はてなキーワード: 教育刑とは
5月9日、加藤純一(通称うんこちゃん)がストリーマー事務所株式会社DRKS(ドロクサ)を設立したと発表した。
立ち上げ時点の所属メンバーは、布団ちゃん、ゆゆうた、もこう、おにやと、ゲーム系の配信者を見ている側からすると、全員ではないが悪評はあるものの実力派のストリーマーが集まったという印象だった。
この顔ぶれから、XやTwitchのコメントでは悪ノリも含めて「はんじょう」に言及するものも少なからずあった。
私も少なからずはんじょうのことを思い出した。
過去形だ。現在のスタンスは、擁護はしないが応援したいという気持ちはある。ただ、現状の彼を応援することは出来ない。
行った事象に対して許す、許さない、許される、許されないという話ではなく、現状の彼の姿勢や行動を応援することが出来ない。
私は元々、スプラトゥーンが好きだった。
いや、今も嫌いだとかそういうわけではないのだが、社会人になるにつれてプレイする時間が減ってしまった。
プレイする中で色々な配信者や動画を視聴していて、当時からスプラトゥーンの人気プレイヤーだったはんじょうもその中の一人だった。
そのはんじょうが昨年春頃、過去に携わっていた事業に関する疑いで炎上した。
内容としては、法的に問題があるような情報商材の販売、また反社会的勢力との関係性が疑われたことによるものだった。
これに関して、彼は所属事務所であるUUUM株式会社と共同で声明を発表し、反社会的勢力との関係については全面否定した。
信じられなかった。いや、彼自身後ろ暗い過去があることを仄めかしていたのだが、想像していたものを超えていた。
罪の重さ、被害の程度については全てを知っているわけでもない。
ただ、彼のその後の言動や行動、姿勢を見て私ははんじょうのことを応援することが出来なくなった。
悪いことをしていたから応援出来ないのではない。原因ではあるもののそれが全てではない。
応援することが出来ない一番の理由は、反省しているのかがわからないからだ。
反省し、罪悪感を抱いてそれをどうにかしたいと思い行動しているように見えないからだ。
私は一時期、弁護士である先輩に勉強を教えて貰っていた時期がある。
その際に、更生を目的とした罰というものはどうあるべきかという話をされた。
一般的に刑罰の目的は応報刑と教育刑の考え方から、報いを受けさせること、その後の犯罪を防止させること、更生させることを目的としている。
先輩の考えは、更生を目指して与える罰というものは社会との関係性を繋ぎ留めることを考えて与えなければいけないとのことだった。
例として、海外の黄色い服を着た受刑者が社会奉仕活動を行うという話をされた。
悪事を働いた受刑者だと一目でわかる状態にしながら、地域で社会奉仕活動を行うというものだ。
これの本質は、良いことをしたから許されるべきという話ではない。見直されるべきという話でもない。
社会との繋がりを受刑者に実感させながら、正しく反省し罪を見つめることが大切なのだ。
見ている側は、それで彼らを許すわけではない。ただ、贖罪する気持ちがあるということだけは少なからず伝えられる。
私個人の考えでは、勿論罪の程度にはよるものの更生することは出来るし、更生する機会を与えられても良いとは思っている。
ただしあくまでも、その機会は周りが与えるものではなくて、本人の行動や気持ちが最も重要だ。
詳細には書くことが出来ないが、物理的にも精神的にも他人を傷つけたことにより少年院に送致された。
現在は結婚して子供もいて、誰もが名前を知っているような企業で働いている。
行った犯罪に関してはかなり酷く、惨いものだった。正直、彼を立派だとか完全に更生したとまでは言うつもりもないし、やはり色々なことがちらついてそうは思えない。
しかし彼は少年院を出て10年以上、地域のボランティア活動等に積極的に参加し続けている。
何度も言うが、それで許されるわけではない。立派なわけでもない。直接的な償いになるわけでもない。
ただ彼は、間違いなく反省はしているし、消えない罪悪感を抱き続けている。そしてその罪悪感を、どうにかしたいと思っている。
許す、許さないという話にはならないし、立派だと称賛するつもりもない。
ただ、その罪悪感を抱き続けてどうにかしようという行動そのものについては、私は応援出来ることだと考えている。
その果てに許しが約束されているものでも、真の意味で更生と認められるものでもない。絶対に彼を許さないという人もいる。
しかしそれでも、罪を認めて罪悪感を抱き続けている。
長々と綴ってしまったが、それでははんじょうはどうか。
最初に書いた通り、罪の重さや被害の程度はわからない。はんじょう本人が当時どのようなポジションで責任がどの程度あったのかも、定かではない。
しかし確実に言えることは、彼は彼自身が後ろめたくなるような悪いことをしていたのだ。それは、紛れもない事実だろう。
そして彼がそれが明るみに出た時点でしなければならなかったことは、正しく反省することだ。罪悪感を抱いてそれを行動に移すことだ。
昨今、はんじょうをはじめ上記のDRKSに所属する配信者も過去に発言をしていたが、「謹慎は意味がない」というようなことを言う。
言いたいことはわかる。起こした事象に対しての報いにもなっていないし、補填にもならない。だから意味がない。
しかし私はこの言い分が好きではない。というよりもこのような極論を言って気持ち良くなっている様が好きになれない。
あまりにも0か100かでしかなく、考えが短絡的過ぎるからだ。
謹慎も一つの反省の行動であり、意味はある。ただし、それで全てが許されるわけではない。
このような考えがあるからなのか、彼は反省という行動をどのように取れば良いのかわからなくなっている、もしくはそもそも知らないように見えた。
具体的に彼が何をしなければならなかったか。
まずは自分がどのような悪いことをしていたのかを明らかにすることだ。何が悪いかを自覚するためにも、それが必要だ。
そして、反省の”示し方”を考えることだ。
そのためには周りを頼っても良い。助けを求めるために頼るのではなく、何が反省を示すことになるかを相談するためだ。
彼にはそれが見られなかった。
少なくとも私には、それを行動に移せているように見えなかった。
私もそうだが、育った環境が特に悪くなければ、そもそも不貞行為や犯罪行為を行うこと自体想像がつかず共感出来ない。
そのため、昨今では悪いことをした時点でその人は終わりであるという考えも少なくないだろう。
ただ、多くの人を見てきた中で、生まれ育った環境が良くないが故に常識や認知が歪み道を外してしまった人も沢山いた。
はんじょう自身も生い立ちを語る中で、そのような片鱗は見えた。
同情するわけではない。だから仕方がなかった、情状酌量の余地があるなんて毛頭思わない。
しかし、反省して罪悪感を抱いて自分に何が出来るかを考え続け、行動に移すことは今からでも出来る。
ただそれは、今からやれば許されるだとか、そんな短絡的なものではない。そもそも時期の問題でもない。
直接的に許されることに繋がる行動なんて無い。
「そんなことをやっても意味がない」と周りからは非難されるかもしれない。
懸命に考えて行動しても否定されるかもしれない。
ただ、反省し罪悪感を抱き続けるということはそういうことであり、それが罰なのだ。
罰を受け、その罰に苦悩している姿を見ることが出来た時、許すことも歓迎もしないものの、私はその罰を正しく受け止め、反省し罪悪感を抱く姿を応援したいと思う。
ダンジョン飯が「お約束的世界観に対して上から目線でメスを入れ」るコンセプトだと聞いて意外だった。というのもあの作者がやってる事は当たり前の世界観構築の一つだと思っていたから。
>ダンジョン飯みたいな「古典RPGのお約束的世界観に対して上から目線でメスを入れようとする作品」が前から嫌いだった
https://anond.hatelabo.jp/20250427090957
多分なんだが、元増田はJRPG一貫でRPG黎明期とかに興味がないのではないか。
そういう約束事というのは最初からあったのではない。グラフィックがプアな黎明期に製作者達が共同幻想を構築していったので出来たものなのだ。
ダンジョンはそもそも城の地下に築かれる地下牢を指していた。中世~近世のヨーロッパには教育刑の概念はない。だから地下牢では拷問が行われたり単に囚人を放置して餓死させたりしていたし、灯火も無く発狂必須だったりした。大きさはそんなに広くはない。
そこから怨念が染みついた恐ろしい場所というイメージが付いた。
更に城が放棄されて崩壊しても地下構造は残る。そこで「崩壊した古城の地下には財宝が残っているかも」という妄想が付きまとうようになった。
1970年代のテーブルトークRPG(TRPG)の代表、D&D(ダンジョンズ・アンド・ドラゴンズ)ではこの妄想を膨らませ、「ダンジョンには巨大構造があって深くなうほど怪物が強くなって最奥にはドラゴンが財宝を守っている」という設定を作った。
ゲーム盤はただのマス目とサイコロだけであり、付属のカードのイラストで世界観を想像してね、という仕様だ。
因みにドラゴンは旧約聖書にも載っている「悪の手先」で、モンサンミッシェル寺院の屋根の上でミカエルに踏んづけられていたりする。昔からだれもが知っている悪の手先とダンジョンの妄想世界観を組み合わせたんだな。
黎明期にはこの手の「世界観設定」の途中で意味が付与された事物が沢山ある。例えば
羽が生えた悪魔みたいな生物、ガーゴイルだが、これは元々はキリスト教会の雨樋のことだ。
教会建築では建物が痛まないように屋根の雨を壁から離れたところに落とす為の雨樋を付ける。日本の雨落しみたいな方法だ。
この雨樋の水出口には動物や怪物の顔から吐出するデザインが用いられていた。ごれがガーゴイルで、「うがいでガラガラ」みたいなオノマトペなのだ。ガラガラ言うからガーゴ。
ローマ水道で吐出口がライオンの頭みたいなもんで、欧州の伝統的な魔除けデザインだった。
これを黎明期RPGでは悪魔型怪物として「生命」を持たせたのだな。
エルフの伝説は各地によって異なり、悪戯好きの悪鬼の地域もある。これが今の耳が尖って痩身で聡明という風に固定されていった。
特にRPGの約束事の形成に影響を与えたのがウルティマ Ultima、バーズテイル The Bard's Tale、ウィザードリー Wizardryの三つだ。
このうちバーズテイルは日本だとややマイナーかもしれない。これは発売時期が他の二つより遅くてJRPGの発売時期と被ってしまった為だ。
でもこの作者はUltima、wizを繋ぐ鎹みたいな人物だ。バーズテイルの舞台はスコットランドに現存する遺跡から名を取ったスカエブレイという町なのだが、このスカラブレイという町はウルティマにも登場する。そこにはホークウィンドという重要人物が居るんだが、これがバーズテイル作者のロー・アダムスの成り替わりキャラ。
一方、wizには人間離れした強さの忍者、ホークウインドが登場する。これもロー・アダムス。
で、この三つの作者はD&Dが作ったファンタジーRPGの世界を拡大して今の「約束事」が出来ていくわけだ。この時独立独歩じゃなくて三大タイトル作者三人が協働したのが大きい。一人のアイデアを他が模倣する事で世界観が確立していくわけだから。
だからこの当時のプレイガイドなどを見ると、所謂攻略本などとはかなり違う。「この怪物はどういう生き物か」「この地形はどういうものなのか」という設定資料的な記述がとても厚い。
グラが貧弱な分、そういう所で世界観を膨らませる&作者たちの世界観を共有する事がプレイの楽しみという感じなのだ。それはだから単なるゲームではなくかなり文化の香りを纏っていた。
これを翻訳した日本でもその世界観の紹介は重要コンテンツとなった。何しろRPGという約束事が無い所にコンテンツを持ってくるのだから。
でもそのせいで恥ずかしい失敗もしている。代表例が、wizに出てくるかなり強い剣「blade cusinart」を「名匠カシナートの打った名刀」と紹介してしまったことだ。これの正しい訳は「クイジナートのフードプロセッサ」なんである。
cusinartはアメリカのキッチン用品メーカーであって、作者は悪ふざけで入れたアイテムだったのだが、翻訳チームはその辺のニュアンスを感じ取れなかった。今のフランス料理を「ヌーベルキュイジーヌ」って呼ぶこと、綴りを知ってたら間違えなかったのにな。
こんな風に三大タイトルは世界観構築に勤しんでRPGというジャンルを形成していったのだが、そのうちのウルティマがRPGの約束事を超えて風変りな変化を始める。
まず、モンスターを殺しまくってラスボスを倒し、財宝を手に入れ救世主として祭り上げられる、というRPGの目標を無視して、時に二律背反する命題を乗り越えて善行を積み、人格者として成就するというのがゲームの目標になる。
次に世界を救ったはずが他者の文明を破壊しており、他の種族の侵攻の原因を作ったのが主人公だった。その種族との調停和平を目指すというのがゲームの目標になる。
次にNPCが生活するようになり、店員は夜になると家に歩いて帰り、食事をして寝る。だから夜に店に行ってもサービスを受けられない。
次に凡そすべてのアイテムが動かせるようになり、好きな所に置いておくことができる。移動した物はそのままそこに残り、位置もセーブされる。ついでにそれらに生命を吹き込むと勝手に移動する。
これらはもうゲームの進行に何も関係が無い。だけど現実世界では物は動かせて外出から戻ってもそのままある。会社員は定時で退社して家に移動してご飯食べて寝る。だったら再現するのが当たり前だ、という考えである。
そしてこういう現実で出来る事は出来るようにするという仮想世界構築の妄執がウルティマオンラインという世界初のMMOを産んだのだった。
当初のウルティマオンラインの熱量というのは語り草で、ドワンゴの川上量生が時々熱っぽい文章を書いているのを見た事があるかも知れない。
これは単に初めてのネトゲと言うだけじゃなくて、RPGとしては異常なものであったからだ。
というのも、当初のUOにはクエストも無ければクリア目標もない。一切無い。ただ仮想世界があるだけ。
モンスターが徘徊する世界を強くなれば安全に冒険できるが、装備品は鍛冶屋に作ってもらう必要がある。でも一人で沢山のスキルを持つ事はできないようになっている。だから協働必須なのだ。
更に鍛冶屋は原料を仕入れる必要がある。原料→中間製品→製品とする事で、疑似的な経済循環が成立する。オフラインゲームしかやった事無い人がこんな世界に放り込まれたら最初は困惑するがやがてハマって「もう一つの世界」から出て来れなくなる。
しかもなんの役に立たないアイテムが超大量に存在する。ゲームじゃなくて仮想の「世界」であるならそれは当然だな。
「RPG世界を構築する」の妄執を続けていったら到達した怪作と言っていいだろう。
ただ、プレイヤーの行動は作者の思惑とは違うところも多かったようだ。
最初は店のアイテムもそのまま移動できた。だがリアルでそれを持って行くのが悪徳なら仮想世界内でもそれを控えるだろう、と作者は考えたが、そうはならず結局は制限を付けるしかなかった。
一方、ゲーム産業が隆盛した日本ではRPGはそれらとは違う進化を遂げることになった。やる事が細分化されて示され、それをクリアするのが目標となった。
また、「この〇〇というのは古代ケルトの風習で」とか「ケルトの風習なら△△では□□をするのがしきたりか」みたいな世界解釈をするという文化的文脈が余り無い。すると余計な詮索は世界に半畳を入れるような無粋な真似、という事になる。
するとお約束世界観に対する解釈を行う行為がポストモダンの「脱構築」の如くと言うのは得心が行く。
でもポモが虚仮にされるのは、世界に対する自分のルサンチマンが見えるからだ。批判の対象になるものをまるで理解も出来ないのに、「独自解釈」で切ればその対象の支配者になった気分になる。彼らはその為にやっている。概ねその対象は職業社会や国際関係などの身体的に揉まれないと会得出来ないもの、基礎常識が大量に必要になる物が多い。
そのノリでサブカルチャーなどの作品やジャンルを斬れば斬られた方は棄損するしユーザー層は冷や水掛けられてシラケる。
だけどダン飯の場合は棄損して終わりではなくて、先に述べた黎明期の世界観構築と相同の行為であるからポモなんてゴミとはかなり違うだろう。
そもそも年喰ったポモなんてネトウヨになってるのが相場だ。心性が右翼だからじゃなくて社会にコミット出来ない自分の自我保護の為にやってるのだな。はてなにも居るな。彼らって言ったがはてなのは彼女らかな。
ファンタジーで日本刀が強すぎ、とか侍が特別扱いされ過ぎ、というのがよく話題にのぼるが、これもRPGが関係してるのよ。
1960~70年代に日本ブームがあった。このブームの主体はアメリカの反体制ベビーブーマーで、要するにヒッピーの類縁なのだ。
当時のアメリカの若者の一部は己らの西洋文明がイヤになっていた。物質主義で、商業主義で、民族自立に対して戦争で弾圧していた。理想主義だったマルクス主義はとんでもない抑圧的体制にしかなっていない。
そこで注目されたのが東洋哲学、特に禅だった。特に「日本の禅」に強く吸引されたのだ。当時の日本は敗戦で世界の表舞台から消え、工業が再興して居たが文化的には謎の国となっていた。ビートニクと呼ばれる小説家集団の影響もある。
端的にいうと、ヒッピー的には日本とは精神的で特別な存在だった。
これが同時代のサブカルチャーに影響を与えるようになる。例えばスターウォーズのジェダイとは時代劇の「ジダイ」の事で、侍に類した強い精神性を武器としている。
だからwizには他の地域の戦士はいないのに最初から侍と忍者は登場する。ウルティマにも刀が登場する。
また、日本刀の制作は限られた刀匠以外には禁止された事もあり、その制作過程は過剰に伝統工芸的で精神的だ。これもヒッピー的文脈にある人を魅了した。
故に1980年前半に勃興したコンピュータRPGに登場したのだ。だからムラマサはワードナでも真っ二つなのだ。彼ら制作陣はベビーブーマー後期からその下の世代である。
因みにウルティマの作者の思想はガチヒッピーである。ウルティマ6のオープニングに表れているので暇があったら見てみて。https://youtu.be/7nBWuV_E6Eg?si=WIOEs3PObTpBFADO&t=462
魔法の残量をマジックポイントMPと書くゲームとマナと書くゲームがあるだろう。
この「マナ」というのは文化人類学用語なのだ。民族部族で魔法や神力があると信じられている場合、その力をマナと言うのである。だからMPよりもより正しい用語に直したのだな。
だからあのマンガがやってる事は物語にメスを入れて切り裂く行為ではなくて、黎明期に構築していった行為と相同であり、黎明期の精神を共有していると見える。
というか、wizやウルティマのプレイガイドそっくりなのだ。作者がwizを後からプレイしたと知って驚いたくらいなのだ。
因みに増田は普段はマンガを読まないのだが、ダン飯にはハマってしまい、その世界が終わるのがイヤで最終巻をまだ読んでいないのだ。我ながら病的である。
ところでなんでもサービスイン当初のUOをやりたいと考える人は多く、その為のクラシックサーバが出来たようなのだ。増田もちょっとやってみようかな。
追記書いたよ。
死刑賛成派の大半は、犯人を懲らしめたい人たちだから、社会からの隔離だの教育刑だの何だの説明しても、そもそものやりたいことが違ってるから説得できないんだよ。死刑賛成派は犯人を懲らしめたい人たちで、隔離だの教育だのはしたくないんだよ。
だから、彼らと同じ目線に立って、懲らしめになってないって言ってやらないと説得できない。現に、増田でもそこですれ違ってる言い合いばかり。みんな暇人に見える。
死刑賛成の人に、ぜひ考えてもらいたい重要なこと: 納豆食えるか?
納豆は食える人と食えない人がいる。納豆食えない人、大嫌いな人に納豆を食べさせるるのは恐ろしい刑罰になるが、納豆が好きな人に納豆食べさせたら、刑罰にはならない。
だから、納豆を食べさせる「納豆刑」は存在しない。受刑者によっては刑罰ではなく、ご褒美になるから、刑罰にならない。意味がない。
つまり、ある事を無理やりやらせる事が、刑罰として意味をなすためには、それが、「誰にとっても嫌な事」である必要がある。
さて、死刑とは、「死ぬ事」を無理やりやらせる事だ。それは、「誰にとっても嫌な事」だろうか?
自分にとっては「死ぬ事」が嫌な事だとしても、まわりに、「死ぬ事」を進んでやりたがってる人はいないだろうか?
ちょっと探すだけで「死にたい」ってSNSでつぶやいてる人間はたくさんいるし、この国では、年間3万人も、自分から進んで死を選ぶ人間がいる。死にたいと思ってるだけで実際に行動に移さなかったやつもカウントすれば、もっと多いだろう。
「死ぬ事」の愛好者が、この国には年間3万人もいるんだぞ?「死ぬ事」は割と愛好者の多い、人気の行為と言えるんじゃないか?なんで、そんな愛好者の多い行為が、刑罰になると思えるんだ?
しかも、日本の死刑は絞首刑、要するに首吊りだ。「死ぬ事」の愛好者、つまり、自殺者志願者の間では、首吊り自殺は苦痛なく確実に死ねる最も楽な方法として推奨されてる方法だぞ?そんな方法で楽にしてやってどうするんだよ。
刑罰は受刑者が嫌がることをさせることではない、などということは知ってるよ。
ただ、結局、そのロジックでは死刑賛成派を説得できなかった…というのが実情じゃないか?
そこがねじれてるんだよ。死刑賛成派の人の大半は、とにかく犯人を罰したい、懲らしめたい、というのが目的なんだから、彼らと同じ土俵に立って、懲らしめになってないって言ってやらないと、彼らの共感は得られないんだよ。
http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20081020/1224440558
これを書いた人は詭弁論者か、或いは単に無知なのかどっちかでしかないな。
まず、長谷川平蔵は以下のような事跡で有名な人物である。
寛政3年5月3日(1791年6月4日)、江戸市中で強盗及び婦女暴行を繰り返していた凶悪盗賊団の首領・葵小僧を逮捕、処刑した。被害者に配慮し、逮捕後わずか3日で処刑している。三田村鳶魚は宣以が機転を利かせたためであり、幕府もこれを了承したとしている。
長谷川平蔵宣以は、無宿人対策で人足寄場を作ったんであって、これはワーキングプアと軽犯罪者の対策なんだよな。
凶悪犯人に対しては長谷川平蔵はこれに限らず、常に厳罰(大抵死刑)を以って対処している人なのよ。
そこをこの人は誤解している。
そもそも長谷川平蔵が就いていた火付盗賊改方という役職は現在の人権意識からすればある意味とんでもない組織で、
拷問を日常茶飯に行っていたし、厳罰というより手当たり次第に死刑にする警察なんだよな。
(火付盗賊改方の中山)勘解由は元来なかなかの仏者でありました。それが六方男立てのあばれ者どもを鎮撫する命を受けた時分に、すぐに仏壇をぶちこわして、今日からはもう慈悲では治らない、というので、少しでも風体の変な者は、取っつかまえて詮議もせずに斬ってしまった。
中山勘解由は三万人ほど死刑にしているという記録があるようだし、過酷な拷問方法を考案したという説もある。
長谷川平蔵はそれよりは大分拷問を控えているようだが、凶悪犯に対してはひどい拷問をしているという説もあるし、
やっぱり現代の眼から見れば過酷な刑罰を行ってる。