雄別鉄道の廃線跡
国内の石炭産業が衰退の一途を辿る中、親会社の雄別炭礦では1969(昭和44)年に茂尻炭鉱(赤平市)で発生したガス爆発事故(これにより閉山)が引き金となり資金繰りが急激に悪化、雄別炭鉱も1970(昭和45)年2月27日に閉山、同年4月24日に雄別炭礦は解散しました。
雄別鉄道は雄別炭鉱閉山直前の1970(昭和45)年2月5日に親会社の雄別炭礦に吸収合併された後、鉄道線は同年4月15日の運行を以って廃止されました。廃止から52年が過ぎた2022(令和4)年5月某日、雄別鉄道の廃線跡(一部)を巡りましたので、その時の様子を炭鉱の遺構と併せてご紹介します。
▼雄別鉄道(雄別本線)は国鉄(現JR北海道)・釧路駅に隣接して発着場所がありました。赤丸内は…。
▼ホームと改札口を結ぶ地下通路の階段部分。現在も線路脇に残されています。
▼雄別鉄道の廃線跡は釧路駅~阿寒駅間の大部分がサイクリングロードに転用されています。
▼途中にあるのが…。
▼鶴居村営軌道が雄別鉄道線上をオーバークロスしていた場所。
▼サイクリングロードの脇には跨線橋の橋台跡が残されています。
▼オーバークロス地点を後にします。
▼高規格道路建設の影響か、サイクリングロードは所々で迂回や分断を余儀なくされています。
▼こちらは旧阿寒町の中心部にある中央公園。かつて阿寒駅があった場所です。
▼すぐ近くの商工会館の敷地内には…。
▼雄別鉄道を偲ぶ記念碑が設置されています。
▼1980(昭和55)年建立。雄別鉄道の歴史も記載されています。
▼廃線跡は旧阿寒町の市街地を貫き…。
▼市街地を抜けると、廃線跡は舌辛川左岸沿いの道路(ダート道)に転用されています。
▼原野の中を進む廃線跡。
▼途中、鉄道時代のものを転用したと思われる橋があります。2.0tの重量制限あり。
▼そして画像の正面が…。
▼古潭駅跡。駅の痕跡を示すものは何もありません。
▼道路そのものは、いかにも駅前然としています。布伏内郵便局も現役で営業中。
▼古潭駅周辺の布伏内地区は…。
▼炭鉱従事者の住宅が数多く建設された場所でした。
▼「炭住」と呼ばれた画一的な建物群…。
▼その一部が今も残されています。
▼さて、廃線跡に戻ります。こちらは国道274号線の橋上から見た廃線跡。
▼古潭駅の先、新雄別駅、真澄町駅と続くのですが…。
▼残念ながら、それらの痕跡も見つけることはできませんでした。
▼道道222号線から廃線跡方面を望む。
▼真澄町駅~雄別炭山駅間に残されている橋梁。
▼周辺は草木に覆われています。
▼引き続き道道222号線を北行。ガソリンスタンド跡や…。
▼雄別炭鉱の総合ボイラー煙突跡…。
▼雄別購買会跡を過ぎると…。
▼同じ形をした構造物が目に飛び込んできます。
▼坑木運搬用軌道の橋台だそうです。
▼「雄別炭砿記念碑」。ここに間違いなく炭鉱という人の営みがあった証。
▼そしてこちらが…。
▼雄別鉄道(雄別本線)の終点、雄別炭山駅です。
▼木々が生い茂る中にホーム跡が残っています。
▼他にも雄別炭山駅周辺には…。
▼坑口と思しき構造物や…。
▼建物の土台と思しきコンクリートが残されています。
▼さらに北行すると、病院跡や…。
▼浴場跡が残されています。なお、雄別鉄道はかつて…。
▼雄別炭山駅から先、大曲選炭場や大祥内鉱へも線路が延びていたそうですが…。
▼鉄道の遺構を見つけることはできませんでした。
▼ところ変わって、こちらはJR北海道・新富士駅から帯広方面に約1km進んだ地点。
▼もう一つ、雄別鉄道の遺構を見にやって来ました。
▼雄別鉄道は雄別本線から埠頭線へ貨物列車を直通させるため、鶴野線(鶴野駅~新富士駅間)を開業します。
▼その際、国鉄の線路を跨ぐため、跨線橋を設けて乗り越えていました。これはその跨線橋の橋台です。
▼鶴野線開通は1968(昭和43)年。その僅か2年後に雄別鉄道は炭鉱閉山と運命を共にすることになります。
訪問日:2022年5月
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