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バンコクへ

神田川徳蔵物語
09 /29 2018
ローマ・オリンピックから6年後の昭和41年(1966)12月5日、
重量挙の飯田勝康第5回アジア大会の開催地、
タイ王国の首都バンコクへ飛んだ。

今度はさらに責任の重い監督として。

今から52年前のバンコクの様子を、井口幸男の目で見て行きます。

「羽田空港からバンコクまでの所要時間は6時間10分
時差はわずか2時間。
覚悟はしていたものの暑い!

「空港から選手村まで30分。
水田の中に下駄をはいたような家が建っているのを見た」

「宿舎では金属製の筒のようなものを持った男が、
石油臭い煙をもうもうと出して各部屋を回っていた。
蚊の駆除だそうだが、臭くて部屋へ入れない」

でも、これで蚊に刺される心配はないと安心したのもつかの間、
このあと井口は就寝中、
耳の中へに入り込まれて七転八倒。

「やけくそでジョニーウォーカーを一杯飲んだ」

「入浴しようと思ったもののシャワーが一本あるのみで、
水はチョロチョロとしか出ない。暑くてどうにもならない。
そんなとき、飯田君が親切に氷水を持ってきてくれた」

勝康はここでも元気いっぱいです。
国際審判員として大会に臨んだ井口や7人の選手たちだけでなく
ほかの競技の選手たちや外国の友人たちにもあれこれと気を配っています。

16年前の第1回アジア大会では、
胸の文字は「JAPAN」でしたが、今回は「NIPPON」になっています。
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「バンコクへ着いた当初、豊富な果物を口にして、
「うまい。当分、飯は果物でいい」と言っていた飯田君だったが、
次第に鼻についていやになってきたといい、早速ご飯を炊き始めた」

勝康はここバンコクでもうどんそうめん味噌汁を作っては
選手たちにふるまっています。
食欲のない井口には、海苔茶漬けを作ってあげたり…。

さらに、持参した石鹸の泡が立たず困っていた井口に、
バンコクの赤い石鹸を出してくれたという。
「泡立ちもよく、いい石鹸だった」

これがその赤い石鹸「IMPERIALブランド石鹸」です。
ダウンロード (1)

この写真は、タイ在住のちい公さんが送ってくれました。
「現在は外国ブランドに押されて、あまり売れず、
購買層も高齢者になったのかもしれません」とのこと。

ちい公さんは日本とタイを行き来して、ライターとして活躍されています。
また、ブログ「ちい公ドキュメントな日々」を書いています。
奥さまはタイの方で、かわいい「魔女さま」です。

Imperial red

さて、バンコク到着の4日後、いよいよ入場行進の日を迎えました。

「スタンドへ入り、周囲を見回すとバンコクのハイクラスの人ばかり。
女性はみな美しく、指にダイヤが光っていた。
スタンドでは人文字で王さまの顔を出したり、
コプラの前で笛を吹いたりの演出。みんな学生さんとのこと」

「日本選手団のプラカードを持ったお嬢さんは、
振袖姿の美しい人だった」

井口はバンコク日本人会の会長と日本料理屋「花屋」で、
別の日には味の素の専務と日本料理の「大黒」で会食したとあります。
このお店、今もあるのでしょうか。

また、韓国の李氏をブラワンホテルに訪ねたら、
ルームクーラー付の部屋で、
「さすがバンコク第一のホテルだ」と思ったとの感想を述べています。

井口は滞在中、頭痛に悩まされ食欲不振になったりしていた。

でもそれは暑さや虫のせいばかりでなく、
アジア重量挙連盟の会長選出のゴタゴタや各国の分担金、
タイのレフリーの未熟さへの抗議など、
たくさんの問題を抱えていたことにあったのかもしれません。

「午前中は洗濯、午後は試合場、帰村すれば日は暮れ、
夕食後はぶらぶらして寝るだけ」
と、どこか元気のない井口に比べて、勝康はいつも陽気

「バンコク市長の招待会の帰り、飯田君は酔っぱらってしまい、
帰りのバスの中で踊り出す始末」

井口たちは歓迎の夕食会で、
「仏さまみたいなピカピカの冠を頭上に載せた踊り」を見た。
「悪の物語の一幕であった」と書いている。

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酔っぱらって踊り出す勝康がノウテンキだったわけでは決してない。
指導者二人がウツウツとしていては、選手は頑張れません。

勝康は選手たちの士気を高め、体力気力を最大限引き出すため、
あるときはになり、またあるときは道化に徹して、
選手たちを鼓舞していたのだと私には思えます。

この大会で三宅義信大内仁
佐々木、木村、藤本、継岡は
小松は5位入賞という好成績を残したのですから。



※参考文献・画像提供/「わがスポーツの軌跡」井口幸男 私家本 昭和61年
               /タイ在住・ちい公さん

憎悪と友好

神田川徳蔵物語
09 /24 2018
昭和20年(1945)、
日本がアジア各地で展開していた戦争がやっと終わった。

その終戦から6年目の昭和26年(1951)、
第一回アジア競技大会インド・ニューデリーで開催された。
提唱者はインド。
しかし、戦後の物資不足から開催は予定より半年も遅れた。

参加国はわずか11ヵ国。競技も6競技だけ。重量挙はその中に入った。
 (現在は45ヵ国、40競技)
重量挙には、監督兼選手の井口幸男窪田登の二人が出た。
健闘して、二人とも3位に入った。

第一回アジア大会の重量挙表彰台です
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「歴史を面白がる」と言ったら、真面目な歴史愛好者に怒られそうですが、
でも、体験を通して無意識のうちに語っている歴史はやっぱり面白い。
他人の文献からの孫引きではなく生の歴史ですから、臨場感があります。

重量挙など全く知らない私が、井口幸男の著書に夢中になるのは、
その時代に居合わせた人の加工のない歴史が垣間見えるからです。
そんなわけで、
今回も著者、井口氏の語りでお伝えしてまいります。

さて、戦後の日本復興を胸に、
勇躍、インドへ向かった日本選手団一行は、
ほどなく全員、青ざめる体験をします。

「プロペラ機でのアラカン山脈越えのエアポケットは誠に恐ろしかった。
激しい機体の揺れで、
後ろの席の記者が真っ青な顔であぶら汗を流している。
自分も内心、もしジャングルに落ちたら虎か豹の餌食かと…」

不安的中
この飛行機は井口たちを降ろしたあとの折り返し便で山に激突。
「はかない最期を遂げたと聞いた」

さて、日本は長引く戦争でアジアの国々に大きな損害を与えた。
どんな大義名分を立てようとも、
他人が自分の家へズカズカ入り込んできたら誰だって怒るでしょう。

そんな憎悪渦巻くアジアへ向かう井口たちに、三笠宮殿下がおっしゃった。
「一人でも多くの友達をつくるように」と。

衆議院議長の幣原喜重郎は、選手たちにこう告げた。

「日本は今、賠償問題で大変な時である。そのために良い服は着せてやれない。
しかしながら、今後平和に徹した日本だ。近隣友好の精神に則り、
スポーツ外交の成果をあげてもらいたい。
衣類は悪くとも正々堂々とやってほしい。握手するときも腰を伸ばしてやれ」

親善友好のために尽くせ、
しかし、ボロは着てても卑屈になるな、というわけです。

そう言って選手団を送り出した幣原だったが、
まもなく脳溢血で倒れ、選手たちの帰りを待つことなくこの世を去った。

インド大会から3年後の昭和29年(1954)、
2回目となるアジア大会がフィリピンのマニラで開かれた。

「インドのときのような温かい歓迎はなく冷たい雰囲気。
対日感情が非常に悪く、石を投げられた人もいた」

「夕食後、フィリピン警備兵から日米戦の話を聞いた。
われわれの宿舎横には日本兵の屍が埋めてあるそうで、
雨の降る夜など、燐が燃えて異様だったという。
思わず襟を正し、戦士の冥福を祈った」

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日本兵の屍が埋められていると教えられた宿舎前の広場。

当時、政治家の藤山愛一郎が、
フィリピン賠償交渉の全権委員としてマニラに滞在中だった。
そんな多忙の中、藤山は日本選手団宿舎を訪ね、激励してくれたという。

「沿道の民衆からはジャップ、バカヤローと罵られ、選手の外出時には、
私服刑事が護衛してくれるという状態で、ものものしかった。
だが帰国時には憎悪も薄らぎ、罵り声も次第に耳にしなくなった」

そんな体験から、井口はこんな感想を持った。

「スポーツを通じての青年の交流が、いかに親善に役立つものかを
改めて認識した次第である」

しかし、第4回目となるインドネシア大会では、
開催国のインドネシアが政治的思惑から、イスラエルと台湾を拒否。
これは憲章違反にあたるため、各国で参加するかどうかでもめた。

日本はウエイトリフティング競技だけを不参加としたため、
井口と重量挙選手6名は闘うことなく帰国した。

スポーツの政治利用利権、今も大きな課題かも。


※参考文献・画像提供/「わがスポーツの軌跡」井口幸男 私家本 昭和61年

ローマへ

神田川徳蔵物語
09 /20 2018
終戦から15年後、
というより今から58年前といったほうがわかりやすいですね。

その半世紀以上も前の昭和35年(1960)8月8日
勝ちゃんこと飯田勝康は、第17回ローマオリンピック大会
ウエイトリフティング日本選手団のコーチとしてイタリアへ飛んだ。

この1960年はどんな年だったかというと、岸信介内閣のもと、
新日米安保条約の調印を巡って反安保闘争が吹き荒れ、
国会構内で女子学生が死亡。また、河上丈太郎、岸信介が暴漢に襲われ、
社会党委員長の浅沼稲次郎が右翼少年に刺殺された、
そんな騒然とした時代でした。

一方、カラーテレビの本放送開始なんてのもありました。

こちらは東京タイムズの記事「ローマへの道」です。
ローマオリンピックの2年前、
日本重量挙協会理事で勝康のいとこの飯田定太郎
新聞のインタビューを受けていました。

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この記事の中で定太郎は、オリンピックへの意気込みを語りつつ、
派遣費用や資金面、人不足の悩みも吐露。
一方、若い愛好者たちへのメッセージとして、
「今はトップレベルではなくても必ず代表になれるという
強い精神力自信、その気持ちが大切」と明るく語っています。

余談ですが、「東京タイムズ」社って徳間書店に買収された会社だそうで。
何を隠そう、私の社会人への出発点は、この徳間書店なんです。
マスコミってのはセクハラ・パワハラの温床みたいなもんで大変でしたが、
徳間社長は違いましたよ。

気さくで楽しくて、遠くでニコニコ見守ってくれているお父さんってな感じだった。

昔はこんな1泊の社員旅行があった。夜はオイチョカブで大盛り上がり。
真ん中が徳間康快氏、右端がまだまだひよっこだった私。

懐かしい~
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話を戻します。

「東京タイムズ」の記事が出た2年後、
監督の井口幸男、コーチの飯田勝康を始め選手一行は、
ローマへ向けて「真綿のような雲」が浮かぶ羽田空港を離陸。

途中、アンカレッジ、ノルウェー、スウェーデンなどで大使夫妻の
暖かい出迎えを受け、出発から34時間45分後に無事、ローマへ着いた。

その10日後、今度は定太郎が単身、ローマへ。
そのまた9日後、今度は力道山が激励にやってきた。

井口の著書から、大会前後の様子を述べていきます。

「勝康君は昼食に味噌汁海苔むすびおしんこを作って力道山を歓迎。
選手村の単調な食事に飽きてきたころだったので、
さっぱりした日本料理と人気者の力道山を囲み、大変なにぎわいになった」

オリンピック出場選手たちと井口、飯田の記念写真。
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この大会ではマラソンのアベベ選手が裸足で駆け抜けて優勝。
ボクシングのクレイ(モハメド・アリ)も金を獲得した。

しかし日本勢はどの競技でも苦戦。
「まだ1個も金がとれない」と、新聞記者たちがぼやいていた。

ウエイトリフティングはどうかというと、
「検量も無事パスしたものの、三宅も木暮も顔色が悪い。
藤島、大沼、山崎は失敗」

期待されていたバンタム級の三宅義信選手はというと、

「三宅は思いのほかあがってしまい、飯田君が彼の頬を打ち、ブレーキをかけた。
1回目、2回目と失敗。3回目に目的を達し、やっと2位に入り得た。
飯田君と共に2、3年寿命が縮んだと顔を見合わせた」

「三宅選手のこのオリンピック初のメダル獲得は、
日本国民にウエイトリフティングは有望な種目と印象付けた。

さらに4年後の東京オリンピックで、
三宅がゴールドメダリストに輝いたことで、
今まではビタ一文も援助が出なかった重量挙という新興スポーツに、
資金財団ができて、やっと陽光が差し始めた」

これは定太郎が持っていた「東京オリンピック」の招待券です。
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以前、三宅選手と飯田家は親戚らしいという話がありましたが、
定太郎の娘さんによると、「姻戚関係はなく、父が食べさせていた」、
つまり食客のような関係にあったということでした。

さて、ローマ大会出場の記念写真をもう一度、ご覧ください。
そして後列右から二人目の人にご注目ください。
窪田登
昨年、87歳で逝去された早稲田大学名誉教授の若き日の姿です。

終戦の夏、15歳だった窪田少年は、
故郷の岡山に帰省中の井口を訪ねた。そのとき井口、34歳

「窪田少年は、白い学生服に白いカバンを肩に掛け、
私の裸が掲載された新聞を差しだし、しみじみと私を眺めるのである。
聞けば亀甲駅から8キロの山道を徒歩で訪ねてくれたとのこと」

再び8キロの山道を帰って行く少年を、妻と見送ってから15年後、
井口と「少年」は共に、ローマの地に立ったのです。



※参考文献・画像提供/「わがスポーツの軌跡」井口幸男 私家本 昭和61年
              /「定太郎アルバム」定太郎子孫

憧れのハワイ航路

神田川徳蔵物語
09 /15 2018
「人は彼のことを「勝ちゃん」と呼んだ。
勝ちゃんは江戸っ子気質の下町っ子で、多分に親分気質もあり、
つねに若者たちに愛されていた」

井口幸男は著書の中で、定太郎のいとこの「勝ちゃん」こと
飯田勝康をそんなふうに語っている。

けれど勝康の存在は影が薄く、縁者のEさん姉妹が知り得たことは、

乳飲み子のとき、実母と死に別れたこと。
叔父の徳蔵と共に活躍した長兄の一郎とは、16ほども年が離れていた。
ウエイトリフティングの普及指導に関して多くのことをされたらしい。

実母に抱かれた勝康。左端が長兄の一郎
喜代隆四郎一家 (2)

勝康がどんな活躍をしたのかについては、
重量挙の創設期を共に過ごした井口幸男が一番よく知っていた。

ここではその井口の言葉を借りて話を進めていきます。

勝ちゃんは戦後、事業家として成功を収め、その経済力をもって
自宅工場近くに重量挙の練習場を設けて愛好者を育てた。

重量挙が「ただ重いものを持つだけのもの」と嘲笑されていた時代、
勝康はその理解と普及のために宣伝にも心を砕き、
新聞記者を招いて、紙面一面に記事を掲載させたりした。

そして終戦から7年目の昭和27年春、
井口幸男白石勇(愛媛県出身)、藤原八郎(徳島県出身)とともに
ハワイ遠征へ出かけます。
井口は監督兼選手として、勝康ら3人は選手として。

左から二人目が飯田勝康
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右から二人目の「石原」さんは通訳として同行。

これは前年日本で開催した日米初の重量挙・国際親善大会の返礼として、
米国チームから招待されたものだった。

前年の親善試合は華々しく「日米対抗戦」という看板を掲げたのだが、
予想に反して観客はまばらで寂しい思いをした。
しかし、駆けつけてくれた大野伴睦先生から、
「よくやった」とお褒めの言葉を頂戴した。

大野伴睦は岐阜県山県郡美山町出身の政治家で、
ウエイトリフティング協会の窮状に助け舟を出してくれた人。
その折り、伴睦は井口にこんなことを言ったという。

「岐阜県にも盤持ちという力技があった」

盤持ちとは北陸地方でいう力くらべのことで、力石を盤持石と言っていた。
伴睦さん、力石をご存知だったんですね。

さて、生まれて初めての船旅、
憧れのハワイ航路はどんなだったかというと、
井口は船酔いに苦しみ、海軍経験のある勝康は元気いっぱい。

そして横浜港を出港してから11日目に、ハワイ・オアフ島へ到着。
オアフ島は輝くばかりに美しく、出迎えのハワイ娘もこれまた美しい。
食べ物もおいしくて、つい食べ過ぎた。

競技終了後は、
「女性が観衆の前で肉体美を競うボディコンテスト
(ミスハワイ選出大会)」へ招待された。

その美しさにただ陶然と見入っていた井口が、突然、ステージに呼ばれ、
なんと、ミスハワイ・ナンバーワンからキスを受けた。

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そんな井口を、右後方で白石(左)と勝康(右)が呆然と見ています。
二人から、こんなボヤキが聞こえてきそうです。

「なんだよ。 
♪ 晴ーれた空ァー、そーよぐ風ーは監督だけかよ」 


※この「憧れのハワイ航路」は、
昭和23年にキングレコードから発売された歌謡曲です。
古すぎてみなさんに?と言われそう。


※参考文献・画像提供/「わがスポーツの軌跡」井口幸男 私家本 昭和61年
               

原点

神田川徳蔵物語
09 /10 2018
昭和20年8月15日、
この日、15年続いた第二次世界大戦がようやく終わった。

この昭和という時代は大恐慌で始まり、
終戦までの5年間は「一億一心体当たり」の戦争一色となった。
しかし、米軍機の波状攻撃で主要都市は焦土と化し、敗戦。
昭和20年、連合国軍の支配下に置かれます。

飯田徳蔵はそんな時代を生きてきました。
そして、東京大空襲で仕事も住まいも輝かしい過去も失い、
終戦の翌年、55歳でこの世を去ります。

しかし徳蔵の「力石からバーベルへ」の希望の灯は消えることなく、
息子の定太郎や甥の勝康井口幸男らにしっかり受け継がれたのです。

こちらは「日本国憲法」発布を祝う記念演技会に、
重量挙選手として出場したときの定太郎(真ん中)と勝康(右端)です。

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昭和23年。明治神宮外苑競技場(のちの国立競技場)

この大会は、天皇、皇后両陛下、宮さま方ご臨席のもと、
「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し…」
と謳った新たな憲法のスタートを祝って行なわれたものでした。

つい5年前にはこの競技場で学徒出陣が行われました。
軍靴が響いた戦争から平和の足音への転換。
ここへ集ったみなさんにはいろんな思いが錯綜したのでは、と思います。

この日、重量挙選手として、
定太郎勝康足立足立関口正夫の5選手が出場。
日本重量挙協会理事長の井口幸男は説明役という大役を仰せつかった。

そのときのことを井口は著書に、こう書き残しています。

「御真影を仰いで育った私ごときが、
陛下にご説明を申し上げようとは予想だにしなかった。
恐懼(きょうく)感激すると同時に真偽のほどを疑ってみたくらいだった。

敗戦直後で選手集めも容易ではなかった。
服はといえば、焼夷弾で焼けてしまって国民服1着しかない。
見かねた教え子のお母さんがモーニングを貸してくださった」

下の写真は、演技する徳蔵の甥・飯田勝康です。
勝康は、
かつて徳蔵、若木竹丸と共に「朝鮮力道大会」へ出場した一郎の弟。

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井口の記述を続けます。

「当日早朝、斎戒沐浴
会場では皇族方の後ろに立って、
はるか下で行われている重量挙の演技をご説明申し上げた。

予定の20分が経過し、侍従の合図にもかかわらず、
両陛下は40分間の長きにわたってご下問。
非常にご興味深くご覧くださったのは大変うれしく、慶びに堪えなかった」

会場となった神宮競技場は、終戦の年、進駐軍(GHQ)に接収されて、
「ナイルキニア・スタジアム」と呼ばれていました。
なので、勝康演技の写真に進駐軍兵士が写っています。

こちらは秩父宮妃殿下をお迎えしての重量挙大会の写真です。
開催年は不明ですが、妃殿下はまだお若いですね。

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右端が井口幸男、妃殿下の後方でボーッと立っているのが定太郎です。
その定太郎を井口はこんなふうに見ていました。

この親にしてこの子あり。
父から力石の話を聞きながら成長したおかげかこの道が好きで、
力も強かった。
力石の歴史的経過や囃子を入れての俵差しなどの知識は素晴らしく、
古き時代のことを語り伝える一書をぜひ彼に書いてもらいたいと願っている」

こちらは「明治大学体育会ウエイトリフティング部」のロゴマークです。

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同ウエイトリフティング部HPによると、
同クラブは昭和27年(1952)設立。
初代部長はなんと、政治評論家の藤原弘達氏だった。

また、飯田定太郎は初代OB
飯田勝康はクラブ設立時顧問と紹介されています。

そして「一人のOBからのひと言」として、
飯田徳蔵にこんな賛辞が贈られていました。

飯田徳蔵は日本の重量挙競技の原点」と。


※参考文献・画像提供/「わがスポーツの軌跡」井口幸男 私家本 昭和61年
              /「明治大学体育会ウエイトリフティング部」HP
              /「定太郎アルバム」定太郎子孫

力石クン、晴れやかにデビュー

斎藤ワールド
09 /05 2018
埼玉の研究者・斎藤氏から新情報をいただきました。

御影石の台石に保存処理された力石です。
場所は千葉県松戸市の高龗(たかお)神社
  ※龗は雨冠に龍

この力石、もとは高龗神社の東西にある
東の六実稲荷神社と西の五香稲荷神社に放置されていたものとか。
宮司さんの話では、
「この石の大切さに気付いた氏子さんからの依頼で、
二つの稲荷神社のちょうど真ん中に位置する当神社に保存した」とのこと。

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千葉県松戸市六高台1-15  高龗神社

神社が建つ地区は、
明治維新で職を失った人たちが開墾したところだそうです。
ご神体は出雲大社から勧請した雨乞いの神・龍神さま。

入植された方たち、さぞご苦労されたことと思います。
でも仕事が終わった晩などにみんなで神社に集まって
ワイワイ言いながら石担ぎを楽しんだはず。

もしかしたら、東西の稲荷神社の氏子さんたちが力くらべ合戦をしたのかも。

ともあれ、真新しい本殿と社務所の前という、またとない好環境に、
晴れやかにデビューした力石クン、
「こんなにしていただいて恐縮です」と言いたげですね。

台石にはちゃんと「力石」と刻まれていますから、もう大丈夫。

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①「三十メ」57×42×33 ②52×43×38

この力石クン、いつしかパワースポットとして知られるようになり、
今では参拝者さんたちから触られたり、
一緒に写真に撮られたりしているそうです。

で、実はこの石には不思議なことがあるのです。
一枚目と2枚目の写真を見くらべてみてください。

なんか変だと思いませんか?

石を乗せた台石が片方は四角形、もう片方は多角形に見えませんか?
こんな感じ(下の写真)。

撮影者の斎藤氏にお聞きしたら、
「実は両方とも五角形ですが、見る角度によって変わるんです」

これぞまさしく、ミラクル! 神がかり! パワー全開!
絵本作家・安野光雅さんのふしぎえの世界です。

制作者の石屋さんの芸術的センスに拍手。

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で、実は同じようなものが当地にもあるんです。

こちらの宮司さんも、
「以前はただ境内に転がしてあったのですが、
こんなふうに粗末にしているのはどうかと思いまして、
社殿前にきちんと設置いたしました」とおっしゃっておりました。

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静岡県沼津市市場町3-11 八幡神社

ただこちらのは説明板もなく石に刻字もないため、
参拝者は「ハテ、こりゃなんじゃ?」となっています。

「これは力石です。
さわって石からパワーをもらってください」

なんて書いてくださったら、
力石クン、すっごく張り切っちゃうと思うんですけどね。


       ーーーーー◇ーーーーー

※先日急逝した当地出身の漫画家・さくらももこさんの献花台が
市役所に設けられていました。
ご冥福をお祈りいたします。

徳蔵死す

神田川徳蔵物語
09 /01 2018
徳蔵の一人息子の飯田定太郎が残したアルバムには、
こんな写真もあります。

右下にナチスの党章と思われる右卍(右向きの卍)の旗が見えます。
※右卍(まんじ)の記号が出ませんので、ここでは左卍を使いました。

ちなみにこの卍は吉祥印で、古代から世界中に存在しています。
右卍は、左卍はを現わしているといいます。

日本では和を尊ぶ左卍が多いですね。

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もしこれがナチスの党章であれば、
ドイツ・ナチス党の青少年団体「ヒトラーユーゲント」が来日した
昭和13年(1938)9月28日の歓迎大会かもしれません。

正面に日の丸だけが下がっているのがちょっと疑問ではありますが。
また、人文字の「62」は何を現わしているのでしょうか。

もし歓迎大会ならここは神宮外苑
定太郎は17歳で、豊山中学の生徒です。

このとき、「万歳ヒトラーユーゲント」という歓迎の歌が作られました。
作詞は北原白秋
この人は静岡の民謡「ちゃっきり節」を作詞した人でもあります。

♪ 唄はちゃっきり節 男は次郎長  ……
   ハァー ちゃっきりちゃっきりちゃっきりよ
   きゃァーるが鳴くんて、雨づらよ

ちなみに「きゃァる」はこちらの方言で「蛙」のこと。

白秋大先生、歌詞を依頼した静岡電鉄の金に糸目をつけぬ大歓迎を受け、
芸者遊びから遊郭まで堪能。できた歌は芸者出身の市丸がレコーディングした。

もとは遊園地のテーマソングとして作られたものですが、
お座敷遊びから生まれたお座敷風の歌なので、
これを高校生のとき運動会で踊らされたときは苦労しました。

こんな写真もありました。
29 (2)

左から2番目は定太郎さんのような感じです。

非常に張りつめた雰囲気です。
戦地へ赴く学生たちの壮行会のように見えます。

次の写真には飛行服を着た定太郎が写っています。

井口幸男が言っていた
「定太郎氏は明治大学卒業後、召集され航空隊に配属された」
ときのものでしょうか。

今まで見た少年っぽい軍服姿からは、はるかに大人になっています。

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こちらはそのころの定太郎の父・徳蔵さんです。
左は愛妻のお千代さんでしょうか。
灯火管制のため、
光りが漏れないよう布をかぶせた電燈の下で食卓を囲んでいます。

自信にあふれ、いつも笑顔の徳蔵さんが、
ひとまわり小さくなったような気がします。

定太郎出征祝いほか (2)

徳蔵は戦時下の昭和18年まで、好きな千社札重量挙もやっていたそうで、
「大切にしていたものを可能な限り続けようと、
時流に抵抗し続ける徳蔵さんの情熱が感じられます」と縁者のEさん。

昭和20年、日本全土で米軍のB29による爆撃が始まります。
東京は102回もの空襲を受け、
5月25日には大空襲に見舞われ焦土と化し、約10万人の死者が出ました。

米軍による空襲は全国96都市に及び、
さらに8月には広島、長崎に原爆が落とされて、
赤ん坊から老人まで、全国で70万人以上の人が亡くなりました。

徳蔵もこの大空襲で焼け出されます。
そして身を寄せていた「飯定組」の従業員・重吉の家のふろ場で倒れ、
そのまま亡くなってしまいます。享年55歳

終戦の翌年の昭和21年5月、戦地から定太郎帰還
徳蔵の死は息子・定太郎が帰ってきた一週間後のことだったそうです。

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東京都千代田区神田須田町 柳森神社

戦争も戦後の混乱もご存じないEさんは、
そんな徳蔵を偲びつつ、こんな思いを…。

「戦争は徳蔵さんから、
職場力石興行千社札も何もかも奪いました。
でも、息子の定太郎さんだけは奪われなかった

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞