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2013-08-16

【マリ】ケイタ元首相が大統領に当選

7月28日に西アフリカのマリで昨年のクーデター後の暫定政権から民政移管のため行われた大統領選挙は、元首相が3名立候補するなど多数の著名候補者が立候補する乱戦となり過半数の得票を得た候補者がいなかったため、この11日に上位2名のケイタ元首相とシセ元財務相のあいだで決選投票となった。開票には数日を要したものの、その結果、3位以下の候補者の大半から支持を取りつけたケイタ元首相がシセ元財務相に大差をつけ勝利した。9月19日に正式に就任する。

ケイタ次期大統領はマリ集会(RPM、社会主義インター加盟政党)の所属で、90年代には当時のコナレ大統領(マリ民主主義同盟=自由・連帯・正義のための汎アフリカ党(ADEMA-PASJ)、この党も社会主義インター加盟政党で、モディボ・ケイタ初代大統領(ケイタ次期大統領とは無関係)が創設したアフリカ社会主義的なスーダン・アフリカ民主集会の流れを引く。なおこの党名は現在のマリの領域が「フランス領スーダン」と呼ばれていたことにちなむ)の下で首相を務めたが、同党から分岐しRPMを結成、02年と07年の大統領選挙に立候補したが落選している。しかし今回は第1回投票で4割弱を得て2割弱にとどまったシセ元財務相(共和民主主義同盟(URD)、この党もADEMA-PASJから分岐した政党)に大差をつけており、当選が有力視されていた。なお3位にはADEMA-PASJのデムベレ候補が1割弱の得票で入っていた。ケイタ元首相は決選投票では第1回投票で敗れた候補者25名のうち22名から支持を取りつけ、8割近い票を集めた。いっぽうシセ元財務相は3%ほどしか票を伸ばせなかった。

マリでは02年の大統領選挙で91年にトラオレ大統領の長期独裁政権を打倒した立役者の一人であり、翌年には民政移管を果たしたことから「民主主義の戦士」と呼ばれていた軍人出身のトゥーレ大統領が元首として復帰、本人も無所属であったことから多数の政党よりなる連立政権を組んでバランスに配慮した統治を行っていた。だが一昨年、マリの独立以来続いていた北部の遊牧民トゥアレグ族による反政府闘争がリビアのカダフィ政権を打倒した内戦に参加し大量の兵器を入手したことでアザワド解放民族運動(MNLA)を結成して攻勢を強化、本格的な内戦に発展すると、これにトゥーレ大統領では対抗できないとするサノゴ大尉率いる軍の一部が昨年3月にクーデターを起こし同大統領を打倒・追放、その後に現在の暫定政権に移行していた。
しかしMNLAは4月にこの混乱に乗じてアザワドの独立を宣言したものの、世俗的な勢力であったため連携していたイスラム原理主義過激派の武装組織アンサール・ディーン(アルカイダと関係がある)とすぐに対立したうえ駆逐されてしまい、そのアンサール・ディーンは世界遺産都市トンブクトゥの霊廟を「偶像崇拝」として破壊するなどの蛮行を行って国際社会の非難を招き、国連安保理の全会一致の決議を受けてこの1月からフランス軍および西アフリカ近隣諸国軍がマリ軍を支援して軍事介入を開始。特にオランド大統領の社会党(社会主義インター加盟政党)政権の指揮によるフランス軍の圧倒的なハイテク軍事力と機動力による電撃戦によりアンサール・ディーンはまたたく間に一掃され、マリは国家崩壊の危機を乗り切った。ただフランス軍介入の意図については隣国ニジェールにおけるウラン鉱山の不安定要因除去が指摘されるほか、アンサール・ディーン側にも周辺諸国のイスラム原理主義過激派に加えて西サハラ独立派としてモロッコと紛争を続けているポリサリオ戦線(社会主義インター加盟政党)が支援に入ったとの情報があるなど、この半年の紛争には複雑な面もあった。さらに軍事介入の当初にはフランス軍の介入停止を求め紛争の複雑化・かく乱を狙ったとみられるアルジェリア人質拘束事件がアンサール・ディーンと関係があるベルモフタール容疑者(のち死亡情報が出たが未確認)率いる「イスラム血盟団」によって発生、日本人人質も犠牲となったことは記憶に新しい。

なおフランスの軍事介入でアンサール・ディーンが排除されたことによりMNLAは勢力を回復させ、新政権とアザワドの地位について改めて交渉すると表明している。選挙も暫定政権との合意により、MNLAが支配する地域でも平和裏に行われた。とはいえ新政権が2ヶ月以内に交渉を開始しない場合はMNLAは戦闘を再開するとしており、またケイタ次期大統領が首相であった時期に学生運動に強圧的に臨んだこと、昨年のクーデターの首謀者だったサノゴ大尉がケイタ元首相の優勢が明らかになった14日に突然、中将に昇進するなど、これまで西アフリカでは珍しく複数政党制民主主義が機能している国家とされていたマリで今後、権威主義色が強まる可能性もあり、国家再建に向けた不安定要因も多く残されている。

加えて民政移管の一環として国民議会(一院制議会。定数160、小選挙区二回投票制が基本)の選挙も同時に行われたが、その開票はさらに遅れており、帰趨は明らかになっていない。また投票率は約45%だったとされており、選挙そのものは公正に行われたとされるが、内戦の危機を今もはらむ不安定なマリでこの投票率をどう評価するかは、議論が分かれるところである。

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2013-08-06

【ジンバブエ】ムガベ大統領6選も混乱

7月31日、アフリカ南部ジンバブエで大統領選挙および議会上下両院選挙(定数・下院210、上院66。双方とも小選挙区制が基本だが上院には任命議席16あり)が行われた。その結果「独立の父」でありながら現在、欧米から「独裁者」視される現職のムガベ大統領(89歳、政党はジンバブエ・アフリカ民族同盟=愛国戦線、ZANU-PF)が、3日までに6選を果たしたと公式発表された。しかし野党の民主変革同盟ツァンギライ派(MDC-T、社会主義インター加盟政党)は百万人単位の投票妨害があったと主張しており、波乱含みの展開となっている。

ムガベ大統領とZANU-PFはもともと旧ローデシアの白人政権に対しゲリラ闘争を展開していた黒人左翼ナショナリズム的な組織(当時はZANU、親中的傾向があった)で、同じ目的を掲げながら親ソの傾向が強かったジンバブエ・アフリカ人民同盟(ZAPU)と時には共闘し、時にはライバル関係にありながら独立闘争を進めた。その結果、1980年にジンバブエは独立を達成した。当初は高い識字率の達成、黒人と白人の融和、アフリカを襲った飢饉に効果的な対応をし餓死者をいっさい出さないなど高い評価を得ていたが、88年にZANUがZAPUを合併し一党制を敷いた頃から独裁色を強め、さらに90年代末には白人農場主の追放を開始、大規模農場経営のノウハウを持たない黒人による接収を後押ししたことで国内経済が破壊され、破滅的なインフレを招いた。これに対し労働運動の指導者ツァンギライ氏が政党・民主変革運動を組織してムガベ大統領に対抗、特に社会主義インターや欧米から支持を受けたが、ムガベ大統領は与党や旧ゲリラ組織からなる国軍・治安組織、近隣諸国の支持などによって政権を維持してきた。それでも前回選挙後は暴動の頻発する政治危機のなか野党への譲歩を余儀なくされ、ツァンギライMDC党首を首相に任命し連立政権を構成していた。

今回選挙ではMDC(ツァンギライ派とヌクベ派に分裂している)のほか、ZAPUもゲリラ闘争時代の情報部門幹部ダベングワ氏が復活を宣言して立候補、複雑な構図となったが、中央選管の公式発表ではムガベ大統領が6割強、200万票以上を獲得し当選を決め、周辺諸国やアフリカ連合(AU)も祝福の意を示している。また上下両院選でもムガベ大統領のZANU-PFが大きく伸ばし、ツァンギライ首相のMDC-Tは議席を急減させた。しかしツァンギライ首相は百万人単位で投票できなかった有権者がいるとして不正選挙を訴えて欧米の支持を得ており、抗議活動による混乱の長期化も予想される。またムガベ大統領自身の高齢、健康問題もあり、不安定な状況が続くとみられる。ただ前回選挙と比べて暴力沙汰は減っているとされるうえ、ツァンギライ氏自身が首相として連立政権に参画したにも関わらず実績が上がらなかったことへの失望が出たとの観測もある。

民主変革同盟 公式サイト(英語)
http://www.mdc.co.zw/

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プロフィール

西形公一

Author:西形公一
もと「民社ゆーす」(旧民社党全国青年部系)事務局長。昔は漫画と法律のことなどをやっていましたが、その後にインド・ネパール・タイなど熱帯アジアの国ぐにとパシュミナを軸とする小口貿易やNPO、研究活動など人とのつながりなどの縁ができて、今に至っています。写真は夕刻のゴア(インド)にて。

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