Kポップスター・シリーズ3
韓国のテレビ局SBSで、「日曜日が好き=Kポップスター・シリーズ3」という番組があります。
全国数十万の応募者の中から歌で1等を決めるオーディション番組です。
テレビに出るのは、20チームくらいに絞られてからです。
20チームから10チーム、そして次の週には8、次週に7といった感じで
週を追うごとにだんだん生き残りが少なくなっていきます。
まさにサバイバルゲームですね。
3月30日(日)には、生放送でトップ3が決まりました。
4チームが出て、1チームが脱落。3チームが残ったわけです。
来週はまた1チーム脱落して2チームが残り、再来週に1チームの優勝者が決まります。
優勝者は即歌手デビューできることになってます。
賞金も3億ウォン(約3千万円)という破格の待遇。
去年の4月15日ごろ、「アクドンミュージシャン」という兄妹について
別のブログに書いたことがあります。
「日曜日が好き=Kポップスター・シリーズ2」で、
10代の兄妹グループが優勝しました。(2013年4月7日)。
モンゴルに住んでいるようで、小さい頃に韓国からモンゴルに住むようになったようです。
父親の仕事の関係かと思いますが、詳しくはわかりません。
この兄妹。毎週、自作の歌を作って登場し、ミゴト優勝してしまいました。
歌の歌詞とメロディが、尋常ではありません。
プロ中のプロが作ったかと思われるような、ものすごい曲をひっさげて登場します。
主に妹が作詞、兄が作曲をしているみたいですが、詞も曲も、ともに天下一品です。
番組が終わるとすぐにネットはこのアクドンミュージシャンに対するカキコであふれんばかりです。
優勝し、歌手への道が開かれましたが、
彼らなら、もしも優勝の栄誉を逃したとしても、
まちがいなく歌手になることができるだろうと、誰しもが思うほど、
歌も上手で曲作りも申し分ありません。
ネットのカキコは、「天才」だというものが圧倒的に多いです。
わたしも彼らは天才だと思います。
どうしてあんなすばらしいメロディが、毎週毎週生まれるのでしょうか。
詞もそうですが、曲がまたすばらしいです。
去年シリーズ2での優勝者「アクドンミュージシャン」が
同じ番組で今度はプロとしてデビューするそうです。
たぶん、このシリーズ3の優勝者が決まる4月13日(日)でのデビューが濃厚です。
今回のシリーズ3での優勝者はだれになるでしょうか。
グォン・ジナ(10代少女)、セム・ギム(10代男子)、バーナード・バク(20代男子)の
3人の中から優勝者が決まります。
審査委員が「バク・ジニョン」、「ヤン・ヒョンソク」、「ユ・ヒヨル」の3人です。
それぞれプロの歌手や作曲家で、3人とも企画会社の社長でもあります。
彼らの審査評が、この番組の人気の一つでもあるようです。
歌を離れても聞き応えのある評をします。つまり、人間として学びになるようなことを
いつも言うんですね。韓国の中ではこのシリーズがはじまるとかなりの人気で
多くの若者をはじめオバサン、オジサンもかなり見ていますね。
毎週この番組がおわる午後6時15分ごろになると、ネットの中に多数のカキコが登場します。
「すごかった」「感動した」「誰々さんを残して」「涙で歌が聞けなかった」などなど。
若者の番組ですが、われわれオジサン世代にも感動的な番組です。
圭佑、久々の活躍!
本ブログは、サッカーとくに本田圭佑のことも書くブログです。
ミランに行ってからなかなか調子が出なくて
あまり書くこともなかったのですが、
3月28日の記事で、久々に本田の活躍が出てまして、
ご紹介します。
セードルフ監督の言うように、
本田はイタリアサッカーに慣れつつありそうで、うれしいです。
トップ下ではなくて右MFでの起用が多いですが、
セードルフ監督からは「自由に動いてもいい」との言質も取っているとのこと。
本田には、自由に彼の頭で考えてそのままプレーしてほしいです。
そうすれば、彼の本領が発揮されること請け合いです。
♦ここから引用♦
2014年03月28日10時00分 本田、中央でのプレー時間が50%超えで司令塔として君臨
【フィレンツェ(イタリア)26日(日本時間27日)】
ACミランの日本代表MF本田圭佑(27)はフィオレンティナ戦(アウェー)に
右MFでフル出場し、2-0での公式戦6試合ぶりの勝利に貢献した。
リーグ初得点はならなかったが、追加点となるFKを獲得するなど活躍。
クラレンス・セードルフ監督(37)は「素晴らしい試合をした」と絶賛した。
勝利が決まるとMF本田は両拳を握り、
敵地に駆けつけたサポーターにユニホームを投げ込んだ。
ロッカールームに真っ先に戻ることが多かったこれまでと一転。手応えが表れていた。
「日本は本田に疑問を持ってはダメだ。彼はイタリアのサッカーに適応しつつある。
トップ選手であり、きょうも素晴らしい試合をした。攻守で貢献した」。
セードルフ監督も、いつもの「適応に時間がかかる」という言葉を封印してたたえた。
指揮官にトップ下起用を直訴してきた本田だが、
関係者によると「自由に動いていい」との言質を取り付け、
右MFでのプレーに迷いがなくなったようだ。
前半3分にMFカカの折り返しを力んで空振ったものの、その後は圧巻だった。
セリエA公式データでは中央でのプレー時間が50%を超え、
司令塔として君臨した形。
後半19分には裏に抜け出す動きでFKを獲得。
キッカーはFWバロテリに譲ったが勝利を決定づける2点目を演出し、
守備でも5試合ぶりの完封に貢献した。
「僕は強く本田に怒ったんだ。もっとうまくボールをくれとね」。
バロテリが不敵に笑うのも、本田との関係に手応えを得つつあるからこそ。
試合後も肩を組み、連係を確認し合った。
「プレッシャーが大きいほど跳ね返りも大きい」と強調してきた本田。
自らの力で転機を引き寄せた。
サンケイスポーツ http://www.sanspo.com/soccer/news/20140328/ser14032809570004-n1.html
♦ここまで引用♦
日本代表ジャンルの記事としては、3月14日以来のアップとなります。
ケイスケのことを書く機会が増えてくれることを
願いながら^^。
がんばれ日本! がんばれケイスケ!!
UN事務総長の物語
昔むかし
両班(ヤンバン)の家の庶子として生まれたバン・ソクピョン(潘碩枰)は、
奴婢の身分でこの参判宅の僕として暮らすようになります。
ところでバン・ソクピョンは、
主人の息子が勉強してる間に密かに外から盗み見しながら(どろぼうのように)勉強するなど、
勉強に対する情熱を見せました。
バン・ソクピョンの才能がすごいということに気づいた主人は、
彼の「奴婢文書」を燃やし、バン・ソクピョンをある貧乏な両班(ヤンバン)家の養子に入るよう
手配してやります。
そうしてバン・ソクピョンは両班の身分を得ることができ、1507年、科挙に及第し、
後に刑曹判書のポストに就くことになります。
刑曹判書をしていたある日、バン・ソクピョンは道を歩いていると、
自分の奴婢身分をなくしてくれた主人の息子に会います。
主人の家はいつのまにか没落し、主人の息子であるイ・オソンは貧しく暮らしていました。
ところで従2品だったバン・ソクピョンはそんな彼を見て、
すぐさま駕籠から降りてイ・オソンにヂョル(韓国式の大きなお辞儀)をします。
後にバン・ソクピョンは中宗(当時の王様)に自分の身分を明らかにすると同時に、
イ・オソンに官職を下賜してくださるよう頼みます。
これを殊勝に思った中宗は、バン・ソクピョンの本来の身分が明らかになったにもかかわらず
バン・ソクピョンの地位をそのまま維持するとともに、
イ・オソンにも官職のポストを1つ下賜することになります。
奴婢身分から宰相の座にまで上り詰めたバン・ソクピョン。
後に彼は従1品のヂャチャンソン(左贊成)の地位まで上り詰めることになります。
このバン・ソクピョン、直系子孫がまさに、、、潘基文(バン・ギムン)UN事務総長です。
出典:http://cafe.daum.net/ssaumjil/LnOm/1276897?svc=live_story&q=%B3%EB%BA%F1%B7%CE+%C5%C2%BE%EE%B3%AA+%C7%FC%C1%B6%C6%C7%BC%AD&DA=IMGO
両班(ヤンバン): 貴族とだいたい同じ意味。
刑曹判書: 裁判官
左贊成: 総理大臣といった意味か。
三中堂
千葉に移転する東京初の韓国本屋「三中堂(サムジュンダン)」を運営してきた
店員出身・佐古代表
韓国の本屋さん「三中堂」が、東京から千葉のほうへ移転するけど、
まだまだがんばって韓国の紹介に力を注ぎたいというニュースです。
♦ここから引用♦
「サムジュンダンが韓国文化の種を蒔いて韓日文化架橋の役目をするという自負心で、
東京で書店を維持してきたが、残念だ。」
日本で41年間、韓国専門の本屋サムジュンダン(三中堂)を運営してきた佐古忠八(65)さんが
経営難に耐え切れず、この4月、東京書店街神田にある店を閉める。
「三中堂」(サムジュンダン)は韓国出版社サムジュンダンが1973年、
日本に韓国文化を普及するため東京に設立した書店だ。
当時、唯一の韓国本屋で、韓国学を専攻する学生や専門家の一大拠点としての役割を果たした。
1975年「三中堂」の初めての日本人社員として入社した佐古さんは、
本社が経営難にあえいでいた1989年、本屋を買収した。
彼は「三中堂は当時大金5000万円を投資し、
韓国職員を3人派遣するほど韓国文化普及の先頭に立っていた」と回顧する。
彼はまた「1980年代、チョ・ヨンピルの歌が、日本でヒットし、
韓国語を学ぶ若い層が急増し、ハングル教本と小説本もたくさん売れた」とした。
「三中堂」で最も多く売れた本は、尹東柱(ユン・ドンジュ)の詩集だ。
(彼は)「ハングルの本来の味を感じることができるうえ、日本で獄死した縁から人気を集めた」
と分析した。
2000年に入って、韓流ブームが広がり、韓国書籍の需要は急増したが、
日本企業も先を争って韓国書籍を扱う関係上、サムジュンダンはだんだん落ち目になった。
佐古さんが経営難で廃業を決定すると、40年の常連たちが動き出した。
韓国学を専攻したある引退教授(73)が千葉県佐久市の店舗を無料で貸し出すこととして
「三中堂」の命脈が絶たれる危機はかろうじて免れた。
佐古さんは最近、インターネットを懸命に学んでいる。
5月に移転する佐久市が交通が不便なだけにインターネット販売で
「三中堂」の名声を取り戻すという考えからである。
書店には、韓国関連の書籍5万冊がある。
1971年国史編纂委が出版した梅泉野錄(メチョンヤロク)など
韓国でも求めることが容易ではない本もある。
彼は最近の韓日関係について
「韓国を侮蔑する出版物が溢れ返っているなど最悪の時期であるようだ。
こんな時こそ、民間次元の文化交流が重要で、「三中堂」の役割も大きくなる」と述べた。
出典:朝鮮日報 http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2014/03/13/2014031304544.html?news_Head3
♦ここまで引用♦
店主・佐古さんが言っているように、
最近の韓国関係書籍を見ると、ほとんどが韓国を悪し様に語る本たちです。
目を覆いたくなるとはまさにこういうことを言うんでしょうね。
お隣りの国同士です。
ご近所様とは仲よくつきあうというのが、日本の長年の伝統です。
家もそうなら国はなおさらのこと。
お隣りさんに思いやりをもって接することができるよう、祈るだけです。
上杉鷹山(2)
米沢は、わがふるさと。
米沢といえば、やはりこの人、 「上杉鷹山」(うえすぎようざん)のことを
ご紹介するシリーズです。
わたしのオリジナルの文章ではなくて、
内村鑑三著『代表的日本人』という岩波文庫の本の中から、
抜粋してアップしたいと思います。
内村鑑三の文章のリズムも味わっていただければ幸いです。
上杉鷹山その(2)で、3月13日ブログ上杉鷹山(1) の続きです。
年若い鷹山は、この話を聞かされるたびに涙を流しました。
身分の高い家柄の子弟たちが、厳しく分け隔てて育てられ、
その結果おおむね部下に対する義務も、自分に力と富とが与えられているわけも、
忘れてしまっている時代です。
そんな世にあって、まことに珍しい感性の持ち主でありました。
中国の聖賢の、民をいたわること、わが体の傷のごとくせよとの言葉は、
鷹山の心の奥深くにまで強い印象を与えたようで、
これをよくわきまえ、終生を通じて民をみる心掛けとしました。
このように感性豊かな人間は、当然、宗教的な人間でもありました。
藩主になる日のこと、鷹山は次の誓文を、一生の守護神である春日明神に送って献げました。
一、文武の修練は定めにしたがい怠りなく励むこと
二、民の父母となるを第一のつとめとすること
三、次の言葉を日夜忘れぬこと
贅沢なければ危険なし
施して浪費するなかれ
四、言行の不一致、賞罰の不正、不実と無礼、を犯さぬようつとめること
これを今後堅く守ることを約束する。
もし怠るときには、ただちに神罰を下し、家運を永代にわたり消失されんことを。
以上
上杉弾正大弼
藤原治憲
明和四(1767)年8月1日
この人物が直面することになった仕事は、他人なら皆しりごむ内容でありました。
鷹山が養子として入った上杉藩は、太閤以前の世にあっては、全国でもっとも強大な藩でした。
広大で豊かな越後領をはじめ、日本の西岸に数ヶ所の領地を所有していました。
太閤の手で会津の地に移され、大幅に勢力をそがれました。
それでも、まだ百万石余の大藩で、藩主は全国の五大名の一人に数えられていました。
関が原の戦い(1600年)で反徳川方にまわったため、ふたたび藩領を移されました。
今度は、三十万石に減封され、中央から外れた米沢の地が与えられました。
その後、悪いことには、石高はさらに半分に減らされました。
ここまで上杉鷹山(2)。『代表的日本人』(内村鑑三)より
どっこいしょ _ 痛快!より(2)
「痛快!サルもできるツボ療法」というメルマガを愛読してるんですが、
ここにあったことばです。心にひびくものがあって、ご紹介します。
(2月27日に続き、2回目のご紹介となります。)
♦以下、引用♦
「どっこいしょ」と無意識に掛け声をかけて寝返りしたり、
立ち上がったりしていた30歳後半の患者さんのしぐさを見て、
思わず苦笑してしまった。
「どっこいしょ」の掛け声は、「今から筋肉を動かしますよ」という
脳からの指令でもあるが、齢を重ねるとその指令が必要となって、
指令なしではよろけたり、筋肉を傷めたりしてしまうことがある。
しかし、30歳後半ではその必要もないのではと思ったのだ。
その掛け声の「どっこいしょ」だが、これは宗教に由来することばで、
霊山に登る時に唱えられる“六根清浄(ろっこんしょうじょう)”が
なまったものだという。
六根とは、私欲や煩悩、迷いなどを引き起こす意識の根幹である
目根、耳根、鼻根、舌根、身根(触覚)、意根(心)であり、
それを清らかにする(清浄)ことで正道を往くことがかなう。
しかし執着にまみれ、六根清浄を怠ると病という形でも現れてくる。
そして「どっこいしょ」の掛け声は、魂と身体の不正を
清浄してくれる有難いことばかもしれない。
□■□ □■□ □■□ □■□ □■□ [痛快!サルもできるツボ療法 http://www13.plala.or.jp/kousei/ ] 2014/03/10No454より。
「どっこいしょ」が「ろっこんしょうじょう」から来ていたとは
驚きです。
わたし、「どっこいしょ」と言って立ち上がるまでには、まだなっていません。
でもこの「どっこいしょ」。あんまり悪いことばではないみたいですね。
みんなから笑われるかもしれませんが、「どっこいしょ」って言って
起き上がることにしようかな、とも思っています^^。
日本の魅力 _ 学生エッセイ0025
韓国の若者、大学生がどんな文章を書くのか。
学生エッセイシリーズは、韓国の日本語学科の学生らが書いた文章を紹介するコーナーです。
今回はその25回目で、女子学生CSJさんの作品です。
<日本の魅力>
私が考える日本の魅力は二つあります。
まず一つ目は、地方の活気があることです。
熊本県の「くまモン」に代表されるように、
日本では全国各地の地方自治体がいわゆる「ゆるキャラ」を用いて、
それぞれの魅力を発信しています。
熊本県は「くまモン」を用いることで自県を効果的にアピールしただけにとどまらず、
グッズ等を販売することで新たな収益源を確保することに成功しました。
「くまモン」が2011年に行われたゆるキャラグランプリで優勝してからの経済効果は、
1000億円を超えると言われています。
また、これがきっかけで多くの地方自治体が「ゆるキャラ」を通したPR活動の成果を認め、
2011年に開催されたゆるキャラグランプリでは、応募数はわずか300余りだったにもかかわらず、
2013年のゆるキャラグランプリには約5倍の総勢1500以上のゆるきゃラが応募しました。
このような地方活性化は、近年東京の一極集中が叫ばれている日本にとっても好ましいことで、
日本以上に一極集中の激しい韓国もこのような事例を見習うべきだと考えています。
そしてもう一つの魅力は、日本人の「おもてなし」の精神です。
昨年行われたオリンピック招致のプレゼンテーションにおいて引用されたことで
一躍話題になりましたが、
日本のおもてなしの精神は他の国にはない大きな特徴だと考えます。
例えば、東日本大震災で被害の大きかった東北地方へのボランティアにおいて、
被災者を勇気づけようとしたものの、
逆に被災者の方から勇気づけてもらったという話をよく耳にしますが、
これはまさにお互いを第一に気遣う、日本ならではの「おもてなし」の精神の表れだと考えます。
また、身近なものでも街が清潔に保たれていることや、
交通網がよく整備されていることは利用者や地域住民に対する「おもてなし」の表れだと言えますし、
あるいはサービス業の接客が非常に洗練されていることや、
製造業のモノづくりにおけるこだわりなどからはお客様に対する「おもてなし」の精神が見て取れます。
このように、一見何でもないようなことであっても、
その背景には「和」を重んじる日本人の価値観が反映されており、
目に見えるものではないものの、長年の歴史から培われた「おもてなし」の精神は
まさに日本の象徴的な魅力だと考えます。
<ブログ管理者の解説>
この作品は、CSJさんが日本のある会社に応募するために書いたエッセイです。なので多少は「よいしょ」というトーンも感じられますが、韓国の人が100%、日本が嫌いだと感じているわけではないことはご理解いただけるかと思います。このように日本人にも見えない「魅力」をしっかりと感じている若者もいるということですね。うれしいかぎりです。こういう若者たちが後の世代を引っ張っていってほしいと強く望みます。「ゆるキャラ」と「おもてなし」。すごい着眼、発想ですよね。まいりました。(違和感のある部分は、ブログ管理者が適当に直してるんですが、この作品はほとんど直しゼロです。)
9988234
タイトルが「9988234」ですから、
あ、また数学かな、と思われた方も多いのでは?
数学ではないので、ご安心を。
韓国で「9988234」ということばがあります。
発音は「クグ パルパル イサムサ」というものになります。
99(クグ)は、「99歳まで生きて」の意。
88(パルパル)は、「元気に」の意。
23(イサム)は、「2、3日横になって」の意。
4(サ)は、「死ぬ」の意。
これは日本語でも「4」が「し」つまり「死」ということと似ています。
これに関する新聞記事がありまして、
アップします。
♦ここから引用♦
'9988234'という言葉がある。
99歲まで元気に暮らして二三日だけ患って4日後に
この世を去るという賞賛の言葉だが、
そんな時代が遠くないよう。
2012年の統計によると2011年の期待寿命が男77.6・女84.5歳、平均81.2歳で、
2003年77.4歳から3.7歳増えた勘定。
しかし、このように高齢者人口は増加するのに対し、
出産率は2010年基準で1.23人と、OECD加盟国中最下位で、
深刻な社会問題となっている。
韓国は既に2000年から、65歳の老人が7%以上の高齢化社会になった。
国連によると、韓国が世界で最も早く高齢化されており、
2030年には超高齢社会に進入するだろうという見通しだ。
高齢化による老人たちの貧困・健康・役割・孤独など、
韓国社会に多くの課題を投げかけている。
しかし、対策はまだ微々たるもの。
高齢化対応指数も2007-2009年 27.4で、OECD加盟国の中で最下位だ。
そんな中、老人自殺率がOECD国家のうち1位という事実は衝撃的だ。
政府は毎年5万個ずつ高齢者の雇用を拡大、
2017年まで現在の2倍の40万個まで引き上げる計画だという。
しかし、数字にだけ執着せず、
実質的生活の質が高まるようにしなければならない。
これと関連、忠清北道(チュンチョンブクド)が敬老堂にレクリエーション講師、
健康管理士などを派遣し、老人たちの面倒を見る'9988幸福ナヌミ'を
活発に進行するのは賞賛に値する。
先進国の事例でも学ぶべきことが多い。
米国は1966年年齢差別禁止法の制定に続き、1986年には定年制度をなくして
高齢者雇用を確保した。
日本も1991年「高齢者雇用促進法」の制定により60歳定年制を確保しつつ
65歳まで伸ばせるよう法改正を推進中だ。
オーストラリアは企業が老人採用時に補助金を支給するなどインセンティブを与え、
年齢を理由に解雇した場合には不利益を与える。
高齢化による労働力不足を解決するための出産奨励策も重要である。
かつて世界での出産率が最低として知られたフランスは第2次大戦後から
産前手当と母性手当、2人以上の子供に対する家族手当、住宅手当などを
与えることで欧州で最も出産率が高い。
シンガポールも「能力をつけ子供を3人以上持とう」というスローガンで
結婚を推奨するなど各種政策で出産率を1.6人から1.87人に引き上げた。
高齢化による年金財政圧迫を解消するために
スウェーデンは支給時期を65歳から67歳に引き上げた。
英国は基礎年金額を減らし、65歳以上の人で所得があり年金受領を
延期したらインセンティブを与える。
誰でも年を取って、死ぬ。
高齢化対策は老人たちだけの問題ではない。
国の現実を直視し、先進国の事例を参考にした
持続可能で現実性のある高齢化対策は
これ以上先送りできない。
政府と自治体、そして私たちみんなの認識の転換を促す。
(忠清日報/ http://www.ccdailynews.com/sub_read.html?uid=354358§ion=sc9)
♦ここまで引用♦
「9988234」つまり「クグ パルパル イサムサ」。
日本の「ピンピン コロリ」とだいたい同じ概念ですね。
英語圏でも似たような表現があるようです。(あとで調べます)
こういうようにいけば、誰でもおめでたいことですね。
皆さんも、ぜひ、「クグパルパルイサムサ」でいってください。
勿論99じゃない、120だという人は、ご自由にどうぞ^^。
床屋(2) _ 筆者のエッセイ0005
3月9日ごろに書いた「床屋」。今回はその続きです。
「ふぃーっ」と汗を拭きながら地下の階段を一目散にかけあがって外に出るところまでは
3月9日のブログに書いた。
実はこれには後日談があって
「それを書かなきゃ床屋エピソード、なんのおもしろみもないじゃない」と
かみさんに言われてしまった。
あの日(といっても25年も前の話だ)、わたしが慌てふためいて帰ってくる姿に、
かみさんは肝をつぶしたそうだ。
わたしはといえば、
片方の靴下はきちんと足にあったが、もう一方のほうは手に持っていたらしい。
つまりあの床屋で靴下を脱がせるところまで進行していたということだ。
そして足のマッサージか何かすることになっていたのだろう。
そしてそれから、、、。
いやこれはわたしの単なる妄想だったのかもしれない。
散髪プラスマッサージのいたって健全な施設だったのかもしれない。
しかし重要なことは、わたしがフーゾク床屋だと認識したことであり、
ミニスカートのアガシがわたしの視界のはずれのほうで
そそくさと歩き去る物腰から判断するに、
わたしの妄想はあながち外れてはいないだろうという確信があることである。
純真なわたしは、声もふるえていたのかもしれない。
顔はすっかり青ざめていたのかもしれない。
情けないといわれれば情けない格好ではあるが、
こんな男もいるんだよという点では、声を大にして叫びたい気もする。
「ばかな奴め」と多くの人は言うだろう。
ばかだろうがちょんだろうが、これでも教師の端くれとして
なんとかやれてるじゃないか。
世渡りの裏表をほとんど知らない(世間ずれしていない)
ナマの男の姿だと思ってご理解いただければ幸いである。
それから数か月間、あの床屋のあるシフンドンに住んでいたが、
あれ以来一度もくだんの床屋に入らなかったことはいうまでもない。
その後いくらも経たないうちに、
縁あって四回ほどの面接試験のあと三星綜合研修院に職を得た。
アパートも提供してくれるし、
会社への出退勤は専用の乗用車での送り迎えという至れり尽くせりの待遇だった。
「アパートは27坪なら大丈夫ですかね」
「あ、はい、大丈夫ですよ」
サムソンの担当者と妻との電話でのやりとりである。
シフンドンの5坪にも満たない部屋から
急遽ソウル・江南(ガンナム)の27坪のアパートに引っ越しすることになったわけである。
「夢か幻か」とはまさにこういうことをいうのであろう。
わたしはビザを新しく取ってこないといけないためすぐ日本へ飛び、
その期間中に引っ越しその他の雑務はすべて妻がやってくれた。
肉体的には大変だったけど、なにせ心が踊っているから、
ルンルン気分で一点の落ち度もなく引っ越し完了となった。
二週間後、比較的早く取れたビザをもって、わたしは韓国に帰ってきた。
金浦からリムジンでガンナムバスターミナルまで来て、
そこからは歩いてわが家へ。
新盤浦(シンバンポ)の韓信(ハンシン)アパート333棟。
並木道が続く。
目指す333棟が見えてくる。
右も左もアパートで道を行き交う人もまばらだ。
車もゆっくりと走っている。
ここがこれからオレの住むアパートか。
「しっかりやれよ」とわたしの中のもう一人のわたしが言う。
「わかったよ、しっかりやるさ」といいながら
もう一人のわたしは笑みをどうしてもとめることができない。
こうしてガンナム生活が始まったのである。
髪も伸びてきた。
散髪しないといけない。
床屋のくるくる回る回転灯はあちこちに見える。
しかもここは韓国一の大都会・江南だ。
下手してフーゾク床屋に入ってしまう危険性はシフンドンの十倍もあるであろう。
そこでわたしは考えた。
ここは大事をとってかみさんを連れて床屋探しをしようと。
「床屋ぐらい一人で行けるでしょ」と、かなり乗り気でない妻であったが、
シフンドンでのあの「事件」以来、
若干トラウマになってるんだとわが内部事情を説明すると、
かみさんはしぶしぶいっしょに外に出てくれた。
赤ちゃん以下の男だとあいそもなにも完全につかしてしまっていたはずだが、
あなただけが頼りなんだというわたしの真剣な表情に押された格好で、
そうした見下すような態度はミジンも見せることはなかった。
一、二軒物色したあと、
外からも中の様子が全部見える大きなガラスドアのある店に入り、
価格表にも目をやると、かみさん、ここはOKねと目で合図するなり
「あとは一人で髪切って、一人で帰ってくるのよ」
と言って出て行くのだった。
ミニスカートのアガシもいないし、
ここは大丈夫だろうなどと考えながら、
かみさんの後ろ姿を見るともなく見ていると、
「イリオセヨ(どうぞこちらへ)」
と店のオヤジが力強く声をかけるのだった。
わたしはどっかりと散髪用の椅子に沈みこんだ。
安心感もあり、気分もよくてほとんど眠りこけているうちに散髪は終わった。
7000ウォンだったかを払って「コマプスムニダ」(ありがとう)と言って店を出た。
赤ちゃんのごとく妻に伴われて行った「床屋探し」の一件は、
無事落着となった次第である。
空の星を取る
隕石にまつわるお話です。
空から降ってきた隕石。はじめは「爆弾じゃないか」と思って、怖かったともいいます。
KBSのニュースから。
♦ここから引用♦
<アンカーコメント>
水原(スウォン)や慶尚南道晋州(ヂンジュ)などで相次いで隕石と見える物体が発見され、
隕石に対する関心が高まっています。
経済的価値もとてつもないという推測があり、
隕石ハンターまで登場したそうです。
<記者のメント>
はい、最終調査までは時間がもっとかかるが、
専門家たちは90%以上隕石と見ています。
韓国で隕石が発見されたのは71年ぶりなのです。
こんなに貴重な物質だから、その経済的価値を巡り様々な推測が絶えません。
一部ではロット隕石という言葉まで生まれています。
<レポート>
3月9日午後8時ごろ。
真っ暗な夜を明るく照らし、空から火の玉が落ちました。
京畿道の水原(スウォン)と忠清北道、慶尚南道など全国各地で目撃されたこの光は、
流星であることが判明しました。
<インタビュー>
ビョン・ヨンイク教授/ 延世大学天文宇宙学科:
「流星は私たちが流れ星と言います。宇宙物体が地球と衝突をして大気圏を通過する時、
周りの空気で燃える現象なんです。ほとんどの場合は、
その宇宙物体は宇宙空間大気の中で焼けてしまいますが、
ある場合には、地上まで落下する場合があります。
その結果地表面において発見された鉱物を私たちは隕石と言います。」
暗い夜を明るく照らした流星の痕跡は翌日に発見されます。
3月10日、慶尚南道晋州市大谷面。
ここの住民たちも昨夜不思議な経験をしたと話します。
<録画>
村の住民:
「あの山のあそこで火の玉が過ぎていったの。3回くらい。
四つ目は飛行機の音のようなして、、、。」
住民たちが空から火のかたまりを目撃した翌日。
早朝パプリカのビニールハウスに入ったカン・ウォンギさんは
鉄筋の支えが曲がったり天井のビニールが破れているのを見て大いに驚きました。
<インタビュー>
カン・ウォンギ (最初の隕石発見者):
「朝に7時半ぐらいなってハウスに入ってみると、パイプが曲がっていて、
泥棒が入ったのかなと思いました。(石が)空から落ちたようで。
ハウスの天井に穴が空いていて。」
ビニールハウスの床にはサッカーボールほどの大きさの穴が掘られており、
その中には表面が黒い物体がめり込んでいました。
<インタビュー>
カン・ウォンギ(最初の隕石発見者):
「いやあ、怖かったです、最初は。それで村人達に言いました。
めり込んだ跡は、砲弾跡のようだが…。」と。
砲弾と考えて軍部隊に連絡までしたカン氏。
しかし、砲弾ではなくただの石の塊であることが分かるりました。
普段見たこともない姿の石の塊にびっくりした家族。
1日前、付近で流星が目撃されたという話を聞いて、
もしかしたら、という気持ちで成分分析を依頼しました。
そうしたら、、、。
<録画>
チェ・ビョンガク教授/ソウル大学地球科学教育科:
「とても可能性が高く、おそらく99%は隕石だと思います。」
この石は、莫大な値打ちを持った隕石である確率が高かったのです。
最大直径18cm、重さ9.3kgのこの岩石を調査した極地研究所は、3月11日、
1次鑑定した結果から隕石に間違いないという意見を出しました。
隕石の判定は鉄の含有量で決定されます。
<インタビュー>
李鍾益(イ・ジョンイク博士/ 極地研究所):
「(岩石から)普通の地球の岩石から出る数値の約100倍に相当する数値が出てきました。
これらは隕石によく出る数値なんです。ほとんど99% 'これは隕石だ'
そう判断をするようになりました。」
韓国で隕石が発見されたのは71年ぶりのこと。
まだ最終判定までは時間がかかるものの、
この石が持つ学術的な価値は非常に高いだろうということです。
KBS http://news.kbs.co.kr/news/NewsView.do?SEARCH_NEWS_CODE=2826170&ref=A
♦ここまで引用♦
ということで、このところ、韓国では隕石にまつわる話で盛り上がっています。
隕石の場合、1グラムが100万ウォンもすることもあるそうです。
9キロならいくら? 100万×9000=90億ウォン=9億円ほど。
なので、慶尚南道晋州(ヂンジュ)などでは、
隕石ラッシュというような様相まで呈しているとか。
周辺住民はかなり迷惑を被っているようです。
田舎の静かな生活が早くまた元通りになるといいですね。
韓国に、「하늘의 별 따기」(ハヌレ ビョルタギ)ということばがあります。
「空の星を取る」ということで、「不可能」を意味する言い回しです。
カン・ウォンギ氏は、この「ハヌレ ビョルタギ」を、文字通り実現してしまいました。
他の人が憧れるのは、当然かもしれません。
多分に、韓国での「隕石拾い」に対する情熱は、
この諺のなせる業なのかもしれません。