文化ブログ
阿部和璧(あべかへき)が世の中の良いもの、凄いものを紹介する。
「傷ついた街」展に観る3.11後の世界 写真家レオ・ルビンファイン講演を聴いて
展覧会のちらしにあった9.11がもたらした「心理的な傷」という言葉を意識しなくなるまでは、どうしても被写体にある様々な表情を「傷」として読み取ってしまっていた。しかし、幾つかの写真は単なるポートレートとしても優れたもので、自然に良い写真だなと思いだすと、ある瞬間を切り取られた様々な国に生きる人々の姿だけが見えてきた。
そんな写真を撮った写真家が、一体どんな言葉を語るのかを楽しみに向かった講演。演台に立った写真家は、強い作家性を感じさせる人物というよりも、リゾート地にいるようなごく普通のアメリカのおじさんといった感じの人だった。
また講演で語られた言葉の多くは、「写真が持つあいまいさを受け入れて撮っている」と言った写真ほどには良さを感じるものは少なかった気がする。しかし、9.11以降感じ続けてきたことを語った部分には、今後の我々にとってもヒントになるようなことが含まれていたように思う。
「精神的な傷はひどかった」という世界貿易センターの崩壊を目の当たりにした後、ニューヨークが包まれていた「暗さ」を抜け出すことができなかったというルビンファインさん。それは多くのアメリカのアーティストにとっても同様だったらしく、そのことを「感情が麻痺した状態」と表現。「様々なものが空っぽで、つまらないものに見えてしまった」のだという。
そんなルビンファインさんの救いとなったのが、「避難所のようだった」という東京での生活。そして少年時代を過ごしたという東京で撮った一枚の写真だった。渋谷を歩く金髪の日本人少女の表情。そこに不安さやはかなさ、「美しくもあり、美しくもない仮面のようにも見える」といった様々ものを感じ取ったのだという。
そのことは、国家や戦争といったものが、人々を覆い尽くし、「個人的なものより国や戦争が大事なんだ」という印象。さらには、「個人的な希望や夢がつまらないもの」という感覚を残した9.11以降のルビンファインさんにとって、何かしらの琴線に触れるものだったらしい。
以後、様々なプロジェクトと並行して撮影された世界各地に住む人々を撮る中で、「日常的に頑張っている人たちの多様性」。またそんな人々だけでなく、自分たちさえも犠牲者になりうるからこそ感じる、そこにいる人々のはかなさを感じるようになったのだという。
「このプロジェクトを通して迷いながら見えてきたものは、人々の髪の毛一本、目の中の光。口、小さな傷やささいなディテールが非常に意味を持って貴重なものになってきた」といったルビンファインさん。「傷ついた街」の撮影という行為そのものが、9.11以降、自分が負っていた深い傷を癒すための過程だったのだろう。
3.11という未曽有の危機に直面し、「傷ついた街」を幾つも抱えるこの国。これからの私たちに求められるものは、それらの街や、自身が住む場所に存在する他者とのある種の地縁、血縁、趣味や興味をはじめとした感情によるつながりというだけでなく、時には国や人種、宗教や言語を超え、そこに見出せる個人的かつ人間的な共感によってつながる絆のようなものなのだろう。
概念や数字で物事を考えるとき、ともすれは個人を見失いがちになる世界の中で、新たな他者と向かい合うことで見えてくる風景が、時に自分にとっての新たな道しるべとなるのだろう。
※注 展示は大きめのギャラリーサイズの空間に35点の作品が割合窮屈に展示されているので、すべての人々にお勧めできるものだとは思えませんでした。
「傷ついた街」展が紹介されている東京国立近代美術館のページ
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写真新世紀と共に、90年代のガールズフォトブームをけん引した「ひとつぼ展」。そのイベントが「1_WAll」展という名でリニューアルし、5回目を迎えた今回。最終候補に残った河野裕麻さんからのDMが送られて来るまでは、グラフィック部門があることを知らなかった。
東京へ引っ越して1カ月、まだ勝手のわからない東京のアート事情を知るための、ギャラリー巡りの一環として立ち寄ったガーディアン・ガーデンというスペース。審査対象となる作品が展示された室内は、グラフィックというくくりの微妙さがそのまま提示された、勝手気ままな合同展のような空間だった。
現代美術やアートといったくくりとは微妙に異なる、発想の面白さをビジュアル化した作品が多い点を除けば、それほど違和感なく見ることのできた展示。しかし、それを見ただけでは、どれか一つにどうしてもグランプリをあげたいというほどの作品がなったのも事実だった。
6名の作家の作品には、それぞれにそれなりの魅力があり、平面、立体、パフォーマンス、展示方法と、各作家のなりの味わいのようなものが見えてくるのだけれど、そのためには、観客が慎重に作品に向かい合うことが必要で、それはつまり、観る人全てを説得できる強さを持った作品がなかったということなのだろう。
実際、始まった審査会で行われたプレゼンでは、各作家の個性を反映した作品解説や、それに対する質疑応答が行われ、小さくはあるけれども、確かに他人とは異なる世界を作り出せるそれぞれの個性というものが、作者の存在を通して伝わってきた。
中でもグランプリを取った斉藤涼平さんのプレゼンは、自分自身や対象、審査員やこの審査会自体に対する距離の取り方や立ち位置が優れており、チープさを含みながらも皮肉の利いた後味を残す作品を生み出した作者ならではの人柄が感じられた。
また、広告や雑誌関係のメディアで活躍するアートデイレクターを中心とした審査員の発言にも、大学や教育機関が主導する関西のアートにはない、商業的な視点や、より流行のようなものを反映した発言が多く興味深かった。
特に言語化しにくい作品が多い中で、それらの特徴を的確な言葉で切り取った菊地敦己さん。さらにはイラストレーターでもあり、自身の体験を元に「登りやすい山でも、面白さや達成感がある」といった発言をした大塚いちおさんの言葉には、ジャンルを超えて人々を説得するだけの力があった。
ペインテングからパフォーマンス、イラストや展示方法までも含めた、一言では捉えにくい6人の作品から、グランプリを選ぶ過程の中で、「グラフィックの定義をどう捉えるか」という問いが再三出てきたことにも、これまで定まって見えた様々な枠組みさえも、今問い直すべき時期に来ているのだということを思わせた。
予定を大幅にオーバーし、最後は多数決で決めることになった公開審査会は、古い日本社会の体質をそのまま引きずったような、微妙な力関係や場の空気で受賞者が決まるような、ある種の古さを感じさせるものがあったし、今のスピード感から言うと、受賞者の個展開催が1年後になるというのは、あまりにも遅すぎるように思う。
しかし、グランプリを取った斉藤涼平さんの作品をその最たるものとして、6人の候補者の作品全てに、表現方法は異なりながらも、目には見えにくい毒のようなものが小さな世界観の中に潜んでいたこと。そしてその、アイロニー的な毒を持った作品に様々な視点で光を当て、ある種の合意に辿り着くまで徹底的に話し合う場が公開されていることは十分評価できた。
たぶん、今のリアルでは、そこから先、観客も論議に加わりながら、最終的には審査員が全体の意見を誘導し、より多様な視点を取り入れた形で審査をやっていくというのが、最も新しい公開審査のあり方なのだと思う。しかし、そのためには、フラットな状況でも力の差を見せつけられるだけの審査員の実力と、場の混乱を覚悟しながらもオープンさを保てる主催者の腹の括り方が不可欠なだけに、多少の古さはあったとしても現状で満足するしかないのだろう。
9月15日(木)まで第5回グラフィック「1_WALL」展が開催されているガーディアン・ガーデンのページ
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児玉画廊での京都市立芸術大学出身者の展覧会、アートゾーンでの梅田哲也さんの個展、京都市立芸術大学ギャラリーでの「転置」展など、昨年頃から、関西を中心に急速に見かけるようになったデュシャンを彷彿させるような作品展。既製品を組み合わせた作品という共通性を持ちながら、「芸術への問い」を内包したデュシャンの作品とは違い、作家自身の表現の可能性の模索という個人的な動機から作られた作品が大半のよう感じられる。
たぶんそれらは、一度ストリートや資本主義マーケットという芸術の枠外に飛び出てしまった存在たちが、作家たちの感覚に根ざした構成力によって再び、美術館やギャラリーといった枠内に入り込み、互いの境界を越境し、新たな地平を見出そうとする動きの現れなのだと思う。そんな方向性を決定つけるような展覧会が、今回、美術館という最も美術的な空間を使用して行われた「風穴」展。出展作家は5組の日本人を含む、中国、韓国、タイ、ベトナムの9組のアジアの作家たち。
主に60年代後半から70年代生まれの作家の作品が並ぶ会場は、現代美術の展示ということで、ルーブル美術館店やルノワール展の時の混雑が嘘のような閑散とした状況なのだが、そこにある作品群には極めて刺激的なものが多かった。チープなモチーフや、光、風といった軽さや動きを取り入れた作品を展示したヤン・ヘギュ(韓国)や木村友紀の2次元と3次元の狭間を意識させる作品は、意味性を排除した際に生まれる、まだ言葉にされてない感覚のようなものを感じさせた。
中国の邱志傑(チウ・ジージェ)のダンボールで作られた文字を裏返した作品や、contact Gonzo(日本)、アラヤー・ラートチャムルーンスック(タイ)、ディン・Q・レー(ベトナム)、立花文穂の作品は、街中に広がるそれぞれの国の日常の中のリアリティーと、国家や美術といった現在も存続している「権威」というものの中間にある領域に鑑賞者を誘い込むような感覚的余白や、放置された感を観る者に与える面白みがあった。
山や川といった美術的空間外での活動を40年以上前から続けてきたパフォーマンス集団、プレイの活動も60、70年代生まれの作家たちが今向き合っているアートと日常の境界を探る動きの先進的なものとして今回の展示に加えられていた。プレイを含む読売アンデパンダン展のような何でもありの動きと、若い出展作家たちの違いは、すでに制度に取り込まれたしまったことを前提とした個人が、自分の感覚を軸として変質を生み出し、視点や境界線にズレを生じさせることで新たな領域を生み出したことにあるのだろう。
そういう意味では最もデュシャンを彷彿させる少ない手数で、2つの存在の中間や、存在の意味性を考えさせる作品を展示していた島袋道造の作品には、美術の枠内だけでなく、人々の小さな日常にも確かな「風穴」を開けることができる優れた力を持っていた。その名の通り『輪ゴムをくぐり抜ける』という作品は、鑑賞者が箱に入った輪ゴムを取り出し、それを広げてくぐり抜けるという単純な作品なのだが、そのくぐり抜けをやった前と後では、まるで作者の思考にスキャンされたかのような不思議な感覚がいつまでも残った。
さらに流水の中に同じ種類の果物を流し、一つは沈み、もう一つは浮かぶという状況が延々と続く『浮くもの/沈むもの』。展示会場を出たすぐの場所にホワイトキューブ的空間を作り、そこに一匹のケヅメリクガメを放した『カメ先生』などは、2つの存在の間に生まれた違いや、日常とアートの間に建てられた目には見えない境界線にゆらぎを生み出すことで、鑑賞者の様々な思いを受け入れる余白を生み出した。
今、西洋を中心とした「先進国」が成長の限界を迎え、様々な社会問題の解決の糸口をアートや芸術といった、個人のオリジナリティーを基盤とした創造力に見出そうとしている。そんな時、西洋美術史的積み上げからは全く想定外の東洋的文化背景を背負いながら、その持ち味である多様性を生かした作品により、閉塞した制度や権威に「風穴」を開こうとする試みが行われている。ポストモダンという言葉を繰り返しながら、なかなかその先に到達できていない現代社会にとって、アジアや東洋という文化的背景から生み出される多様な創造力と、テクノロジーの発展が、現状の閉塞感に「風穴」を開ける最大の力となるのだろう。
国立国際美術館「風穴 もうひとつのコンセプチュアリズム、アジアから」のページ
ウィキペディア マルセル・デュシャン
ウィキペディア 読売アンデパンダン展
島袋道造ウェブサイト
ウィキペディア ポストモダン
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昨年のULTRA AWARD2010の展示を観て以来、今後、京都造形芸術大学が運営するARTZONEが、京都のアートの中心の一つになり得るかもしれないと、何となく思い始めた。以後、展示やイベントがある度に、極力足を運ぶようにしていたARTZONE。今回の梅田哲也さんの個展では、ギャラリースペースだけでなく、30年前に建てられたVOXビルという6階建ての建物全体を使った展示と聞き、何かいつもとは違うものが見れるのではという気持ちで会場を訪れた。
twitterでの情報通り、通常は入口となる扉の前には、まるでちょっとした資材置き場のように自転車や工具箱、使用済みの木材やブルーシートが置かれ、そこからの入場はできないようになっている。今回の入口は、その右側にある通路を抜け、通用窓口のような場所で学生スタッフから案内地図を貰って「探検」が始まる。すぐ横にあるエレベーターで3階に行き、扉が開いた右前の、製氷機が置かれた暗闇にあるのが1つ目の作品。何か黒い毛虫のような砂鉄の塊が、一定の円を描き続ける作品は、ビル内の飲食店で働く人々が出入りする場所で、周囲の雰囲気にすっかり溶け込みながら、ちょっとだけ自己主張している感じが面白い。
壁に貼られた水色のテープを辿りながら、飲食店の通路やその裏にある階段を歩いて行くと、そこにはフィギュアを使ったディスプレーや、ビル内で使われなくなった椅子や看板が置かれており、それらとキャプションも何もない今回の展示作品との区別がつかなくなっていく。果たしてどれが作品で、どれが作品でないのか。店舗裏という限りなく日常に近い非日常と、アートという概念が作り出す非日常。それら2つが微妙に交じり合った「展示空間」では、当り前のものが当り前に見えなくなっていく。
そんな宙ぶらりんな感覚がするビル探訪の一つのクライマックスが、6階の扉を開けた先にある屋上の風景。河原町、木屋町という若者が集う繁華街や、緑に包まれた東山を日頃とは違う角度から眺めていると、世界にはまだ自分の知らなかったことが無数にあるように思えてくる。屋上に「展示」された幾つかの作品は、自転車の車輪を使ったデュシャンのレディ・メイド的な、既存のものを再構成したものではあるが、そこには、芸術の意味を問うようなデュシャン的狙いはなく、感覚的追求の先にある表現自体の問い直しといった視野の広い問い掛けがなされているように思えた。
今度は黄色いテープに導かれ、一気に2階のARTZONEスペースまで下りて来ると、そこには日頃は奥のスペースに隠されたスタッフルームが剥き出しとなって現れる。今回の展示のテーマの一つであろう裏と表の反転というものを象徴した空間内には、日頃は裏にあるはずのスタッフルームが表となり、作品たちはどれも、扉の奥や脚立を上った壁の裏側に置かれ、モーターや光を使った循環運動を繰り返し、ささやかな自己主張を続けていた。
本来なら最初に入るはずの1階スペースでは、時折、気まぐれな感じで上下に移動する宙吊り作品、吊り上げられることを放棄したような和式の照明器具、屋上のインターホンと繋がりはするものの、実際につながることは難しい室内電話など、一つひとつに現代社会の困難さを思わせる微妙な仕掛けが見て取れた。今回の飲食店の店員でもなければ決して巡ることはないだろう通路や階段、そこから見た風景や作品。そして、まるで作品のように思われた様々なものたち。これら実は、作られた当初、その意味性や役割がまだ揺らいでおり、『はじめは動いていた』のだろう。
しかし、時を重ね、ある一定の役割を繰り返してきたことで、いつしか自身にも、そして観る側にも固定観念のようなものが張り付き、「動かないもの」となってしまっていったのだろう。それを今回の展示では、日常と非日常が微妙なバランスを保った空間をビル全体に生み出すことで、「動かないもの」に張り付いていた固定観念を剥ぎ取り、人々の目に『はじめは動いていた』ものの存在を浮かび上がらせた。
展示を観終わり、ビルから外に出た後にも、街に溢れた『はじめは動いていた』ものたちに秘められた、もの自体の、まだ囚われていない「揺れ」のようなものが気になって、様々なものを立ち止まって観ることになった。そしてそんな立ち止まりの中で気づいたことは、『はじめは動いていた』はずなのに、いつしか社会的役割や固定観念といったものに囚われて、「動かないもの」となっていた自分自身に姿だった。
京都造形大学が運営するartzoneのホームページ
ARTZONE STAFF blogの梅田哲也さん個展のカテゴリー
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ULTRA AWARD2010を紹介したウェブサイト
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正直、辛辣な言葉で批判されていた割には、「京芸」の作品展には面白いものが多かった。1階入ってすぐの展示室、最奥にあった彫刻・院2回生、中村潤さんの『たくさんのひとつ おおきなひとつ』という立体作品は、トイレットペーパーという素材を使いながら、それが作家の力量によって存在感のある造形物として成立していた。また2階、日本画の展示では是永麻貴さん(院2回生)が青木繁の『海の幸』をワニに置き換えたような『鰐』というタイトルの作品を出展。ワニの身体が持つ独特の質感を墨や膠(にかわ)を使って表現しており、爬虫類の残忍な目の表現なども優れていた。
この他にも西山寛さん(彫刻・4回生)の木材と茶碗なとを組み合わせた塔のような造形物『悪戯』。長尾菜摘さん(陶磁器・院2回生)の『ウェルカム トゥ パーフェクト プレミアム』という陶器と祇園祭りの山鉾を一体化させたような祭り感溢れる作品。陶磁器の李相浩さん(院2回生)、任瑛彬さん(院1回生)の作品など得体の知れない造形物の中に、作家の内面のうごめきを感じさせるものがあって面白かった。今挙げた作品だけでなく、それぞれの展示室にはぽつぽつとではあるけれど、確実に自分の制作欲求と向き合い格闘したと思わせる作品があり、そんな作品たちが持つ清々(すがすが)しさが感じられた。
しかし、Namさんが批判した「裸のモデル2人」の展示室や、1枚の板から動物立体を作るという課題展示がされていた場所のテンションは低かった。冒頭にも述べたように、多くの来場者が「卒展」だと思い込んでいる作品展に、2回生の課題が突然出てくる会場構成には違和感があった。京芸生のツイートを読むと、卒業生だけでは作品点数が少ないこともあり、在校生全体の作品展になっているという事だが、気合を入れた卒業制作もあった展示室のすぐ横に、2年生の「伝統」とされる課題が続く展示室があれば、事情を知らない人にとっては同じ「卒展」の作品に見えてしまい、会場全体のテンションが下がってしまったように思う。
「日頃の教育、研鑽の成果を紹介する展示」という意図は理解できなくもないし、学内で「裸のモデル2人」や「板の動物立体」という同一テーマやモチーフを使い、その枠内で基礎や発想力を養う「課題」の意図も分かるのだが、それを公共の美術館で展示されても、鑑賞者だけでなく、学生本人にも、大学自身にとってもメリットは少ないのではないか。一概にメリットのみで物事を評価することが良くないこととは分かるのだが、このチェニジアやエジプトの「革命」に象徴される激動の時代に、「伝統」的な「課題」という枠内に留まった「表現」を見せられても、何か時代感覚のズレのようなものを感じずにはいられなかった。
実は、Namさんの言っているその他のこと(絵画展示のほとんどが壁に設置されたレールを使った展示であることや、椅子に座った学生スタッフがピンクのカラータイツを履いていたことをはじめとしたスタッフの服装や態度)も含めた全ては、今これまでの価値観が大きく揺らいでいる中で、アーティストも作品のみで自分を表現するのではなく、その枠組みや周辺、さらには空間全体に高い意識を持つ必要をがあると理解すれば受け入れ易いかもしれない。与えられた「課題」や展示空間といったこれまでの枠組みに安易に従うのではなく、目の前の作品から一歩引いて、制作者と鑑賞者の中間にいる「ギャラリストの視点」も必要ではないかという問題提議だと考えると納得できる。
そういう意味では、決して作品だけに向き合うことを否定する訳ではないが、多様な価値観や視点がより重要になる現代のアーティストには、社会や世界の知識、アートマーケットや展示といった様々なことについて学ぶことが極めて重要だし、芸術系大学ではそのような「技術」を高度に学べる機会を提供すべきではないのか。Namさんが辛辣に批判した問題を突き詰めれば、今ある現状に疑問を持たず、与えられた枠内で可能性や機会を逃していくような「アーティスト」としての姿勢や、それについて何も教えない美大教育のあり方に苛立ちがあるのだと思う。
昨年末、「19歳で海外デビューする」というアーティストとしての「野望」を果たした経緯や、在籍していた美大を辞め、上海に移り住んだ中で見えてきた現実について真摯な言葉でつぶやいたNamさん。そのトゥギャッターにまとめられたつぶやきには、アーティストとして中国の現実に真っ向からぶつかり、そこで跳ね返され、挫折の中から立ち上がり、0000を結成するまでの経緯が綴られていた。現実の厳しさ身をもって知り、一人の力では「日本のアートシーンを作る事」はできないと確信したがゆえに、「どうにかさ知恵絞ってさ皆でさ、協力しあってさ、やるしかないだろう」と呼びかける思いが、今回のつぶやきの根底にあることは知っておいた方が良いと思う。
トゥギャッター 京芸卒展をみたNamさん#kcua2010ex
Nam HyoJun(ナム ヒョジュン)さんのtwitter
途中から異様に熱い過去の話になるNamHyoJunさんのトゥギャッター
0000 Galleryのウェブサイト
0000artsのtwitter
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ゴッホをはじめとする名画の登場人物や、女優に扮したセルフポートレートで、日本だけでなく、世界的にも活躍する美術家・森村泰昌。そんな森村さんが20世紀を生きた男たちをモチーフにした「なにものかへのレクイエム」シリーズの最終展示となる展覧会が4月10日まで、兵庫県立美術館で開催されている。過去3度、講演やトークイベントを聴き、森村さんならではの視点や考え方に強い興味を抱いていただけに、自作解説が行われる週末に会場を訪れた。
「自作を語る」と題されたイベントの前に一通り作品を観ておこうと、会場を巡って思ったことは、4つの映像作品の上映場所から漏れてくる三島由紀夫や「独裁者」に扮した作者の声が、日頃は静かな美術館にある種のズレを生じさせいたこと。そのくぐもって響く死者に扮した作者の声は、時代をタイムスリップするかのように幾つかの暗闇を抜ける展示形式と相まって、単純に「今」とは言い切れない歪んだ時間感覚を生じさせていたように思う。
特に入場後すぐに観ることになる《烈火の季節/MISHIMA》という作品は、当時19歳の作者が、「芸術に携わる者の覚悟を訴えているように思えた」という割腹自殺を図る直前の三島の演説から、「勝手に受け取った内容を私なり翻訳したもの」であり、「私が初めて歴史に触れた瞬間」という事件を映像化したものだけに、その過去のようで過去でなく、今のようで今でない、不思議な時間軸を鑑賞者に感じさせるものとして機能していた。
そこから続く、政治的なテロを犯した人々や、20世紀の政治や科学分野で「革命」をもたらした人々に扮した作品は、未だ現実に存在する身体が、すでに歴史と化し、固定化してしまった人々の姿に成り代わることで、色褪せた歴史としてではなく、動きや色を感じさせる「血の通った歴史」として訴える力を生み出していた。彼らが信じた思想や行いは、今という時代から見れば、異なる見解を持つものもあるが、そこにあった情熱には、今にも通じるものがあった。
展示後半には、作者の初期・代表作「肖像/ゴッホ」にも連なる、20世紀の美術史に名を連ねたピカソやデュシャンやウォーホールといった人物になりきった、ある種の「まねび」の作品。さらに「戦争の世紀」とも言われる20世紀の中で、最も大きな爪跡を残した第2次世界大戦の象徴的シーンを自身の身体を使って再構成した作品など、作家の個人史と、その作者が生まれ育った戦後日本という状況が、分かち難く入り混じっていることが作品を通して伝わってきた。
中でも展示最後の作品《海の幸・戦場の頂上の旗》は、戦争を繰り返してきた20世紀という大きな歴史の中で、小さな個人がいかにして「自分の旗」を掲げるかという人々にとっての共通命題を、作者の無意識を集積したような映像として作品化。小さな緑茶店という家庭を背景としたある日本的な人物が、名も無き一兵卒として他者と出会い、武力ではなく、無力でほとんど役に立たないであろう「美術」によってつながり、「芸術」という名の白い旗を掲げるまでが、個人的かつ普遍的な物語として描かれていた。
「自分を知るために歴史というパンドラの箱を開けてみなければならないと以前から思っていた」。鑑賞後に行われた自作解説のイベントでそう語った作者は、「本人と思ったぐらい似ている」と言われたアインシュタインや、昭和天皇に扮した体験の中から、「写真はライテング。どんな風に光を当てるか重要」という言葉でその難しさを語った。20世紀という歴史を生きた男たちに光を当て、彼らに扮することで死者たちを鑑賞者の中にも蘇らせたこの展覧会。
そんな彼らを含む無数の人々が、「日々の生活の戦い」によって築き上げた今という時代に、「あなたなら どんな形の どんな色の どんな模様の旗を掲げますか」と問う森村泰昌が掲げた「芸術」の白い旗は、今も「宇宙の風」に吹かれながら、力強くはためいている。
兵庫県立美術館 森村泰昌「なにものかへのレクイエム-戦場の頂上の芸術」のページ
ウィキペディア 森村泰昌
ウィキペディア 三島由紀夫
アマゾン 『美術手帖』 2010年 03月号 [雑誌]
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模索するアートの現場、または世界と繋がる感性
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「悲劇が残していったもの」~「ルワンダ ジェノサイドから生まれて」ジョナサン・トーゴヴニク写真展を観て~
ルワンダで虐殺が行われていたことは知っていたが、それがどんなに凄惨な出来事であったか。またその出来事が残していったものが、人々の営みに消し去り難く存在していることをこの写真展を見たことで初めて理解することができた。2007年、エイズの取材でルワンダを訪れたジョナサン・トーゴヴニクは、そこで虐殺を生き延びた女性に出会い、16年前何が起こったのか、そして彼女たちが今、どのような状況に置かれているのかを知った。目の前で家族全員が惨殺され、何ヶ月に渡って性的暴行を受け続けた彼女たち。そしてその結果、生まれることになった子供たちと感染したエイズ。ルワンダにはそのような女性から生まれた子供たちがおよそ2万人いるという事実を知ったジョナサンは、取材を終えニューヨークに帰った後も、その話が頭から離れなかった。
現地で活動するNGOの協力を受け、再びルワンダ入りしたジョナサンは、入念な下準備を整えて、そんな彼らの姿を撮影し、この事実を多くの人に伝えていくことを決意する。そして「一枚の写真をそこで起きた出来事が伝わるものにするために」、撮影前に「母親」となった女性たちにジェノサイドや子供たちについての話を聴き、その後、「親子」のポートレートを撮影するという手法を選択。約3年をかけて撮られた30点の展示作品には、女性たちの今も苦難を抱え続ける硬く強張った表情と、自分の家族や親戚を虐殺した男たちによって生を受けた子供たちとのそれぞれの「母子」なりの距離感が鮮やかに切り取られている。ある女性にとっては唯一の肉親であり、自身のエイズ介護の担い手として、またある女性にとっては過去の記憶を呼び覚ますどうしても愛せない存在として、子供たちはあるのだった。
そんな「母子」のポートレートの横には、撮影前に行われた女性たちのインタビューが添えられている。写真に写された全ての「母親」たちは、虐殺が起き、逃げ惑う中で獲物のように捕らえられ、男たちに連日暴行を受け続けた体験を、ある女性は抉り出すように、またある女性は全てを諦めてしまったかのようにして語っている。そして100日間というジェノサイドが終わった後も、彼女たちにとっては生まれて来た子供の問題、感染したエイズ、自身の中に深く刻まれたトラウマ、周囲から受ける差別や偏見、さらには貧困の問題と今も虐殺によって起こり続けている幾つもの問題について語っている。
すでに16年が経過し、多くの人にとっては過去の出来事となってしまってたこのジェノサイドも、実は当事者にとっては、何ら終わりの無い、今だに向かい合わなければならない現在進行形の出来事だったのだ。この写真展の優れたところは、そんな当り前の事をただそこにある事実として提示し、30組の「母子」がジェノサイド以後のの歳月を、それぞれの苦悩や哀しみを抱えながら生きたきたことを、ある一瞬を撮影することで人々に伝えていることだろう。決して感傷的にならず、硬質でシャープな質感を持った視点は、まるで清潔な医療器具でも撮影するかのように、ただそこにある「母子」の姿を曇りなく写し取っている。そこにはあまりにも過酷な体験を潜り抜けてきた人々に対しての「断絶」から生まれたであろう「静けさの決意」のようなものが見受けられる。
30点の作品の前に立たされた私たちは、「母子」の姿とそれに添えられたインタビューを通して、今なおルワンダで続いているであろう彼らの人生に思いを馳せることができる。すでにある女性はエイズにより命を失っていたとしても、ジェノサイドから生まれた彼女の子供が、そこにある現実を引き受けてルワンダで生き続けている。今、私たちと同じ一瞬を生きながら、ジェノサイドという特殊な状況を生き延びたことで、その人生を大きく歪められ、あるいは打ち砕かれてしまった人たちがいる。そしてそんな彼女らが、できれば消し去ってしまいたいであろうジェノサイドの記憶に、子供という存在を通して今も揺さ振られ続けている。過酷な現実を生きる「他者」と出会い、そのことで生きること意味や世界の広さに思い至る。そんな答えの出ない問いに向き合える凄さがこの写真展にはあるのだと思う。
■「時代の精神展」第一回
ジョナサン・トーゴヴニク写真展「ルワンダ ジェノサイドから生まれて」
会期:2010年11月20日(土)~12月19日(日)
会場:Galerie Aube ギャルリ・オーブ(京都造形芸術大学 人間館1階)
10:30~18:30 会期中無休(12月14日・15日をのぞく)入場無料
京都展以降、東京、大阪でも開催されます。
■ニコンサロン企画展
ジョナサン・トーゴヴニク写真展「ルワンダ ジェノサイドから生まれて」
会期 2011年1月19日(水)~2月1日(火)
会場 銀座ニコンサロン
会期 2011年3月24日(木)~4月6日(水)
会場 大阪ニコンサロン
会期中無休 入場無料
※会場の都合により、京都展よりも規模を縮小した展示となります。
京都造形芸術大学 芸術学部 美術工芸学科 「ルワンダジェノサイドから生まれて」展覧会オープニング案内のページ
京都造形芸術大学ブログ 展覧会「ルワンダジェノサイドから生まれて」のページ
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ウィキペディア ジェノサイド
ウィキペディア ルワンダ虐殺
アマゾン ジョナサン・トーゴヴニクル『ワンダ ジェノサイドから生まれて』
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「せめぎあうアートの現場」~京都、10月、ギャラリー巡り~
今回のギャラリー巡りで運が良かったのは、ぜひ紹介したいと思っていた3つ個展の会場の全てに、その作品を制作した作家さんがいたことだった。一つ目に訪れたMATUO MEGUMI+VOICE GALLERY pfs/wでは、何の期待もせずに入った室内で、現代美術二等兵という方のミロのビーナスを坂本竜馬化した作品の、あまりのくだらなさに吹き出してしまった以外には何もないだろうと高をくくっていたが、その奥にあった唐仁原希さんの絵画作品に打ちのめされることになった。
アニメキャラクター以上に大きな目をした少女たちを描いた作品は、以前、『有毒女子』展というグループ展で観たことがあり、どちらかと言えば好きになれないキャラクターだったのだが、今回の展示の中の最大の作品《麗しき血の乙女達》の前に来ると、ふと足を止める気になり、「この作品に込められた意味のようなものがあるのでは?」という気がして画面に向かい合ってみた。するとどうだろう、それまでほとんど訴えるものの無いように思えていた作品の中から、様々な意味性が浮かび上がって来た。
上半身は少女、下半身は馬というケンタウロスのような女性たちが、男性ジョッキーを乗せ、競馬場を競い合う姿は、以前、椿昇さんがトークショーでAKB48を評して言った、「お互いが追い落とし合いのゲームをしてて血と肉の匂いがした」という世界観に極めて近くないだろうか。あばら骨が浮き出る程に痩せた少女たちは、胸や素肌を露わにして熾烈なレースを戦っており、そのレースの判定基準となるのは睫や鼻や胸といった外見のパーツ。そしてレースに参戦する「かわいい」彼女たちに騎乗するのは、手に鞭を持ち無表情で勝負服を着込んだ男性ジョッキーたち。
競馬場というクローズド・サークル内で繰り広げられるレースは、クラビアアイドルなどを含めたある一部の芸能界の状況だけでなく、キャバクラやアダルトビデオ、性風俗産業などをも含めたこの国の女性の容姿や若さばかりを消費しようとする歪んだ在りようを告発しているようにも思えなくもない。一見華やかに見える女性たちのレースの裏にあるいびつなルールや過酷な競争。そしてその競争から真の利益を上げていく、そのシステムの構築者や投資家という名のギャンブラーたち。
そんな社会批評的な見方をしていると、ギャラリーいた母と娘のような人々と言葉を交わすことになった。この作品の自分なりの視点の基づいた「凄さ」について母親のような女性と話していると、すぐ横にいた大学生風の女性から、「あっ、私が作家です」との声が発せられた。どうやら観に来ていた女性を案内していたらしい唐仁原希さんは、京都市立芸術大学大学院修士課程の2回生という。今回の作品については「社会批判的、文化的に思っていた訳ではないけれど、血統とかイメージを統制されて整わされてたというのはあって…」という意味は込めていたのだという。
しかし《麗しき血の乙女達》に次ぐサイズの作品《淡水魚に憧れて》という作品でも、「地球上に存在する水辺の99.7パーセントを締める海水にではなく、0.3パーセントの場所でしかない淡水に憧れを持つ人魚たちを描いた」という意図があることから考えると、そこにも今を生きる若い女性たちの息苦しさやリアリティーのあり方が描かれていると思わずにはいられなかった。縦2m25、横5mの大作を、「これほど凄い作品はぜひ美術館なんかが購入して多くの人に見てもらった方がいいのに」と言葉を掛けると、若い作家は多少戸惑いを見せながらも微笑んでいた。
その日巡った7つのギャラリーの内、紹介する残り2つの個展は、デジタル写真が登場したことで始った絵画と写真、デジタルとアナログ、写実と抽象といった境界線のせめぎ合いを追求する中から生まれてきた表現のように思えた。BIWAKOビエンナーレで連続するパターンのように続く湖のさざ波の写真を見て以来、他の作品も観てみたいと思っていた杉浦慶太さんの個展(10月23日で終了)では、会場である京都万華鏡ミュージアム内のギャラリーに新作を含む約10点が展示されていた。
一見するとペインテングのように見えるそれらの作品だが、実は大判のカメラで撮影された森や雲、夜の闇に浮かび上がる田舎の運動施設が写されたもの。琵琶湖の作品と同系統の森や雲をモチーフにした作品には、シンプルに対象と向かい合う杉浦慶太さんの作家としてのストイックな面が見受けられ興味深かったが、それ以上に引き付けられたのは、「惑星♯005」と名づけられた運動施設の作品。「東京での仕事が上手くいかず、実家に帰らずにいられなかった時に撮ったもの」という写真は、はるかに俯瞰した距離からの宇宙を思わせる闇と、そこでささやかな営みを続ける人々の生み出した光を対比した作品だった。
「今までにない表現をしていきたい」と語る杉浦慶太さんの作品は、「正規に写真教育を受けてないから、自分が育ってきたサブカルの中からサンプリングしたものが自然とミックスされている」という一面もあるのだという。その絵画と写真表現の境界線を探るような作品を観ていると、今現在、アートの世界で起きているデジタル技術の発達や、その表現を自分のものとした世代の出現に伴う、デジタルとアナログ、写真とペインティングなどの表現のせめぎ合いや試行錯誤が、今回の展示を含む様々な場所で同時多発的に起きているのだと感じずにはいられなかった。
最後に紹介するMORI YU GALLERY KYOTOで行われていた五十嵐英之さんの「速度と遠近法、時間と焦点」というタイトルの個展(11月13日まで)では、デジタルとアナログ、写真とペインテングとのせめぎ合いをより意識的、実験的に試みた作品で会場全体がきっちりとまとめられていて心地よかった。ギャラリー1階の左面に続く一見するとデジタル写真かと見間違うオイルペインテングの作品と、その奥に置かれた理論上は永久に退色しないというデジタル写真の作品は、同じモチーフを用いながら鑑賞者に2つの間にある境界線を横断させ、そこに生じる揺らぎを味わわせる不思議な感覚の作品群だった。
それらの作品の向かい側にある流れる風景を油彩化した作品群、そして正面や2階の壁面に掛けられたゴッホとモリゾの肖像画を点描化した作品では、「速度や遠近法」、「時間や焦点」というテーマを通して、写真機の登場が印象派の誕生といった絵画史に与えた影響と同じように、デジタル技術の発達がこれからのアートや人々の表現に大きな影響を与える変革期にきていることを個々の作品と全体の関連性から読み解くこともでき、コンセプトの組み上げ方にも優れた手腕を見せていた。
「16年前、コミュニケーション障害のある子に会って、メモやマークを写しあうコミュニケーションが16年間続いてきて、彼の描いたものと私のものが分からなくなる面白い経験の中から、私とあなたの境界が分からなくなっていくというような気づきがあって、現実とそれを『写す』写真と絵画という3つの段階があることに興味を持った」という問題意識から生まれた作品は、様々表現手段のせめぎ合いの中で生まれた境界線の不明瞭さを、制作の現場から見定めようとする実践の結果のようにも思われた。
今、アートの現場で行われている現実の洗い出しや、その現実を表現する手法への試行錯誤の背景には、社会状況の急激な変化や、これまで存在しなかったテクノロジーの発達によって過去の手法では見通せなくなった今の時代のリアリティーをそれぞれの作家なりの手段で掴み取ろうとする試みのように思えてくる。そんな様々な試みによって生み出された作品を鑑賞していく中で、今という時代の息吹を表現できる言葉を見つけていきたいと思った。
MATSUO MEGUMI +VOICE GALLERY pfs/wのウェブサイト
ウィキペディア ケンタウロス
ウィキペディア クローズド・サークル
現代美術二等兵さんのウェブサイト
唐仁原希さんのウェブサイト
ウィキペディア 椿昇
ウィキペディア AKB48
杉浦慶太さんのtwitter
MORI YU GALLERYのウェブサイト
ウィキペディア 印象派
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荒川修作という作家を知ったのは、今から1ヶ月ほど前の5月19日、ツィッター(twitter)のタイムラインに、尊敬や敬意をもって荒川修作のニューヨークでの死が伝えられた時だった。どうやら有名な建築家であること以外、もうひとつ明確なイメージが持てないまま、誰かが探してきた荒川修作講演会を収録したMP3を聞いた。
個人的には、何を言っているのか理解できないような発言も多かったが、何かそこにあるの強い確信のようなものだけは理解できた。そしてその時にはそれが何を意味しているのか分からなかったが、「人間は死なないんだ。死ねないんだ」という言葉が強く印象に残った。
国立国際美術館の地下2階フロアーの3分の1ほどのスペースを用いて行われていた展示には、棺桶を連想させる20点の作品が並べられていた。最初期にあたる1958年の綿を使った作品などは、それが一体何を提示しているのか全く理解できなかった。しかし芸術とは偏見や先入観を捨て、フラットに物を見るべきなのだと最近になって気づきだしたので、そのまま見ていくと、そこにはやはり凄いものがあった。
会場左奥に立て掛けられた《名前のない耐えているもの No.2》1958(1986)年を見ていると、その窪みやへこみ、凹凸や汚れといったものの中から、死の臭いを濃密に放つ存在が浮かび上がってくる。そのことに一度気づくことができれば、あとは荒川修作が作り上げた世界を理解するのはそれほど困難ではない。
腐った臓器や胎児、うめく人々の表情や排泄物といったグロテスクなイメージで人々の心を鷲掴みにする作品群は、どれも極めて根源的かつ日本的な暗部を持っている。そしてそれは、恐ろしい心霊写真を見せられた時のような生理的な反応を引き起こす。
それらは日本という社会に土着的に存在してきたが、経済成長といった「発展」や、文明的「光」によって駆逐された、今の我々の日常ではほとんど見ることない、しかし決して逃れることのできない『死』や『闇』の痕跡なのだろう。そんなとりとめの無い話を隣で鑑賞していた方と共に話しながら作品を見て回った。
そしてその方と作品ナンバー9『作品』という展示物を見ていた時、突然雷に打たれたようにして一つの啓示のが訪れた。それは『死なないための葬送』というこの展示がまさに、肉体的『死』を迎えた荒川修作が永遠を獲得するために創り上げた『死なないための葬送』という作品なのだというものだった。
それは「人間は死なないんだ」という永遠を求めてきた作家が自らの『死』という、最もインパクトのある事象を用いて人々に刻み付けた最後の作品であり、その啓示は「有機体」とは別の姿と化した荒川修作がその意味を伝えるために行った「言語」や「観念」を越えた何かの伝達ではなかったのだろうか。
そんな啓示を受けたことを隣の方に伝えると、その方は非常に驚かれながらも、「きっとそう。そうなのよ」と『死なないための葬送』という展覧会がなぜ荒川修作が亡くなった今行われているのかという意味をその方なりの理解をもって感じられたようだった。閉館時間を過ぎ、「出口へ向かってください」というアナウンスが流れる館内は日常のようでありながら、そこには日常とは全く別の時間が流れていた。
きっとそんな感覚を共有していたからこそ、地下鉄の駅へと向かいながらその方を『はめつら!』に誘うことになったのだと思う。そしてその方も「時間が無いけど、じゃあちょっとだけ」と誘いに応じて『はめつら!』会場まで足を運ばれたのだと思う。会場までの道のり、日頃は決して話すことはない、心の奥にあった様々な思いを話していたように思う。
その方の持つアイフォン(iPhone)に導かれて辿り着いた「はめつら!」会場には、『かおすら!』会場ともなった0000(オーフォー)ギャラリーに関係した人々や、カオスラウンジの支柱の一人、黒瀬陽平さんなどリアルとウェブで微かにつながりのある人々で溢れていた。そしてそれだけでなく、どこか自分と同じ、日本という国が作ってきた社会概念の枠にはまり切れない人々の匂いを感じた。
ちょうどそれは学生時代に旅したインドで出会ったドミトリー(ベッドだけが並ぶ相部屋)にたむろする人々のように怠惰ではあるのだけれど、どこか共犯関係でつながっているような居心地の良さを感じた。展示会場となっている2階へ上がると、文化祭のお化け屋敷のような暗い空間でパソコンを操作する人、ライブペイントを行う人、寝そべって動かない人などが勝手気ままに振舞っていた。
一緒に来たその方も最初は戸惑われたいたようだが、雑誌などの切り抜きが散乱し、ペイントスプレーのシンナー臭がする空間に居心地の良さを感じられたのか、「床に座りたい」と仰り、駅で貰ってきたフリーペーパーを床に敷くと、その目線から見る光景を「こっちの方が素敵ね」と笑顔を見せられた。
実際、その高さに自分の身体を置いてみると、全てがバラバラに見えた無秩序な空間にどこか統一感のようなものが生まれ出し、それまでは自分には関係のない空間だったものの中に、自分も一員として入り込んでいるような感じを覚えることができた。そしてそこから見る空間内の人々もこれまでとは違って見えた。
以前書いた京都造形大学のアートイベントで知り合ったKさんが、暗い壁面にプロジェクターで映された『東方プロジェクト(Project)』というゲームを無言でプレーする姿が印象に残った。青白い微かな光を浴びながら、弾幕系といわれるシューテングゲーム内で、自分の分身となった少女に弾を避けさせてる姿はなぜかとても切なかった。
目の前を乱れ飛ぶ弾を避けることに没入している姿。休むことなく繰り返される敵との戦いの中で必死に生き延びようとしている姿は、ゼロ年代という不毛の時代を精一杯生き抜いた自分自身や、多くの若い世代の姿そのままのような気がしてならなかった。
すでに決定されたルールの中で可能なことは、目の前に襲い掛かる様々な苦痛を回避するための回避行動以外になく、残された道はその回避をいかに美しく優雅に見せるかという自己満足に限りなく近い快感。ルールの外には決して出ることのできない閉塞感。そして結果的に繰り返される自分自身や仲間たちの『死』。
本当に不毛だったゼロ年代という時代の中で、若い世代の人々は、多くの『死』を経験することになったのだと思う。それは肉体的な『死』ではなくとも、自身のプライドや、人間の尊厳を否定されるような、ある意味で肉体の『死』より不幸な『死』の経験だったのだと思う。
自分が作った訳でもないシステムや価値観を押し付けられて、その中での生を強制させられる。自分たちが作った訳でもないバブル崩壊後の不良債権の犠牲になって、ある意味人間の尊厳を売り渡して生き続けていかなければならない絶望感。そんなゼロ年代の自分自身のリアルがそこに映し出されているように思えてならなかった。
画面上には大量の『死』が溢れており、その世界ではほとんど勝つことの不可能な回避ゲームが繰り返され続けている。そしてほとんどの場合最後に訪れるのは「GAME OVER」という暗く不吉な画面。日常で見ればなんでもないゲーム画面が、『はめつら!』という空間にあることでそんな風に見えてくる。
あの時代、荒川修作が刻んだ『死』の刻印とは別の、軽く、あくまでゲーム的『死』だが、そこには数え切れないほどの連続の『死』が薄暗い空間の中に漂っていた。そしてそれがきっと自分をも含む『新たなリアリティー』に即した現実なのだと思った。
『はめつら!』は我々にとっての、古い価値観を押し付けられながら生き延びてきた若い人々にとっての消極的な意味での『死なないための葬送』なのかも知れないと思った。ゲームやネット、アニメといったものに自分たちの『新たなリアリティー』を託しながら破滅への道を回避するための回避行動や、代償としての『死』が集積した空間なのだと思った。
ウィキペディア 荒川修作
MP3 荒川修作講演
ウィキペディア ドミトリー (宿泊施設)
ウィキペディア 東方Project
ウィキペディア 弾幕系シューティング
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特に初期の画面構成力や、黒の存在感。その黒の中には作者の持つ、締りのある人間性が映し出されているように思えました。静謐でありながら、心の奥まで強く届く詩情のようなものがあって、これほどの作家を全く知らなかったなんで…と思える力を感じました。
また時代でしょうか、デ・キリコのシュールレアリズムを思わせる作品にも出会いました。そこで生み出される実際には見たことがないけれど、なぜか心に刻まれている心象風景のようなものも良かった。安定感だけでなく、若さが生み出す精神的、発想的キレも感じられ面白かった。
中期以降の作品には、遠すぎも近すぎもしない被写体との程よい距離感が見ていて心地よく、また被写体からではなく、画面全体から伝わって来る懐かしさのようなものが、この忙しい世の中だからこそ逆に染みてきて好感を持ちました。
「写っている人たちにとっては、今日に生きた証として片隅の小さな伝記になるのではないだろうか」と語った植田正治。出会っては去って行く人々との一瞬の交わりを愛情を込めて写し続けていく、そんな程よい距離感と温もりが心に響く展覧会でした。
『植田正治写真展 ~写真とボク~』
JR京都伊勢丹7F 美術館「えき」KYOTO
◆2010年5月21日(金)~6月13日(日)[会期中無休]
◆開館時間:午前10時-午後8時(最終日午後5時閉館)入館締切:各日閉館30分前
◆入館料:一般800円(600円)/高・大学生 600円(400円)/小・中学生 400円(200円)
JR京都伊勢丹7F 美術館「えき」KYOTO ウエブサイト
ウィキペディア 植田正治
アマゾン 『植田正治 小さい伝記』
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「遭遇、梅佳代さん」~梅佳代写真展「ウメップ」シャッターチャンス祭りinうめかよひるずを観て ~
0000(オーフォー)の現在(いま)~0000が関連した3つの「京都芸術」イベントを観て~
「光の中の少女たち」~京都国際マンガミュージアム『村田蓮爾展』とライブペインティングイベントを観て~
京都ボスキャラの集い~京都藝術オープニング「SANDWICH(名和晃平さんのスタジオ)×仔羊同好会イベント」に参加して~
「確かに面白くはあったのだけれど…」メイドラウンジin台湾~「カオスラウンジ・オープニングイベント」ニコニコ生放送を観て~
超個人的「ワンダーフェスティバル(ワンフェス、WF)」2010夏、体験レポートその1「開戦前場内」
「孫正義にみる言葉の力」~ソフトバンクアカデミア開校式『孫の2乗の兵法』Ust(ユースト)を聴いて~
ムーブメントを生み出すために~メディア芸術フォーラム大阪・シンポジウムに参加して~
『海洋堂前史』~京都国際マンガミュージアム・フィギュアの系譜展を観て前編~
カオス(ラウンジ)世代のリアリティー~くまおり純の場合~
「萌え+ドーパミン=最強」BOME×村上隆トークショーを聴いて
極めて葬送的な『ハートキャッチ!かおすら!』ユーストを見て
『死なないための葬送』としての『はめつら!』
カオスラウンジの何が凄いのか~関西初上陸、『かおすら!』展を見て~
超解釈!『ネットワーク時代のクリエイティヴィティ「神話が考える」をめぐって福嶋亮大×浅田彰』
あずまん(東浩紀)が見た破滅ラウンジのリアリティ
凄かった!京都造形大『FRESH MEETING!(フレッシュ ミーテング)』
会田誠さんのジレンマ、そして可能性
エヴァ的に解釈するGEISAI大学放課後討論会
カオスラウンジの意味
GEISAI大学討論会での黒瀬陽平さんのヘタレ受けの見事さ
カオスラウンジで注目の黒瀬陽平さんが投げ掛けた問い
ユーストリーム(Ustream)配信失敗の教訓
先入観を捨てて読め!高城剛『ヤバいぜっ!デジタル日本』
デジタル技術の進化における模倣や複製の可能性
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