はてなキーワード: 望月新一とは
望月新一は初の糖質状態ですごいことをやり遂げた人なのかもしれない。(岡潔がなったのは後では?)
糖質になるとなんでもできる気分になる。気分だけ。だから四つ足で走る方が合理的とか言って全くの素人だったのに短距離の記録を塗り替えるとか本気で思ってその走りを始める珍行動をしたりとかさ。
令和の虎に出てたナマズの脳と量子コンピュータをつなげて作曲するとか言ってた人も結局殺人未遂。そりゃそうだ彼の5ch書き込み見ても浅い知識をくっつけたポエムだったんだから。
で、望月はどうか。
ショルツ氏は彼の証明は系3.いくつだか忘れたがとにかく具体的な箇所を指摘してそこから過程がすっとばされてると言っている。
これはどうにも怪しい言動だろう。
確かに数学は初学者や中級者でも行間が見えない証明ってものがあるけれど、分かる人には行間が正確に補えるものになっているから、いわゆる訂正可能性みたいなものが保証されているから問題ない、数学的主張しての効力を認められているといる。
それが同じ専門の大家同士なのに本人以外は行間cが補えないっていうのはどうなのか。
また学部生でもわかることと言ってるが学部生では太刀打ちできない理論であることは望月自身が自分が取った弟子に対して認めていたことらしいのでここに主張の無理筋さが感じられる。ショルツでもわからないことが学部生にわかるだろうか?
自分が見た数学の作法本には数学の証明とは誰が見てもちゃんと読めば同じ結論が成り立つことが一部のごまかしもなくはっきり分かる主張ということであるということが書いてあった。
相手の認知リソースに依存しきりの望月の反論はもはや証明の精神に明確に反すると言えるのではないか。
つまり望月が証明として見てくれと言うものは正真正銘本人を除き誰も行間を補えないレベルの飛躍が起こっているとして、さすがに本人しか証明として解読できない表現を証明とするのは無理があるのではないかということだ。万人が理解できるのが理想とされるのが証明であるのに、この世でたった一人しか理解できないものになっているのだから。
それでも過去の業績は疑いようなく優れたものらしい人なわけだから今回も望月の頭の中ではすっ飛ばされた過程について省略せずに書いたらどうなるかということがはっきり頭の中にあるのかもしれない。令和の虎の人は東大には行ってたらしくそれも普通の人から見れば素晴らしいわけだから、この過去が素晴らしいなら糖質になったとしてもその成果は素晴らしいはずだという考えをどこまで適用できるかという程度問題なところがある。
でも望月の今までの業績に比べたら東大合格なんて鼻くそレベルなのも確かだろう。
頭の中に省略部分があるならフェルマーごっこをやってないできちんとその行間も提示すればいいのに、しないのでは、糖質ゆえの法螺吹きごまかしと受け取られても仕方がないと思う。明確に証明の作法に反しているのだから。
でもやっぱり彼の頭にはいまだ公開していない完全形の証明があるかもしれないと考えてしまえるほどには今までの天才ぶりに関する信用貯金が残ってるのがなんとももどかしいところ。
dorawiiより
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「理解」の彼方にある数学──望月新一とIUT理論が問いかけること
一方には、自ら構築した「宇宙際タイヒミュラー理論」で数学界の難問ABC予想を解いたと主張する望月新一。
もう一方には、その証明に「説明不能なギャップ」を見るペーター・ショルツェ。
彼らは同じ言葉(数学語)を話しているはずなのに、まるで異なる星の住民のように、互いの論理を捉えきれなかった。
これは、数学者がIUT理論に触れた時に口にした、ほとんど哲学的な嘆きである。
2. 数学は、いつ「別の教科」に化けるのか
我々が学校で習う数学は、確固たる地面の上に築かれた都市のようなものだ。
公理という基礎の上に、定義というレンガを積み、定理という建造物を建てていく。誰もが同じ地図を持ち、同じ道を歩める。
しかし、ABC予想のような深淵に近づくと、地面は忽然と消える。
そこには「夏場の動く氷河」が横たわっていた。足場は流動し、割れ目は見えにくい。
望月新一は、この氷河を渡るために、従来の登山道具(数学的概念)では不十分だと考えた。
彼は新しいアイゼン(宇宙)とロープ(ブリッジ)を発明し、一人で渡ってしまった。
「見よ、対岸に着いた」と彼は言う。
IUT理論の核心は、異なる「宇宙」を結ぶ「ブリッジ」にあるという。
だが、このブリッジは、従来の数学が知るどの「橋」とも似ていない。
それは具体的な写像ではなく、関係性の比喩のようにも、あるいは情報を転送する「儀式」のようにも読める。
「このブリッジの設計図には、応力計算が書かれていない」とショルツェは言う。
「いや、これは新しい種類の橋だから、従来の応力計算では測れないのだ」と望月は応じる。
ここに、論争の本質がある。
だが、基準を逸脱したものが、果たしてまだ「数学的証明」と呼べるのか?
4. 地動説の再来、それとも幻影?
ガリレオが「それでも地球は動く」と囁いた時、人々は自分の足元が動いていることを想像できなかった。
あまりに直感に反するため、受け入れるには世界観の書き換えを迫られる。
IUT理論には、その「数学的望遠鏡」がまだ大多数に共有されていない。
望月という一人の天才だけが覗ける望遠鏡で見えた景色を、どうやって共同体の確かな知識に昇華させるのか?
数学は、歴史的に「孤独な探求」と「共同的な検証」の緊張関係の中で発展してきた。
ガロアは孤独に群論を創り、ワイルズは7年間を孤塁で過ごした。
だが彼らの証明は、いずれも共同体に開かれ、検証され、受け入れられた。
あまりに自己完結的で、あまりに独自の言語で書かれているため、検証のための「共通の場」が成立しにくい。
それは、一人の建築家が、共通の建築基準を無視して建てた、あまりに独創的な塔のようなものだ。
美しいかもしれないが、他の建築家には、その安全性(正当性)を確認する手段がない。
それは、「人間はどのようにして、個人の深い直感を共同の確実な知識に変換するのか?」 という、科学哲学の根本問題に触れている。
もしかすると、我々の「共同的な理解」というフィルターは、真に革新的な知を濾過してしまうのかもしれない。
あるいは逆に、そのフィルターこそが、科学を単なる個人の妄想から救う防波堤なのか。
望月新一は、そのフィルターを──意図的か否かは別として──きわどくかすめるようにして、新しい数学の大陸を発見したかもしれない。
だが、彼だけがその大陸に上陸し、他者はまだ船(理解)を持たない。
7. 終わりに──氷河は解けるか
「5日間では短すぎた」。
そう誰もが思う。だが、果たして何日あれば足りたのか。
新しいパラダイムを理解するには、時に「学び直し」に近い時間を要する。ショルツェら一流の数学者でさえ、その途上にある。
だが、数学的真理の受容は、単なる手続きではなく、共同体の魂が納得するプロセスでもある。
いつの日か、この氷河が確固たる大地として多くの人に認識され、ABC予想への道が共有される時が来るのか。
それとも、この氷河は「夏の終わり」と共に消え、数学史の不思議なエピソードとして記憶されるだけなのか。
答えはまだ、誰も知らない。
ただ、この論争が我々に教えてくれるのは、数学が──ひいては科学が──常に「理解の境界線」との戦いである、という厳粛な事実である。
数学とは、確かな地面を歩む技術であると同時に、時には氷河を渡る勇気でもある。
望月新一は、その渡河を一人で成し遂げた。
問題は、彼の後を、我々が続けることができるかどうかだ。
chatgptが望月新一の例の論文を理解してないっておかしいよな。
人間と違って疲れることも無く一日中論文の学習に回せるのだから証明の追体験はできるはずだ。
それで「私は他の評価をまた聞きした印象から論文に言及することしかできません」とか言うのはなにか意図的なものを感じる。
より多くの人がchatgptの解説を通じて論文を理解できるような状態になったら困るとか思ってるのかもしれない。
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なら、望月新一のABC予想の証明に対して、これは証明できてるという人と証明できてないという人もいるのはなぜ?
そういうのみると、法則を規定する定義がそもそも一意に可能だったのかって話になるでしょ?
でも学生は答えと解説を見るまでは疑いなく正しく公式を適用してると思っているかもしれない。
相対性理論とかになってくると延々と自分流の理解から脱却できず知恵袋で恥をかいている人がいる。おそらくこれはそれほど安易に決めつけ理解したのではなくむしろ精一杯苦しんでもがいてその自分が正しいと思っている理解に至ったのかもしれない。
でもまっとうと言われる学者はそれを間違いとはっきり考えている。でもその学者の理解もまた思い込みでないとどうやって証明できるんだろうか?知恵袋で恥かいてるやつも学生が苦しんだ公式ぐらいは一般に正しいとされる理解をするかもしれない。学生と知恵袋の人、知恵袋の人と学者、全ては相対的だ。
そういうことを感じさせるのもまた望月新一周りの紛糾である。ある論理的情報とそれに対する理解内容との矛盾は一意的に評価可能なのかということだよ
たとえばユークリッド幾何学での直線は「幅をもたず、両側に方向に無限にのびたまっすぐな線」だそうですが、これも「幅」とは?「(幅を)持つ」とは?両側とは?「方向」の定義は?「無限(限りが無く)」とは?そもそも「限り」って何?「のびる」とは?「まっすぐ」とは?「線」と結論づけるのは循環論法じゃないの?
と突っ込む人にとっては厳密ではなくなっていませんか?
ここで、これらの言葉の意味は、国語辞典に載っている意味と同じものだよなどといおうものなら、それこそ数学の厳密性を否定したようなものになってしまっていると思います。
たとえば「方向」を調べたら「向くこと」とでます。これを調べると「物がある方向を指す」というふうに出ます。これは循環論法に陥ってますし、「物の正面があるものに面する位置にある」という別の語釈もありますが、物とは?正面とは?面するとは?位置とは?となります。これを繰り返せば結局どこかで循環論法に行きつくでしょう。
そもそも数学の根幹部分を支える論理学の重要な概念である「否定(そうでないこと)」にしても、厳密に定義することは可能なのかと思います。
「~でない」というのは、そうであることがないということ、と言ってみたところで循環論法。
そうであるのになぜ上記のような定義や公理が厳密なものと認識されているかといえば、「さすがにここまで平易な単語の組み合わせで書けば、これらの単語については私が常識として理解してる意味と同じ常識を、相手も持ってるはずだから同じ理解をするよね?」みたいな態度に立っているんだと思います。
結局相手も同じ常識を持っているという不確かな信念によりかかっている、甘えている点で、数学の記述もまた完全に厳密で一意というわけではないのかなという気がしてくるのです。
そもそも「方向」なんていうような概念は、言語によって定義されたものを知っているというよりは、幼少期に言語を習得していく過程で、それが話されるシチュエーション、つまり五感などあらゆる感覚の総体とセットでそうした言葉が使われているという環境に身を置いているなかで理解しているにすぎません。理解内容が各個人で全く同じである保証はどこにもないと思います。
どんなに高度な数学の表現も究極的には自然言語に還元されるはずで(どんな高級言語も機械語に置き換えられて処理されるように)、自然言語の各単語に対する人々の理解は原理的には五感に根差した感覚的なものなのだから、数学の記述が厳密で一意というのは、結局はほかの記述の仕方に比べた程度問題(つまりは誇張表現)なのかなと思うのです。
感覚によらない「証明」をすることに価値を見出す人が数学をありがたがることがありますが、数学もまた根源的には感覚ありきの理解に基づいていると思うわけです。
この考えは間違っているでしょうか?そうであればどうして間違いなのか、どこがどう理解を誤っているのか知りたいので教えてください。
ちなみにたとえば「否定」というのは、根本的には、やはり言語で理解が完結しているものではなく、現実の状況としての存在非存在にそれぞれ直面して、それぞれに対して「○○がある」「○○がない(なくなってる)」と言われてる場面を経験したうえで、その状況から理解した内容のさらなるアナロジーとして理解してるに過ぎないと思います(理解のあり方が、言語的ではなく、観念的直観的)。
数学が他よりも他者と厳密に同一な合意が常に成り立つ、その工夫として、抽象度を高くしているのがその工夫にあたるのではないかという人がいました。↓
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14293524459
しかし抽象度を高くすることは、合意内容のずれを減らすという点で「有効でもあり逆効果でもある」のではないかと思いました。つまり諸刃の剣なわけです。
有効である理由はリンク先に書かれているのでそこに説明を譲るとして、逆効果であると思う私の説明を書きます。
つまり、抽象度が高い概念は、抽象度が低い概念や直接的な事物に比べて理解が難しい傾向があるのがまずあるわけです。
また定義者の提起する定義をそれを発信される側が期待通りに理解しているかを確認するのも、抽象度が高い概念ほど困難な傾向はあると思います。
これ自体ある意味で抽象そのものなのでたとえが悪いですが、たとえば「左を向いて」という発言に対して、「左」を向く反応をすることで、この人は左について正しく理解してそうだなという確認(いや原理的には推定というべき)することができます。
抽象度が高くなるほど具象と結びつけたこのような正しく理解してるかの評価、確認テストをすることが難しくなるでしょう。
といってもそもそもわれわれは相手が自分の言ったことを期待することと厳密に一致した内容で理解してるか確認することは原理的に不可能です。
頭をパカっと割って理解内容を覗きみるということはできないですから。
対象となる言葉に関連したその人の発言や反応をみて、理解の結果としての発言や反応として、その人がある部分で正しく(定義者の期待通りに)理解してるだろうということを推定するしかありません。
しかも全体ではなく一部だけの理解が正しくても、発言や反応には異常が見られないということもあるでしょう。
反応や発言をいくら調べても、概念全体を期待通りに理解してるかのテストには無限通りのパターンが必要と思われ、原理上不可能と思います。
哲学的ゾンビにも通じそうな話ですが、日常の範囲内で「理解に齟齬があるような反応が返ってこないなら」そんな「理解が完全同一でないかもしれない」という可能性上の話を心配する必要はないというのはその通りでしょう。
ただ場合によってはそれが表出したように見える一例が、あれの原因がこれだとは言いませんが、望月新一がABC予想を証明したという論文での紛糾みたいなことが起こる一因にはなりえると思います。
あれだけ理論として抽象的な概念を積み重ねた先には、定義者とそれ以外のその定義を見た人とでの理解のずれは、反応や発言として顕在化してくるほどになっても不思議ではありません。(定義者の解釈が正しいという優劣の問題ではなく)
とはいいますが、そもそも「矛盾」とは何か?「論理」とは?「範囲」とは?とは、といくらでも曖昧でしょう。
たとえ矛盾を記号論理の表現で記述して定義した気になったところで、じゃあその記号の定義ないし意味は?とどこまで突っ込まれても感覚に頼らない定義が可能なんですかね?と思います。
数学に限らない話じゃんっていうのはまあその通り。
でも定義について「厳密で一意」であることを(得意げに?)標榜してるのは数学(+論理学)とそれベースの客観的であろうとする学問ぐらいだから、別にエントリ名詐欺じゃないよね?
a=b、aはbだ。「は」って何?「だ」って何?「英語的にはどっちもisという語に集約されてるけど、じゃあisってなんだよ」ってところから概念の共有をしてない前提に立った時、その概念を非感覚的で厳密に共有することは可能なのか、それが「完全に」できたと確かめるのにはどうすりゃいいって話よ。
言葉という形式が従で、それに乗るべき内容が主であることは百も承知だが、形式言い換えれば入れ
物抜きに内容を厳密に伝えられるのか、入れ物の存在に無関係な、内容の厳密な伝達というテレパシーじみたものを考えることはそれこそ論理的に正しいのかという話でもある。
非言語的なテレパシーは論理的に矛盾してるので存在しえないのではないかとは思っている。
イデア論かな哲学書読めばってブコメついたけど、順序が逆なんだよね。
イデア論とか学校で習って本読んだりして教養として知ってるからこそ、改めてその考え方を自分なりの具体的な考察対象にあてはめて思索したくなるわけよね。
先達の哲学者たちがいなかったら俺はいまだにブルアカで抜くだけの毎日だわ。むしろ哲学者リスペクト100パーセントなんだよね。
語彙力ないので語弊ありそうなのは百も承知だが、哲学って考え方の基幹部分のオリジナリティーはそんな求められてないんだよ。
むしろ先人から受け継いだ考え方をどう今の時代の具体的な問題に適用して考察を広げるかが大事なので、ちょっと哲学かじったような素人目には過去の論文の焼き増しに見えてその存在意義が理解できないような論文はごまんとあるんだよね。
ああいうブコメつける人って「方向性とかみたいな意味でベクトルという言葉を使ってる人は横文字使いたがりの格好つけ」と言ってる人みたいな人を性悪説的にとらえるクレーマー気質が高い人間に感じる。
ちなみに俺はベクトルという言葉を使う人は「周りがベクトルという言葉を使ってるから、リアルタイム性を要求される会話でとっさに出てくる言葉がベクトルだから、それをそのまま使ってる」ってだけだと思う。
数学(あとせいぜい理論物理)の研究をするような人たちがほかの全学問の研究に従事すればいいと思いませんか?
数学は数論の本とかだと入門書でも修士レベルの知識がないと読めないのがあるそうです。他の学問でこんなことはそうそうないでしょう。文系なんかは別に入門書じゃなく、専門家が同じ専門家に向けて出したガチの専門書の体で出された本だとしても、下手したら高校生でも読めると言ったら言い過ぎかもしれませんが、賢い大学生なら普通に読めるでしょう。
数学とそれ以外じゃ学問としてのレベルが違いすぎるのだと思います。
つまり、今現在他の学問をやってる研究者は数学をやるのは理解力が足りず無理でしょうが、逆に数学やってるような人がほかの学問をする分には、今その学問をやってるような人たちよりもまず頭がいいので、今後もその人たちに研究を続けさせた場合に得られるものよりもより多くて高度な成果が得られるのではないかと思いました。
自由主義なのでそんなことは無理ですけど、もし成果だけで考えたなら、今数学以外の研究してる人には全員学術の場からは退いてもらって、望月新一みたいな優秀な数学者のクローンを作ってその人たちにあらゆる学問の研究をさせたほうがいいと思ったのですが、みなさんはどう考えますか?
ふーん?一点突破でもなんでもいいけどこれ以上ないぐらい二次創作肯定派を騙される論法だと軽く物事を発明した気分になったぐらいだけどなあ?俺自身は何年も知恵袋で二次創作周りの口論見てきた上でのこの投稿だよ。
それなのに結局肯定派は知恵袋で見てきたようなゴネ方しかして来ないのは望月新一のIUT理論が賛否両論ある如く天才のそれだからこそ反発したがるってことなのか、それとも単に何を言われてもカルトじみてて一行たりとも都合よく曲解することしかしないから周回遅れの反応になるのか…
暴行罪関連だとたとえば腕引っ張る程度なら暴行と感じるか感じないかやられた側の感覚は別れると思うけど、暴行罪はその行為を同意してる限りは成立しないってんで親告罪的でもあるが、だからといって初対面相手に同意してくれることを期待して腕引っ張ることをデフォでして大丈夫、あるいは自己責任として喧伝していいと思うか?
でも学生は答えと解説を見るまでは疑いなく正しく公式を適用してると思っているかもしれない。
相対性理論とかになってくると延々と自分流の理解から脱却できず知恵袋で恥をかいている人がいる。おそらくこれはそれほど安易に決めつけ理解したのではなくむしろ精一杯苦しんでもがいてその自分が正しいと思っている理解に至ったのかもしれない。
でもまっとうと言われる学者はそれを間違いとはっきり考えている。でもその学者の理解もまた思い込みでないとどうやって証明できるんだろうか?知恵袋で恥かいてるやつも学生が苦しんだ公式ぐらいは一般に正しいとされる理解をするかもしれない。学生と知恵袋の人、知恵袋の人と学者、全ては相対的だ。
そういうことを感じさせるのもまた望月新一周りの紛糾である。ある論理的情報とそれに対する理解内容との矛盾は一意的に評価可能なのかということだよ
特に物理数学、いやそ例外でもいいんだけど難関大見据えた参考書に書いてある「ひねった問題」をいまだ解けないであろう状態で断捨離するのに抵抗があった。
ああいうのってかりに大学レベル以上の知識や問題演習を積み重ねても、それより下位の問題としてのああいった受験特有の問題が自ずと解ける力が身についてるとは限らないと思うんだよね。もちろんずば抜けて応用力がある、一を聞いて十を知るタイプなら、高校の参考書なんか全部捨てちゃって、常に前を見て学び続けた方が効率よく賢くなれるんだろうが。
んでそういうひねった問題を解くのに必要なものの考え方が足りてないのがネックになって、大学レベルの理論の理解でつっかえるというケースも多分無きにしもあらず。微積分の極意とか難問題の系統に載ってるような問題を解くのに使うものの考え方が、学術書の解説ではそんなの当たり前というように省かれているのだと思う。問題演習してきてる人はその経験が思考のエンジン、目の前の文章にパズルのピースとして情報を補うようにしてなんなく読みこなせるが、それを怠ってる人はつまづいてしまう。
望月新一とか言う人の証明がもし本当に正しければ彼の理論を知ってればフェルマーの最終定理は数行で証明できるそうだが、全てが全て、上位の理論を理解してればそれより下位の理論を解けるというようにはできてないだろう。
でもまあ結局親から迫られて捨てちゃった…赤チャートの数Cだけ線形代数とかベクトル解析とかする前にやっといたほうがいいんだろうってこっそり残しておいたが…うーんコンプレックス。
おれ、chatGPT使えるようになって真っ先に望月新一のABC予想についての海外数学コミュニティでの受け止めについて聞いてみたんだけど、その時はまあまあちゃんとした内容(通り一遍ではあるが)が返ってきた。いま望月新一について尋ねてみたらこんなのが戻ってきた。
望月新一(もちづきしんいち)は、日本の漫画家であり、推理小説家でもあります。彼は、特に『名探偵コナン』の作者として知られています。
望月新一は、1965年6月4日に青森県青森市で生まれました。彼は若い頃から漫画や小説を書くことに情熱を持っており、高校生の頃から漫画家としてのキャリアをスタートさせました。
1994年に、望月新一は『名探偵コナン』を連載し始めました。この漫画は、高校生探偵の江戸川コナンが、毒を飲まされて小さくなってしまった身体を利用して、事件を解決するストーリーです。この作品は、世界中で大きな成功を収め、アニメ化や映画化など、さまざまなメディアで展開されました。
望月新一は、漫画だけでなく、小説でも才能を発揮しています。『名探偵コナン』の小説版をはじめ、数多くの推理小説を執筆しています。
また、望月新一は、漫画や小説以外にも、音楽にも興味を持っており、自ら作曲した楽曲を使用したアニメーション作品もあります。
いや数学者だろ、とツッコミを入れたら以下。もっともらしいがデタラメ多い、というか、望月拓郎とごた混ぜになっている。
望月新一(あきら・もちづき)は、日本の数学者であり、代数幾何学を専門としています。主に、モチヅキ理論やモチヅキ加群、モチヅキ因子などの研究で知られています。
代数幾何学は、代数学と幾何学の融合であり、代数方程式の幾何学的な対象である代数多様体を研究する数学の分野です。望月新一は、代数多様体の幾何学的性質を研究する際に、代数的手法を用いて新しい理論を発展させました。
具体的には、望月新一は、代数多様体上の「D加群」と呼ばれる特殊な加群を研究し、それを用いて、代数多様体の幾何学的性質を解明しました。また、望月新一は、代数多様体上の「モチヅキ因子」と呼ばれるものを定義し、これを用いて、代数多様体の双有理幾何学に関する新しい理論を構築しました。
はい、2022年3月3日にトルコで大地震が発生しました。この地震は、マグニチュードが7.4と非常に大きく、エーゲ海の沿岸部や首都アンカラなど広範囲に被害が及んでいます。この地震により、多数の死傷者や被災者が発生しており、現在も救助・復興活動が続いています。
はい、望月新一(もちづきしんいち)は日本の数学者であり、代数幾何学やモチーフ理論などの分野で業績を残した研究者です。代表的な業績としては、ミラー対称性予想の証明に向けた研究などが挙げられます。また、一般向けの著作や講演活動も積極的に行い、幅広い層からの支持を得ていました。望月新一氏は2018年に急逝されました。
死んでねーよ
望月新一はせめてあと一つでも日本の雑誌でいいから査読掲載を認めさせることができないものなのか。
掲載されたのが自分とこの雑誌だけなんじゃ到底参照先として使えないよな。論文の内容が正しいって担保が著しく足りないンダもの。
つまり既に証明済みのフェルマーの最終定理とかならともかく現段階でABC予想が正しいとして初めて証明される諸定理を使っての研究は今不可能なままなわけだ。学問が進まない。
望月は自分達さえわかってればいいって態度なんだろうがその理解者が明らかに質的に足りなすぎてる。せめて論文が正しくて安全に活用可能と一般の研究者が判断するにたるぐらいには理解者がいなければダメよね。つまり担保に値すると判断されるレベルの数の雑誌に掲載される程度には理解者(査読に携われるレベルの専門家)を得られなければダメだ。
別に御用学者みたいに大衆に迎合しろって言ってるのとは全然違うことぐらいわかるよね。
それすらわからないふうに自分さえ真理に到達すればいい、最低限の人に理解させる必要などないみたいな態度とってるんじゃまさしく宗教家のそれだよ。望月論文自体が宗教と言われてるのがやっぱりあながち的外れでないことになってしまう。
望月新一のブログを見たがブコメ言う通りお世辞にも文章がうまいとは言えないな。くどい。汚い。エレガントじゃない。
欧米の大学じゃ入学してからしこたま作文能力を扱かれるそうだがあの文章力でよく単位くれたよな?ひいては今のゴタゴタにもつながってるんだと思うけど。
望月くん説明下手すぎー。せめて雑誌編集を担当するレベルの数学者にわからせられないようじゃ相手が馬鹿なのが悪いなんて言い訳通用せんでしょ。
ガリレオも説明義務を怠ったわけじゃないからな。あれは宗教的洗脳を解くという別の意味の戦いも混じってるわけで科学的な説明はガリレオは果たしていたはずだ。むしろ宗教者側もガリレオの理論の整合性は理解していて、でも神を否定するわけにはいかないとむりやり否定する結論ありきで弾圧したに過ぎない。ゴネていたのは宗教者の方。しかし今回ゴネているのはどう考えても望月の方。
望月が今回の件に関しては一ミリも学問を前に進めていないのだ。だってABC予想が正しいと言う前提で証明されるもろもろの定理がいまだ活用されて新たな数学的事実の発見に繋がってないんだろ。だったらそれは論文を書いてないのと同じ。仕事してないのと同じだよ。