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時代は常に先を急ぐ

ごあいさつ
12 /27 2021
もう師走。
時のたつのが早すぎて…。

10年前、私はこんな詩を詠みました。力石の調査を始めてまもないころです。
それを力石の高島先生が、「力石を詠む(五)」の巻頭に載せてくださった。

拙い詩ですが、お目を通していただけたら幸いです。


ーーーーー

山里に力石を尋ねし人あり
遠方より来たる
まばらなる家居には
人影はなし犬も鳴かず

山上の観音堂に
石あり三つあり
錆を帯びまろき呈なり
鉄丸石(てつがんいし)とて力石なり

CIMG0651.jpg

七草のころこの堂にて田楽を演ず
この日ばかりは村人こぞりて舞い遊ぶ
されど
力石には目を止むる者なし

CIMG0657 (2)

遠方より来たる人 石と対座す
力比べに興じし若者らのさんざめきが
石より出で 
つかの間杜に満つ

人の心は移ろいやすく
時代は常に先を急ぐ
村に力自慢の絶えて久しく
力石はただ元の石に成り果てぬ

山ははや秋の隣り
遠来の人
幻影を胸に刻みて
往(い)ぬ

img20211220_12244615 (4)


ーーーーー

2月初旬の祭りの朝、水垢離をする人たち。
南アルプスに源を発した藁科川上流の水は、身を切るような冷たさです。

img20211220_11552290 (2)
静岡市教育委員会「七草祭」よりお借りしました。

静岡市葵区日向・福田寺観音堂「七草祭」=県指定民俗文化財


ーーー

たくさんの方にご訪問いただき、感謝しております。
来年もまたよろしくお願いいたします。

良いお年を!


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実家から借りてこい! …⑳

田畑修一郎1
12 /24 2021
自分の夫でありながら、私はこの人の精神構造がまったくわからなかった。

なぜ、こうも人を連れて来るのか。
私と子供は一度としてここに来る人の家に招待されたことはない。

いや、一度だけひんぱんにくる男の母親の別荘に招待された。

しかし私たち家族にその母親が出したのはサバの缶詰一つ。
それも缶のまま親子4人の前に置いた。

これは、
「あなたたちを歓迎しない。お帰りください」の合図ではないか。

ここまでコケにされても、武雄はえへらえへら笑うだけ。

いやむしろそのエベッタン笑いがひどくなるだけで、
男に文句ひとつ言わないまま、私と子供たちを連れて外へ出た。

DSC02941.jpg
斎藤氏撮影

この鼻をグズグズさせる男は、その後も平気で遊びに来た。

私と二人の子供はひと部屋に固まって寝た。子供たちに笑顔はなかった。

「お母さんはなぜ、いやと言えないの? なぜそんなに遠慮しているの?」
と長男が聞いてきたが、私は答えに詰まった。

だが一度だけ、この鼻炎男を怒鳴りつけたことがある。

その日は子供を連れて河原へ遊びに出かけた。
ところが何を思ったのかこの男が突然、幼稚園児の二男を抱きかかえると、
橋げたの根元の一番うねりの強い中に投げ込んだのだ。

二男はみるみる流された。
私は大声を挙げて走ったが間に合わない。

偶然下流に夫がいて、私の叫び声に気づいて二男を救い上げた。
間一髪だった。
そこに夫がいなければ、二男はそのまま本流に流されて助からなかった。

南ア前衛の大谷嶺に源を発したこの安倍川は、
広い川幅にいくつもの支流を抱えたまま、山間部から市内を貫通し、
駿河湾に達して、その長い水の旅路を終える大河川なのだ。

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男は「奥さんは大げさだ」とケラケラ笑う。
夫の腕の中で二男がガタガタ震えている。

私は男を睨みつけて怒鳴った。

「あなたは川を知らないんですか。川の流れは二層になっていて、
下層の方が流れが速い。
いったん引きずり込まれたら大人でも起き上がれないんですよ」

帰りの徒渉のとき、ひざ下の浅瀬で男が滑った。
そのまま音を立ててガラガラ流されて、慌てふためいていた。

それきり、この男は家へ来なくなった。

しばらくして、男の愛人が子供を産んだため妻と別れた、
子供を溺愛して、誰れにも触らせないと聞いた。

自分の息子の命が危険にさらされたってのに、
夫はなぜ、男を殴り倒さなかったのか。

今もなお、ふとした時に記憶がよみがえり、私は恐怖にとらわれる。

当時武雄は、家族を犠牲にしてでも客をもてなすのは、
「日ごろお世話になっているから、そのお礼だ」と弁解がましく言ったが、

私には、「お金あげるから、ぼくちゃんと遊んでよね」
という幼稚でみすぼらしい行為としか映らなかった。

こんな無謀なことをしていれば、たちまち干上がる。

通帳に入金があった直後に引き出される。
私の乏しい収入では当然、暮らしが追いついていかない。

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斎藤氏撮影

やがて住宅ローンの支払いが滞って、銀行から電話が鳴り始めた。
ひごろの銀行員からは想像もできない罵声を浴びせられた。

「いつ? はっきり言えよ。えっ! 困るんだよ! いつ払えるんだよ?」

ほどなく、家で散々飲み食いしていった飲み屋のママから、
何通もの内容証明郵便が届いた。全部、飲み代の請求書だった。

義姉からもお金の請求の電話が来た。
貸した金を返せという。

「あんたが浪費するから武ちゃんが困って借りに来たのよ」と怒鳴る。

「武雄の収入は全部、わかってるんだからね。
あんなに稼いでいるのに生活に困るなんて、おかしいじゃないの!」

結婚当初から私は武雄の給料の額を知らなかった。
会社を辞め、フリーの雑誌記者になったのもあとから知らされた。

「義姉さんはなぜ、うちの収入を知ってるの?」と聞いたら、
「ああ、確定申告をやってもらってるんで」とすましている。

妻なのに私は自分の家の収入を知らなかったのだ。

間もなく私は義姉から、夫の実家への出入り禁止を言い渡された。
それを告げたのは、なんと夫の武雄だった。
悪びれた様子はこれっぽっちもなく、えへらえへら笑いながら、

「あのさぁー、姉貴がね、お前だけはもう来る必要はないって」

気味の悪い笑いだったが、田畑作品を読んだ今、はっきり理解した。
あれは、根無し草の父親・二郎の「エベッタン」そのものだったのだ。

武雄がどんなに嫌っても、
それは彼自身をも含めたあの一家の身に沁みついた笑いだった。

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やがて彼は、小さな編集プロダクションの名ばかり社長になり、
その名刺を私に見せびらかした。

だが、その直後から無理なことを言ってくるようになった。

「会社の資金繰りが苦しい。家にある金、全部送ってくれ」
「ない」というと、たちまち怒り出した。

「ない? 主婦のくせに定期もないのか。だったら実家から借りてこい」

それも断ると今度はこう言い出した。
「お前、本を書け」

登山の本を書いた。印税はすべて武雄が受け取った。

「金がない」が口癖だったが、それもウソだった。

いみじくも離婚後に書いた自著で武雄自身が告白している。

「当時は原稿用紙1枚書いて1万から2万の
超売れっ子作家並の原稿料をずっともらっていた」と。


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芥川賞も直木賞も …⑲

田畑修一郎1
12 /21 2021
「もの狂い」は、女性問題ばかりではなかった。

結婚当初から私を困惑させてきたことがもう一つあった。

それはどこへ引っ越しても友人と称する人たちを自宅へ連れ帰ることだった。

彼らは私が妊娠中、つわりに苦しんでいるときも、
出産から退院してきたその日もすでに来ていて、酒盛りをしていた。
仕方なく、6畳ひと間しかないその部屋の片隅に赤ん坊と横になった。

下の写真は、実家の父と長男。寡黙な父は孫から怖がられていた。
成人してから「おじいちゃんはあなたをおんぶしてどんど焼きに行ったんだよ」
と告げたら、「そんなことがあったのか」と。

武雄は里帰りに一度も同行しなかった。
父の葬儀に来たのが2度目。それっきりだった。

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子供が40度を超える発熱で右往左往していようが、
喘息発作で苦しんでいようが、明日の食べ物にも事欠いても
学校の制服が買えない状況でも連れて来る。

夫は帰りのタクシー代まで渡していた。
咎めると、「あいつは公務員でオレより低収入だから」と言う。

どう考えても正常ではない。

「やめて欲しい」と頼んだら、
「誰もが自由に出入りできる家がオレの理想だ」と、声を荒げた。

出費はかさむ。

幼子を保育園に預けて、
本の校正や料理雑誌に「食べもの歳時記」を連載したが、とても追いつかない。

当時は保育園の入園を申し込むと区役所職員が家にきて、
「アンタの旦那は女房を働かせなければならないほど稼ぎがないのか」
と、嫌みを言った。

入園できた保育園の健康診断での長男。保母さんが撮ってくださった。
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東京都世田谷区

「食べもの歳時記」を書くにあたっては、柳田国男の全集を読み込み、
実家の母から昔の年中行事を書いて送ってもらったりした。

今、手元にあるその手紙の母の筆跡が懐かしい。

七月七夕
朝早く芋の葉の露を硯(すずり)に取り、短冊に書きます。

七夕の今宵逢ふ瀬の行く末は 
          よろず世かけてなほ契るらむ


星あいの夕べ涼しき天の川 
          もみじの橋をわたる涼風

七夕様よ七夕様 色紙短冊あげますほどに、どうぞこの手をあげてくれ

などと書きます。
この手を挙げるとは、お習字が上手になりますようにと願うことなのです」

「里芋の大きな葉っぱに溜まった朝露を硯にいれて文字を書く」

私は昔の人のこうした風情がたまらなく好き。

母からの年中行事を書いた手紙。
img20211213_13115205 (2)

できた記事がこちら。

img20211220_15555420 (2)

そのころは東京の木造アパートにいて、とにかく必死で働いた。

私の密かな目的は、将来に備えて家を持つことだった。
ようやく頭金になりそうな額を貯めて土地を探した。

東海道線沿いに探し、たどり着いたのが静岡県の山あい。
少ない頭金で買えたのはそこだけだったが、
きっと将来の大きな助けになると信じた。

ローンを組むには保証人がいた。

武雄の義兄は無職で義姉もアルバイトで資格がなかったから、
実家の父に頼んだ。父は何も聞かずに承諾してくれた。

そうして逃げるように東京から離れたのに、事態はより悪くなった。
転居後は違う客が来た。

常連はいつも鼻炎気味の鼻をグズグズさせている小太りの男と、
度の強い眼鏡の男で、この男はのちに妻と3人の子供まで連れてきた。

飲み屋のママと称する中年女は、
河原へ遊びに行きたいからと私のズボンをはきスカーフを被って出かけた。

残雪の春山で突風にあおられて…。当時の私はこんな感じだった。
img20211219_12333468 (2)

夕方、武雄と共にやってきて、そのまま酒盛りになったり、
別の日にはタクシーで有名料亭に繰り出していく。
そうしてみんなは当たり前のように泊って行った。

新宿の飲み屋のママという人が、いみじくも言った。

「なんでみんなが新幹線代を使ってでもここへ来たがるかわかったわ。
だって奥さんが至れり尽くせりなんだもの」

立ち寄っただけで帰る客もいた。

駅からバスで30分もかかるわが家へご夫婦で来た方があった。
ご主人は詩人で奥さまはイラストレーター。
形だけ部屋に入り、気まずい顔をして早々に立ち去った。

某カメラマンも長男と二男を何枚か撮影して、そのまま立ち去った。

きっと武雄に無理やり連れてこられたのだろう。

その方が撮って下さった長男と二男。
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嵐の夜、推理作家から「大丈夫ですか?」の電話をもらい、
他の方からもそれとなく、「みんなも心配している」と言われたとき、
私はハッとした。

心配してくれるのは、一度として家へ来たことがない人ばかりではないか

散々飲み食いしていく人たちから、そんな言葉はもちろん、
「今度うちへも来てください」とか、子供へのお土産すらない。

普通じゃないよ、これ。

「これ以上はもう無理だ」と言ったら、
武雄はヘラヘラしながら「お前のこと、みんなが褒めてるよ」と私に媚びた。

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斎藤氏撮影

武雄は何冊か本を書いたが、私はほとんど読んではいなかった。

しかし別離から30年近くたった今年、田畑作品に触発されて、
彼の最後の本とおぼしきものを読んでみた。

ページを開くと彼一流のもったいぶった文章が並んでいて、
思わず、「ちっとも変わっていないなぁ」と。

私に関する記述もあった。
自分を正当化したかったのだろう。ウソが散りばめられていた。

その中にこんな記述があった。

「フリー(ライター)になって一番困ったのは飲み屋のツケだった」

「それまでツケは伝票を切って会社にまわしたが、
これがストレートに自宅へやってくる」

「会社にいたときの月給とほぼ同額が請求書で送られてくるのである」

武雄が恵まれた出版社を辞めてフリーになった時、
私は二人目の子供を身ごもっていた。

彼は会社を辞めた理由を臆面もなくこう書いていた。

「芥川賞と直木賞を同時にとります。
それがまわりに公言した私の退職理由だった」


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ちょっと息抜き …⑱

田畑修一郎1
12 /18 2021
力石からちょっと横道のつもりが、どんどん逸れてしまいまして…。

それも人さまには聞きたくもないごく私的な暗い話ばかりで…。

写真を提供してくださっている斎藤氏からは、
「これは息子さんたちへの伝言でもあるのかな」と。

そうかもしれません。フィクションもどきの「遺言」のようなものかも。

もし読んでいたら、「やめてくれよ」と言うでしょうけど。

でも改めて思うんです。結婚って難しいもんなんだなあって。

だから老夫婦がお互いを支え合って歩いているのを見ると、
山、谷越えて到達したんだ、「美しいなあ」とつくづく思います。

老いてもなお美しい県天然記念物「ミツバツツジ」 樹齢600年。樹高日本一。
img20211213_22141394 (4)
静岡県富士宮市猪之頭

私には叶わなかった姿ですが、でも私の人生にも素敵な場面がありました。

暗い体験ばかりを見ていると、陰気になって人を恨みたくもなりますが、
光の部分に目を向けると、まあまあの人生ではなかったかと。

私もいよいよ人生の終盤。
でも今が一番、穏やかで落ち着いた日々のような気がします。

この私の「人生の総括物語」、もう少し続きますが、ここでちょっと息抜き。

斎藤氏から「あらら」とびっくりの写真と句が届きました。

これです。 「十七メ」 63×30×22余㎝

tokage.jpg
茨城県取手市下高井・妙見八幡宮。2019年4月撮影

力石(いし)の背の蜥蜴と対峙息を呑む  斎藤呆人

ブログの「石の上の蜥蜴になれやもの狂い」の句を見て、
斎藤さん思わず、
「あれは、修一郎さんだったのではなかったか、と」

IMG_0812.jpg

実はこの妙見八幡宮には計3個、力石があるそうです。

なんと全部新発見! でも残念ながら未発表、未掲載。
なのでせめてここでお伝えします。

こちらが残りの2個。赤矢印の石がトカゲが乗っていた力石です。

「三十二メ」72×45×20余㎝
②64×37×26余㎝

今も無事に存在しているのか心配ですが…。

IMG_0806.jpg

さて、先日久しぶりに町へ出かけ、旧知の方々とお会いしてきました。
その折いただいたのがこちら。

「家康手植えの蜜柑」

鎌倉時代に中国から伝えられた「ほんみかん」(紀州みかん)です。
家康公が駿府在城のとき、紀州藩主から献上された苗を
天守台あたりに自ら植えたと伝えられています。

今も大切に管理されていて、年に一度収穫。
 ※県指定天然記念物

左が普通のみかん。右の二つが「家康手植えのみかん」です。
CIMG5745 (3)

小粒で種があります。

でも、香りが強く、ほどよい甘みの爽やかなみかんです。

この時期、静岡駅でも乗降客に配っております。

でも、「家康手植え」の添え書きと一緒に渡されるので、
いやでも家康を意識してしまいます。

さすがは策略に長けた「たぬきオヤジ」、知名度は永遠です。


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もの狂い …⑰

田畑修一郎1
12 /15 2021
田畑修一郎に女性の影がまったくなかったわけではない。

親友の妹に恋をしたことは誰もが知っていて、
田畑自身も「蜥蜴(とかげ)の歌」に書いている。

女には婚約者があった。

これは親友への裏切りであり、自分には妻子がある。
それでも断ち切れない恋情に苦しみながら、
「女との間は幸福とも不幸ともいいうる形で半年続いた」

しかし、「へとへとになり、女と別れた」

「女とのことで得たものは、
次々と周囲を不幸に陥れるのだなという惨めな自覚だった」

そうしてこんな句を吐いた。

石の上の蜥蜴になれやもの狂い

田畑修一郎の自筆。
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「田畑修一郎の手紙」渡辺利喜子 武蔵野書房 1994より

この「もの狂い」は、仲間たちの間で評判になった。

全集の月報に、
女郎屋に一緒に行った友人の川崎長太郎がこんなことを書いている。

「ことを妻君が嗅ぎつけ、
深夜隣りに寝ている同君の細い首を絞めるような騒ぎともなったらしい。

嫉妬に狂う妻君の振る舞いに恐れをなして、田畑君は中途恋愛から身を退き、
二度と同じ真似なんか繰り返せなくなったと、私にしみじみ語っていたりした」

これを読んで、
「そうか。首をしめなくちゃダメだったんだな」と私は思わず苦笑した。

夫の武雄のそれは恋ではなく、私へのいやがらせのようなものだった。
育児など全く関心がない武雄の帰宅はいつも深夜で…。

午前3時、4時に帰宅して、
「天ぷらが食いてぇ」と迫り、必死で揚げる私の傍らで、
「女といたんだ」と公言し、その女に電話をかけさせ妻を困らせて楽しむ、
そういう子供じみた常軌を逸したものだった。

「俺は型にはまるのが嫌いだから」と、武雄はことあるごとに言い、
七五三や入学式などを「くだらねえ」と拒んだ。

私には本心とは思えなかった。
ただ人生の節目に祝ったりする、そういう経験が皆無というだけのように思えた。

なぜなら、彼には子供時代や家族の写真が一枚もなく、
あるのは高校生以後の写真ばかりだったから。

近くの祠で長男の初宮参りのまね事をしたときの写真。
母が23歳のとき長兄を抱いて撮影した時の着物を借りて…。
img20211210_11320442 (2)

武雄は時折り、一人で実家へ行き泊ってくることがあった。

帰るなりニヤニヤしつつ、
「おふくろがね、わざわざあっちへ帰らなくてもって引き留めるから」
と嬉しそうに言った。

「嫌っておん出た家」なのに、と私は不思議なモノを見るように夫を眺めた。

そこにはまぎれもなく、父親になれない大きな子供がいた。
妻を子供にとられて、ダダをこねる男がいた。

仕事から帰ると、玄関にカバンを置き靴下を脱ぎ棄て、次に上着を放り投げ、
そうして居間へ来るまでに身に着けていたものを一切捨てて、
パンツ一つで寝転がる。

あの義母はいつもこれを拾って歩いたのだろうか。

なにもかもが異質過ぎて戸惑うばかりだったが、そのころの私は、
努力すればなんとかなる、頑張るという思いだけで生きていた。

母が言った「羽仁進に似た柔らかいムード」、そういうムードを、
彼自身が時折り醸し出していたから、私は夢中でそれにすがった。

田畑の友人の川崎長太郎は、「田畑全集」の月報をこう締めくくっている。

「田畑は取材先の異郷で病いに倒れ、妻君を呼びつつ絶命した」

なんだかドラマのワンシーンみたいだが、
残された妻にとっては最高の「妻へ贈る言葉」になっただろう。

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斎藤氏撮影

田畑の「もの狂い」は、友人からの誘いで三宅島へ渡ったことで断ち切れた。

そこで今までの個人的生い立ちを主題にした私小説から、
見聞記風の一皮むけた作品を書いた。

いわゆる「三宅島もの」といわれる作品群だ。

こののち、私小説から客観小説の方向へいき、児童文学へと進んだ。

評論家の紅野敏郎は、
児童文学「さかだち学校」が書かれた背景をこう解説している。

「それは益田の生家、養家にまつわる話も、東京でのおのれの家の話も
いわば出尽くし、消化しきった時期でもあった」

義姉が10代半ばでこの叔父に会っていたのは、田畑作品から判明した。
その功名も当然、聞き及んでいたはずだが作品を読んだ形跡はない。

このころの武雄は写真を撮るだけの父親に徹していたが、
それは彼なりの「父親になる」努力だったのだろう。
img20211210_11320442 (3)

本は読まなくても義姉が田畑を、一族でただ一人の著名人として
尊敬し憧れていたのは、初めて会った日に、「これ、おじちゃまのご本なの」
と誇らしげに手渡したことからも充分読み取れた。

武雄が新婚世帯に持ち込んだ唯一のものが、義姉から贈られた机だったのも、
田畑修一郎の再来を末弟に託してのことだったのだろう。

その末弟もまた、作家になることを公言してはばからなかった。

ただ叔父・田畑と違ったのは、
「女とのことで得たものは、次々と周囲を不幸に陥れてしまう」
そういう「惨めな自覚」がまるっきり欠如していたことだ。

大型台風の直撃を食らった夜、東京から一本の電話がきた。

「大丈夫ですか? お子さんたちは無事ですか?」

それは著名な推理作家のT氏からだった。

「彼には家へ帰れと言ってるんだけどねぇ」とT氏は言ったが、
この電話は台風の心配なんかでないことは、ぼんやりの私でもわかった。

後日、武雄にTさんから電話をいただいたと告げたら、
例のエベッタン顔で、「みんな気にし過ぎさ。へへへ」と笑ったが、
武雄の目が急に左右に振れだした。

それは「もの狂い」の目そのものだった。


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ふくいくと  …⑯

田畑修一郎1
12 /12 2021
母も姉も、母の姉妹たちもよく歌を詠んだ。

上手に詠もうとしたわけでも自慢しようとしたわけでもない。

手紙を書いているとき、誰かを思ったり感動したり落ち込んだ時に、
話し言葉のように、さらりと出てくるだけに過ぎなかった。

読書の好きな母は、店番の合間にいつも本を読んでいた。

「さやこは文春・十一月号の、
パールバック女史の人生哲学を読みましたか?」の手紙のあとに、

秋深し案山子は土手にうつぶせり


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出版社に就職した私は、本好きな母や、
経済紙と株式の短波放送しか聞かない父のために、本をせっせと送った。

「先日は本をどうもありがとう。
お父さんはさやこの手紙をじっと読んで目をそらし、
手紙だけお母さんのほうへ寄こして本を読み始めました」

子の文のやさしさ汗の目にしみる

「もう気を遣わないで」と言いつつ、母はそのあとすぐにこう綴る。

「それからお願いが一つ。
新潮社刊 俳人伝記集 吉屋信子著 「底が抜けた柄杓」
手に入りましたらお願いいたします。

西郷隆盛は五巻までいただきました。出来ましたら後おねがいします。
お父さんが楽しみに待っているようですので」

母からのおびただしい手紙を読み返しているうちに、
ふと、あの「二郎の家族」がそれに交差した。

CIMG5735 (2)

あの家族に「歌ごころ」はあっただろうか。
だって、口から出てくるのはウソ話ばかりだったもの。

結婚20数年たって別れを告げたとき、武雄は苦しげにこんなことを言った。

「ウソばかりつきすぎて、どれが本当の自分かわからなくなった」

そうしてさめざめと泣いた。

哀しい言葉だよなあと思った。

でもそうしてしみじみ反省しても、その口も乾かぬうちにすぐ元に戻った。
ウソの上塗りになるだけで何も変わらなかった。

田畑修一郎はわずかだが句を残している。

このあたり大寺の跡や霧の中

初秋や眉剃り落とす坊が妻

「五七五」のリズムは快い。
台所仕事の合間や、空や雲を眺めているとき、そうじのとき、
日常のすべてにこのリズムが流れていたように思う。

気まぐれに「七七」をつけて余韻を楽しんだ。

今にして思えば、私と武雄、武雄の家族の間にそうしたリズムはなかった。
リズムを生み出す素直な目も心も、彼らからは感じられなかった。

リズムは五七五とは限らない。だが、響き合うものは何もなかった。

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斎藤氏撮影

母は自分の妹たちから、
「ねえちゃんは士農工商の一番下になったのね」とからかわれても、
その悔しさをさらりと歌で返した。

歌に「性合わぬ夫」と書き綴った母だったけれど、二人には、
「自分たちには叶えられなかった上級学校へ、せめて子供たちだけは…」
という共通の生きがいがあった。

近所の農家のおやじから、
「人にくれてやる女の子に金をかけるなんてあんたら、バカだ」
と言われても、両親は信念を曲げなかった。

当時の村の中学では、高校進学者は数えるほどで、
女の子のほとんどは、浜松の紡績工場か家事手伝い。
大会社の女中奉公に行く同級生は、東京へ行くことを自慢した。

女工からバーのホステスになり10代で結婚した幼友達のおばあさんが、
高校生の私を見て、皮肉を言った。

「やだやぁ。ここんちの娘は行かず後家かね」

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こんな中での暮らしや商いは、さぞ大変だったろうに、
その苦労を私は見事に裏切ってしまった。

両親は、「男に頼らず、自立した女性になれ」と願ったのに、
人も羨む仕事を手放し、奇妙な世界へ迷い込んで醜態を演じ続けた。

そんな私に、句集に残る亡き母の一句がほほ笑んでくれた。

ふくいくと墨の香りや初硯


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モダンボーイ …⑮

田畑修一郎1
12 /09 2021
田畑修一郎は養母が百姓の出で水商売であることを「卑俗」ととらえ、
それを蔑視した表現をたびたび作品に書いている。

けれど、本当の「卑俗」といえるのは、ふるまいや心の在り方であって、
職業や出自や地位の貧しさではないはず。

なぜなら、外側を見て「卑しい」と捉えて蔑視するのは、
大半がその人自身に宿る劣等感や思慮の浅さから生じるものだから。

私の両親も貧しかった。だが、「卑俗」さは微塵もなかった。

幕末、神職の家が没落したため、
末に生まれた父は10代で精米所で働き一家を支えてきた。

ようやく暮らしに目途がたち新妻を迎えたころ、
東京の私立・芳林小学校の校長だった腹違いの兄が帰郷。
 ※この人は日本で初めて林間(臨海)学校を実施した人だという。

下は、この人から生家の父親へ届いた手紙です。
父より22歳年上のこの兄の手紙は、
「我ら兄弟は後妻の子供は認めない」という厳しい内容だった。

CIMG5743 (2)

父は生家を追われて、
かつてお初穂をいただいていた山村の農協の組合長として赴任してきた。

戦後は店を始めた。

だんだん大きくして、食料、雑貨、野菜、文房具のなんでも屋になった。
隣りに建てた大きな倉庫には、
近隣の山村から買い入れた薪や炭俵がうず高く積んであった。

店名をつけるとき、本名ではなんだか偉そうだからと読み方を工夫し、
それに「百貨店」と書いた大きな看板を掲げた。

「百貨店」は父のせめてもの誇りだったのだろう。

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ある日、一人の男性が恐る恐る店に入ってきた。
父の生家近くの顔見知りだった。

父の顔を見るなり、「あっ、やっぱり」と声を挙げた。
その人は目を丸くしたまま、「こんな所に」と言い、あとの言葉を飲んだ。

父は懐かしそうに、「やあ」と声を掛けた。

飲み込んだ言葉は「こんなところに落ちぶれて」とわかっていた。
母も微笑みながら二人を見守った。

兄から冷遇されても父は下僕に徹し、その子や孫にまでよく仕えた。

そんな兄がだんだん弟を頼るようになり、
晩年は電車で30分ほどかけてよく遊びに来た。

母が作った綿入れに首まですっぽり埋もれ、胸に猫を2匹抱いて
こたつでニコニコしていた。そして、同じこたつに足を突っ込んでいる幼い私に、
これ以上ないというほどの慈愛の目を向けた。

この人は帰郷後、名誉町民になった。

50人ほどの一族の集合写真での兄(左)と父(右)。このとき31歳で二児の父。
兄は当主として一番高い位置に立ち、次の高さに弟を立たせている。

この伯父亡き後の生家には、ただ一人残った老いた下男がいた。
家名と家紋を染めた半纏姿が今も鮮やかに蘇ってくる。

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昭和12年

青年時代はレコード集めに夢中になり、茶娘に女装して写真館で撮影したり、
仲間とバイオリンやビオラを弾いた大正のモダンボーイだった父が、今は商人。

人がどう見ようと、父は商人という「今」を懸命に生きていた。

遊びに来る伯母たちが小学生の私に、「さやこさん、ごきげんよう」と声を掛ける。
店頭では買い物客へ掛ける父と母の「いらっしゃい!」の大きな声が響く。

そんな両親が私にはちょっぴり気恥ずかしく痛々しく、愛おしく思えた。

母の先祖もまた、流転を味わった。

江戸時代は藤枝・田中藩の藩士で、柔術の指南だったが、
明治初年、藩主とともに転封先の房総へ落ちて行ったという。

父親が柔術指南だったためか、
この人は奥方付きの女性として御殿に奉公していたという。

「房総へ行くとき、祖母はすでに未亡人で3人の子持ちだったそうよ。
でも、長男は地元の豪農に懇願されて養子に出した」

下は88歳の時作った母の自分史。
21歳で結婚。翌年長女出産。表紙の写真は長男を抱いた23歳の母。

自分史に母は結婚の時の状況をこう書いている。

「(お父さんの家は)誰知らぬ者もない名家だったが、
(私が)嫁いできたときは、すっかり零落して粗末な家に住んでいた。
その上、兄や姉、妹など多くいて複雑な家庭であった」

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「祖母は房総で父親を亡くして、こちらへ帰ってきたんだけど、
頼みの二男が事故死。それで一人残った娘に婿を取った。
それがあなたたちのおじいちゃんとおばあちゃん」

母の実家へ、七五三の晴れ着を見せに行った時のことはよく覚えている。
大きな叔父さんが私を抱き上げて、土間から座敷へ持ち上げてくれたこと。
お祭りのときは獅子舞がなだれ込んで、土間いっぱいに舞ったこと。

「私のおばあさんは、どんなに貧しくても武士の娘を通したんだよ。
物静かな人で、近寄りがたくてね、
いつも帯に懐剣を差して端座して、そうして和歌を詠んでいた」

父の生家の人たちもなにかにつけ、歌を詠んだ。

下は連歌。
父と28歳違いの腹違いの姉は、若くして未亡人になった。
亡き夫の3年祭(3回忌)にあたる明治40年に記念碑を建てた。

碑建立に際して、遺族全員が歌を詠んだ。

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未亡人になった「みき」が生家の父に宛てた手紙です。

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私が東京で暮らすようになったとき、母は手紙をひんぱんに寄越した。
そしてそこには必ず、句や短歌がさらりと書き添えてあった。

5人の子供がみな家を離れてしまい、寂しかったのだろう。

「草餅をついて送ったのは、さやこが草のかほりを食べて、
おひな様を思い出してくれると思って」

「五月五日、男のお節句、うっかりしていて今日、慌ててのぼりを出しました。
出しても眺める人がなく淋しいものです」

そうして、さらりと、

さびしさのいやます日々やこいのぼり


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大切な晴れ着が …⑭

田畑修一郎1
12 /06 2021
義姉はその「機能不全の家」からの脱却を、年の離れた末弟に賭けた。

母親代わりに育て、有名大学に通わせ、一流の会社にも入れた。

これで家庭の機能が正常に戻るはずが、
私という「異物」が入り込んで計画に狂いが生じた。

だが気を取り直して今度は、その異物をもひっくるめての支配を始めた。

過度の干渉はこうして始まった。

その一つが私の晴れ着の一件だった。
義兄の嫁が親戚の結婚式に着ていくものがないから貸しなさいという。

あれは私がアルバイトで貯めたお金に実家の母が足して、
京都の呉服屋に注文した成人式の晴れ着だった。

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斎藤氏撮影

故郷の成人式に出られなかった私は、せめて晴れ着をと思い、
少しのお金を添えて母に頼んだ。

「注文の多い姉さんには、私が嫁入りの時着た白無垢を染めてあげたけど、
さやこは昔から何にも言わない子だったしね」と言い、作ってくれた。

私はそれを東京で着て、一人で写真館で記念写真を撮った。

そのなによりも大切にしてきた着物を貸せという。
しかも梅雨時に、あの大柄の女性に。

「大切な着物なので」「一度しか袖を通していないし」と拒んだが無駄だった。

着物はかなり遅く返された。案の定、不安は的中した。

戻ってきた着物の襟や袖には食べこぼしの染みが点々とつき、
裾には泥の跳ね返り。それを拭きとった跡がある。シワもそのままだ。

両脇に放射状に広がった黄色い汗染みを見たとき、怒りが爆発した。

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「汚れてます。ぞうりもガバガバになって底がはがれて…」と、訴えたら、
電話の向こうから、義姉が怒鳴った。

「最初から付いてたじゃないの! 変な言いがかりはよしてよ!」

淡い空色の地にピンクのカトレアが大胆に描かれた訪問着。
帯は黒地に亀甲紋。紋は赤地に金銀の刺繍をふんだんに使った華やかさ。

母が娘のためにと選び、私のお金もちょっぴり入った記念の着物だったのに、
食べこぼしと他人の脂っぽい体臭をべったり付けられてしまった。

消しても消せないシミと汗。青春が汚され、母の思いが踏みにじられた。

下は、今も手元にある母からの、
「ご成人おめでとう、これからです。しっかりやりなさい」の祝電と、

ちょっとおどけたお祝儀袋です。
「昔しゃ十五じゃ 嫁ごのさかり 今じゃ十五じゃ 勉強のさかり」

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このことは決して母に知らせてはいけないと思い、胸にしまい込んだ。

「娘たちが素敵な相手を見つけて、
品のいいお召を着て里帰りしてくれるのがお母さんの楽しみ」

その願いをかなえてあげられなかった上に、
自前の着物まで汚されて…。

結納には、義母と義姉が武雄と連れ立ってやってきた。
手ぶらだった。
「若い二人ですから。今どき、昆布やスルメなんて」と、義姉が言い訳をした。

両親は町内会長を招き、
遠路はるばる来てくれた仲人役の編集長夫妻に何度も礼を言い、
膳の用意に気を配り、粗相のないようできる限りのもてなしをしてくれた。

このとき、娘の夫になる武雄が、握り箸のまま吸い物椀をわしづかみして、
ズズッと音を立ててすすったのを見て、不安になったのだろう。

のちに手紙に、「あれが気になって」と書いてきたが、
以後は何も言わなかった。ただ、娘の私の家へ来ることもなかった。

何もかも違い過ぎた。だがもう引き返せなかった。

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斎藤氏撮影

あれから半世紀余り。脇の汗染みは黄色から茶に変わった。

衣替えの季節になると、
今年こそは捨てようと思いながら、箪笥から出したりまた入れたり。

その汚れの中に、
小太りの義姉や眉の太い義兄の嫁の顔が浮かぶのは、
情けないことに、
未だに自分の気持ちが吹っ切れていない証左だろう。

そういえば母にこの着物を着た姿を一度も見せていなかった。
手紙に、「成人式の帰りに〇子さんと△子さんが家へ寄ってくれた」と。

母は晴れ着姿の私をそこに見ることができなかった。
取り返しのつかないことばかりしてきた自分の愚かさに、今ごろ気がついた。


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根無し草 …⑬

田畑修一郎1
12 /03 2021
夫の武雄たちの父、二郎はいつ亡くなったのだろうか。
一家が大阪から関東へ転居してきたのはいつだったんだろう。

私が訪れたときの武雄の実家は神奈川県K市にあった。
もうずいぶん長く住んでいるふうだった。

義姉は、
「おとうちゃまが病気だったので、ずっと働いて家計を支えてきた」と言った。

だとすると、昭和16年、父親が「肺尖で1年間、会社を休んだ」あのときから、
ずっと働いてきたのかもしれない。

義姉が十代半ばのころだろうか。
それから今に至るまで、この人は働きづめだった。

今は画廊で会計の仕事をしている、そんなことをチラッとにおわせた。
その後、横長の古い日本画をもらったから、
これは本当だろうと思った。

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義兄はというと、毎日ぶらぶらしていた。

「この人は有名な大学を二つも出ていてね。だから、頭はいいのよ。
今、税理士の国家試験に向けて猛勉強中なの」

と義姉は言った。

確かに6畳間に昔ながらの座り机があって、数冊の参考書が重ねてあった。
だが、いつ見てもそのままで、何年たっても税理士にならなかった。

「むずかしいのよ、あの試験。今年は一つ受かったのよね。
こうして地道にやって行けばいつかは資格が取れて、
そうしたら税理士事務所を開くつもりよ」と義姉。

かたわらで聞いていた武雄が険しい顔になった。

帰宅してから吐き捨てるように言った。

「兄貴は働かないんだ。一度も働いたことがないんだ。
就職しても、誰に意地悪されたとかどうとかって訴えてサ。

そうするとおふくろが、
あんたの価値がわからないそんなとこ辞めちまいなさいって」

一気にそう言ったあと、ポツリとつぶやいた。

「だからあの家,おん出てやったのサ」

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斎藤氏撮影

義兄は昭一といった。
この人には妻と小学1,2年生ぐらいの女の子がいた。

最初からずっと別居しているのだという。

私も2,3度、会ったことがある。
奥さんは眉の濃い大柄な人で、女の子は母親に似た太い眉をしていて、
始終、その母親にべったりくっついていた。

「昭ちゃんがあっちの家へ行かないから、時々ああして来るのよ」
と義姉が複雑な顔で言った。

「昭ちゃんにお見合いさせたのよ。結婚すれば仕事も長続きすると思って。
だけど、ここがいいって。あっちの家へ追い立ててもすぐ帰ってきちゃうのよ。

あの二人、お見合いしたその日にホテルへ行っちゃって、
そしたら子供が出来ちゃって。それがあの子」

働かない弟に代わって義姉が生活費を出しているのだという。

茶の間の畳にべたっと座ってちゃぶ台に肘をつき、
ひたすらテレビに見入っていた義母が突然、声を張り上げた。

「あの嫁、ホウレンソウを茹でさせたら、どろどろになるまで茹でちゃって。
その点、昭ちゃんは何でもできる。
あの子の蕎麦の茹で加減は絶妙。どこの職人にも負けないくらいよ」

聞いていて、くらくらした。

「赤い靴の女の子の像」です。
この女の子の哀れさと義兄の娘が似ているような、そんな気がした。

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静岡市・日本平

女の子は自分から声を発することもなく、
母親の陰でみんなの視線を避けるように縮こまっていたが、
名前を呼ばれると、途端に笑顔を見せた。

そう、あの「エベッタン」そっくりの笑顔を。

武雄は口癖のように、「だからあの家、おん出てやった」と言う。
だが、ついこの間、「家族4人」で出かけた島根の旅には浮き浮きと出掛け、

みんなでブランコに乗っただのおいしいものを食べただのと
楽し気に話していたではないか。

あのころ、この「家族」はいったい何なんだと思ったが、
こうして田畑作品を読んでみたら、その原因に突き当たるものがあった。

原因の核には、
「えへらえへら笑う」根無し草の二郎がいて、何も動かない妻がいた。

「架空の世界」に生きる義姉がいて、働かない義兄がいた。

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斎藤氏撮影

あの人たち、根無し草だったんだ。この家、壊れてたんだ。

常に現実から目をそらし、
取り繕いながら、ごまかしごまかし生きて来たんだ。

ずっと以前から、そういう機能不全の家だったんだ、と。


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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞