくなくとも工場における日常的な努力がなければならない。[・・・] 国家収入を増大しなければならない。フランスを労働に戻さなければならない。世界のどの国を見ても、人の労苦を減らすために、機械設備を週に1日あるいは2日休止させている国はない。世界情勢が難しい間は、40時間以上働きうるはずであるし、防衛に関係した企業においては48時間まで働きうるはずである。それゆえ無益な手続きも省略し、際限のない議論も終わりにして、必要な企業は週40時間ではなく、企業の活動に必要な労働時間を配置することができる。」
■仏独合同歴史教科書 No.5 ワイマール共和政(1918-1929)
http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-236.html
*これはフランスのLycée 1(高校2年に相当)で使われる文学・社会経済コースの仏独共同教科書です。
第4節 ワイマール共和政(1918-1929)
ギュスターヴ・シュトレーマン(1878年~1929年)
1907年から国民自由党の政治家となり、1918年にドイツ人民党DVPを結成した。最初は王政主義者であったが、のちに「打算的共和主義者」となった。対外政策を評価され、フランスの外相、アリスティド・ブリアンとともに、ノーベル平和賞を受賞している。
・戦後の危機
<議会制民主主義は、ドイツで不可欠なものでありえたか?>
1919年1月19日の下院選挙は、女性がはじめて参加した選挙であった。緊張状態にある首都を避けてワイマールに召集された代議士たちは、1919年7月31日議会制民主主義の確立を謳った憲法を発布した。この共和政が戦後の危機的状況にもかかわらず10年以上も続いたことは、軽視できない偉業である。実際1920年5月には、この若い共和政はクーデタ( Kapp-Luttwitzのクーデタ )に見舞われている。ゼネストの後に起こったこのクーデタは、失敗に終わった。ワイマールの共和政は、ヴェルサイユ条約の履行によって脆弱であった。世論はこの条約を「強制された」と考える。この政府を「履行の政治」* と非難する右翼の攻撃の標的となった。
* 1921年から続くドイツ政治を中傷するために、右翼が使うスローガン。いわく、この政治はヴェルサイユ条約の要求にできる限り応えようとする。それはドイツ経済に重大な損害を与えることなしに、賠償金の全額を払うことはドイツにとって不可能であることを明らかにするだけなのだ。
1923年、危機は頂点に達した。1月、フランスとイギリスは、賠償金支払いの遅れに対し、ルール地方の占領によって応えた。消極的なレジスタンス*1 は、貨幣価値の暴落を引き起し、ハイパーインフレーション*2 に突入した。秋には実力行使の試みが多発した。ハンブルグでは、KPD(ドイツ共産党)に率いられた蜂起が、警察と軍隊によって鎮圧された(10月23~25日)。政府はまた、KPDとスパルタクス団SPDのチューリンゲン地方支部が打ち立てた評議会共和制を、軍隊によって転覆させた(10月29日)。ミュンヘンではアドルフ・ヒトラーが、エリッヒ・リューデンドルフ-1916年から1918年まで、参謀長であるヒンデンブルグ元帥の下で戦った-の支援を受けクーデタを実行するが失敗する(11月8~9日)。ラインラント地方の自治共和国を求める分離独立運動が起こるが制圧される(10月21~23日)。
*1 1923年、ルール地方の占領軍が資源を採掘するのを妨げる目的で、政府がゼネストを宣言した。
*2 貨幣価値の、急速で制御不能な暴落。インフレーションはすでに戦後から強まっていたが、ドイツでは1923年に加速した。こうして4月に24,456 RM(Reichsmark)であったドルが、10月には25,260,000 RMに暴騰した。Rentenmarkの導入により、ハイパーインフレーションは1923年の11月に終結した。
・「シュトレーゼマン時代」-強化の数年間?
共和政にのしかかるこうした威迫にもかかわらず、ドイツ首相グスターブ・シュトレーゼマンの政府は、消極的なレジスタンスを終結させ、徹底的な通貨改革をおこない、危機を乗り切ることに成功した。
シュトレーゼマンは外務大臣として、大戦の戦勝国とりわけフランスとの関係を正常化した。1925年のロカルノ条約によって、彼はフランスおよびベルギーとの国境の現状維持を約束した。国際連盟への加盟も認められ、少しずつ孤立から抜け出していった。シュトレーゼマンは交渉によって、ヴェルサイユ条約と賠償金額の見直しを勝ち取ろうと試みた。彼の成功にもかかわらず、この調停政策は強い反対、とりわけこの政策を不十分と考えるナショナリストの党による反対に直面する。にもかかわらず、1924年から1925年のシュトレーゼマンの死までの期間は、政治が相対的に安定した時期であった。
1919年から進められた社会改革の結果についても見ておかなければならない。労動者の権利は、企業委員会の設置と8時間労働の導入によって強化された。失業保険、および貧困者のための公的保護によって補強された社会法は、社会的貧困化の状況にたいする防護的な役割を強めた。居住の困窮をなくすために政府は、社会住宅の建設計画に財政支出をし、借家人の権利を強化した。「輝ける20年代 Goldenen Zwanziger Jahre」と呼ばれた10年間はまた、文化的創造が豊かに実った時代でもあった。
1925年の大統領選挙において、参謀長で「タンネンベルグの英雄」として知られる、パウル・フォン・ヒンデンブルグが選出されたことは、帝国の威光という伝説に対する愛着がまだ残っていることを露呈した。
■仏独合同歴史教科書 No.6 ワイマール共和政の崩壊をもたらしたのは何か?
http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-237.html
*これはフランスのLycée 1(高校2年に相当)で使われる文学・社会経済コースの仏独共同教科書です。
第5節 ドイツにおける民主主義の危機(1929年-1933年)
(ワイマール共和政の崩壊をもたらしたのは何か?)
議会勢力の変遷
赤 USPD(独立社会民主党)、橙色 KPD(ドイツ共産党)、桃色 SPD(社会民主党)他、青 DVP(ドイツ国民党)、灰色 DNVP(国家人民党)、茶色 NSDAP(国家社会主義ドイツ労働者党)
・世界経済恐慌の影響
1929年10月、ニューヨークの株価暴落は、ドイツ経済を景気後退のなかに突き落とした。実際ドイツ経済の発展はその大部分を、アメリカから来る潤沢な資本に頼っていた。短期の貸付は、企業の長期の投資に対する融資を可能にした。そのために企業の投資は、アメリカ資本の突然の引き上げに対処することができなかった。倒産や人員整理が増大し、購買力の低下を引き起した。そうすると今度は、中小企業や農民が価格の暴落によって打撃をこうむった。1931年には、銀行の危機がいくつかの大銀行の倒産を引き起した。1929年にすでに300万人に到達していた失業者の数は、1931年から1932年にかけて約600万人に激増した。失業保険の公的機関は、赤字を増大させた。連立政権は、給付金の削減を求める側と、会費の引き下げを求める側に分裂し、連立政権は崩壊した。ミュラー政府(社会民主党)は、議会多数派を握る最後の内閣であった。
・憲法の軌道修正
わずか3日後にヒンデンブルグ大統領は、中央党のハインリッヒ・ブリューニングを首相に任命した。もはや議会で多数派を形成できない新しい政府は、「大統領内閣制」として捉えられた。政府は、憲法が大統領に与えた権限を活用して政策を遂行した。首相と大統領は、デクレ・ロワ* によって議会をコントロールした。しかしながら首相はつねに、大統領の信頼を得る必要があった。ヒンデンブルグに見限られたブリューニングは、1932年5月に辞任した。
1923年のハイパーインフレーションの悪夢がつきまとうなかで、ブリューニングはデフレーション政策を厳格に推進した。これによって経済危機はさらに悪化し、国民生活は貧窮の度を増した。この緊縮財政政策が唯一の可能性であったか否かについては、今日まで議論が続いている。いずれにせよ憲法の濫用は、その実体をなす議会制度を空疎なものにした。
* 法に代わる政令で、議会での議決を経ない。48条によれば、「差し迫った危険」ある場合、ドイツ国大統領はデクレ・ロワを交付することができる。しかし議会の承認を得なければならない。もし議会が拒否すれば、大統領は議会を解散することができ、次の選挙までの60日間は制限なしにデクレ・ロワを交付できる。
・政治の急進化
1929年2月、ヤング案*1 によってドイツに課された賠償金の支払いは、69年間の分割支払いに緩和された。国家社会主義ドイツ労働者党NSDAP*2とドイツ国家人民党DNVP*3によって醸成された、ヤング案に対する反抗的な感情がドイツ世論のなかに生まれてきた。ヤング案にたいするアジテーション運動は、1930年と19332年におこなわれた選挙において大量の票を獲得した。
1932年の大統領選挙は、「アドルフ・ヒトラーかヒンデンブルグか」を選ぶ選挙であったが、選挙民の右傾化をはっきりと示した。1925年の選挙では、ヒンデンブルグは保守主義の政党の候補者であったが、これ以後はよりましと考える民主主義政党の支持を獲得することになる。たとえヒトラーが大統領選挙に敗れるにしろ、とりわけハルツブルグ戦線*4の中にいる他のナショナリストの組織との連盟によって、彼の政治的な影響力は強化される。選挙の成功に力を得たヒトラーは、自分を首相に任命するようヒンデンブルグに申し入れたが、ヒンデンブルグはヒトラーに対する不信を理由に拒否した。しかしこの日ヒンデンブルグは、国家人民党と結びついた実業家、そして保守的な大地主で構成されるcamarilla*5 の影響を受ける。1933年1月30日、共和制を打ち倒すためにヒトラーの人気を利用できると考えた彼らは、ヒンデンブルグにヒトラーの首相任命を迫った。
*1 アメリカの専門家、Owen Youngによって練られ、1929年6月に採用された案。この案は、賠償金の割引と、1988年までの分割払いを提案している。
*2 1919年にドイツ労働者党の名称で結成された、反民主主義的、国家民衆主義的(volkisch)、反ユダヤ主義的政党。1923年11月9日にヒトラーが先導したクーデタの失敗の後活動を禁止され、1925年から活動を再開した。1930年から党員を大幅に増やし、1930年の選挙では2.6%であった票を1932年には18%に伸ばし、1933年には37.3%の票を得て議会の第一党(37.3%)になった。
*3 1918年に結成され、ナショナリズム、君主制、保守主義、キリスト教の立場に立つ政党。おもに農民、大地主によって支持された。
*4 NSDAP、DNVP、その他の右翼組織の間で、1931年10月11日にバート・ハルツブルグで形成された反共和政同盟。この同盟を率いたのは、実業家で出版会の大物、Hungenburgである。
*5 大統領の側近で、非公式に大統領の行動に決定的な影響力を行使する政治家。スペイン語のcamarilla (小さい部屋)からきた。
「あなたは三代に亘って、労苦を担わされる。国民投票に参加しよう!」ヒトラー、Hugenbergの主導による「ヤング案に反対の国民投票を呼びかける国民委員会」の、ヴェルサイユ条約の完全見直しへの投票を呼びかけるポスター。「ヤング案の調印者全員を牢獄へ」とも訴えた。国民投票は実施されなかった。
■仏独共同歴史教科書 No.7 ワイマール共和政(学習の足跡)
http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-238.html
*これはフランスのLycée 1(高校2年に相当)で使われる文学・社会経済コースの仏独共同教科書です。
学習の足跡 Pistes de travail
第4節 ワイマール共和政(1918-1929)
1.ワイマール共和制における諸制度の機能について説明せよ。(制度の相関図を示して)
2.Reich Hugo Preussが強調する、国内の自由と対外的な自由との関連について説明せよ。
(ワイマール憲法起草の中心人物の主張に対して)
この文脈において、ドイツの国内政治の進展にとってヴェルサイユ条約の意味するものはなにか?
3.ヒンデンブルグの選挙に関するこのコメントは、どのような政治的感性を示しているか?
(ドイツ大統領選挙でのヒンデンブルグの選出;共和国にとって闘いの敗北か?1925年4月27日について)
(結論として)
ワイマール共和政が獲得した積極的なものはなにか?
第5節 ドイツにおける民主主義の危機(1929年-1933年)
1.このポスターは、どの程度過激主義を激励したか?
(ヤング案に反対の国民投票を呼びかける国民委員会」のポスターについて)
2.いかにして経済危機が、政治的過激主義の高まりに貢献したかを示せ。
3.ブリューニングの論法を解説せよ。そして「ドイツの国益のために」政府が国会の過半数の承認を得ずに、施策を実行できるという彼の見解について、あなたの考えを述べよ。
(ブリューニング政府の緊急財政政策についての演説に対して)
(結論として)
4.1929年に続く数年は、「ワイマール共和制の崩壊の時期」と呼ばれる。この表現が正しいことを証明する事柄について、その要点を述べよ。
5.これまでの課で学んだことを土台に、大戦間のドイツとフランスにおいて同じような情勢の展開があったにもかかわらず、ドイツにおいて民主主義が挫折したのはなぜか、説明せよ。二つの共和制の間の本質的な違いは何であったのか説明せよ。
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ブリューニング政府の緊急財政政策
1930年7月15日ブリューニング首相は、議会を前に国家予算の健全化計画と予算の大幅カットならびに増税に関する一連の法律を提案した。演説の中で彼は、これらの施策を議会の賛同もなしに、政令によって実施することについて、何の疑いも挟まなかった。
「私は全体的な政治状況とこの数週間の交渉について考えると、これ以上ここで話をする必要はないと思う。人民は決定を待っている。これ以上の演説や交渉を望んでいない。[・・・] もはや政府の提案する(赤字)補填を選択するしか解決策はない・・・ドイツ政府は、それでもこの上院が困難性、自らの責任を認識していることを固く確信する。ドイツ議会には、まだたっぷり1時間ある。[・・・] もし議会が、政府が望むように、必要な責任の精神を発揮するならば、私の考えでは、議会主義とこれまでの年月の間に育んだ民主主義を守ることになる。民主主義と議会は、重要な方針が問題になっているときを含めて、自らの責任を引き受ける勇気によってきちんと保護される。[・・・] もしそれが不可能であれば、私は今すぐにでも、ドイツ政府が民主主義の利益のために、国家予算の赤字を補填するに必要な、憲法に定めるあらゆる手段を講ずることを断言しなければならない。」
■仏独共同歴史教科書 No8. ワイマール共和政にたいする<歴史家の目>その1
http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-240.html
*これはフランスのLycée 1(高校2年に相当)で使われる文学・社会経済コースの仏独共同教科書です。
<歴史家の目> その1
ワイマール共和政は失敗するように運命づけられていたのか?
共和制は、あまり好きではないの?
「みんな文字は支えるが、その精神を支持するのは誰なのか?」
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ワイマール共和政は、議会をもち、高度に発達した社会システムを備えたドイツにおいて、最初の民主主義体制である。しかしながら一般には共和制の歴史は、最終的に国家社会主義への道を開いたという、一連の不運な要因によってもたらされた失敗の歴史であると評価されている。人はたびたび、議会制民主主義が10年間以上も存続したという事実、そして議会制民主主義が、女性の投票権と社会法という重要な獲得物を残したということを忘れる。
にもかかわらず共和制の失敗の原因について考えることは、いまでも正当なことである。もっと全体的な観点からみるならば、この問いかけによって、民主主義が機能するのに必要な社会的条件を特定することは可能になる。ワイマール共和政の失敗の原因が多様で複雑であることは、ずいぶん前から認められたことである。問題はむしろ、共和制が失敗を宣告されたのか、それともヒトラーの破局的な権力奪取を防ぐ可能性はあったのかということを知るということである。
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Hagen Schulze ( 1982年 ) : 失敗は人類の過ちによるのか?
ドイツの歴史家Hagen Schulzeはワイマール共和政に関して、人間が歴史の流れを変える可能性について考察する。
ワイマールの失敗は何を引き起したのか?この質問に対して、徹底的に科学的な厳密さをもった回答は、まだ出されていない。しかしそれでも、いくつかの要素は明らかにできる。主要な動機は、精神状態、傾向、思想の分野において見い出すことができる。このひと括りの原因の基本的な部分は、国民の大多数が、最終的にはワイマール政治体制を受け入れる心構えができていなかったということである。それにしても政党や労働組合も、議会主義を希求する存在として自らを示すところまではいかなかった。この逸脱の主要な原因は、長期的に見れば、ドイツ・プロシャに特有な歴史的背景によって説明できる。
この現象はまた、ワイマールの政治体制が誕生したときの状況と、ワイマール共和政の対外政策を圧迫した負担とによって強められた。[・・・] もし政党そして政府が、自らの権力についてもっと自覚をもっていたならば、理論的には軍隊、司法官僚の中の反共和制の潮流を押さえることができたであろう。社会的および経済的な情勢全般が、本質的なところで長期間にわたり、国民とその諸団体の精神状態に影響をおよぼしたのである。一時的な経済危機も不安定要素を強めたが、それは原因にまでは至らなかった。そこで次のような簡潔な結論を引き出すことができる。すなわち国民、諸団体、諸政党、そしていく人かの責任者が、ワイマールの実験を失敗に至らしめたのである。なぜならば彼らは誤った考えによって、誤って行動したのだから。構造的分析という間接的な方法をもってしても、ワイマールを失敗に導いたのは、運命でもなく、未知の客観的な強制でもないという結論に至る。団体も個人も、ワイマールを守るために決着をつける可能性、そして当時機能していた議会制民主主義の法に従う可能性をもっていたのである。
Hagen Schlzeの「ワイマール、ドイツ1917年-1933年」Berlin,1994から引用
■仏独共同歴史教科書 No.9 ワイマール共和政にたいする<歴史家の目> その2
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*これはフランスのLycée 1(高校2年に相当)で使われる文学・社会経済コースの仏独共同教科書です。
<歴史家の目> その2
Richard Bessel (1990年) 不運な要因の組み合わせ
イギリスの歴史家Richard Bessel は、ワイマール共和政をヨーロッパというコンテキストの中で考える。
ワイマール民主主義の崩壊は、長期および短期の要因の特異な組み合わせに原因を求めることができる。
これらの要因は、その多くが他の工業社会においても見られるが、ワイマール共和政の下では全く特殊な力によって圧縮された。他の社会は、政治的および社会的緊張、非雇用者や労働者そして大量の失業者の間におこる激しい衝突に立ち向かい、敗戦からくる負担、新しい政治体制を受け入れ、近代社会の拡大によってもたらされる諸矛盾を解決する必要性、そして民主主義の基礎を理解するエリートたちの意志に応えようとする。こうした諸要素は、ドイツには作用しない。ドイツだけが、大戦間に民主主義的政治体制が崩壊したわけでもない。実際、アングロ・サクソン諸国とスカンジナビア諸国の民主主義を別にすれば、ヨーロッパにおいて安定した民主主義体制は、一般的というより例外的であった。ワイマール共和政において特徴的なことは、崩壊するまで存在しえたのではなく、かなり長い間持ちこたえたということである。ドイツに特徴的なことは、すべての勢力が激しくぶつかり合うことである。このことはワイマール共和政は、民主主義的憲法を有していたことを示す。ワイマール共和政は、もっとも進んだ社会制度を発展させ、最も激しいインフレーションに苦しみ、未曾有の破壊的な戦争に敗れ、そしてその賠償金を払わねばならなかった。その特殊な経済構造と世界経済におけるこの国の立場を考えると、ドイツはもっとも激しく世界恐慌の被害を受けた国であった。[・・・] ワイマールの政治体制は疑いなく、孤立の中でこの破壊のプロセスのひとつひとつに立ち向かい、受け止めたのであろう。
Richard Bessel (1990年) 「なぜワイマール共和政は崩壊したのか?」
New York,St.Martin's Press(1990年)Ian Kershaw編「なぜドイツの民主主義は失敗したか?」より
旧エリート達の責任
ドイツの歴史家Eberhart Kolbは、共和制の崩壊にたいする伝統的なエリート達の責任を強調する。
ドイツで最初の共和制はまちがいなく、誕生したときの環境から生じる根本的な脆弱さに苦しんだ。1919年に具体的な形式を整えた議会制民主主義を受け入れ、熱心に擁護したのは少数派のみであった。国民の大多数は、共和制に対しよそよそしく、懐疑的な態度を崩さず、公然と拒否した。創成期から、右翼および極左の反民主主義勢力は共和制にたいする闘いを組織した。こうした環境の中で共和主義者の政治家が、国内および国外からの煩わしい脅迫に満ちた最初の数年間、ワイマールの民主主義を救うことに成功し、そしてついには目覚しい政治的かつ経済的な「正常化」を達成したのは、ちょっとした奇跡―そしてすばらしい功績―である。しかしながらこの比較的安定した時期から、1929年の政治体制の急速な崩壊過程への転変が始まっていた。ブルジョア大政党、そしてとくに旧エリートの指導者たちが、ワイマールがつくった複数社会的国家、それゆえに社会民主的な労働者と民主的なブルジョアジーが結んだ同盟の上にワイマールの国家を築いた、1918年から1919年にかけての「創造的妥協」と距離を置いた。[・・・] この観点からみると、1929年から1930年までにおこった事件と選挙が、破局への道程として重要な意味をもつのである。実際大統領制への移行は、議会制を遠くに追いやり、共和制に忠実で国家に好意的な勢力の立場を著しく弱めた。世界経済危機の影響が計り知れないほど大きく、社会不安を増大させ、現行の国家機構に対する、国民の大部分の忠誠心が弱まる前においてさえもこうであった。これは結果として、徹底したナショナリストで民主主義に敵意をもつ政党であるNSDAP国家社会主義ドイツ労働者党を、大衆運動に向わせる効果を生んだ。しかし大衆の動員と選挙とに成功したにもかかわらず、NSDAPは勝利するにはいたらなかった。大土地所有者、産業家といった旧エリート、軍の特権階級そして大ブルジョアジーは、ワイマールに距離を置いて専制体制を復活させることを決め、この目的のために国家社会主義の大衆運動を利用できると考えた。
「ワイマール共和政」ミュンヘン 1988年
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学習の足跡 Pistes de travail
1.資料をもとにして、ワイマール共和政の失敗の主な理由を引き出し、範疇ごとに整理せよ。
2.あなたは、民主主義の崩壊を妨げる方法があると思うか?
3.ワイマール共和政が実現した措置は、どの程度重要と思われる?
4.ワイマール共和政とその失敗は、しばしば次のようなタイトルを想起させる。たとえば「ワイマール、未完成の民主主義」(Host Moller)、「民主主義はいかに自己に確信を抱くか」(Brancher とErdmann)、「賭けに負けた自由」(Hans Mommsen)などである。これらのタイトルは、どのように解釈を示しているか?あなたの視点にもっとも一致するのは、どのタイトルか?ワイマール共和政について、あなただったらどんなタイトルをつけるか?その理由をのべよ。
■仏独共同歴史教科書 No.10 最初のファシズム体制は、いかにしてヨーロッパに現れたか?
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*これはフランスのLycée 1(高校2年に相当)で使われる文学・社会経済コースの仏独共同教科書です。
第6節 イタリアにおけるファシズム
<最初のファシズム体制は、いかにしてヨーロッパに現れたか?>
新たなローマ帝国 1935年の黒シャツ隊の集会で、ローマ皇帝 Nerva (30-98)の像を前にしベニト・ムッソリーニ
新しい党の力の潜在的な台頭
1922年10月28日、武器を携えたおよそ3万人のかなりみすぼらしい集団が、彼らの首領であるベニト・ムッソリーニを革命によって権力の座につけようと、ローマに向けて行進した。これは1921年に結成された国家ファシスト国民党(PNF)* の、軍規と組織をもった民兵組織である黒シャツ隊のメンバーであった。PNFは自分たちのナショナリズムと軍国主義的綱領に社会主義的要求を組み入れた。いわば階級の垣根を外したようにである。この党は、一人の指導者によって体現された国家という新しい解釈にたって、国民の権利を守ると主張しながら、民主主義とたたかう。個人は、国民の利益を超えた公益の名のもとに、この指導者に従うことを受け入れなければならない。
戦争の勝利を横取りされ、社会騒乱に揺すぶられるイタリアは、ファシズムの拡張に都合の良い場を提供した。この運動に旧軍人が集まり、彼らはそこで国家の面目が救われるのを見る。ボルシェビキ革命を危惧する大地主や産業家には、労働者の党や労働組合に対する闘いの手段を提供した。それ故、1922年に国王のビクトール・エマニエル三世にムッソリーニを首相に任命する気にさせたのは、革命ではなく、保守が彼に与えた支持であった。
* Partito Nazionale fasciste この名は、19世紀の労働運動のfasci(連合)から来ている。ムッソリーニの活動家は、古代ローマの執政官が市民から託され、その地位の威厳を示す杖を束にしたfascesに彼を結びつけた。
独裁の強化
ムッソリーニは首相の地位を、独裁を補強するために利用した。反対派、とくに社会主義者にたいしては、自分の突撃隊squadre (分隊)*1 がおこなったテロ活動を奨励した。このsquadreはそれ以後、ムッソリーニの指導の下で国防義勇軍として再編された。1924年、ムッソリーニは選挙の方法についての変更を議会に押し付けた。相対的多数派であるだけで、議会の3分の2の議席を得るようにしたのである。ファシストは反対派を黙らせるために、選挙の不正を批判した社会主義者Giacomo Matteottiを暗殺した。そして政敵を徹底的に抑圧した。政治警察OVRA*2が1927年に創設された。1926年には、PNFが唯一党を宣言した。1928年以降は、選挙人は一つにまとめられた名簿*3 に記載されている候補者にしか投票できなくなった。首相の決定は、法律と同じ効力をもった。ムッソリーニはDuce(指導者)となり、形式的であれ君主制が維持されているにもかかわらず、これ以後何の制限もない独裁政治を断行していく。1929年にローマ教皇庁と結んだラテラノ条約*4は、カトリック教徒の間でムッソリーニ体制の人気を大いに高めた。
体制は、ファシストのプロパガンダとDuceへの敬愛を広めるため、マスメディアを最大限利用した。体制はまた個人の存在を、社会生活のあらゆる分野において支配することをめざしながら、その全体主義的な野望を明らかにしていった。こうしてイタリアは、民主主義の挫折を経験する、ヨーロッパで最初の国となった。
*1 その制服から、別名「黒シャツ隊」ともいう。軍隊の規律と組織をもつこの団体は、ムッソリーニの支配下に置かれる。ムッソリーニはこれを国防義勇軍に再編する。
*2 反ファッシズムの運動を監視し、弾圧する組織。1927年に創設。秘密警察の役割を果たす。
*3 全ての候補者が記載してあり、投票者は、まるごと受け入れるか、拒否するかしか選択はない。
*4 イタリアと教皇庁とのあいだで、1929年に締結された政教条約。これによって教皇は、1870年に失った教皇領の復活とイタリアへの統合を断念した(教皇の自治権はヴァチカンに限られる)。その見返りに、イタリアはヴァチカンにおける教皇の自治権を認め、カトリックをイタリアの国教とした。
帝国主義的な対外政策
ムッソリーニの対外政策は、イタリアの威信を取り戻し、地中海における新たなローマ帝国を建設することをめざすものであった。こうしてイタリア軍は1933年にエチオピアに侵略した。国際連盟がおこなった制裁、つづいてフランス、イギリスの抗議は、実効のないまま放置された。ムッソリーニは戦闘に毒ガスを使用し、エチオピアは1933年に降伏した。エチオピアはイタリアに併合され、イタリア国王は「エチオピア王」の称号を手にする。
同じ年のスペイン戦争の勃発は、地中海におけるイタリアの影響力を拡大する可能性を、ムッソリーニに提供するかに見えた。彼はナチスドイツと同盟を結び、フランコに対する軍事的援助をおこなった。この賭けは、ヨーロッパの民主主義に対するファシスト体制の優位を証明するものとなった。
■仏独共同歴史教科書 No.11 ムッソリーニによるファシズムの基本的原理
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*これはフランスのLycée 1(高校2年に相当)で使われる文学・社会経済コースの仏独共同教科書です。
ムッソリーニによるファシズムの基本的原理
ファシスト国家における個人
反個人主義のイデオロギーであるファシズムは、国家を守る。ファシズムは、個人が国家の中に溶け込むのに応じて、個人に好意的になる。国家は個人の歴史的存在の中に、普遍的な意識と人間の意志を体現するからである。ファシズムは、古典的な自由主義に反対する。古典的自由主義は、絶対主義に逆らおうとする欲求から生まれたものであり、国家が人民自らの意識と意志になって以後は、その歴史的な使命を終えたのである。自由主義は、孤立した個人のために国家を否定する。ファシズムは国家を、個人の、唯一真のリアリティであることを証明する。もし自由が現実の人間の権利であり、個人主義的自由主義が頭のなかにもっている抽象的な実体ではないのであれば、ファシズムは自由に好意的である。それは人が考えうる唯一の自由であり、国家の自由と国家の中の個人の自由である。なぜならば、ファシズムにとって、全ては国家の中で決定されるからである。人間的なもの、知的なものはいっさいそれ自身では存在しないし、国家の外で何らかの価値をもつものなど何もない。この意味では、ファシズムは全体主義である。そして全ての価値を一つにまとめ、凝縮するファシスト国家は、人びとの人生丸ごとに意味を与え、人生の開花へ、快適な人生へと導く。
ベニト・ムッソリーニ「ファシズムの精神。源泉」 Horst Wagenfuhr 1943
アディス・アベバ征服についてのムッソリーニの演説
士官、下士官諸君!アフリカ、イタリアにいるわが国軍の兵士諸君。革命の途上にある黒シャツの諸君。我々の祖国に住むイタリアの男性、そして女性の皆さん。私の話をお聞き願いたい!
これから私があなた方にお伝えしようとする決定、ファシズム大評議会の賛同を得たこの決定は、偉大な出来事の始まりを記すものであります。今日、ファシスト紀元14年の5月9日、エチオピアの運命が決まるのであります。
我々の輝く剣は、あらゆる難題を解決し、アフリカにおける勝利は、祖国の歴史にまるごと組み入れられるのです。レギオン(古代ローマ軍)の兵士たちが、死んだ者も生き残った者も、それを夢に見、それを望んだように。ついにイタリアは自分たちの帝国を持ったのです。この帝国は、意志とローマの束faisceau [ファッショ] による権力という不滅の槍を携えているのです。この14年間、イタリアの勇敢な若い世代の、力強くあふれんばかりのエネルギーがめざした目標は、まさにこのことでありました。平和の帝国。[・・・] エチオピアのすべての人民のための文明と人間性の帝国。これはローマの伝統の中にあり、勝利の後、人民を帝国固有の運命に結びつけたものであります。
ローマのPalazzo Venezia宮殿のバルコンでムッソリーニがおこなった演説 1936年5月9日
学習の足跡 Pistes de travail
1.ファシスト国家において、個人に割り振られる役割はどういうものか?ムッソリーニのまわりで組織された指導者への崇拝は、何に基づくのか? (「ムッソリーニによるファシズムの基本的原理」および写真「新たなローマ帝国主義」<前回エントリーの写真>を参照しながら)
2.権力についてのムッソリーニの考えを頭において、彼が拠り所にした歴史的典拠について説明せよ。
(「アディス・アベバ征服についてのムッソリーニの演説」および写真「新たなローマ帝国主義」を参照しながら)
(結論として)
3.ムッソリーニの浮上と彼の権力の強化について、もう一度描写せよ。
■仏独共同歴史教科書 No.12 スペイン戦争
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*これはフランスのLycée 1(高校2年に相当)で使われる文学・社会経済コースの仏独共同教科書です。
(資料)スペイン戦争
共和主義者の解釈した総師(フランコ) スペイン社会党と連携するスペイン労働総同盟UGTのために、Pedreroが作成したリトグラフ 1936年11月
1936年、スペインでは人民戦線Le frente Popularが権力に達した。しかしながら、この勝利は壊れやすいものであった。すなわち分裂した左翼(共産党、アナーキスト、ナショナリスト)が、教会と軍隊を拠り所とする保守的右翼に対立していた。各政党は、それぞれ自分の民兵を持っており、敵対が増大した。
7月、フランコ将軍の命令を受けた軍隊が、共和国にたいして反乱を起こした。国は内戦状態に陥り、国際社会に重大な影響を与えた。イギリスのフランスは、不介入を決定した。ソビエト連邦は、スペイン共和主義者を支援した。ドイツとイタリアは、1939年4月1日に勝利したフランコ主義者に軍事援助を与えた。
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年表
1931年4月14日 第二共和制の宣言。アルフォンス13世が国外亡命。
1936年2月16日 総選挙で人民戦線が勝利。
1936年7月18日 スペイン植民地モロッコで、サンジュルジョ、フランコ両将軍が軍事反乱をおこした。スペイン市民戦争の始まり。
1936年9月9日 スペイン不介入についてのロンドン会議。
1936年9月 コミンテルンの扇動。スペイン共和主義者支援の国際旅団の編成。
1936年10月1日 フランコに率いられたナショナリストの政府がブルゴスで誕生。
1937年4月26日 ドイツ空軍コンドル軍団によるゲルニカ空爆。
1939年1月26日 フランコ主義者によるバルセロナの奪取。
1939年3月28日 マドリッドにおける共和主義者の降伏。フランコ総統Caudilloの独裁始まる。
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フランコ総統Caudilloが求めた秩序への復帰
国民運動は欲望の体系に政治的支持者を対置し、無関心に運動員の厳格さを対置させる。自由主義諸党の政治的無責任さのあとに、有機的なひとつの全体として構成される我々の十字軍の統一が続く。中立で理想のない国家は、使命を持った全体的な国家に取って代わられるであろう。この国家は人民に方向づけを与え、行くべき道を示し、迷いも後退もなく人民を指導する。
蜂起記念日に際してフランコ国家元首がおこなった演説 日刊紙 Heraldo de Aragonに掲載 1938年7月19日
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民主主義の不干渉
フランス首相レオン・ブルムは社会党活動者会議において、不干渉を正当化した。
ひとたびスペインの地で軍備競争が起こったならば、今日の状況下において、ヨーロッパ全体にとってどのような結果をもたらすであろうか?[・・・] もし我々がこのような考えに達しても、驚かないでいただきたい。解決策でありますが、スペインを保証し、平和も保障することがおそらく可能であろうということは、国際協定の結論であります。この国際協定によってすべての国が、中立―この場合は、することは何もないという意味ではありません―を誓うのではなく、武器の供与に関する拒否を誓うこと、そして軍事物資のスペインへの輸出への介入を禁止することを誓うことであります。
Luna-parcにおける、レオンブルムの演説 1936年9月6日
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共和主義者のための国際的動員を呼びかけるポスター カタルニアの画家ミロJoin Miroによるステンシル(型) 雑誌「芸術手帖」Cahiers d'artに掲載。1937年
国際旅団の編成
我々があなた方の戦場に惹かれるのは、なによりもあなたたちの大義が私たちの大義でもあり、そしてそれは自由な人間の大義であるということを意識するからなのです。そしてそれは単なる理論ではなく、スペインの市民戦争を、ファシズムと反ファシズムの全面戦争に変えた、ドイツやイタリアのファシスト政府の介入に対して抗議の声を上げる意志なのです。
匿名記事の抜粋「武装した人民」(スペインにおける国際旅団の新聞)1936年12月
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反ファシズムの知識人の参加
イギリスの作家ジョージ・オーウェルは1936年に、スペインにおける極左組織のひとつであるPOUM(マルクス主義統一労働者党)の民兵組織に参加する。
イギリスから直接着いたものにとっては、バルセロナのはっとさせる光景は、予想をはるかに超えたものだった。私の人生にとって、労働者階級が優勢である街に出会ったのははじめてのことである。重要な建物のほとんどは、屋上に赤旗、あるいは赤旗とアナーキストの黒旗がたなびいていた。ハンマーと鎌、革命的諸党の標章が落書きされていない壁はない。ほとんど全ての教会で、壁と聖画像が燃やされていた。[・・・]
革命のなかにも、未来のなかにも信仰が存在していたのが、とつぜん平等と自由の時代に突入したような印象である。もはや資本主義の機械の歯車としてではなく、人間は人間らしく振舞おうとしているのだ。
George Orwell, 「カタロニア賛歌」Hommage a la Catalogne, 1938 パリ
ドイツ空軍によるゲルニカ空爆 撮影者不明 1937年5月1日
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学習の足跡 Pistes de travail
1.フランコの政治プランはどんなものであるか?共和主義者のアーティストは、それをどのように戯画化したか?
(「フランコ総統Caudilloが求めた秩序への復帰」とPedreroのポスターについて)
2.知識人がスペイン共和国のために決起したのは、どのような理由からか?ここにあげた資料のほかに、共和国側あるいはフランコ主義側に参加した著名な作家およびアーティストを探し、特定せよ。
(PedreroとJoan Miroのポスター、「国際旅団の編成」について)
3.スペイン戦争に対するヨーロッパ諸国の政府の立場はどのようなものであったか?
(「民主主義の不干渉」とドイツ空軍によるゲルニカ空爆の写真)
(結論として)
4.スペイン戦争はどの程度、第二次世界大戦の勃発へ導く決定的なステップとなったのか?
■仏独共同歴史教科書 N0.13 ナチスドイツ(1933年―1939年)
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第14章 ナチスドイツ(1933年―1939年)
「1933年1月30日」 1933年1月30日にヒトラーが首相に任命されたのを祝って、松明をかかげ行進する突撃隊(SAおよび Stahlhelm )をArthur Kampf (1864-1950) が1939年に画いた油絵。画家はナチスのプロパガンダの意図のもとに画いたが、[はからずも]「権力の奪取」を、[ナチス台頭を許した] 国民の贖罪の場面として画くことになった。
第1節 国家社会主義のイデオロギー
第2節 ナチス独裁の誕生(1933年―1934年)
第3節 ナチス権力とドイツ社会
第4節 ナチスドイツにおける暴力、テロそして抑圧
資料 人種法と人種差別
資料 ナチズム支配下の経済とドイツ社会
資料 第三帝国のプロパガンダと文化政策
歴史家の目 歴史研究から見たヒトラーの役割
アドルフ・ヒトラーのドイツ首相への指名(1933年1月30日)以後ナチスは、人間軽視の上に築いた独裁を、短期間でドイツに築いた。テロとプロパガンダの行使はあったが、ナチズムは少しも「上から」の押しつけられたものではなかった。逆にそれは、同意の上での独裁であり、社会によって広く支持されたものであった。ナチズムの人気は、「ヴェルサイユ体制」の解体をめざす対外政策の成功と、社会不安に目を向けず、向上の機会に恵まれたという意識の上に成り立つものであった。
ユダヤ人の権利を奪い、ユダヤ人や「敵」とみなされた住民の中の他の集団を迫害する、許しがたい蛮行を伴なった、1933年以降のナチス体制による政治は、ドイツ社会の大部分の容認と参加なしには不可能だったであろう。
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<どのような手段と方法で、ナチスは権力を奪取したのか?>
<ドイツ国民はどのようにして、独裁の樹立と維持に参加したのか?>
反体制運動を理由に乱暴に権利を剥奪 Oranienburg強制収容所の収容者の朝の体操風景(1933年頃)
■仏独共同歴史教科書 N0.14 国家社会主義のイデオロギー
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第1節 国家社会主義のイデオロギー
<国家社会主義の国家理論を規定するのは、ヒトラーのイデオロギーを構成する主要原理のどの部分か?>
ドイツ人のイメージ 教育的図版 1935年
ヒトラーのイデオロギーと国家の国家社会主義的原理
1933年1月30日以降の、ドイツにおける政治的および社会的激変の激しさは、ドイツの民主主義の衰弱の過程だけではなく、ナチスのイデオロギー的目的をも考慮に入れなければならない。
ナチスのイデオロギーが国民の支持を獲得したのは、19世紀以来のドイツにおいては多くの点でなじみの考え方を、ふたたび持ち出したからである。この知的な体系は、ヒトラーが信条表明の形をとって著述し、1925年から1926年の間に発行された「わが闘争」Mein Kampfの中に著されている。第三帝国のドイツでは、結婚式のときにこの本を「聖書」の代わりに手渡した。そして「20世紀の神話」の中においても、党の機関紙である「民族の監視者」Volkischer Beobachter の編集長であったアルフレート・ローゼンベルクが文化的モデルおよびナチスのドグマを描いている。
人種的思想、反ユダヤ主義そして生活圏
ヒトラー主義のイデオロギーの中核は、しっかりと結びついた二つの概念によって形成される。すなわち「人民」Volkと「人種」である。ヒトラーにとって人種の最も「純血な」形態は、「支配者の人種」、すなわちアーリア人Aryens*1 である。アーリア人の血と非アーリア人の混血はすべて、ヒトラーにとっては自然のルールの違反であり、社会の衰退の始まりである。過激な反ユダヤ人主義 *2 を実践するヒトラーは、「アーリア人種」にたいする脅威の責任をすべてユダヤ人に押し付けた。ヒトラーの人種政策の真髄は、ドイツ女性がもつ「生来の」重要な使命、母親の役目が「アーリア人」の繁殖に寄与するということである。
ヒトラーにとっては、国民と人種とのあいだの関係が、永遠の闘争のシンボルとして位置づけられる。すなわち人口の増加と資源の不足が、結果として急速に国民をかれらの「生活圏」Lebensaumの極限へと押し出していく。これは「血と地」*3のイデオロギーである。社会ダーウィニズム*4すなわち人種差別主義に着想を得た、この生活圏の理論と、過激な反ユダヤ主義との結合は、ナチズムと他のナショナリズムの形態とを明瞭に区別するものである。
「民族の共同体」とその「敵」
ヒトラーのイデオロギーは、最初からユダヤ人を攻撃した。ユダヤ人は、ヒトラーの目には、「国際共産主義」であると同時に「国際資本主義」であるというパラドックスとして現れた。ユダヤ人を悪魔と思わせるためにヒトラーは、何の関連もないが不安の種であるこの二つの現象を溶解させたのである。
1920年につくられた国家社会主義ドイツ労働者党NSDAPの最初の綱領は、反資本主義の特徴を示していた。しかしナチ党の左派は、急速にその勢力を失った。ナチスの政治的見解はなによりもまず、明確な反議会主義(「指導者原理」によって、選出された議会を徹底的に拒否することに現れた)と反自由主義(「基本的権利」を一貫して軽視することで明白となった)によって目立っていた。
民主主義的な立憲国家と、とりわけ共産主義者が擁護する階級闘争にたいして、ナチスのイデオロギーは、国民的な「民族の共同体」の理想を対置させた。この共同体は、その信念、規律、エネルギー、闘争心が際立った、一人の政治エリートによって指導される。「民族の共同体」Volksgemeinshaft の定義は、「人種的」あるいは政治的理由によって、共同体に適応しない者、あるいは脅威と受け取られる者の全てを徹底して排除することにある。
<用語>
*1 アーリア人Aryens ― インド・ヨーロッパ語族のインド・イランに分布した種族。ナチスは、「支配者の人種」としてのゲルマン人を示すために、これを利用した。
*4 社会ダーウィニズム ― チャールズ・ダーウィンによって打ち立てられた進化の生物学的理論の原理を、人間に適用した社会理論。この理論は、人間は生れつき不平等であり、最も強いものが社会競争を生き残ることができるという仮定の上に成り立っている。
<鍵となる概念>
*2 反ユダヤ人主義 ― 1880年頃、まずドイツで現れた観念。新しい形態のユダヤ人嫌いであり、その根拠に宗教的なものだけでなく民族主義的な要素が加わり、しだいに人種的な概念に基づくようになった。
*3 血と地 ―「神聖なる」国家は、純血(人種)と固有の土地とがひとつになった土台の上にしか存在しないとする、ナチスのプロパガンダ用の標語。
■仏独共同歴史教科書 N0.15 我が闘争からの抜粋
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*これはフランスのLycée 1(高校2年に相当)で使われる文学・社会経済コースの仏独共同教科書です。
世界の人種的イメージ(「我が闘争」からの抜粋)
ナチスの考え方によると、家庭を切り盛りし、子どもを育てるのは母親ということになっている。4人以上の子どもをもつと、「母親十字勲章」をもらえる。そのうちの一人、Liselotte Orgel-K醇whne。1940年
ここにその抜粋を記載する「わが闘争」Mein Kampf(1925-1926)の中で、ヒトラーは、1933年にドイツ国家の行動原理となるイデオロギー的原理を述べている。
A. 反対に世界の国家倫理的ビジョンは、原初的人種の要素のなかに人間性の意義を認める。主義としてこのビジョンは、国家を、ひとつの目的を達成する手段としてしか見ず、その目的は人間の人種的存在の保存であると考える。このビジョンは人種の平等を信じるどころか、人種の多様性、優等性あるいは劣等性を認める。この認識に立つと、この宇宙が支配する永遠の意志に従って、より良い、より強い部分の勝利を励まし、より悪い、より弱い部分の服従を要求せざるをえない。こうしてこのビジョンは、貴族的な自然の原理に敬意を払い、最も高く位置する個人から最後の一人までこの法が及ぶことを信じる。
B. 国家社会主義の運動は、[・・・] 我々の人民と彼らのエネルギーを結集させ、現在おかれている狭い領域から彼らが抜け出し、消滅するかあるいは他人の奴隷となる危険から永遠に自由になる道を歩むようすることである。国家社会主義の運動は、我が人民の規模と、割り当てられている土地の広さ、すなわち食料資源そして政治的拠点の規模との不均衡、我々が歩んできた歴史と、いま我々が置かれている絶望と無力さとの不均衡を解消するよう行動を起こさなければならない。[・・・] ドイツは世界の強国か否か。しかしドイツを世界の強国にするためには、現代のドイツに必要な影響力を与え、市民に生活を与える広大さが必要となる。我々国家社会主義者は、戦前我々が経験した対外政策の流れを、断固として一気に断ち切るものである。[・・・] 我々は戦前の植民地政策および通商政策に終止符を打ち、将来の土地政策に移行する。しかし我々が今日ヨーロッパにおいて、新しい土地について語るとき、最初に考えうるのはロシアか、ロシアに支配された周辺の諸国しかないということである。
C. ユダヤ人は今日、ドイツの全体的な破壊に熱狂する、最も大きな存在となっている。世界中でおこなわれているドイツに対する攻撃を読み解くたびに、その張本人はいつもユダヤ人である・・・ [・・・] ユダヤ教の目的は明らかである。ドイツのボルシェビキ化、すなわちドイツ人民の国家についての理解を消滅することである。その結果は、ドイツの労働者のユダヤの世界資本への隷属であり、それは前奏曲に過ぎない。すなわちこの世界征服の意志は、そこで終わらない。もし我が人民と我が国家が、この人民の血と金に飢えたユダヤ人の圧制者の犠牲になるとしたら、世界中がこの癌細胞の増殖の中で死滅するであろう。[・・・]
「ボルシェヴィキ主義とユダヤ主義、戯画化された敵」「ボルシェビキ主義の本当の姿」「反ボルシェビキ主義の展示会」のポスター。国家社会主義ドイツ労働者党の方針でドイツ全国に配布された。ウィーン、1939年。
学習の足跡 Pistes de travail
1.これまで学習したことを拠り所にして、国家社会主義のイデオロギーの要点をまとめよ。
2.国家社会主義のイデオロギーのなかで、「人種的な考え」はどのような役割を果たすか?
(「世界の人種的イメージ」のAについて)
3.「未来の土地政策」によって、ヒトラーはなにを欲するのか?
(「世界の人種的イメージ」のBについて)
4.資料「世界の人種的イメージ」のCと「ボルシェヴィキ主義とユダヤ主義、戯画化された敵」(ポスター)とを比較せよ。どのような共通点と矛盾点があるか判別せよ。
(結論として)
5.「我が闘争」を読んでナチスの犯罪を予見することは、どの程度可能であるか?
■仏独共同歴史教科書 No.16 ナチス独裁の誕生
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第2節 ナチス独裁の誕生
<ナチスの政権奪取は、どのような道筋をたどったか?>
「ポツダムの日」1933年3月21日の国会開会式のとき、ヒトラーは保守勢力とNSDAPの相互理解を称賛した。ポツダムの駐屯地にある教会の階段の上で、ヒンデンブルグ大統領に、うやうやしく手を差し伸べるヒトラー。
際限のない権力志向
1933年1月30日、ドイツ皇帝パウル・フォン・ヒンデンブルクは、アドルフ・ヒトラーを首相に任命した。ヒトラーを除くと、政府にはナチスは二人しかいなかった。ヘルマン・ゲーリング(無任所大臣、プロイセン州内相)とヴィルヘルム・フリック(内務大臣)である。他の大臣は、経済大臣・農業大臣のアルフレート・フーゲンベルク(ドイツ国家人民党DNVP*1党首)、労働大臣のフランツ・ゼルテ(鉄兜団*2党首)、そして副首相のフランツ・フォン・パーペンのような保守主義者であった。保守主義者のエリートたちは、閣内のナチスに取り入りながら、ヒトラーの大衆運動を自分たちの利益のためにうまく利用した。
19ヶ月後、彼らの戦略は破綻した。1934年8月2日、ヒンデンブルグが死亡した後、ヒトラーは「総統およびドイツ首相」の肩書きで、ドイツ大統領と首相を兼任した。そしてドイツ国軍に、今後ヒトラーが軍の最高司令官であることを宣誓させた。
見かけの合法性の段階
この「見かけの合法性の下での革命」の出発点は、ドイツ大統領にデクレ・ロワ*3(ワイマール憲法48条)によって自由に統治できる権利を与えたことであった。国会議事堂の火災―ナチスのプロパガンダは、共産党のクーデタの試みとして伝えた)の翌日から、「国会議事堂の火災についてのデクレ・ロワ」が出され(1933年2月28日)、憲法で保障された基本的権利を一時停止した。政治的反対勢力に対しては、抑圧的な措置(逮捕、新聞の発行禁止、家宅捜査)がとられた。こうして「全権委任法」が、共産党議員の逮捕の後の1933年3月23日、社会民主党議員を除く国会議員によって採決された。この法律によって、国会は立法権を政府に譲り、自らの権力を事実上放棄した。
「強制的同一化」の段階
この頃、ナチズムを国や社会に押し付ける「強制的同一化」(Gleichshaltung)が始まった。この同一化は、いくつかの領域(たとえば教会)において抵抗があったが、国民の大部分の合意の下に、体制によって進められた。1933年5月2日、「地方と国との平準化に関する暫定法」によって、地方議会における議席の配分方法が変更された。こうして地方議会の議席は、3月5日におこなわれた [ 国会議員の] 選挙結果に従って配分された。これはまた、ドイツの知事gouverneur du Reich*4の任命(4月7日)、すなわち中央集権化をもたらした。1933年4月1日に制定された「公務員団体再建法」は、政治的反対者およびユダヤ人の公務員を解雇することを可能とした。1933年5月2日、労働組合は解散し、「ドイツ労働戦線」Deutsche Arbeitsfrontに統合された。4月から7月にかけて、国家社会ドイツ労働者党NSDAPを除く全政党が、強大な圧力によって、活動禁止か自発的解散に追い込まれた。
しかしナチ党も、内部からの危機に脅かされた。民兵組織である「革命的」突撃隊SAが、ヒトラーのおだてに乗って国軍Reichswehr化に熱心になったのである。いわゆる反乱を計画したという理由で、ヒトラーは1934年6月30日に親衛隊と国軍の助けを借りて、SAの幹部たちとエルンスト・レーム、そして保守主義者の反対派を暗殺させた。「長いナイフの夜」である。この全体主義のプロセスは、1939年7月27日警察権力と情報機関のすべてが、親衛隊全国指導者ハインリッヒ・ヒムラーの指揮の下に、国家保安本部(RSHA)に統合されるときまで続く。
*1 DNVP-1918年に結成され、ナショナリズム、君主制、保守主義、キリスト教の立場に立つ政党。おもに農民、大地主によって支持された。
*2 鉄兜団Stahlem(前線兵士ドイツ国家同盟)― ドイツの退役軍人の主な組織で、軍が統制し、約100万人を集めた。
*3 デクレ・ロワ― 法に代わる政令で、議会での議決を経ない。48条によれば、「差し迫った危険」ある場合、ドイツ国大統領はデクレ・ロワを交付することができる。しかし議会の承認を得なければならない。もし議会が拒否すれば、大統領は議会を解散することができ、次の選挙までの60日間は制限なしにデクレ・ロワを交付できる。
*4 gouverneur du Reich― ドイツ首相ヒトラーの代理として、地方において、ドイツの連邦主義を解消して、中央集権化の実行を押し付ける役割をうけもつ。
*5 SA― 突撃隊、NSDAPの防衛と宣伝をおこなう戦闘集団。
*6 SS― 親衛隊、NSDAPの軍隊組織。最初の時期はSAの下に置かれ、「長いナイフの夜」以降に力を蓄え、体制の主要な勢力となる。
■仏独共同歴史教科書 No.17 全権委任法
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<資料>
体制への敵対者に対する迫害 右から左へ ラジオ・ジャーナリストのKurt Magnus、Hans Flesch、Heinrich Glesecke、 Alfred Braun、社会民主主義者の Friedrich Ebert Jr とErnst Heilmann。オラニエンブルク強制収容所 1933年。
「人民とドイツの困窮を解消する法律」すなわち「全権委任法」(1933年3月23日)
1.ドイツの法律は、ドイツ憲法に規定されている手続きに加えて、ドイツ政府によっても採用されうる。[・・・]
2.ドイツ政府によって採用された法律は、それがドイツ議会およびオーストリア議会の制度に関わらない点については、その限りにおいてドイツ憲法から離れる。ドイツ大統領の権利は、これまでと変わらない。[・・・]
3. 政府によって採用されたドイツの法律は、ドイツの首相によって用意され、官報で広報される。そうではない記載がある場合を除いて、この法は広報の翌日から発効する。[・・・]
5.この法律は、広報された日から発効する。この法律は1937年4月1日に無効になる。また、もし現在のドイツ政府が他に取って代わられた場合には、この法律は破棄される。
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社会民主主義者の証言
社会民主党SPDの議員団長であるOtto Welsが、全権委任法に関しておこなった国会での演説の抜粋
社会民主党に対しておこなわれた、つい最近の迫害のあとで、ここに提出された権力の委任に関する法律について、我々に賛成票を投じることを求めそして期待することは、何人といえどもできないであろう。3月5日の選挙は与党に多数派をもたらし、憲法の条文と精神を厳密に厳守する可能性を与えた。もしこの可能性が現実のものとなるならば、それは義務にもなる。批判は有益であり、必要である。ドイツ議会が存在して以来、人民に選出された代議士による公務にたいする監視がこれほど不活発になったことはかって一度もなかった。権力の委任に関するこの新たな法律は、この現象をさらに強めるものである。このような権力を政府に与えることは、報道が活動の自由を断念しているだけに、より重大な結果をもたらすであろう。[・・・] 我々社会民主主義者は、単なる法的な措置によって政治的現実性を切り離すことはできないことを知っている。我々は、諸君の一時的支配を構成する政治的事実を記憶にとどめる。しかし人民が権利を有するこという自覚は、政治的権利でもある。我々はそこに訴えることをやめない。[・・・] 我々社会民主主義者は、この歴史的な瞬間に、ヒューマニティと正義の原理、自由と社会主義の原理を主張する。いかなる信任の法律も、普遍で不滅の思想を消し去る権力を諸君に与えはしない。[・・・] 社会主義者に関する法律によって、ドイツ社会民主主義者を絶滅することはできなかった。我々は、迫害された人びとと、抑圧に苦しむ人びとを賛美する。我々は、ドイツ国内の我々の友人たちに敬意を表する。彼らの忍耐と誠実さは、称賛に値する。彼らの信念を貫く勇気、無傷な信頼は、より明るい未来を保障するものである。
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支持のデモンストレーションとしての国民投票 1933年11月12日、名簿登録された選挙人の90%以上が、ヒトラーが宣言した国際連盟からの脱退およびに同意した。現代の独裁では、現実の称賛と人心操作の違いを見極めることは難しい。「賛成」のピン止めメダル 1933年。
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Pistes de travail 学習の足跡
1.1933年2月27日の国会議事堂火災の背景とそれがもたらした結果について学習せよ。この事件はどの程度、ナチスのプロパガンダに役立ったか?
2.「全権委任法」がワイマール憲法のおかれた状況にどのような影響をもたらしたか説明せよ。(条文の抜粋と第4節ワイマール共和政および第5節ドイツ民主主義の危機を参照)
3.Otto Welsが演説の中で触れた事件とはどんなものか?そして彼はなにを予見していたのか?
(結論として)
4.ナチスが権力を奪取することができた措置をリストアップせよ。また政治的敵対者に対してナチスがとった行為の効果について説明せよ。
■仏独共同歴史教科書 No.18 ナチス権力とドイツ社会
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*これはフランスのLycée 1(高校2年に相当)で使われる文学・社会経済コースの仏独共同教科書です。
第3節 ナチスの権力とドイツ社会
<ナチスの権力は、ドイツ社会においていかに機能したか?そしていかに組織するに至ったか?>
「国家の青年」に向けて行進 「しらけさせる連中は追い出そう! 若者はヒトラー・ユーゲントに団結しよう!」ポスター 1935年。
ナチスの権力-複雑な組織
ドイツを再編するために、ナチスは絶対権力のイデオロギーと軍隊的ヒエラルキーの原理に従って、国家と全体主義社会を打ち建てた。「総統の意志」は常に至上命令である。しかしながら、「総統の意志」を口にすることで、「下からのイニシア」も可能であった。個人は「総統の意志の先を行く」と言うことによって自分の行動を正当化できた。こうして第三帝国は、「指導者の原理」Fuhrerprinzipに反して、複数支配polycratiques*1による決定構造が単一支配monocratiques*2の構造と並存している。
権限と権力争いが重なった一例が経済政策である。1936年に空相であるヘルマン・ゲーリングが、自給自足経済体制と急速な再軍備を目的とする4ヵ年計画実施の任務を与えられた。彼は、再軍備と自給自足経済体制が世界経済への統合を妨げると考える、経済相のヒャルマー・シャハトと対立した。最終的にゲーリングは自分の考えをシャハトに押し付け、シャハトは1937年に辞任した。
社会への浸透
ドイツ社会を、国家社会主義者による、力づくの強権政治にひたすら受身であったと描き出すとしたら、それは全ての事実を見ていないことになる。もし体制が、ドイツ労働戦線(Deutsche Arbeutsfront, DAF)、「ヒトラー・ユルゲント」*3 そしてドイツ女子同盟BDM*4 のように、党への大衆の組織化という間接的な方法によって、社会への浸透に成功したとすれば、それは多くの人びとが協同に積極的に参加する心づもりができているということであり、時々それは熱狂をともなった。高度な資格をもった「新しいエリートたち」(なかでも法律家、医者、科学者)は最も重要な役割を受け持ち、輝かしい将来を築くために体制に参加した。
ナチス最大の組織は、断然にドイツ労働戦線(DAF)である。労働組合が解散させられた後、国家社会主義者によって1944年5月10日に創設されたこの組織は、「頭脳労働、肉体労働の全てのドイツ労働者」(1934年にヒトラーが用いた言葉)を結集しなければならなかった。その下部組織である歓喜力行団(Kraft drch Freude、KDF)は、低価格で余暇や休暇を楽しむ企画(旅行、ダンスパーティなど)を提供することで、ドイツ人の中にナチス体制の人気を高めることに、大いに貢献した。
体制は、さらに社会的影響力を持つ教会を統制下に置こうとした。そのために、全国のプロテスタント教会の中で、キリスト教徒と国家社会主義との統合を打ちたて、中央集権化したひとつのドイツ教会を設立しようとする勢力である、「ドイツキリスト者」を支持した。しかしすべてのプロテスタント教会を服従させることはできなかった。なぜならば、「告白教会」(1934年結成)の創立とともに、レジスタンスの潮流が組織されたからである。
1933年7月20日、体制はヴァチカンと「ドイツ政教条約」を結び、とりわけカトリック教会に宗教学校の創設と維持、公立学校における宗教の授業を保障した。しかしその代償に聖職者の完全な非政治化を求めた。こうして総統は、カトリック教会との争いを避けることができた。そのうえこの第三帝国による最初の相互協定は、総統に国際的な威信をもたらす。
*1 polycratiques―あまり明瞭ではない方法で権限が割り当てられ、機構間に競合がある体制。この見方に立てば、ナチスの独裁は、「総統の意志」に準拠するものに主導権を与えられる。
*2 monocratiques―厳密なヒエラルキーに従って構成され、ひとりの指導者によって上から指導する体制。この見方に立てば、ナチスの独裁は「総統の意志」の上に築かれる。
*3 ヒトラー・ユーゲントHitlerjugend, HJ―国家社会主義ドイツ労働者党の青年組織。1926年に設立され、国家社会主義の精神による教育、養成を目的とした。1936年には「国家の青年」が宣言された。[「ヒトラー・ユーゲント法」により、国の公式な団体となり、加入が義務付けられた。]
*4 ドイツ少女同盟BDM―「ヒトラー・ユーゲント」の下部組織。1930年に設立され、国家社会主義を信奉する少女の団体。1932年以降、ナチ党が認める唯一の少女団体となる。
■仏独共同歴史教科書 No.19 第3節 ナチスの権力とドイツ社会(資料編)
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第3節 ナチスの権力とドイツ社会
<資料>
ヒエラルキーよりむしろ自発的なカオスの方がましなのだろうか?
ジョセフ・ゲッべルスは自分の新聞に、フリッツ・ザウケルのナチス奴隷労働計画全権*就任について、1943年に5月16日に次のようにコメントした。
総統の新たな命令によって、ザウケルが、労働省の各所管についての決定権を手にした。大臣を排除せずに省を骨抜きにしょうとしているのだ。これは極めて危険な手法であり、いつかは権力にとって有害となる。我々の国家は、権限が不透明な方法で分担されている。指導部における、あるいは省庁間の争いの大部分はそこから起きている。[・・・] 我々がここに認識する状況は、他の多くの部署にも存在する。そこから、ドイツの国内政治のただ中において、指導の全体的な欠如が生じるのである。
E.Frohlich (ed), Die Tagebucher von Joseph Goebbels, 第2部7巻, ミュンヘン、1993年
* 奴隷労働計画全権 この任にあたりザウケルは、ドイツにおいて強制労働奉仕STOを課された500万人を超える外国人を強制収容した。
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「歓喜力行団」―称賛と批判
1949年、社会民主党の元政治家であるAuguste Winningは、1935年にドイツ労働者と交わした対談を振り返った。
ある朝、二人のうちの一人が言った。「[・・・] 人はナチスのことを随分悪く言うが、俺は、そう悪く言う気になれない。俺たちは仕事にありつくことができたし、俺たちの面倒を見てくれる。それにほら、5月は12日間も、ライン川の上で過ごしたのさ。ケルンからずっと、船旅だったよ。ローレライ、ビンゲン、モイゼトゥルム。まあ、あなたは全てご存知だろうけれど。でもあなたに質問したいのだが、それまでに誰がこんなにしてくれたかい?我々はいつも上等なホテルを借りることができた。昔、こんなことが想像できたかね?」男は若い仲間のほうに目をやって、こう言った。「本当のことは言うべきだ。我々は変化を楽しませてもらっただけなのさ」
[もうひとりの労働者が、彼に言った。]
「[・・・] 恥だね。いま労働者に向けて話されることの全部、そして労働者の、その話にたいする反応の仕方も。いまどきの労働者は、誇りがどういうものかわかっちゃいない。あんたたちの時代も、そうだったのかい?おれは労働者がまだ誇りをもっていた頃の話をしようとしているのさ。今は、ライン川下りのために、誇りを捨て去る時代になったわけだ。」
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そして彼らは生涯を通じて、もはや自由ではないのか?
ヒトラーがヒトラー・ユーゲントを前にして、1938年におこなった演説。
ここにいる若者たちは、ドイツ語を話し、ドイツ風に行動することだけを学んできた。そしてこの子どもたちが10歳になって我々の組織に入るとき、そこで初めて新鮮な空気に触れ、4年後には少年団jungvolkからヒトラー・ユーゲントに変わるのだ。そこで我々はもう4年間、彼らの世話をする。そのあと我々は、とりわけ学校の古い考えの教育者に彼らを任せるようなことはしない。そうではなく、我々の党、労働戦線、突撃隊SA、親衛隊SS、国家社会主義自動車軍団NSKKなどに組み入れるのである。だが、そこに1年半あるいは2年いたとしても、彼らは完全な国家社会主義者にはなってはいないのである。彼らは6ヶ月か7ヶ月の間労働奉仕をすることによって、さらに洗練される。これらは全て、ドイツのシンボルであるドイツの鋤を使うことによってなされる。6ヶ月あるいは7ヶ月経って、それでもまだひとつの階級あるいは秩序に属する古い意識の何かが残っているとすれば、それは2年間の俸給が保証されるドイツ国防軍Wehrmachatである。2、3年後に復帰するとき、古い意識が少しでも戻らないようにするために、我々はすぐに彼らを突撃隊SA、あるいは親衛隊にSSに再び迎え入る。そして彼らは、生涯を通じてもはや自由な身ではなくなるのだ。
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Pistes de travail 学習の足跡
1.このポスターは、どのようなメッセージを伝えているか?それはどのような手段で、どのような効果をもつか?
(「国家の少年」にむけて行進のポスターについて―前回掲載)
2.複数支配polycratiqueの権力の機能と限界について説明せよ。
(政治相関図―不掲載―について、および「ヒエラルキーよりむしろ自発的なカオスの方がましなのだろうか?」について)
3.歓喜力行団KDFは、ドイツ人の見解にどのような影響を与えたか?
(「『歓喜力行団』―称賛と批判」について)
4.国民はナチス国家の組織化によって、どのように責任をもたされたか?
(「そして彼らは生涯を通じて、もはや自由ではないのか?」について)
■仏独共同歴史教科書 No.20 ナチスドイツにおける暴力、テロそして弾圧(1933年-1939年)
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*これはフランスのLycée 1(高校2年に相当)で使われる文学・社会経済コースの仏独共同教科書です。
第4節 ナチスドイツにおける暴力、テロそして弾圧(1933年-1939年)
<国家はいかにして、政治的反対者の根絶を組織したか?>
テロ機関の責任者 ハインリッヒ・ヒムラー Heinrich Himmler(1900-1945) 親衛隊SSの全国指導者(1929年から)および全ドイツ警察長官(1936年から)。1933年から始まった強制収容所の建設、またテロ機構の設置と国家保安本部SSの監視体制に決定的な役割を果たした。
「危険分子」の迫害
ナチスは「人民に有害な者」として、特定のグループを他と区別した。戦争が始まる前においても、彼らを権利剥奪の状態に置き、殺害まで含めた迫害をおこなった。迫害は、政治的、民族的、宗教的あるいは社会的な理由でおこなわれる。犠牲者はとくにユダヤ人であり、エホバの証人の信者であり、ジプシーのSintiとRoms*1 であり、同性愛者であり、「労働拒否者」であり、「社会生活非適応者」であり、アルコール中毒者であった。
ユダヤ人に対しておこなわれた行為の偽-法律的pseudo-juridiqueな基礎となるのは、1935年9月15日に制定された「ニュールンベルグ法」である。この法律は、ドイツ人の「民族共同体」からのユダヤ人住人の排除を打ち固めた。1933年7月14日の「遺伝病子孫予防法」(優生断種法)は、「ドイツ民族共同体の純血性を危機に陥れる可能性を持つ」心身障害者に対する予防措置(とりわけ断種)を予見させる。この法律は、安楽死*2 の偽-法律的立場を表明している。
迫害の当事者、すなわち国家と社会
社会を監視するために、ナチスの体制は密告とスパイ活動を配置した。密告者は常に、情報局(Sicherheitdienst、SD)に情報を提供した。この情報局は1934年から、国民の中に存在する「体制に合致しない」活動についての情報を使って、国内の情報活動とスパイ対策の全体に責任を持った。社会の自主的な監視は、国家が介入することなしに機能した。すなわち目立とうとする意思、仕返しの気持ち、あるいは単に「民族共同体の構成員であることからくる、ちょっとした権限」(G.Dieward-Kerkman )が、多くの住民が密告者になる事態を引き起した。
中央集権化した警察機構とナチスの体制は、SSとゲシュタポGestapo*3 を別にして、抑圧と迫害の手段として国家に役立った。好ましからざる敵を排除するためにナチスがとった手段は、不当に自由を剥奪(「保護検束」Schutzhaft )し、物理的排除にいたる身体的および精神的虐待を職務としておこなうことである。
1933年春から体制の政治的反対者は、ドイツのあちこちにつくられた強制収容所*4に収容され、親衛隊SSによって監視される。その後各地のゲシュタポ司令部も留置場になった。これら収容所の中では、被収容者は権利をまったく認められず、軍隊的な訓練を強制され、拘束状態に置かれ、肉体的および精神的暴力を加えられ、ついには命を落とすこともあった。
権利と正義の役割
突撃隊SAによる制御不能の暴力の行使に加え、第三帝国のもつ特徴のひとつが、イデオロギー反対者に対する権利と正義の自由裁量的な適用である。多くの裁判官が、自ら他の裁判官に調子を合わせるように、ナチズムを引き写したような判決を出した。1936年1月14日、「ドイツ法律アカデミー議長」であるHans Frankは最終的に、ナチスのイデオロギーと総統の言葉はこれから全ての法的文言の解釈の基礎となり、それ故裁判官の指導原理となるであろうと語った。
「ドイツの新しい権利」の誕生によって、好ましからざると考えられるグループは、法律および社会から排除されることになる。1933年から開設された「特別法廷」と、1934年に設置された「人民法廷」は、この正義の自由裁量をあらわす戦慄のシンボルである。
*1 SintiとRoms―ヨーロッパに定住する、インドに起源を持つ少数人種を指す言葉。
*2 安楽死―この文脈においては、1939年からナチス体制が組織的に、障害者を死に至らしめた行為を指す。ドイツ民族の観念的な純血性を守る人種的な要請の名の下におこなわれた。
*3 ゲシュタポ―Geheime Staatspolizeiの略語。国家社会主義の秘密警察。
*4 強制収容所―被収容者が非人間的な条件の中で労働を強制され、過酷な待遇の中で、多数が命を落とした収容所。おもにドイツ国内(ダッハウ、ブーヘンバルトなど)、そして大帝国に併合された地方(アルザス地方のシュトルートホーフ、ズデーデン地方のテレージエンシュタット)につくられた。ヨーロッパのユダヤ人を死に至らしめる目的で、第二次大戦中につくられた絶滅収容所とは区別しなければならない。
■仏独共同歴史教科書 No.21 ナチスドイツにおける暴力、テロそして弾圧証言集
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*これはフランスのLycée 1(高校2年に相当)で使われる文学・社会経済コースの仏独共同教科書です。
第4節 ナチスドイツにおける暴力、テロそして弾圧(1933年-1939年) 証言集
「過日、自由を広めた廉により」
1933年3月、警察によって逮捕されたデュッセルドルフの労働者Heinrich Kipenheuerの写真。1933年春ごろ、暴力行為は日常茶飯事であった。暗殺者たちは殺人の動機を、次のように記している。「過日、自由を広めた廉により」。ドイツ共産党の非合法新聞より。
組織された密告
1937年7月1日に逮捕され、ザクセンハウゼン強制収容所に収監されたマルチン・ニーメラー牧師がおこなった礼拝式についての、密告者の報告の抜粋。この礼拝式は1937年1月30日に、ベルリン市ダーレム地区のAnnenkircheでおこなわれた。
ニーメラー牧師は説教の初めに、信じられないほどの無礼さで、この4年間について触れました。彼は信者の前で、本当の理由を言わないで、あらゆる種類の出来事を列挙しました。彼が列挙した出来事は、事情を知らないで訪れた人に大きな動揺を与えたと思います。
国の再生を記念する日* に、一人ひとりのドイツ人が満ち足りた気持ちで、誇りを感じながら総統の演説を聞いているときに、このN牧師が腐敗と恥辱の毒をばら撒いたことは恥ずべきことです。ニーメラーは、要約するとまず次のようなことを言いました。「今日、1月30日という日に、この4年間を振り返ってみると、喜びに満ちた年月ではなく悲しみと共にあった年月であったということに、私たちは気付くでしょう。この4年間に、なんの罪もない何千人もの人たちが、警察によって逮捕されることはなかったでしょうか?そしてそのうちの何人かは、強制収容所に勾留されることはなかったでしょうか?これが偉業だといえるでしょうか?」
* 国の再生を記念する日―ナチスが政権奪取した1933年1月30日を指す。
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「水晶の夜」にたいする反応
Ulrich von Hassel*1 は、ナチズムに対する保守主義者のレジスタンスの中心人物である。ヒトラーに対するクーデタ計画に参加する。1938年11月25日、彼は自分の新聞に次のように書いている。
私は、ラート*2 の殺人に続く卑劣なユダヤ人迫害に、沈痛な思いを抱きながらこの記事を書いている。世界大戦以来、今回ほど世界のなかで信頼を失ったことはかってなかった。しかし私が本当に心配するのは、外国で生じる結果ではない。[・・・] 私の頭を覆う本当の杞憂は、国内の私たちの生活に関わることである。ひとつの体制が、完全で確実な方法で、こうしたことを行いうるということである。ゲッベルスは、暴力が国民の中で渦巻いている本能的な怒りの爆発の結果であり、それは数時間後にはおさまると言うが、それが確かでないのと同じくらい少ない信頼を、ごくまれに彼が見いだすのも確かである。(国内には、ナチスの考えに導かれるままになった人びとがいるにもかかわらず)[・・・] 実際は、それは行政によって組織されたのであり、同じ時刻にドイツ各地で引き起されたユダヤ人大虐殺のことであることは疑う余地がない。
Ulrich von Hassel, Vom anderen Deutschland. Aus den nachgelassenen Tagebuchen
1938-1944, Zurich, Atlantis Verlag
*1 Ulrich von Hassel(1881-1944)ドイツの外交官。1944年7月20日のヒトラー暗殺計画を立案・組織した密議に参加。1944年9月8日、Plotzensee監獄にて獄死。
*2 Ernst vom Rath ドイツを国外通報になったユダヤ人青年に、パリで暗殺された外交官。
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テロへの「順応」
エッセイストであり歴史家でもあるSebstian Haffnerは、司法修習生であった1933年3月末ベルリンの最高裁判所の図書室で、突撃隊SAがユダヤ人の法学者を追い出しているのを目撃した。
ドアが激しく開けられ、茶色の制服を着た数人が、なだれ込むように入ってきた。そしてその中の明らかに責任者と思われる一人が、直立不動の姿勢で、部屋中に響き渡る声で叫んだ。「アーリア人でない者は、ただちにここから出て行かねばならない!」[・・・] 私は心臓が激しく鼓動するのを感じた。どうしたら尊厳を守れるというのか?動揺してはいけない!混乱してはいけない!私は偶然にも無意識のうちに、ひとつの言葉を見つけた。[・・・] 彼らがそこにいないかのように振舞うこと!
茶色の制服のひとりが、私の前に立った。
―君はアーリア人かね?
私は間をおかずに答えた。
―そうだ。
私の鼻を食い入るように見た後、制服は私から離れた。私は血が頬まで昇ってくるのを感じた。次の瞬間、恥辱と敗北感が襲ってきた。私は「そうだ」と答えた。それはよい。私はアーリア人なのだから。私は嘘をついたわけではない。ただ私はもっと大切な何かを相手に渡してしまったのだ。質問した男に、私がアーリア人であると馬鹿正直に答え、そのことに何の意味も考えなかったことは、なんという恥辱であろうか。安らぎを得るために、その権利を買ったと同じことだ。なんという恥しらずなことをやってしまったのだ!私は謀られたのだ。私は最初の試練に挫折した。私は深く傷ついた。
Sebastian Haffner, Histoire d’un Allemand : souvenirs 1914-1933
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Pistes de travail 学習の足跡
1.国民のどのグループが、ナチスがおこなった迫害の対象になったか?ナチスはどのような手段に訴えたか?
(写真「過日、自由を広めた廉により」、「テロへの『順応』」、「『水晶の夜』に対する反応」について)
2.Sebastian Haffnerが、1933年に体験したことについて語った感情について説明せよ。この状況の下で、従順でない態度をとることは可能であったか、考えよ。
(「テロへの『順応』」について)
3.ニーメラーがおこなった批判について、その特徴を示せ。
(「組織された密告」について)
4.1939年以前のドイツにおけるレジスタンスの形態について調べよ?Ulrich von Hasselについて、あなたはどう考えるか?
(「『水晶の夜』に対する反応」について)
■仏独共同歴史教科書 N0.22 人種法そして人種差別
http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-259.html
*これはフランスのLycée 1(高校2年に相当)で使われる文学・社会経済コースの仏独共同教科書です。
<資料>
ユダヤ人商店のボイコット
「ドイツ人よ、ユダヤ人の店で買わないようにしよう」 1933年4月1日ハンブルグ
人種法そして人種差別
1930年代においては、権利の剥奪や迫害が日常化し、激しさを増したにもかかわらず、ナチスの人種政策は明確なヴィジョンを欠き、また内部において一様ではなかった。ドイツのユダヤ人虐殺を目的とする計画は、このときにはまだ存在しなかった。
過激な反ユダヤ主義の新聞Der Sturmer [ 突撃者 ]のようなプロパガンダの手段を使って、社会の中に潜伏している、ユダヤ人に対する偏見による敵意を煽った。また反ユダヤ主義の法律も、権力によって進められる「アーリア人化」([ユダヤ人に対する] 強制販売、接収)によって利益を得る、多くのドイツ国民の賞賛によって迎えられた。しかしこうした国民でさえ、1938年の「水晶の夜」のような、体制による暴力的な謀略を受け入れる部分は少なかった。
突撃隊SAによる、「人種的犯罪」の告発。
「私はこの辺の一番大きな雌豚で、ユダヤ人としか関係を持ちません」、「わたしはユダヤ人の若者で、私の寝室にはドイツ人の娘しか入れたことがありません」。 1933年7月 クックスハーフェン(ドイツ北部)
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人種的迫害の段階
1933年4月1日―「ユダヤ人に対するボイコット」
2月末に突撃隊SAが犯した反ユダヤ人の暴虐に対する外国の反応に対し、ナチス体制はボイコット運動を組織することで報復した。
1933年4月7日―「公務員団体再建法」
「アーリア人についての一節」という偏った思考によって、公共機関の反ユダヤ的「浄化」をめざすこの法律は、非アーリア人の公務員はすべて退職しなければならないと規定した。
1935年9月15日―「ニュールンベルグ法」
「ドイツ市民法」によって、ユダヤ人はドイツ市民権を剥奪された。「ドイツ人の血と名誉を保護する為の法律」(ニュールンベルク法)というバイアスによって、アーリア人種の生物学的純血性の保護を主張した。この法律は、ユダヤ人とドイツ人の性的関係を禁じた。
1938年11月9日~10日―「水晶の夜」
ユダヤ人虐殺は、突撃隊SAおよび親衛隊SSによって実行された。ドイツ全土でシナゴーグ(礼拝堂)が焼かれ、店と住居が破壊され、ユダヤ人市民が虐待された。テロについての「公式の」数字によると、死者91人、シナゴーグおよび公共の住宅の破壊267件、そして7,500の店舗が荒らされた。3万人を超えるユダヤ人男性が、強制収容所に送られた。
■仏独共同歴史教科書 No.23 (資料)ユダヤ人の日常生活
http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-260.html
*これはフランスのLycée 1(高校2年に相当)で使われる文学・社会経済コースの仏独共同教科書です。
(資料)ユダヤ人の日常生活
1938年11月10日『水晶の夜』の被害を前にして
ユダヤ人の日常生活
文学研究者であり作家でもあるVictor Klempererは、ナチズムの時代に、ユダヤ人知識人であることによって、自分に対し少しずつ強まっていく排除について、彼の新聞に克明に記録した。
[ドレスデン] [1933年] 4月3日、月曜夜
土曜日、ショーウインドウに、赤い小さなポスターが貼られた。「ご存知のように、当店はドイツ人でキリスト教徒の店です」。それから商店が閉まり、制服を着た突撃隊SAが見張りに立ち、「ユダヤ人の店で買うやつは、外国のボイコットを助け、ドイツ経済を破壊する」と書いてある三角のプラカードを掲げていた。人々はそれを見ようと、プラーガー通りに押しかけた。ボイコットである。「今のところは土曜のみ-それから水曜までは中断」。銀行は除外であるが、弁護士、医者は該当する。日が変わろうとする時間に、このボイコットのキャンペーンは終わった。見たところでは、目的は達せられたといってよいだろう。「寛大な」ドイツ人。しかし実際は、不条理な展開である。一方に外国および国内に対する反発があり、他方に国家社会主義の圧力がある。私には、ドイツ人はこのまま真っすぐに破局に向かうように思えた。
[1933年] 4月10日、月曜日
「万歳、俺は生きてるぞ!」と思わず叫びたい。それほど身の毛がよだつような気分である。公務員についての新しい法律は、私が旧軍人であるということで、私に今のポストを保持することを許した。少なくとも取りあえずのところ、そして一時的にである。しかし私の周りは、この魔女狩りによる惨めさ、恐怖そして強い不安感に満ちていた。ベルリンの医者である、Dember家のいとこは、聴取の最中に逮捕されHumboldt病院に移された。そこで激しい暴行を受けた後、ワイシャツ姿で55歳の生涯を閉じた。Dember婦人はドアを締めた後、ささやくような声で始終を話してくれた。彼女はそれが「一から十まででっち上げによる残虐行為」であることを、会う人ごとに語った。もちろん厳密に、事実を持って示さなければならないということはない。
[1935年] 9月17日、火曜日
昨日私が書いている間に、ドイツ議会はニュールンベルグにおいて、ドイツ人の血とドイツ人の誇りに関する法律を承認していた。この法律は、ユダヤ人と「ドイツ人」との結婚および不倫関係に対して懲役刑を科し、45歳未満の「ドイツ人の」女中を雇うことを禁じ、「ユダヤの旗」の掲揚を課し、市民権を奪うものである。なんという正当化、なんという脅迫か!不快感で、病気になりそうだ。
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1938年11月9日~10日におきた「水晶の夜」で、ユダヤ人に対してとられた措置
ラインハルト・ハイドリッヒ(ゲシュタポ、親衛隊保安部SD、保安警察Sipoの長官)がミュンヘンから国家保安本部のすべての機関に送った、「水晶の夜」に関するメッセージの抜粋。
1.[・・・]
A)もっぱらドイツ人の生命と財産が危険にさらさないために講ずる処置に限られる。(たとえば隣家への延焼の危険がない、シナゴーグにとどまる火災などは[放置])
b)ユダヤ人の商店や住居だけが、破壊され、略奪されうる。警官には、この指示が実行されているか監視し、略奪者にたいする職務質問をおこなうことが要請される。
c)商店街においては、とりわけ非ユダヤ人の商店が被害にあわないよう、完全に保護されることに留意すること。
d)在留外国人に対しては、迷惑をかけないようにすること―たとえユダヤ人であっても。
2.1)において示した制限範囲が守られているという条件で、起こりうるデモ行為に対しては、警察はそれを妨げないようにしなければならない。警察は、指示が尊重されているかどうかを監視するだけにしなければならない。
5)その夜のための情勢が許すかぎりにおいて、この作戦に参加した公務員は、すべての地区で宿泊可能な拘留の場所に見合うだけのユダヤ人―とりわけ裕福なユダヤ人―を逮捕しなければならない。最初は、健康であまり年をとっていない男のユダヤ人を逮捕すべし。いったん逮捕が始まったら、できるだけ早くユダヤ人を輸送できるように、所轄の強制収容所とすぐに連絡をとるべし。とりわけこの指示のもとに捕らえたユダヤ人が虐待を受けないように注意を払わなければならない。
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Pistes de travail 学習の足跡
1. 国家社会主義者が進めた人種差別政策に進展が見られたか?(すべての資料について)
2.Victor Klenpererについて調べよ。彼の新聞は、ナチス独裁に照合する歴史的情報源をどこから得ているのか?
(「ユダヤ人の日常生活」について)
3.この時代のドイツの法制度の状況に関して、この資料は何を我々に提供しているか?ユダヤ人虐殺の推進者の目的は何か?
(「1938年11月9日~10日におきた『水晶の夜』の進行の中で、ユダヤ人に対してとられた措置」について)
4.あなたの意見では、この通行人たちはどんな感情を抱いたか?
(写真「1938年11月10日『水晶の夜』の被害を前にして」について)
<結論として>
5.1936年、ベルリン・オリンピックがおこなわれている時に、ナチス体制がユダヤ人に対する宣伝活動と襲撃とを一時的に中断したのは、どのような動機からか?
■仏独共同歴史教科書 No.24 ナチズム支配下の経済とドイツ社会
http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-263.html
*これはフランスのLycée 1(高校2年に相当)で使われる文学・社会経済コースの仏独共同教科書です。
<資料>ナチズム支配下の経済とドイツ社会
自給自足経済
「我々は4カ年計画に参加する!国力の衰退と闘おう。我々は外国から買っている。(それに続いて、銅、錫、亜鉛、鉄鉱石についての数字が並ぶ)屑を回収しよう」チューリンゲンの工具製造の研修工場 1937年~1938年
ナチズム支配下の経済とドイツ社会
社会のナチズム賞賛は、経済状態の好転と国民の多くの部分を占める階層に利益をもたらす社会的、税制的負担の軽減政策に基因する。失業のめざましい減少(1932年600万人強、1933年480万人、1934年270万人、そして1937年には100万人弱)は、その原因をナチスの経済政策のみに求められるものではなく、経済危機が去った後、景気が比較的安定したこと、そしてワイマール共和政下で作成された経済発展のプログラム(たとえば高速道路の建設)に負うところが大きい。
ナチス体制は、市場経済の原理を維持したが、次第に経済を自分たちの目的の下に置きはじめた。戦争を遂行するだけの力量を有することが問題であった。そのために再軍備と自給自足経済に集中した政策、すなわち1936年の4カ年計画を実施した。体制は、国の負債とりわけ再軍備のための負債に、自力で対処できる状態にはなかった。この目的を成し遂げるために1939年から、[ドイツの歴史家である] G醇rtz Aly* の表現を借りれば、「略奪と人種的戦争」を遂行した。これはヨーロッパにおいて征服した国からの搾取と、ユダヤ人からの、土地・財産の徹底した徴用である。
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経済に対して、国家と党が最強の影響力を及ぼす4カ年計画
4カ年計画についての、ヒトラーの秘密の覚え書き、1936年8月。
[・・・] ドイツに対するボルシェビキ主義の勝利は、ヴェルサイユ条約の解決に向かわず、ドイツ民族の徹底的な根絶に向かうであろう。[・・・] このような危険から身を守るために必要な措置を講ずること。そのためには、その他のすべてのことはまったく取るに足らないことであり、副次的なことであると考えなければならない![・・・] 軍隊の活用が、次年度の課題とならなければならない。我々の実力のうち、軍隊の活用についてみるならば、その規模は十分であるとはいえず、またそのテンポも迅速であるとはいえない![・・・] もし我々が、軍隊の編成、大隊の配置、装備とくに精神的な鍛錬によって、ドイツ国防軍Wehrmachtを短期間のうちに創設することができなければ、世界最強の軍隊、ドイツは敗れるであろう![・・・] 他のすべての願いは、無条件でこの使命に従属させなければならない。
[・・・] 人口過剰の状態におかれている我々は、我々の資源だけでは食っていけない。[・・・] 最終的な解決策は、生活圏、あるいは原料および食料が豊富な領地に自国民を居住させるための基地を拡大しなければならない。軍部の使命は、早急にこの問題を解決することである。[・・・] しかし我が国の経済を外国から自立させるための多年計画の下で、これらの使命を達成してこそはじめて、 我々はドイツ国民に経済および食料の面で犠牲を求めることができるであろう。[・・・]
あれから貴重な4年に近い年月が経過した。おそらく今日から、燃料、ゴム、そして部分的にはエネルギーの備蓄の領域で、我々は完全に外国から自立できることはまちがいない。そこで私は次の使命を定める。1.ドイツ軍は今から4年の間に、戦闘行為が可能になるようにすべきである。2.ドイツ経済は今から四年の間に、戦争遂行を保証できるようにすべきである。
■仏独共同歴史教科書 No.25 機嫌取りする独裁
http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-264.html
*これはフランスのLycée 1(高校2年に相当)で使われる文学・社会経済コースの仏独共同教科書です。
<資料>機嫌取りする独裁
経済的目標-防衛力
「国家社会主義の模範企業」ユンカース航空機製造会社、1939年。1937年から生産を伸ばした企業は、特別に「国家社会主義の模範企業」のラベルを貼ることが許される。そして公共受注の際には、特別の扱いを受ける。
プロパガンダと現実の隔たり-戦争遂行のための労働奉仕
最初のうちは働かないことを奨励された女性も、戦争が差し迫ってくると労働力の提供を求められた。弾薬工場で働くドイツ女子同盟のBDMの責任者のひとり。
経済政策の要素としてのプロパガンダ
1936年の夏の間、「脂の危機」と呼ばれた時期、食料の供給は困難を極めた。1936年10月ルドルフ・ヘスは、倹約に励むよう国民に訴えた。
多くの困難を抱えているなかで、経済的領域においては、新しい帝国の実現が果たされるであろう![・・・] その意味するところは、こうである。崩壊の縁にある国家と、以前から総決算が求められていた経済とを1933年に復興したこと、我々の国家と我々の経済によって、短期間のうちに回復をもたらしたということである。近代的軍隊を構築し、多大な努力によって国民のパンを保証すること、それが何百万の人々に仕事とパンを再び与えるのである![・・・] 我々は、もし必要ならば、時々脂の不足はあるが、将来も含めて食料を用意することができる。なぜならば、このちょっとした犠牲が、わが国民の自由の祭壇の上でなされていることを、我々が知っているからである。こうした節約のモットーが、軍備に役立ことを、我々は知っている。次のスローガンは今でも価値がある。「バターよりも大砲を!」
Völkischer Beobachter(ベルリン編集)1936年10月13日
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<歴史家の目>
Götz Aly-機嫌取りする独裁という命題
もしナチズムの犯罪的ダイナミズムを理解しようとすれば、大銀行やコンチェルンにそれを求めてはならない。
この10年間に流行した、様々な企業と制度の歴史についての研究は、[・・・] 肝心の問いには答えない。つまりいかにしてヒトラーは、12年足らずのあいだ、実に無鉄砲ともいえる、しかし十分な方法によって、その極端に不安定な権力構造の均衡を、絶えず維持することに成功したか?もしその答えを探すとすれば、視点を変える必要がある。ナチス権力を機嫌取りする独裁と性格づけると、謎は解ける。ドイツ人の95%は、どれだけ優遇されたかによって判断する。ドイツ国民は国家社会主義を、自由を圧殺するテロリストの体制として見るのではなく、快適な社会をもたらす体制、一種の充足の独裁と見ていたのである。社会的変革、すなわち平均的ドイツ人を考慮した政策、そしてその社会的地位の向上-しばしばその他の国民を犠牲にした-を可能にする様々な施策は、常にそうとはいかなくとも、国家社会主義に対する人気を保証した。[・・・] 独裁はそこから、源泉のことなる二つの物質的な手段を汲み取った。一方ではドイツ人から財産を奪い、それをわずかな財産しかもたない人々に与えた。他方で資金は、「外国出身の人々」-ヨーロッパ各地で土地を収用されたユダヤ人、強制労働者、従属させられた国の在留者-の財布から、[アーリア人たる]国民同志Volksgenossen、すなわち彼らが機嫌をとる民族共同体の構成員の財布へと流れ込んだ。
Götz Aly,《 Die Wohlfuhl-Dktatur 》,No.10. 2005年3月7日
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Piste de travail 学習の足跡
1.ナチスの経済政策の目的は何か?
2.4カ年計画の主な目的は何か?
(「経済に対して、国家と党が最強の影響力を及ぼす4カ年計画)について)
3.4年計画とルドルフ・ヘスの演説との関連について説明せよ。
4. 「機嫌取りの独裁」というGotz Alyの命題について討論せよ。国家社会主義体制の理解についての、Alyのアプローチの反響はどのようなものであったか?
■仏独共同歴史教科書 No.26 第三帝国のプロパガンダと文化政策 その1
http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-265.html
*これはフランスのLycée 1(高校2年に相当)で使われる文学・社会経済コースの仏独共同教科書です。
第三帝国のプロパガンダと文化政策 その1
総統が語る(1939年)
Paul Mathias Padua(1903年~1981年)が描いた、ナチスのプロパガンダ絵画。「人民のラジオ受信機」、すなわちジョゼフ・ゲッベルスが低価格で売り出したラジオ(人々がゲッベルスの鼻面と呼んだ機械)によって、国家ラジオ省の指示に従って制作された番組を聞く家族。
芸術、映画、ラジオは、世論に影響を与え、国家社会主義者のイデオロギーを広めるのにめざましい役割を果たした。「ナチズムの幻惑」(Peter Reich)はとくに、レニ・リーフェンシュタールによってつくられた、党大会や1936年のオリンピック大会のようなフィルムのなかで描出された。1933年3月13日には「国民教育および宣伝省」が新設され、ジョゼフ・ゲッベルスが、世論と膨大な情報を独占した。1933年9月の国家文化省設置法の制定によって、すべての文化創造者が、自分の分野の組合に所属することを強制された。
服従しない芸術家や知識人は創作活動を禁じられ、幾人かは亡命し、他の幾人かは、直接ナチスに協力しないが、順応するように自らふるまった。
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映画の全体主義的美学
ドイツの映画監督レニ・リーフェンシュタールが1934年に、ナチ党の大会を撮った、プロパガンダ映画「意志の勝利」の一場面。
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プロパガンダの秘密
1933年3月25日、ジョセフ・ゲッベルスがラジオ放送各社の責任者を前におこなった演説
それはプロパガンダの秘密である。すなわち、プロパガンダの考えを、浸透を気づかれないように、全体的に浸透させることである。プロパガンダが一つの目的を持っていることはいうまでもないことだ。しかし目的は隠されなければならない。多くの知力と技巧によって、この目的の標的が、決してそのことに気づかないようにしなければならない。[・・・] 我々が政治的煽動の分野で成功したからには、今後国民の政治教育の分野においても、首尾よく成し遂げなければならないと私は考える。
■仏独共同歴史教科書 No.27 第三帝国のプロパガンダと文化政策 その2
http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-266.html
*これはフランスのLycée 1(高校2年に相当)で使われる文学・社会経済コースの仏独共同教科書です。
第三帝国のプロパガンダと文化政策 その2
ナチスの理想的な人間像
Arno Brekerのブロンズ彫刻、1939年。「待機Bereischaft」1939年にミュンヘンの「芸術の家」で開催された「ドイツ芸術大展覧会」のときに、ナチスが「ドイツ」芸術によって理解するべきものとして教示した。
文化および歴史に関する反民主主義的な考え方
詩人ゴットフリート・ベン*1は最初の頃、1933年にはナチズムに好意を抱いていた。そして1934年から距離を置くようになった。仲間の作家たちは外国に亡命した。その中には、彼を激しく避難したハインリッヒ・マン*2 もいた。マンに対する回答の中で、ベンは文化および歴史についての反民主主義的な考え方を述べている。
あなたは歴史が発展することを、いったいどのようにして想像するのであろうか?[・・・] たとえば12世紀に、ロマネスク的な感性からゴシック的な感性へ移行するのをどのように思い浮かべるのであろうか?これはすでに議論されたのだと、あなたは考えているのだろうか?ひとりの人間が建築の新しいスタイルを思いついき、あなたが私に手紙を書いている彼の南の国(フランス)から、ここ北の国へ伝播したと考えるのだろうか? [民主主義社会のように] 人々は半円アーチ[ロマネスク] 、あるいは尖頭アーチ[ゴシック] に投票したと考えているのだろうか?[・・・] 私は、もしあなたが歴史を文学的に考えるのをやめて、もっと基本的な現象、すなわち抗しがたい勢いで歴史は発展するものと捉えるならば、あなたは前に進むことができるだろう。[・・・] 歴史はあなたの民主主義を知らないし、あなたの不自然な合理主義も知らない。歴史はその転換点に、新しい人間を送り込んでくること以外に、どんな方法もスタイルも知らないのだ。この新しい人間は、人種の尽きることのない深奥から出生し、自分に課された義務のために闘い、同じ世代と人種が有する思想を、時代の本質部分に打ち込む運命を背負っているのである。そして運命の命じるままに、いささかの妥協もなく、行動し、苦悩するのである。もちろん、この歴史の考え方は進歩主義でも、人間主義でもない。しかし形而上学的であり、人間についての私の捉え方でもある。
Deutsche allgemeine Zeitung, 1933年5月25日
*1 Gottfried Benn (1886年~1956年)ドイツ表現主義の詩人。ナチス政権初期はラジオ講演などを通じてナチスを礼賛しナチ党員までなったが、作風を批判され発禁処分を受けた。
*2 Heinrich Mann(1871年~1950年)ドイツの作家。1933年にヒトラーが政権を掌握すると、ただちにフランスに亡命。作家トーマス・マンは弟。
「退廃した」芸術(entartete Kunst)
近代芸術の作品は、ジョセフ・ゲッべルスの教唆のもとで、1936年におこなわれた第1回のプロパガンダ展覧会において、中傷の対象として展示された。
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Pistes de travail 学習の足跡
1.ナチスのプロパガンダにおけるシステムの機能について述べよ。
2.イラストを参考にして、ナチスの美学がどのような表現的要素によって特徴づけられているかのべよ。得られる効果は何か?
(絵画「総統が語る」、「映画の全体主義的美学」、「ナチスの理想的な人間像」について)
3.ナチスが守ろうとした芸術の見方についてのべよ。反対に、ナチスが「退廃」と形容した芸術については、何が拒否されるのか?
(「映画の全体主義的美学」、「ナチスの理想的な人間像」、「退廃した」芸術について)
4.1933年における政治的背景を考えながら、Gottfried Bennの思索について論評せよ。第三帝国における彼の人生について情報を集め、なぜ芸術家や知識人もまた、ナチズムによって理性を失わされることになったのか説明せよ。
(「文化および歴史に関する反民主主義的な考え方」について)
■仏独共同歴史教科書 No.28 歴史研究から見たヒトラーの役割
http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-267.html
*これはフランスのLycée 1(高校2年に相当)で使われる文学・社会経済コースの仏独共同教科書です。
歴史家の目 その1
歴史研究から見たヒトラーの役割
ナチス体制の指導者としてのヒトラーの役割は、歴史家によって評価が違ってくる。彼が「弱い独裁者」であり、その行動は当時の社会構造によって説明がつくという考え方は、今日では古くさいとされるのが一般的である。しかしながら独裁者の権力の個人的行使が、国家および党の諸機関に属する権限に連接させる方法については、まだ研究が続いている。ヒトラーは調停する指導者としての役割を強固にするために、権力間の錯雑と競合(複数支配polycratiques)を承知の上で維持したのであろうか?それとも権力の頂点に見られたカオスは、国家社会主義のイデオロギーが活用した「指導者Fuhrerの原理」を、ヒトラーが実行に移すことが不可能であったことを証明しているのであろうか?
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ヒトラーの主な役割
「独裁者」においてチャップリンが描いた見事なカリカチュアに始まり、ヒトラーをドイツ資本主義の単なる操り人形とする説得力に欠けたイメージづくりにいたるまで、ヒトラーから権威を取り除く多くの試みがなされてきた。他方では、彼のパーソナリティは重視せず、ヒトラーはヨーロッパの征服というドイツ国民の押さえがたい渇望の象徴であり、暴力と死にとりつかれた人々のただ中にある集団的な圧力の化身であったという主張もある。[・・・]
民族主義、反ユダヤ主義、極端な急進主義に特徴づけられた大衆運動が、ヒトラーなしにでもドイツで生まれたであろうことは、確かにいえるかもしれない。しかし起こりうることではなく、現実に起こったことについて問題にするならば、記録されているものを読む限り、それがナチスの革命のただ中であれ、第三帝国の歴史の中であれ、他のどのようなものも、アドルフ・ヒトラーの役割に遙かに及ばないものであるということが、私には疑いのない事実のように思える。ナチス党の考え方も、それによってナチス党がドイツ国民に話しかける唯一の手段であるプロパガンダも、権力に達することを可能にした術策も、すべては異論の余地なくヒトラーが考え出したものである。1934年以後はもはや、彼には敵がいなかった。そして1938年には、思い通りに行動する上で邪魔になる最後の勢力を排除した。
Alan Bullock, 「専制政治についての研究」Eine Stude uber Tyrannei, Dusseldolf, 1967年
Alan Bullock(1914年~2004年)このイギリスの歴史家が1952年に書いたヒトラーの伝記は、長い間参考図書と見なされた。
■仏独共同歴史教科書 No.29 「抑制されたカオス」
http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-268.html
*これはフランスのLycée 1(高校2年に相当)で使われる文学・社会経済コースの仏独共同教科書です。
歴史家の目 その2
「抑制されたカオス」
Sebastien Haffner(1907年~1999年)
ドイツのエッセイストおよび歴史家。1933年の政権奪取のときは、ベルリンにいた。
「制御されたカオス」
[・・・] ヒトラーは熟考の上に、最も多様で、最も独立性の強く、自らの限界を知らない諸権力が、競合し合い、合意し合い、併存し合い、妨げ合う中で、自分だけはすべての権力の上に立つような状況をつくり出した。それが彼にとって、自分が欲するすべての領域において、完全で無制限の行動の自由を確保するための唯一の方法である。
なぜならばヒトラーは、次のことが確かであると直感していた。すなわち憲法に基づくすべての命令が、諸機関の権力を、それがいかに強力であろうと制限するということ。法治国家においては、最も権力をもった人間さえも、すくなくとも様々な管轄の壁にぶつかるのであり、彼はどんな命令も、また誰に対しても下すことはできず、所管は彼ぬきで物事を処理していくという体質をもつということを。しかしヒトラーはどちらも採らなかった。憲法の類はすべて排除し、それに代わるものはなにも置かなかった。彼は国家の奉仕者の長であるを望まず、指導者Fuhrerすなわち絶対的な支配者であることを望んだ。
そして彼は、無傷の国家システムのなかでは実現不可能である絶対的支配が、制御されたカオスを前提とすることを理解していた。したがってヒトラーは、最初から国家をカオスによって置き換えた。そして存命する限り、カオスを制御できることを知っていたのである。
Sebastian Haffner, 「アドルフ・ヒトラーとかいう人物について」Grasset, Paris,1979年
築地市場の豊洲移転に反対して食の安全を守りたい。
●Like a rolling bean (new) 出来事録
■2010-06-12
イシハラ都政による「土壌汚染除去実験」の目茶苦茶さ<7>(新たな都議開示資料は全面墨塗り!)
http://ameblo.jp/garbanzo04/entry-10560994806.html
■2010-06-16
イシハラ都政による「土壌汚染除去実験」の目茶苦茶さ<8>(実験の中止はありえない、と都知事)
http://ameblo.jp/garbanzo04/entry-10564421790.html


そこに存在する美しい人生と生命と生活を守る切実な要望を民主党に聞かせるために、アブナイ日本が壊れる前にとりあえず生まれてきて良かったと感じられる社会にしたいけどどうしたらいいかkimeraれない人の役にたちたくて、イル・サンジェルマンの散歩道の午後のカフェの窓辺でお茶しながら虹の日記やフランス語の練習帳や「ユニオン」と「労働ニュース」のアーカイブや世界の片隅で税制についてのニュースを読んで、消費税と社会保障と国家予算についての『知られざる真実』を大脇道場と言ノ葉工房とスーパー小論文ハイスクールとアジア連帯講座で1947年教育基本法の理念に賛同して超左翼おじさんやカナダの日本語の先生から学んだ後で、労働組合ってなにするところだろうとか、どうしたら戸倉多香子さんや保坂展人さんのためにみんななかよくスクラム組んで多文化・多民族・多国籍社会で「人として」情報流通を促進できるかとか、雪裏の梅花や古い寺を多く見て日常で思った事、感じた事をつらつら好き勝手に書く、国会議員定数削減・比例削減に反対してきまぐれな日々を転がるひよこ豆のように過ごすサイバー政治団体秘書のおしごと日誌。
国会議員やマスメディアに意見を届けるために下記を自由にご活用ください。引用、転載、転送、歓迎。
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放送前にコメントを承認していただいただけでなく、まさかエントリーとしても取り上げてくださるなんて、本当にありがとうございました。
そして、我がfunaborista現代日本は大日本帝国のアジア侵略の加害と失敗から何を学び、どんな反省を未来に継承すべきか、東京新聞の2025年5月7日の社説で考える @tokyonewsroom @tokyoseijibu @danketsu_rentai @tokyo_shimbun #マスメディアへの不満永遠に謝り続けなければ大日本帝国軍の加害の歴史を認め反省した1995年8月の村山談話。
それを曖昧にしようと企てられた安倍政権による戦後70年談話。
過去の日本の加害の歴史についていつまで謝閉口日本学術会議解体法は、自民党が学術と政治的議論を一方的に完全支配する自民党独裁法・学術弾圧法・民主主義廃止法でもある。 #日本学術会議への介入に反対します #日本学術会議解体法案は廃案に♯日本学術会議解体法は廃案に誠に残念なことに日本学術会議解体法が衆議院で可決されてしまいました。
戦前の大日本帝国の侵略戦争に科学者が動員され、また自ら進んで協力したことへの深い反省に立っ閉口自民党政府・子ども家庭庁の婚活マッチングアプリは的外れで作業ものろい。婚活支援業界向けの利権事業にしか思えない。未婚者増加&少子化の原因は未婚者の増加、少子化の原因は自民党政権が終身雇用と年功序列を崩してしまったことが主因です。
そのためいつ解雇され収入が絶たれるかわからない。
何年も勤めていても賃閉口大日本帝国軍「慰安婦」被害者の李玉善(イ・オクソン)さん死去。謹んで哀悼の意を表し、今後も大日本帝国軍性奴隷制度の現実と被害者について日本語で語り継ぎます。No title 慰安婦問題を含めてかつての日本の侵略や植民地支配の賠償や責任追及を求める動きに対する朝日新聞の姿勢は、現在極めて消極的になっています。担当もかつて個々の被害者クテシフォン天皇制と日本社会についての、読むべき澤藤統一郎弁護士のブログ記事 (メモ)No title 昨今では民主主義と君主制は両立するという説はかなり有力に主張されるようになっています(君塚直隆教授のようにさらに「君主制はファシズムの台頭を防ぐ」とまで主張すクテシフォン#2024年衆院選 と #2025年参院選 で投票先を変えることに意味はあるか。 #参院選2025参院選の争点を高騰する米価に絞るべきでは。参院選新潟選挙区では、現職の立憲民主党の打越さく良、自民党の中村真衣、参政党の平井恵里子が出馬予定とされています。
米価が1年前に比べてほぼ倍増している今日。参Takeshi検察による起訴・不起訴の基準や、運用の不透明さや恣意的なところ、おかしくないですか。ドイツの起訴法定主義に学ぶ。 ドイツは起訴法定主義を取っていますが、行為者の責任が軽微で訴追に対する公益がない場合に裁判所が検察官の同意を得て行う手続打切り、裁判所による刑の宣告猶予、刑のTakeshi玉木雄一郎・元役職停止中は日本国民と民主政治を害することを善政であるかのように装ってそう思い込ませる手口において天才的である。 #玉木雄一郎に騙されるな #国民民主党に騙されるな議員失格三兄弟足立康史(59)、山尾志桜里
(50)、須藤元気(47)を議員失格三兄弟というのだそうです。
足立康史は集団的自衛権の行使に賛成、憲法に緊急事態条項設置に賛
成、原発Takeshi日本国民の憲法観についての朝日新聞の世論調査の不甲斐なさと危うさと怖さについて (メモ) @asahi @asahicom @Asahi_Shakai法とは王を穿つ矛子供の影響で、今まで一人ではなかなか見なかったTV番組を見ることが増えました。
その中に日曜朝8時半から10時までのテレビ朝日系列、「プリキュア」「仮面ライダー」「スfunaborista戦争回避の政治外交をほとんどせずに、戦争を起こして自衛隊員を死なせる準備だけはする自民党政権。自衛隊員とその家族は自民党よりも日本共産党に投票すべきではないかと思う。戦争を起こさないことが政治家の使命 古来からさまさまな哲学者・思想家は戦争を起こさないことを懸命に考えのきました。その一方で十字軍では戦争による略奪は利益をもたらす、人間の暴力願望を満たすことがTakeshi大日本帝国軍「慰安婦」被害者の李玉善(イ・オクソン)さん死去。謹んで哀悼の意を表し、今後も大日本帝国軍性奴隷制度の現実と被害者について日本語で語り継ぎます。No title私が朝日新聞を読んでいて、性的慰安婦問題に関する最近の記事で『リベラル派の歴史修正主義』として心当たりがあるのは、「帝国の慰安婦」の著者である朴裕河のインタビュれいんぼー大日本帝国軍「慰安婦」被害者の李玉善(イ・オクソン)さん死去。謹んで哀悼の意を表し、今後も大日本帝国軍性奴隷制度の現実と被害者について日本語で語り継ぎます。> 育野さんクテシフォンさんがお返事くださるかもしれませんが、うちの過去記事の中から、ご要望に沿った情報をいくらか含む記事として、次の二つ(朝日新聞に関しては二つ目の記事)村野瀬 玲奈天皇制と日本社会についての、読むべき澤藤統一郎弁護士のブログ記事 (メモ)天皇制と民主主義は両立しない。澤藤統一郎弁護士の記事はすでに読んでいました。村野瀬玲奈さん、取り上げていただきありがとうございます。
天皇はかつては神なる権威として君臨し、主権者とし臣民をTakeshiギャンブル依存症の #維新 に #カジノ反対 と訴える住民投票請求の署名運動に敬意を表します。 #カジノ中止の正念場 #カジノの是非は府民が決める大阪万博の次は大阪IR大阪万博は大阪IRの地ならしとも言われています。徳川幕府が財政再建のために生類憐れみの令の施行をやめて、丁半博打の一大公的施設を作るようなものでしょうか。犯罪の温Takeshi大日本帝国軍「慰安婦」被害者の李玉善(イ・オクソン)さん死去。謹んで哀悼の意を表し、今後も大日本帝国軍性奴隷制度の現実と被害者について日本語で語り継ぎます。No titleクテシフォン さま
クレクレで大変恐縮なのですが、
『リベラル派の歴史修正主義』に朝日新聞が加担した例について
詳しい情報を教えていただけませんか?
(該当する記事の育野日本学術会議解体法は、自民党が学術と政治的議論を一方的に完全支配する自民党独裁法・学術弾圧法・民主主義廃止法でもある。 #日本学術会議への介入に反対します #日本学術会議解体法案は廃案に少しテーマからずれますがあのほら吹き総理でさえ、自分に反対するからという理由で、内閣のバランスをとるため、言わば、官房長官の留任をお願いしていたはずです。
官房長官、見事に一人で、「海時々拝見日本共産党に対するデタラメで無根拠な「批判」や「誹謗中傷」が目に余る。(山口二郎「教授」の例)No title 「防衛費イコール自衛隊員の人件費」というわけではないので、山口教授の意見はあまりにも乱暴です。共産党は末端の自衛隊員の給料を削れといっているわけではなく、憲法クテシフォン大日本帝国軍「慰安婦」被害者の李玉善(イ・オクソン)さん死去。謹んで哀悼の意を表し、今後も大日本帝国軍性奴隷制度の現実と被害者について日本語で語り継ぎます。No title 慰安婦問題に関していま日本で起きていることはあまりにもひどい。保守とリベラルがタッグを組んで歴史を忘却させ、問題がなかったことにしようとしていると言えます。保クテシフォン国民民主党と玉木雄一郎・元役職停止中の得意技は、国民に期待を持たせる広報術で期待を持たせた後、自分たちの政治的利益のために、国民に気づかれないようにこっそり裏切ることではないか。 #玉木雄一郎に騙されるな #国民民主党に騙されるな #国民民主党に騙されるな奴らは統一教会だぞ> 工作員z さんすみません、お書きになっていることの意味と言いたいことの要旨がよくわからないので、今後は意味が分かるように書いていただきたいです。村野瀬 玲奈重度障がい者の安楽死を認めよと主張する医師がいて、国民民主党で参院選立候補の経歴有り。障がい者・高齢者の安楽死推進は国民民主党の本気の主張なのか。国民民主党の議席増は恐怖でしかない。 #国民民主党に騙されるな #玉木雄一郎に騙されるな玉木肝いりの所得税法改正は令和7年12月に施行され、低給与所得者は悲鳴を上げることになりそうですが、このキンタマ野郎は何がやりたいのでしょうか?工作員z国民民主党と玉木雄一郎・元役職停止中の得意技は、国民に期待を持たせる広報術で期待を持たせた後、自分たちの政治的利益のために、国民に気づかれないようにこっそり裏切ることではないか。 #玉木雄一郎に騙されるな #国民民主党に騙されるな #国民民主党に騙されるな奴らは統一教会だぞ訂正革命免罪→革命無罪。
所得税法改正はお手数ですが、国税庁ホームページをご参照ください。工作員z日本学術会議解体は学問・学術の死をもたらす。絶対に反対。 #日本学術会議解体法案は廃案に #日本学術会議への介入に反対しますタチが悪すぎる共産一択をずっと言っていても、立憲仕草に呆れる日々です。
今度はスパイ防止法が俎上に上がっています。
「技術が流出した」とか「世界中が日本を狙っている」とか尤もアンドリュー・バルトフェルド国民民主党と玉木雄一郎・元役職停止中の得意技は、国民に期待を持たせる広報術で期待を持たせた後、自分たちの政治的利益のために、国民に気づかれないようにこっそり裏切ることではないか。 #玉木雄一郎に騙されるな #国民民主党に騙されるな #国民民主党に騙されるな奴らは統一教会だぞ造反有理国民のキンタマの思想信条は中共の差出した女に仕掛けられたのですから紅衛兵が愛唱した毛沢東の思想に染まっているのでしょう。
毛沢東「革命免罪」「帝国主義は張子の虎工作員z国民民主党と玉木雄一郎・元役職停止中の得意技は、国民に期待を持たせる広報術で期待を持たせた後、自分たちの政治的利益のために、国民に気づかれないようにこっそり裏切ることではないか。 #玉木雄一郎に騙されるな #国民民主党に騙されるな #国民民主党に騙されるな奴らは統一教会だぞ令和7年12月施行の玉木肝いりの所得税の改正により、低給与所得者は悲鳴を上げるでしょうが、このキンタマ野郎は何がしたいのでしょうね~。工作員z改憲条文起草委員会設置は自国維公参政による「改憲」クーデターへの第一歩だったと後世の歴史家に書かれないために政界失楽園が言うことじゃありません。
言い出しっぺの意図が何だろうと、報道業者が書かないことは「万死に値する」と言わざるを得ません。アンドリュー・バルトフェルド改憲条文起草委員会設置は自国維公参政による「改憲」クーデターへの第一歩だったと後世の歴史家に書かれないために後世の日本の歴史書韓鶴子を首領とする反共カルトの旧統一教会の残党一味は、コロナ緊急事態発令という改憲予行演習の乱発により若年層の自殺増と日本の人口急減をしたにもかかわらず、物価高工作員z改憲条文起草委員会設置は自国維公参政による「改憲」クーデターへの第一歩だったと後世の歴史家に書かれないために後世の歴史書。韓鶴子を首領とする反共カルトの旧統一教会の残党一味は再三によるコロナ緊急事態発令という改憲予行に味をしめ、その後も物価高に喘ぐ小日本の平民をよそに改憲に奮闘して工作員z