コメント
こうされたらどうか
安保法案が全て正かったことは、当資料館をご覧いただくと分かると思います。
よって私は村野瀬玲奈さんを神として崇め奉ります。
村野瀬さんが裁判に提訴されても無駄です。
私が村野瀬さんを神として崇めるのは、私の信仰の自由で保障されています。村野瀬さんがいかなる主張をされても、私たちとは一切関係ありません。
このように一方的に宣言されて何もできない。自分の意思とは正反対の場所に名前を掲げられる。
あげくに永遠の「賛同者として」顕彰され続けることが当宗教本来の趣旨であり、正しい参拝法であるといわれる。
つまりは自分の生前の意志とは関係なく、正反対の主張をする場所に永遠に顕彰(讃えられ)して伝えられていく。
名誉棄損どころではない。生前個人や遺族(やむなく入隊した)の意思は無視し、都合よく合理化した論理で自己主張を正当化するために利用するという宣言。
事実を歪め、今の日本の姿を象徴するような光景だと思う。
戦前の体制を理想、行為を肯定している施設です
戦後も反省することなく、脈々とその価値観を引き継いでいます。
靖国神社職員有志の主張を読めば一目瞭然。
所詮、戦前の日本の体制を理想とする施設。
戦前の大日本帝国の行為を賛美、正当化する施設。
排他的思想で固められた施設でしかありません。
こういった「靖国思想」に心酔いしている人が、日本の首相をしているといった悲劇的な現実があります。
No title
こんなことを、まじめに言ってるなら潰すべきだ。
死人は何も言えないと思っているのだろうが、
これは死者に対する冒涜だ。
憲法知らないの(怒)!?
No title
A級戦争犯罪人とはすなわち、「戦争にかこつけて、人間として許さざるべき行為を行った、最低のクズ」ということで、戦争に勝とうが負けようが、クズはクズという事なのだ。
大体、日本の兵士の60パーセントが、国を守る戦闘ではなく、餓死や傷病死で命を失ったことを考えれば、その行為を強いたA級戦犯どもを許すなどということ、真の愛国者であればできるはずが無いというのが明々白々であろう。
>28205番のコメントの方
言いたいことはわかりますが、「XXXXXXXXXXX」の部分に不適切な表現がありましたので、削除してここに転載させていただきました。ご了承ください。
私でしたら、「XXXXXXXXXXX」の部分は、「自分の過ちを認めない自分勝手で潔くないオトコの」とでも書くところです。
結局、コレってこんな宗教への強制檀家制度の一面もあるのかなと感じる。
やがて、首相が正式参拝(公式参拝なんてものは、もとから存在しない)を恒常化し、やがては天皇が参拝しておしゃぶりとよだれかけがお似合いの人々が、涙を流して喜ぶという図が思い描かれる。
国が、村山首相の時に侵略を認めたんだから、あの場所に神として祀られているのは国際的な犯罪者という事になる。
勿論その全てがとは思ってはいませんけど…
でも、中にはやはり国際犯罪者がいる訳だから、はっきり言って邪神崇拝と言っても良いのではないでしょうか?
本人にあそこに祀られる事を望んでいなかった人がいるのなら、時の侵略思想にまみれたバカ共の犠牲になり、死して尚利用されている状況を少し考えてみる必要があると思います。
No title
代わって、鯨のアーさんがあとを継ぎます。
お~い。
あいつは生きていてても物騒だったが、
あっちにいったら、
歯止めがないよぉ~。
本当に、大丈夫?
No title
靖国には、
祀られることを望まなかった御霊が多い
(と思いますけどね)。
死んでまでも、馬鹿に縛られるとは
それこそ思ってもいなっかただろうにな。
死んだら、自由だ。
そのうち、えらい目をみる覚悟が、
靖国関係者にはあるのだろうな。
生きている者は、死者を利用しようとしてはいけません(お母さんに教わらなかった地域の人?)。
なぜ侵略戦争と認識できないのか
赤紙1枚で徴兵され,軍隊で殴る,蹴るの暴行を受ける,戦場では精神力で戦うことを強制され,十分な食料の補給もなく,半分以上の兵士が病死,餓死しても名誉の戦死として英霊に祭り上げる異常さに疑問をもったのだと思います。
ヒトラーは天皇制について絶賛の言葉を述べましたし,ゲッペルスは「戦死した英雄たちのヒロイズムを国民的な神話に拡大するような,戦死者に対する宗教的義務というものを,われわれドイツ人は残念ながらまだ持っていない。」と日本を羨ましく思いました。国家神道と結びついた天皇崇拝こそ,ナチス・ドイツが理想とする政治宗教のモデルでした。(一部 宮田光雄「ボンヘッファーを読む」1995年,岩波書店 から引用)
「天皇さまのために死ぬのは,国民の道である。日本臣民は自分のために生くべきではない。生くるも死ぬるのも,ただ天皇さまのためである。・・・・・・
しかし,人が,天皇さまのために死ねるのは何のためであらうか。それはただ,天皇さまが神であらせらるるからである。天皇さまのために死ぬ。しかしそれはただ死ぬのではない。斯の如く死ぬことによってこそ,彼はまことの人となったので,まことの人,即ち神となってこそ,彼はもう死んだのではない。生きたのである。かくして死ぬことによってはじめて,永遠の生命に入ったのである。」(加藤一夫「天皇信仰道」1943年,竜宿三房)
読んでいて気分が悪くなる文章です。
日本ファシズムは特有の宣教的使命感をもつ。そこでは,政治そのものが世俗のわざというより「神聖なる事業」(国体の本義)である。天皇によって指示され,その意を体して踏みゆく道を,<皇道>と呼んだ。それは,固有の民族的価値にもとずく日本民族の政治的自己意識にほかならない。<皇道>の宣布は,神話的イデオロギーで<八紘一宇>の実現といわれた。これは,全世界を一つの屋根のもとにおく,という意味である。天皇制国家は,もっとも神聖な使命から,この偉大な世界計画をもつ。他国民が<天孫民族>に従属するにいたるならば,彼らは神々が授けうるもっとも偉大な贈り物,すなわち,永遠の平和を授かることになる,というのである。スタークは,ここに政治宗教の聖なる使命観の典型を認めている。
「このような人の気をひく平和論は,容易にわかるように,同時に戦争論でもある。それどころか戦争の神聖化なのである。使命をもった国民が行うすべての戦いは,必然的に十字軍,つまり神の欲する企てということになる」と。
・・・・・・・東アジアにおける支配の確立は,帝国主義的ヘゲモニーの要求から導かれたのではなく,<皇道>の宣布という倫理的=道義的義務の遂行にほかならないというのである。(宮田光雄「ボンヘッファーを読む」1995年,岩波書店)
「大東亜戦争は欧米列強植民地支配からのアジア解放のための正義の戦いである」というのは,倫理的にも道義的にもまったく正しいという十字軍きどりの独善的な考えなので,侵略戦争だなんて絶対認識できないのでしょう。
安倍晋三のいう「積極的平和」というものは,相手を焼野原にした状態,または圧倒的な軍事力で脅迫し戦う前から白旗を上げさせるようなことをイメージしているとしか考えられません。
もうひとつ気分の悪くなるような文章を。
「一時の方便として英米等に接近することは聖業遂行上許されもし必要であるとしても所詮根本的に世界観を異にし神の子とアミーバの親とである以上両者が其のまま永く手を握ることは不能であり何時か何等かの形に於いて相争うべく宿命ずけられて居るのである。彼等に東亜の新秩序の真意を理解せしむることは犬猫に忠孝を理解せしめると等しく不能であらうから肉片を与えて飼いならすか已むを得ずば撲殺する外に方法はなかろう。」(鈴木重雄「聖戦の思想史的意義」1940年,興亜院政務部)
天皇の代替わりにともない,<ヤスクニ>がどのような動きを見せるか注意する必要があると思います。
八紘一宇
「ほかのやつらに強盗に入られたと聞いた。おれたちが財産を管理してやるから,財産を差し出せ。」と言って,刀を突きつけて脅迫する。
「おれたちは強盗ではない。神様の使いである。おれたち神様一家の子分にしてやる。ほうびは平和だ。ありがたく思え。」
村野瀬さんは,「これを宗教とよぶべきものかどうかためらってしまいました。」と書いていらっしゃいますが,宗教ではありません。
異端というより,邪教で,集団自殺をとげた人民寺院と同じ狂信者の集まりです。
出口王仁三郎は,すべての宗教宗派はその祭儀・教理のあり方,説き方に相違はあっても,愛と善と正義を説かないものない,と言っています。
<ヤスクニ教>には,愛も善も正義も感じられません,
ヤスクニ教は異常な宗教
靖国神社は戦争に巻き込まれて亡くなった人々を追悼する施設ではない。それは,天皇の名において,天皇のために戦死した者を顕彰する施設である。
戊辰戦争や西南戦争での逆賊は朝敵なので,祭られない。
天皇の軍隊,皇軍に強制的に入れられ,戦争で犠牲となった者を軍神にまで高めあげて祭りあげる施設である。
死者に対しても,このように差別する。
その基準は天皇に対する忠誠の度合いである。
このように,たいへんに恣意的で,とにかく人として完成するのは天皇のために死ぬことによってである,というのですからヤスクニ教は異常な宗教だと思います。
日本を守るために亡くなった兵士に感謝をささげ,慰めることは当然のことである,何が悪いのだ,と一般にいわれていることはまったくの嘘です。
西郷どんは逆賊である。
西郷隆盛は鹿児島の南洲神社において(佐賀の乱の江藤新平は佐賀県護国神社において),神として祭られていますが,靖国神社からは逆賊,朝敵と認定されているので靖国神社では祭られていません。
どうして靖国神社は,逆賊西郷隆盛を1年かけて放映するのだとNHKに猛烈な抗議をしないのでしょうか。
異教徒の思いなんて知ったことではない,誰を祭り,誰を祭らないかは「信教の自由」であると言っていますが,護国神社では神として祭り,靖国神社では逆賊として祭らない,とはどういうことなのでしょうか。
異教徒ではない,あなたたちの宗教のことでしょう。どうして取り扱いを統一できないのか。
人間が死んで神になるという考えは,どうにも違和感があります。
カトリックではせいぜい聖人か複者です。
神と人間の間に断絶性がない。
神と人間が真剣に対峙しないから,神と人間が契約するという考え方もできない。
これでは,人間が個として確立することは困難なのではないでしょうか。
ヤスクニ教の論理は破綻している。
正義の戦争と侵略戦争(悪い戦争)があるというのですが,戦争は国家による究極の暴力であり,集団殺人です。
「よい殺人」と「悪い殺人」があるのでしょうか。
南京やシンガポールでの虐殺の被害者の多くは非戦闘員です。そのような人々を虐殺することが,どうして欧米諸国から解放することになるのでしょうか,
自衛のための戦争
アメリカは,トンキン湾でアメリカの駆逐艦が北ベトナムの魚雷艇の襲撃を行けたというトンキン湾事件をつくあげ,自衛のためと称して3日後に来たベトナムを爆撃しました。
板垣征四郎から工作資金を受け取った田中隆吉は,愛人の川島芳子に依頼しました。川島芳子は,抗日労働者(殺し屋?,ゴロツキ?)にお金を渡して日本人僧侶2名を死傷させました。在留邦人保護(自衛のため)と称して,上海を武力で制圧しました。これが第一次上海事変です。
このように「自衛のための戦争」など,いくらでも作り上げることができます。
宮葉子さんは「憲法に「愛」を読む」の中で,このように述べています。
自衛,自分を守るという発想をしている限り,人は絶えず何かを恐れ,どこまでも不信を生み続け,妄想は拡大し,見えない敵に対する防備を強めていくように思います。また,自衛なのだと説得されると,人は案外簡単にそのような意見になびく傾向があると思います。
そうではなく,心を開いて,相手に愛を持って自分から近ずいていく。これは自衛とはまったく反対の考え方です。そのとき,そこには新しい調和が生まれていく。これを国に置き換えて考えてみることはできないでしょうか。
この考え方は,ディートリッヒ・ボンヘッファーと全く同じです。
同志社大学教授を務めた土肥昭夫先生(故人)が,「キリスト教会と天皇制」という本の中で,昭和天皇がアメリカのプレスから,戦争責任を感じているかどうか質問を受けたとき,昭和天皇は「自分は文学の方面は明るくないので,ことばのあやといったものがわかりません」といった趣旨の回答をしたのは,まったく不誠実だったと書いてありました。
私が当時感じていたことをはっきり書いていました。
相手からの質問にはまともにこたえず,はぐらかして,自分の論理でとんちんかんな回答をする。
まさに不誠実な回答だったと思います。
神道は日本の民族宗教である
宗教思想はその志向性において普遍であるときに真正である(ユダヤ教はこれに該当しない。民族の概念にむすびついているからだ)。
ひろさちや氏は,神道は日本人の宗教であると言っています。
神道は教祖も創設者もいない民族宗教であって,日本人として生まれればただちにその信者となってしまいます。
そういえば,神道を信仰する外国人のことを聞いたことがありません。民族的で排外主義の志向性をもつ神道を外国人が信仰するとは考えられません。
戦争のために亡くなった兵士を悼むべく祭ってある靖国神社はすばらしいとか,当然であるとか言う外国人は表面的な理解をしているだけで,本質を理解していません。
天皇についても明治以前は,代々個人的には仏教を信仰していましたし,葬儀も仏式で行われていました。明治政府が天皇家の信仰を強制的に変更しました。
明治天皇も仏教徒として一生を終えることができなかったことに後悔していたようです。
老舎のはげしい怒り
盧溝橋事件の翌年にあたる1938年7月に子ども向けに書かれた「児童の最大の敵を撃退せよ」の中で,日本軍を「禽獣あるいは狂犬」と呼ぶべきだと述べ,報復と日本軍人の殺害をはっきりと呼びかけました。
・・・日本軍人は君たちの最大の仇である。天然痘よりひどい仇である。日本人は銃剣で中国の児童の腹を切り裂き,中国児童の腰を突き通し,ハラワタが流れ出るのを見て手をたたいて笑っている。なんという世界だ。君たちの小さな拳を握りしめ,小さい心で決意を固めるのだ。復讐せよ!復讐せよ!復讐せよ!
私は君たちに残忍な殺人者になれと勧めているのではない。日本軍人があまりに憎むべきで,非人間的なので,殺しつくすしかないのだ。蚊や南京虫に人道を語るのは無駄である。逆に,蚊や南京虫を根絶してこそ,病気にならずにすむ。
日本軍人に対しても同じである。父さんや母さんが死んだのか。泣くな!身体を鍛えて,気持ちを奮い起こして,日本兵を殺すのだ。
日本軍人は人を見ると殺し,血を流させることに快楽を感じている。
「倭奴」が「禽獣」になったのは,その教育に原因がある。
中国人はブタやイヌにも劣ると言い,きびしく殺したり鞭打ちにしたりしなければダメだと言う。中国人を殺して怖がらせ,ひざまずいて日本に頭を下げさせてこそ,天下太平になる。だから,日本人は侵略しながら同時にこれは東亜の平和のためだと言う。
老舎が,これほどはげしい怒りの文章を書いていたとは驚きですが,東亜に平和をもたらすための聖戦だったなどというのはまったくのウソであることは,これらの文章を読んだだけでもわかります。
「桃太郎主義」
私なりに理解すると,無邪気な残忍性に基ずく「欲望自然主義」の結果としての「膨張主義」ということでしょうか。
一 桃太郎さん 桃太郎さん お腰につけた きび団子 一つわたしに
下さいな
二 やりましょう やりましょう これから鬼の 征伐に ついていくなら
やりましょう
三 行きましょう 行きましょう あなたについて どこまでも 家来に
なって 行きましょう
四 そりゃ進め そりゃ進め 一度に攻めて 攻めやぶり つぶしてしまえ
鬼が島
五 おもしろい おもしろい のこらず鬼を 攻めふせて ぶんどり物を
えんやらや
六 万々歳 万々歳 お伴の犬や 猿 雉は 勇んで車を えんやらや
とくに四番と五番がひどいですね。いったい鬼が何をしたというのでしょう。
驚くことに新渡戸稲造のような知識人が桃太郎を持ち上げ,愛国教育の指針に
するよう訴えたのだそうです。
1937年7月の盧溝橋事件後は,マスコミは戦争熱をあおりにあおったそうです。
「当るを幸ひ敵をなぎ倒し・・・」などという桃太郎なみの単純さで低劣な文章が新聞にあふれ,「好敵ござんなれ」「久しぶりに愛刀に血の御馳走」「腕が鳴るに委せて・・・切りまくった」などの記事を,ひとびとはむさぼるように読んでいたそうです。
中国での蛮行はかならずしも内地のひとびとに隠されていたわけではなく<あるまじきこと><恥ずべきこと>として隠されるどころか,とくいげに堂々と伝えられていました。
「勤務のない兵隊たちはにこにことして夜営地から出て来た。勤務で出られない兵がどこに行くんだと問うと彼等は,野菜の徴発に行ってくるとか生肉の徴発だとか答えた」(石川達三「生きている兵隊」)。
生肉の徴発とは,クーニャンを強姦することの隠語だそうです。
兵士らが中国の婦人たちを強姦しながら,移動していく部隊の戦友たちに楽しげに手を振っていた,とも言われています。
これらはまさに無邪気な残忍さをまとった桃太郎主義の実態です。
「シンドラーのリスト」に登場する強制収容所長のアーモン・ゲートはユダヤ人にタイプで口述筆記をさせている途中,外にいたユダヤ人囚人を窓からライフルで射殺し,机に戻ると「さて,どこまで話したかね」と言ったそうです。
アーモン・ゲートが直接手を下した死者は500人をくだらないそうです。
非戦闘員を対象としているので,これらは戦争に必然的に伴う行為ではありません。戦争という場において,ふだんは許されない非倫理的な行為を行ったということで,当然刑法が適用されるべきものです。
非戦闘員を強姦,虐殺などした行いは,東亜に平和をもたらす聖戦などではありませんでした。
靖国神社の人々は,なぜ歴史を知らないのでしょうか。
日本人は自ら戦犯を裁かなかった
1950年代中ごろまでは,戦犯の即時釈放を請願する署名が約4,000万人に達したと言われています。当時の総人口が9,000万人ほどであったことから,成人の大多数が戦犯釈放を求めていたことになります。
岸信介のことはよく知られています。
辻政信は,ノモンハン事件,シンガポール華僑粛清事件,パターン死の行進における偽命令による虐殺などで,無責任ででたらめな行動をとったことにより,
アメリカ軍捕虜等のみならず,多数の日本軍人の命も失わせました。
1950年に戦犯指定から外されると,世の中に出てきて,執筆した「潜行三千里」はベストセラーになり,「十五対一」はベストテン入りしました。
1952年には旧石川1区から出馬し,衆議院議員となりました,
このように,日本国民が日本の政治家,軍人党の戦犯を自らの手でまったく裁いてこなかったばかりか,戦犯指定から解除されると,それを利用したという節操のなさが靖国神社を育てたことに間違いありません。
嘘で固めた「アジア解放のための戦争」
第一 方針
占領地に対しては差し当たり軍政を実施し治安の恢復,重要国防資源の急速獲得および作戦軍の自活確保に資す
第二 要領
七.国防資源取得と占領軍の現地自活の為民生に及ぼさるるを得ざる重圧は之を忍ばせしめ,宣撫上の要求は右目的に反せざる限度に止むるものとす
八.・・・・・現住土民に対しては皇軍に対する信倚観念を助長せしむる如く指導し,其の独立運動は過早に誘発せしむることを避くるものとす
とあります。
東南アジアの占領目的は戦争のための資源獲得であること,そのために現地住民に課すことになる重圧は耐え忍ばせること,日本が解放しに来てくれたなどと誤解して独立運動が起きないよう抑制することが明記されています。
「解放」ではなく,「占領」と明記していること,八紘一宇と言いながら差別意識丸出しの「現住土民」という言葉を使用していることに注目する必要があります。
ところで,大川周明などが参加して作成した「大東亜共同宣言」(1943年11月)は美辞麗句で固めた戦争目的を公言しています。
大東亜各国は相提携して大東亜戦争を完遂し,大東亜を米英の桎梏より解放しその自存自衛を全うし,左の綱領に基き大東亜を建設し,もって世界平和の確立に寄与せんことを期す。
一.大東亜各国は共同して大東亜の安定を確保し道義に基く共存共栄の秩序を建設す
一.大東亜各国は相互に自主独立を尊重し互助敦睦の実を挙げ大東亜の親和を確立す
1943年8月1日,日本政府・日本軍の後押しにより「ビルマ国」が誕生し,即日,日本政府は承認し,同盟条約を締結しました。しかしこれは傀儡政権でした。
東條英機はビルマ独立直前に次のような発言をしました。
「ビルマ国は子供というより寧ろ嬰児なり。一から十迄我方の指導の下にあり。それにもかかわらず本条約が形式上対等となり居るはビルマ国を抱き込む手段なり」
またヴェトナムにおいては,日本はフランス植民地をそのまま利用して支配し,膨大な食糧を収奪しました。その結果,1944年から45年にかけて空前の飢饉が発生しました。45年9月2日にホー・チ・ミンが発したヴェトナム民主共和国独立宣言では,日本の略奪により200万人のヴェトナム人民が餓死したことを
述べられました。
「日本はアジア解放のために戦った」などというのは,戦後明らかになった資料から,まったくの嘘であり,侵略戦争以外のなにものでもなかったことが判明しているのです。
資源獲得ですら戦争目的ではなかった
保坂正康氏の「安倍壊憲と昭和史の教訓」から一部引用します。
昭和16年10月,11月には,(陸軍省軍務局軍務課)内務班のある将校は石油会社を回って,アメリカのメジャーとの間にプロジェクトを結んで石油の導入をはかる動きに対して,「石油が足りないという状況下で国策が進んでいるのに勝手な動きはするな」と圧力をかけている。実際にはこの種の動きは歴史の表にはでてこないが,数多くあったのである。
以上,引用終わり。
つまり石油を導入する算段があり,しかもそれを実行しようとしている最中に,陸軍が妨害したということです。あくまでも戦争したいという気持ちが先にあって,戦争するための理由ずけは後からいくらでも言えたということです。
再び同書から引用します。
日本の軍人たちは日清戦争で清国から莫大な賠償金(二億両)を獲得している。当時の国家財政の一.五倍である。それによって明治三十年代からの富国強兵は成り立った。さらに日露戦争によって満鉄の利権を始めロシアがもっていた権益を確保し,樺太の南半分もまた日本の領土とすることに成功した。第一次世界大戦ではドイツが中国や東南アジアに有していた権益などを手に入れた。
戦争に勝つことによって,日本は世界の一等国になったのである。その賠償金によって国は富める国へと変わっていったのだ。
陸軍の軍人たちは,戦争を起こさない限り自分たちの存在理由を見いだすことができず,その起こした戦争に勝利を得ることによってのみ,お国に奉仕しているとの強い確信が生まれたといっていい。
本来,国自体がバランスよく成長しているのであれば,軍隊はつねにそれを守るという防禦の軍隊ということになる,ところが軍人たちのこのような「戦争を欲する感情」は「結局は侵略性を帯びてしまう」ことになるといってもいい。
以上,引用終わり。
日清戦争以来,戦争で獲得した権益を失うことなく,それをさらに膨張拡大していくこと,これが日本の軍部の考え方でした。さらに,実力組織である軍隊がその存在理由を示すために,後先考えずに戦争に突き進んだわけです。
戦争は勝てば膨大な賠償金を手に入れるこことできる。
ほんとうに戦争はもうけになるのです。
靖国神社が「アジアを解放するための正義の戦争だった」,「自衛のためのやむを得ない戦争だった」というのは,まったくの嘘であることは明白です。
美濃ミッション事件について
美濃ミッションとは,アメリカ人宣教師セディ・リー・ワイドナーによって
1918年に大垣市に設立されたプロテスタント教団で,ワイドナーは西美濃に教会を設立し,不況活動を展開しました。
在日朝鮮人,母子家庭の親子,孤児,紡績工場の女子労働者らを積極的に保護し,布教を行いました。こうした社会的に排除される傾向をもつ人々と積極的なかかわりを持つにいたった美濃ミッションという教会は周囲から「異質な」存在であると見なされるようになりました。
1933年6月14日大垣市東小学校の修学旅行での伊勢神宮参拝を拒否する意向で,美濃ミッション所属男子児童が修学旅行の欠席を申し出たことが問題になり,各地方メディアで報じられました。美濃ミッションで働く母親と弟が学校に呼び出され,両者とも信仰上の理由から参拝はできないと答えました。
神社参拝の強要は信教自由の侵害であると訴えるワイドナーに対し,校長は神社参拝は国民教育の一部であると反論しました。この「神社は宗教に非ず」といった神社非宗教論は当時の政府・国家神道の主要論拠でした。神社の宗教性を否定することによって,信教の自由を侵害することなしに他の宗教を国家神道のなかに取り込むというレトリックは,各宗教に受容されるようになりました。
大本事件やホーリネス教会事件は,政府による直接的な宗教弾圧事件ですが,美濃ミッション事件では,その他の外部の力が加わりました。
a 地域住民
路傍伝道にて賛美してた美濃ミッション関係者に対して,数百人の民衆は日 本人牧師に対して「貴様はそれでも日本人か!」と口々に罵倒し,自発的に教 会に引き上げた美濃ミッション宣教師及び日本人教職者へ暴行,投石を行いま
した。
b 教育関係者
美濃ミッションの思想を「国体破壊の恐れあり」として排撃しました。児童 に小学校令38条を適用し,性行不良として中小学校から1名,東小学校からは 兄弟2名を退学処分としました。
大垣中小学校興文会が作成したポスター「国体擁護のために美濃ミッション を排撃しませう」が市内各所に貼り出されました。
c メディア
美濃大正新聞は「小学児童の神社参拝を拒否 国民思想を根底から覆す」 「幼児に反国家思想を 由々しき一大事」などとして,美濃ミッションを批判し
ました。そのほかには,名古屋新聞,新愛知,岐阜日々,中央報知,大阪朝 日,大阪毎日,東京読売,岐阜新聞,岐阜日報など多数が美濃ミッション及び ワイドナーへの批判を掲載しました。
d 岐阜県行政
3年前に提出されていた美濃ミッション所属教会設立許可は「許可シ難シ」 の一文で岐阜県知事により却下されました。
e 警察
大垣署は複数回にわたって美濃ミッション関係者に出頭要求を出し,ひとり ひとり尋問しました。
「ワイドナー氏の問題は,我々キリスト教徒も非常に迷惑を受けている(安八農学校の佐藤信夫)」と言われるほど,キリスト教関係者からも見放されます。
この後日本国内プロテスタント教派33の教会が集結し,合同教会として日本基督教団を設立しました。キリスト者自身による神社非宗教論の提唱によって,積極的に戦争へ協力していくことになりました。
天皇の代替わりにおける儀式について,日本キリスト協会,日本バプテスト教会が2018年8月に声明を発表しました。儀式が宗教的な意味合いを持つこと,その儀式に国が公金を支出することは,国民主権,政教分離原則,信教の自由との関係から認められないとの内容です。
私も大嘗祭は宗教的な儀式であり,天皇が祭祀を行うトップであることから,政教分離の原則に抵触し,憲法に違反すると思います。
即位礼・大嘗祭違憲訴訟で1995年大阪高裁は「憲法違反の疑いは一概に否定できまい」と述べました。
天皇の代替わり,新天皇即位でこれから祝福の機運が盛り上がってくると思いますが,はたして特定の宗教に多額の公金が使われてよいのか,今一度立ち止まって考える必要があると思います。
天皇の憲法豪語義務
神話に由来する神器が使われ,皇室の神道の形式で行われることから,現憲法の政教分離原則に違反することは明白です。
戦争の跡地への慰霊の旅を続け,平和憲法順守の気持ちが誰よりも強いと絶賛される天皇ですが,即位の礼・大嘗祭違憲訴訟についてはどう思っているのでしょうか。
根本的な疑問ですが,天皇は憲法順守の義務がないのでしょうか。
韓国政府が独立運動家・朴烈の妻金子文子に勲章
128人に建国勲章を授与すると発表しました。日本人としては,2004年の布施辰治弁護士に続いて2人目です。
金子文子は日本による植民地時代,韓国人の立場に共感し,活動しました。朴烈とともに日本帝国主義や天皇制に抵抗しました。朴烈に協力し天皇暗殺を企て,爆弾を持ち込もうとして逮捕され,朴烈とともに1926年に大審院で死刑判決を受けました。これは,1923年9月の関東大震災の際の朝鮮人虐殺(その数6,000人)の失態を隠蔽するために「大逆罪」として逮捕されたとされています。
恩赦で無期懲役に減刑されましたが,文子は天皇からの特赦状を受けとるや,
その場で破り捨て拒否しました。同年7月23日,栃木刑務所で首をくくって自死しました。
現在,「朴烈義士・夫人金子文子女史記念館」が聞慶に建設され,文子の墓は敷地内に移されました。
金子文子が述べた天皇・天皇制論は人間の絶対平等観に深く根ざしたもので,高い思想性を示しているとされています。
第2回訊問調書には次のようにあります。
「すべての人間は完全に平等であり,したがってすべての人間は人間であるという,ただ一つの資格によって人間としての生活の権利を完全に,かつ平等に享受すべきはずのものであると信じております。(中略)神聖不可侵の権威として彼らに印象されているところの天皇,皇太子なるものが,実は空虚なる一塊の肉
の塊であり,木偶に過ぎない(中略)少数特権階級者が私腹を肥やす目的の下に財源たる一般民衆を欺瞞するために操っている一個の操人形であり愚かな傀儡に過ぎないこと(中略)己を犠牲にして国家のために尽くすという(中略)かの忠君愛国なる思想は,実は彼らが私利を貪るための方便として美しい形容詞をもて包んだところの己の利益のために他人の生命を犠牲にする一つの残忍なる欲望に過ぎないこと。(中略)他愛的な道徳,(中略)権力への隷属道徳等の観念が,実は純然たる仮定の上に現れた一つの錯覚であり,うつろなる幻影に過ぎないことを,人間に知らしめ,それによって人間は完全に自己のために行動すべきもの,宇宙の創造主はすなわち自己自身であること(中略)を民衆に自覚せしむるために私は坊ちゃん(皇太子)を狙っていたのであります。」
以上,聯合ニュース,「山川菊栄評論集」,安元隆子日本大学国際教養学科教授の「金子文子の東京生活」(国際関係学部研究年報)から一部引用しました。
金子文子は歴史の中に埋もれてしまっていますが,語り継ぐべき人だと思います。
軍国少年の失望
昭和天皇は皇居前に集まった国民から,「自分たちが非力だったせいで戦争に負けてしまった。申し訳ありません」と謝罪されました。また割腹自殺をして詫びる人もいました。
1946年1月1日の人間宣言以来,昭和天皇は全国を行幸し,国民は歓喜の声をもって迎えました。
河井道は,昭和天皇が処刑されるならば日本には血の雨が降ると言いました。
アメリカは日本人の天皇に対する感情を理解し,他国が圧倒的に天皇処刑を求めたのに対して,占領政策上,天皇の戦争責任を不問にしました。
昭和天皇は政治的権能がないにもかかわらず,アメリカに対してもっと長く沖縄に駐留してほしいと請願しました。アメリカにとっては願ったり叶ったりの結果となったわけです。
渡辺清さん(1925~1981)は元戦艦武蔵の乗組員で戦後はわだつみ会の事務局長を務めました。
同氏の「少年兵における戦後史の落丁」(『思想の科学』1960年8月号)から一部引用します。
僕は16の年志願し水平として海軍に入った。・・・・当時の心境をいま動機論的に一応要約してみると,「俺みたいな百姓の子だって兵隊になりゃ偉くなれるんだ」(出世意識)「国を守り天皇陛下に尽くせるのは兵隊だけなんだ」(中世意識)そして「その兵隊で死ねば俺みたいなやつでも天皇陛下がお詣りしてくれる靖国神社の神様になれるんだ」(価値意識)ということになろうか。
・・・・同年兵の中には,付近の島に逃亡したり,航海中海に飛び込んで自殺する者もあったが,それはこのような残酷な私刑に耐えられなかったからである。僕は逃亡も自殺も企てなかったが,またその勇気もなかったが,星の降る暗い夜の甲板で,両足を開いて突っぱり,両手を上げ,歯をくいしばり,固く目を閉じて棍棒に尻をさらしながら,「軍人5カ条」を叫んでいるあの殴打の姿勢,生涯消えることのない焼印をおされたあの屈辱的な姿勢を決して忘れることはできない。あれは決して「人間の姿勢」ではない。
・・・・やがてその(敗戦という)ショックからいくらか立ち直った僕が,まず最初に考えたのは天皇のことだった。・・・当時一部の士官や下士官たちの間では,敗けた以上,天皇から重臣,各大臣,将官級までは,おそらくアメリカ軍の手で死刑にされるだろう,とまじめに話し合っていたが,僕もひそかに同じことを想像していた。しかし,僕の考えでは天皇はそうされる前に潔く自決されるだろう。おめおめアメリカ軍の手にかかるまで生きておられるはずがない。恐れおおいことだが今となってはそれも仕方がない。自分の命令で勝つつもりではじめた戦争に敗けたのだ。300万もの同胞をむざむざ犠牲にしてしまった上に国が亡びるのだ。天皇はきっと死をもってその責任を償われるだろう。天皇はそういう高潔なお方だ,と僕はそれを信じて疑わなかった。
しかし僕の天皇に対する考えは,復員直後ものの見事に覆されたのである。・・・そのときあのトップの5段ぶちぬきの大きな写真にぶつかったのである。そこには二人の男,両手をゆったりと腰にあてた背の高い開襟シャツの男と,モーニングを着ていやにしゃちほこばっているヒゲの背の低い男とが,正面をむいて行儀よく並んでいた。僕には最初それが誰なのかよくわからなかった。しかし見出しのゴシック文字を見て驚いた。”天皇陛下マッカーサー元帥訪問”とあるではないか。しゃちほこばっているモーニングは,なんと「われらの大元帥陛下」だったのである。おまけにあろうことか,となりの開襟シャツは,ついせんだってまで僕らが「いのちを的」に戦ってきた敵の総司令官,マッカーサーではないか。僕は一瞬めまいを感じた,しばらくは体のふるえがとまらなかった。僕は正直「コン畜生」と思った。これがあの天皇だったのか,これが生命と引きかえてもいいくらいに崇拝していたあの天皇だったのか。
・・・・それがどうだ,敗戦の責任をとって自決するどころか,いのちからがら復員してみれば,当の本人はチャッカリ,敵の司令官と握手している。ねんごろになっている。おまけに手土産なんかもらって,「マッカーサーがチョコレートをくれたよ」などと喜んでいる。厚顔無恥,なんというぬけぬけとしたあんじょたる居直りだろう。
僕は,羞恥と屈辱と吐きすてたいような憤りに息がつまりそうだった。それどころか,いまからでも飛んで行って宮城を焼き払ってやりたいと思った。その壕の松に天皇をさかさまにぶら下げて,僕らがかつて棍棒でやられたように,滅茶苦茶に殴ってやりたいと思った。いや,それでもおさまらない気持ちだった。できることなら,天皇をかつての海戦の場所に引っぱっていって,海底に引きずり
おろして,そこに横たわっているはずの戦友の無残な死骸をその目に見せてやりたいと思った。これがあなたの命令ではじめられた戦争の結末です。こうして300万ものあなたの「赤子」が,あなたのためだと思って死んでいったのです。耳もとでそう叫んでやりたい気持ちだった。
とにかく僕の天皇観を覆すのにはこの写真一枚で十分だった。そしてその時以来僕は天皇との「ヘソの緒」を断ち切ったのである。また,この体験を基軸にして,天皇を頂点とするこの国の国家組織の恐るべき欺瞞を見とどけていったのである。
以上で引用終わり。
たいへんに重い文章だと思います。
侵略戦争と自衛戦争
敗戦の翌年(1946年),帝国議会本会議(6月28日)で「憲法改正」についての議論があり,共産党の野坂参三は次のように発言しています。
我々の考えでは二つの種類の戦争がある,二つの性質の戦争がある。一つは正しくない不正の戦争である。これは日本の帝国主義者が満州事変以後起こしたあの戦争,他国征服,侵略の戦争である。是は正しくない。同時に侵略された国が自国を護るための戦争は,我々は正しい戦争と言って差し支えないと思う。この意味において,過去の戦争において中国あるいは英米その他の連合国,これは防衛的な戦争である。これは正しい戦争と言って差し支えないと思う。一体この憲法草案に戦争一般放棄という形でなしに,我々はこれを侵略戦争の放棄,こうするのがもっと的確ではないか,この問題について我々共産党はこういう風に主張している。
森 野坂は,自衛戦争は正しい戦争といっているわけです。そして,そのこと を問われた吉田茂首相はこう答えています。
戦争放棄に関する憲法草案の条項におきまして,国家正当防衛権による戦争は正当なりとせらるるようであるが,私はかくのごときことを認めることが有害であると思うのであります。近年の戦争は多くは国家防衛権の名において行われることは顕著な事実であります。ゆえに正当防衛権を認むることがたまたま戦争を誘発するゆえんであると思うのであります。また交戦権放棄に関する草案の条項の期する所は,国際平和団体の樹立にあるのであります。国際平和団体の樹立によって,あらゆる侵略をも目的とする戦争を防止しようとするのであります。しかしながら正当防衛による戦争がもしありとするならば,その前提において侵略を目的とする戦争を目的とした国があることを前提としなければならないのであります。ゆえに正当防衛,国家の防衛権による戦争を認めむるということは,たまたま戦争を誘発する有害な考えであるのみならず,もし平和団体が,国際団体が樹立された場合におきましては,正当防衛権を認むるということそれ自身が有害であると思うのであります,御意見のごときは有害無益の議論と私は考えます。
当時の吉田茂はまともな考え方をしていたと思います。日本国憲法施行後,出口王仁三郎も,今後はいっさい,自衛戦争であろうと戦争はできなくなったと力説していました。おそらく,この当時の多くの国民が考えていたことと一致していたと思います。
ところが吉田茂の答弁後4年をへて朝鮮戦争が起こり,アメリカの要請に従う形で警察予備隊を作り,これが自衛隊になり,自衛のための戦力を保持することは憲法上禁止されていないということになっていきます。
朝鮮戦争が激しさを増した1950年10月7日,海上保安庁の指揮艇「ゆうちどり」をはじめとする掃海艇21隻が米海軍指揮の下,機雷掃海作戦従事のため,山口県下関港をひそかに出港しました。
10月17日,ウォンサン沖で掃海中のMS14号艇の船尾に機雷が触れて,瞬時に爆発し,乗員18人が重軽傷を負い,中谷隊員(当時21歳)が戦死しました。
これがもとで海上自衛隊が作られるようになりました。
日本国憲法のもと,ひとりの戦死者も出なかったし,戦争で人を殺害したこともなかったというのは,正確ではありません。
加害の意識を持ち続け,後の世代に引き継ぐこと
日中戦争に従軍した博労(牛馬の仲買人)の話
「上海から南京まで進撃していく間に,そうだな,おりゃ20人近くチャンコロをぶった斬ったかなあ。まあ大根を輪切りにするみてえなもんさ。それから徴発するたんびにクーニャンとやったけや,よりどりみどりで女にゃ不自由しなかった。ほれ,この指輪も蘇州でクーニャンがくれたやつさ。たいしたもんじゃないらしいんけど,そのときもこれ進上するから命だきゃ助けてくれって泣きつきやがったっけ。でもさ,生かしておくってえとあとがうるせいから,おりゃ,やったあとはその場で刀でバッサバッサ処分しちゃった。・・・まあ命さえあぶなくなきゃ,兵隊ってのは,してえ事ができて面白いしょうばいさ。それでお上から金ももらえるんだから,博労なんかよりずっと割がいいぜ」
しかしこれを個人的に考えれば,博労のいうクーニャン殺しといい,南京での惨殺行為といい,他人事ではすまされない。確かにおれは直接支那の戦線には出なかった。・・・だがもしそこに言わせたら,おれだって何をしでかしたかわからない。・・・・いずれにしても戦闘に参加した者は,その点を自分の問題として反省してみる必要があると思う,そこをいい加減にごまかしておくと,いつかまた同じことを繰り返すようなことになるかもしれない。
以上で引用終わり。
戦争に従事していた人で存命中の人は,たいへんに少なくなってきていると思います。
従軍記録などをひもといて,日本軍が何をしてきたのか,加害者の視点を後の世代に引き継いでいきたいものです。
中国侵略者の証言,裁判
裁判の対象となった日本人戦犯は1109名でしたが,実際に起訴されたのは45名でした。
中国側は日本人戦犯を山西省太原,遼寧省撫順などの戦犯管理所に収容し,「人道政策」にも基ずいて忍耐強く教育をほどこしました。はじめは反抗的だった戦犯たちも,自己の犯罪性に目覚め,それを自筆供述書にまとめ,あるいは手記にして発表しました。
1954年4月に撫順収容所のすべての戦犯を前に,中国人職員も聞いているところ,第39師団の中隊長だった宮崎弘は自らの残虐行為を告白し,最後には「いかなる処罰も受ける覚悟です」と締めくくり,自分たちの打算的に罪行を告白しお詫びを書き添えた程度の「担白書」(供述書)とはまったく違った告白に,戦犯たちは大きな衝撃を受けました(もと資料:「私たちは中国でなにをしたか―元日本人戦犯の記録」(中国帰還者連絡会編・三一書房)
満州国警務総局の高官だった島村三郎は,「泥を吐いたら殺される」と思い,どうにも隠しきれないものだけを告白していました。全国の被害者から寄せられた膨大な告訴状を一枚一枚読むたびに,かつて自分が平然としてやってのけたこと,国家のためだと思ってやっきになってやったことが,これほどまでに中国人民を傷つけ,悲しませ,怒らせ,不幸におとしいれたのか愕然とするとともに,自己の行為の残虐性,侵略統治の残忍性を知らされました。殺されても仕方ない,いやそれが当然だと思うようになりました。死の恐怖におびえながらも,自分の罪の客観性,行為の客観的価値について少しずつ考えるようになりました(もと資料:「中国から帰った戦犯」島村三郎・日中出版)
またある戦犯は,1938年7月上旬から45年9月3日までの間に,自分が河北省・山西省・河南省で関与した罪悪をまとめました。
殺人の統計,292件,1122名で,うち平時殺人249件,845名,戦時殺人43件,277名で,平時殺人の手段別は,射殺178件,481名,刺殺35件,143名,刺殺と射殺7件,117名,刺殺後射殺6件,10名,殺害(手段不明)5件,18名,斬殺7件,10名,撲殺2件,3名,生体解剖4件,4名,焼殺1件,2名,射殺後死体解剖1件,1名,赤筒ガス(毒ガス)1件,40名,射殺後焼殺1件,2名,墜死3件,5名,拷打後死亡1件,1名,生き埋め1件,2名,ガス(毒ガス)使用後射殺と刺突1件,1名,細菌2件,33名,その他射殺してから斬首し,さらし首にしたものが2名あります。対者別は,住民202件,727名,八路軍24件,45名,抗日軍5件,11名,保安隊7件,18名,工人(労働者)2件,4名,工警隊3件,28名,民兵5件,7名,警備段(団)員1件,2名,小学生1件,16名,共産党員1件,1名,和平救国団2件,6名。駅員1件,1名,俘虜(所属不明)4件,7名です(もと資料:菊池修一供述書,同人は敗戦時大尉)。
周恩来総理の指示により,「日本戦犯の処理については,一人の処刑もあってはならず,また一人の無期徒刑もだしてはならない。有期懲役も出来るだけ少数にすべきである。普通の罪の者は不起訴である」との決定がなされ,1956年夏の軍事裁判により,特に罪の重い45名に対して有期刑(禁固20~8年,判決前の拘留日数が1日として計算され,多くは刑期満了前に帰国),が下されましたが,その他の者は全員起訴免除となって即日釈放され,無事に日本に帰国しました。
検察は自供のみに頼らず,被害者からの告訴状に必ず複数の裏ずけをとった上で事実を認定していました。取り調べがある程度進んだ段階で裏ずけ調査の結果を戦犯にも開示し,異議がある場合は申し出が許され,異議に対しては再調査を行い,ミスがあれば訂正するという慎重な手続が行われました。
念のため,東京裁判でいうA級,B級,C級とは次の区分です。
A級:国家指導者の平和に対する罪
B級:通例の戦争犯罪
C級:人道に対する罪
性暴力を認めることは殺人を認めるよりつらい
日本軍上層部が慰安所を設置した大きな目的の一つは,戦地での日本兵による女性への強姦を防止することにあった。しかし数多くの慰安所が設置された後も,日本兵などおによる強姦は多発していた。華北では,とりわけ八路軍の支配的な地域でに強姦事件が多発したが,その背景には次のような事情があった。
中国人特に中共地区の中国人には日本人が何をしても泣き寝入りであり,やるだけ得だとの考えから犯しました。・・日本人は何をやっても差支えないとの民族優越観(ママ)から之を犯しました。(神野久吉供述書)
・・・・1992年に東京で開かれた座談会において,鈴木良雄(元第59師団)は「作戦で敵性地区に入ると,討伐隊長から命令が出るんですよ。この地区では何をしてもいいとね。強姦も暗黙の了解なわけですよ」と発言している。
兵士自身に敵性地区ならば犯罪的な行為をしても告発されないという考えがあり,作戦を指揮する側もそのような犯罪行為を許容する命令を発していたのである。このような状況が,華北での性暴力を助長することになったと考えられる。
強姦は,住民虐殺などと異なり,それ自体が命令によっれ行われるものではなかった。強姦はまさに自分の意志によって引き起こされた犯罪であり,その罪を言い逃れることがもっとも難しいと戦犯たちも感じていたのである。一方で,兵士は強姦した相手の女性を殺害することも多かったため,自分さえ黙っていれば,告発される可能性もそれほど高くないとも考えられた。そのため強姦を自白するということは,自分の罪を洗いざらい自白する最終段階とも言えたのである。供述書で自らの強姦についてふれているのは,それ自体が認罪の深さを示しているともいえる。
以上,引用終わり。
強姦は上司の命令ではなく,自分の意志で行ったものである。それゆえ,上司の命令で実行した住民の虐殺を認めるよりも,強姦の事実を告白した方が戦犯にとってはつらいものだったわけです。
古来から戦争が起きると,生命を落としたり負傷したりする危険性が伴っていたにも関わらず,傭兵として従軍したのは財産の強奪と強姦が魅力だったからでした。
第二次世界大戦が終了した後,多数のドイツ人女性が「報復として」被害国の男たちに強姦されました。
戦争になれば一般的な刑法犯罪をしほうだい,ということでやはり戦争はいけないのです。
被害者の心情に近づくということ
・・・私たちは戦犯となって初めて,人間らしい生活を送ることになった。そしてそれは,わたしたちが被害を与えたはずの中国人民によって用意されたものだった。学習によって認識が深まっていくとともに,私たちは,日本の中国侵略戦争の罪悪性と,その尖兵として犯した自身の罪行をすべて告白し,中国人民の前に率直に頭を垂れることに何ら抵抗を感じない心理状態になっていた。
このあいだ中国側は常に,「真面目に認罪,反省の道を進んでこそ中国人民の寛大な処遇を勝ち取ることができる」という指導を繰り返した。また,犯罪行為を告白する場合も,「あくまで事実にもとづいて,過少過大を排し,正しく述べるように」と厳しく指導された。
・・・・(1956年の)ある日,撫順炭鉱の講堂で,私たちは一人の女性の体験談を聞いた。壇上に立った女性は,方素栄という名の,平頂山虐殺事件の生存者だった。
事件は1932年9月16日,撫順市にあった平頂山という町でおこされた。「写真を撮るから」といって町の人々を広場に集めた日本軍は,3000名の人々を一挙に機関銃で虐殺したのである。まだ幼い子どもだった方素栄さんは,自分の目の前で,両親,祖父,弟,そして生まれたばかりの赤ちゃんをあっという間に殺されてしまった。・・・・彼女は,血を吐くような悲痛な声で訴えた。
「どうして何の罪もない弟や赤ちゃんを殺したのですか。私のお祖父さん,両親が,いったい何をしたというのですか。どうしてこんなむごたらしい殺され方をしなければならないんですか」「私はそれから日本人を見るたびに,飛びかかって噛み殺してやりたい衝動に駆られました。日本帝国主義が降伏した時は,私のお母さんやお祖父さんがやられたのと同じように皆殺しにしてやるんだと泣き叫び,多くの人々をてこずらせました」「しかしそんなときは,日本軍国主義が悪いのであって,我々は日本人民と団結して再びこのような戦争がおきないように努力しなければならないと,中国共産党に指導を受けました」「私はもうこれ以上言うことはできません。最後にただ一つはっきり言っておきたいことは,皆さんはもう二度と他国を侵略するようなことだけは絶対にしないで下さいということです」。
私の頭は真っ白になった。数年間の管理所での学習のなかで,私たち日本軍が中国人民に与えた被害の罪深さの,ほんの一部を知ることはできていた。しかし,こうして生身の中国人からその体験を聞いたのは初めてだった。一瞬にして最愛の肉親をすべて奪われた,その悲しみ,怒り,憎しみ,その後の人生のなかで感じ続けてきた寂しさや,家族を奪われたがゆえの生活の苦しさ・・・・。
・・・中国には2000万人の,いやそれ以上の方素栄さんが,過去の痛みをじっと我慢して,私たちに向き合っているのだということを,ようやく感情的にも理解できるようになった。被害者の痛みに,せめて半歩なりとも近づけたのではないかと思っている。
以上で引用終わり。
一方日本では,太平洋戦争が始まると,谷口雅春は「聖戦」であると主張し,中国軍を撃滅するために「念波」を送ることを呼びかけました。
太平洋戦争に敗れると,谷口は「日本は決して負けたのではない」「ニセ物の日本の戦いは終わった」と敗戦を合理化し,国体が滅びたわけではないと主張し,生長の家の教えのなかには,「本来戦いなし」のことばがあるとし,生長の家が平和主義を説いていたと主張しました。
いかにも御都合主義の弁解です。
戦場に行かないからこそ,遠く離れた日本から,中国軍を殲滅しろなどと言えるわけです。
笑いについて
私が以前タイに出張したとき,バンコクのスワンナプーム空港で入国のパスポート検査を受けたのですが,担当の若い女性職員は私のパスポートにスタンプを押した後,ニコッと微笑んでくれました。さすがにタイは微笑みの国と言われるふだけのことはある,とたいへんに感心しました。
「1★9★3★7」(下)(辺見庸・角川文庫には,次のようなエピソードが
紹介されていました。
中国人女性を強姦しながら戦友に笑顔で手を振る日本兵
敗戦後まもなくまんめん笑みを浮かべる昭和天皇
この笑い方ははんぱではない。どうしたらこのような笑い方ができるのだろう。いかなる屈託もかすかな憂いも,まったくもってありはしない。
すごい!なにはばかることないのだ。
本人が愉快な気分であっても,時と場所によっては,笑いは人に不快な思いをさせます。
ウンベルト・エーコの「薔薇の名前」では,殺人犯の殺害の動機として「笑いは愚かな軽蔑すべきものであり人間を堕落させる」とか「イエスは笑わなかった」などと言っていたように記憶しています。
たしかに公的に認められた4つの福音書では,イエスが笑っている場面を思い出すことはできません。
しかし,エジプトで発見された「(イスカリオテの)ユダによる福音書」では,イエスは大笑いをし,ユーモアたっぷりに語っていたとの記述があるそうです。
案外,それがイエスのほんとうの姿だったのかも知れません。
笑いひとつでいろいろなことを考えてしましました。
英霊の実態
インパール作戦では多くの餓死者と病死者を出しました。
そのような無念の亡くなり方をした日本兵はほんとうに痛ましいのですが,靖国神社は,名誉あるはなばなしい戦士をとげたと言って英霊に祭り上げています。そして現在に至るまで,遺族が合祀しないでほしいと懇願しているのに,合祀するのは自分たちの信念である,とやかく言うのは信仰の自由を犯していると,死者を利用し冒涜しています。
なお靖国神社とは直接関係ないのですが,第二次大戦中,数多くの兵隊を供給した東北地方は当時はとても貧しかったそうです。
満州にいた兵隊のもとには,父親からの手紙が届いたのですが,その中身は「決して生きて帰ってくるな。死んで帰ってこい」という内容のものがあったそうです。それは,おまえは天皇の赤子であり天皇に命を預けたのだから使命をはたすようにという趣旨ではなく,単にお金がもらえるからということでした。はたして父親の願いはかないました。
また兵士が戦士するとお金ほしさに遺族が遺骨をめぐって争いを起こし,その仲裁に努めた上官たちも苦労したそうです。
アメリカでも仕事がなくて兵士を希望する人が多くいると聞いています。
本人や家族が食べられないから戦争に行くというのは,根本的に間違った社会のあり方だと思います。
本当の慰霊のあり方
日本人戦没者の慰霊碑の中で印象深いのは,沖縄の南海岸,摩文仁の丘にある「平和の礎」であろう。そこは先の大戦中,沖縄最大の激戦地となった場所でもある。沖縄県は,国籍を問わず,1945年の沖縄戦で非業の死を遂げたすべての人々を供養するため,御影石の慰霊碑が幾重にも並んだ感動的な平和祈念公園を建設した。慰霊碑に刻まれているのは,日本の軍人や沖縄の民間人戦没者のみならず,米国人やイギリス人などすべての外国人戦没者の名前である。30万人近い戦没者が刻銘されたこの慰霊碑は,沖縄の人々の寛容さを顕著に物語っている。沖縄では,全島民の4分の1にあたる尊い生命が,この戦争で犠牲となった。
これこそ本当の慰霊のあり方ではないでしょうか。靖国神社のような政治的宗教施設で選抜され祭られている死者の霊はさぞかし無念だと思います。
安倍晋三が念願の靖国神社参拝
今まで行きたくてしょうがなかったのに,首相在職時に行けばまた中国・韓国から批判されるで我慢をしていたわけです。
戦争神社に参拝できて,気分はすっきりしたようで,とても明るい表情でした。
これで日本会議に大きな顔ができるのでしょう。
「ご英霊に退任を報告」なんて過剰な敬語です。英霊自体警護なわけですら。
天皇陛下様なんて誰も言わないわけで。
天皇の命によって戦死・餓死した死者を政治利用しています。許せません。
長野県知事の護国神社参拝にNCC靖国神社問題委員会が抗議
田中康夫氏を除く歴代の長野県知事が神社の崇敬会会長に就任している事実を指摘し,阿部知事が神社の例大祭に出席し,参拝とともに祝辞を述べる行為は,「県護国神社に関りを持つのは県民として当然のこと」という機運を生みだし,特定の宗教を信仰しない自由を圧迫し,干渉することにつながると主張しました。
靖国神社,護国神社は宗教ではないという詭弁が戦前では叫ばれ,それ以外の宗教を弾圧する口実となりました。長野県知事の行動は非難されるべきだと思います。
A級戦犯と靖国神社
昭和天皇は,敗戦直後からの戦犯訴追の危機を「すべての責任を東條におっかぶせるがよい」という基本路線に立って,“日米合作”で東京裁判を切りぬけた。そして,その後の共産主義の脅威に対しては,沖縄の米軍支配と安保条約による日米の防衛という体制を築きあげるために,昭和天皇は全力を傾注したのである。東京裁判と安保体制は,「三種の神器」に象徴される天皇制を防衛するという歴史的な使命を果たすうえで,不可分の関係に立つものであった。
ところが,宮内大臣である「子」の松平永芳は,親の苦労もしらぬげに,「東京裁判史観を否定しないかぎり,日本の精神復興はできない」といった「信念」をかかげて,A級戦犯の合祀に踏み切ったのである。
しかし,この合祀は,東京裁判の受託と安保体制の構築は不可分とする「昭和天皇の構図」の根幹を揺るがすものであった。つまり,A級戦犯の合祀は「御意」に反する行為にほかならないのである。だからこそ天皇は,「親の心子知らず」と松平を叱責したのであった。
敗戦後における昭和天皇は,かつての敵国=アメリカの軍門に降り,しかもその国との従属的な同盟関係を構築させた。そのさい同時に,「天皇家の宗教=神道の拠り所」である「三種の神器」を守ることにも成功した。
しかし,靖国神社の宮司になった松平永芳が1978年10月17日,昭和天皇のもっとも触れてほしくないA級戦犯,つまり天皇裕仁の戦責問題を拭う雑巾のような役目を果たしてくれた「東條英機」を代表とする軍人や政治家たちを靖国神社に合祀した。昭和天皇にとってこの靖国神社のA級戦犯合祀は,敗戦後必死になって,自身と一家の延命をかけて努力してきた成果を,精神的次元において「元も子もなく」させるだけでなく,「寝た子を起こす」ような,それこそ「大馬鹿」な行為を意味した。
A級戦犯が合祀された1978年10月以降、天皇が靖国神社にいかなくなったのには,立派な理由があった。「戦争に敗北しその責任をとらされた」A級戦犯は,天皇のために責任をとって身代わりに絞首刑になった。けれども,その死刑執行は東京裁判をとおして,連合国がわの意志に即してなされたものであり,その関連でいえば、「天皇の御意」にまったくそぐわない「靖国神社の英霊:祭神」がA級戦犯であった。昭和天皇はだから,A級戦犯が合祀されたのち靖国神社にいけなくなった。
明仁(平成)天皇は平成5年に埼玉県護国神社に参拝,平成8年には栃木県護国神社に参拝したが,いずれもA級戦犯は合祀されていない。栃木県護国神社によると,あらかじめ宮内庁をとおして「そちらにA級戦犯は祭られていますか」との確認があり,「祭られていません」と返答したという。
野垂れ死にした兵士を「英霊」と呼び,「御遺徳を顕彰する」という靖国神社の社是には,みのがすことのできない戦争美化の作為と欺瞞がある。遺族にとって,最愛の肉親が野垂れ死にしたとは思いたくない。だがそこからは,あれだけの兵士を死においやった戦争発起と戦争指導上の責任の所在は浮上してこず,「英霊」という語感のなかにみごとに雲散霧消している。
昭和天皇は戦後も自分の地位が維持・存続されたので,残された問題はあるものの,「黙認された形式で」,密かに靖国参拝を続けることができた。しかし,
A級戦犯の合祀は,戦前・戦中より既存・既定の事実だった「靖国は戦争のための神社」という性質を,国際社会に対してまであらためて,「公言する」靖国神社の宗教的態度を露出させてしまった。靖国神社の祭祀者である昭和天皇は,自身の立場においてこそ,「歴史的に固有・不可避であるそうした戦責問題」が蒸しかえされる危険を,いち早く感知できた賢明な理性の持ち主である。
以上で引用を終わります。
靖国神社に祭られている戦死した兵士の生前の行いは問われていません。捕虜を虐殺し,住居に放火し,食料を強奪し,女性を強姦した者も多かったはずです。それらは,戦争を部隊に行った刑法上の犯罪です。
靖国神社にはけがれの忌避のために,遺髪や遺骨は祭られていません。ただ厚生省が提示した名簿によって「霊」をなぐさめ祭るだけです。
1972年にグアム島から日本に帰還し,「恥ずかしながら生き永らえて帰ってまいりました」と言った横井庄一氏は,戦死したものとして,既に靖国神社に合祀されていました。亡くなっていないのに,その「霊」を祭るとは靖国神社は何と言う存在なのでしょうか。
靖国神社と東京裁判
サンフランシスコ講和条約の調印(1951年9月8日)は,配線後の日本を連合国による占領状態から主権を回復させ,国際社会に復帰させた(1952年4月28日)。日本政府は連合国による戦犯裁判の「判決」を受諾している。この事実をめぐって,東京裁判を「勝者の裁き」として拒否し,「A級戦犯」断罪を容認できないと主張するなら,戦後日本国家を国際的に承認させた条件そのものをひっくり返すことになる(「靖国問題」高橋哲哉・筑摩書房)。
東京裁判は「勝者の裁き」の性格をもつが,その性格をこえて「文明」の裁きの性格をもっていた。その文明とは,近代ヨーロッパの「文明国」が国家「間」においてつくりあげた共通の規則にほかならない。その文明とは,正義とは同じ意味ではない。
日本の近代がヨーロッパの「文明」を理念型として追求したかぎり,その近代ヨーロッパがつくった国際法に象徴される「文明の裁き」を受けることは,歴史における必然の成り行きだった。
日本は日清・日露戦争を「文明」に戦争として戦い,文明の「国際法」を守り,その許す範囲内でいっさいの手段をつくして精一杯戦おうとしてきた。
大東亜戦争の開戦の詔勅は「生きて虜囚の辱めを受けず」と命じていた。そこでは敵軍からの投降兵があっても,彼らを捕虜としてあつかうということは考えなくてもよい,という思考法が容易に生まれた。
第二次大戦に勝利した連合国側に「完全な正義」があったわけではない。とはいえ,当時の国際法が達していた「文明国」の水準あるいは国際的な作法を拒んで大東亜戦争を始めた日本帝国が「勝者の裁き」を受けたことはいたしかたない歴史の必然だった。それゆえ,「東京裁判史観」を許容できないといいはる右翼・国粋・保守の各主義陣営の論者たちは,二重の意味において旧日帝の錯誤を説明できていない(「創られた天皇制」(裴富吉・同時代社))。
以上で引用を終わります。
東京裁判ではアメリカによる原爆投下には触れませんでしたし,七三一部隊についてもアメリカの細菌研究に有用なため取り上げることはありませんでした。
そうであっても,東京裁判は一般の刑法では指摘することがない「平和に対する罪」」(A級戦犯),「人道に対する罪」(C級戦犯)を指摘したのです。東京裁判は「勝者による裁き」であって断固容認できないというのは感情的な考えでしかなく,「負けてくやしいハナイチモンメ」の域を超えていないと思います。
大東亜戦争肯定論を批判する。
しかし,植民地であった韓国や台湾をなぜ独立させなかったのだという反論があります。
裕仁天皇は,やむをえない戦争,欧米帝国主義からのアジア諸国解放のための戦争などと発言したことはありません。なんとか戦争を回避できる道はないのかと質問したことは知られていますが。石油資源の強奪はうまくいったのかとの発言があったことは確認されています。
敗戦後,裕仁天皇が帰還した元兵士に会ったとき,「これからも頑張るんだよ」と言ったそうです。苦労をかけてすまなかったというねぎらいの言葉はありませんでした。腕や足を失った傷痍軍人も多数いたはずなのです。そういう人たちは排除されて裕仁天皇の目に触れることはなかったはずですが,それにしても天皇のの想像力のなさに驚いてしまいます。辺見庸さんが,写真雑誌で敗戦直後,大きな口をあけて大笑いしている昭和天皇・皇后の姿を見て,どうしてあんなに無邪気に笑えるのだと批判していました。そのとおりなのです。
敗戦後,裕仁天皇はあの戦争はやりたくなかった,周囲の雰囲気にのまれ,ことのなりゆきで戦争に進んだと発言しました。それでは,やりたくなかった戦争のために「天皇陛下万歳」の気持ちを持って戦病死した兵士たちの立つ瀬がありません。裕仁天皇は自分の保身を第一に考えていました。国民のためならばどのような責任も甘んじて受けるといった発言は,GHQが作った作文であるという説が有力になっています。天皇制を残すことが日本占領にあたって好都合であること,天皇がそれほど国民のことを思ってくれているならば,という国内の天皇に対する戦争責任を追及する声を封じこめることができたからです。
大東亜戦争は欧米帝国主義からアジア諸国を解放させるためのものであったと論じたのは大川周明です。彼は中国が好きで中国人との戦争は好まなかったと言われてはいますが,実際に中国に行って帝国日本軍兵士が中国で行ったことを見聞きし,唖然としショックを受けたそうです。
東京裁判で,大川周明は東條英機のはげ頭を後ろからたたきました。軍部に裏切られたとの思いが爆発したのではないかと思います。
「琉神神マブヤー」に見る沖縄の心
好井裕明・日本大学文理学部教授の「くまさんのシネマめぐり」(『福音と世界』2021年3月号)から引用します。
平凡な青年カナイに,ある日ニライカナイの勇者である琉神マブヤーの魂(マブイ)が宿る。カナイは琉神マブヤーに変身し,ウチナーンチュの大切なものを奪って人々を困らせようとする悪の軍団マジムンと闘うという設定だ。
「仮面ライダー」の初期の頃のように,毎回怪人が負け爆発して消滅することはなく,奪われたマブイストーンを取り戻せば,マジムンたちはそれ以上闘うこともなく去っていく。悪は倒されることもないし,正義が勝ち誇ることもない。琉神マブヤーの世界には,単純明快な善悪の二元図式はなく,善と悪が”ゆるく”せめぎあいながら日常とともにあるという「リアル」が描かれている。たんに正義の素晴らしさ,悪の醜さを子どもたちに伝えるものではないとしたら,この物語はいったい何を伝えようとしているのだろうか。それは「沖縄らしさ」であり,「沖縄の社会や文化,風土が大切にしてきたもの」の素晴らしさだ。ウチナーグチのマブイストーンが奪われると,それまで軽妙に沖縄言葉で話していたおばーやおじーが突然ぎこちなく標準語で話し出す。沖縄言葉で書かれた店の看板も標準語にかわってしまう。
マブヤーがマブイストーンを取り戻すと,沖縄言葉の日常が戻ってくる。石敢當(いしがんとう:沖縄の街角に必ずある魔除け),テーゲー(物事に対する寛容さ,いいかげんさ),チャーガンジュー(健康を祈る心),エイサー(沖縄伝統の踊り),イチャリバチョーデー(であえばみなきょうだいの精神),トートーメ(祖先崇拝),命(ぬち)どぅ宝(命を尊ぶ心)など,毎回こうしたものが奪われては,マブヤーの活躍によってもとどおりの日常が回復される。
主人公カナイは最初自分がマブヤーになる意味がわからずただマジムンを叩きのめそうとする。意味のない過剰な暴力を批判し,マブヤーと闘うことをいやがるマジムンの姿は興味深い。次第にカナイも精神的に成長し,最後には無意味な力で相手を打倒しない,つまり”闘わない”ヒーローへと変身していくのだ。マブヤーはマブイストーンを奪いかえすなかで,本当に沖縄にとって大切なものはなにかがわかり,そのこと教えてくれたマジムンに「ありがとう」と語る。沖縄のご当地ヒーローは,決まりきった正義を体現したり,善を語ったりすることなない。沖縄の歴史や文化,土着の信仰などから形作られた「沖縄らしさ」の意味や意義をやさしく語り,「沖縄にとって大切なもの」を守る,まさに”沖縄にしか生まれ得ない”魅力あふれるヒーローなのである。
以上で引用を終わります。「琉神マブヤー」の物語で語られることは,日本の軍人,沖縄の民間人犠牲者,アメリカ人,イギリス人など,戦争によって沖縄で亡くなった人々の名前を刻んだ「平和の礎」に通じるものがあるように感じました。本土の人々はウチナーンチュのものの考え方,心の在り方などについて学ぶことが多いと思います。
なお,「琉神マブヤー 1972レジェンド」がDVDになって発売されています。
大正時代における靖国神社批判
吉野作造が彼の友人の子供が,以前にその家で書生をしていた者が戦死した後に靖国神社の祭神として祀られたことを聞いて,どうしても納得しなかったという。というのはその書生は,吉野の友人によれば,「放蕩で嘘吐きで,金を胡麻化したり物を盗み出したり,手のつけられないやくざ者」であったからである。そこから吉野は,「どんなやくざ者でも戦争で死にさえすれば以前の罪は全部帳消しになって神様になれる」というのでは,「平和時代の良民」の道徳観を育てることにはならないだろうと批判している。
臨済宗妙心寺派の角張東順(かくばりとうじゅん)は,1920(大正9)年7月に地元山形で発行されていた新聞への連載コラムの中で次のように述べていた。
権兵衛でも太郎作でも戦争にでて死にさえすれば靖国神社に合祀されて,神様という待遇を受け一ヶ年に数回のお祭りがして貰える,国の為めに死ねば神様だ,日本の神様程手続の簡単なものは無い,戦争のある毎に何万という神様が増していくのである。神様の粗製濫造は日本の国の一特色である,真理のために死んだものや,世界的なる学者や人道の犠牲になったものは神様とはなれないのである,(中略)真理はどうでもいいのである,世界的公道はどうでもいいのである,国の為めになりさえすればいいのである,日本と云う国ほど虫の好い国は無い。
・・角張のこうしたコラムがなぜ発禁にならなかったのか不思議な気もするが,靖国神社の合祀基準を真っ向から批判し,存在理由を否定するこのような根本的な意見は,おそらく大正デモクラシー期にのみ見られたものであろう。
以上で引用を終わります。
まっとうな批判だと思います。
右翼作家の江藤淳は「屍に鞭を打たないのが日本の伝統である」と言いました。
しかし,民間人を虐殺・強姦し,住まいに放火し,財産や食料を強奪して戦死した日本兵は神様として祀られる資格はないと思います。
日中戦争は侵略戦争だったことの証拠
将来戦ノ状況ヲ考察スルニ内愈々国力ノ充実全国民ノ訓練総動員的計画ニヨル全戦争能力ノ統制整備ノ切要ナルコトヲ痛感スルト共ニ外戦争ノ指導ニ関シテモ帝国現有資力ニノミ依ルコトナク進ムテ所謂「戦争ニヨリテ戦争ヲ養フ」ノ策ヲ以テ成ル可ク速ニ且広ク敵側ノ某地方ヲ占領シ其占領地ヨリ吸収スル資源財源ノ有効ナル利用ニヨリテ全般ノ戦争ヲ有利ニ進展セシムコトヲ図リテ以テ成ル可ク帝国自体ヲシテ病弊セシムルコトナク長期ノ戦争ヲ遂行スルノ覚悟ト準備ノ必要ナルヲ肝銘セサルヲ得サルモノアリ
是レ即チ純作戦目的ノ外資源獲得ノ目的ヲ以テ大陸ノ某地方ヲ占領セントスルノ著意ヲ要スル所以ニシテ之カ為先ツ著目セラレルヘキハ支那本土及満蒙地方ナリトス
支那本土ノ占領ニ関シテハ暫ク之ヲ措キ右ノ見地ニ基キ最モ容易ナル満蒙地方ノ状態ヲ観察スル(昭和6年夏 関東軍参謀部調査班「満州占領地行政ノ研究」)
満州の人民は「天恵ノ土地二居住シナガラ文化ノ恵沢ニ浴」することの出来ない実に哀れな人々であり,彼らは張学良政権下において戦争,インフレーション,重税等に苦しみ,まさに危機に瀕した毎日を過ごしていた。在満日本人もまた張政権の排日教育および排日政策の結果甚だしく困難な状態に置かれていた。このように情勢を分析した関東軍は張学良政権をもって日本人を含む全満人民の敵とみなし,板垣及び石原は,張政権を打倒することをもって日本人の使命であると主張したのである。
・・・また本研究が,「一時的戦禍ノ如キハ将来恒久ニ亘リテ享受スヘキ民衆ノ福祉ニ比スレハ敢エテ問題トスルニ足ラサルヘキハ信シテ疑ハサルナリ」,と日本占領のもたらす不幸についてはひどく楽観的な見解を示していることは興味深い。
以上で引用を終わります。
「占領」「占領地より吸収する資源財源」と言っているように,民族解放ではなく侵略であることは明らかです。張学良が全満人の敵かどうかは満州人が決めることです。
南京虐殺事件のときに南京で指導し,東京裁判でA級戦犯として絞首刑となった松井石根は,国民党も八路軍も追い払ってせん滅したら中国人民の好きにまかせようと,本気で考えていたそうです。中国のことは中国人が決めることです。
戦後,裕仁天皇は明治天皇以降日本が獲得した外地を手放さなければならなかったことは痛恨の極みであり,祖先に申し訳ないと語ったそうです。
もともと日本の領土ではなかったのですから,失って嘆くのは大間違いです。
この発言をとっても,日本の戦争は帝国主義的な植民地を確保するための侵略戦争であったことが分かろうというものです。
中国に「侵略」を謝罪した元陸軍中将遠藤三郎
ひとりは近衛内閣の書記官長を務め,戦後は社会党に入り左派に属した風見章です。もうひとりは昭和10年代に近衛内閣や米内内閣で外務大臣を務めた有田八郎です。有田は昭和30年と34年に東京都知事選挙に革新系統一候補として立候補しました。最後のひとりは元陸軍中将で航空兵器局長官を務めた遠藤三郎です。
遠藤三郎は非武装中立を強く主張し,「裏切者」とレッテルを貼られ,自らの出身である陸軍士官学校,陸軍大学校や大本営関連の同窓会すべてから入会を拒否されました。旧軍をそしることは許されない,戦後になって自省することは許しがたいということでした。
遠藤三郎には関東大震災のときの王希天虐殺事件隠蔽への関与,七三一部隊への関与などの黒歴史がありました。その一方で,関東大震災のときに流言蜚語で生命身体が傷つけられるおそれがあった朝鮮人・中国人を保護し移送させました。
中国では南京虐殺事件での日本兵の非道な行いに悲しみ,中国人民を尊重するよう冊子をたくさん作成し兵士に配りました。もともとはヒューマニストだったのです。
戦後は満州事変のきっかけとなった柳条湖事件をでっちあげた石原莞爾が非武装中立を唱えましたが,それは自分の周りの人々に言ったものでした。
ところが遠藤三郎は非武装中立と日本が中国を侵略したことを公言し,反省を何度も口にしました。毛沢東主席から招待を受け,昭和30年11月から35年11月まで4回北京を訪れました。率直に日本の中国への侵略を謝罪したのです。
中国側からはたいへんに信用され,毛沢東と周恩来に一対一で会える日本人は遠藤三郎だけと言われました。
周恩来から,日本が敗戦状態から独立国として認められるようになったならば,自衛の軍隊を持ったらどうかと遠藤三郎に言いました。遠藤三郎は自衛権については承認したものの,自衛のための軍備を日本は持たないと反論しました。
遠藤三郎は日本国憲法第9条を正確に理解していました。
「赤い将軍」,「スパイ」などと罵詈雑言をあびましたが,遠藤三郎は「旧軍人というのは頭が固いからね」とだけ言って,さして気に懸けることはなかったそうです。
日本には遠藤三郎のような旧軍人がいたことを知っておいてもよいと思います。
周恩来首相と元陸軍中将遠藤三郎の対談
遠藤三郎は1972年6月に元軍人団を率いて5回目の訪中をしました(当時79歳)。
「周恩来総理が訪中を心待ちにしている」との伝言を受けての訪中でした。
人民大会堂の接見室で周恩来と遠藤三郎の対談が行なわれました。すでに周恩来は不治の病におかされていましたが,遠藤との対談を楽しみにしていたようで,当初1時間余りの会見の予定が3時間を超えるに至りました。
主な対談内容です。
遠藤: 総理が独立国家が自衛力を持つことは当然といわれることについて
は,私も理解します。しかし,自衛力即ち軍備であると解釈する人々の
場合には,もしタカ派の人ならば,錦の御旗か,鬼の首でも貰ったかの
様に悦んで軍備論を吹聴しますし,逆に非武装に自信のないハト派の人
は,意気消沈してしまいましょう。釈迦も『人によって法を説け』と申
しております。この点,総理も留意してください。
周: 私は誰に対してであろうと”日本人民”に向かって話しかけるという立
場で話します。『非武装』ということは,米国への従属を意味する様に思
えてなりません。独立,平和,民主,中立のためには,自衛力を,もつこ
とは当然だと思います。
遠藤: 総理のいわれることは,原則として理解できます。然し,日本が『軍
備国防』の政策を持つ限りかえって米国に従属せざるを得なくなりま
す。つまり,陸,海,空軍を充足しても核兵器を持たない限り,米国の
傘に頼らざるを得なくなりますから,それでは,日本はいつまでも独立
国家になり得ません。『軍備国防』の考えを払拭してこそ,どこの国の
軍備にも頼る必要がありませんから,真の独立国家になり得ると思いま
す。真の自衛力は,軍備以外にあります。その根本は『威武に屈せず,
富貴に淫せざる心』であります。
周: キッシンジャーは,日本のタカ派を買収しようとしていますね。
遠藤: 米国政府は,日本に核武装を除く軍備を増強させ,兵器を売って金儲
けをすると共に,核で脅して日本の米国に対する造反をおさえつつ,人
的消耗の多い戦争を,日本に肩代わりさせようとしているのではありま
せんか。
周: 日中国交回復後,相互不可侵条約を結ぶことは可能であります。核不使
用条約もです。しかし,台湾と日本の米基地の問題が障碍になっていま
す。この提言は,日本進歩勢力への支援とはなりましょうが,その実行に
ついては,決して中国から強制するものではありません。それは日本人民
自身の問題だからです。これは毛主席の1950年来の主張です。
遠藤: 現段階では,日本の軍事力は,すべて米国の出先軍となります。従っ
て少なくも今は護憲非武装を貫かねばなりません。
周: 遠藤先生は私よりもまだ左ですね。それで日本人民は納得しますか?
遠藤: 護憲論者はかえって増えました。それに左右に関係なく非武装は日本
国憲法の示す所です。それは自衛のためにも軍備を持つことを禁じてい
ます。そのことは,1946年国会で憲法審議の際,総理吉田茂が『古来自
衛の美名に隠れて侵略戦争をやった例は沢山あります。従って本憲法は
自衛のためにも軍隊はもたないのです」と,明確に軍備国防を否定して
いることからも明らかです。
周: まとめましょう。現在,日本は経済拡張,米国支配下という情況の下
で,岐路に立っています。これが,独立,平和,民主,中立を勝ち得た暁
には,自衛力を持ち,相互不可侵条約を結びましょう。こうしたらいいで
しょう。
遠藤: 少なくも,精神革命が出来るまでは,軍隊は持つべきではありませ
ん。国防の基本は独立の精神にあると思います。
周: 一理ありますね。しかし,アメリカの覇絆から脱するには日本は自衛力
を持たねばならないと思います。なぜなら,中国人民が日本に赴いて,日
本人民に代わってアメリカ軍を追い出すわけにはいかないからです。だか
ら,『非武装』では,大多数の日本人民を納得させることはできないでし
ょう。しかも米国は最後まで日本を手離そうとはせず,抵抗するでしょ
う。
遠藤: 米軍を追い出すには,軍隊の力を使ってはいけません、国民の団結し
た意志力が大切と思います。私はこの点では”非暴力不服従”で印度の
独立をかちとったガンジー翁のやり方を高く評価します。
周: 米ソ核戦争を前提としたに日本を考えると,遠藤先生の考え方は正しい
と思います。しかし我々は歴史から一つ学びました。核兵器は発達すれば
する程使えなくなるということ。しかも相互制限は不可能です。一方,第
二次世界大戦後,核戦争こそありませんが,通常兵器による戦争は,中国
内戦,朝鮮,インドシナ,パレスチナとずっと続いています。つまり『非
武装』は成立しないのです。
しかも,もし日本が軍国主義の道を歩めば大変なことになります。軍国
主義を計っている人々は『非武装』に耳を傾けてくれないでしょう。その
うち,中国に力が出来れば,いい影響を与えるでしょうが,問題は日本人
民に受け入れられる方法で,軍国主義を阻止することにあると思います。
遠藤: 日本の軍国主義を阻止するには,日本国の特性からみて日本国憲法を
正しく実施し,非武装中立に徹する以外には望み得ないと思います。
又,それが日本では可能と思います。
以上,「将軍遠藤三郎とアジア太平洋戦争」(吉田曠二・ゆまに書房)から引用しました。
とても興味深い対談だったと思います。
侵略戦争を正当化する「八紘一宇」について
質問の終わりには「八紘一宇という家族主義これは世界に誇るべき日本のお国柄だと私は思っております。この精神を柱としてですね,経済外交に限らず我が国の外交,国際貢献こういったものを総理には力強く今後とも進めていただけますことを最後にお願いして・・・・」と言って質問を終えました。
GHQは昭和21年に,宮崎県にある通称八紘一宇の塔(正式名:八紘之基柱,現在名:平和の塔)に刻まれた「八紘一宇」の文字を日本を無謀な戦争においやった象徴ととらえ削除を命じました。ところが昭和40年には八紘一宇の文字が再現されました。復元運動の先頭に立ったのは宮崎交通の創業者である岩切章太郎でした。
昭和12年11月10日に刊行された内閣・内務省・文部省による「八紘一宇の精神
日本精神の発揚」という小冊子には次のような説明がありました。
「八紘」とは「八荒」ともいひ,前者は八方の隅,後者は八方の遠い涯といふ字義であって,共に「世界の涯」とか「天の下」といふ意味である。「一宇」は
「一家」といふ字義で,全体として統一と秩序とを有する親和的共同体といふ意味である。従って「八紘一宇」とは,皇化にまつろはぬ一切の禍を払ひ,日本は勿論のこと,各国家・各民族をして夫々その処を得,その志を伸さしめ,かくして各国家・各民族は自立自存しつつも,相倚り相扶けて,全体としてあい然たる一家をなし,以って生成発展してやまないといふ意味にほかならない
気になるのは「皇化にまつろはぬ一切の禍を払ひ」という箇所です。これは日本以外の国家や民族が日本の天皇のもとに統一されることがあるべき姿として想定され,それに服従しない勢力はすべて取り除く(小池百合子風に言えば「排除します」)という恐ろしいほどの自己中心主義がうかがえます。
八紘一宇という言葉を最初に使ったのは,日蓮主義者で,国家主義的な宗教団体である国柱会を組織した田中智学で,1913年の「国柱新聞」で初めて八紘一宇という言葉を造語しました。
八紘一宇という言葉は日清・日露戦争を正当化し,満州事変,日中戦争,太平洋戦争に向けて,田中智学の手を離れ日本全体に共有されるようになりました。
田中智学は,八紘一宇という言葉が侵略戦争を正当化するものとして理解される可能性があることを想定していました。
2.26事件の青年将校たちによる「蹶起趣意書」には「八紘一宇を完(まっと)
うするの国体」との表現がありました。
国柱会の信者には宮沢賢治,石原莞爾,小菅丹治(伊勢丹の創業者,伊勢屋丹治呉服店から1930年に伊勢丹を名乗る),竹内久一(東京美術学校彫刻科教授)
がいました。
戦前は日蓮の人気が高く,戦後は親鸞の人気が高まりました。
創価学会二代目の戸田城聖は「国立戒壇」ということを言いました。国立戒壇とは,日本が国家として建立する日蓮を開祖とする法華経本門の戒律を授ける場所のことです。
戸田は創価学会が政界進出した唯一の目的は国立戒壇にあると明言しました。
そもそも国立戒壇という言葉を使ったのは田中智学でした。
日蓮宗をキーワードに田中智学と創価学会はつながりがあると思えます。
掩八鉱而為宇という言葉はたしかに日本書記に登場します。しかし,それ以来,八紘一宇が家族主義を示す言葉として日本社会で用いられるようになったわけではなく,日本的な価値観として受け継がれてきたわけではありません。
八紘一宇を造語したのは田中智学であり,それに影響を受けた人間は少なくありませんが,それは智学以降のことです。八紘一宇はあくまでも近代的な概念であり,近代的な思想です。
以上,「八紘一宇」(島田裕巳・幻冬社新書)から一部引用しました。
最後に宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の全文を紹介します。彼が法華文学の人だったことが分かります。
雨ニモマケズ
風ニモマクズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲ持チ
慾ハナク
決シテ瞋(イカ)ラズ
イツモシヅカニワラツテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ツテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ツテコハガラカクテモイ丶トイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ(ヒドリはヒデリの誤記か論争あり)
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボ―トヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩
No title
「岡本かの子さんの出征兵士を想ふ散文詩を拝誦し,事変以来,皇軍勇士の
心境に神を見,彼等が現人神にまします天皇陛下に,帰命奉ることのよって,よく生死を超越し,容易なことでは到達し得ない宗教的絶対地に易々としてはいつてゐることにひどく感動しているわたくしは,ようこそ言って下さったと,
まことに同感至極で,おそらくこれは銃後の日本女性大衆すべての今言はんと欲してゐるこゝろでありませう。・・・あの朗らかな,自然の笑ひを浮かべた顔!天皇陛下万歳を唱へて死ぬときも笑って死ぬといふのも本当でせう。陛下の御稜威(みゐず)のもとにおのづから大悟(だいご)の境に安住し得る日本人は,思へば何といふ仕合せな国民なのでせう」
また児童文学者の村岡花子は1942年の随筆集「母心抄」に次のような文章を載せました。
「私は戦争の文化性を偉大なものとして見る。平時には忘れがちになつてゐる最高の道徳が戦争に依つて想起され,日常の行動の中に実現される」,「母は国を作りつつなる。大東亜戦争も突きつめて考へれば母の戦いである。家庭こそは私どもの戦場,この戦場をとほしての翼賛こそ光栄ある使命である」
平塚らいてうも村岡花子も著名な女性ですが,戦時下ではこのような発言をしていたことは知っておくべきだと思います。
若桑みどリさんは,「私は戦争・女性という問題は,戦争=男性,平和=女性といった二項対立によってではなく,相互補完的な一体として,一枚の銅貨の裏表のように引き離しがたい関係性をもって論じなければならないことを確信した。女性は,家父長制度―軍事体制の権威的な構造のなかで被支配者であるとされている。だが,女性はこの構造のなかで,権威に従属し,みずからの宅割に従順に,しばしば熱狂的に従うことによってこのシステムを支え,補完し,維持するための不可欠な一部であり続けた」と言いました。また若桑さんは熱狂的に戦争を推進して女性の心性を「チアガール」と呼びました。適確な表現だと思いました。
女たちの戦争責任(2)
夫あてには次のように書かれていました。
私の御主人様。私は嬉しくて胸がいっぱいで御座います。
どう御喜び申し上げてよいやら明日の御出征に先立ち嬉しくこの世を去ります。何卒後の事を何一つ御心配御座いますな,私は及ばずながら皆様をお守り致しますから,御国の御為に思う存分の働きを遊ばしてください。
陸軍は『偕行社記事』で,「か弱い女の身で,夫君をして後顧の憂を無からしめ,その行を壮にしょうとの念願から此の挙に出でたる(中略),嗚呼,昭和の烈婦といわずして何といおう」と激賞しました。
この美談を背景に,映画会社の日活と新興キネマは競って事件を映画化しました。
1980年代に研究者が大阪で聞き取りをしたところ,千代子は「動作のはきはきしない無口な人」で,夫婦仲もあまりいいようにな見えなかったとのことでした。結婚して1年以上たっても妊娠しないので,夫に申し訳ないと思ったのではないかという女性もいました。この「殉国美談」は夫にとっては残酷なものではなかったでしょうか。「後顧の憂を断つ」とは,心おきなく戦って戦死せよというプレッシャーだったからです。
「後顧の憂を断つため」の死と聞いて,当時は「バッカじゃなかろかと思った」と語った女性がいたようで,案外それが庶民のホンネだったようです。
1932年3月,連隊は無事に帰還しましたが,井上中尉は帰還を拒否して満洲に残りました。「殉国美談」の妻の手前,生還するわけにはいかなかったようです。同年9月,平頂山部落の住民3000人を写真を撮るからと騙して崖下に集め,一斉射撃で虐殺しました。生き残ったのはほんの数名でした。井上中尉が虐殺を指導した責任者でした。
井上千代子という一人の若い女性の自殺は夫の運命を大きく狂わせ,中国人民の多くの生命を奪うことになりました。
なお,井上千代子の自死は国防婦人会議に結成につながったとされています。
十五年戦争は国際社会で侵略戦争と認定されていた。
極東軍事裁判では日本は侵略戦争を行ったと認定され,日本政府も裁判の内容を受諾しているではないかと言っても,侵略戦争否定派は「東京裁判は勝者による裁きだから受け入れられない」と屁理屈をこねます。
一番いいのは,当時の日本の行動が国際社会においてどのように認知されていたかを知ることだと思います。これならば客観的な評価と言えるはずです。
その前に,1931年10月5日付けの「帝国大学新聞」に掲載された横田喜三郎・東京帝国大学助教授の文章を見ていきたいと思います。なお,このとき柳条湖事件は関東軍によるでっち上げ事件であるということは分かっていませんでした。
「鉄道の破壊が事実であるとして,破壊しつつある軍隊に反撃を加えることは確に自衛権の行使であろう。あるいは,その軍隊を追撃して北大営を占領したことも自衛権だといえばいえぬこともなかろう。しかし,北大営に対する攻撃とほとんど同時に奉天城内に対して攻撃を開始したことまで,自衛のために止むを得なかったといい得るだろうか。まして,鉄道の破壊に基く衝突(18日午後10時半)から,僅かに6時間内外のうちに,400キロも北方の寛城子を占領し(19日午前4時40分),200キロも南方の営口を占領した(同5時まで)ことまで,果たして自衛のために止むを得なかった行為といい得るであろうか」
1937年,ブリュッセルにおいて九ヶ国条約会議が開催されました。11月15日に
宣言を採択して閉幕した同会議は,日本が国際的介入を排除するのは法理上根拠がないこと,日本が主張する中国の排日政策を放棄させるための兵力の使用というのは国際法上認められない内政干渉に該当するとして日本を非難しました。
中国は,1938年に国際連盟に連盟規約第17条による正式な提訴に踏み切りました。理事会は日本に対して理事会への出席を求める招請状を9月19日に発しましたが,日本政府は22日に参加を拒否する回答を発しました。
理事会は決議の検討を開始し,9月30日に文案を決定しました。
文案は,すでに前年において日本の行動は自衛権では是認されず,九ヶ国条約・不戦条約に違反していると認定されていること,日本が理事会への出席を拒絶したことは国際紛争の平和的解決の拒絶を意味することから,各国が「個別」に第16条による制裁を発動しうると謳いました。しかし文案が、連盟は現状では制裁のための共同的行動をとることができないと述べたように,実質的には連盟が制裁を実施しないことを表明したものでした。さらにイギリスの対日配慮から,文案は最終的に決議ではなく形式的に「議長報告」として公表されました。
このように「個別」にとしながらも連盟国は日本への制裁を発動しうるとしたことは,連盟が実質的に日本を侵略国と認定したことを意味しました。
戦後間もなく(1947年),国際法学者の横田氏は次のように述べました。
「侵略的な戦争に対しては,いろいろな条約や条約案によって,世界のほとんどすべての国家が共同して制裁を加えることになっているから,この制裁は刑罰としての性質を有するものといえる。同時に,そのような制裁を加えられる侵略的戦争は,国際犯罪としての性質を有することになる」
以上,「満州事変から日中全面戦争へ」(伊香俊哉・吉川弘文館)から一部内容を引用しました。
このように当時の国際社会が日本の軍事行動を侵略的戦争と認定していたのですから,あくまでも自衛戦争だったと言い張るのは歴史の勉強をしていないからだと言えます。
戦争体験者からの発言
自民党は69年6月30日に靖国神社法案を議員提案により国会提出をしていました。それに先立ち,小川さんは『キリスト者遺族の会通信』に文書を寄せていました。
「追い詰められた受身の立場で結成されたキリスト者遺族の会は,この会の出発にあたって,歴史を支配し給う主の御前に,今日まで24年間,キリスト者遺族として,戦争責任を自らの課題として積極的に取り組まなかった怠慢の罪を深く悔い改めねばなりません。・・・靖国法案では,戦死者を英霊として尊崇し,その遺徳をたたえ,その偉業を永久に伝えるとして,戦死者を偶像化し,戦争を偉業として美化しています。私は二人の弟を戦争で失い,
私自身も戦死を覚悟して遺書を書きました。また軍医として戦争栄養失調症でミイラのようになって死んでいく人びとを見守り,敵前逃亡の銃殺を見,戦場を逃避するためのヒステリー患者や,自殺者や発狂者を見て,戦争の現実がどんなに悲惨な非人間的なものであるかを実感しております。それゆえに『再び英霊を出すな!』と叫ばざるを得ません」
北京戦犯拘留所で小川医師が支えた戦犯死刑囚の高具勝(憲兵准尉,39歳),高橋鐵雄(華北通信電話大興県分所長、39歳),黒沢嘉隆(憲兵曹長,31歳)は連名で書き残しました。
「銃殺刑を前に遠く祖国の皆さんに訴う。靖国は侵略戦争を反省各国にお詫びする神社にして下さい。『英霊』『勲章』は拒否します。戦争で日本軍は大変悪いことをした。私たちに殺された中国人遺族の皆様に申訳ない。『聖戦』ではなく侵略であります。天皇陛下も侵略を各国にお詫びして下さい。お詫びは恥ではなく,日本の良心です。日本はかつてのドイツにならぬよう,二度と武器を持たないで下さい。国民党蒋介石軍の戦犯処刑の実体を帰国者から知って下さい。岡村寧次総司令官などの戦争責任者や,石井細菌戦部隊こそ厳重に処罰て下さい。吾身をつねり,殺される立場になって,その痛さを知りました。朝鮮民族の伊藤博文に帯する憎しみも日本に対する怒りもわかりました。祖国日本の平和と良心は民族の反省なくしては得られません。私達は日本軍の罪を背負って銃殺されて行きます」
黒沢が奇跡的に脱獄に成功した一方で,高具,高橋の二人は北京の南の天橋刑場で処刑され,小川さんが遺体を引き取りました。
小川さんは,戦争で死んでいった者たちが英霊とされることを拒否し,生き残った者が戦死者を英霊と呼ぶ乖離を問題にしています。死んでいく者には生きるための打算はなく,限界状況における生と死の意味付けに真直ぐ向かっています。だが,生き残った者には戦死者の霊さえ世俗的に利用しようとする打算が隠されています。その打算が,次の戦死者を準備する思想になります。
「あなたが本当の戦争体験者なら,靖国法案に反対してください」,そう語りかけながら,
小川さんは終戦記念日の靖国神社に立ち続けました(「戦争と罪責」野田正彰・岩波書店)。
戦争体験者による「英霊拒否」は非常に貴重だと思います。このような思いを語る人がだんだん少なくなり,それをどうやって語り次ぐのか難しい問題であるものの,私たちがしなければならないことなのだと思います。
靖国神社の御神体は刀
化石同然の老害ジャーナリストである田原総一朗は,「違和感を抱いたのは,刀を武器の象徴ととらえたこと。・・後半には,日本兵が刀で捕虜らを斬り付ける写真が登場する。これは本当のものか疑惑が指摘されているもので,使ったことは疑問だ」と言いました。まさに「想像しようとしない」日本人の代表でした。
戦時中の日本軍は陸軍の将校はもちろん,海軍の士官も軍刀として日本刀を戦場に携行していました。海軍の士官は軍刀を持って軍艦に乗り込み,陸海軍の航空隊のパイロットは日本刀を携行して戦闘機に乗り込みました。軍刀としての日本刀は基本的には軍隊の指揮官クラス,陸軍は将校・准士官,海軍は士官・准士官など,将校ならびに将校担当官が帯刀できました。
海軍は1937年に軍刀の形式を日本刀式に制定し,その布告文で「軍刀は儀礼的なものにあらず,専ら実用を旨とするもの」として実戦用であることを明確にしました。陸軍も1938年に日本刀を軍刀の形式とし正式に定めました。
中国戦場では,①白兵戦―中国人の陣地,塹壕またはトーチカに突撃しての斬り込み ②据え物斬り―無抵抗の投降兵や捕虜,敗残兵を坐らせて斬首,の方法で日本刀は使われました。
第35師団232連隊の見習い士官として中国に出征し,後に情報宣撫主任となり,情報収集のために捕虜,住民の拷問,殺害を行った鵜野晋太郎は45名の中国人を日本刀で切り殺しました。
日本刀が戦場でどのように使われたのかを知ろうとしない日本人は,過去に背を向けて生きる人間ということになると思います。
朝鮮人特攻隊員
21,000人以上いると言われ,本人や遺族の意思にかかわらず英霊として合祀されています。ここには特攻隊員も含まれます。特攻死した朝鮮人特攻隊員は17人であり,年齢は17歳から27歳までで20歳前後が大半を占めています。戦死後は全員が二階級から四階級特進しています。このほかに特攻機に放火したとして1945年8月9日に山本辰雄(本名不明)が死刑になっています。
2004年に吉林省長春で,特別攻撃隊として出撃する直前の日本軍兵士の声が録音されたラジオの録音内容が発見されました。
御民我れ 生ける験あり 天地の栄ゆる時に あへらく思へば
ひとりこの静かにこの歌に包まれる時,何とも言えない気持ちで胸いっぱいであります。今ここに選ばれて名誉ある特攻隊に召された時の気持ち,
またこれが何とも言えない気持ちであります。鬼畜米英の軍艦,あるいはB―29が次々と目前に見えてきてじっとしておれません。大きな戦果が新聞に載らずとも,一機一艦のあの憎き船にぶつけて粉々にしてみせます。歴史を守る同胞よ。一人一人が特攻隊となって,この歴史を永遠に保ってくれ。それが若き者の進むべき道である事を思ってくれ。お父さん,お母さん,元気で下さい。いろいろとご心配かけて不孝者と思えば誠にすみません。しかしこの際,正明にはこのことをお許しくださると思って元気で行きます。弟よ,妹よ。こちら兄が可愛がる事も,また兄として何もできなかった。許してくれ。強く元気にそして立派になってくれ。(中略)靖国に召される身体如何せん さようなら
彼は,1945年3月29日に沖縄戦で敵艦に向かって自殺攻撃をして戦死した陸軍少年飛行隊の朴東薫(日本名 大河正明)です。朝鮮人特攻隊員で特攻死したうちで最も若い17歳でした。彼の声は戦死後約2ヶ月の6月12日午後8時5分に京城放送局によって朝鮮の隅々まで届けられました。彼が戦死すると日本陸軍は彼を伍長から少尉に四階級特進させました。彼の死は本土決戦を目前にした朝鮮総督府によって名誉ある死として祀りあげられ,重要な宣伝道具になりました。彼は出撃する前に両親に手紙を贈りました。
待ちに待った希望の日がきました。小子は嬉しくて,嬉しくてどうしたらよいのか分かりません。栄光に輝く特攻隊として小子は出撃することなりました。(中略)小子が扶搖隊の一人として出撃すると決まったことを考えると感無量です。小子のように,幸せな人は世の中にいないでしょう。
しかしこれは本心ではありません。朝鮮京城の飛行場付近で家族と最後に会う機会があったとき,父親がなぜ特攻隊に志願したのかと尋ねると,自分は長男だから特攻に行けないと言ったが,上官たちが家族の世話はするから安心しなさいと志願を「強要」したと彼は父親に答えたそうです。
戦時中は軍神と祀りあげられた朝鮮人特攻隊員は日本の敗戦とともに評価がひっくり返りました。特攻死を讃える記念碑は破壊され,「半島の英雄」を育てた愛国者から,朝鮮民族を裏切った売国奴の一家と言われ,日本の軍国主義を受け入れた「親日派」の烙印を押されて憎悪の対象になりました。
敗戦時には陸軍海軍の両軍で軍人が209,279人,軍属では154,907人の朝鮮人兵士がいました。朝鮮人特攻隊員に関する研究は始まったばかりで,台湾ではまったく行われていないそうです。母国は植民地となり,宗主国のために自爆作戦に臨んだ,特攻しないことには朝鮮民族の恥になるとして敵艦に向かっていった朝鮮人兵士たち。ここでも従軍慰安婦と同様に日本の植民地主義の犠牲になった人たちがいました。日本は朝鮮人に何と罪深いことをしたのでしょうか。
日本遺族会の性質の変化
ところで戦後の遺族運動は戦争未亡人が集まる「戦争犠牲者遺族連盟」(1946年6月9日結成)に始まり,同じ身の上を語り,戦争を憎み,貧しい生活の改善を求める運動だったとのことです。戦争犠牲者遺族同盟発行の機関誌「戦争犠牲者」第一号には次のような歌が載っていたそうです。
一、あゝ侵略の戦争の 犠牲となりし わが友よ 集ひて叫べ この歌を
山野に海に 街頭に
二、杖ともたのむ わが倅 柱とたよる わが夫 かけ替へもなき わが
父を 奪ひ去りしは 軍閥ぞ
三、聞かずや飢餓と疾病の 巷にあがる 叫喚を これぞ老父や 妻や子
の 生活権の 要求ぞ
四、見よ 堂々の行進を 軍国主義を うち倒し 恒久平和を うちたて
て 民主日本の 実現へ
五、今や 戦争犠牲者の 遺族は結ぶ 同盟を 来たれよ 共に扶けなん
来たれよ 共に闘わん
どこにも英霊を讃える心情はなく,はっきりと軍国主義を倒すと謳っています。彼女たちの心情はふみにじられ,女たちの遺族同盟から男たちによる遺族会に変わったことで,遺族会の性質が変わりました。単純化するのはよくないのですが,一般的に女性は軍国主義に非親和的であり,男は軍国主義に親和的なのではないでしょうか。
鹿児島にある知覧特攻平和祈念館には行ったことはありませんが,おそらく涙を流して感動に奮えているのは男だけではないかと想像します。「特攻」と「平和」がどうして結びつくのか,名称からして理解できません。
児童の最大の敵を撃退せよ (老舎)
児童の最大の敵を撃退せよ
老舎1938年7月6日
我々はどうして日本人を「暴日」と呼ぶのか。我々は故意に悪口を言っているのではない。日本軍人が事実によって作り出しているのだ。日本軍人は彼らの国内で庶民を欺き,中国に来て姦淫と略奪を行っている。こうした悪行を,いまや世界中の人が知り,口々に譴責(けんせき)している。だから「暴日」と呼んでも少しも良心に背くことはない。しかも,これほどの悪行は古今あまり例がなく,筆舌に尽くしがたい。「暴日」の形容も十分ではない。我々は直截に禽獣あるいは狂犬と呼ぶべきである。
暴日の悪行の中でも,最も残忍にして凶暴なのは児童の虐殺と婦女の辱めである。児童と婦女はともに戦闘員ではなく,また自分を守る力をさほど持っていない。もし日本軍人に少しでも人間性があれば,かならず婦女子の虐殺や凌辱は最も恥ずべき事だと分かるはずだ。戈を交えて戦うのは,もとより相手の戦闘力を消滅させるためであって,むやみに人を殺してはいけない。だから,戦争は残酷な事ではあるが,軍人はなにがしか英雄の気概を持たなければならない。軍人は兵であると同時に人間でもある。軍人は犠牲の精神を持たなければならない。戦場に出たら死を恐れず,勝っても負けても規律を守り,礼儀正しくある必要がある。それでこそ勇敢な戦士と呼ぶにふさわしい。軍人は戦争に行き,敵を打ち破らねばならないが,殺人や放火を楽しみ,弱者を欺くことを栄誉と考えてはならない。しかし,日本軍人はこの道理を理解していない。勝っても負けても,日本軍人は人を見ると殺し,血を流させることに快楽を感じている。それは禽獣である。
倭奴(わど)が禽獣になったのには,おおよそ二つの原因がある。一、日本軍が国を出る以前,あるいは彼らが軍営に入る前と言えるかもしれないが,帝国主義が作り上げた教育を十二分に受けてきた。この教育の重要な一項は,中国人についてデタラメな話を作り上げることである。中国人はブタやイヌにも劣ると言い,きびしく殺したり鞭打ちしたりしなければダメだと言う。中国人を殺して恐がらせ,ひざまずいて日本に頭を下げさせてこそ,天下太平になる,だから日本は侵略しながら,同時にこれは東亜の平和のためだと言う。つまり,日本が覇を唱え,中国が奴隷になり,我々は息もせず,日本のなすがままに任せる。それが平和である。こうした教育のため,日本軍人は平和と惨殺を同じだと考え,野蛮と勇気を同じだと思っている。彼らが中国に来て,あらゆる悪行をしないことがあろうか。彼らは我々の兵士を殺害するのみならず,いたるところで野放図に殺人を行う。児童ですら流血と死亡から逃れることはできないのだ。
二、日本の軍隊には,あらゆる種類の人がいる。農工商各界の人は誰でも,命令を受けたら兵役につき出征しなければならない。安穏な生活を送っている人が,突然家と仕事を離れ,中国にやってくる。それがとてもつらのは自然なことだ。中国に来たら,一戦で勝利して,ー彼らの軍閥が彼らに語っているようにー凱旋帰国することを待ち望んでいる。ところが中国の軍隊は頑強で,人民は国を愛しており,日本軍はいたるところで打撃を受ける。日本軍はいくつかの都市を占領したが,勝利にはほど遠い。しかも中国は戦争を続けるほど強くなり,賢くなり,日本軍はほとんど勝利の可能性がなくなっている。彼ら日本兵たちははっきり分かっているはずだ。早晩中国で死ななければならず,骨となって瓶に入れられ,故国に送り返される運命であることを。彼らは悲観し,消沈している。だからせめてもの快楽,一時の楽しみを求めて,どんな悪事もしてのけるのだ。かくして彼らは,自分の子供たちを想いながら,中国の児童を刺し殺し喜んでいる。愛している子供たちよ。君たちは日本に殺された友達の仇を討たなければならない。君たちの中には,父母を失った者がいるかもしれない。兄弟を失った者もいるかもしれない。日本人は君たちの父母や兄弟を殺した。その恨みを忘れることができようか。いま,何万人という成人が各地で懸命に敵を倒している。それは誰のためだ。大部分は君たちのためだ。大人たちは,後の世代がまとまって日本人の手で殺されるのを見ていられず,だから戦争に赴く。君たちはどうする。君たちも十年やそこらすれば成人する。父や兄の足跡を追って奮闘し,前進しなければならない。今こそ,今こそ準備を始めるべきである。身体を強くして,志を高めるのだ。君たちの国家を父母とみなせ。みんな大中華民国の子女だ。大中華民国のため苦難に耐えて命をかけるのだ。日本軍人は君たちの最大の仇である。天然痘よりひどい仇である。日本人は銃剣で中国の児童の腹を切り裂き,中国児童の腰を突き刺し,ハラワタが流れ出るのを手をたたいて笑っている。なんという世界だ。君たちの小さい拳を握りしめ,小さい心で決意を固めるのだ。復讐せよ! 復讐せよ! 復讐せよ! 私は君たちに残酷な殺人者になれと勧めているのではない。日本軍人があまりにも憎むべきで,非人間的なので,殺しつくすしかないのだ。蚊や南京虫に人道を語るのは無駄である。逆に,蚊や南京虫を根絶してこそ,病気にならずにすむ。日本軍人に対しても同じである。父さんや母さんが死んだのか。泣くな! 身体を鍛えて,気持ちを奮い起こして,日本兵を殺すのだ。お小遣いを節約して,お菓子を減らして,傷ついた兵士に募金するのだ。君たちがだらしないと,中国に希望はなくなる。抗戦する児童がいてこそ,我々も長期の抵抗ができる。日本は必ず敗れる。まさか君たち,子供たちよ,日本の強盗が好きなわけではあるまい。奴を撃退せよ。イナゴを焼くように君たちの最大の仇を撃退せよ。日本が勝利したら,中国は滅びる。みんな,どうするべきか考えるのだ。
侵略戦争の証拠=田中上奏文
田中義一は張作霖爆殺事件で裕仁天皇から叱責を受けたことが有名です。「昭和天皇実録」によると,昭和天皇は,田中首相から「張作霖爆殺事件に関し,犯人不明のまま責任者の行政処分のみを実施する旨の奏上をお聞きになる。今回の田中の奏上はこれまでの説明とは大きく相違することから,天皇は強き語気にてその齟齬を詰問され,さらに辞表提出の意を以て責任を明らかにすることを求められる。また田中が弁明に及ぼうとした際には,その必要なしとして,これを斥けられる」とあるそうです。
田中義一は在郷軍人会を創設し,「在郷軍人会の父」と呼ばれたそうです。在郷軍人会本部が作成した「やんやと節」(作詞:野口雨情,作曲:中山晋平)というレコードには「狭い心で 世の中渡りゃ マルキシズムにだまされる マルキシズムにだまされりゃ 可哀そうだが心が腐る」と言う歌詞が含まれていたそうです。
張作霖爆殺事件の実行犯は河本大作は自分たち関東軍参謀であるとインタビューで答えました。ところが「ワイルド・スワン」の著者であるチャン・チュアンはソ連の謀略であると言いました。とても信用できる知的レベルにありません。
芸能人、局アナ、すぽーす選手…言葉は悪いですが「〇ホ」の一つ覚え…でもジミンだけで津木野宇佐儀個人経営の餃子屋さんへの堀江貴文による誹謗中傷に法の裁きを。強きを助け弱きを叩くジミン支配下ニッポソなら>工作員zさん
>返済できずに破産かもしれないネ
ホリエ某は、ジミンpowwwwwwwwered by 財界& assssssssssisted by 電通 がいる限り、そうはならないでしょうね(憤怒)
ass津木野宇佐儀全国民のための正しい政治を求めることは「共産主義的な物言い」だとする石原伸晃の発言が、「政治は自民のもの」という自民党の基本姿勢をよく示していた。補足です。 インドネシアにおける共産党員虐殺の主体には,イスラム法学者もいました。必ずしも共産党員及びそのシンパが犠牲になっただけでなく,中国人も犠牲になりました。軍が武Takeshi欧日間の経済連携協定で、欧州連合が人権後進国日本に「人権条項」を要求するのは当然である。天賦人権論最近の記事のコメント欄では脈絡がないので、村野瀬玲奈と天賦人権論を検索ワードにして出てきた記事にコメントします。
「こどもには権利も義務もない」と言っている地方kuroneko個人経営の餃子屋さんへの堀江貴文による誹謗中傷に法の裁きを。この方は、大阪万博の特別顧問だそう。ライブドアceo時に証券取引法違反で逮捕された前科。ロケット打ち上げ失敗の融資先はたぶん政府系金融機関でしょう?返済できずに破工作員z「まるで中国、北朝鮮」と言うのではなく、「まるで大日本帝国」と言おう。北朝鮮への帰還事業から65年 北朝鮮への帰還事業は1959年12月14日に新潟港から出発したのが第一陣で,2024年12月14日には65年を迎えました。当時朝鮮人は日本社会において貧困と差別に苦しみ,「地上Takeshi政治を知らないスポーツ選手や有名人の自民党からの選挙出馬が悲しいNo title来年は確か統一地方選挙もあるので、「地獄逝こう」と立憲で有名人を候補に擁立する猟官運動の類が頻発しますね。
「頭数にしかならんだろ」と冷めた目で見ています。今井アンドリュー・バルトフェルド政治を知らないスポーツ選手や有名人の自民党からの選挙出馬が悲しい体育会系芸能人はともかく、スポーツ選手つまり体育会系エリートは、割と自民党に近い思想を持っていると思います。
体育会系は軍隊であり、そこに民主主義などありませんから。怒りの日政治を知らないスポーツ選手や有名人の自民党からの選挙出馬が悲しい打越さくらvs中村真衣か オリンピックでのメダル受賞者の自民党議員となると,堀井学や橋本聖子のようにかんばしくない人を思い出します。中村真衣さんは早くから自民党の参議院議員になりたいとTakeshi全国民のための正しい政治を求めることは「共産主義的な物言い」だとする石原伸晃の発言が、「政治は自民のもの」という自民党の基本姿勢をよく示していた。インドネシアにおける共産党員大虐殺インドネシアは17500の島から成り,人口は2億3500万人。300の民族から成り,365の言語が話されています。留学生のリクルートのためにジャカルタに出張したとき,インドネシTakeshiハン・ガンさんのノーベル文学賞授賞講演のテキスト (メモ)No titleトピズレすみません
山口放送制作のNNNドキュメント「アボジが眠る海」は必見です
山口県宇部市の長生炭鉱の惨事は、恥ずかしながら、知りませんでした津木野宇佐儀ハン・ガンさんのノーベル文学賞授賞講演のテキスト (メモ)ハン・ガンさんの小説が尹錫悦大統領の弾丸を求めるデモに参加した若者曰く「今までデモに参加したことはなかった。でもハン・ガンさんの小説を読み光州事件のことを知り民主主義の危機を感じたの閉口ハン・ガンさんのノーベル文学賞授賞講演のテキスト (メモ)民主主義の勝利ハン・ガンさんの韓国でクーデターを起こして失敗した尹錫悦大統領への弾劾訴追案が一昨日(14日)可決されました。
心より歓迎したいと思います。
これは民主主義の勝利その閉口島根原発再稼働。大事故が起こったら日本政府も自民党も電力会社も誰も責任を取らないのに。そもそも原発は多くの欧米列強は脱炭素を悪用し原発を推進しようとしています。
しかし原発は核兵器の開発のためにつくられた悪しきものです。
さらにウラン採掘から運転・廃炉、廃棄物処閉口島根原発再稼働。大事故が起こったら日本政府も自民党も電力会社も誰も責任を取らないのに。危険だとわかりきっている原発が避難計画の策定が不十分の中、島根原発が再稼働されました。
これは暴挙そのものです。
一時盛り上がりをみせていた脱原発の声はすっかり下火になってしまいました。
なり閉口修学支援新制度において、成績要件によって機械的に支援を打ち切ることは低所得家庭の学生の学びと人生を危機にさらす偏った富を吐かせるもちろん、無償化は「学費」だけでなく、教育全般の無償化です
「GDP」では中国に続き、さらにドイツに抜かれましたが
まだまだ経済「大国」日本にはそれくらいの富はある津木野宇佐儀玉木雄一郎ドヤ顔の公約「手取りを増やす」は「玉木を衒いて石を売る」行為ではないか (国民民主党への強い疑問 (3)) #国民民主党に騙されるな #玉木雄一郎に騙されるな予想。給与所得控除55万円はいじれない。特定扶養控除での調整か年少扶養控除の復活かでしょう。柿ノ木扇蔵ハン・ガンさんのノーベル文学賞授賞講演のテキスト (メモ)疑問:M上青樹にどんな演説ができるのか??…∞またまたトピズレ、すみません
ここ何年か、過剰に喧伝され続けてきた某M上ペラ樹氏のノーベル賞受賞…
彼には絶対にない!
それより、生前に谷川俊太郎さんが受賞されてい津木野宇佐儀「原爆で亡くなった死者に対する償いは、日本政府は全くしていないという事実をお知りいただきたい」 (被団協、田中熙巳(てるみ)代表委員、2024年ノーベル平和賞授賞式で)No title 田中熙巳さんが日本政府が原爆被害者への国家補償をかたくなに拒んでいることを批判したことについて、ネットでは「補償ならアメリカに求めろ」とか「結局は金か」と罵倒クテシフォン島根原発再稼働。大事故が起こったら日本政府も自民党も電力会社も誰も責任を取らないのに。鼻先の馬は必死、目先のジジイ・オヤジは「一代主義」の「お主も悪よのう」福島原発事故でまき散らされた放射能はしばらくしてドイツでも観測されたそうですし、海洋汚染もアメリカに到達しています。
推進派はともかく、世界からはニッポソの核お津木野宇佐儀大日本帝国のおかしたたくさんの過ちの一つ、太平洋戦争の開戦。(1941年12月8日、真珠湾爆撃)No titleそして、南京と・だけでない「蝗軍」の蛮行…
「ゴメンで済んだら警察いらん」と言いますが、まだきちんと「ゴメン」も済ませていないニッポソ…
いつになったらアジア全土で津木野宇佐儀論外取締役デマ工作についての最初のぬるい謝罪を批判されてやっと「沖縄の方々」に謝罪した弘兼憲史と講談社。しかし、まだ問題は残っています。 @morningmanga @KODANSHA_JP講談社は滅ぼされて然るべき理由を自分で作っている一つ
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大阪空港騒音公害訴訟上Takeshi婚外女性を玉木の輿に乗せて、自分に都合が悪くなったら切り捨てた #玉木雄一郎に騙されるな #玉木代表の議員辞職を要求する #国民民主党に騙されるな橋下徹のずれた発言橋下徹が小泉みゆき嬢を国民生活党で職員として雇うことを提案したそうです。いくら不倫を擁護するにせよ、橋下徹の発言はやはりずれています。Takeshi玉を衒いて維新を売る立憲民主党の誤り @edanoyukio0531 @izmkenta @okada_katsuya @nagatsumaakira @tsujimotokiyomi @OogushiHiroshi @junyaog @kikuta_official @s_mizuoka @shigetoku2 @hirofumi_ryu @sokuno2 @masayo_tanabu @saito_yoshitakaNo title 野田代表の政治センスの無さは相変わらずのようです。一応リベラルな政党という事になっている立憲民主党がバリバリ保守の維新の会と組めば政党の理念が死んでしまいますクテシフォン新型コロナウィルス感染症は終わっていません。不織布マスク着用による最大限の予防を。 #感染症から子どもを守れ #学校園は流行期の対策をNo titleさらに「リンゴ病」も流行っているそうですね。
本当に油断できません。
以前購入したN95マスクとゴーグル、一度、最寄りの政令指定都市に行ったときに使ったきりですが、津木野宇佐儀新型コロナウィルス感染症は終わっていません。不織布マスク着用による最大限の予防を。 #感染症から子どもを守れ #学校園は流行期の対策をNo title「コロナはまだ終わってない」と吐き捨てたくなるときがあります。
それに「インフルエンザ」と「マイコプラズマ肺炎」が終息するどころか「これからじゃないか」と間違いアンドリュー・バルトフェルド