教育刑で犯罪抑止した世界で最初の人物は鬼の平蔵だった


クイズのこたえ、遅くなりましたにゃー(ぺこり

18世紀エゲレスの犯罪行政

八百屋お七と少年法 - 地下生活者の手遊びという自分では気に入っているけど書きはじめのころなんであまり読んでもらえなかったエントリでもちょろっと紹介した、コリン・ウィルソンの「世界犯罪史」によると、18世紀のエゲレスではことのほかむごい厳罰主義の刑事政策がなされていたようですにゃ。


オレンジ公ウィリアムの即位から十年足らずで犯罪率が急上昇し、「手荒い暴力犯罪」が日常茶飯事になると、1699年には格別にむごい法律が成立する。価格が五シリング以上の物品の盗みは死刑というもの。万引きはたいていが死刑だ。しかも犯人はほとんど女子供。処刑場では女子供の首吊り刑が日常茶飯事になった。


治安判事ジョン・フィールディングは疱瘡で「体半分がかさぶただらけ」の十二歳の男の子のことを記録に止めている。子供は掏摸を教え込まれ、その多くがハンカチ一枚程度の盗みであえなく首吊り刑に処せられた。


コリン・ウィルソン「世界犯罪史」P191


名誉革命以降の約1世紀間はエゲレスで「ジンの時代」ともいわれ、犯罪率がすさまじかったことで知られますにゃ。
この時代のエゲレスはオモチロイ!
市民革命と啓蒙思想があり、スゥイフトによる知識人批判が展開され、ヒュームの懐疑主義哲学があり、ニュートンによって近代自然科学が確立され、コーヒーハウスがにぎわって公共圏が形成されつつあり、そしてなにより産業革命の下準備がなされたこの時代は、一見すると明るく希望に満ちた時代のようにも思われますにゃ。
ところが


処刑した犯罪者の死体を解剖のため外科医に下げ渡す習慣は1752年に法律となる。これは首吊りより犯罪者をふるえ上がらせたらしい。官憲側は「処罰を苛酷にすれば犯罪の抑止につながる」と考えた。解剖もこれに基づく数多くの対策の1つである。


ほかにも首吊りに先立ち囚人を刑車に縛りつけ車裂きにする、あるいは焼き鏝(ごて)で体を焼く案も提示されたが、これは却下された。そんな手間ひまかけるには囚人の数が多過ぎる・・・。
一方、現実的な提案もいくつかあった。たとえば、処刑死体を骸骨になるまでさらし柱に放置すること。あるいは、鉄の檻の中で絞首刑を執行すること。こうすれば死体の早すぎる腐敗を防止できる(囚人を鉄の檻に閉じ込め餓死させる手も検討されるが、囚人の叫び声で近隣に迷惑が及ぶとの理由で却下された)。


一方、被害者の住まいの軒先に処刑死体を投げ出しておくという習慣もあった。裁判の宣告通りに処刑が行われたことの証である。1752年より後のイングランドを旅行できたなら、死体がぶら下がったさらし柱でせっかくの美しい眺めが台なしになっている情景に各地で出会うはずである。


ï¼°194


うにゃー。「奇妙な果実」どころか、処刑死体で鈴なりにゃんなあ。
というわけで、輝かしい人権思想の揺籃期にして近代自然科学の黎明期である18世紀エゲレスは、刑事行政の暗黒の世紀だったわけにゃんね。
万引きも実質的に死刑になっていたようだけど、他の軽犯罪はどのように裁かれていたか?
以下は土地をだまし取った詐欺師に執行された刑


まずさらし台にさらすこと。次に耳を切り落とし、鼻を切り裂き、灼熱した鏝(こて)でその部分を焼くこと。その上で終生監獄に閉じ込めるべし。


P196


この「さらし台」というのが危険極まりなかったようですにゃ。


1731年、ジョン・ウォーラーという密告者が軽犯罪で「さらし台」にさらされた。しばらく同人は石、びん、キャベツの茎などの標的にされた。1時間後、誰かが彼をさらし台から引きずり下ろし(それまでは直立して頭と両手が台の穴に支えられていた)衣服をはぎ取ると、群衆は彼を踏み殺した。マザー・ニーダムという売春斡旋婦は、同じ運命からなんとか生き延びるが、2日後にはこの時の傷がもとで死亡した。


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公開の処刑は民衆の一大娯楽だったみたいだにゃ。酒飲んでどんちゃん騒ぎしてニンゲンが死ぬのを楽しく見物していたようですにゃ。


さて、ここまで苛烈なる刑事行政が犯罪率を下げるのに役立ったのかというと、これがまるで役に立たなかったようですにゃ。サディストを喜ばせる以外の役には立たなかったようにゃんな。
犯罪率を下げたのは、見せしめではなく、犯罪を予防する見地からの施策を実行してからですにゃ。具体的には警察力を効率的に常備することが1800年に行われてからにゃんね。

同時期の江戸時代

さて、クイズ・猫まっしぐら 竹鋸で極刑だ編 - 地下生活者の手遊びの問題をおさらいしますにゃ。
主殺しという大罪にはノコギリ挽きという残虐な刑罰があたえられ、挽きたい者があったら挽かせるという話だったんですよにゃ。

慶安年中に町奉行石谷将監掛りで妙仙という者を日本橋でさらした節


あることが起こり、徳川幕府は仰天したのですにゃ。
さあ、質問です。何が起ったのでしょう?

  • 答え:本当にノコギリで挽いた者がいた*1


「江戸の刑罰」P58〜59を要約すると

江戸の刑罰 (中公新書 31)

江戸の刑罰 (中公新書 31)


戦国時代の鋸挽は本当に鋸で首を挽いたものであり、三代将軍家光のころは七日かけて挽き殺したことがあるというが、その後、鋸挽は一種の儀式になった。
元来は真似事のはずだったのだが、本当に挽いた者があるので幕府は驚いて、結局は鋸をそばにおくだけとなった。晒しの際には同心を見回らせることにしたが、これも実際に挽く者のあるのを防ぐためであった。挽きたいという者がいたら、真似事だけさせるということである


にゃるほど江戸時代の刑罰は現在の基準からすると苛酷なものですにゃ。十両以上の盗み・喧嘩口論による殺しで死罪(打ち首)、主殺しで鋸挽、親・師匠殺しで磔、追剥ぎ・毒薬売りで獄門(打ち首&さらし首)、火付けで火罪。
だけどにゃー
同時代のエゲレスと比べるとどうかにゃ?


一両が1万数千円の貨幣価値としても、エゲレスのように万引き程度で吊るされることはにゃーわけだ。また、八百屋お七と少年法 - 地下生活者の手遊びでも書いたとおり、「15歳以下の者は罪一等を減じられて死刑にはならない」という基準の有無もまるで違いますにゃー。群衆の集団リンチで殺される事例も江戸の方が少なそうですにゃ。

人足寄場

寛永2年(1790年)に火付盗賊改 長谷川平蔵の建議が松平定信にいれられて人足寄場なるものができますにゃ。これは、無宿者が江戸およびその周辺に多かったことへの対策だったようですにゃ。


無宿
無宿者ともいう。江戸時代、欠落(かけおち)、勘当(かんどう)、追放刑などにより、人別帳(にんべつちよう)(戸籍)から記載を削られた者を総称していう。宿とは住所を意味し、無宿とは定住の場所をもたぬ者のことであり、帳外(ちょうがい)(ちょうはずれ)ともいった。出身の国または町名を冠して常州無宿、浅草無宿というようによぶ。江戸中期以降増加し、天明(てんめい)の飢饉(ききん)以後激増した。とくに江戸では、周辺諸国から離村した貧窮農民が流れ込み治安を脅かした。


日本大百科全書より


というわけで、無宿ってのはホームレスやら博徒やら追放刑の犯罪者の総称にゃんな。これが激増したらそりゃあ治安は悪化する大問題でしょうにゃ。
で、
この人足寄場の画期的なところは、強制労働施設というよりは授産施設であったというところにありますにゃ。鬼の平蔵ってのは確かになかなかの人物であったようですにゃ*2。


人足寄場は、たんに懲戒するよりも、むしろ、生業を授けて改悛させるのが主眼であり、「人民御教育」の設備であったから、精神訓話に重きをおき、心学の大家手島堵庵の高弟中沢道二を大坂から招いて、1カ月三度の休日に講話してもらった。刑務所における教諭の始まりといえよう。


中略


無宿者は、溜銭が一定金額(たとえば手業ある者は十貫文)に達したときに釈放する(寄場では労賃を支払っていた:引用者注)。十貫文に達しなくても、常々の手業出精の者には褒美を与え、合わせて十貫文に達すれば釈放した。もちろんそのほか改心の情顕著ならば赦免した。年限をきめて寄場入りを申し付けた者や、追放刑に処せられた者は、定めの年限(おおむね五年)を経過すれば釈放した。引受人がないときは、人足差配人がひとまず引き受けたのである。


それでは、この人足寄場はどれだけの効果があったであろうか。松平定信はその自叙伝「宇下の人言」で、それまで無宿者は狩り込んで非人溜に入れ、多くはここで死んだが、人足寄場ができてから、ここで資金をえて正業につく者が年々二百人に及んだといっているから、そのころは防犯上または無宿者更生上、大きな効果を有したに違いない。
そして、文化、文政のころまでは、たとえば、文化十三年(1816年)に深川無宿の某、文政元年(1818年)に丹後無宿某の両人が改心したので、赦免を申し渡して人足差配人に引き渡し、売買道具および勝手道具、畳、白米1人扶持、手業御預銭、御仕着を与えられ、差配人が受人となって店を持っている。新入りの際に申し渡された条目中の約束が履行されているのである。


P194〜195


正直いって、このあたりを読んでビックリしたので長々と引用しましたにゃ。
ホームレスやら犯罪者予備軍やらへの授産施設をこの時代にはじめていたというだけで「へえー」なのに、労賃を貯めてやり、身元引き受けまでして社会復帰させていたとは!


人足寄場は「人民御教育の趣意」の設備で、これによって免囚を保護し、授産をもって追放刑に換えようとしたものである。それは懲戒主義を中心とするそれまでの行刑思想とはその趣を異にするものであり、近代的自由刑の思想と相通ずるものがあるといえよう。当初は無宿者を収容しているが、近代的自由刑の思想に基づく最初の懲役場といわれるアムステルダムのそれでも、初めは労働のできる乞食、無宿者、怠け者や売春婦を収容し、ついで裁判上有罪と宣告された犯罪人、ことに盗人を収容することになったのである。
この意味において、人足寄場設置は行刑史上注目すべきものと言わなければならない。


ï¼°196

まとめ

同時代のエゲレスと比べてみることで、いろいろと見えてくるものがあったのではにゃーだろうか。
エゲレスでは万引き程度の盗みでガキだろうがなんだろうが吊るしまくってそれでも犯罪を減らせなかった時代に、日本では未成年であれば放火であっても罪一等を減じて死罪にはせず、無宿人に仕事を与えて幕府が身元引き受けまで行って犯罪予防においてはっきりと成果をえているようですにゃ。


量刑において未成年と成人を明白に区別し、また犯罪者へ教育と授産をもってあたることによって犯罪予防に成果をあげたことにおいて、キリスト教国にしてジンケン思想発祥の地であるエゲレスより江戸幕府のほうが明らかに先をいっていたのですにゃ。


少年犯罪の厳罰化に反対し、犯罪者への教育と授産を主張すると、侮蔑的な意味合いで「ジンケン屋」などと言われる風潮が今の日本社会にはありますにゃ。犯罪者の身元引き受けを政府がやれと主張したら、何を言われるかわかったものではにゃー。

未成年犯罪者への量刑を軽くし、犯罪者へは教育と授産を行うというのは、僕たちのご先祖様が到達した人道的かつ効果的な犯罪への対処法なんだにゃ。こういった対処をジンケン思想に基づくものだといいたいなら、ジンケン思想には合理性と普遍性があり、僕たちのご先祖様もそこに到達していたと考えなければならにゃー。しかも世界でもっとも早く到達していたんだにゃ。


先日のエントリでは、厳罰主義者はフリーライダーだと申しましたにゃ。
しかし、それだけではにゃー。
厳罰主義者はご先祖様が到達していた合理性から後退するどころか、ご先祖様の実行していた考え方を嘲りおとしめているのだにゃ。民族文化の敵にゃんね。

*1:コメント欄「なまえ」正解ですにゃー。IPアドレスはわかるので、はてなIDとって正解を書いたのと同じパソコンでコメントいただければ100ポイント送らせていただきますにゃ

*2:タイトルの世界最初というのは少々あおり気味ではありますけどにゃ。池波正太郎の小説は読んでにゃーけど、行きつけのラーメン屋にさいとうプロのマンガ版があって愛読していますにゃ