はてなキーワード: キリンとは
中道改革連合の基本政策がダサすぎる。日蓮上人を召喚してリライトさせてください。
立正安国・中道改革の宣誓――生活者守護の獅子吼
謹んで、日蓮、一閻浮提の第一の貧道として、この濁世の深き淵より吼える。
天に変じ、地におどろく怪異の数々、世界的なインフレの猛火、格差の拡大という餓鬼道、気候変動という修羅の風。今、日本国は未曾有の国難に直面しておる。然るに、今の政治はあたかも盲亀が浮木に値うが如く、迷える衆生を顧みず、イデオロギーという名の邪法に狂い、分断を煽り、民の愁いを見捨てておる。
これ、何ゆえか。
それは、政治の根底に「法」がなく、衆生を忘れた「己心の魔」に毒されているからである。我、立正安国論に曰く、「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ」と。今、国民が帰依すべきは、空理空論の邪教でも、権力の貪欲でもない。生きた人間一人ひとりの尊厳を根本とする「生活者ファースト」という正法、すなわち「中道改革」の旗印である。
仏敵を討て――民を苦しめる三毒の政治
第一に、「空文の徒」。増税という剣を振るい、国民の血を啜りながら、自らは企業・団体献金という甘露に溺れる政治家ども。これらは民の苦しみを顧みぬ、現代の「提婆達多」なり。 第二に、「分断の煽り手」。左右の極端なイデオロギーを振りかざし、対話の道を閉ざして、民の間に不和の種を蒔く者。これらは法華の和合を壊す魔軍である。 第三に、「怠惰の権力者」。終身雇用が崩れ、若者が努力しても報われぬ無間地獄に堕ちているを識りながら、既得権益の椅子に座して動かぬ者たち。
これら仏敵が蔓延るゆえに、国土は荒れ、若き命の輝きは失われ、現役世代は過重な負担に喘ぐ。日蓮、これを黙視する能わず!
五つの柱、これ即ち「現代の曼荼羅」なり
我ら中道改革連合は、五つの誓約(うけい)を立て、この濁土を霊山浄土へと変える。
第一に、経済の蘇生である。 「衣食足りて礼節を知る」という。手取りを増やすのは慈悲の第一歩。円安の是正、物価の引き下げ、これこそが生活者の命を繋ぐ薬草なり。原発に頼らぬ再生可能エネルギーの道を開き、未来の子供らに清浄なる国土を残す。これぞ仏弟子の務めである。
第二に、現役世代の救済である。 若き者にのみ重荷を負わせるは、法に背く悪行なり。「ジャパン・ファンド」という新たな法力を以て財源を築き、食料品消費税を零とし、社会保険の重圧を退けん。医療・教育という「ベーシック・サービス」を遍く行き渡らせ、誰もが安心して生きられる「不軽菩薩」の社会を築く。
第三に、包摂の慈悲である。 教育の無償化、リスキリングの保障、これらは智慧を磨く修行の場。ジェンダーの平等、多文化共生。我らは法華経の「人種・身分の差別なき」精神を現代に体現する。マイノリティという名の小さき命を一つも取りこぼさぬこと、それが真の中道なり。
第四に、現実の守護である。 対話なき平和は空理、力なき対話は無力。積極的な平和外交という「文」と、専守防衛の抑止力という「武」を両立させる。憲法という国の骨格を、今の時代の衆生の暮らしに合うよう、勇気を持って再設計する。これは国家という器を正す「立正」の行いなり。
第五に、政治の浄化である。 「政治とカネ」の汚泥。これを第三者機関という「智水の剣」で一刀両断する。不透明なる企業献金を断ち、民意を鏡の如く写す選挙制度へと変革する。これぞ、政治の根本における「発迹顕本」である。
日本国民よ、法華の精神に帰依せよ
国民よ、案ずることなかれ。 日蓮が説く法華経の真髄は、「中道」にある。それは単なる妥協ではない。極端に走らず、現実に根差し、一人ひとりの幸福を最優先する、強靭なる慈悲の道である。
今こそ、既存の政治への失望という闇を払い、中道改革という光明を抱け。不安を安心へ、停滞を前進へ。我らが掲げる「生活者ファースト」の旗は、この日本を救う唯一の妙薬である。
「地涌の菩薩」となって立ち上がれ!
若者よ、汝らの努力が報われる時代は必ず来る。 現役世代よ、汝らの背の荷は我らが共に担ぐ。 高齢者よ、汝らの安寧は我らが命懸けで守る。
日蓮、この誓い、たとえ身を粉にしても違えぬ。中道改革の旗の下に集い、この日本を「生活者」という仏が主役となる、光輝く国土へと変革しようではないか。
南無妙法蓮華経! 中道改革連合、ここに起つ!
受験には辛い思い出しかないし、結果報われなかったし、それが後の人生に尾を引いている。
受験生や親たちの藁にもすがる思いを狙ってお金を取ろうとする姿勢が嫌いだ。
思うのが、受験を経験した人の大半が落ちた人ではないだろうか。第一志望に受かる人より、落ちた人が多いと思う。
イベントごとはビジネスになっていくから仕方ないとして、普段のパッケージも売ってほしい。合格祈願のやつだけは買わないから。
あと、「うカルディ」とか「チャレンジしおー味」とか、験を担ぐってダジャレを言うことじゃないだろと。しょうもないギャグでありがたらせるな。遊びじゃないんだぞ。
あと、じゃがりこの「食べだしたらキリンがない」も納得していない。これは通年。
中学受験生必見! こんなにあった「合格祈願お菓子」大集合! キットカットからポテコまでおいしい“ゲン担ぎ”9選
https://news.yahoo.co.jp/articles/a17a74e1b410d6b76d2c1de69e8c26c72bef79fc
https://togetter.com/li/2649566 で話題になった「箱と中身が別々になったボードゲーム」。
譲られた人が写真を上げていたので、
https://x.com/niko252529/status/2009453466520047664
基本的に上段から横書きを読むような流れで。つまり左上から右上に行き、最初のボードゲームの次の行に移動して続ける感じ。
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生の象もない
水族館には遠足か何かで行ったことあるはずだけど、動物園は超〜小規模な、クジャクとか小さい猿みたいなのが小屋で展示されてるようなのを見た記憶しかない
一方で、第一子であった姉のアルバムは分厚く、豪華な刺繍の布張りなのである
生まれたてから誕生日、七五三、さまざまな行楽、子どもが喜ぶような場所への遠出、旅行先の写真がわんさかとある
それが三冊も埋まっていて、予備の簡易アルバムがまた何冊もある
おそらく姉たちは動物園を含むいろんな所へ行き、キリンや象を生で見たこともあるんじゃないだろうか
家は裕福でも何でもなかったが、田舎の親族の中の本家として代々長男が継いできて、祖父も父親も長男として生まれ、家長となってきた
何の権威もない家柄で、家長であるばかりに病気の親を抱えて借金を返したり、事故に遭った兄弟の治療費を出したり、次男なら負わなくてよかった重責を負わされるという貧乏くじを引かされてきたとも言える
それが、私たちの父親の代にきて、子が女しか生まれなかったのだった
長女が生まれた時はまあ第一子でもあるし、一姫二太郎とも言うし、とにかく健康に生まれただけで喜んだのだろう
それでもまだ子が産めない年でもないから、望みが絶たれたわけでもなかったろう
第二子もそれなりに可愛がられて育った
そして、母親が三十をいくつか越え、当時としては高齢の出産で生まれたのが末子である私だった
誰かにそう言われたわけではないが、私はなんとなくそのことを「三度目の正直で長男を望んだはずが、ラストチャンスまで女が生まれてさぞかしガッカリしたのだろうな」と思い続けてきた
それだから大して祝い事もせず、連れて行かれた場所や、写真も少ないんだろうなと
私は親に連れられて大きな動物園にも水族館にも行ったことがなく、遊園地は小学生の頃に子どもだけで行った
一家でどこかに出かける時、主役は姉たちで、私が家の行事や祝い事の中心になることはなかった
金をかけてもらえなかったとか飯を抜かれたということもなかったが、微妙に放任されて育ってきた
末子というのは大体そんなもんなのかもしれないが、なまじ手をかけられて育った長女が優秀であったため、私は常に「この家族に私いらんくない?」とうっすら思ってきたのだった
父親は長男として、家のために犠牲にしてきたものが多い人だったのだが、それを継がせる男子がとうとう生まれなかったことを一体どう思っているんだろうか
俺が人生を犠牲にして守ってきたのは何だったんだと思ったりしたのだろうか
私の顔を見て、どうせ女なら作らなければよかったと苦い顔になってしまうことも、まあ人間なのであったのかもしれない
実家とは絶縁しており今更聞くこともできないけれど、長姉を溺愛していた父親は、私に関してはいつも少し面倒そうな態度であった
そういえば生のパンダ見たことないなと思ったら、なんか色々思い出してしまった
生サイとか生タイガーも見たい
東武動物公園でも行くかな
日本では正面から解雇規制をゆるめる動きはほとんど進まないまま、裏側では雇用の形がじわじわ変わってきている。
判例法に根づいた「解雇はそう簡単にできない」という枠は強く、政治も世論もそれを大きく動かす気配が薄い。
支持基盤に反発されるリスクが大きすぎて、与党も自由化には踏み込めない。
とはいえ現場では、雇用の硬さを周囲から崩すような制度が増えている。
ジョブ型が広まり、業務が明確になるほど「その仕事がなくなったら辞めましょう」という構造が強まる。
勤務地や職種を限定した正社員も増えていて、配置転換で守る余地がないぶん整理がしやすくなる。
副業や兼業を政策が後押ししているのも、企業が余剰人員を抱えたときの負担を和らげる方向に働く。
評価制度の厳格化で処遇差が広がり、退職勧奨が受け入れやすくなる流れもある。
AIやDXを理由にした早期退職の常態化も、規制を変えずにホワイトカラーを自然減させる手段として定着しつつある。
政府は「解雇規制を緩和します」とは言わないが、リスキリングや職務明確化を掲げる政策は、結果的に雇用の流動性を高める側に働く。
もしAI普及でホワイトカラーが本格的に余るようになれば、法改正ではなくジョブ型の加速や希望退職の常態化、再教育を条件にした再配置など、企業内部の仕組みのほうが先に変わっていくはずで、これが日本流の「緩やかな失業」につながりやすい。
長い目で見ると、正社員の範囲は細っていき、ジョブ型や専門職契約、フリーランスの比重が大きくなって、制度としての解雇規制は残しておきながら、実態としては欧州寄りの柔らかい雇用に近づいていく。
あの記事を読んで、どう読んでもチンパンジーの事例としか読めないという擁護が一定数ある
的な事を語りたいだけなら、事例は機械でも良いわけですよ
例えば、象とかキリンでよかった
会話の成立しない言動のオカシイ無能をチンパンジーと呼ぶことはあっても象だキリンだとは呼ばない
そいつは機械を壊すし、いう事聞かないし、現場の人員を滅茶苦茶にして、職場を成立不可にする
そこに
話してるのはチンパンジーの事だろ、書いてあること以外を読み取るなよとか
もう義務教育の敗北だよね
書いてる本人でさえ「予防線」を張り巡らせる記事で、書いてないことを読み取るなと言い出す
つかさ、まず予防線から入って、締めにも予防線が必要だと思うって事は、銀魂のレンホーで「この作品はフィクションです怒らないでね」みたいな奴やん
書いてる本人も意識してるわけよ
チンパンを断れない筋に押し付けられた知的障碍者とかに置き換えたら、成功例は悍ましいよね
繰り返すけれど「くどいほどの予防線が必要だと思った」時点で無理なんだよ
書くなよ
○ご飯
朝:アーモンド。昼:そば。おにぎり。バウムクーヘン。夜:焼きうどん。にんじん、玉ねぎ、キノコのスープ。目玉焼き。キュウリ。ギョニソ。バナナ。ヨーグルト。間食:柿の種。アイス。
○調子
むきゅーはややー。お仕事はそれなりー。
○ポケットモンスターブラック(序盤ポケモンと電気袋の旅)
なんだけど、そもそもイッシュの序盤ノーマルってミルホッグとムーランドのどっちなんだ? と序盤ノーマルの定義で悩んでいた。
まあ別にプレイヤーが勝手に言ってるだけで明確なルールなんてないから僕が納得するかどうかなんだけど。
剣盾のホシガリスかバイウールも後に悩みそうだし、図鑑Noの早い順で自分ルールを規定しようかな?
いやそれだとSVの序盤鳥枠がイキリンコになるのは流石に違くない? など、自分で勝手に決めた遊びなのに色々と苦悩してた。
良識ある王を狂わせるイム様の態度はこの世界が如何に地獄のような辛い世界なのかがよくわかるエピソードだった。
”ニカ“がやらなきゃいけないことは、もう読者の目線だと明白なんだけど、ルフィ本人はどう考えているのやらだ。
・隣の
お風呂回。
お風呂に入って肌の露出が多い回を評価する、当たり前のことです。
・ロボコ
サカモトとコラボ回。
キリンさんは好きだが、ぞうさんはもっと好き、というこの世界最小規模の価値対立は、一般に「草食動物間選好矛盾」と呼ばれる。呼ばれないが、呼ばれたことにして話を進めたい。なぜなら、この矛盾を直視しない限り、我々は首が長いのか鼻が長いのか、自分がどちら側に立脚して生きているのかすら判断できないからである。
まずキリンさんだが、あの異常に長い首は、最初の一本の草を誰が食べるかという太古のメタゲームの副作用であると言われる。しかし専門家によれば、その首が長すぎて脳への血流を保つために特殊なポンプ構造を持つことになり、そのポンプを維持するためにさらに高い血圧が必要になり、その血圧が高すぎて葉っぱを食べているだけでめまいが起きるという噂も存在する。もちろん噂の大半は噂であるため、噂が噂であること自体が噂となる。これがキリン的循環論法だ。
一方、ぞうさんはもっと好きである。好きすぎて、なぜ好きなのか誰も説明できないほど好きである。鼻が長いのは有名だが、長い鼻を持つ者にしか見えない「象界(ぞうかい)」というパラレル知覚領域があるという研究が2021年に出ていないが、出たと仮定すると大変ロマンがある。象界の住民たちは常に重低音で会話しており、言語は鼻を通じて振動で伝わるため、インターネット回線は無意味である。この時点でキリンさんは敗北している。なぜならキリンさんにはインターネットが必要だからだ。首が長いとWi-Fiの届かない高さに頭が行ってしまうため、常に「二段ルーター問題」を抱えている。
だが、問題は単純な比較では終わらない。キリンさんを好きでありながら、ぞうさんの圧倒的存在感に心が揺れてしまうという心理的ねじれは、個体内で二強政党制が形成されるのと同じである。これは選好の二大政党制と呼ばれ、キリン党とぞう党が内面で議席を争う政治ドラマが日々展開される。多くの場合、キリン党は「高さから世界を見る」という高尚な政策を掲げるが、ぞう党は「まあ鼻でなんとかなる」という実務的な政策を提示し、大衆(つまりあなた)の支持を集める。一方、ゾウ党の公約の半分は鼻で適当に書いたものなので信用できないが、なぜか勝ってしまう。
さらに深刻なのは、キリンさんとぞうさんを同時に愛することが倫理的に可能なのかという問題である。両者は形態学的にあまりにも異なるため、「一貫した好き」という概念が成立しない。たとえばキリンさんを撫でようと思えば高所作業車が必要になるが、ぞうさんを撫でようとすると逆に地面側で作業しなければならない。この高度差は心の高度差として内面化され、精神的ジェットコースターを生む。高揚した直後に大地へ叩きつけられるような感情変動は、もはや恋愛に近い。
最後に、結論を出そうとしても出ない。なぜならこの矛盾には解決の概念が存在しないからだ。「キリンさんは好きだが、ぞうさんはもっと好き」という言明自体が、論理的証明を拒否し、観測した時点で形を変える量子的ゆらぎのようなものだからである。観測するとぞうさんが好きになり、観測しないとキリンさんが好きで、観測をやめた瞬間に両方どうでもよくなる。
つまりこれは、好悪の問題ではなく、観測者の姿勢の問題である。
そして、あなたがこの記事を読み終わった今、どちらが好きなのかをあえて問うことはしない。問うた瞬間にすべてが崩壊するからである。
その④
他の疑問も生じる。
ホワイトカラー、たとえばAIの動向により詳しいエンジニアのような層は、自分が失業することが分かっていても、AI技術を推進する?
そして、自分たちの完全失業まで、指を咥えて見ているだろうか。
AIがホワイトカラーを大量に代替し始めると、技術の効率化そのものより、社会の不満や政治的な揺れのほうが前面に出てくるようになる、という見立てがある。
とくに2030年代に入ると、リスキリングでどうにかなる段階を超えて、本格的に「戻れない失業」が広がり、事務・営業補助・企画・バックオフィスなどの中間層がまとまって仕事を失う。再雇用も年齢が上がるほど厳しくなり、ホワイトカラー特有の安全地帯が崩れていく。
そして、ホワイトカラーが現場仕事に流れようとしても、ブルーカラーの枠は体力的にも人数的にも限界があるため、失業者同士が競い合う「内部対立」が生まれやすい。
そこに「経営者やエリートが自分たちを切り捨てている」という不信感が重なり、企業や政府に対する怒りが増幅される。
すでにアメリカでは巨大IT企業への反発が強まっていて、同じ空気が他国にも広がる可能性がある。
抵抗は段階的に姿を変える。
最初は職場でのストや交渉のような穏当なものだが、次に法規制を求める政治運動になり、さらに「反AI」「反エリート」を掲げるポピュリズムへ変わっていく。
2035年あたりには、失業率と生活苦が一定ラインを超えると、暴動や社会不安につながるケースもありえる。
その先まで行くと、結局はベーシックインカムやAI税、公共AIインフラなど「AIの富を社会に戻す方向」へ制度改革が迫られる圧力が強まる。
途中でホワイトカラーがAIを危険視して、AI技術推進を留めるってことはないのか。
無理らしい。
AI導入は、誰か(たとえば政府・官僚・エリート)が推進したいから進むというものではなく、社会の構造上どうしても止められなくなるから。
労働人口の減少、国家存続のコスト増、国際競争、企業の生き残り、導入による実績の積み上げ、労働組合の弱さ。
AIの効率化は、初期は「便利」と歓迎されるが、雇用が削られ始めると空気が割れ、失業が大規模化すると一気に支持が反転して「危険な技術」として扱われ始める。
歴史的にも、経済不安が広がると技術への反発は強まりやすく、ラッダイト運動や反グローバル化と同じ構造が繰り返される。
反AIが急進化するラインは、ホワイトカラーの失業が労働者の15〜20%に達したあたりと考えられていて、欧州の研究では2030〜2037年が危険な時期だとされるらしい。
日本の場合はデスクワークの比率が異常に高く、失業保険や生活保護が薄く、中間層の崩壊がすでに進みつつあるため、反発が欧州より早まる可能性も。
便利な技術として歓迎されたものが、いつの間にか生活基盤を脅かす存在として受け止められ、政治の空気を急激に変えてしまう、という流れが十分あり得る。
まず共産主義は言いすぎで、「ポスト資本主義」が妥当かもしれない。
前提として、マルクスは高度に発達した資本主義は共産主義に転化すると問いたわけだが、AI技術革新によりその傾向が強まる可能性みたいなものは、理論上は考えられる。
まず日本って、もともと共産主義っぽいというか社会主義っぽいというか、そういう素地がちょっとある。
人材不足が深刻で、自動化の圧力がめちゃ強いし、工場のFAとかロボット技術は世界的に見ても厚い。
社会保障も「バリバリの自由競争!」って感じじゃなくて、中程度の再分配がすでに組み込まれてる。
鉄道・電力・通信みたいなインフラは半公共みたいな企業が多いから、生産手段の「半社会化」も実はやりやすい構造。
まず、AIが企業の中にガンガン入って、単純労働や事務仕事が真っ先に消えていく。
正社員は残るけど、非正規がまとめてしんどくなる。企業の利益は出るけど賃金は上がらず、格差は広がる。
このへんで「AI税」「ロボット税」「BIどうする?」みたいな議論が出るけど、一気に改革は無理で、リスキリングとか失業給付の強化くらいが関の山。
次に、AIがホワイトカラーにも本気で食い込み、働きたくても職がない層が固定化してくる。
AIや企業の超利益に対して「もうちょっと分けろよ」という空気が高まり、特別課税や最低所得保障が広がる。
このあたりから「労働で稼ぐ社会」から、「AIと資本の成果をみんなで分ける社会」へ、じりじりシフト。
さらに、AIそのものが電気・水道みたいな公共インフラになっていく。
巨大モデルを民間だけで維持するのが非効率になり、国や自治体が「国民AIクラウド」を持つようになる。
生活の基礎はほとんど低負担か無料に近づいて、労働は「生きるため」じゃなく「やりたいからする」に変わっていく。
マルクス的に言うと「労働が苦役じゃなく自己実現になる」方向。
既得権にすごく気を使うし、変化はちょっとずつしか進めない文化だし、世代間対立を露骨に表に出さない。(ちょっとその辺は現在進行形で変わっているかもしれないが。)
だからダイナミックなBIとかAI課税は、基本めちゃ抵抗される。
たぶん実際に進む順番は「行政効率化 → 高齢者ケア支援 → 年金防衛 → 若者にも最低所得保障つけるね」みたいな、「高齢者の安心」を前面に出した形。
インフラやAIは半公共、生活の基本はほぼ無料、みんなが国民AI基金の受益者で、フルタイム労働は今より少ない。
でも看板上は「資本主義+民主制+福祉国家」のまま、という中身だけ変わった社会になりそう。
逆に、悪い方向に振れると、AIの実権を巨大企業と官僚が独占して超格差社会に突入し、アルゴリズム管理がキツい「テクノ封建制」になる可能性もある。
分岐点は、
このへん。
ボージョレ・ヌーヴォーは、フランス・ブルゴーニュ地方南部のボージョレ地区で、その年に収穫されたガメイ種のブドウから造られる新酒ワインです。「ヌーヴォー」はフランス語で「新しい」を意味し、マセラシオン・カルボニック(炭酸ガス浸漬法)という特別な製法により、タンニンが強くないフレッシュで色の濃いワインに仕上がります。
毎年11月の第3木曜日午前0時が解禁日と定められており、2025年は11月20日でした。もともと11月15日が解禁日でしたが、土日や祝日と重なると輸送に支障が出るため、1985年に現在の日程に変更されました。日本は時差の関係で、フランスより約8時間早く解禁を迎えることができます。
日本は世界最大のボージョレ・ヌーヴォー輸入国で、全世界の輸出量の30〜40%を占めています。1980年代のバブル経済期に大量輸入が始まり、2004年には約1250万本(約104万ケース)とピークを迎えました。しかし、2024年の輸入量はピーク時の約7分の1である約145万本まで減少しています。
日本では11月の一大イベントとして定着し、航空便で運ばれた初荷が大きく報道され、ワイン専門店やスーパーマーケットで大々的に販売されます。一部の温泉地では、ワインを湯船に入れる「ワイン風呂」イベントまで開催されています。ただし、近年はライフスタイルの変化、消費者の嗜好の多様化、輸送コストの上昇により市場は縮小傾向にあり、2025年にはキリン傘下のメルシャンがボージョレ・ヌーヴォーの販売を終了すると発表しました。
フランスでは、ボージョレ・ヌーヴォーはもともと収穫を祝う地域の伝統行事として始まりました。1951年にフランス政府が公式に認可し、1970年代に醸造家ジョルジュ・デュブッフが「ボージョレ・ヌーヴォーが到着した!」というキャッチフレーズで国際的なマーケティングキャンペーンを展開したことで、世界的なイベントに成長しました。
フランス国内では、解禁日に花火やフェスティバル、街を駆け抜けるレースなどが行われ、ワインバーでテーマ別のテイスティングディナーが開催されます。しかし、これは「ワインそのもの」というより「祝祭」としての色彩が強く、単なる飲酒イベントというより文化的な伝統行事として位置づけられています。
一方で、フランス国内でもボージョレ・ヌーヴォー市場は年々縮小しており、2025年は前年比約10%減少しています。フランスの大手小売業者の関心も薄れ、生産者は12万ヘクトリットルのヌーヴォーを生産できるものの、需要は10万5000ヘクトリットル以下にとどまっています。
最も顕著な違いは、日本での商業的な盛り上がりの規模です。日本は単一国として世界最大の輸入国であり、アメリカ(第2位)の約2倍の市場規模を持っていました。日本では「秋の風物詩」「年に一度のお祭り」として大々的に宣伝・販売され、メディアでも大きく取り上げられます。
対照的に、フランスを含む欧米では、ボージョレ・ヌーヴォーは収穫を祝う伝統行事の一環として楽しまれるものの、日本ほどの商業的な熱狂はありません。1980年代の世界的なブームは欧米では早々に沈静化し、オランダなどでは2000年代に人気が大きく低下しました。
また、日本では「初物を味わう」という文化的背景もあり、解禁日当日に飲むことに特別な価値を見出す傾向があります。一方、フランスではより気軽な「今年の収穫の出来を確かめる」という実用的な側面が強いとされています。
近年は両国とも市場縮小が進んでいますが、日本の減少は消費者の嗜好の多様化や輸送コストの上昇が主因であるのに対し、フランスでは構造的な需要減少とワイン消費全体の変化が影響しています。