ムーミン世代
現代の韓国の若者たちの世相の一つとして、「ムーミン」というのがある。
最近の若い層で「意味の無いプレゼント」のやり取りが流行だ。
相手が必要だったり好きそうなものを選ぶ代わりに、最大限「使い物にならないもの」を探して送る。
休息する時は、波が打ち寄せる場面など意味もなく単調な映像を見る。
若者たちは自らを「ムーミン世代」と呼ぶ。
「ムーミン」とは、「無い」の「無」と、英語で「意味」をあらわすミーン(mean)を合わせたことばだ。
「意味のあることをしなければならないという強迫観念から逃れたい」と訴えているわけである。
ちなみに韓国語でも「無」は「ム」である。
大学生ヂョン・ソヒョン(22)氏が家に来て真っ先にすることは、「無刺激映像」を見つけることだ。
ヂョンさんは主に猫が一人で遊ぶ場面などを一日中放送しているユーチューブチャンネルを見ている。
声はほとんどない。
ヂョンさんは、「ぼーっとして時間を過ごしていると、緊張が解ける」と語る。
ムーミン世代は無刺激、無脈絡、無爲休息などを追求する。
相手が喜ぶプレゼントを選ぶ過程そのものがストレスという考えから、相手にとって意味のないプレゼントをする。
草履を作る材料、縮地法教本(注1)、レンガといったものが「ムーミン世代」向けのお勧めプレゼントとして人気だそうな。
休む時にも意味を探さず、考えない。
おいしい店をあさったり、旅行をするのは禁物だ。
金魚鉢の中の魚が歩き回ったり、焚き火が燃え上がる映像を見ながら、ぼうっとしている。
「モンテリギ」というイベントがある。
「モン」は「ぼーっとしていること」といった意味であり、「テリギ」はそれを楽しむほどの意味である。
したがって「モンテリギ」は、「ぼーっとしていることを楽しむ」といった義となり、
このイベントに参加した人は、3時間くらいを草むらの上などでただ「ぼーっと」しているのである。
賞もあるという。
見た目にもいちばん「ぼーっと」としていた人が表彰されるわけである。
筆者もムーミン世代なのかも?
猫がじゃれるユーチューブや、お母さん猫やお母さん犬が、自分の赤ちゃんでなく他人(他の動物)の赤ちゃんに乳を与える
チューブなどを見て楽しんでいる。
きのうは、お母さん虎が豚の赤ちゃんに乳を与えているチューブをみた。
豚の赤ちゃんを大きくしてあとで食べるんじゃないの、なんていうブラックなコメントもあったけど、
たぶんそれはないだろうと思う。
最近は、秋田犬(あきたいぬ)のチューブを見るのが楽しみだ。
秋田犬ってこんなにかわいいものかと、最近になってはじめて知った。
わたしは本来「猫派」なのだけれど、秋田犬を知ってからはこの犬だったら「猫派」も「犬派」もないな、と思った次第だ。
注1:縮地法というのは、瞬間移動の忍術みたいなもの。現実的にはたぶん無理なんだと思う。
したがって縮地法教本というのは、日本でいえば忍者の巻物に相当する。
注2:ムーミンの記事は、朝鮮日報(20180124付け)を土台としている。
¶ 日本の「道」 _ 学生エッセイ87
学生エッセイシリーズは、韓国の日本語学科の学生らが書いた文章を紹介するコーナーです。
今回はその87回目で、男子學生 Y H G さんの作品です。
<日本の「道」>
僕が考えている日本文化の特徴の一つは’道(どう)’の文化だ。日本は他の国の人が見ると簡単に見えることまでも意味を探して、それをずっと練習する人もたびたびみえる。
例えば、日本の’香道’がそうだ 。’香道’は平安時代、海外から来た香木と日本の香木の香りを区分する’道’であった。
この文化は韓国では聞いたこともなく、日本独特の文化としてこの内容を教わた時、「こんなことまで道で作ったのか」と考えたほどだった。
上の例の通りで、日本はいろんな仕事を練習するし、この中で意味を探す。香道だけではなく、武道、茶道、書道なども日本の’道’の文化をよく表しているものと思う。
もちろん韓国や、中国でも’道’という文化はある。しかし、日本の’道’は別の特徴がもうひとつある。それは仏教と関連しているということだ。
日本の’道’は仏教の’悟り’ということが混ざっている。それは昔の武士階級の人たちが中国からきた仏教の中にある「修練を通じて自身を鍛錬し、それで悟りを求める。」ということが自分たちの武道の価値観と合うことだと考え、それを受け入れたといわれている。
このように、日本の’道’は日本だけのことだけではなく、ほかのものも受け入れながら日本の生活に染み込んでいる一つの文化として変わって来たといっても構わないだろう。
<일본의 도>
내가 생각하는 일본문화의 특징중 하나가 ‘도’라는 문화이다. 일본은 다른 국가의 사람이 본다면 간단하게 보이는 일에도 의미를 찾고, 그것을 계속 연습하는 사람이 종종 보인다.
예를 들면, 일본의’향도’가 그 중 한 가지이다. 향도는 헤이안시대, 해외에서 수입한 향목과 일본향목의 향을 구분하는 ‘도’였다.
이런 문화는 한국에서도 들은적도 없고, 일본특유의 문화로써 ‘도’를 배웠을때”이런것까지 ‘도’로 만들었었구나.”라고 생각했을 정도였다.
위의 예시대로일본은 여러가지 일을 연습하고 이 안에서 의미를 찾는다. 향도뿐만 아니라 무도, 차도, 서도등도 일본의 ‘도’문화를 잘 알수있다.
물론 한국이나 중국에서도 ‘도’라는 문화는 있다. 그러나 일본의 ‘도’는 그 외의 특징이 한가지 더 있다.
그것은 불교와 관련되어 있다는 것이다.
일본의 도는 불교의 ‘깨달음’이라는 것과 조합되어있다. 깨달음은 과거, 일본 무사계급의 사람들이 중국에서 온 불교의 가르침에 있는 “단련을 통해서 자신을 단련하고, 그것으로 깨달음을 구한다.”라는 것이 자신들의 무도의 가치관과 닮아있다고 생각해서 그것을 받아들였다고 말해지고 있다.
이렇듯, 일본의 ‘도’는 일본만의 것이 아니라 그 외의 것도 받아들이면서 일본의 생활에 스며들어있는 하나의 문화로 변해왔다고 해도 문제가 없을정도가 되었다.
通度寺
わが妻の故郷・慶州と釜山の間あたりに位置する。通度寺は「トンドーサ」という発音。
韓国の三大寺の一つで釈迦の舎利がある。
ちなみに他の二つは、陜川・海印寺(ヘインサ)と順天の松広寺(ソングァンサ)。
海印寺には有名な「八万大蔵経」(パルマン デヂャンギョン)がある。
12月31日の夜からテンプルステイでわれわれはこの寺に宿泊した。
年越しに家の外にいたことは今回がはじめてのような気がする。
お釈迦様のいる場所だから、家族にも大きな反対もされずやってくることができた。男3人。
寺の中にある宿泊施設では、日本語や英語や中国語などいろいろの言葉が聞こえてきた。
日本人をはじめ外国人らがたくさん来ていたのである。
韓国のお寺のテンプルステイは、外国人からも人気があるがこの通度寺はまたさらに人気のスポットだ。
31日の午後5時半ごろに精進料理(肉は一切なかった)をいただき、
午後7時ごろから説法殿でお坊さんらの導きで経をあげる。
われわれは口パクだったが、そばにいるおじいさん、おばあさん、そして若い女性らが
お坊さんたちと同じくらいの水準で般若心経だけではなく、いろいろの経を途切れることなく口ずさんでいた。
これには驚いた。仏教徒としてはかなりのレベルの人たちなのだろう。
年末年始にお寺を訪れて経をあげるくらいの人たちだから、それもむべなるかな、である。
われわれはもぐりだけれど。
今回の圧巻は、1月1日の午前3時ごろから行なわれた「鐘突き」である。
写真にもあるように、人の背丈よりも高いくらいの鐘をつくのである。
テレビでは何度も見たことはあったけど、実際に目の前で見るのは今回がはじめて。
動画にもとったので、実際の音を聞いていただきたい。
(容量が大きすぎてブログにアップできなかった。
もしお聞きになりたい方があったら、コメント欄にメールアドレスをカキコしてください。)
胸板まで大鐘の振動が伝わり、体に心地よい波動が生じ気分はすこぶるいい。
宇宙へと通ずる波動となっている感じだ。
外はマイナス10度くらいの気候だったけれど、鐘の音に聞きほれてしまい、寒さは感じなかった。
二階に大太鼓も見えるが、これもお坊さんたちが順繰り順繰りついていくのであった。
一人が3分くらいつくと、次の坊さんが待機していてさっと二人でたたく格好になり、
元の僧がどいてやると今入った僧一人で3分ほどたたき、また次の僧が入るという具合。
これも見物だった。動画ではとってなかったけれど。
2018年、戊犬(つちのえいぬ)年、元日の通度寺の大鐘の音から、われわれの一年は始まった。
多難が予想される2018年。でもこの鐘の音のようにあっぱれな一年となってほしいところだ。
¶ 東京と大阪での出来事 _ 学生エッセイ86
今回はその86回目で、男子學生 K J Uさんの作品です。
<東京と大阪での出来事>
私は日本は旅行で東京と大阪に一回づつ行ってきた。
当然東京と大阪では感じられることや体験の違いがった。
まず大阪では話しかけられることが多かった。
祭りに行った時、友たちと韓国語で話していたら屋台のおじいさんが
「あ、君たち韓国人かい?旅行?いいね!あ、日本語できる?すごいな!」など
その場で約15分間大阪の親密感を味わいました。その後はサービスも貰ってかなり面白い体験だった。
そして電車でも同じく似たような経験があったり、お店でも話しかけられることがあったりした。
私が聞いてきた大阪のイメージは東京に比べて、もっと活発でおしゃべり好きなイメージだということだったが、確かにと思った経験だった。
東京でもたまに話かけてくださるおばあちゃんがいらっしゃったが、大阪のそれとは比べにならなかった。
普通話しかけても話が5分以内に終わった東京にくらべ大阪は本当に会話をしたという違いだ。
そして対照的な東京での一件、旅行の途中あるご家族と一緒になったことがあった。
そこでおばあさんが
「あの子たち韓国人みたいだね。なんかあげるもんないかしら。」というと、
そのおばあさんの娘らしき人が
「やめなよ、あの子たちだって旅行中なのに話しかけられたりすると、困らせるだけだから。」
「でも…」
「やめといたら。」
もちろん私たちも日本語ができたので、その会話を聞いていたが、なんとも言えずただ聞いていることしかできなかった。
今ならこっちから話しかけてみたりしたのかも知れないが、当時の私には無理だった。
結局は人それぞれの性格の差なのかも知れないことだが、この二件の出来事はよき対照となった。
저는 일본에 여행으로 도쿄, 오사카에 한 번 씩 다녀왔습니다.
당연히 도쿄와 오사카에서는 느낀 점이나 체험에 다른 점이 있었습니다.
우선 오사카에서는 말을 걸어오는 경우가 많았습니다.
축제에 갓을 때, 저희 일행들끼리 한국어로 말하고 있으려니, 노점의 아저씨께서 “아, 너희들 한국인이냐? 여행 온 거야? 좋겠네! 아, 일본어 할 줄 알아? 대단한데!” 그 자리에서 약 15분간 오사카의 친밀감을 맛보았습니다.
그 후에는 서비스도 받아 상당히 재미있는 체험이었습니다.
그리고 지하철에서도 유사한 체험을 하거나, 가게에서도 말을 걸어오시는 경우가 있었다거나 했었습니다.
제가 들어온 오사카에 대한 이미지는 도쿄와 비교해서, 더 활발하고 말하는 걸 좋아하는 이미지였습니다만, 확실히 그렇네..라고 느낀 경험이었습니다.
도쿄에서도 가끔 말을 걸어주시는 할머님이 계셨습니다만, 오사카의 경우와는 비교가 되지 않았습니다.
보통은 말을 걸더라도 5분이내에 이야기가 끝났던 도쿄에 비해 오사카에서는 정말로 대화를 했었다는 차이가 있습니다.
그리고 대조적인 도쿄에서의 한 사건이 있었습니다. 당시 어떤 가족과 같이 가게 된 적이 있었습니다.
거기서 할머님이 “저 애들 한국인 같아. 뭐 줄만한 거 없을까?” 라고 하시자, 그 따님 같아 보이시는 분이 “하지마, 저 애들도 여행 중에 누가 말 걸고 그러면 곤란해 할 뿐이니까.”
“그래도..”
“하지마.”
물론 저희들도 일본어를 할 수 있었기에, 그 대화를 듣고 있었습니다만, 아무 말도 못 하고 그저 듣고 있을 수 밖에 없었습니다.
지금이라면 이쪽에서 말을 걸어볼 수도 있었을지 모르지만, 당시의 저에게는 불가능했습니다.
결국 사람 각각의 성격 차이 일지도 모르는 일이지만, 이 두 경험은 비교해 볼만 합니다.
2018年が始まった。きょうは3日目。戊戌(つちのえいぬ)年の出発だ。
いぬ年の皆さんはもちろん、全ての読者の方々の健康と幸運を祈りながら。