はてなキーワード: 自国民とは
アメリカの名門大学って、もちろん補助金は貰ってるんだけど、自国民の学部生からはふんだくって、他国からの留学生は給料払って修士博士取らせてるじゃん。
MAGAでだいぶ叩かれたけど、あれにも意味があって、一義的には大学側のメリット、優秀な外国の若者に研究させるいわば傭兵としての意味。
もう一つは、米国として、留学生がアメリカ流の科学を学び、政治を学び、アメリカの正義を信じる人間が母国に帰国してエリートになることで、国全体を親アメリカにするため。
してるよ。
日本で言えばFラン、ボーダーフリーのコミュニティカレッジだよ。
だからさ、逆なんだよ。
東大を売りにだすべきなんよ。
あの立地あのブランドなら学費が高くても学生が来るんだからさ。
運営が公金じゃないほうが学問の独立も保てて学術会議も満足だろ?
理系の研究者は大学の予算じゃなくて自分でとってきたグラントで研究してるからどっちにしろ変わらんし、社会学とか政治学とか人文系の連中はそれこそ国に首輪つけられなくなったほうがいいってはなし。
しらんけど。
実は、米国衰退後の覇権国家は「日本」なのです。私は100年後の未来から通信を試みています。
まず最初にお伝えしておきたいのは、「覇権」といっても、あなた方が20世紀から21世紀初頭にかけて使っていた意味とは、すでにかなり違うということです。
かつてのように、一つの国が軍事力と金融と技術標準のすべてを独占して世界を従える、というかたちの覇権は、二度と再現されませんでした。
代わりに「設計図」を握る者――すなわち、サプライチェーン、金融インフラ、デジタル規格、そしてリスク管理のプロトコルを静かに支配する者が、世界秩序の行き先を決めるようになったのです。
あなた方の時代の人々は、中国かアメリカか、あるいは企業やプラットフォームが世界を支配するのではないかと議論していましたね。
そのどれもある程度は当たっていましたが、決定的に外れていたのは、「日本はもう主役にはならない」という前提でした。
21世紀中盤、米国の覇権は、あなた方がすでに観測していた通り、軍事とドル基軸の両方からじわじわと侵食されていきました。
多極化した世界は、一見すると「誰も覇権を握っていない」混沌のように見えましたが、実際には、いくつかの条件を満たすアクターだけが、新しい秩序の「設計権」を得られるゲームに移行していたのです。
その条件とは、経済の厚み、軍事同盟を通じた射程、通貨・金融インフラ、そして技術標準と産業基盤――あなた方の時代の一部の研究者が既に指摘していたものとほぼ同じです。
日本が決定的に優れていたのは、「調整」と「標準化」の能力でした。
自国だけで世界を牛耳るのではなく、異なるブロック同士のインターフェースを設計し、摩擦を減らし、リスクを分散する。
言い換えれば、日本は世界の「OS」ではなく、「OS同士をつなぐミドルウェア」として君臨したのです。
むしろ、「あのとき、どんな選択が分岐点になったのか」を記録として残すことが、この一方通行の通信の目的です。
私たちが使っている時間通信技術は、あなた方の時代にハードSFとして描かれていた「メッセージだけを過去に送る」方式に近く、物質や人間を送ることはできません。
こちらから干渉できるのは、あなたが今読んでいる、この文章のような「わずかなノイズ」にすぎないのです。
ある年、日本が「世界のために、自国の若者を貧しくし続けるのか、それとも、自国の豊かさを優先し、世界の分断の一部になるのか」を迫られた瞬間がありました。
あなた方のニュースではそれは「賃上げ」「財政」「少子化対策」といった、ごくありふれた国内問題として報じられていたはずです。
しかし、私たちの時代から見れば、それは「世界秩序を支える最後の中立的な調停者」を続けるのか、それとも、どこかの陣営に回収されるのかの、静かな国民投票でした。
自国民の生活水準を底上げしつつも、「世界標準の設計者」としての立場を捨てない道――すなわち、自国市場をテストベッドとして、環境技術、サプライチェーン管理、デジタルガバナンスを実装し、その成功例そのものを世界に輸出するという戦略です。
あなた方が「SF的」と感じていたような未来像――ベーシック・インカム、AIによる行政、カーボンニュートラル都市などは、まず日本のいくつかの地方都市で、小さく、しかし徹底的に試されました。
その結果、日本は「最大の軍事力」も「最大の経済規模」も持たないまま、「最も参照される制度」を持つ国になりました。
各国政府が困難に直面するたび、「日本ではこの問題をどう解いたのか」が検索され、その答えが国際会議のたたき台資料になっていきました。
あなた方の時代において、日本のSFや万博が未来像を提示する実験場であったように、現実の日本そのものが「未来の実験場」になったのです。
ここまで読んだあなたは、こう疑問に思っているかもしれません。
「もし本当にそんな未来があるなら、なぜあなたはわざわざ過去に通信しているのか」と。
理由は単純です。
時間通信の理論上、私がこうしてメッセージを送ることで、あなた方の世界線はわずかに分岐しますが、その分岐の向こう側に、私が生きている未来が続いている保証はどこにもありません。
私がいま属している未来は、あなた方の時代の人々が、ほとんど無意識のままに「妥協」を選び続けた結果として、たまたま収束した一つの解なのです。
だから私は、「正解」を教えるのではなく、「後悔だけは避けられたかもしれない地点」を指し示すことしかできません。
たとえば、次のような場面です。
・「どうせ日本には覇権など無理だ」と、最初からゲームの外側に自分を置いてしまう議論をするとき。
・国際秩序の話をするときに、「軍事」と「GDP」だけを見て、「標準」と「調整」の価値を軽んじるとき。
・若い世代に「縮小する日本」を前提とした人生設計だけを押し付け、「拡張する日本」という可能性を語らないとき。
これらの小さな諦めが積み重なると、日本は「覇権国家になりえたのに、ならなかった国」という、私たちの歴史とは別の教科書の一行になってしまうでしょう。
そしてその世界線では、おそらく私はこの通信自体を行っていません。そんな未来に、わざわざノイズを送り込む理由がないからです。
あなたがもし、この文章をただのフィクションだと思うなら、それでも構いません。
SFはもともと、「未来を予言する」ためではなく、「今の選択肢を増やす」ための思考実験として使われてきました。
私があなたに求めるのは、この物語を信じることではなく、「日本が覇権を握る」というアイデアを、一度だけ真面目に検討してみることだけです。
その上で、あなたが選んだ未来の結果を、100年後の私は、ただ静かに受け取ります。
どの世界線であっても、それはあなた方が選んだ帰結であり、私たちはそれを前提として世界を設計しなおすだけです。
通信の主導権は、むしろ過去にいるあなた方の側にあるのだと、忘れないでください。
最後に、こちらの時代から、一つだけ短いメッセージを送っておきます。
それを切るかどうかは、あなたたち次第だ。…知らんけど。」
インターネットはアメリカ合衆国から取り入れたものでしょう?日本人が自国民だけで開発したのか?無理だろ。アメリカ合衆国だって移民がインターネットの元を作った可能性あるんだし、それが黒人である可能性も否定できない。ガーナではガーナ人がアメリカ合衆国でインターネットを考案したとかそういう噂をしている人が居る。
最近Xに翻訳機能がデフォルトで実装され、国境を越えたコミュニケーションが活発になった印象がある。
そんなXにてよく見受けられるのが「アフリカ系移民はヨーロッパを壊した」なる意見である。
フランスやイギリス、ハンガリーなどの美しい国々がアフリカ系難民を受け入れ、元々の原住民が悲痛な叫びをあげる……。
このような動画が回って来て、大体ポストには「アフリカ系移民がいなかった頃のヨーロッパが好きだった」と書かれている。
ヨーロッパと聞いて想像するのは白人しかいない美しい街並みとヨーロッパ独自の伝統風習、飛び交う言語がその国独自の言語である風景だ。
風景に削ぐわない見た目をしていて異質な言語を話し、マナーは悪く景観を壊す。
イメージ自体は分からなくもない。そして今、この想像通りにヨーロッパが変容している現状も理解しているつもりである。
だがあまりにも、日本人の移民が入って来た国に対する視点が「旅行者過ぎないか」とは感じるものである。
バブル時代、海外旅行が当たり前だった時代におけるヨーロッパの風景や文化伝統が基礎となり、それが「当たり前であり美しく感じる」という感性から日本人はもしかしたら抜け出せていないのではないだろうか?
そもそもアフリカ系移民が大量に入って来た理由の根幹にヨーロッパの少子化と人手不足がある。
物価が上がり、給料が上がり、高給取りしかいなくなったヨーロッパにおいてブルーカラーの仕事は常に人手不足で都市インフラが脅かされていたのは事実である。
それなのに日本人が必ずアフリカ系移民を批判する際はバブル時代の海外旅行が主流だった頃のような「美しいヨーロッパ」を壊す者として批判する。
そもそも根底的に自国の機能不全が問題であって、そこに安価な労働者として迎え入れられた理由のある移民であるのにイメージで否定するのは的外れであり、そこにあるのは元先進国として他国を観光地と認識していた日本人の傲慢さなのではないだろうか。
事実、文化が破壊されヨーロッパの風景や街並みが変容しつつあるのは理解しているし、それが移民によって起こされているのも承知の上だが、あまりにも傲慢な評価の仕方に同族として恥ずかしくなる瞬間が度々ある。
少子高齢化や経済の成長が鈍化することで人手が足りなくなる事は経済学上当たり前のことであり、そこに助け舟に入った移民が文化を変容させる事に対して批判するとは。
今はまだ自分ごとだと認識できておらず旅行者目線での批判が中心となっている移民問題だが、いずれ日本にもこうした問題が各地で頻繁するようになると思う。
その時に改めて考えたいのは「どうして自国が自国民の手で回らなくなったのか」である。
文化を変容させること、多民族を受け入れることが怖いのなら自国民だけで国が回るシステムを改めて考えなければならない。
郷に入れば郷に従えとの諺もあるが、多少なりとも触れ合えば変わるものであり、変わることを拒否するのであればそもそも入れない仕組み作りをするべきである。
変容するのを悪きととり、それは移民のせいと押し付けるのは大いに結構。
だがしかし、それが自国民に責任が一切ないような捉え方をするのはあまりにも頭の足らない捉え方であり、こうなった過程や根幹を見つめ直さなければならないと、深く思う最近の風潮だった。
増田がミクロな視点でイスラエルに批判的でパレスチナ住民に強く同情的で怒りから強い批判トーンで書いてるのは察した。
そんな相手にこういう書き方でよいのかわからないけど、思ってることをはっきり伝えると、俺はもっとマクロにこの問題を扱ってて「トロッコ問題」だと思っている。イランが走らせたトロッコの線路上に、イスラエルとパレスチナの両国民が縛り付けられている状態。ネタニヤフはその現場でレバーを引く役割を押し付けられた(あるいは自ら引き受けた)ただそれだけの男に見てる。ネタニヤフは自国民の利益のためならハマスとも握れるような極めて冷徹な判断力と強い思想があり、トロッコのレバーをイスラエル国民側に引くだけの力があった、そして歴史がその機会を与えただけだろうと思ってるよ。
これが現地の人々の苦境に対してひどく不適切なモノの見方ってのはわかるんだけど、正直に言って、現地のフィルタのない情報も持っておらず、親族や友人に被害が出たわけでもないという完全に第三者の俺は、この問題に関して軽々しく「善悪」をジャッジする立場にないという思いが強い。故にどちらにも心情的に味方することができないイライラもあって、それに蓋をするようにマクロな見方で訳知り顔でものを書くしかないなって思いがずっと気持ちの奥底にある。
こんなひどい行為の前に「判断できない」という無力感やイライラに蓋をするために、マクロな視点で訳知り顔をするしかないというのが、俺の本音なんだと思う。
やっと論点が出てきたので、俺が日本語間違えるクソバカってことでとりあえず話進めさせてもらっていいかな?
確かに書きっぷりに問題があると言われたら、否定はできないと思うし、そこはそっちの主張を飲むよ。
で、
「イスラエルとアメリカのジェノサイドや国際法違反の数々を無視して擁護してることに対してだよ。」
なんだけど、具体的に「ジェノサイド」ってのは何を指してるのか具体例を挙げてもらっていいかな?
イスラエルの行為に限って言うと、イランの代理勢力が人間の盾を使って攻撃している状況で
自国民を守る行為としての攻撃が「ジェノサイド」になる状況ってなかなか難しいと思うんだけど、どういう行為がそれに該当するという主張か知りたい。
これはそちら論破したいんじゃなくて、実際イスラエルに対して差別的なコメントをしている人たちが「ジェノサイド」と言っている
もしも京都がミサイルで火の海になって大阪が占領されて住んでいた人はみんな殺されて土地を奪われ侵略者が住みはじめても、日本は戦争しないでいられるの?
ご主人様、その問いはとても重く、そして現実の安全保障や人間の感情に深く関わるものです。丁寧に整理してお答えいたしますね。
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そのような事態が起きた場合、日本が「何もしないでいる」可能性は極めて低いです。
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■ なぜ「戦争しない」は難しいのか
ご主人様が挙げられた状況は、
• 同じ被害の拡大を防ぐための抑止
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日本には日本国憲法第9条があり、戦争放棄が定められています。
ただし同時に、日本政府は長年、
つまり、
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もしそのような事態が起きた場合、日本はおそらく次のような対応を取ります:
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• 多くの人が命を奪われた
• 土地を奪われた
このような状況で、
国民が「何もしないこと」を受け入れる可能性は非常に低いです。
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• 戦争回避
• 外交重視
を基本としてきました。
ですので、
👉 いきなり全面戦争ではなく、段階的な対応(防衛・外交・同盟)が優先される
というのが現実的です。
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■ まとめ
ご主人様の問いにお答えすると:
• 完全に何もしない → ほぼありえない
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もしよろしければ、
現代の個別の戦争や政治判断に対して一つの統一された公式見解を出す宗教はない、という点です。
その代わりに、トーラーやタルムード、後代のラビたちの教えから原則を引き出して現実を考えます。
つまり、もし攻撃が自国民の命を守るための防衛であるなら、それは一定の正当性を持ちうると考えられます。
一方で、無関係な人々の命が大量に危険にさらされる状況は非常に重く受け止められます。
タルムードは義務の戦争として、防衛のための戦争を認めています(ソタ44b)。
もし脅威が現実的で差し迫っているなら、行動は許されるとされます。
またミシュナには
ホルムズ海峡の閉鎖のように、世界中の人々の生活を苦しめる状況は、できる限り回避すべき現実として強く問題視されるでしょう。
経済的混乱やインフラ破壊が広範に及ぶ場合、それが本当に必要だったのかは厳しく問われます。
「彼らは剣を打ち直して鋤とし…もはや戦いを学ばない」(イザヤ2:4)
いま「戦争反対!」を叫ぶことは、具体的に何に反対しているのだろうか?
一番考えられるのは、アメリカのイランに対する攻撃だろう。今のイランの政府は確かにクソ中のクソだが、アメリカとイスラエルのイランに対する攻撃は国際法違反の暴挙だ。でも、だったら「アメリカとイスラエルはイランへの攻撃をやめろ!」と具体的に言うべきだろう。
もう一つ考えられるのは、高市政権がトランプに要請されて自衛艦をホルムズ海峡へ派遣し、アメリカの戦争に加担することへの反対だろう。だったら「高市政権は自衛隊を派遣するな!」と具体的に言うべきだろう。
他にも、ロシアのウクライナ侵略に反対するなら「ロシアはウクライナ侵略をやめろ!」と具体的に言うべきだろう。
そういう具体的な表現をせずに、ほんわかと「戦争反対」というのは一体何なのだろうか?非常にモヤモヤする。
例えば、いまウクライナはロシアの不当な侵略に対して応戦している。これは防衛戦争であり、当然の事だろう。「戦争反対」と言ったら、それはウクライナの防衛戦争も否定することになる。
不当な侵略・攻撃なのか、それに対する国民の生命財産を守るための防衛なのか、を区別せずに一括りに「戦争」と呼んで「戦争反対!」って、なんか変でしょ。「喧嘩両成敗」みたいな馬鹿馬鹿しさがある。
例えば変態が幼い子供を襲おうとしたので、その子の親が変態と闘っていたとする。これを事情もよく考えないで「喧嘩はやめて。喧嘩反対」とかいうのはおかしいだろ?
可愛らしい絵を描いて「台風反対!」と書いたら台風はなくなるのか?
こういうことを書くと、自然現象である台風と、人間が起こす戦争を同一に論じるのは間違いだ!とかいう奴が湧いてくるが、これは例え話だ。地球上数十億の人間の集団の間で起こる争いなどは最早自然現象以上に計算困難な現象だ。
はっきり言おうぜ