文化ブログ
阿部和璧(あべかへき)が世の中の良いもの、凄いものを紹介する。
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西野達さんの作品「知らないのはお前だけ」に住んで考えたこと
巨大なブロンズのキリスト像がベッドの上に立つ室内や、美術館内のピカソの作品を囲むようにしてワンルームのダイニングキッチンを作った作品。その場所、場所にしかないものを作品空間に取り込んで、日常と非日常が混じり合った「場」を生み出すことを得意とした西野さんの作品。
今回、滞在している「知らないのはお前だけ」という作品も、使われなくなった平屋の教職員住宅を、天井部分から屋根ごと取り除き、その2階部分にギャラリー空間を乗っけた日常と非日常が混じり合ったもので、この作品にもこれまでに西野さんが制作してきた作品の特徴が浮かび上がっている。
それはまず何よりも、突拍子もない思いつきを具現化したことによって生まれる、視覚的インパクトや、発想の面白さ。今回、住人になって一度だけ経験した日曜日には、西野さんの美術界における知名度もあってか、メイン会場から車で40分ほどの離れた場所にあるにも関わらず、50人以上の人が作品を鑑賞しに来ていたことにも表れているし、通りかかった近所の人に、住んでみた感想を尋ねられたことにも表れているように思う。
しかし、そんな風にわざわざ足を運んで来たにも関わらず、この空間内に滞在する人々の滞在時間が意外に短いことには驚かされた。ツアーバスの都合があったりする人は仕方ないにしても、それ以外の平日に来た人も、ある程度の興味を持って2階ギャラリー内に入ってきただろうにも関わらず、ギャラリー内を2周するような人は少なかった。
下で鑑賞されていた感触では、そこには確かに一種の動物園的な状態が生み出されていて、見る側にも、見られる側にも視線の暴力的なものに対する遠慮のようなものがあったと思う。しかしそれ以上に、人間の生活をギャラリー空間から眺めるという物珍しさはあるにしても、それは動物園の檻の中で、普通の猫を見せられるような感じで、別段珍しいものではなく、それほどは鑑賞者の興味関心を引くようなものではないように思えた。
個人的な感触としては、それ以上に、その発想やビジュアルを実質的に支えている工事現場の骨組や、ギャラリーの外壁を囲んだ白いシートがかもし出す、どこかの新興宗教の施設というか、謎めいた外観と、その内部に立ち入った時に感じる空間への驚きの瞬間にこそ、作品の肝のようなものがあって、その感情の動きが起こった後の観客のあっさりとした態度には、たぶん他の西野さんの作品にも共通するインパクトの大きさと比例した、その感情の着地後の平常の感覚との落差のようなものがあるように思う。
マーライオンやピカソの絵、クレーンで釣り上げたコンテナ内のカフェなど、西野さんのほとんどの作品が、期間限定のものであり、公共的なものと私的なもの、建築と彫刻、日常と非日常など様々なはざまを不明瞭にするような、かりそめ感の強い作品が多い裏には、工事現場の足場やクレーンという機材などの、ある種の暴力的装置を用い、我々が日常的に立っている足場というもが、不確かで、かりそめのものでしかないということを、アートという表現を用いて暗示しようとしているのかもしれない。
一階には、日常を過ごせる日本的な居住空間に、普通の生活を送る人々が住んでおり、その上に西洋美術の文脈から生まれた美術に向き合うためのギャラリー空間が、ある種、暴力的な力によって無理やり接合されている。そのような日本の現代美術のあり方をも示唆するような造形物であり、もしかすると西洋と日本のアートのはざまで作品制作を行ってきた西野さん自身の美術的肖像のようなものが、結果的に浮かび上がることになった作品なのかもしれないという気にもさせられた。
3.11以降の「転換期」をテーマとした「水と土の芸術祭」において作られた、天井を屋根ごと剥ぎ取られた居住空間と、工事現場の足場によって作られたギャラリー空間。それらが一つになった造形物は、日常と非日常の営みが行われている2つの足場が、決して定まったものではなく、不安定でかりそめのものでしかないということが、新潟の田舎の集落という場所にさえ避けて通ることはできなくなっている時代状況を、「知らないのはお前だけ」というタイトルと共に発信している作品なのかもしれない。
水と土の芸術祭 アートプロジェクト 西野達 「知らないのはお前だけ」
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