2014-07-18
【スロベニア】総選挙で初登場の中道左派新党が躍進
13日、中南欧スロベニアで総選挙(定数90、小選挙区併用型比例代表制)が行われた。今回の総選挙は中道右派連立を率いていたヤンシャ前首相が汚職の疑いで逮捕され有罪判決を受けたのちの政治混乱によって成立した中道左派政権が崩壊したことによって行われたものだが、政界や既存政治家の混迷を反映して次々と新党が登場することとなった。
第1党となったのは弁護士のミロ・チェラールが5月末の欧州議会選挙後に急きょ立ち上げた中道左派新党、ミロ・チェラール党で、これにヤンシャ前首相のスロベニア民主党が続いた。第3党はスロベニア年金民主党で、第4党に左翼新党「統一左翼」と続き、社会主義インターおよび進歩同盟加盟政党の社会民主党(旧ユーゴ時代のスロベニア共産主義者同盟の後継政党)は僅差ながら第5党に沈んだ。全体として有権者の政治不信を反映し新党が伸ばす結果となったが、ヤンシャ元首相のスロベニア民主党もかなり踏みとどまる結果となった。いっぽう前中道左派政権を主導した「積極的なスロベニア」は前回得票のほとんどを失い、議席獲得ラインを割り込んで全議席を失ったが、ブラートゥシェク首相(女性)が選挙直前に立ち上げた分派が辛うじて議席を確保した。
詳しい結果は次のとおり(カッコ内は前回比)。
ミロ・チェラール党 36(新党)
スロベニア民主党 21(-5)
スロベニア年金民主党 10(+4)
統一左翼 6(新党)
社会民主党 6(-4)
新スロベニア 5(+1)
アレンカ・ブラートゥシェク同盟 4(新党、「積極的なスロベニア」から分派)
少数民族留保議席 2
社会民主党 公式サイト(スロベニア語)
http://www.socialnidemokrati.si/
ミロ・チェラール党 公式サイト(スロベニア語)
http://www.mirocerar.si/
第1党となったのは弁護士のミロ・チェラールが5月末の欧州議会選挙後に急きょ立ち上げた中道左派新党、ミロ・チェラール党で、これにヤンシャ前首相のスロベニア民主党が続いた。第3党はスロベニア年金民主党で、第4党に左翼新党「統一左翼」と続き、社会主義インターおよび進歩同盟加盟政党の社会民主党(旧ユーゴ時代のスロベニア共産主義者同盟の後継政党)は僅差ながら第5党に沈んだ。全体として有権者の政治不信を反映し新党が伸ばす結果となったが、ヤンシャ元首相のスロベニア民主党もかなり踏みとどまる結果となった。いっぽう前中道左派政権を主導した「積極的なスロベニア」は前回得票のほとんどを失い、議席獲得ラインを割り込んで全議席を失ったが、ブラートゥシェク首相(女性)が選挙直前に立ち上げた分派が辛うじて議席を確保した。
詳しい結果は次のとおり(カッコ内は前回比)。
ミロ・チェラール党 36(新党)
スロベニア民主党 21(-5)
スロベニア年金民主党 10(+4)
統一左翼 6(新党)
社会民主党 6(-4)
新スロベニア 5(+1)
アレンカ・ブラートゥシェク同盟 4(新党、「積極的なスロベニア」から分派)
少数民族留保議席 2
社会民主党 公式サイト(スロベニア語)
http://www.socialnidemokrati.si/
ミロ・チェラール党 公式サイト(スロベニア語)
http://www.mirocerar.si/
2014-07-10
【おくやみ/グルジア】シェワルナゼ元大統領が死去
7日、グルジアのシェワルナゼ元大統領が死去した。86歳だった。
シェワルナゼ氏はソ連時代、グルジアの共産党第一書記や治安担当閣僚など要職を経て、1985年に就任したばかりのゴルバチョフ共産党書記長(当時)に引き立てられて外相となり、ペレストロイカ体制の下で「新思考外交」を推進、冷戦終結の立役者となった。しかしゴルバチョフがソ連大統領に就任後、保守寄りに舵を切るとこれを穏健改革派として批判、外相を辞任したうえ共産党も離党し、親欧米的な民主社会主義色のある路線に移行した。91年8月の共産党保守派クーデター未遂においては改革派に立った。
その後、ソ連崩壊直前に一時期、外相に復帰したが、そのままソ連は崩壊。民族主義的なガムサフルディア政権が崩壊した後の故国グルジアに迎えられ、最高会議議長から大統領に就任した。このとき組織した与党・グルジア市民同盟はシェワルナゼの名声もあり社会主義インターに加盟していた。
だがシェワルナゼの政治手法はソ連時代から一貫して穏健改革派であり漸進的な改革を志向するものであったため、グルジアをめぐる急速な政治経済情勢の変化に対応しきれず、国内で蔓延した政治腐敗や官僚主義に手を付けることができなくなってグルジアの民意と乖離していった。このため最終的には「カラー革命」の一環としてかつてシェワルナゼ政権で閣僚だったサアカシビリを先頭に「バラ革命」が起き、大統領辞任に追い込まれた(同時にグルジア市民同盟も解体)。しかしかつて統一の立役者となったドイツからの亡命受け入れの申し出を断り、余生をグルジアで過ごした。この間、サアカシビリは大統領に就任し一時は圧倒的な支持を得たものの、のちに強硬な反ロシア路線を掲げたうえでアブハジアや南オセチアへの軍事侵攻失敗から両地域の事実上の独立を許してしまって求心力を失い、議会選で敗退し事実上の失脚に追い込まれたまま大統領職を去っている。
ソ連の改革派として冷戦を終結させた立役者から祖国グルジアの指導者に復帰したものの「革命」に倒された生涯は、20世紀後半の希望と混迷を象徴するかのようであった。
シェワルナゼ氏はソ連時代、グルジアの共産党第一書記や治安担当閣僚など要職を経て、1985年に就任したばかりのゴルバチョフ共産党書記長(当時)に引き立てられて外相となり、ペレストロイカ体制の下で「新思考外交」を推進、冷戦終結の立役者となった。しかしゴルバチョフがソ連大統領に就任後、保守寄りに舵を切るとこれを穏健改革派として批判、外相を辞任したうえ共産党も離党し、親欧米的な民主社会主義色のある路線に移行した。91年8月の共産党保守派クーデター未遂においては改革派に立った。
その後、ソ連崩壊直前に一時期、外相に復帰したが、そのままソ連は崩壊。民族主義的なガムサフルディア政権が崩壊した後の故国グルジアに迎えられ、最高会議議長から大統領に就任した。このとき組織した与党・グルジア市民同盟はシェワルナゼの名声もあり社会主義インターに加盟していた。
だがシェワルナゼの政治手法はソ連時代から一貫して穏健改革派であり漸進的な改革を志向するものであったため、グルジアをめぐる急速な政治経済情勢の変化に対応しきれず、国内で蔓延した政治腐敗や官僚主義に手を付けることができなくなってグルジアの民意と乖離していった。このため最終的には「カラー革命」の一環としてかつてシェワルナゼ政権で閣僚だったサアカシビリを先頭に「バラ革命」が起き、大統領辞任に追い込まれた(同時にグルジア市民同盟も解体)。しかしかつて統一の立役者となったドイツからの亡命受け入れの申し出を断り、余生をグルジアで過ごした。この間、サアカシビリは大統領に就任し一時は圧倒的な支持を得たものの、のちに強硬な反ロシア路線を掲げたうえでアブハジアや南オセチアへの軍事侵攻失敗から両地域の事実上の独立を許してしまって求心力を失い、議会選で敗退し事実上の失脚に追い込まれたまま大統領職を去っている。
ソ連の改革派として冷戦を終結させた立役者から祖国グルジアの指導者に復帰したものの「革命」に倒された生涯は、20世紀後半の希望と混迷を象徴するかのようであった。
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