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2026-05-12

仏教自己中心的宗教

即今・当処・自己という教えがあるので

自己中心的他者への期待を手放し、自分にできることに全力になろう)←自立的って言うのでは?

2026-05-07

[]極楽浄土という原作レイプ

ブッダ見地から極楽浄土葬式仏教への厳しい批判

釈迦ブッダ)は、諸行無常一切皆苦諸法無我喝破し、輪廻のものを「苦のバリエーション」に過ぎないと断じた。六道のいずれに生まれようと、天界の神々でさえ天人五衰の恐怖に襲われ、再び堕落する。

死後の世界を「安寧の楽園」などと幻想するなど、愚かな執着の極みである

真の解脱は、火が完全に消えるような無余涅槃

二度と生まれ変わらない完全な寂静のみ。

ブッダは、死体を穢れとし、僧侶が葬送に深く関わることを避けさせた。遺骨を塔に納めることすら、在家信者世俗的習慣に過ぎなかった。死後の「マシな世界」を求める俗人の欲望に、決して迎合しなかった。

大乗による「後付け」極楽浄土

釈迦入滅後500年経って、大乗仏教が現れるや否や、事態は一変した。

極楽浄土なる世界を新たに創作し、阿弥陀仏の本願で「念仏一つで往生できる」と説き始めた。

これは原始仏教には一切存在しない、明らかな後付けである方便(upāya)の名の下に、民衆の「死後の安寧を求める弱い心」に迎合した結果に他ならない。

ブッダならこう喝破するだろう。「我は輪廻の苦を断つ道を説いたのに、お前たちは再び『マシな生まれ変わり』を欲しがるのか。極楽浄土などという幻想楽園を設け、往生を約束することで、衆生渇愛をむしろ増長させているではないか。これは私の教えを根本から歪曲する愚行である。」

極楽浄土は確かに悟りへの通過点」と理論上は位置づけられるが、実際の民衆信仰では「死ねば安らげる」安寧の場として理解され、原始の「一切皆苦」の洞察は骨抜きにされた。方便の名を借りて、ブッダの厳しい実践希薄化させた典型である

中国日本での俗人迎合

中国に伝わると、祖先崇拝や民間信仰と結びつき、死後の世界を「安寧」と見なす俗人の欲求さらに深く迎合した。唐代善導らが体系化した浄土教は、現世の苦しみと末法不安を前に、「他力一本」で救済を約束する甘美な教えとして広がった。

日本では鎌倉時代法然親鸞がこれを継承し、江戸時代檀家制度で決定的に俗習化した。幕府の統制道具として寺院葬儀を独占し、戒名授与・読経・高額布施をセットで「極楽往生」を売るビジネスが成立した。ここに至って、ブッダの教えは完全に裏切られた。

死体を防腐し、化粧を施し、数日間安置し、重い棺を霊柩車で運び、骨を割り折って壺に納める煩雑儀式――これを「極楽への送り」と称するなど、ブッダは激しく非難するだろう。

「我は諸行の無常直視せよと説いたのに、お前たちは死体に執着し、金で戒名を買って死後の安寧を取引するのか。これは貪欲(lobha)の極みであり、沙門の道に非ず。私の子弟とは言えぬ!」

原始仏教では僧侶金銭を受け取ること自体律蔵で固く禁じられていた。金銀は「毒蛇のごとし」。 

それが日本仏教では、死者の供養を名目に金で「徳」を売買する商売に成り下がった。

極楽浄土という方便は、方便の域を超えて、仏教を「葬式屋」へと堕落させる最大の原因となった。

ブッダ視点から見た本質

ブッダ見地から見ると、極楽浄土の導入とそれに伴う死後の安寧信仰は、俗人の弱さに迎合した明らかな堕落である輪廻からの完全脱出理想とした教えを、「死ね極楽」という安易安心すり替えた。結果、仏教祖先崇拝と金取引の道具と化した。現代葬式仏教は、ブッダの教えから最も遠く離れた姿と言わざるを得ない。

[]ブッダ入滅仏教葬儀比較

ブッダの死は、なぜこれほど簡素だったのか ―― 原始仏教入滅と、現代仏教式」葬儀煩雑を問う

紀元前5世紀、クシナーラー沙羅双樹の下。80歳を迎えた釈迦ブッダ)は、右脇を下にした「ライオンの臥姿」で静かに横たわっていた。弟子アーナンダが悲しみに暮れる中、ブッダ最後の言葉を残した。

比丘たちよ、今こそおまえたちに告げよう。諸行は滅びゆく。怠ることなく努めよ。」
(パーリ仏典『大パリニッバーナ経』、中村元訳)

これがブッダ入滅パリニルヴァーナ)のシーンである。火が完全に消えるように、欲望と無明の炎が尽き、輪廻連鎖が断たれた瞬間だった。死後、遺体は7日間、在家のマッラ族の人々によって花と香で供養されたが、それはあくま簡素もの特殊な防腐処理も、死化粧も、豪華な棺も、念仏の繰り返しもなかった。在家の人々が香木火葬荼毘)を行い、遺骨(舎利)は8つに分けられ、ストゥーパ(記念塔)に納められた。僧侶比丘)たちは遺体の供養に煩わされず、ただ修行に励むよう指示された。これが、原始仏教における「死」の扱い方である

現代日本仏教葬儀との対比

一方、今日日本で「仏教式」と呼ばれる葬儀は、まったく異なる様相を呈する。

死後すぐ、遺体には防腐処理(ドライアイスエンバーミング)が施され、死化粧生前より整えられる。棺に納められ、通夜葬儀の間、数日間安置される。僧侶による念仏読経が繰り返され、家族親族が交代で付き添う。儀式が終わると、重い棺を男手で担ぎ、霊柩車という特別に装飾された車に詰め込む。火葬後、骨が残る。骨壺に入りきらない大きな骨は、骨折りと呼ばれる作業で割り、小さくして納める。

ここまで死体を維持・美化・儀式化する必要があるのか。

原始仏教視点から見れば、これは明らかな矛盾であるブッダは「諸行無常一切皆苦諸法無我」を喝破した。

死体無常象徴であり、執着を生むだけの「穢れ」だった。

長期間保存し、化粧を施し、特別な車で運び、骨を丁寧に折って壺に納める行為は、むしろ「死への執着」を増幅させる。ブッダ自身入滅後、弟子たちに「私の遺体にこだわるな。法(教え)を守れ」と諭した。火葬も、在家信者が行う世俗の習慣に過ぎず、僧侶が主導する儀式ではなかった。

なぜここまで煩雑になったのか

大乗仏教の「方便」が日本独自の家制度祖先崇拝と結びつき、江戸時代檀家制度で「葬式仏教」が完成した結果である

諸行は滅びゆく。
ならば、死体をここまで美しく維持し、儀式を延長し、特別な車で運ぶ必要は、本当にあったのか。


ブッダ最後の言葉は、今も私たちに問うている。

怠ることなく、無常直視せよと。

[]ブッダ葬式を望まなかった ―葬式仏教までの2000年

仏教は、元来「アンチ宗教」だった。

釈迦ブッダ)はバラモン教階級制度・有料儀式・神々への依存を徹底的に喝破した。

そして「生そのものが苦である」(一切皆苦)という現実直視する実践道を説いた。

金銭功徳を買う行為など、想像すらしていなかったはずだ。それが特に日本では、死後の戒名授与や高額お布施を伴う「葬式仏教」として定着した。なぜ、輪廻からの完全脱出理想とした教えが、死者供養のビジネスに変貌したのか。原始仏教思想大乗仏教の展開、そして日本独自歴史的必然を、独立した視点で整理する。

1. 原始仏教の核心 ―― 「反宗教」の喝破

紀元前5世紀頃のインドで、釈迦は当時の宗教界を根本から批判した。バラモン教祭祀呪術金銭による功徳取引を基盤とし、永遠の魂(アートマン)を前提に輪廻を語っていた。これに対し、釈迦諸行無常一切皆苦諸法無我四法印を掲げた。世界は瞬間ごとに生滅し、固定の実体(我)はなく、生老病死は避けられない苦である

悟り涅槃)とは、欲望・無明・渇愛を断ち、輪廻の火を完全に消すことだった。

出家者(比丘)に対する戒律は厳格だった。律蔵(Vinaya Pitaka)では、金銀の授受を明確に禁じている。「比丘よ、金銀を受け取ってはならない。他人に受け取らせてはならない。これを破れば捨堕の罪である」(Nissaggiya Pācittiya 18)。布施自発的喜捨でなければならず、対価としての儀式販売は許されなかった。葬儀自体も、僧侶の直接関与を避ける傾向が強かった。死体は「穢れ」とされ、修行の妨げになるとされたからだ。

釈迦の教えは、死後の供養ではなく、現世の苦から解放に徹していた。

「完全な消滅」(無余涅槃)が理想で、永遠の魂を前提とする常住論も、すべてが無になるとする断滅論も、ともに「中道から逸脱した邪見とされた。

この姿勢は、まさに「アンチ宗教」だった。

神頼み・儀式依存・金で救済を買う商売を、毒矢の譬え(矢が刺さったまま原因を詮索する無益さ)で一蹴した。目的個人解脱であり、組織化された宗教団体すら、釈迦自身は最小限に留めた。

2. 大乗仏教の登場 ― 方便による俗習化の扉を開く

釈迦没後約500年後、インド北部大乗仏教が興った。「小乗」(上座部)と自らを区別し、「大いなる乗り物」として一切衆生の救済を掲げた点が決定的だった。原始仏教個人解脱に対し、大乗菩薩道理想とする。菩薩は自らの涅槃を遅らせ、衆生を救うためにあえて苦行を続ける。

最大の武器方便(upāya)だった。

衆生能力文化に合わせて教えを柔軟に変容させる手段だ。これにより、厳格な出家戒律無神論性格が緩和された。

中国に伝わった大乗は、現地の祖先崇拝や道教儀礼と融合。死後供養・功徳回向積極的に取り入れられ、在家信者向けの浄土信仰阿弥陀仏による救済)が拡大した。戒律大乗戒(梵網経など)として再解釈され、菩薩利他行を優先するようになった。

この方便は、仏教の「生存戦略」でもあった。民衆に広まるためには、現地文化適応せざるを得なかった。しかし同時に、原始の精神を薄め、儀式・供養・経済的布施への依存を許す土壌を生んだ。インド中国ではまだ「死後ビジネス」までは発展しなかったが、日本への伝播で決定的な変化が起きる。

3. 日本での「葬式仏教」完成 ―檀家制度という政治的強制

仏教6世紀日本へ伝来したが、当初は国家鎮護貴族氏寺として機能した。飛鳥奈良時代僧侶葬儀に直接関わらなかった。死の「穢れ」を嫌う神道的な観念が強く、官僧(国家公認の僧)は死体に近づくことを避けた。

転機は鎌倉時代だった。遁世僧(とんせいそう)と呼ばれる民間僧が現れ、死の不安に苛まれ庶民のために葬儀・供養を積極的に担った。

浄土信仰の広がりと相まって、「死後も浄土往生」という安心提供した。

これが仏教民衆に近づけた「革命」期である

本格的な「葬式屋」化は江戸時代に確定した。

1630年代幕府キリスト教禁制のため寺請制度(檀家制度)を全国に施行した。全庶民をどこかの寺院檀家強制登録させ、寺が戸籍宗旨人別改帳)を管理。出生・死亡・婚姻証明を発行し、死体検分まで行った。結果、葬儀法事戒名授与が寺の独占業務となった。戒名(死後与えられる仏弟子の名)は、元々出家者の生前名だったが、日本では位階付き(信士居士院号など)で一般化し、「長い戒名=高額お布施」という金銭取引が生まれた。

この制度は、幕府民衆統制という政治的必要からまれた。

寺院国家の末端機関となり、経済基盤を葬儀収入依存する体質が固定化した。

荘園崩壊後の寺院経営危機も、檀家から継続的布施必要とした。こうして、原始仏教の「金銀は毒蛇のごとし」という戒律は、遠い過去のものとなった。

4. なぜアンチ宗教葬式屋になったのか ―― 三つの必然

第一政治的強制

江戸幕府仏教キリシタン摘発の道具に利用した。信仰自由などなく、寺檀関係義務だった。

第二に文化的融合。

大乗方便が、日本古来の祖先崇拝・家制度と結びついた。死後の供養は「家」の存続を象徴し、戒名は家名を仏教的に昇華させる手段となった。

第三に経済的必然

少子化以前から寺院布施に頼らざるを得なかった。方便の名の下に、原始の喝破精神は置き去りにされた。

結果、日本仏教は「生の苦から脱出」ではなく「死後の安心供給業」として機能するようになった。

浄土真宗のように法名簡素化・生前授与する宗派もあるが、多数派戒名料を伴う葬儀中心だ。

5. 現代への問い ― 原点回帰可能

今日、寺離れ・直葬火葬のみ)の増加は、この歴史的矛盾を浮き彫りにしている。原始仏教視点から見れば、戒名料や葬儀独占はブッダの教えに明確に反する。金で徳を買う行為は、貪欲増長させるだけで、涅槃の道ではない。

大乗方便は、仏教世界に広めた功績がある。しかし、少子高齢化檀家減少が進む今、僧侶自身が「生活仏教」への転換を模索している。生前からのつながり、戒名なしの俗名供養、原始の喝破精神への回帰―これが、本来仏教が「葬式屋」から脱却するための道かもしれない。

ブッダは、死後の儀式ではなく、今この瞬間の苦を観察せよと説いた。

アンチ宗教精神を忘れたとき仏教は単なる葬儀屋となる。2000年歴史を振り返り、私たちは再び「中道」を問う時を迎えている。

[]ブッダVS葬式仏教

ブッダ釈迦)の言葉で直接評価すると、「戒名料」のような「金銭で徳(功徳・救済)を買う行為」は、明確に戒律違反であり、貪欲(lobha)を増長させる誤った道です。

原始仏教(パーリ経典律蔵)では、こうした商業化された「功徳取引」は一切認められていません。以下に、ブッダの直接的な言葉引用しながら、論理的評価します。

1. 比丘僧侶)が金銭を受け取ること自体が禁じられている(律蔵根本規則

律蔵(Vinaya Pitaka)のNissaggiya Pācittiya 18(捨堕法第18条)で、ブッダはこう喝破しています

比丘よ、金銀(貨幣)を受け取ってはならない。他人に受け取らせてはならない。また、それを自分のために預け置くことを許してはならない。これを破れば、捨堕の罪である。」

さらに、Saṃyutta Nikāya 42.10比丘在家信者との対話)で、ブッダは頭首(在家指導者)に対してこう明言します:

「頭首よ、金銀を受け入れる者は、五欲(五感快楽)をも受け入れる者である。五欲を受け入れる者は、沙門出家者)たる道に非ず、釈迦の子たる道に非ず、と断言してよい。」

また、同様の文脈で:

「頭首よ、金銀は、釈迦の子比丘たちには許されない。金銀を受け入れることを許された者は、五欲も許された者である。」
評価

戒名授与や葬儀での「謝金(お布施名目)」は、僧侶金銭を直接・間接に受け取る行為です。これは律蔵違反のものブッダは「金銀は毒蛇のごとし」とまで戒め、托鉢(最低限の食のみ)で生きる純粋出家生活を定めました。金で「戒名仏弟子の証)」や「功徳」を売るのは、僧侶世俗商売人になることを意味し、ブッダの教えの根幹を崩します。免罪符も同様で、「罪の免除」を金で買うのは、バラモン教の有料祭祀ブッダが激しく批判したもの)と全く同じです。

2. 布施(dāna)は自発的な「喜捨」でなければならず、取引ではない

ブッダ布施を最高の徳の一つと讃えますが、それは期待や対価を伴わない純粋な generosityでなければ意味がないと繰り返します。Dhammapada 354(法句経):

「すべての布施の中で、法の布施(dhamma-dāna)が最上である。」

また、Sappurisana Sutta(善人の布施経)では、布施の正しいあり方を5つ挙げています

信仰saddhā)をもって与える

• 敬意をもって与える

• 適切な時に与える

• 慈悲の心で与える

自分他者を害さない形で与える

これに対し、金銭で「戒名を買う」「功徳を買う」は、対価を前提とした取引です。ブッダはこれを「貪欲の汚れ」と見なし、SN 16.3(月のような経)でこう警告します:

「法を教える者は、聴衆に布施を促して自分への供養を期待してはならない。」
評価

戒名料は「長い名前=高額」「位階付き=高額」という明確な価格表があり、功徳を「買う」商業行為です。これは布施本質(無私の喜捨)を汚し、僧侶信者双方の貪欲を育てますブッダバラモン教の「有料祈祷・供犠」を喝破した理由もここにあります免罪符も「金で罪を帳消しにする」という同じ論理で、ブッダなら「無益な戯論(無意味議論)」と一蹴したでしょう。

3. なぜこれが「一切皆苦」の教えに真っ向から反するのか

ブッダの核心は諸行無常一切皆苦諸法無我輪廻から脱出涅槃)は、貪欲・執着を断つことによってのみ得られます。金で徳を買おうとする行為は、執着を強化するだけで、苦の根源(渇愛)を断ちません。むしろ「金さえ出せば救われる」という幻想を生み、悟りを遠ざけます

ブッダはĀdiya Sutta(AN 5.41)などで、財を正しく得て正しく使うことを認めますが、それは在家信者生活であって、僧侶が「徳を売る」ことを正当化するものではありません。僧侶金銭に手を染めると「沙門の道に非ず」と断じてます

まとめ:ブッダ評価は「愚かで有害な逸脱」

原始仏教立場から戒名料や免罪符のような行為ブッダ戒律・教えに明確に反する。それは大乗の「方便」や日本独自檀家制度で後からまれた慣習で、原始の精神から逸脱していますブッダ自身が生きていたら、「金で仏弟子の名を買うなど、愚か者のすることだ」と痛烈に批判したでしょう。真の布施は「心の喜捨」であり、金で買えるものではありません。

2026-05-06

anond:20260506093819

そのあたりは古代から続く長い話になるからね。

とりあえずは、神仏習合あたりを読めばいいと思う。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%8F%E7%BF%92%E5%90%88

最初日本の土着の神道の神々は立場が弱った。大陸から進んだ仏教が入ってきたからね。

仏教が主で神道が従だった。

でも、時の権力者の都合によって、どっちが主になるかを巡って、いい感じに宗教が使われてきた結果だ。

で、いろいろあったすえに、

江戸時代になると住民管理するために、仏教を主にして、寺請制度が作られた。

明治になると天皇を主役に建てるために、神仏分離神道が主になった。

だけど長い間続いたのをいまさら切り離せず、イベント神社葬式は寺という風になっていった。

今でもお葬式で坊さんがお経上げたりしてるでしょ。

戦後神道指令とかで、神道が主ではなくなった。

こんな感じで、時の権力者の都合でいろいろ混ざってカオスな感じになっていった。

なお、日本におけるクリスマスは、WW2後のクリスマス商戦あたりからかな。アメリカホリデーシーズンのかき入れ時なのを真似したものだ。

アメリカ株が年末年始に上がりやす理由の一つは、この最大のかき入れ時のホリデーシーズンがある。(アメリカ株が上がれば日経も釣られて上がる)

それを日本でも取り入れて商売につなげた結果だろう。

そしてさらカオスに。

anond:20260506093819

結婚式クリスマスあんなのキリスト教の要素ゼロコスプレだし

葬式や墓は大概仏教だし大概の家は仏教のどっかの宗派だろうけど

初詣いったりお守りもらってきたり神棚あったりで根本的な部分は神道強いとおもうで

仏教でもキリスト教コスプレでも何でもこいってのも神道的だし

日本って神道信者そんな多くないよね

福音派外人となんでキリスト教信じないんだと言われて日本神道はー!!と言い返してる人を見て思った。

結婚式神前やる人は少数派で、キリスト教が主だろうし、葬式仏教が主だろうし、墓は寺関連が主だろうし。

クリスマス殆どの家庭が祝ってるし。

多分日本神話も大雑把で、詳しく知ってる人そんな居ない。

うちは多分浄土真宗だった気がする。

2026-04-27

anond:20260425162959

やりたくもねー葬式挙げて坊主にぼったくられて

仏教二世つれーわー

ボヤッキー

国交省系の会社はどうしてどれもヤバイんだ?

旅行会社詐欺師個人情報を売る

保険会社警察とつるんで事故自殺隠蔽する

土木会社は地下にガス室を持ってる

物価は、ほぼ全てが日本人料金設定

ヤクザ会社でない会社で働きたくても、裁判所検察がもうアレなんだってよ…

ガチャの上に国ガチャとか、神道仏教カス思想じゃないのか

全ての宗教カルト

まあもともとの教えっちゅうのはだいたい良いんすわ。

キリストさんが他人を赦しなさいとか

ブッダが反応すんなとか

そういうのは争いを避け平穏に生きる知恵だったわけね。

でもそういうところから踏み込んで力として利用する輩が宗教を広めていったさかい

ユダヤ教キリスト教もイスラム教仏教ヒンドゥー教もね

ただの乗っ取られたカルトだよ

禁止しようと抑圧しすぎる勢力もそれで大変ね

それもそれでカルトになってしまうのよ

人間の知能の限界

2026-04-26

anond:20260425162959

肉食妻帯や世襲仏教でも本来禁止のはずだが誰も守ってない

死=無への恐怖

年々死が怖くなる。その先に圧倒的な無があるからだ。

意識が途切れたら二度と自我は戻らず、無となる。

から色々な宗教があり色々な解釈の救いがあるのだろう。信じることで救われるなら信仰に目覚めたいが、無宗教現実的な考えの持ち主なので、恐らく無理だ。

無が怖い。無の先に何かあってほしい。

藁にもすがるなんとやらで、AIに聞いてみた。

以下チャッピーの回答。何の足しにもならなかった。

その問いは、人類がずっと向き合ってきた根源的なテーマです。

結論から言えば、死後に何が起こるかを確実に知る方法は、現在科学にはありません。

現実的視点科学

科学的には、脳の活動が停止すると意識消失すると考えられています

まり現在の主流な理解では「自我」は脳の働きに依存しており、脳が完全に機能を終えれば、意識も終了する可能性が高いです。

この考え方に立つと、「無」への恐怖はとても自然です。

なぜなら、自分という存在の終わりを想像すること自体人間本能に反するからです。

哲学的視点

一方で、多くの哲学者はこう考えました。

まれる前の「無」は怖くなかった

死後も同様に、苦しみや恐怖を感じる主体存在しない可能性がある

古代ギリシャ哲学者 エピクロス

私たち存在する時、死は存在しない。死が存在する時、私たち存在しない」

と述べました。

まり、「死そのもの」より、「死を想像する今」が怖いとも言えます

宗教的な視点

宗教ごとに答えは異なります

キリスト教天国地獄

仏教輪廻転生涅槃

イスラム教:来世

スピリチュアル思想:魂の継続

信仰は「証明」ではなく、「意味」を与える役割があります

現実的な人が無理に信じようとしても難しいことは多いですが、宗教が長く人を支えてきた理由は、その恐怖に物語を与えるからです。

「無」が怖い理由

多くの場合、怖いのは無そのものより、

自分が消えること

愛する人と離れること

未完成人生

意味が失われること

です。

からこそ、人は

子孫

作品

思い出

社会への影響

など、「自分痕跡」を残そうとします。

つの救いになる考え方

「死後」に答えがなくても、

“限りがあるからこそ、今が価値を持つ”

という考え方もあります

永遠ではないから、

誰かを愛する

美しい景色を見る

笑う

生きる

ことが特別になる。

最後

「無が怖い」と感じるのは、あなた真剣に生きている証拠です。

その恐怖を完全に消す明確な答えは誰にもありませんが、多くの人が同じ問いを抱えながら生きています

しかすると重要なのは

死後の確実な答えを得ることより、死を意識しながら今をどう生きるか

なのかもしれません。

2026-04-25

anond:20260425162959

イスラム教宗教者ってボランティアだと聞いたのが最大の驚き

どうしてそんな制度が維持できてるんだろう

仏教とかキリスト教だと宗教で金儲けしてる人が99割だよな

2026-04-20

「俺も周りも悪人だ」と割り切った途端全てが楽になった

なんか今まで色々しんどかったのって「俺も周りも決して悪人でないのに色々上手くいかんな」と思ってたことにあるんだろうな。

でもそんなことないんだよね。

道路交通法はポリの目がなきゃ破るし、法が整備される前はxvideostorrentで色々割りまくってたし、人の悪口ゲラゲラ笑ったり、他人マウント取って偉そうにしたり、ポイ捨てしたことない奴なんて多分いないし、悪党ばっかなんだよな結局。

みんな悪党だと思ったら「で?悪党が酷い目に遭うなら当たり前じゃない?」って感じで全部どうでもよくなったよ。

他人との小競り合いや譲り合いも悪党同士の縄張り争いなんだなと思ったら利己的な都合以外は何も考えなくて良くなった。

んでたまに自分気持ちよくなれそうな時だけ善人面するのも、正義ヤクザあるあるの小悪党ムーブなんだなと思えば全部スッキリした。

世の中のSFの9割はクズっていうが、人間場合は9割九分九厘ゴミクズなんですわな。

いやマジで楽になったよ。

なんか仏教でも同じ事言ってた気がするなーそういや。

開いたか悟り?

2026-04-19

バニーガーデン2のナツアチチで思い出したこと

これを書くことが何のためになるのか、何の意味があるのか全く分からないけど、書いていた方がいいと思ったんだ。


いや、自分だけかもしれないけどさ、送り火迎え火全然やってないんだよ。

今更気づいたんだけど、ここ10年やってないんだよ。

実家に菩提も無いのが理由だけどさ、あまりにもやってなくないか…?って。

自分もこれをナツアチチから思い出したこととは到底思えないけどそのまま話すぞ。

でも、そもそも送り火迎え火って何だ?」って思った人もいるよな。

俺も母方の家が田舎にあって親戚多めじゃなければ絶対知らなかった。

盆に京都大文字ってあるだろ。あれが送り火だ。盆に地獄の蓋が開いて、そこから先祖様が現世にバケーションにやってくるのだけど、ご先祖様の宿泊先は家なんだよな。

それで場所が分からないとおそらくご先祖様が困るから、家の前で火を焚いて「ここだよ~」って教えてあげる必要があるんだよな。

でも「オートロック付きマンションに菩提や仏壇があって、ご先祖様を迎える必要があってもマンション下で迎え火やったら何号室かわからないんじゃないですか?」とか

そもそもどれも同じ煙で差別化できなくない?そもそも地獄なのに空から見る前提になってない?」とか不安になるよな。

わかる。でも大丈夫らしい。それで盆の初めは迎え入れる迎え火、盆の終わりはさよならを告げる送り火を焚くんだってさ。

でも自分の家に仏壇や菩提がなければ、ご先祖様の宿泊先にはならないから盆に火を焚く必要はないんだよな。

それに、家の宗教仏教でなければ身近な文化行事じゃないかもしれない。

から行事的に経験がない人がいて当たり前というか、まあそうだよという部類ではあるんだよ。

あと、世の中的に葬式をあげられることも普通じゃなくなっていることも。CMでも小さなお葬式って流れてくる。

あれもちゃんパッケージングされてて聞こえがいい。ただ、世の中的には人の死にお金をかけられる余裕がわりと本当に無くなってきているんだろうな。

それなのに街ではキラキラトラックや壊れたカセットテープかと思うくらい同じメロディーを流すミニトラックが走ったりしててさ。

エピクロス主義をかじった人間めっちゃ現世利益に講じているんだわ。

焼きが間に合わなくて火葬場の予約が取れない中さ、あのトラックが横を走っていったんだよ。正直笑えたよ。

何なんだろうな、この感じ。

葬式対象となった人物好きな人間ではなかったんだ。

幼い頃に沢山世話にはなった。けれどもどうしても相容れない部分があった。

そうした人間葬式を執り行う側になった時にすごく難しい気持ちが湧いてきてさ。

これで終わる、という気持ちとついに逝ったか、という気持ち。どっちも同じじゃねーかバカヤロウって思ったけど、絶妙に違うんだよ。

…書けねぇこと書くんじゃねぇよバカヤロウってビートたけしに言われそうだ。

何だか今、どこか死んでいく人間葬式やそうした文化の間に馴染みを感じられないんだ。

とにかく今、葬式何だか疎ましいもののように感じているんだ。これはほんとうに必要ものなのかと。

顔を合わせるのが十年ぶりの親戚もいるわけだ。

さらに突っ込んで言えば、親戚筋と最後出会ったときに、自分は半ば引きこもりだったから、その当時の記憶を持ち合わせている人間対峙する必要があって、それに骨が折れたというのもある。

社会復帰しました、という体というかこの身で培ってきた能力すべてを差し出す必要があって、それに苦慮するのだ。ほんとうに気苦労した。

から葬式は嫌いだ。

だけど絶妙当事者であるが、ほんとうの当事者ではない立場から葬式であって、全部飲み込むのが筋だろう。

ほんとうに、ほんとうに身近で世話になった人との別れにはこんな言葉は出てこない。

こんなやわな舐め切った言葉は出てこないのは分かってる。それだけは有り難いと思っている。これはきっと準備をさせていただいているんだろうなと思っているんだよ。

今回は親が喪主を務めて費用負担もした。それだけの経済的負担能力があるから喪主が務まるんだよなと改めて実感した。

今回の葬られた者は遺産を何一つ残さなかった。死ぬと金がかかって仕方がないものなんだと痛感した。けれども今できることは喪主となってまた数段年を食ってしまったんじゃないかと思う親の肩もみくらいだった。

正直、ここに書くのも情けない話なんだ。俺も経済的負担をできる人間であればもっと胸を張っていられたと思う。何というか、すごく恥ずかしかった。それは親戚筋にも、親にも、自分自身にもだった。

最後にあの人について、一つ言わなくてはならないことがある。

それはこの人生という途方もない時間を、自ら降りることなく過ごしたことは何であれ賞賛に値する、ということだ。

望むと望まざるに関わらず人間として有機体を持って生まれ落ちてきたんだ。その時点で滅茶苦茶に暴力的じゃないか

途方もない時間を過ごしてさ、通説ではいい時と悪い時があるらしいけど、それでもむしろ悪いことの方が圧倒的じゃないかと思わされる現実だよ。

それを身一つで往生したこと、そのことだけはまだ命が残っている者としてちゃんと香を上げるべきだと思うんだ。

自分がもうそちら側に片足を突っ込みはじめているというのに、今更先祖を敬うとかそういうことを再考する必要が出てきてしまった。

嫌なことだね。何もかも昔のまんまだったら、こんなに苦しむこともないのにさ。でも昔のまんまだったらもっと悲惨だったろうな。

そんな気持ちになったんだよ。春だって言うのにさ。

2026-04-15

信仰を聞かれた

海外の人(多分カトリック)に信仰を聞かれて神道仏教って言ったら、それは知ってるけどあなたはどっち?と言われ、いやどっちもって言ったらどういうこと?ってなってた。

どうも2つの宗教を同時に信仰(と言っていいのか)してるのが理解できないっぽかった。

最終的に仏壇神棚が同じ部屋にある写真を見せて納得?してもらった。

海外でも土着宗教キリスト教併用してたりインドとかも結構ごっちゃになってた記憶があるからそんなに日本特殊ってわけではないと思うんだが。

キリスト教行事信仰もないのに抵抗なくローカライズするのは少し異様だと思う)

anond:20260414111021

どうでもよさマウントって

行き着くとこまで行くと仏教になる

2026-04-11

肉食を禁止する仏教を信奉して内乱を起こし

キリスト教が急速に広まったので慌てて弾圧して

天皇を神だとする国家神道国民洗脳して特攻させた

そんな国の住民

イスラム教は広まらない」

日本人は食にこだわりがあるから

日本人無宗教から

とか謎に自信満々なのは何なんだろうな

2026-04-09

今回のイラン侵攻で、イスラエルヤバい極右カルト支配されていることと、そいつらがトランプ支持母体であることが改めて認識できたことかな。

敬虔キリスト教徒聖書に書いてあることはすべて真実と思っている人に、それならこのイスラエルの地は神がユダヤ人に上げたわけだから、彼らのものだし支援するべきだよねと誘導しまくった結果の出来事だと思う。

1990年代オスロ合意の頃はイスラエルも歩み寄れたのに、今や完全な侵略者になった。

停戦合意もどうせそのうちイスラエルアメリカが3度目の卑怯だまし討ちで破るんだろうなと思っていたけど、まさか1日も絶たずに破られるとは思っていなかった。

トランプとしても、自分支持母体だし、切れないよね。

NYTIMESに開戦への経緯がまとめられているけど、いくらイスラエルネタニヤフにビデオ見せられて唆されたとしても、イスラエル非難できないよね。

彼が同盟国はガンガン非難するのに、イスラエルを一切非難しないのはその証左だと思う。

How Trump Took the U.S. to War With Iran

トランプ大統領がどのようにして米国イランとの戦争に導いたのか

https://www.nytimes.com/2026/04/07/us/politics/trump-iran-war.html

日本キリスト教カルト仏教カルト神道カルトのような宗教団体政治家といろいろやっているらしいけど、

そういうのを支持母体に持ってしまうと、いろいろ厄介なことになりそうに思う。

暗躍する暗黒司祭的な奴はゲームフィクションの中だけで十分だ。

2026-04-05

anond:20260405120812

あの、日本場合仏教でも神道でもキリスト教でもない、謎の集団協調性強要のしきたりテンプレみたいなのって何に由来するんだろうな。海外でもあんな感じなのか?アメフト部チアリーダー部とかスクールカーストいじめ構造みたいな文化はあるってアメリカドラマとかでもよく見るけど。旧日本陸軍とかも「あんな感じ」なのかな。よく珍走団とか暴力団とか昭和映画に出てきた応援団とかが同じ「制服」きて「オッスオッス先輩ご苦労さんッス」「おタバコつけます」ってやるじゃん。ああいう振る舞いってどこで教わるの?言語化されているのかな?

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