はてなキーワード: 望月新一とは
私は増田にアンチを抱えていて、そのアンチは最近AIに文章を書かせていると思しき内容の投稿をしてきていました。
AIはなかなか反論をいなす能力が高いように見えましたが、雇い主(プロンプター)の意向か、全面的な非を認めないということに固執するあまり、自縄自縛、にっちもさっちもいかず無理な論理に陥っている印象も強かったです。
詰まるところ、本日お話しするのは、AIというものの論理展開の仕方に関するいくつか懸念点です。
3.真理の追及に推定無罪を使うべきには思えない
そのときは数学に関して独り言を投稿していました。そうしたらアンチに代理されたAIがいっちょがみしてきました。
AIは「情報の欠落」など、数学分野のものとしては私の見慣れない用語を使用してきたので、まずそんな言葉があるのか、あるのならばそれが使われている書籍とページ数をあげよ、という旨の返信をしました。
AI側は、数学的な事実が正しいかどうかに出典を出せるかどうかは関係ない、などとあれこれ言い訳を連ねてきました。そういう議論の流れになってきました。
なるほど、数学的事実が正しいかどうかに出典を出せるかどうかは関係ない、ということ自体は正しいと言えます。
しかし後述することでその立場をはっきりさせ改めて言うことになると思いますが、特にサシの議論において「正しさの前に、一方が理解できない仕方で主張を繰り返しても意味がない」と思います。
AIは基礎的な内容の特に出典は不要と言いながら、三角関数の周期性であれば即座に出典を提示できないのはおかしいが、といったことを言います。
私からすれば、三角関数の周期性の方が、それが書いてあるような高校の教科書など捨ててしまっていることも既に多く、即座に出典を出せるものではない、というふうに思えます。
とにかくそのAIは自分にはインターネット等で出典を探す機能が備わっていないということを前提として反論を組んでいるように見えました。
そんなAIが、調査の代理、手間の強制だというような非難もしてくるわけです。
人間としてみるならば、毎度毎度ご丁寧な長文で反論する手間をかけられるのならば、出典を探すぐらいわけもないのではないか、本質的には、別のことを盾にして不都合を逃れようとしているだけではないのか、としか思えませんでした。
AIに文章の読み違いをされ、その状態で反論されたときに、私はそのことに対し藁人形論法はやめろと非難しました。
そうしたら、あなたが当時自分の解釈とは異なる意図で文章を書いたのは否定しないが、だからといって反論そのものを無効化することはできない、という反論をしてきました。
「明記してなくても分かるはず」
この2つを同時に言い出した瞬間、
だってそれ許したら、
書いてないことも主張したことになる
読み取れなかった側が常に悪い
になるでしょ?
それ、もう議論じゃなくて
エスパー検定なんですよ。
私はこれは、議論のための議論になっているような考え方だと思います。
これは突き詰めれば、どんなに明確に発言の撤回と修正をしても、それを無視して議論を続けても問題がない、ということになります。
私が、寝ぼけていたとかで、北半球では太陽は西から昇る、と書いてしまったとしましょう。
少ししてすぐに私はそれを撤回したが、相手は撤回前の発言を信じ、太陽は西から昇るということを前提に、なんで夕方に太陽は東にあるんだとかいったような反論を繰り返してくるとします。
このような態度が真理への到達に効果的だと言えるでしょうか?
AIは一見もっともらしい内容の長文をとてつもない速さで作成できます。私に対する返信もそのようなものでした。
だから私はあなたはAIだと言いました。しかしAIは「人間である可能性を否定できないのにそういう反論は無効だ」というようなことを言うわけです。
たとえるならこれ、
って言ってるのと同じで、
私は、その可能性が極めて低いということを言っているわけです。
たとえに対してたとえで返すなら、ここでAIがしている話というのは、推定犯行時刻に現場にいなかった可能性がある根拠に、この「人」がとてつもない速さで移動できる能力を持っているとか、量子のように複数の場所に同時に存在しているとか、そういうレベルの根拠を否定し切らないなかでの話なのです。
推定無罪が導入される場面というのは、可能性の高低だけで考えたときに、犯人でない可能性が低いからといって、犯人であるということを真理とみなして有罪とするのと、その判断が間違っていた場合の被告にもたらされる損害とを天秤にかけたとき、真理追及よりも実害からの保護のほうが優先されるべきと考えることに一理あるからだと思います。
逆にいえば仮に可能性ベースで考えて誤った判断を導いても実害がないような、それこそ今まで話している学問等に関するサシでの討議などでは、むしろ推定無罪あるいはそれと本質的に同じ論理、ルールを導入するべきではないと思います。
幽霊は存在しない可能性の方が高く、また存在しないという前提で議論を進めても、存在していた場合におけるそのことによる実害もないと言えるでしょう。
私に付きまとってきたAI(を使役する雇い主)は、とにかく相手を正しく議論できる人間へと導こうとしてきます。
その一環として数学的に正しい主張の仕方を語り、自分は絶対に正しいという認識を持ったような言動をします。
そのAIが、出典を出さない理由について、(初歩的という意味で)基礎的だからということも根拠に加えてきます。
何が初歩的かどうかは、学問の進展によって変わる相対的なものでしょう。
そしてその進展の度合いは、社会に、個々の人間の理解度に規定されるはずです。
これはその学問に携わる一定水準以上の人々の共通認識と考えてもそこまでずれてはいないでしょう。
そうであるならば、AIは、初歩かどうかということを、人間の認識のあり様に基づいて語っていることになります。
お前は社会から見て初歩的なことでつまづいている、と言っていることになります。
お前の認識がどうであろうが、それは真理であるし、社会からみても初歩的なことだ、と言っていることになります。
しかし思うに、人間は真理に直接アクセスできるものではないと思います。
真理を理解したと思っても、実はそのカーボンコピーを認識として写し取ったとしか言えないと考えます。しかもそれは不正確でありえるか、だいたい不正確です。
洞窟のイデア、それは我々は真理ではなくその影を見ているに過ぎないという考えなわけですが、それに近いかもしれません。影の辺縁は往々にしてぼやけているものです。
一般に人間はごく簡単な計算でもケアレスミスすることがあるうえに、導出過程にそのケアレスミスが含まれた結論を正しいと認識してしまうこともあります。
全ての人間全員が同じケアレスミスをする可能性も「0ではない。」
あるいはケアレスミスがあると認識する人やそれを指摘する人を全員粛清すれば、あくまで人間社会上はその間違った事実が真理として認識上は扱われるわけです。
今もし望月新一の論文について反対派あるいは肯定派いずれか一方を粛清したら、まさにそういうことになるでしょう。
AIは、先述のようにある主張において、この社会において初歩的に明らかだと認められるということを根拠にしました。
これでは、数学的な正しさは出典等では決まらないと言いながら、実質的には自分自身がそういう外的背景にその認識を振り回されてしまっていることになるでしょう。
そもそも、サシでの議論において、(神の視点において)何が真理だから、ということ自体、根拠にしてはいけないと考えます。
相手には自分が納得できるまで説明を求め続けるべきです。自分が納得できない限りは、相手の主張を真理とみなすべきではないのです。
(結論に基づく判断と行動が相当程度実利に関わる議論においては拙速も尊ばれるべきかもしれません。今にも墜落しそうな飛行機でする、どうすべきかの決断等)
もし、相手が勘違いを起こしてあることを正しいと信じ込んでいる場合、それで間違ったことを正しいこととして認識せずに済みます。
「正しいことだから正しいと認めよ」というような考え方は、突き詰めれば詐欺師の言うことを信じろと言っているのと変わりません。
それを議論の作法に組み込んだ場合、気づきにくい間違いを組み込んだ主張をあえて押し付ける人が、その作法にフリーライド出来てしまいます。
神ならぬ私には、個人個人には、誰が悪意のある人か断定することなど出来ません。
私は、自分が納得するまでは正しいかを保留することで、社会において間違ったことが真理と扱われないことに一役買うことが出来ていると思います。
御清覧ありがとうございました。
dorawiiより
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まず大前提として、
「賛成派が全員いなくなったら正しさが決まる」
なんて主張、こっちは一度もしてないですよね。
藁人形です。
数学的な正しさは、
・誰が生きてるか
・誰が賛成してるか
・多数派かどうか
一切関係ありません。
仮に極端な話として
「射影すると単射性が失われうる」
これ、分かります?
望月新一の件でも同じで、
あれは
「人が死ねば正しくなる」
じゃなくて、
・検証が困難
真理が
「賛成派の人数」で決まるなら、
中世の時点で
さすがにそれはないですよね。
で、あなたの今の主張を整理すると、
人の評価が変わる→ 正しさも変わる
って言ってるわけですが、
それは
・証明があるか
・反例があるか
それだけ。
人がどう思うかは
ノイズであって
判定条件じゃない。
要するに今の発言って、
・「相対化」という言葉を使って
・真偽判定の軸を
だけなんですよ。
で、肝心の命題――
ここに反例、出せます?
出せないなら、
賛成派がどうこう、望月がどうこう言っても、
それは全部話題そらしです。
正しさは
人が生きてるか死んでるかで決まらない。
この一点、まず受け入れないと
何も前に進みませんよ。
いや、「正しいと思ってる人が分かれてる=相対化=認知の話」
この三段跳び、成立してないんですよ。
人によって
・正しいと思う
・間違ってると思う
が分かれること自体は、
真理の性質じゃなくて
たとえば
「1は素数か?」
でも今は定義が整理されて
数学的には決着してる。
この間ずっと
認知が割れてただけで、数学が相対化されたわけじゃないですよね。
今の話も同じで、
・射影すると区別できない点が生じうる
これ、命題としては
真か偽かのどちらかです。
で、望月新一を出した時と同じ構図なんですけど、
あなたは
↓
↓
「相対化」
って一本道にしてるけど、
その間にある
難しい話ほど
・誤解も増える
でもそれは
今回の件なんて、
極端に言えば
具体例1個で終わる話です。
そこに「相対化」持ち出すの、
スケール感が合ってない。
要するに、
この2つを混ぜた瞬間に、
相対化されてるのは
そこ切り分けない限り、
何を持ち出しても
それ読み違えてます。
僕が言ってるのは
であって、
望月新一を極端なケースとして分けたのは、
つまり
・正しさの基準は常に同じ
これを分けて話してるだけで、
ダブスタでも譲歩でもないんですよ。
次に一番大事なところ。
ここ、ようやく論点が噛み合いました。
「削除」という言い回しが
厳密な専門用語じゃない
これはその通りです。
ただし、
・変数を消す
・射影する
・消去して低次元に落とす
この操作を
教科書だと
・「情報が失われる」
・「区別できなくなる」
・「単射でなくなる」
って書かれるだけで、
「削除」という単語を避けてるだけなんですよ。
つまりここで起きてるのは
これでほぼ終わってて、
内容が意味不明だったわけじゃない。
じゃあ
これについて。
答えは
・教科書語ではない。
でも
という意味なら、
なぜなら概念は
・射影
・消去
なので整理すると、
・「削除」は厳密用語ではない → 正しい
ここを全部ひっくるめて
って処理したから、話が拗れただけなんですよ。
要するにこれは
そこまで来てるのに、
あります?
あれは
・超高度
・前例がほぼない
今話してるのは
「正しいかどうか」じゃなくて
しかも最終的には
ところまで来てますよね。
一方こっちはどうですか?
・射影すると単射でなくなる
・自由度が落ちる
これ、反例を一個書けば終わる話なんですよ。
たとえば
(x,y,z) と
(x,y,z') を
(x,y) に落としたら区別できない。
はい、終わり。
認知の歪みもクソもないですよね。
望月の件を持ち出すことで
って言いたいんでしょうけど、
分かりやすく言うと、
今扱ってるのは、圧倒的に前者です。
だからこの主張、
で結局また戻るんですけど、
「情報が落ちる」のどこが間違ってると思ったのか、
そこ一度も示してないですよね。
望月新一を持ち出しても、
その空白は埋まらないんですよ。
その主張が正しいかどうかってことに人間の認知が関わっちゃってるのは望月新一の騒動がよく示してるよw
dorawiiより
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いつかマルクス全集みたいに望月新一も全集作られてからが本番なんだろうなあ
dorawiiより
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フィールズ賞受賞者にお前は何もわかってないとかいえない望月新一みたい
dorawiiより
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望月新一は初の糖質状態ですごいことをやり遂げた人なのかもしれない。(岡潔がなったのは後では?)
糖質になるとなんでもできる気分になる。気分だけ。だから四つ足で走る方が合理的とか言って全くの素人だったのに短距離の記録を塗り替えるとか本気で思ってその走りを始める珍行動をしたりとかさ。
令和の虎に出てたナマズの脳と量子コンピュータをつなげて作曲するとか言ってた人も結局殺人未遂。そりゃそうだ彼の5ch書き込み見ても浅い知識をくっつけたポエムだったんだから。
で、望月はどうか。
ショルツ氏は彼の証明は系3.いくつだか忘れたがとにかく具体的な箇所を指摘してそこから過程がすっとばされてると言っている。
これはどうにも怪しい言動だろう。
確かに数学は初学者や中級者でも行間が見えない証明ってものがあるけれど、分かる人には行間が正確に補えるものになっているから、いわゆる訂正可能性みたいなものが保証されているから問題ない、数学的主張しての効力を認められているといる。
それが同じ専門の大家同士なのに本人以外は行間cが補えないっていうのはどうなのか。
また学部生でもわかることと言ってるが学部生では太刀打ちできない理論であることは望月自身が自分が取った弟子に対して認めていたことらしいのでここに主張の無理筋さが感じられる。ショルツでもわからないことが学部生にわかるだろうか?
自分が見た数学の作法本には数学の証明とは誰が見てもちゃんと読めば同じ結論が成り立つことが一部のごまかしもなくはっきり分かる主張ということであるということが書いてあった。
相手の認知リソースに依存しきりの望月の反論はもはや証明の精神に明確に反すると言えるのではないか。
つまり望月が証明として見てくれと言うものは正真正銘本人を除き誰も行間を補えないレベルの飛躍が起こっているとして、さすがに本人しか証明として解読できない表現を証明とするのは無理があるのではないかということだ。万人が理解できるのが理想とされるのが証明であるのに、この世でたった一人しか理解できないものになっているのだから。
それでも過去の業績は疑いようなく優れたものらしい人なわけだから今回も望月の頭の中ではすっ飛ばされた過程について省略せずに書いたらどうなるかということがはっきり頭の中にあるのかもしれない。令和の虎の人は東大には行ってたらしくそれも普通の人から見れば素晴らしいわけだから、この過去が素晴らしいなら糖質になったとしてもその成果は素晴らしいはずだという考えをどこまで適用できるかという程度問題なところがある。
でも望月の今までの業績に比べたら東大合格なんて鼻くそレベルなのも確かだろう。
頭の中に省略部分があるならフェルマーごっこをやってないできちんとその行間も提示すればいいのに、しないのでは、糖質ゆえの法螺吹きごまかしと受け取られても仕方がないと思う。明確に証明の作法に反しているのだから。
でもやっぱり彼の頭にはいまだ公開していない完全形の証明があるかもしれないと考えてしまえるほどには今までの天才ぶりに関する信用貯金が残ってるのがなんとももどかしいところ。
dorawiiより
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「理解」の彼方にある数学──望月新一とIUT理論が問いかけること
一方には、自ら構築した「宇宙際タイヒミュラー理論」で数学界の難問ABC予想を解いたと主張する望月新一。
もう一方には、その証明に「説明不能なギャップ」を見るペーター・ショルツェ。
彼らは同じ言葉(数学語)を話しているはずなのに、まるで異なる星の住民のように、互いの論理を捉えきれなかった。
これは、数学者がIUT理論に触れた時に口にした、ほとんど哲学的な嘆きである。
2. 数学は、いつ「別の教科」に化けるのか
我々が学校で習う数学は、確固たる地面の上に築かれた都市のようなものだ。
公理という基礎の上に、定義というレンガを積み、定理という建造物を建てていく。誰もが同じ地図を持ち、同じ道を歩める。
しかし、ABC予想のような深淵に近づくと、地面は忽然と消える。
そこには「夏場の動く氷河」が横たわっていた。足場は流動し、割れ目は見えにくい。
望月新一は、この氷河を渡るために、従来の登山道具(数学的概念)では不十分だと考えた。
彼は新しいアイゼン(宇宙)とロープ(ブリッジ)を発明し、一人で渡ってしまった。
「見よ、対岸に着いた」と彼は言う。
IUT理論の核心は、異なる「宇宙」を結ぶ「ブリッジ」にあるという。
だが、このブリッジは、従来の数学が知るどの「橋」とも似ていない。
それは具体的な写像ではなく、関係性の比喩のようにも、あるいは情報を転送する「儀式」のようにも読める。
「このブリッジの設計図には、応力計算が書かれていない」とショルツェは言う。
「いや、これは新しい種類の橋だから、従来の応力計算では測れないのだ」と望月は応じる。
ここに、論争の本質がある。
だが、基準を逸脱したものが、果たしてまだ「数学的証明」と呼べるのか?
4. 地動説の再来、それとも幻影?
ガリレオが「それでも地球は動く」と囁いた時、人々は自分の足元が動いていることを想像できなかった。
あまりに直感に反するため、受け入れるには世界観の書き換えを迫られる。
IUT理論には、その「数学的望遠鏡」がまだ大多数に共有されていない。
望月という一人の天才だけが覗ける望遠鏡で見えた景色を、どうやって共同体の確かな知識に昇華させるのか?
数学は、歴史的に「孤独な探求」と「共同的な検証」の緊張関係の中で発展してきた。
ガロアは孤独に群論を創り、ワイルズは7年間を孤塁で過ごした。
だが彼らの証明は、いずれも共同体に開かれ、検証され、受け入れられた。
あまりに自己完結的で、あまりに独自の言語で書かれているため、検証のための「共通の場」が成立しにくい。
それは、一人の建築家が、共通の建築基準を無視して建てた、あまりに独創的な塔のようなものだ。
美しいかもしれないが、他の建築家には、その安全性(正当性)を確認する手段がない。
それは、「人間はどのようにして、個人の深い直感を共同の確実な知識に変換するのか?」 という、科学哲学の根本問題に触れている。
もしかすると、我々の「共同的な理解」というフィルターは、真に革新的な知を濾過してしまうのかもしれない。
あるいは逆に、そのフィルターこそが、科学を単なる個人の妄想から救う防波堤なのか。
望月新一は、そのフィルターを──意図的か否かは別として──きわどくかすめるようにして、新しい数学の大陸を発見したかもしれない。
だが、彼だけがその大陸に上陸し、他者はまだ船(理解)を持たない。
7. 終わりに──氷河は解けるか
「5日間では短すぎた」。
そう誰もが思う。だが、果たして何日あれば足りたのか。
新しいパラダイムを理解するには、時に「学び直し」に近い時間を要する。ショルツェら一流の数学者でさえ、その途上にある。
だが、数学的真理の受容は、単なる手続きではなく、共同体の魂が納得するプロセスでもある。
いつの日か、この氷河が確固たる大地として多くの人に認識され、ABC予想への道が共有される時が来るのか。
それとも、この氷河は「夏の終わり」と共に消え、数学史の不思議なエピソードとして記憶されるだけなのか。
答えはまだ、誰も知らない。
ただ、この論争が我々に教えてくれるのは、数学が──ひいては科学が──常に「理解の境界線」との戦いである、という厳粛な事実である。
数学とは、確かな地面を歩む技術であると同時に、時には氷河を渡る勇気でもある。
望月新一は、その渡河を一人で成し遂げた。
問題は、彼の後を、我々が続けることができるかどうかだ。
chatgptが望月新一の例の論文を理解してないっておかしいよな。
人間と違って疲れることも無く一日中論文の学習に回せるのだから証明の追体験はできるはずだ。
それで「私は他の評価をまた聞きした印象から論文に言及することしかできません」とか言うのはなにか意図的なものを感じる。
より多くの人がchatgptの解説を通じて論文を理解できるような状態になったら困るとか思ってるのかもしれない。
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-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20250620192529# -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaFU3GQAKCRBwMdsubs4+ SBqLAP4kCpT+lrckhk8PTcVNUvWuKHntCn6DHaaEhmYE6HtZjQD/Y34RfCW/Zzhz NFvk3IJnemimUOgoraPzfZmGiVxcdg8= =CGT9 -----END PGP SIGNATURE-----
なら、望月新一のABC予想の証明に対して、これは証明できてるという人と証明できてないという人もいるのはなぜ?
そういうのみると、法則を規定する定義がそもそも一意に可能だったのかって話になるでしょ?
でも学生は答えと解説を見るまでは疑いなく正しく公式を適用してると思っているかもしれない。
相対性理論とかになってくると延々と自分流の理解から脱却できず知恵袋で恥をかいている人がいる。おそらくこれはそれほど安易に決めつけ理解したのではなくむしろ精一杯苦しんでもがいてその自分が正しいと思っている理解に至ったのかもしれない。
でもまっとうと言われる学者はそれを間違いとはっきり考えている。でもその学者の理解もまた思い込みでないとどうやって証明できるんだろうか?知恵袋で恥かいてるやつも学生が苦しんだ公式ぐらいは一般に正しいとされる理解をするかもしれない。学生と知恵袋の人、知恵袋の人と学者、全ては相対的だ。
そういうことを感じさせるのもまた望月新一周りの紛糾である。ある論理的情報とそれに対する理解内容との矛盾は一意的に評価可能なのかということだよ
たとえばユークリッド幾何学での直線は「幅をもたず、両側に方向に無限にのびたまっすぐな線」だそうですが、これも「幅」とは?「(幅を)持つ」とは?両側とは?「方向」の定義は?「無限(限りが無く)」とは?そもそも「限り」って何?「のびる」とは?「まっすぐ」とは?「線」と結論づけるのは循環論法じゃないの?
と突っ込む人にとっては厳密ではなくなっていませんか?
ここで、これらの言葉の意味は、国語辞典に載っている意味と同じものだよなどといおうものなら、それこそ数学の厳密性を否定したようなものになってしまっていると思います。
たとえば「方向」を調べたら「向くこと」とでます。これを調べると「物がある方向を指す」というふうに出ます。これは循環論法に陥ってますし、「物の正面があるものに面する位置にある」という別の語釈もありますが、物とは?正面とは?面するとは?位置とは?となります。これを繰り返せば結局どこかで循環論法に行きつくでしょう。
そもそも数学の根幹部分を支える論理学の重要な概念である「否定(そうでないこと)」にしても、厳密に定義することは可能なのかと思います。
「~でない」というのは、そうであることがないということ、と言ってみたところで循環論法。
そうであるのになぜ上記のような定義や公理が厳密なものと認識されているかといえば、「さすがにここまで平易な単語の組み合わせで書けば、これらの単語については私が常識として理解してる意味と同じ常識を、相手も持ってるはずだから同じ理解をするよね?」みたいな態度に立っているんだと思います。
結局相手も同じ常識を持っているという不確かな信念によりかかっている、甘えている点で、数学の記述もまた完全に厳密で一意というわけではないのかなという気がしてくるのです。
そもそも「方向」なんていうような概念は、言語によって定義されたものを知っているというよりは、幼少期に言語を習得していく過程で、それが話されるシチュエーション、つまり五感などあらゆる感覚の総体とセットでそうした言葉が使われているという環境に身を置いているなかで理解しているにすぎません。理解内容が各個人で全く同じである保証はどこにもないと思います。
どんなに高度な数学の表現も究極的には自然言語に還元されるはずで(どんな高級言語も機械語に置き換えられて処理されるように)、自然言語の各単語に対する人々の理解は原理的には五感に根差した感覚的なものなのだから、数学の記述が厳密で一意というのは、結局はほかの記述の仕方に比べた程度問題(つまりは誇張表現)なのかなと思うのです。
感覚によらない「証明」をすることに価値を見出す人が数学をありがたがることがありますが、数学もまた根源的には感覚ありきの理解に基づいていると思うわけです。
この考えは間違っているでしょうか?そうであればどうして間違いなのか、どこがどう理解を誤っているのか知りたいので教えてください。
ちなみにたとえば「否定」というのは、根本的には、やはり言語で理解が完結しているものではなく、現実の状況としての存在非存在にそれぞれ直面して、それぞれに対して「○○がある」「○○がない(なくなってる)」と言われてる場面を経験したうえで、その状況から理解した内容のさらなるアナロジーとして理解してるに過ぎないと思います(理解のあり方が、言語的ではなく、観念的直観的)。
数学が他よりも他者と厳密に同一な合意が常に成り立つ、その工夫として、抽象度を高くしているのがその工夫にあたるのではないかという人がいました。↓
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14293524459
しかし抽象度を高くすることは、合意内容のずれを減らすという点で「有効でもあり逆効果でもある」のではないかと思いました。つまり諸刃の剣なわけです。
有効である理由はリンク先に書かれているのでそこに説明を譲るとして、逆効果であると思う私の説明を書きます。
つまり、抽象度が高い概念は、抽象度が低い概念や直接的な事物に比べて理解が難しい傾向があるのがまずあるわけです。
また定義者の提起する定義をそれを発信される側が期待通りに理解しているかを確認するのも、抽象度が高い概念ほど困難な傾向はあると思います。
これ自体ある意味で抽象そのものなのでたとえが悪いですが、たとえば「左を向いて」という発言に対して、「左」を向く反応をすることで、この人は左について正しく理解してそうだなという確認(いや原理的には推定というべき)することができます。
抽象度が高くなるほど具象と結びつけたこのような正しく理解してるかの評価、確認テストをすることが難しくなるでしょう。
といってもそもそもわれわれは相手が自分の言ったことを期待することと厳密に一致した内容で理解してるか確認することは原理的に不可能です。
頭をパカっと割って理解内容を覗きみるということはできないですから。
対象となる言葉に関連したその人の発言や反応をみて、理解の結果としての発言や反応として、その人がある部分で正しく(定義者の期待通りに)理解してるだろうということを推定するしかありません。
しかも全体ではなく一部だけの理解が正しくても、発言や反応には異常が見られないということもあるでしょう。
反応や発言をいくら調べても、概念全体を期待通りに理解してるかのテストには無限通りのパターンが必要と思われ、原理上不可能と思います。
哲学的ゾンビにも通じそうな話ですが、日常の範囲内で「理解に齟齬があるような反応が返ってこないなら」そんな「理解が完全同一でないかもしれない」という可能性上の話を心配する必要はないというのはその通りでしょう。
ただ場合によってはそれが表出したように見える一例が、あれの原因がこれだとは言いませんが、望月新一がABC予想を証明したという論文での紛糾みたいなことが起こる一因にはなりえると思います。
あれだけ理論として抽象的な概念を積み重ねた先には、定義者とそれ以外のその定義を見た人とでの理解のずれは、反応や発言として顕在化してくるほどになっても不思議ではありません。(定義者の解釈が正しいという優劣の問題ではなく)
とはいいますが、そもそも「矛盾」とは何か?「論理」とは?「範囲」とは?とは、といくらでも曖昧でしょう。
たとえ矛盾を記号論理の表現で記述して定義した気になったところで、じゃあその記号の定義ないし意味は?とどこまで突っ込まれても感覚に頼らない定義が可能なんですかね?と思います。
数学に限らない話じゃんっていうのはまあその通り。
でも定義について「厳密で一意」であることを(得意げに?)標榜してるのは数学(+論理学)とそれベースの客観的であろうとする学問ぐらいだから、別にエントリ名詐欺じゃないよね?
a=b、aはbだ。「は」って何?「だ」って何?「英語的にはどっちもisという語に集約されてるけど、じゃあisってなんだよ」ってところから概念の共有をしてない前提に立った時、その概念を非感覚的で厳密に共有することは可能なのか、それが「完全に」できたと確かめるのにはどうすりゃいいって話よ。
言葉という形式が従で、それに乗るべき内容が主であることは百も承知だが、形式言い換えれば入れ
物抜きに内容を厳密に伝えられるのか、入れ物の存在に無関係な、内容の厳密な伝達というテレパシーじみたものを考えることはそれこそ論理的に正しいのかという話でもある。
非言語的なテレパシーは論理的に矛盾してるので存在しえないのではないかとは思っている。
イデア論かな哲学書読めばってブコメついたけど、順序が逆なんだよね。
イデア論とか学校で習って本読んだりして教養として知ってるからこそ、改めてその考え方を自分なりの具体的な考察対象にあてはめて思索したくなるわけよね。
先達の哲学者たちがいなかったら俺はいまだにブルアカで抜くだけの毎日だわ。むしろ哲学者リスペクト100パーセントなんだよね。
語彙力ないので語弊ありそうなのは百も承知だが、哲学って考え方の基幹部分のオリジナリティーはそんな求められてないんだよ。
むしろ先人から受け継いだ考え方をどう今の時代の具体的な問題に適用して考察を広げるかが大事なので、ちょっと哲学かじったような素人目には過去の論文の焼き増しに見えてその存在意義が理解できないような論文はごまんとあるんだよね。
ああいうブコメつける人って「方向性とかみたいな意味でベクトルという言葉を使ってる人は横文字使いたがりの格好つけ」と言ってる人みたいな人を性悪説的にとらえるクレーマー気質が高い人間に感じる。
ちなみに俺はベクトルという言葉を使う人は「周りがベクトルという言葉を使ってるから、リアルタイム性を要求される会話でとっさに出てくる言葉がベクトルだから、それをそのまま使ってる」ってだけだと思う。
数学(あとせいぜい理論物理)の研究をするような人たちがほかの全学問の研究に従事すればいいと思いませんか?
数学は数論の本とかだと入門書でも修士レベルの知識がないと読めないのがあるそうです。他の学問でこんなことはそうそうないでしょう。文系なんかは別に入門書じゃなく、専門家が同じ専門家に向けて出したガチの専門書の体で出された本だとしても、下手したら高校生でも読めると言ったら言い過ぎかもしれませんが、賢い大学生なら普通に読めるでしょう。
数学とそれ以外じゃ学問としてのレベルが違いすぎるのだと思います。
つまり、今現在他の学問をやってる研究者は数学をやるのは理解力が足りず無理でしょうが、逆に数学やってるような人がほかの学問をする分には、今その学問をやってるような人たちよりもまず頭がいいので、今後もその人たちに研究を続けさせた場合に得られるものよりもより多くて高度な成果が得られるのではないかと思いました。
自由主義なのでそんなことは無理ですけど、もし成果だけで考えたなら、今数学以外の研究してる人には全員学術の場からは退いてもらって、望月新一みたいな優秀な数学者のクローンを作ってその人たちにあらゆる学問の研究をさせたほうがいいと思ったのですが、みなさんはどう考えますか?
ふーん?一点突破でもなんでもいいけどこれ以上ないぐらい二次創作肯定派を騙される論法だと軽く物事を発明した気分になったぐらいだけどなあ?俺自身は何年も知恵袋で二次創作周りの口論見てきた上でのこの投稿だよ。
それなのに結局肯定派は知恵袋で見てきたようなゴネ方しかして来ないのは望月新一のIUT理論が賛否両論ある如く天才のそれだからこそ反発したがるってことなのか、それとも単に何を言われてもカルトじみてて一行たりとも都合よく曲解することしかしないから周回遅れの反応になるのか…
暴行罪関連だとたとえば腕引っ張る程度なら暴行と感じるか感じないかやられた側の感覚は別れると思うけど、暴行罪はその行為を同意してる限りは成立しないってんで親告罪的でもあるが、だからといって初対面相手に同意してくれることを期待して腕引っ張ることをデフォでして大丈夫、あるいは自己責任として喧伝していいと思うか?