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「力石病」

力石の研究者
11 /17 2024
高島愼助先生から封書が届いた。
開けてびっくり。
中から出てきたのは、
「文化財の力石」(1)(2)(3)の冊子3冊です。

退官からすでに十数年たつのに、こうしてまだ力石の冊子を出される。
その信念と情熱に圧倒されました。


こちらが送っていただいた最新の力石の冊子です。
文化財力石

高島先生と言えば、全国市町村では知らぬ人はいない力石の先生です。
先生は、力石を「体育史学」というアカデミックな世界に引き上げて、
学問として成立させた上智大学・伊東明先生の最後のお弟子。


伊東先生はご自分が足で歩いて収集し、全国の学者に呼びかけて
ネットワークを構築。
そのすべての資料を高島先生に託して、この世を去った。


頼みの師を失って「最初は途方に暮れた」と、高島先生。

そんな先生と私の出会いは、突然のメールからでした。

その頃私は地区の石造物の調査を一人コツコツとやっておりました。
そんな折、知人から「石造物を案内して欲しい」と頼まれて数か所歩いた。
その中に力石があって、それを知人が自分のブログに載せたら、
ネットサ-フィン中の先生の目に止まったというわけです。


これがそのときの力石です。正確には「代用力石」。
私の力石探索の出発点になった第一号です。


大御堂神社
静岡市葵区有永 大御戸神社

これは「元禄十六 午三月吉日」 に建立された鳥居で、
破損したため当時の若者たちが力石に転用したもの。

ゆえに「元禄石」と呼ばれていた。


「昔の若者たちがこの石を担いで、
神社の石段を何回上り下りできるか競ったんです」と、当時の氏子総代さん。

今は人影も絶えた石段の片隅にポツンと置かれています。


 力石残夢の杜にまどろみて   雨宮清子

高島先生、私と連絡が取れるとこちらへすぐ参上すると言う。
わざわざ遠方から来られるのに一つでは申し訳ない。
そこで私は急きょ図書館で各地の郷土史を漁り、もう一つ見付けて待機。

これがきっかけで、ほぼ一年間、先生との静岡県内の行脚が始まりました。


伊豆・伊東市の路傍に置かれた力石を撮影中の高島先生です。
CIMG0079_20241112124338d18.jpg

オンボロの軽自動車で初めて当地にやってきた先生に挨拶もそこそこ、
「では、行きましょうか」と言ったら、先生、一瞬、戸惑ったような顔をして、
「あなたはいつもこうして見知らぬ人の車に乗るんですか」と言う。

思わず吹き出しそうになりながら、
「では、先生、お一人でどうぞ」と返したら、「それは困る」と。

それが次第に、
「姫と一緒だと楽しい」とおっしゃるようになった。


だが、先生は人遣いが荒い。
しかも力石の調査はどなたも手弁当だ。
だから踏み込めば踏み込むほど出費がかさむ。
そのくせ、夢中になればなるほど全国を歩きたいという欲が出る。

そんなとき、沖縄で孫が生まれた。


このとき私、71歳。ブログを始めた年でもありました。
孫の想良

 孫の顔見がてら力石(いし)も見て歩き  雨宮清子

というわけで、見てきました。

CIMG1284_20241112173057814.jpg
今帰仁村謝名 公民館 42×32×25㎝

まあ、万事そんなわけでどっぷり嵌り込み、
「一度嵌ったら抜けられませんぜ」となりました。
そんな私を見て、
「姫もいよいよ”力石病”に罹患しましたね」
と、先生は満足そうにおっしゃった。


ここまで来ればしゃーない。やるっきゃない。

というわけで、今日まで参りました。
2024年現在、静岡県内の力石の個数は「286個」


私は行った先々で人と触れ合うのを第一としていたから、
いろんなドラマがありました。

先生はその反対。
「お茶でも飲んでってや」と、声を掛けてくださるのに、
「いらない!」

そのたびに私は冷や汗、タラ~リ。
もっとも大学教授の仕事の合間での調査だから、時間が限られている。
一度再調査に出かけると2、3県を梯子して走り回るから、
お茶などのんびり飲んでいる暇はない。

しかし、だんだん”飼い慣らし”ましたですよ。(冗談です)
でも、だんだん変化が…。
とある山間部の限界集落では、
おばあちゃんたちとニコニコ歓談するまでになりました。
\(^o^)/

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞