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力石の墓石・清水晴風

斎藤ワールド
11 /29 2024
今を去ること7年前の2017年5月、
斎藤さんから封書が届きました。

「晴風の墓石のさし石は、力石本には未登場。
正しく“誌上新発見!"ですね。
やりましたねぇ。おめでとうございます」


「清水晴風」
おもちゃ博士にして力持ち。
本名・仁兵衛。通称・半次郎。
力持ちのしこ名は「筋違車半」

家業が「車力」(運送業)で、家が神田筋違御門外にあったことと、
通称が半次郎だったことから、「筋違車半」を名乗った。


私がこの人の墓石を見つけたのは、この本からでした。

おもちゃ晴風本
「おもちゃ博士・清水晴風 郷土玩具の美を発見した男の生涯」
林直輝 近松義昭 中村浩訳著 社会評論社 2010

この本は、晴風の力持ち番付を所蔵している国立国会図書館の
大沼宜規氏に教えていただいたものです。
幸運にもその中に、晴風の墓石があったのです。


そのときのブログ記事、ぜひ、お目をお通しください。

「男の美学」

この墓石のことを斎藤さんに伝えたら、
すぐに墓所のある本妙寺に赴き、写真を送ってくださったのです。

晴風の力石の墓石です。61余×42×23㎝
墓石になった力石が東京の街を見下ろしています。
晴風墓石
東京都豊島区巣鴨5‐35‐6 本妙寺

正面 
「泰雅院晴風日皓善男子」
左わき
「大正二年七月十六日歿」
右わき下
「第十一代 清水仁兵衛」

墓所には「玩具涅槃図」という変わった碑も。

碑の中央に晴風が描いた「玩具涅槃図」が彫られている。
これは釈迦入滅のパロディで、釈迦の弟子たちの代わりに、
周りを玩具たちが囲んでいます。


晴風涅槃図11hare.jpg

この碑には94人の名が刻まれています。

民俗学者の山中笑(共古)、作家の淡島寒月、市川團十郎、松本幸四郎、
四代目歌川広重、翻訳家の内田魯庵、児童文学者の巌谷小波、
千社札の「いせまん」「高橋藤」など当時の著名人が名を連ねています。


斎藤さん、こんな写真も送ってくださった。

ご存じ、あの「桜吹雪が見えねぇか」の北町奉行の遠山の金さんこと、
「遠山金四郎景元」の墓所です。

金四郎

奇しくもこのお奉行さまと車半の清水晴風の享年は、
同じ63歳でした。

坂本さん、連続快挙

どすこい坂本
11 /26 2024
さかもっちゃんこと坂本さんの快進撃が止まりません。

埼玉県で一人コツコツと力石に挑戦している坂本さん。
このところ石の刻字の新発見が続いています。

今月初め、こんなメールが届きました。

「越谷市増森路傍の力石の刻字が判明したので、
ご報告させていただきます」


増森の路傍の石です。
増森
埼玉県越谷市増森

下の写真が坂本さん判読の力石です。

奉納 三十八メ目 享保までわかったのですが、
その後の刻字が判読できません」と坂本さん。

というわけで、あやふやながら私はこう読んでみました。


「奉納 三十八メ目 享保五庚子年」 
「庚子」は少々苦しい判読ですが、享保五年は「庚子」なので…。

右端にも文字が見えますが不鮮明でわかりません。

増森1
63×45×25余㎝

斎藤さんに連絡したら、即座にメールが届いた。

「これは、2006年7月25日に私が発見した石です。
”理容トヨタ”の敷地角にあり、同店のおばあさんの話だと
“三行の刻字があった”とのことですが、表面には認められなかったので、
おばあさんと一緒に裏返ししようとしたが無理でした。
従って、無刻として報告してありますので、刻字はわかりません」

それを坂本さんがひっくり返したら、刻字が出てきた。


斎藤さんが見つけた時の石は、こんな状態だったのではないでしょうか。
先輩の見つけた力石を後輩が解明していく、いい形だと思いました。

増森2

というわけで、これは坂本さんの「新発見刻字石」となりました。
その後坂本さんから、
「もう一つあったが埋めてしまったと豊田さんが話していた」
との報告がありました。


それから間もなく、坂本さんからまたメールが届いた。

蓬莱石と見えるのですが、判読をお願いします。
ほかも刻字があるのですが、薄くて判読できません」


「莱」の文字は草冠が4画の旧字体、確かに「蓬莱石」です。

「奉納 蓬莱石」 70×46×32㎝

蓬莱石
埼玉県草加市原町 はらまち沖田笠間稲荷神社

こちらは「四日市大学論集」「埼玉県の力石(5)」(2023年3月)
掲載されていたが、刻字なし。

ということで、これもまた坂本さんの新発見


斎藤さんから「坂本さん、すごいですね!」とのメールが…。

新発見! おめでとうございます。

その坂本さんから、嬉しさ全開のメールが…。
「新刻字発見者になれて、力石持上げ者冥利に尽きます」


埼玉県人の探求心、努力は本当に凄いと思います。

坂本さんは力石をみなさんに知っていただこうという活動も始めました。
どうぞ、下記の動画をご覧ください。



兵庫県知事選

世間ばなし③
11 /23 2024
兵庫県知事選挙で、
県議会の不信任案可決で失職した斎藤氏が再選を果たした。

しかも前回より25万票も上積みして。

他県の私にはあの騒動は何だったのかはわからない。
情報が錯綜し、「識者」と称する人達の意見も感情的過ぎて要領を得ない。
ただ、あれ?と思ったことが何度かあった。

副知事が辞職の時、「知事を支えきれずに申し訳ない」と、
涙ながらに話したことだ。この発言を裏返せば、
知事に敵対する大きな勢力が存在し、その勢力から守り切れなかった
と言うことを暗にほのめかしているのだと感じたのだ。

間髪を入れず既存メディアが波状的に、
「おねだり知事」「パワハラで部下を死なせた」と、写真入りで書き立て、
その後委員たちが全員「反斎藤」という「百条委」が現れて…。
なんか変な流れだなぁと。


この人の功績を報道したメディアはあっただろうか。
この人がなぜ、議員たちの反発を食らったのか、
その背景と真相と本当の問題点を掘り下げた報道があっただろうか。

記者クラブの弊害が出ていなかったかの検証が必要ではないのか。


20241117_075958.jpg

県庁を出るとき職員の誰一人として見送る人もない異常さ。
石もて追われる如く去った斎藤氏が、嘲りの中一人で胸を張って立候補。
県議や県内22市長が反斎藤に回り、あの泉房穂氏までその側に立った。
選挙後、泉氏は前言を取り消して謝罪したが、勝てば官軍で、
状況が一変しなければそういうことは起こさなかっただろう。

公職にある者が他の選挙に介入して「こいつを落とせ」と公然と唱えるのは、
法律的にどうなんだろう。この異常さに既得権益絡みかとの疑問も湧いた。
理由はどうあれ、一人では出来ないからみんなで、とはあまりにも情けない。
それに知事は県民が決めるもの。市長が口出しするものではないじゃない。


こんな四面楚歌の中で再び立候補するのは、よほどの悔しさがあるのか、
その汚名を晴らさなければこの先の人生がない、そんな覚悟が見えた。

他県に住む私には真実はわからない。
わからないけれど私の体験と同じ匂いがする、そう思った。


私の体験など塵ほどの汚名だけれど、
何を言っても信用されないという理不尽さ、
人の讒言の恐ろしさは嫌というほど味わい、ストレス性の病気になった。
難聴、逆流性食道炎、不眠、頭痛、動悸、乱高低が激しい血圧、
正常に戻ったり現れたりする変な緑内障、
夜中に大量のケーキを食べなければ落ち着かなくなったりもした。

ふと、冤罪事件の構図と被告に似ているなと思った。

IMG_5051.png

新聞の仕事をやめたあと、地元に新しく出来た複合施設の仕事を頼まれた。


そこは選挙を控えた地元市議の肝いりで空き校舎を再利用して作られた
施設で、図書館と市の出張所に生涯学習施設が併設されたもの。
私はパート従業員として他の10名ほどの人と生涯学習施設で働き始めた。

この生涯施設は、当初はコピー機も用紙までも無料で利用者に使わせ放題で、
それを聞きつけて、利用者ではない他地域の人まで大挙してきた。
さすがに経費が掛かり過ぎると途中で有料になったものの、
現在でも何部屋を何時間使っても無料という不可思議な施設。


ここで働き始めて間もなく知人から、
「リーダーのMが役人にあなたの悪口を吹き込んでいるから用心して」
と、忠告を受けた。でも私にはそう言われる心当たりはない。
「何でですか」と聞くと、「可愛さ余って憎さ百倍ってやつだよ」と。

そのMから大晦日に「雨宮、辞めろ」の速達が届き、
ひと月に一度の会議で「雨宮辞めろ。みんなも同じ意見だ」と言うので、
「みなさん本当ですか? なぜですか?」と聞いたら、みんな顔を伏せた。
同席した役人がびっくりして次回から録音するようになった。


20240227_125816.png

ここは一人勤務だから他のパートとはほとんど接触がない。
なのになぜ? しかも時折顔を出す役人が険しい顔で私を見る。
挨拶をしてもそっぽを向く。
併設の図書館司書や市の出張所の職員も冷淡な態度を取り始め、
自治会役員という見ず知らずの人まで、「市議は立派な人なのになんで
悪口言うんだい」と、わざわざ管理人室に言いに来た。

図書館友の会の人だと言う女性が怒鳴り込んできた。
怒っている理由がさっぱりわからないから、
「会の名は今初めて聞きましたから、何のことかわからない」と伝えたら、
なぜか憤慨して帰っていった。

どれも全く身に覚えはないから、もう何が何だかわからなくなった。

私に非があるのだろうかと自分を責めたが、
市議も他の人たちも顔を知っているくらいで接触がないのだから、
思い当たることは出てこない。


そのMが忽然と姿を消したあと、Mの手下だった某女が暗躍し出した。
私を見る周りの雰囲気が異様で不安だったが、悪口の中身がわからない。
そんなある日、利用者の一人から、「彼女が、雨宮を名誉棄損で訴えて、
今、裁判中と言いふらしているけど本当なの?」と。

びっくりした。もちろんそんな事実はない。
でも人は何でこんな見え透いたウソに騙されるのか。
某女は「図書館友の会」の会員だとも聞いて、あのときのおかしな出来事も
この女のせいだとわかって、その執拗さにゾッとした。

で、某女宛に「第三者を交えて話をしませんか」」と伝えたら、
「パワハラをする人がいるこんなとこやめてやる」と。しかし一向に辞めない。
ところがある日、同僚の女性二人から、
「本当に辞める気なら、この場で管轄の市教委に電話しなさいよと
彼女に迫ったら、しぶしぶ電話して辞めていった」と知らされた。


DSC00891.jpg

四面楚歌と思っていたけれど、ちゃんと見てくれていた人がいたんだ。
そう思っていたら、今度は某女の代わりにTという男が攻撃し出した。

この男は悪口の吹聴だけではなく、私を名指しした中傷文書まで撒いたので、
管轄の市教委の役人に「何とかして欲しい」」と訴えたら、
「問題を起こす人がいるとまとまらないから」と、暗に私に辞職を迫ってきた。
ここの管轄の役人は普段は遠い役所にいて、1年か2年で他の部署に変わる。
この期間を無事過ごせばいいという態度が見え見えだったから、
保身ばかりを考える役人に何を言っても無駄と悟り、早々に辞めた。


M、某女、Tの三人がなぜこんなにもやりたい放題だったのかということを、
「市議の後ろ盾があるから。Mは後援会長だったし」と知人が教えてくれた。
そう言えばTが盛んに言っていた。
「後援会に入ってやったから、市議は俺には何も言えねぇんだよ」と。
だから勤務中ビールを飲んでいても、役人は見て見ぬふりだったのか。

そういえば私を心配してくれた人たちが、
市議周辺からいつの間にかいなくなっていた。


数年後の某日、図書館へ行ったらTにばったり会った。
もう80歳を超えているだろう。
在職中、会議の席で「ここで働きたい人が大勢いるからワークシェアを」
と提言したら、「オレのパート代が減るからいやだ」と、大声で猛反発。
白髪頭で足元も覚束ないのに、この職にまだしがみついていた。
この日私に気が付くと、慌ててヨロヨロ階段を逃げ昇って行ったが、
哀れだった。


DSC05297.jpg

人は思いもかけない妬みを買うことがあるものですね。
それを私は、かつて住んでいた新興住宅地で経験していた。

そこに住んでいたころ、私は周囲の主婦たちからひどいいじめを受けた。
理由が全く分からなかったので、親しくしていた主婦に打ち明けたら、

「あなたには悪い所は何一つない。ただあなたの存在自体が許せないのよ。
だってあなたは私たちが出来ないことをやっているから。
記者やって、本出して、新聞やテレビに出て…。
いくら夫が医者だ、大学教授だといっても、私ら妻でしかないじゃない。
だから今までみんな悔しい思いをしていたのよ。
そしたらあなたが離婚して一人になった。だからいじめやすくなったのよ」


驚いて「あなたもそうだったの?」と聞いたら、平然と、
「そうよ。人の不幸は蜜の味って言うじゃない」と。
この人とは芝居にも音楽会にも山登りにも一緒に行っていた。
なのに、そういう気持ちで私と付き合っていたとは。


新聞の仕事を極端に恐れられた例もあった。
登山グループのリーダーから突然、参加を断られた。
一緒に申し込んだ友人にはOKが出るのに、私には「もう定員いっぱい」と。
ある日、その原因が判明した。
登山に使っていたマイクロバスが事故を起こしたことから、
警察の取り調べで白バス営業だったことが判明して捕まった。
リーダーはいつかばれて新聞に書かれるのではないかと恐れて、
それで私を排除していたことを友人から知らされた。

この施設での3人のいやがらせは、いみじくも新興住宅地の主婦が吐露した
「あなたには悪い所は何一つない。ただあなたの存在が許せないのよ」
と同じ動機だったのだろう。私って大物でも何でもないのに。

規模は大きく違うけれど、今回の兵庫県知事騒動に胸騒ぎがしたのは、
こんな体験が私にあったから。


微力ですが、せめて背中の「力」を斎藤知事と兵庫県の皆様にお送りします。
力

私はその場から逃げたけれど、斎藤氏は逃げなかった。
これからはもっと厳しい現実があるだろうが、嗤われようともどう転ぼうとも、
これはやらなければならない挑戦だったのではないかと思います。
真面目で潔癖な人ならその念はより強い。


自分たちとは異質の人、既存の体制に従順でない人、
だから潰すのではなく、共に歩む姿勢が職員には必要ではないか。

私は前任者が後継者を選んでいくという政治手法は間違っていると思う。
だって、「立つ鳥跡を濁さず」っていうじゃないですか。
だから前任者が残した古い土俵はきれいさっぱり捨てて、
47歳の若き政治家を育てるつもりで、よりよい新しい一歩を踏み出して欲しい。
それが兵庫県のためになるから。
なによりも、斎藤氏が再選されたのは民意だということを肝に銘じて。

他県の者ながら、そして讒言に苦しめられた私だからこそ、
そう願わずにはいられません。


ーーーーー

郷原信郎弁護士が断言しました。
「斎藤知事は公選法違反で処罰され、当選無効・公民権停止となって
失職する可能性は相当高い」

私がひそかに信頼する郷原氏が言うのだから、これはもう…。
私の見立て違い。なんだか力が抜けました。

でも私には、20年に及ぶ前知事の権力支配、県議会議員たち、百条委、
22人の市長たち、「記者クラブ」のなんかスッキリしない気持ちが拭えない。

この斎藤氏が単独で問題の広告会社と交渉したとは到底思えない。
金銭を出せるとも思えない。
兵庫県の皆さんはどう思っているんだろうか。


高島先生の功績

力石の研究者
11 /20 2024
 力石(いし)探す行脚巡礼に相似たり   雨宮清子

一人で力石を探しているときはこんな心境でしたが、
高島先生と二人の時はそうはいきません。


先生は全国から寄せられた情報を元に、それをまとめて一気に各県を回る。
目的の力石を採寸し撮影すると足早に次の目的地へ向かう。
昼食なんかは走りながらコンビニのおにぎりやパンをほうばるだけで、
ゆっくり座って食べたことがない。

もうね、感慨に浸るとか昔を偲ぶなんて暇がないんですよ。

静岡県の力石は街中や神社仏閣にはほとんどなく、あるのは山間部。
そういう場所は公共の交通手段もないから、
先生の軽自動車での探訪は非常にありがたかった。


 人も石も隔絶の中に存在す
       目の前はただ海と空
  雨宮清子

伊浜集落2
静岡県賀茂郡南伊豆町伊浜落合 三社神社

伊豆は伊東明先生が頻繁に訪れた場所。
高島先生の胸に特別の思いが去来するのでしょうか。
師の足跡を辿る時、力石を前に感極まって立ち尽くすこともしばしば。


ここの力石です。とても形の良いきれいな石でした。
かつては4個あったと資料にありましたが、2011年には2個に。

伊浜集落1

下は、知人からの情報で掴んだ力石です。

この情報を得るまで私は2回この地を訪れたが、空振りに。
その後静岡市在住で、この地区をよくご存じの方から、
「ここの薬師堂から谷一つ隔てた集落に住む女性二人が知っている」
との報せが舞い込んで、急きょ、先生と駆けつけました。

紹介された女性はお二人共、昭和3年生まれでこのとき84歳。
しかし記憶は鮮明で、「薬師堂のそばに青年団の集会所があって、
青年たちは夜回りがすむとみんなで石を担いでいた」と、
青年団女子部に戻ったように快活に話してくれた。

草に埋もれた石の採寸をする高島先生。
内房大嵐
静岡県富士宮市内房大嵐 薬師堂

こちらは遠州の奥、
天竜川と山稜に囲まれた静かな集落に残されていた力石です。


 先人の思い刻みし力石
     今しっかりとカメラに収む
  雨宮清子

浜松市天竜区
静岡県浜松市天竜区佐久間町浦川 五社神社

寡黙な先生ですが、ときどきドキッとすることを口走って私を慌てさせました。

某所に「力石として若者たちが担いだ六部さんの墓石」があって、
早速、調査に。
※六部 諸国を歩いた廻国の修行僧。

この地で倒れて葬られた六部さんの墓石は普通の民家の庭にあって、
「昔は六部さんのお祭りは賑やかで夜店がずらりと並んだ」と、ご当主。
そこで先生、ポツリと、「その人はここに埋まっているんですか?」
途端にご当主が顔をこわばらせて沈黙。
この場の空気を換えるのに四苦八苦したのは、言うまでもありません。


ガックリすることもあった。

力石がなんと、石段に転用されていたんです。
以前ここには4個あったのにそれが1個に。
残ったのは、源頼朝の富士の巻狩りで勃発した曽我の仇討ち、
その主人公・曽我十郎・五郎の父、河津三郎の「手玉石」一つ。

でも先生は少しも動じず、一句。


 力石に河津桜の散りそそぐ   高島愼助

河津八幡神社
静岡県賀茂郡河津町 河津八幡神社

この珍道中と私の努力は先生のお力で2011年、「静岡の力石」
2014年、「四日市大学論集」第27巻、
2024年、「同大論集」第36巻として陽の目を見ました。

静岡の力石
「静岡の力石」高島愼助 雨宮清子 岩田書院 2011

そして2019年、全国から集めた「力石」の全資料が、
三重県総合博物館に収蔵されたのです。


力石の全資料を収納す
    日本唯一の三重県総合博物館
  雨宮清子

私はその知らせを受けてすぐ駆けつけました。

資料は文書、書籍、論文、写真、引き札、番付、酒瓶、お守り、力持ちなど、
総数642点。
(2019年時点で)
それまでは各地でバラバラだった「力石資料」が、
ここに全部、収蔵されたわけです。
ここへくれば「力石」のすべてがわかります。

私の書棚。先生から頂戴した全国の力石の本です。
本棚1

この日、久しぶりにお会いした先生の頭に白いものがチラホラ。
無理もない。ここまで来るには大変なご苦労があったはず。

その偉業を成し遂げた先生、さらりと一句。

 ひとひらのはなびらふわりちからいし  高島愼助

「力石病」

力石の研究者
11 /17 2024
高島愼助先生から封書が届いた。
開けてびっくり。
中から出てきたのは、
「文化財の力石」(1)(2)(3)の冊子3冊です。

退官からすでに十数年たつのに、こうしてまだ力石の冊子を出される。
その信念と情熱に圧倒されました。


こちらが送っていただいた最新の力石の冊子です。
文化財力石

高島先生と言えば、全国市町村では知らぬ人はいない力石の先生です。
先生は、力石を「体育史学」というアカデミックな世界に引き上げて、
学問として成立させた上智大学・伊東明先生の最後のお弟子。


伊東先生はご自分が足で歩いて収集し、全国の学者に呼びかけて
ネットワークを構築。
そのすべての資料を高島先生に託して、この世を去った。


頼みの師を失って「最初は途方に暮れた」と、高島先生。

そんな先生と私の出会いは、突然のメールからでした。

その頃私は地区の石造物の調査を一人コツコツとやっておりました。
そんな折、知人から「石造物を案内して欲しい」と頼まれて数か所歩いた。
その中に力石があって、それを知人が自分のブログに載せたら、
ネットサ-フィン中の先生の目に止まったというわけです。


これがそのときの力石です。正確には「代用力石」。
私の力石探索の出発点になった第一号です。


大御堂神社
静岡市葵区有永 大御戸神社

これは「元禄十六 午三月吉日」 に建立された鳥居で、
破損したため当時の若者たちが力石に転用したもの。

ゆえに「元禄石」と呼ばれていた。


「昔の若者たちがこの石を担いで、
神社の石段を何回上り下りできるか競ったんです」と、当時の氏子総代さん。

今は人影も絶えた石段の片隅にポツンと置かれています。


 力石残夢の杜にまどろみて   雨宮清子

高島先生、私と連絡が取れるとこちらへすぐ参上すると言う。
わざわざ遠方から来られるのに一つでは申し訳ない。
そこで私は急きょ図書館で各地の郷土史を漁り、もう一つ見付けて待機。

これがきっかけで、ほぼ一年間、先生との静岡県内の行脚が始まりました。


伊豆・伊東市の路傍に置かれた力石を撮影中の高島先生です。
CIMG0079_20241112124338d18.jpg

オンボロの軽自動車で初めて当地にやってきた先生に挨拶もそこそこ、
「では、行きましょうか」と言ったら、先生、一瞬、戸惑ったような顔をして、
「あなたはいつもこうして見知らぬ人の車に乗るんですか」と言う。

思わず吹き出しそうになりながら、
「では、先生、お一人でどうぞ」と返したら、「それは困る」と。

それが次第に、
「姫と一緒だと楽しい」とおっしゃるようになった。


だが、先生は人遣いが荒い。
しかも力石の調査はどなたも手弁当だ。
だから踏み込めば踏み込むほど出費がかさむ。
そのくせ、夢中になればなるほど全国を歩きたいという欲が出る。

そんなとき、沖縄で孫が生まれた。


このとき私、71歳。ブログを始めた年でもありました。
孫の想良

 孫の顔見がてら力石(いし)も見て歩き  雨宮清子

というわけで、見てきました。

CIMG1284_20241112173057814.jpg
今帰仁村謝名 公民館 42×32×25㎝

まあ、万事そんなわけでどっぷり嵌り込み、
「一度嵌ったら抜けられませんぜ」となりました。
そんな私を見て、
「姫もいよいよ”力石病”に罹患しましたね」
と、先生は満足そうにおっしゃった。


ここまで来ればしゃーない。やるっきゃない。

というわけで、今日まで参りました。
2024年現在、静岡県内の力石の個数は「286個」


私は行った先々で人と触れ合うのを第一としていたから、
いろんなドラマがありました。

先生はその反対。
「お茶でも飲んでってや」と、声を掛けてくださるのに、
「いらない!」

そのたびに私は冷や汗、タラ~リ。
もっとも大学教授の仕事の合間での調査だから、時間が限られている。
一度再調査に出かけると2、3県を梯子して走り回るから、
お茶などのんびり飲んでいる暇はない。

しかし、だんだん”飼い慣らし”ましたですよ。(冗談です)
でも、だんだん変化が…。
とある山間部の限界集落では、
おばあちゃんたちとニコニコ歓談するまでになりました。
\(^o^)/

力石の墓石・巳之助

斎藤ワールド
11 /14 2024
愛用した力石を、自分の墓石にした力持ちたちがいます。

「山谷田中 巳之助」もその一人。

墓所は田中山清光寺。
(東京都台東区西浅草1‐7‐19)
この寺は元、静岡県藤枝市田中にあって、乗願寺といった。
開基はテレビドラマでお馴染みの水戸の黄門さま「水戸光圀」です。

江戸への移転は寛文五年
(1665)。

水戸徳川家と高松松平家の菩提寺です。
住職は将軍と単独で謁見できるという格式の高い寺だったそうです。

そんな格式の高い寺に力持ちの墓がある。なんかいいですね。
巳之助の墓石です。切りつけも深く威風堂々。

巳之助墓

こちらが巳之助の戒名です。

「理覺道念信士 天保四巳年 七月十五日」
天保四年は1833年。
赤字部分は斎藤さんが判読。

この寺は浄土宗なので、戒名は「理覺」ではなく「理譽」かと思ったのですが、
墓石を見ると、確かに「覺」
ほかの親族の戒名は「譽」なんですけどねぇ。??


巳之助墓2

巳之助の戒名は墓石の左側面に刻まれています。
ほかに正面左右、右側面に親族の者と思われる戒名があるそうで、
天保から大正十二年まで八戒名、彫られています。

「墓石側面の戒名が巳之助のものと確認できたのは、
『墓形笑覧』
山口豊山著 明治30年代に出ていた没年月日・
”天保四年…”を、墓石から判読した歿年月日に擦り合わせたところ、
合致した没年月日があり、その戒名を巳之助の戒名と断定したわけです」
と、斎藤さん。


「これにより、墓石は以前、
「浅草橋場町・王蓮寺」にあったたことがわかった」

また、「今戸箕輪浅草繪図」
(1853)に「王蓮寺」とあるが、
現在は廃寺。
巳之助の墓石が現在、清光寺にある理由は不明とのこと。

いつ移転したのかわかりませんが、きれいに保たれているので、
ご子孫がいらっしゃるかも、と思いたい。

この寺には、
俳優の「長谷川一夫」の墓碑や「三木のり平」の墓石があるそうです

こちらは長谷川一夫さんの墓碑。
長谷川一夫

こちらがコメディアンだった三木のり平(田沼則子=ただし)さんの墓石。

三木のり平

墓じまいが急速に進んでいますが、
墓石からいろんなことがわかりますので一寸惜しい。

私が旧東海道を歩いた時、必ず立ち寄ったのが墓地なんです。
墓石にはいろんな世相が込められています。


下の写真は、「オランダ・カピタン」(オランダの商館長)の墓です。
鎖国時代、西欧国家として唯一、日本と貿易を行っていたオランダの商館長は、
貿易独占のお礼に年一回
(のちに4年ごと)
将軍に挨拶に行く「江戸参府旅行」を行っていました。


ところが寛政十年(1798)
時の商館長「ヘースベルト・ヘンミー」は参府の帰途、掛川市で客死。
そのため天然寺に埋葬された。
玉垣に囲まれたかまぼこ型の墓には、蘭文でこう書いてあるという。

「此の地下静座の体あり。敬ふべし尊ふべし。名をゲースベルト・ヘンメイ」

戒名は「通達法善居士」

墓が道路際にあるのは道路開通で寺が分断されたため。
この日は掛川大祭。オランダ・カピタンは地の底で、
テンツク・ピーヒャラの祭りばやしをどんな思いで聞いていただろうか。


へんみー
静岡県掛川市仁藤町 天然寺

遊女の墓、その遊女と心中した二人の比翼塚。これは日陰にひっそりと。
辞世の句を彫りつけた墓。戦死した若者が愛用した力石が添えられた墓。
明治維新で無残に討たれた幕臣たちの供養碑。
ギャンブルの勝ちを祈願して削られた侠客の墓などなど。
祖父と孫が事故死した墓のそばには、手を繋いだ二人の石像が立ち、
幼くしてこの世を去った愛児のそばには、あどけないお地蔵様が…。

みんな何かを語り掛けてくれました。


力石を自分の墓石にした力持ち、まだまだ続きます。

山谷田中 巳之助⑤

斎藤ワールド
11 /11 2024
話を香取神社の「巳之助石」発見に戻します。
この石はすでに記録済みでしたが、判読が不十分だったため、
長い間、「巳之助」の石とは気づかれませんでした。

それを20年後の今年、斎藤さんが「巳之助」の刻字を発見。


それまでは記録された刻字「小豆三 山谷」
そのまま受け流していた斎藤さん、
2015年に開催された江戸川区郷土資料室の力石企画展で、
「あれ? おかしいぞ」と。


この「あれ? おかしいぞ」が、
「巳之助」の名と「三□」の□の文字の発見に繋がったわけです。


斎藤さんがこの「まるいし おもいし ちからいし」企画展に行ったのは、
私より10日早い10月8日のことだという。

そこで目に止まったのが、この写真。


巳之助1
東京都江戸川区松原 江戸川区郷土資料室

私が真っ先に目に止めたのはマスコットキャラクターの猫ちゃんだったが、

20151028071950280_20241023132609ddd.jpg

さすがですね、斎藤さんは石に注意を払います。

パネルの説明文にはこうありました。


「香取神社の力石には、”小豆三斗”と刻まれています。
(現在、斗の部分は土に埋もれて見られません)
一人前なら小豆三斗(約45㎏)ぐらい持ち上げられるような意味が
あるのでしょう。”斗”は容量の単位で、一斗=約18ℓです。
米や酒の単位として使われる。”升”の10倍、”合”の百倍の量です」


ここで斎藤さん、ん?

「ご丁寧に一斗樽枡3個に小豆を入れた写真まで展示されてあったが、
小豆三斗
(45㎏)なら12貫目にしかならない」

まるいし展小豆の入った桶

「当時も今も一人前と認められる最低の重さは12貫目ではなく、
米俵一俵分の16貫目
(約60㎏)が常識。
おまけに一斗枡とメモされて、
小豆いっぱいすり切りで、3個の枡の写真があったのを見つけて大笑い。


この失態は、すべてを掘らずに確認を怠ったことにある。
斗の部分は土に埋もれて見られませんと、手抜き調査を隠している。
掘れば簡単に見られるのに」と、斎藤さん。


確かに、
「若者の一人前の証しは、16貫
(60㎏)を持つこと」ですもんね。
学芸員さん、すごくがんばったけどちょっとお勉強が足りなかったのかな。


しかし、心に引っかかってはいたものの、他の力石探索に多忙だったため、
現地調査に出向いたのは今年3月のこと。すでに9年の歳月が流れていた。

こちらが半分埋もれていたころの「巳之助石」です。


埋まっていた小豆三俵
東京都江戸川区東葛西2‐34‐20 香取神社

さて、ここからが斎藤さんの本領発揮。

「幸いにも辺りに人がいなかったので、用意していたスコップで、
ある程度掘ったらコツンコツンと石らしいものに当たって、
それ以上掘り進めなかったけど、これでも予想通り、”山谷田中 巳之助”の
確認に十分であった」


こちらが地中から現れた「巳之助」です。
こんなにはっきり「三斗」ではなく「三俵」と。


巳之助2

「小豆三俵□ 山谷田中 巳之□

「実際の刻字は三俵だから180㎏、48貫目です。  
三斗12貫目(45㎏)とは大違い。大変な間違いです。
巳之助もずいぶん見くびられたものですが、
もう9年も前の話ですから、笑ってすませますか。
(笑)」と、斎藤さん。

それを聞いて、境内の富士講記念碑もホッ。

江戸川区巳之助記念碑

20年前の判読の不備を突き止め、9年前の間違いも無事解決。
巳之助の力石がまた一つ現れた。
斎藤さん、心も軽く、


「巳之助」を掘り出し満ちて梅の花   呆人

「め」のお守り

斎藤ワールド
11 /08 2024
「力石の同志」
なぁんていうとちょっと大げさですね。

でも力石の情報や写真、資料など惜しげもなく提供してくださる斎藤さんは、
文字通り、「真の同志」」です。
というより、
私の人生の後半に彩を添えてくれた、かけがえのない大先輩です。

今回、私を心配してくださり、
早速、埼玉県行田市の「め」
の神さま
行田八幡神社へ赴き、お守りをお送りくださったんです。

それも二つも。


20241107_065122.jpg

感謝感激!

すぐ、いつも背負っているリュックに付けました。
これを見た目医者さん、どんな表情をするか楽しみ。


目神社

息子に病気を知らせたら、ただひと言、「お大事に」

ああ、私はいい母親ではなかったからなぁ。
厳しすぎたしいつもほったらかしだったし、と気落ちしていたらご近所さんが、


「お母さんはいつまでも、以前のようなお母さんでいてほしいからよ。
弱くなったお母さんは認めたくないからよ」と。


そうか。
思い返せば自分にも思い当たる。
というわけで、久しぶりに父や母の顔を思い出しました。

「め」のお守りで勇気百倍。
なんだかどんどん良くなりそうです。

目の病い

ごあいさつ
11 /05 2024
ご心配をおかけしましたが、目の日帰り手術(?)を終えました。
ちょっと怖い病気で完治が難しく、
この先、VEGF阻害剤という注射を定期的に受けることになりました。
この薬、即効性があるけれど、薬効は長く続かないとのこと。

8月に眼底出血があってかかりつけ眼科へ直行しましたが、異常なしと。
しかし10月に大きな出血。でも医師は服薬治療を…。
これが全く効果がなく、
あれよと言う間に静脈に血栓が出来てしまい、ちょっと手遅れに。
でも悔やんでも仕方がない。誠実ないい先生ですし…。


難聴の上に目までとなると、私はヘレンケラーか、と気落ちしましたが、
これも老化現象の一つと捉えて、前向きにやっていきます。

※ ご近所さんに「ヘレンケラー」と言ったら、全く通じませんでした。
  自分の古さが身に沁みました。

読書は今までみたいにできませんが、見えるだけもありがたい。

その掛かりつけ眼科の紹介で、予約が取れた先週金曜日に総合病院へ。
硝子体中への注射ってすごいんですよ。
目に消毒液をバシャっと掛けてその上からザブーンと水掛けて。
器具で目ん玉をむき出して…。

つくづく、人間ってすごい事を考えるものだと思いました。

今は服薬やレーザーよりVEGF阻害剤が第一選択なんだそうです。
医療は日進月歩。器具もどんどん新しいのが出来ている。
総合病院では揃えられますが、個人医院ではなかなか大変そう。
患者としては、新しい器具は体への負担が全くなくて楽でした。


CIMG4453.jpg

その日総合病院で、
「異常に血圧が高い。
このままでは大変なことになるから、すぐ内科の先生に相談を」
と言われ、翌日、ご近所の掛かりつけ医を受診。


昨年、心臓、内臓、胃の中まで、
すべてを調べていただいた消化器内科の医者から、
「あなたは健康優良バアバだ」と褒められていたので、狐につままれたよう。
ただし私はストレスにはものすごく弱い。すぐ胃腸に来る。

で、内科の結果は、「高血圧症ではあるけれど、騒ぐほどではない」
とのことで、今後は自宅で血圧を測って定期的に持参となりました。


なにしろその日、内科で計ったら、
左腕167、右腕144と高く、おまけに左右の誤差がすごいことに。
先生が左右3回ずつ測って、ようやく左右が150になりました。
緊張症のせいだそうです。
美容院でもバスの中でも肩に力が入るし、どこでも楽にして、と言われて。


で、今、真面目に測っておりますが、いつも正常範囲。
でもおさおさ怠りなく、食事の改善に着手。
糖分と脂肪分を抜き、減塩に努めております。

目への負担軽減のため、にほんブログ村から撤退。
ここからおいでになっていた方々には申し訳ないですが、
こんな事情をくみ取っていただきお許し願います。


また皆様の所へ訪問できずにいましたが、
それにもかかわらず毎回訪れていただき励まされました。
ありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。

今回、たまねぎの皮のお茶の効能を知り、早速、煎じて飲んでおります。
これ、案外いけます。生の玉ねぎも常備食になりました。


山谷田中 巳之助④

斎藤ワールド
11 /02 2024
今年3月、斎藤さんから興奮したメールが届きました。
これは朗報に違いない。そう思いつつ開くとやっぱりそうだった。

「山谷田中 巳之助の力石確認! 
巳之助石の私的新発見、これで3個めです!」

オオーッ!


場所は江戸川区の香取神社。
ここには21個もの力石があります。


斎藤さんが発見したのは既存の力石の不明になっていた刻字です。

この石は、2003年の「東京の力石」」では、「小豆三 山谷」のみ。
そこに新たに「巳之助」の名を見つけたというのですから、
これは大発見です!
 
しかも20年以上たった今年ですから、斎藤さんの執念は本当に凄い。

東葛西の香取神社です。なにしろここらは香取神社だらけなので大変です。
江戸川区巳之助鳥居
東京都江戸川区東葛西2‐34‐20

なにゆえ斎藤さんがこんなに興奮したかというと、
これにはまた別の深~いわけが…。

2003年の刻字判読の不備もさることながら、
もうひとつ、心に引っかかっていたことがあったんです。
しかも9年間も。

そのモヤモヤが一気に解決したわけですから、そりやー、もう。


話は9年前の2015年に遡ります。

この年の10月、江戸川区の郷土資料室で力石展が開催されたんです。
その名も「まるいし おもいし ちからいし」


私はその年の10月18日に上京して、早速おじゃましました。

おもいし
東京都江戸川区松島1‐38‐1 江戸川区郷土資料室

うれしいことに可愛い猫ちゃんが入り口でお出迎え。
中へ入るとこれまた壁の猫ちゃんが展示をご案内。


20151028071950280_20241023132609ddd.jpg

石は張りぼて。でもよく出来ていました。
実際の力石から採った拓本や歴史、試しに持ち上げられる石などもあって、
なかなか見ごたえがありました。


でも観覧者は私のほかには誰も…。
江戸川区に住んでいる友人は、全く知らず興味もなくがっかり。
でも無理強いはできませんものね。


あれから9年。今なら少しは知名度が上がったかな。

おもいし展

帰り掛けにいただいた力石マップを片手に、周辺の神社を歩きました。
マスコットキャラクターの猫ちゃんも一緒です。


おもいしマップ

このあと私は「深川の力持ち」を見に、急ぎ江東区の木場公園へ。

これは江戸時代、
浅草蔵前の札差
(米問屋の仲買)の従業員たちが始めたものだったが、
時代と共に衰退。だがそれを惜しんだ地元の方々が
この技芸を復活させようと「深川力持睦会」を結成。
昭和31年、東京都無形文化財に指定された。


下の写真の演目は「宝の入船」です。
仰向けになった人の上に米俵3俵、臼、船を乗せその上に酒樽と
人3人を乗せ、その3人が米俵を差すというもの。


深川力持

昔の写真を見ると力石を使っていますが、
私が見た日は力石の登場はありませんでした。ちょっと残念。


岡山県総社市の総社宮では、毎年、「力持ち大会」を開催していますが、
大小様々な石を用意して、男女を問わず幼児から大人まで参加するという
とても楽しい大会でした。
競技は安全を考慮して、石に付けた縄で持ち上げる「地上げ」。

※ 地面から持ち上げた石を既定の時間までがまんできるかを競うもの。

京都・醍醐寺の「餅上げ力奉納」でも、若い人の参加が目立ちました。

下の写真は「わしが総社の力石」大会の子どもの部です。
無事上がったら認定証がでます。行司役は岡山県立大学の学生さんたち。
このときからすでに12年も立ってしまいました。
この坊や、もう二十歳ぐらいかな。


okayama
岡山県総社市 総社宮 

今、深川睦会では会員不足が深刻と伺いました。
昔ながらの伝統芸はもちろん大事。
でも時代と共に成長することが存続に繋がるのではないでしょうか。

老婆心ながら、
一般人が参加できるような楽しい工夫があれば、と思います。


金沢のそばつぶさんや埼玉の坂本さんなどを招待するのも、
いいんじゃないかと思うのですが、
伝統芸能というお墨付きを得たら、自由に変えられないのかも。


「深川力持睦会」のおにいさんたちと。
深川

でも例えば、古い盆踊り。
これは当時、京の都で流行っていた最新の踊りと歌なんですよね。
それがなぜ延々と続けられてきたかと言えば、
そのひとつに掛け合う歌にその時々の新しい社会情勢を歌い込み、
常に新しい風を吹き込んでいたからではないか、なんて思うのです。

それが文化財になった途端、衰退が始まる。

もともと衰退しつつあったから、
せめて調査資料として残そうと文化財にしたという意味もありますが、
お墨付きがつくと所作や歌詞を忠実になぞるだけになるから、
酒飲んで無礼講で一晩踊り明かすという本来の盆踊りから逸脱する。

本来、盆踊りというのは、
あの世から帰ってきたご先祖様と共に踊るというものだったそうです。
だから昔は生者も死者もわからないよう深く笠を被り顔を隠して踊った。
そうして夜が白々開けるころいつの間にか人が減っていて、
その減った人があの世から来たご先祖さまだということになった。


私がかつて仲間に入れていただいていた盆踊りがあります。
扇やササラなどを持って、毎年おじゃましていました。
笛と太鼓と歌だけという素朴な踊りで、寺の庭で踊りました。

うとぎ

文化財指定の盆踊りでしたが、主催者がポツリとおっしゃったんです。

「これもいずれ消える運命だと思っています」


こういう昔の盆踊りは武士の歩き方と一緒で、
右手右足、左手左足を同時に出していきます。
昔の田植えと同じ所作なんです。

今の右手左足、左手右足の歩行は、
明治になって西洋式が移入されてからだそうです。
歩き方ひとつにもその国独自の歴史が見られる、面白いなぁと思います。

demo残そうと思って文化財に指定しても古いままでは衰退する。
難しいですね。


雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞