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天安からアンニョン

日々の思いや韓流情報などをエッセイ風に書きます。韓国からの発信です。

直接話法でものを言う90年代生まれの女性たち。

こちら韓国は、お正月は旧正月で行なう。この旧正月をソルという。
今年のソルは1月25日。前後2日が休みとなるので代休を含めて24日から27日までが連休となる。
元旦の1月1日は、年明けという意味でそれなりの挨拶をするのだけれど、
日本でいうお正月の気分は、ソルのときにはじめて湧いてくる。
だから、韓国には正月が2回あると言ってもいいわけ。
で、このほんとうの正月つまりソルが近づいてくると、
いつも問題、話題になるのが、嫁さんたちの動線。
今の50代以上の方々は、名節(ソルのような大きな年中行事。お盆に当たるチュソクなども名節だ)のときには
嫁さんは例外なく夫の実家(これを媤家という。発音はシガ)に行って、
掃除や料理作りなど女性の仕事をお手伝いすることが当然の決まり、不文律だった。
でもここ最近、特に1990年代生まれの女性が結婚し嫁さんになる時代になって、
その様相が少しづつ変わり始めている。
新しい考えを持つ女性が増えているからだ。
伝統的な家父長的文化に対して「そうじゃないでしょ」と直接話法で言い、
ジェンダー意識も強い独立独歩型の女性が増えているからだ。
これはとてもいいこと!。
筆者は男であるけれど、韓国の女性を心から応援したいと常々思っている。
実際のありさまをこちらのネットに載った記事などからご紹介したい。
90年代生まれの裵(ベ)・スジさん(仮名・30)は最近、夫と冷ややかな神経戦を繰り広げることになった。
昨年12月に結婚した裵さん夫婦にとって、今回のソル(=旧正月)は結婚後初めての名節だ。
夫は結婚前「名節には公平に両家に一度ずつ行こう」と言った。しかし結婚後、突然「孝子病」の症状を見せ始めた。 
孝子病(ヒョウジャビョン)とは、結婚後急に自分の親に対して気を使うようになる男(夫)を指す単語だ。 
夫はつい先日「うちの母一人で名節の労働をやるのはとても大変だったけど、これからは私たちが助けなければならないね」と言った。 
裵さんは夫の症状をバシッと直してやった。
「死んだ先祖に礼を尽くすために生きている人々が腰が砕けるまで働く文化を変えることこそ、母を助けることよ」と。
2020年になって、1990~1991年生まれの女性らが30代に入り、一部が結婚をし始め、
1990年代生まれの女性らが初めて嫁や「嫁さん予備隊」となって正月を迎えることになった。 
2010年代半ばから吹き始めたフェミニズムのブームによって、ジェンダー意識が相対的に充満した1990年代生まれの女性らは、
韓国の家父長主義的名節の慣習に、気苦労だけしているのではなく、直説話法で問題解決を試みる。
キムヒェナ(29)さんは最近、媤家の親たちから「それでも初めての名節なんだから、韓服着て来るんでしょ?」ということばを聞いた。 
あきれてものも言えなかったが、もっと悔しかったのはそのときの夫の沈黙だった。
恋愛期間中は、名節のたびに誰の家に先に行くか相談して決めようよと約束したこともある。 
なのに、結婚後夫は「ソル(=旧正月)の前日の午後にうちに行って1泊し、ソルの朝ご飯を食べて新年のあいさつをしてから
午前10時ごろ、君(=妻)の実家に行こうよ」、「君(妻)の実家が地方だからそれでも、母が配慮してくれたんだよ」と
恩着せがましくのたもうたのだった。 
キムさんは「結婚した周りの友達はほとんどが”名節の朝はダンナの家、午後は妻の実家”という動線だ」と言い、
「私の両親の家に行くのになぜ”媤家の許可”が必要なのか理解できない」と話した。
それだけ媤家の力関係が上という意識があるのである。
これがまさに韓国の家父長的意識世界観だ。
ベさんも"媤家が先とか親庭(チンジョン=妻の実家)が先とかいうのは、夫婦関係の不平等性を象徴する」と話した。
贈り物とジェサ(祭祀)もストレスだ。 
2020年の5月に結婚を控えているシム・ヒェジ(29)さんは、媤家にどんな贈り物を送るべきかこの一か月間ずっと悩んでいる。
友達と相談もした。ある人は"イシモチ"を勧め、ある人は"カリグラフィーで書いた手紙とキキョウ精菓"を推薦した。
これらは全部韓国の定番の名節プレゼントセットである。 
シムさんは「夫は、妻の実家のプレゼントになんかこれっぽっちも気にもかけていないけど、
私は礼儀正しくセンスのある役割を強要されるミョヌリノリ
(ミョヌリは嫁の意で、ノリは振る舞いほどの意。嫁としてのあるべき行動)をしている」と愚痴をこぼした。
キムソイ(29)さんはジェサ(=祭祀、先祖への礼。名節のときにお供え物をし祈りをささげる儀式)の問題をめぐり、
"十回以上も"夫と対話したけれどもまだ解決されていない。 
金さん夫婦は結婚前、家の中の家事を最小限にとどめようと話しあい、主に出前を頼んで食べる。
料理は主人が担当している。だからかなり「できた」ダンナといっていいだろう。 
しかし名節の時は違った。
「普段は自分の家でもほとんどしない家事を、なぜ媤家に行って1日中しなければならないのか、考えただけで頭が痛くなります。 
それに、好きな人も食べる人もいない食べ物(ジェサのときの伝統的料理。最近の女性らはあまり好きではないのだろうか)を
習慣的に際限なく作り続けるというのも納得がいかないですよ。しかし夫は状況を傍観するだけです」。
90年代生まれの(予備)嫁さんたちに、「名節に一番聞きたくない言葉はなに?」を聞くと、
一様に「子供作り計画はあるのか」という質問だという答えが返ってきた。 
ベさんは「たまに”それでも息子は一人いないとね”などと言われれるとどんな表情をしたらいいのか、もう気が遠くなるくらい」と話した。 
西江(ソガン)大学のある教授(社会学)はこう語る。
「90年代生まれの女性たちが不便な慣例や不当な慣習の当事者になり始め、そうした風習に強い疑問を持ち始めた」、
「名節の葛藤は60年代生まれの母と90年代生まれの嫁の対立ではなく、家父長制の当事者である舅や夫たちの問題だ。
名節の意味や機能に対して強い疑問を持つ若い女性たちが爆発的に登場しているので、
”家父長”たちがどんな役割の変化をしなければならないか、深く省察しなければならない時期に来ている」と述べた。
永遠に続くと考えられていた儒教文化に根差した家父長的伝統文化は、それでもこのように少しずつでも変わりつつある。
変わらない中心軸のような部分ももちろんあるかと思うけど、
時代に合わせて変わっていくべき部分も多分にあろうかと思う。
おもしろいのは、変化は決して強引になされるのではなく、
力を抜いた状態でも人々の意識が変わることによって「自然に」変わっていくということ。
90年代生まれの韓国女性らがどのようにこの世相を変えていってくれるのか。
とてもわくわくしながらわたしは見ているのである。
今回のコラムの中では、孝子病(ヒョウジャビョン)という単語に注目していただけるとうれしい。
韓国独特のキーワードの中の一つといえる。

ロッテの一つの時代にピリオド。

辛格浩(シン・ギョクホ)と聞いてもピンとくる人はいないはずだ。
ロッテといったらどうだろうか。ロッテを知らない日本の人はいないはず。
そう、あの有名な「お口の恋人」ロッテを作った人がこの辛格浩(シン・ギョクホ)氏だ。
辛格浩(シン・ギョクホ)氏の特集がいろいろの新聞でやられている。
朝鮮日報を土台としてご紹介したい。
辛格浩氏は、日本の植民地支配期だった1922年慶尚南道蔚山三南面ドゥンキリというところで、
貧農の家の5男5女のうち長男として生まれた。
彼は蔚山(ウルサン)農業高校を卒業して豚の飼育をはじめたけれど、もっと勉強することを願った。
1941年親戚のお兄さんが用意してくれた路銭83円を持って日本に留学し早稲田大学で化学を勉強することになる。
会社員の平均月給は当時だいたい80円から100円程度だったという。30万円くらい持って行ったということか。
彼の日本での名前は重光武雄だ。
青年重光武雄(=シンギョクホ)は、日本で昼は牛乳と新聞を配達し、夜は大学に通いながら学業に励んだ。
偶然に出会った日本人の事業家花光さんという人が彼を高く評価し、事業資金として五万円を貸してくれる。
辛格浩はこの金で1944年東京周辺に潤滑油工場を建てる。 
しかし工場は米軍の爆撃を受けて稼動もできないまま焼けてしまう。五万円はそっくり借金として残る。
1945年8月、日本は無条件降伏、韓国は植民地からの解放。
このとき、日本にいた韓国人が大挙して母国に帰国したが、
辛格浩は「私を信じてお金を貸してくれた人を置いて行くことはできない」と、
牛乳配達をしながら工事現場で肉体労働をやり、事業の元手を調達した。
彼は当時、雨が降っても雪が降っても、配達時間を破ったことがないという。
配達時間が正確だといううわさが広まり、辛青年のところに牛乳配達の注文がどっと舞い込んでくることになる。
こうして貯めたお金を全部まとめて1946年、東京に「ひかり特殊化学研究所」という工場を建てて石鹸クリームなどを作って売った。
石鹸は飛ぶように売れ、1年半後には借金を全部返すことができた。
辛青年は自分を信じ続けてくれた花光氏に借りた資金をすべて返したうえ、感謝の気持ちの表れとして家まで1軒買ってあげた。
以降、飛ぶ鳥も落とす勢いの辛格浩社長は、
1948年には資本金100万円、従業員10人の会社を設立して「ロッテ」の看板を初めて掲げた。 
ガム会社の(株)ロッテを創業、「ロッテ神話」の幕開けとなったわけである。
会社名の「ロッテ」は、ゲーテの「若きヴェルテルの悲しみ」に出てくる女主人公「シャルロッテ」から取ったものだ。
一時、作家の夢をもっていた辛格浩氏が、ロッテがシャルロッテのように愛される企業になることを願ったことから名づけられたという。
後年、辛格浩氏は「ロッテ」というブランド名を考えたことがわたしの最大の収穫ということばも残している。
ロッテは、ガムに続いてチョコレート、キャンデー、ビスケットなど事業領域を広げ、
日本屈指の総合製菓企業としての地位を固めてゆくことになる。 
1959年にはロッテ商事、1961年ロッテ不動産、1967年ロッテアド、1968年ロッテ物産、株式会社ファミリーなど事業を多角化し、
日本の10大企業にまで成長した。
日本での事業が定着すると、辛格浩氏は故国韓国に目を向けることになる。
辛格浩名誉会長(晩年の地位)は、1966年韓日国交正常化によって投資の道が開かれると、事業を韓国へと拡張して、
1966年にはロッテアルミニウムを、1967年にはロッテ製菓を設立した。
ロッテはジューシーフレッシュ、スピアミント、バタークッキーなどヒット商品を次々と打ち出して急速に成長してゆく。
飲料・氷菓会社を買収する一方、観光・流通・建設・石油化学事業にも進出した。
1973年にはソウル小公洞(ソゴンドン)に地下3階、地上38階規模のロッテホテルを竣工した。
1974年と1977年には七星(チルソン)ハンミ飲料と三綱産業をそれぞれ買収して、
ロッテチルソン飲料やロッテサムガン(現ロッテフード)に社名を変更した。 
1979年にはロッテホテルの隣にロッテデパートをオープンし流通業にも進出した。
平和(ピョンファ)建業社(現ロッテ建設)と湖南(ホナム)石油化学(現ロッテケミカル)を買収したのもこの頃だ。 
以降1980年には韓国富士フィルム、1982年にはロッテキヤノン・テホン企画などを設立し事業領域をされに広げてゆく。
ロッテグループは1980年代の高度成長期にタイミングよく乗り、相次ぐ合併・買収を通じて、
今日、韓国内の財界第5位の企業になっている。 
辛格浩名誉会長は、このような高速成長を背景に、1990年、米国経済専門誌のフォーブスが選定した
世界の億万長者番付の第九位に上がったこともある。
しかし辛格浩の時代は2015年7月、長男の辛東主(シン・ドンジュ)元ロッテホールディングス副会長と
次男の辛東彬(シン・ドンビン)ロッテグループ会長が経営権紛争を繰り広げることから傾き始める。
この過程で辛名誉会長は経営の一線から退くことになる。
2017年には、ロッテ建設やロッテジャイアンツ、日本ロッテホールディングス、ロッテアルミなどの取締役から退き、 
韓日ロッテの経営から完全に退くことになる。
日本で70年、韓国で50年間続いた「辛格浩時代」にピリオドが打たれたわけである。
辛名誉会長は昨年6月、裁判所の決定によって居所をソウル蚕室(チャムシル)にあるロッテワールドタワーから
小公洞(ソゴンドン)に移した。 
以後健康が悪化し入退院を繰り返しながら、1月19日午後、98年の長きにわたる人生行路にピリオドを打った。合掌。
韓国を代表する偉大な経営者である。
一代でこれだけの事業を展開するっていうのは、誰にもできるワザではない。
運と才能が錬金術のように昇華するとき、こういう奇跡が生まれるのであろう。
去年のボイコット・ジャパン(日本製品不買運動)のときには、
日本系の会社だということで散々の目に遭っている。
今もその影響がゼロとはいえないようであるけれども、
生粋の韓国人の作った会社なのだから、ボイコットだのなんだのと言うのはほどほどにしてほしいところだ。
いいものはいいと、素直に認めてあげたらいいのに。そう思う。

2020年、明けましておめでとうございます。

2020年、令和2年、明けましておめでとうございます。

ゴーンの国外逃亡で年明けを迎えた日本。
こちら朝鮮半島もそれほど穏やかではない。
朝鮮半島情勢は、また緊迫したものとなっている。

北の金正恩(キム・ジョンウン)国務委員長の2020年新年の辞が、本来は午前9時ごろに発表となるだろうと
多くのマスコミが予想していたが、結局9時には、なにもなかった。

大晦日の2019年12月31日まで4日連チャンで全体会議をやっていたけれど、
さらに2020年1月1日にも延長してやるかもしれないという見方もあったようだが、ここまではやらなかったようだ。

いつもの年ならば1月1日に、労働新聞1面に金総書記の新年の辞が掲載されるのだが、今年はそれがなかった。
代わりに労働党7期5回全員会議の結果の記事を写真とともに掲載した。

労働新聞に新年のメッセージが掲載されないのは、
金正恩が国務委員長のポストになって権力を掌握した2013年以降今年が初めてのこととなる。

1月1日、普段より1時間早い午前8時から正規放送を開始した朝鮮中央TVも、例年と違って「新年の辞の予告」放送をしなかった。
2016年と2017年1月1日正午に肉声で新年の挨拶を放送したことを除けば、
政権後毎年午前8時45分に北朝鮮マスコミが、新年の辞の放送を予告し、午前9時金正恩の肉声で新年の挨拶を流した。
金正恩政権後の2013年から毎年1月1日、録画放送で肉声で新年のあいさつをしてきており、
通常の録画中継が終わった直後、労働新聞に全文が掲載された状態で発行されてきた。

今回はそのかわりに朝鮮中央TVは、年末の4日間進行された党全員会議の結果を記録映画の形で放送した。
これによって今年の場合、米朝膠着と制裁の長期化という厳しい局面で年が明けるという異例の事態となった。
年末の「4日連チャン全体会議」で決算した内容をもって新年のあいさつに代えることになろうという観測も流れている。

北朝鮮で最高指導者の新年の辞は、新年の分野別課題を提示し、通常は対内政策、対南メッセージ、対外政策などの順で構成され、
新年の辞で提示された課題は、北朝鮮では必ず執行しなければならない。絶対的な指針とされる。

権力闘争などの影響で、新年の辞の発表を欠いた年はあるものの、
金正日(キムジョンイル)国防委員長を経て、金正恩委員長に至るまで、ほぼ毎年最高指導者の新年の辞が発表された。
金日成主席がほとんどすべての新年の辞を肉声で発表したとするなら、
金正日は1995年から死亡直前の2011年までに新年の辞を、労働新聞と青年前衛、朝鮮人民軍3紙共同の社説の形で掲載した。

金正恩は、祖父と同じように毎年肉声で新年の挨拶を発表してきた。
昨年の場合、複数のマイクが置かれた壇上の上ではなく書斎を連想させる場所のソファーに座って
新年の辞を朗読する破格の演出で注目を浴びた経緯もある。

新年の辞を肉声で発表しなかったということは、多少、米や韓に対して譲歩した態度と見ることができるかもしれないけれど、
全体会議で「決意」した内容が度を越えて厳しいものだったからという見方もできる。
はたして大向こうを敵に回しながら、北がいかなる態度で2020年を始めるのか。
このブログも、また北の動向が第一の関心事となることだろう。
個人的なことも書いていきたいと思ってはいるけれど。


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treenamu

Author:treenamu
韓国在住の日本人で、山歩きやサッカー、リフティングなどが好きです。小説・随筆なども書いてます。鴨長明、ヘッセ、バルザック、モーム、チャンドラーなどが好きです。スローライフがモットーです。

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