文化ブログ
阿部和璧(あべかへき)が世の中の良いもの、凄いものを紹介する。
「結局は作品強度」~アートフェア東京の今後について~
まず今回の出品作品の中で個人的に最も印象に残った本堀雄二さんの作品。捨てられたダンボールを再利用して仏像のシルエットを組み上げ、現代の空洞化した宗教性や日本の仏像彫刻の流れの今を提示したような作品には、単なる造形としての魅力だけでなく、様々な意味性が読み取れて面白かった。
またその展示のすぐ傍にあった鈴木基真さんの作品も良かった。自分の中に蓄積したアメリカの自然風景を、ザラリとした質感の彫刻で表現。映像や写真で見たという風景を元にペインテングを制作し、その後、幾つもの風景が混じり合ったところで、現実にはない自分だけの風景を作品にするという彫刻は、現実との微妙な距離感を持つ作品として独自の魅力を放っていた。
今回のフェアや、京都、大阪でのフェアを見てきた中で一番感じたことは、震災以降、より顕著になった平面や絵画作品の苦しい状況だった。この夏、ニューヨークをはじめとしたアメリカ東海岸でも感じたことだが、動きや変化のあるインスタレーションや映像作品、現物が実際にあるという強さを持った彫刻や写真作品に比べると、動きや現実感の少ない絵画作品は、よほど観客を引き付ける力がないと素通りされてしまう恐れがあるのだと思う。
実際、最近になって日本やアメリカでも多く見られるようになった平面作品の中に立体的なものや、光を反射するものを取り入れた作品、また見る場所が変わると作品が変化する作品などは、平面や絵画作品の弱点である変化の少なさといったものを克服するための手法として広まっている部分もあるのだろう。
2ケ月前に観たアート大阪ではそれほど感じなかったが、今回のアートフェア東京やアートフェア京都では、やはり震災後に観る絵画作品の弱さや、実際にないものを描いた作品の強度の無さといったものが気になった。
そんな中で、絵画作品を制作する田中千智さんという作家さんが描いた漆黒の闇を背景に、孤独にさまよう人物を描いた作品や、燃える船を描いた作品が強く印象に残った。震災以前から黒をバックに作品を描き続けているという田中さんの作品の前に立つと、本来、一寸先は闇という生き方しかできない人間の生のある一瞬が的確に切り取られているように感じられた。
震災という未曽有の出来事を乗り越え、また放射能汚染という不明瞭な危機を背負い続けながら暮らしていかなければならないこの国のリアリティーは、ある種のぬるさを抱えながらも、その奥には、厳しい状況を反映したものにならざるおえないだろう。
そんな中で開かれるアートフェア東京の今後の在り方に必要なものは、本堀雄二さんの立体作品が持つ歴史文脈をも兼ね備えたような意味の重層性。さらには鈴木基真さんの作品が持つような現実からの微妙な距離感や浮遊感。そして田中千智さんの絵画作品が持つような、鑑賞者の内面にまで届くような強度を持った作品が数多く出展されることに尽きるだろう。
前回のアートフェア東京批判でも述べた通り、もっと落ち着いた場所で、そのような作品と向き合える空間さえ生み出せれば、世界的知名度を持った東京という名を冠するに恥じない、魅力的なアートフェアが成立していくのだと思う。
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人々にとってアートが身近でなく、コレクターも少ないと言われてきた日本のアートマーケット。そこに「見本市」的にフェアを開催してきた功績は大きいが、「東京」という日本の首都名を冠したアートフェアとしては、方向転換すべき時期にきているのではないだろうか?
東京に転居し、最初のアートイベントとして訪れることになったアートフェア東京。4月開催予定だったものが、震災の影響で7月に延期され、その結果、初めて足を運ぶことができた。日本の首都である東京の実力ギャラリーが集うということで、かなり楽しみにしていたイベントだったが、全体としての印象は決して良いものではなかった。
2日目の開始直後から回りだした会場は、薄い仕切り壁で区切られた企業の新製品紹介ブースのようなまさに「見本市」的空間。手狭な展示場所のせいもあって足を止めることが難しい状況では、作品にしっかり向かい合うこともできにくく、これでは購入したくなる人も少ないのではと思えてくる。
このような場の作り方は現代アートの状況を、とりあえず多くの人に知ってもらおうという主旨ならば理解できなくもない。しかし現代アートに興味を持つ人々や、コレクターと呼ばれる人々が増えつつある状況で、日常と変わりばえのしない空間を慌ただしく巡回させられ、うわべだけの印象を残して帰っいくようなイベントで果たして良いのだろうか?
また、130以上のギャラリーが出展していた会場に、外国のギャラリーが少なかったことも残念だった。骨董や工芸といった分野の出品が多かったことは、このフェアー独自のカラーとして「カオス」的な日本の美術、芸術状況が表れていて良かった。しかし、原発や放射能問題で出展の取りやめがあったにしろ、90年代にはアジアNO1の国際都市として知られた東京で行われる、国内最大級のアートフェアに、海外の、特に欧米系のギャラリーの出展がほとんどないことには問題があるように思えた。
東京国際フォーラム地下2階という一見派手に見えるけれども、決して使い勝手が良いとは言えない空間。そこにプラスチック容器で仕切られた幕の内弁当のように一通りのものが詰め込まれていた今回のアートフェア。その空間状況が、いかにも日本的と言えば日本的だけれども、アートにちょっとした高級感や非日常性を求める人々が増えている時代には、より日常から逸脱できる多彩で異界化された空間が必要なのだと思う。
アートフェア東京のウェブサイト
ウィキペディア 東京国際フォーラム
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5月のアートフェア京都やartDive(アートダイブ)では、正直、震災という未曾有の危機を後にして観る絵画作品のもろさばかりが目立って、印象に残る作品が少なかった。しかし、今回のアート大阪では、それら2つのフェアーよりも、何か一歩前に進んだような印象がフェア全体にあったような気がする。
中でも強く印象に残ったのが韓国系のギャラリーや作家たち。片言の英語で会話していく中でも、現在言われている韓国の現代アートの熱量のようなものが、その話しぶりや態度からも伝わってきた。
GALLERY SHILLAの空間に展示されていたLee Lee Namさんの作品は、デジタル技術を使った東洋や西洋の歴史的な絵画を映像化した作品で、その中に現代的なモチーフを取り込んで、古さと新しさの融合を試みていた。
作品紹介をしてくれた韓国人ギャラリストの話では、海外のオークションで100万ドルの落札価格がついたと豪語するだけあって、そのクオリティーは非常に高く、デジタル技術をいち早く取り入れた先進性と、森村泰昌さんの作品を更に進化させたような発想が面白かった。
大阪のギャラリーで、優れた韓国人作家を日本に紹介しているギャラリー風の空間にあったNAUL(ナオル)さんという作家の作品も良かった。どこにでもありそうな紙くずのコラージュや落書きのようなラインから生み出される独特の平面は、極めてシンプルなはずなのに、見ていて飽きない面白みがあった。
韓国ではバンドのヴォーカリストとしても活躍しているという作家の作品には、一般的に言われている綺麗さや美しさに囚われることのない、自分独自の美意識のようなものがさりげなく表現されていて好感が持てた。
今回のアート大阪だけでなく、国内で観る韓国人作家の作品に優れたものが多い理由を考えてみると、最近、韓国の文化や産業全般について言われている「政府や企業が戦略性を持ってお金を出しているから」とか、「人口が日本に比べ約4800万と少なく、世界のマーケットに出ていかなければ生き残れないから」といった理由だけではないものを感じるように思う。
それを一言でいえば、過去の因習や、「常識」として固定化されてしまった先入観に囚われることなく、積極的に新たなものに取り組み、そこから生み出される独自のものを、程よい客観性を兼ね備えながら提示している立ち位置の軽やかさにあるのかもしれない。
そういう意味では、海外に目を向けることを積極的にしなくなり、日本独自の発展を善しとしてきたガラパゴス的なあり方や、カワイイをはじめとしたクールジャパン的傾向ばかりに偏り過ぎた日本のアートには、より広い外の視点を欠いた些細な違いばかりに目がいってしまい、現代アートならではの先進性を試みた作品が少なかったのかもしれない。
日本で生まれ、世界的にも知られる芸術グループとしてその名を残す具体美術協会のリーダー・吉原治良は、その会のメンバーたちに「人の真似はするな、今までにないものを作れ」とことあるごとに告げていたのだという。震災という揺れが、社会だけでなく人々の精神や考え方までも揺らした今だからこそ、果敢に新たなものに挑戦し、新しい価値観を提示していくようなアートが求められているのだと思う。
アート大阪2011のウェブサイト
Hyon Gyon(ヒョンギョン)さんの展示を紹介した京都芸術センターのページ
ウィキペディア 具体美術協会
ウィキペディア 吉原治良
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2001年の大津での初開催以降、滋賀県中部の水郷で知られた近江八幡市を開催場所として、3回のアートフェスティバルを行ってきたBIWAKOビエンナーレ。総合ディレクターの中田洋子さんの強力なリーダーシップの元、行政主導ではない独自のビエンナーレとして10年の歴史を刻んできた。現在まで続く国内のアートフェスティバルとしては、最長に近い歴史を持つこのビエンナーレだが、これまでの歩みは他のアートプロジェクトと同じく決して平坦ではなかった。
特に行政からの支援がないことからくる慢性的な資金不足。それに伴う定期雇用できる人材が確保できず、少人数での準備、運営が生むスタッフの疲弊。組織としての規模があまりに小さいため、スタッフは様々な業務を兼任せざるおえず、目の前の仕事に追われた結果、会期をなんとか乗り切っても、そのノウハウの継承が難しく、新たな人材が毎回同じ課題を抱えるといった問題。そんな苦難を乗り越えながら、回を重ねるごとに規模を拡大し、魅力的なビエンナーレを生み出してきたのは、総合ディレクターの中田さんの力と、「なぜか必要な人材だけは揃った」という少数精鋭のスタッフの努力の賜物だった。
「黒字化が一つの目標だった」という今回だが、実質的には助成金と協賛金、さらには入場料収入を足した金額でも目標は達成できず、会期終了直後は「次回の開催は難しいかもしれない」と中田さんは肩を落とした。しかし今回は、地元をはじめとした観客の中から、BIWAKOビエンナーレを何とか盛り上げていこうという動きが生まれ、展示作品の中で最も評判の良かった青木美歌さんの作品の会期後の展示延長が決定。これまでも望みながらできなかったことが一つ達成できた。
今回話を聞いた、近江八幡の教育を考える会の川尻宏さんも、実は青木美歌さんの作品制作時のホームステー先や、「おやじ連」ボランティアとしてビエンナーレに関わった人物。「内覧会の時に参加させていただいて観て愕然とした。地元の応援や理解が足りないということで公民館長、自治会長、地屋の管理の方に回覧板でもいいから回してくれ、八幡の人にこそ観てもらわないと損失だ」ということで動き出された。その川尻さんが連れて来られた高山さんは、数年前まで京都の器関係の企業で商品開発をしていたという方。
「片田舎でこのようなイベントが開催され凄いなと思った」とビエンナーレの感想が述べられた後の言葉には、アートや美術に興味の無い「一般」の人々の意見を確認させる意味でも貴重なものだった。「そもそも一般の人にとってはビエンナーレって何?っていうのがあってその部分ですでに乖離してたんじゃないか?ある期間、近江八幡が美術館になるよというような、何がしたいのかを浸透させる必要があったのではないか。それと部分、部分は素晴らしいのに、それがリンクしていない。そこには近江八幡でやることできることは何なのか?もたらしたいグランドデザインが何なのかを描けてなかったことに原因があるのではないか」という厳しい意見が述べられた。
それに対して主催者側で、デザインや広報をはじめとした運営全般に関わってきた井上智治さんは、「確かに足りない部分はあって、外に対してやる人や、それをやる能力がなかった。中田がやりたい部分では環境と整えて、アーティストを信頼してやっていれば間違ったものは出て来ないというのはある。しかし人員的な問題は明らかで、一人で何役もやらなきゃならないカツカツの中でやっているというのがある。運営としていい状況じゃないし、理想的な規模の事務局を作ってソフトをコーディネートするような組織運営をやらないと発展はついて来ない」と語った。
では実際に何をしていけば良いかという問題に対しては、「地元の協力が決定的に欠けている」と言われる現状を変え、より多くの人がボランティアとして参加できる人員的にも無理のない仕組みを作ることではないかという意見が上がった。多くの地域アートフェスティバルと違い「過疎」や「町おこし」といった危機意識が少なく、このビエンナーレの特色でもある古い町屋建築や、歴史的建造物が立ち並ぶ観光地でもあるこの地域で、いかに「当事者意識」を持ってもらうかを考えていくと、「魅力と価値を理解できたらみんな協力する」というところまで理念を固め、情報を提供すること。「学びの報酬」や「ウィン・ウィンな関係」が得られる仕組みづくりが大切との意見が寄せられた。
「使えることは使わないと」という地元側の意見に見られるように、古い町並みや建造物だけでなく、地域に眠る人材や文化財、そこに生きる人々のネットワークやコミュニティーを巻き込んだ、「より開かれた」ビエンナーレにしていかなければ、美術館からギャラリー、さらにはストリートへと拡散しているアートの方向性や、「共有」や「多様性」へとシフトしている時代の流れとは逆行したアートフェスティバルになりかねない。核になるキュレーションの質を保ちながら、その周辺の様々な人のアイデアを取り込める仕組みを作る。場所性を活かした作品が魅力の地域アートフェスティバルでは、そのフェスティバル自体も、地域やそこに住む人々の魅力を最大限に活かしたものこそが優れたプロジェクトとして評価されゆく基準にもなる。
今回のヒアリングでは行政と民間とのパイプ役である中間支援センター、そして地域に住む最近まで企業や組織に勤め、その中で企画や運営に関わってきた人々の中にある技術や情報といった、アートの文脈からは見えてこなかったものの存在を知り、そんな人々とのつながりが生まれたことが最大の収穫だった。地域の人々の中に眠る経験に根ざした「財産」と、アーティストや若い世代が持つユニークな発想や行動力が、アートフェスティバルという存在の中で融合した時、そこには、これまでにない極めて優れたビエンナーレが人々の前に立ち上がることだろう。
【BIWAKOビエンナーレ2010シンポジウム】~解き放たれた玉手箱 カオスは潮流へと成り得るか~が2011年3月20日(日)滋賀県近江八幡市玉屋町6の天籟宮(てんらいきゅう)で13:30~16:00まで開催されます。
昨年開催されたBIWAKOビエンナーレを振り返ると共に、今後の地域アートフェスティバルにおける市民や自治体、アーティストをはじめとした主催者側のあり方や関わり方のについて話し合われるそうです。入場無料(ただしワンドリンクオーダー)、予約不要。シンポジウム後には500円程度のお金を出し合っての懇親会という名の飲み会も開催される予定。連絡先 TEL・FAX:0748-26-4398 問い合わせメールアドレス:[email protected]
ウィキペディア BIWAKOビエンナーレ
BIWAKOビエンナーレを主催したエナジーフィールドのウェブサイト
ウィキペディア 近江八幡市
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「お金や票が動かないと社会は変わらない」。西宮船坂ビエンナーレのシンポジウム終了後に言葉を交わして以来、時々連絡をするようになった松尾寛さんは、和歌山で近代建築などの文化財を活かした銀聲舎というNPOの代表ををしている人物。シンポジウムのパネリストとして紹介した事例では、回りくどさや枝葉を省いた、要点だけのプレゼンを行った人物として印象残った。その松尾さんが先日、京都を訪れる機会に話をしたいということで、時間と場所を設定し、主にアートと社会の今後について話をすることになった。
その中で出た「お金や票」の話は、地域アートに取り組んできた藤浩志さんや、芹沢高志さんの講演の中でも角度は違えど、問題とされていたことだった。最終的には多様な価値観の共存できる社会を、アートの力で生み出していければと思う人間にとって、いずれは行き着くであろう「政治」のことを、一言で表した言葉は、ズシリと重く響いた。個人がゆるやかにつながることで生まれていく新たな価値観を共有していくことも大事なのだが、政治や経済という部分を考慮しないあり方は果たして正しいのか。
そんな疑問を抱きながら聞いた、「2010年代はアートイベントをやる所が増えていく中で、失敗例を少なくするための実例としてBIWAKOビエンナーレを構造解析し、アートイベントの基準になるようなものを作って欲しい」という依頼は、BIWAKOビエンナーレを高く評価した者にとっては正直、嬉しかった。出展作家や総合ディレクターから話を聴き、内情を知れば知るほど一つのアートフェスティバルを運営することが、いかに大変なのかを理解していただけに、「BIWAKOは3度訪れた」という松尾さんの言葉には共感できるものがあった。
しかし同時に、一時のロックフェスティバルブームのようにアートフェスティバルが消費されることに対して警戒感を持っていることもあって、その依頼にどう答えるかは、非常に難しく思えた。実際、今年訪れた幾つかのアートフェスティバルでは、先日、藤浩志さんが参加したシンポジウムで聴いた「場所や素材、人との対話」の無い表層的作品や、芹沢高志さんが評価基準として挙げた、「次に何かが生まれてくること」の無いイベントもあって、すでにブームの悪影響が生じているように感じられた。また解析を頼まれたBIWAKOビエンナーレにしても、アーティストや主催者が赤字を覚悟している現状を基準としてしまうことで、それが慣例になってしまうことへの抵抗感もあった。
結局、この依頼を受けることにした一番大きな要因は、現状では、優れたアーティストやイベントにさえ、お金が回らない現状をなんとかしなければならないという思からだった。「教育委員会や首長レベルを動かして、行政にアプローチしていかないと、切れるカードがなくなっていく。文化に理解のある首長が生まれて欲しいが、なかなかそうもいかない。だからこそ観光、福祉、教育と紋切り型の話ばかりで文化のことを言えない議員さん、自治体担当者にも分かり易いフレースで言えるものが必要」という松尾さん言葉は、自分が持たない視点だからこそ、痛切に響く説得力があった。
「アートは分からないものだという人に、どの部分にどういう利点があるのかを言えるものにすべき」、「数字的な部分でも、言語的な部分でも論議の土台になるようなものを」、「そこに人が来たというだけではダメで、最終的には地域の人口増につなけていくべき」といった一種の政策提言的視点は、アートが社会との関わりを深くしていくであろう今後、アーティストだけでなくその周辺に関わる人々にも無くてはならないものになっていくように思う。地域アートフェスティバルとしては10年目を迎え、すでに四回の開催実績を持つBIWAKOビエンナーレというイベントを構造解析し、その魅力や問題点を見極めていく中で、今後のアートや社会のあり方について何らかの確信を得ることができればと思う。
ウィキペディア 瀬戸内国際芸術祭
ウィキペディア あいちトリエンナーレ
BIWAKOビエンナーレ2010のウェブサイト
松尾寛さんが代表を務める銀聲舎のウェブサイト
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その名の通り、萬福寺というお寺の全域を会場としたこのイベントは、従来型のアートフェスティバルの評価基準に当てはめれば、nomoto piropiroさんの写真作品や三瀬夏之介さんの屏風画、水澤結衣さんの石のシルクスクリーン作品などはあっても、個別の作品クオリティーは決して高いものとは言えなかった。しかしそこに、日ごろ寺院では流れることはないDJ系の音楽や、弦楽、打楽器系のアコースティックな楽曲が流れ出すと、その空気は一変する。
江戸時代、中国から伝わった黄檗宗大本山であり、現在も禅の修業が行われている寺院内の清廉な空気と、現代音楽が奏でるリズムが融合し、そこには寺院でありつつも寺院ではない独特な空間が生み出されていた。古いようで新しく、新しいようで古いといった自分の価値観が揺らいでいくような感覚は、寺院との相性を考えたアーティストの選択によって可能になっただけでなく、間にアートが挟まれたことで、互いの親和性がより一層増し、フリーマーケットや縁日ブースといった関連企画をも包み込んでいた。
また若手作家たちの作品が置かれた法堂や東西方丈では、そこに元からあった建築物や石庭、さらには襖絵といった美術的存在と、現代アートが同じ空間にあることで、互いの歴史性や禅的抽象表現にどこまで連続性や関連性があるのかといった疑問が浮かび、過去と現在との不思議なつながりが発生。それについて年配の観光客や、若手作家、一般の鑑賞者がそれぞれの立場で意見を交わすなど、世代や性別、趣味を超えた交流が行われていたことも興味深かった。
夕方から夜にかけての芸術祭では、ロウソクや灯篭の灯りの中での音楽ライブやファッションショーが盛り込まれ、寺院空間という特性を最大限に生かした幻想感や、西洋風アートという高く独立した視点よりも、アジア的な低い位置からじわじわと浸透していくような空気感を作り出し観る者を魅了。長く居れば居るほどに芸術祭のイベントが楽しめ、観る者の興味の幅を広げてくれる多層ジャンル(レイヤー)の芸術祭が成立していた。
この1年、アートの世界で独自の存在感を示し、新たな可能性を感じさせる10代後半から20代中盤までの作家や、その周辺でムーブメントを作り出そうとする若者たち。彼らの優れた感性や新たな発想は、これまでの価値観や評価基準とは異なり、そこに生み出される空気感や、様々なものがゆるやかにつながることに大きな意味があるように思う。従来までの個別評価も大事だが、これからは多種多様なジャンルや価値観を受け入れるオルタナティブ性やハイブリッド感を持つことが観る側にも要求されていくだろう。
萬福寺芸術祭ウェブサイト
萬福寺芸術祭のtwitter
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前回はライブペインティングのCHIAKI(チアキ(小原千明))さんなど、圧倒的なエネルギーを持つアーティストを中心に独特の面白さを感じさせていたこのイベント。今回はそのエネルギーが作品内部に凝縮し、向かい合えば向かい合うほど面白みを感じさせる作品が多く、その多彩さに驚かされた。『SHAKE ART!』ブースの田村灯(あかり)さんなどファインアート的アプローチの作品はもちろんのこと、デジタル技術を駆使した色彩と、浮揚感の溢れる少女たちで独自の世界を築いた久保いさこさんの作品は、高い吸引力で見る者を引きつける力があった。
「かけだしのイラストレーター」と自称するマジマエリさんの最新作『海(仮題)』は、その他の似顔絵的作品とは異なる匿名性の高い少女のキャラクターが、光に満ちた砂浜に飛び出した圧倒的な幸福感を表現したもので、記号表現で表されたまばゆい夏の一瞬が鮮明に切り取られた秀作だった。前回も出展されていたことを後になって気づいた和iケイ子さんの『思春期妊婦』という作品は、「実際には大人だが、気持ちは子供」という自分の内面世界にいる「思春期の少女」を描いた作品で、焦点の定まらない不思議な視線や、黒に紫を重ねた背景が作家の内面の奥行きを感じさせた。
今回の展示の中で最も感銘を受けたモリシタナオコさんの最新作『モリシタナオコ20101104-1112』は、前回のアートダイブでも優れていると評判だった『Untitled(無題)』の匿名性とは異なり、固有性を全面に押し出した作品。「急遽出展が決まり一週間で描いた」という大画面の自画像は、なぜか不思議な迫力を持って迫ってくる。ブース内にいた作者にその理由を尋ねると、「作品に近づいてみてください」と促され、首をかしげて近寄ってみた。すると、作品はまるで写経のように無数の文字で構成されており、「7日間の人には言えないことも含めたリアルな自分のつぶやきで描いた」という手法で描かれたものだった。
「昨日書き上げたこの作品には今の私とは違う古い私が定着している」という自画像は、まさに昨日までの作者のリアルが凝縮されているだけでなく、twitterなどのつぶやきが累積していくことで見えてくる今を生きる若者の人格の一側面が絵画化されているという極めて時代性にリンクした作品だった。匿名性を持つ連続画の個展を4月に行うという作者は、「匿名性のシリーズだけでなくこのシリーズも面白そうなので挑戦していきたい」と新たな展開を期待させた。
この他にも、擬人化した猫や神秘的な女性を北欧風のタッチで描いたRyucaさんや、ペーパーマスコット制作の幸(ゆき)さん。過去の心象風景を抽象画的に表現したくろやなぎみきさんの花火の作品など、作者に問いながらその作品を深く理解してみたいと思わせるものが多かった。過去2回、アートダイブを経験した中で、このイベントの最も優れた点は、多くの作品を前にして作者と直接対話をしながら作品についての理解を深めていけることだと思う。そして時に、その対話を経た後に見える風景は、過去の自分よりも多様な価値観を受け入れられる、豊かで広がりのあるものだったりする。
アートダイブのホームページ
アートダイブのtwitter
久保いさこさんの作品が観れるloft workのページ
マジマエリさんのサイト
和iケイ子さんのサイト
モリシタナオコさんの作品が観れるpixivのページ
モリシタナオコさんのtwitter
Ryucaさんの作品が観れるloft workのページ
Ryucaさんのウェブサイト
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「苦しい事情は分かるけれども」~木津川アート2010を巡って~
まず、このイベントを始めようとされた方から聞いた話では、公募で選ばれた作家たちでさえも、ほぼ手弁当状態で制作を行ったという話で金銭的にはかなり苦しい状況にあるということだった。夏から秋にかけて巡った幾つかのイベントも基本的には同じ状況で、それを分かっていながら作品の質は玉石混交でと解説し、だから玉の多い少ないに感情的になることは大人げないのかもしれない。
第一、こういうアートフェスティバルを知れば知るほど、イベントを一から立ち上げる大変さには本当に頭が下がるし、そんな苦労をしていない人間が、そういったイベントについてとやかく言うのが果たして正しいのかとも思う。しかし、そんな事情も知らずに来た人々に「やっぱりアートって分からないものなんだ」、「つまらないものなんだ」という風に思われることが嫌なのではっきり言いたいと思う。
やはり全体としての、個々の作品の持つクオリティーや完成度、鑑賞者に訴える力というものが弱いのではないかと思う。これは、金銭的にも苦しい制作を強いられた作家たちに対しては厳しい言い方になるのかもしれないが、折角、このようなアートが多くの人々に開いた状況が巡ってきているのだから、その機会を結果的に減らしてしまうことになるような作品を提示すべきでなないと思う。
正直、「無料で巡れるイベント」でもあるし、今回、多数巡っていた近隣の中高年の方々のように、これまで入りたくても入れなかった八木邸内部や鹿背山ハイキングが目的で、アートはそのついでに見ておこうという気持ちでいるならそれでも良いと思う。しかし、もしアートを「目的」として活動している作家が、見る人に何の印象も残さないまま、さらに酷い場合にはアートに悪い印象しか残さないような「ぬるい」作品を展示することは、自分の首を絞めるだけでなく、真摯に作家活動をしている方々に対しても迷惑なのではないか。
今回の展示会場の中では小原典子さん、林直さん、竹居和彦さん、松嶋真さんらの作品と、最も良作の多かった南都銀行旧木津支店で、林さんが語った、「アートは自由だから、様々な方向性や楽しみ方があっていいと思う」という意見には賛成なのだが、だからといってあまりにも表層的で、自己満足以外の何ものでもないような作品を提示して、「アートの自由さやある種の難解さ」で言い逃れしようとする作家がこれまでの歴史的に見ても多かったのではないか。
また今回のイベントをはじめ、鑑賞者に独特の「ワクワク感」を感じさせることのないイベントに共通することは、そのイベントを主催する主催者側の人々のアートに対する強い信念のようなものが欠けていることが多いように思う。具体的な例で言えば、アートが町おこしなどで力を発揮する場合、なぜそれが力を発揮するかを考えると、様々な属性を超えた人々の交わりや、作品とその場との接触によって独特の融合が生じ、その場でしか生まれ得ない熱量や価値が根付くからこそ地域の人々やアーティスト、さらには一般の鑑賞者が生き生きとするのだと思う。
しかし今回の展示を見た限りでは、その場所でなくても、ギャラリーでも、どこで展示しても変わらない作品。詳しく言えば、作品の持つクオリティーや熱量や文脈によって生み出される空間との融合がなく、互いが分離したままで存在する作品が多かったように思う。そしてそんな場や状況との切磋琢磨が感じられなかったことは、作家だけの責任というよりも、その場を設定し、作家に働きかけた主催者側の力量不足やアートに対する確信のなさが大きな理由ではないかと思う。
今回が初開催という同じ条件で、近隣の奈良市を中心に先月行われた「奈良アートプロム」というイベントは、行政との連動や資金もなく、運営の未熟さに多々問題を抱えながらも、地元の作家やアート関係者を掘り起こし、今アートで何かを伝えたいという切実な気持ちが伝わってくるイベントとして好印象を残した。そこには人と人とを介して、また作品と人を介してしか伝わらない極めてアナログな熱量の伝達が成立していたからこそ若い作家たちの「才能の芽吹き」を感じることができたのだと思う。
アートイベントを行うことが町おこしとなるということは幻想で、作品という一個の人間の創り出した何ものかが、時として別の誰かの心を動かし、周辺の空間を変質させる装置となる。そういった可能性を秘めたアートの力は、より厳しい現実に向かい合わなければならないこれからの社会において、より多くの人に何かしらの救いをもたらしてくれるかもしれない。そして、そういったアートの力だからこそ、無闇に乱用するのではなく、時と場所を見極めて、その力に確信を持った人々が活用すべきなのだと思う。
木津川アート2010ホームページ
木津川アート2010ブログ
木津川アート2010twitter
先月終了した奈良アートプロムのウェブサイト
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このアートイベントの最も面白かったところは、展示作品がどうこうと言うよりも、各会場を訪れた人々がアーティストが用意した枠組みに参加して自分も作品を体験しながら楽しめる遊び心のあるところ。『どんどこ!巨大紙相撲』(⑬宮本マンション)や『土木イメクラ』(⑥四貫島商店街空き地)や『缶バッチ制作』(⑧此花S-229)といったワークショップとインスタレーションが融合したような作品が多く、一歩足を踏み出して参加者の一人となれば、遊びながら作品を楽しめる。
中でも優れていたのはキスヒサタカとPOS研という2人の作品である『土木イメクラ』。ホストクラブやメイド喫茶のシステムを借用して土木作業員のコスプレをした参加者が、同じ格好の2人の作家の指導を受け、イッキ飲みコールに煽られながら穴掘り作業に従事する。遊び心満載のインスタレーションとしてアートに興味の無い子供から大人まで巻き込んだ装置としても楽しかったし、ホストクラブやコスプレといったものが成立してしまうこの国のおかしみを浮かび上がらせる作品としても優れていた。
またそんなユニークなアート体験をしながら歩く此花の町は、昭和臭漂う不思議な町で、商店街の裏路地からのぞく店番のおばちゃんたちの食事風景や、古い建物の機能性を無視した構造などを見ていると、それ自体が現代アートのようでもあり、日常の細部にこそ面白みは隠されているし、身近にある小さな物事って甘く見ちゃいけないんだなとつくづく思わされる。空き家が増えている現状をなんとかしたいと3年前から始ったこのイベントだが、人の温もりの感じられるこのような町ならばぜひ住んでみたいと思った。
入り組んだ町並みを巡るカイド誘導のツアーからはぐれ、終了間際に駆け込んだ此花メヂアという場所にそれはあった。共同アトリエ兼ギャラリーとして使用されている空間は、うなぎの寝床のような作りをしており、歩くたびに床がうねるような老朽化した建物だが、その2階にある細長い階段を抜け、たどり着いた屋根裏部屋が凄かった。茶室のにじり口のような狭い入口から入り込むと、最初に見える「1982年を想え!藤浩志」という張り紙。「アーティスト藤浩志さんがそのまま保存したいと言い残している」という室内には、1982年頃のアイドルのポスターが幾つも張られ、日に焼けたまま残っている。
昭和臭全開の室内の窓には2匹のウサギが仲むつましく佇む柄のカーテンが掛けられており、それをスクリーンにして映し出される内田京介さんの『水母(クラゲ)』という作品。水の中を漂うクラゲの動きを撮った映像をソファーに座り眺めているだけなら何も感じなかったが、窓の下に作品の一部のように置かれた一通の紙に目を通した後にはその空間に対する評価は一変した。1981年3月17日の夜に書かれたFumikoさんからBikichiさんへ宛てられた手紙は、まるでカーテンの柄のウサギように仲むつましい十代の二人の関係が差出人の少女の視点から語られたもの。懐かしい丸文字の文章は少女の息遣いまでも感じさせた。
「大好きなBikichiくんへ」という手紙を読み終えた後、藤浩志さんの「1982年を想え!」という張り紙を見直すと、まるでその空間全てが何かの意志でインスタレーション化されたかのように思えてきて、この恋の行く末から、まるでクラゲが漂うようにおおらかだった時代の人々の状況や時代背景までもが思い出されて、羨望と懐かしさの入り混じった感情が湧き上がってきた。果たしてどこまで意図したものであり、どこからが意図しないものなのか分からない「作品」は様々な憶測や裏読みを誘発し、極めて意味深いものとして胸に刻まれることとなった。
朽ち果てた部屋を出て、昔は運河として使われていた水路に掛かる橋を渡りながら思い出した。「この町が浅草の佃島周辺に似ているのは、豊臣秀吉の時代にこのあたりに住み始めた人々が徳川家康と共に江戸に下り佃島を埋め立てたからだという」。会場の一つ、梅香堂で教えてもらった土地の歴史を思い返しながら、人はたとえばふるさとといった過去の記憶に良くも悪くも縛られるものなのかと思った。昭和臭漂うこの町でアート作品と出会いながら、朽ち逝く昭和の町並みとそんな町並みの中で様々な記憶を抱えて生きる人々の姿を美しいと思った。
みっけ!このはなのウェブサイト
ウィキペディア インスタレーション
ウィキペディア 佃(東京都中央区)
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名古屋を訪れてからすでに1ヶ月が過ぎ、トリエンナーレも残すところあと10日ほどとなった今でも、きちんと思い出せる作品が多かったのが愛知芸術文化センターの展示。その中で最も印象深かったのがハンス・オプ・デ・ビーク(ベルギー)の「Staging Silence」という映像作品。固定カメラが映す空間に、ミニチュアの家具や電球、綿といった何の変哲もない素材を配置することによって生まれる詩情感は魔術的と言えるほど。
極めて舞台美術的な場面の転換により、一瞬で観る者に詩情を湧き上がらせる巧みさには、あまりに容易に感情を揺さぶられることに対する悔しささえ感じられる凄みがあった。流れるようにスムーズに行われる場面転換と情景の作り出す詩情を大画面で鑑賞していると、約20分という時間さえも忘れて見入ってしまう。空間づくり手の内を明かしながら、その奥にある秘密には決して手が届かないという作品には、作家の持つ圧倒的な芸術スキルがうかがえた。
同じ映像作品でも、様々な手法で心に残る作品を鑑賞できた今回のビエンナーレ。芸術文化センター8階のヤコブ・キルケゴール(デンマーク)の「流砂」の作品は、自然が作り出す変化の多様さや、ゆるやかに、しかし確実に崩れ落ちていく砂のあり方に今の時代の崩壊感や蟻地獄に飲み込まれていくような下落感を感じずにはいられなかった。他にも長者町会場のアデル・アブデスメット(アルジェリア)の蛇やサソリ、毒蜘蛛が映された作品には芸術が決して美しいものだけでなく、時には不快な感情をも鑑賞者に投げかける可能性も内包したものだということを教えてくれた。
西洋の作家だけでなく、アジアの未知の作家に出会えたのも今回の収穫といえるだろう。急成長を見せるインドの作家、ソニア・クーラナは自らの身体を世界各地の路上に横たえることによってその空間を異界化し、それによる違和感を人々に与えるという映像作品で、60年代のオノ・ヨーコや草間彌生の活動を思わせる緊張感のある作品を提示。1984年生まれのジュー・チュンリン(シンガポール)は透明プラスチックを多用したインスタレーションとその空間増殖性を映像化した作品で、名古屋の街のストリート感をユニークに表現した。
アジアのメインプレーヤとなりつつある中国国内だけでなく、すでに世界的評価を受けている蔡國強(ツァイ・グオチャン)の作品が観れたことも印象深かった。県美術館の最も広い空間の壁面一杯に展示された「美人魚」は今回のトリエンナーレのために創られた新作で、火薬を用いたドローイングから感じられる痛みや、水中を泳ぐ女性の影から生まれる淡さなど、制作過程を撮影した映像と共に鑑賞でき、10億円で落札されたこともあるというこの作家の実力を体感できた。また同じく中国の張洹(ジャン・ホァン)の牛皮の継ぎはぎで作られた巨人の造形物「ヒーロー」も、中国人作家のスケールの大きさや、淡い哀しみが感じられた良かった。
各国の優れた作家たちの中で、それに劣らない日本人作家の作品があったことも嬉しかった。宮永愛子は名古屋という地域性を取り入れた塩、ナフタリン、舟で構成されたインスタレーションで詩情溢れる空間を創り出すだけでなく、作家の内面をポストと鍵で表したであろう作品でもその実力を示した。注目の新人として写真界で話題の志賀理江子は、この国が持つ歴史的闇や得体の知れない存在を「開いた感性」で切り取り、無造作に提示する独自の作品空間を生み出し観るものに強い印象を与えた。
このように優れた作品を観ることができたあいちトリエンナーレは、10月上旬段階で目標の来場者数30万人を突破。最終的には40万人に近い来場者数が見込まれているという。しかし9月上旬の2日間にわたり見た限りでは、国際美術展と銘打つわりには外国人の来場者を見なかったし、サテライト企画のような周辺へ波及したイベントも少なかったように思う。国内のアートフェスティバルの中では最高額の13億円以上をつぎ込んだトリエンナーレだけに、行政が旗を振る古い体質のイベントという殻を破った、芸術の持つ幸福感が拡散していくような「あいち」ならではのトリエンナーレが観たかったように思う。
(前編へ戻る)
ウィキペディア あいちトリエンナーレ
あいちトリエンナーレ ウェブサイト
ウィキペディア オノ・ヨーコ
ウィキペディア 草間彌生
あいちトリエンナーレ ジュー・チュンリン紹介
ウィキペディア 蔡國強
張洹(ジャン・ホアン)さんのウェブサイト
志賀理江子さんのウェブサイト
アマゾン 『Zhang Huan (Contemporary Artists)』
アマゾン 志賀理江子『CANARY(カナリア)』
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