はてなキーワード: 難波とは
来月後半、2泊3日の旅程。
1日目は奈良で柿の葉寿司とかき氷食べつつ数カ所観光して、夕方大阪入り。
2日目はホテルでモーニング取ったら、お昼から夜までミナミの北側辺りでガッツリ拘束される用事があるので、終わったら串カツ屋で飲むかーくらいに思っていたり。
3日目はお昼くらいまで難波~アメ村辺りをぶらついてから発つ予定。
ちなホテルは梅田にも難波にも近い、御堂筋沿線の某有名ビジホを素泊まりで予約。
(モーニングは別料金なんで、2日目も食べない選択は全然アリ)
この予定で、以下の名物を食べに行きたいんだが、どう食べ歩くか本気で悩んでいる。
最低限、食い過ぎで腹壊さず食い倒れたいんだが、どうしたものか。
かなり古くからオノゴロ嶋が淡路島の近くに所在すると信じられていたことを示すものとしては、
『古事記』下巻にみえる、仁徳にんとく天皇が淡路島から望見したときに詠んだ歌が挙げられます。
「おしてるや 難波なにわの崎よ 出で立ちて 我が国見れば 淡島あわしま おのごろ島 檳榔あじまさの 島も見ゆ さけつ島 見ゆ」
(難波の海岸から船出して、私が治める国を見渡すと、淡島やおのごろ島、蒲葵くばが生える島が見える。遠く離れた島も見える)
この歌は、本文では仁徳天皇が淡路島に御幸して島から遠くを眺めたときに詠んだものとして説明されていますが、
歌詞そのものからすると、難波の海岸から望見して詠んだものととれなくもありません。
○1日目 大阪に移動、夜遊び。
雪も降るなか、ギラついた目で大阪へ。
汚い町並みから急に現れる
まるで異国かとも思える光景、
「テーマパークに来たみたいだ、テンション上がるなあ~」と1人歩く。
歩く速度は通常より遅くなっていた。
軽く1週したのち、入るお店を熟考。
いるお店へと入店。
20分でお願いしようとしたところ、
「初めてなら30分がいいよ~」と言われ
すぐさま30分に変更、既に転がされてる。
調べていた通りムードなど無く、
手でされてそのまま合体。
後々考えるとめっちゃ手抜きだったけど
それ以外が全て帳消しになった。
その後飴を舐めながら天王寺へ。
夕食と寒すぎたため銭湯に行き
今度は胸重視でウロウロ。
途中元カノに似た子がいて迷ったけど
初志貫徹で胸が大きい子に入りました。
・2人目 胸が大きい子 ギャル系
今回は2発目ということもあり
服を○いで勝負開始。
(あれ?1人目の子は服着たままだったな。)
ということに気がつく。
大きい胸を楽しみながら無事完了。
2日目はとあるお店にいこうと思ったが、
新喜劇に変更。
対面するまでどんな子が来るか不明。
飛田では出来ない事もでき、
満足の30分だった。
その後の飛田は断念し2日目は終了。
○3日目
顔のレベル高いと聞いていたが、
流石に飛田ほどではなかった。
計4店舗を回りました。
計8万円くらい?でしたが大満足でした。
振り切るなら天王寺周辺で良かった。
後はもう少し飛田逝ければ良かった。
1人目>>>3人目>2人目>>>4人目
1人目の子目当てでもう1回飛田行きたいくらい顔がタイプでした。
完
幕末から明治にかけて活躍した歌川貞秀(うたがわ さだひで)は、空を飛ぶ鳥の視点で描く「パノラマ地図」のような浮世絵を多く残しています。
大阪の街並みを中心に、遠くに京都や奈良、さらには富士山までを一画面に収めて描くことがあります。
これは「実際に見えるかどうか」ではなく、「日本の名所をひとつの絵に凝縮して見せる」というエンターテインメントとしての演出です。当時の人々にとって、富士山は日本の象徴であり、地図絵の中に描き入れられる特別な存在でした。
大阪港にある天保山は、もともと川の浚渫(しゅんせつ)で出た土を積み上げた人工の山です。これが「富士山に似ている」として親しまれ、浮世絵にも描かれました。
明治時代、生國魂神社の近くに「難波富士」と呼ばれる巨大な富士山型の展望台が作られました。螺旋状の通路を登って景色を楽しむアトラクションで、その様子を描いた絵も存在します。
有名な葛飾北斎の『冨嶽三十六景』の中に、大きな樽(たる)の中から富士山を覗いている「尾州不二見原(びしゅうふじみがはら)」という作品があります。
これは現在の名古屋市(中区富士見町付近)を描いたものですが、西日本の風景として大阪のイメージと重なって記憶されているケースもよくあります。名古屋(尾張)は、平地から富士山が見えるほぼ西の限界点と言われています。
もしご覧になった浮世絵が、大阪の街並みの向こうに富士山が堂々とそびえているような構図であれば、それは当時の絵師が「大阪も富士山も、日本が誇る素晴らしい景色だ!」と盛り込んで描いた、今でいう「コラージュ画」のような作品だった可能性が高いです。
「どの程度、どの頻度で性暴力が起きていたのか」。
これは資料が限られていますが、警察記録・GHQの軍法会議記録・被害者証言からある程度のイメージはできます。
警察の統計(公表されず内部資料に残ったもの)によると、1945年8月〜1946年末で、全国で確認された強姦事件は1,000件強。
ただしこれは氷山の一角で、研究者の推計では 実数は数千〜数万件規模 に上るとされています。
理由:届け出が難しかった(家族の名誉、報復への恐怖)、報道検閲があった、警察も対応をためらった。
進駐初期に事件が多発。
栃木県では「進駐直後、ほぼ毎夜どこかの村で被害が出た」という証言もある。
福島や山形など東北農村でも、進駐軍駐屯地の周辺で住民が恐怖の生活を送った記録が残っている。
「毎日必ず隣町で誰かが」というほど全国一律ではありません。
しかし進駐初期(1945年8〜9月頃)は、各地で“連日のように”事件が起きていた地域もあったことは証言されています。
たとえば:
栃木県足利では、1945年秋に「一夜に数件の強姦事件」が記録されている。
山形県の農村では「夜になると女たちが山に避難した」との証言。
東京や大阪では「暗くなると女性は一人で外を歩けなかった」と回想されています。
被害の恐怖から、女学生が頭を丸刈りにしたり、女性が男装したりするケースも報告されています。
家族や地域ぐるみで「女性を守る防衛体制」を敷いた村もありました。
しかし 進駐初期の特定の地域(特に地方)では、“ほぼ毎日のように事件が起きていた” と言える。
大都市ではRAA設置後に沈静化したが、地方・農村ではしばらく恐怖が続いた。
1945年9月:警視庁の記録によれば、東京23区内だけで 80件以上の強姦事件 が発生。
新宿・池袋・上野など繁華街では、夜間の路上や民家への侵入が多発。
当時の新聞記事(検閲前の内部版)には「夕暮れ以降、女性は一人で出歩けぬほど」と記録されている。
1945年9月〜12月:大阪府警は 120件以上の事件 を確認。
その後RAAが整備され、1946年以降は公式統計上の件数は減少したが、民間への散発的被害は続いた。
1945年10月:京都市内で米兵2名が民家に押し入り、主婦を暴行。住民が通報し、米軍憲兵が逮捕。
京都府警の報告によると、1945年秋〜冬に「数十件」の事件が確認されている。
市街地はRAAが早期に設置されたため、件数は東京・大阪より少ない。
1945年9月〜10月:足利市周辺で「連夜にわたって米兵が村に侵入し、女性が襲われる」事件が多発。
住民は夜になると女性を山へ避難させ、家には男だけが残る体制をとった。
1945年末:米兵が農家に侵入し、娘を暴行。父親が鎌で抵抗したが撃たれて死亡、という証言が残る。
こうした事件は報道されず、警察の非公開文書や戦後の聞き取りで判明。
1945年6月以降(戦闘終結直後):住民の証言によれば、村落単位で多数の女性が被害を受けた。
沖縄戦後の米軍統治下でも、性暴力は継続的に発生し、1950年代以降も基地周辺で問題化。
米軍は兵士の規律維持のため、重大事件については軍法会議にかけています。
1945〜1946年の記録には、強姦・殺人で有罪となり死刑に処された米兵も複数存在。
ただし、すべての事件が裁かれたわけではなく、軽微な場合は処罰が甘い傾向にありました。
東京・大阪など都市部:進駐直後に多発 → RAA設置後に減少。
地方農村:RAAがなく、むしろ被害が深刻 → 夜間避難や男装などで防衛。
沖縄:戦闘直後から大規模な被害 → 占領後も長期にわたり続いた。
米軍の対応:一部の加害兵は軍法会議で処刑されたが、多くの事件は闇に葬られた。
占領期直後の日本(特に1945~1946年)では、米軍による性暴力やレイプ事件は「数日に一度どころか、地域によってはほぼ毎日のように発生した」と言えるほどの高頻度でした。
この年(40代)になるまでずっと繁華街とか人混みが大嫌いだったんだけど、去年転勤で関西に来てから自分はただ東京の街が苦手なだけだったんだと気付いた
三宮も難波も河原町も確かに人は多いし夜の時間帯は酔っ払いだらけだけど、息が詰まるような感じはしない
ふらっと入れる店は少ないし、目的地に着くまでの動作を常にスムーズにしないといけない緊張感がある
そこまで混んでないしサッと隣の改札に移ればいいだけだから
満員ではあるけどスマホ触れるぐらいの余裕はあるし
先週東京に行ったけど、やはり人が多かった
ただ、朝に満員の山手線に乗ったけど、東京で暮らしていたときよりも気分が晴れやかだった
人が多いけど、それがどうした?という感じだった
以前はイライラしていた車内での些細なことも、何故か気にならなかった
もう一度東京に住んでみたら、今度は違う風に生活できるのかなと感じた
ずっと同じ街にいると気づけないことは沢山あるんだと思う
この年で転勤と聞いて本当に面倒くさいと思ったけど、案外悪くないもんだな
・前評判は置いておいて概ね満足であり、造形的に楽しいものが実に多く、特別に何かを楽しもうとしなくてもただ見て回るだけで楽しい体験ができるだろう。ただ天気は超重要。
・予約をするのに万博IDというものを取得する必要がある。ログインするたびにワンタイムパスワードを求められる、チケットを表示するのに数分〜10分程度待たされる(時間による)ので少し面倒。
・持ち込める荷物にかなり制限がある。キャリーバッグ、三脚、自撮り棒、ドローンはNGである。
・現金が使用できない。何をするにもスマホを使うようなシステム設計なので、スマホは必須である。
・天気は超重要。自分の場合は、快晴、最高気温19℃、少し風ありという、多分会期中を通じても1・2を争うほどSSRだった。天気ガチャを勝ち抜け。
・大屋根もおそらく晴れだと天国、雨だと横風を防げない構造なので実質的に雨を凌げるスペースはかなり少ないと思った。ベンチはたくさんあるが多くは屋外にある。
・新しいだけかもしれないが床は白く、人工島の立地も加わって地中海の港町のようなカラッとした風情がある。ドラクエ11のソルティコの街を平べったくしたような感じ。
・9時半に夢洲駅に到着し、会場入りできたのは10時ちょうど。混雑緩和のため、駅から会場入り口まで遠回りをさせられる。
・入場には空港ばりの手荷物検査が求められる。飲み物もチェックされる。見回りのスタッフもかなり多く、会場内の方が安心であるという印象である。
・会場はかなり広くて平地も多く、コミケのような混雑具合は全くない。USJやディズニーシーよりも人口密度は低めという印象である。
・無料で飲料水を汲めるスポットがある。なので水筒を持ち込むと良い。
・食べるところは、レストラン・フードコート・キッチンカー・コンビニとかなり多彩である。値段はピンキリであるが、やや未来感のある価格設定が多かった。
・会場内は日本人の割合が多いように感じた。京都や心斎橋・難波と比べると断然外国人の割合が少なかった。ただこれは祝日だからかもしれない。
・一日の間に全てのパビリオンを見て回るのは不可能である。予約必須のパビリオンもたくさんあり、加えてあちこちにスタンプラリーもあるので、コンプリートするには2〜3回の周回プレイが求められる。1回目は予約不要のパビリオン中心に全体を見て周り、2回目以降であらかじめ目当てのパビリオンを予約して回る、というムーブが良さそうである。
・19時以降くらいはほぼ全てのパビリオンの予約が不要になる。それでも人気のところは行列になっている。
・予約不要のパビリオンの多くはコモン館としてまとめられている。こちらはすぐに入ることができた。
・多くのパビリオンで個人的に気になったところは、国の基本情報が少なく、とにかく映画の予告編のようなイメージ先行の展示やインスタレーションが多く、博覧会の割に学ぶことができる材料が少ないと感じた(もちろん全てがそうではない)。
・博覧会なので、アトラクションもライドも客いじりをする亀もいない。
・パビリオンの造形が本当に多彩であり、見ているだけでも楽しかった。またテーマも多彩であるが、生命科学、SDGs、自然との調和あたりを感じた。
・テクノロジーの面では未来感がするようなものは少なく、現在の最先端技術の紹介に留まっているように感じた。なお空飛ぶ車はメンテナンス中であった。
・コスプレをしている人は見かけなかった。