バンコクへ
神田川徳蔵物語
ローマ・オリンピックから6年後の昭和41年(1966)12月5日、
重量挙の飯田勝康は第5回アジア大会の開催地、
タイ王国の首都バンコクへ飛んだ。
今度はさらに責任の重い監督として。
今から52年前のバンコクの様子を、井口幸男の目で見て行きます。
「羽田空港からバンコクまでの所要時間は6時間10分。
時差はわずか2時間。
覚悟はしていたものの暑い!」
「空港から選手村まで30分。
水田の中に下駄をはいたような家が建っているのを見た」
「宿舎では金属製の筒のようなものを持った男が、
石油臭い煙をもうもうと出して各部屋を回っていた。
蚊の駆除だそうだが、臭くて部屋へ入れない」
でも、これで蚊に刺される心配はないと安心したのもつかの間、
このあと井口は就寝中、
耳の中へ虫に入り込まれて七転八倒。
「やけくそでジョニーウォーカーを一杯飲んだ」
「入浴しようと思ったもののシャワーが一本あるのみで、
水はチョロチョロとしか出ない。暑くてどうにもならない。
そんなとき、飯田君が親切に氷水を持ってきてくれた」
勝康はここでも元気いっぱいです。
国際審判員として大会に臨んだ井口や7人の選手たちだけでなく
ほかの競技の選手たちや外国の友人たちにもあれこれと気を配っています。
16年前の第1回アジア大会では、
胸の文字は「JAPAN」でしたが、今回は「NIPPON」になっています。
「バンコクへ着いた当初、豊富な果物を口にして、
「うまい。当分、飯は果物でいい」と言っていた飯田君だったが、
次第に鼻についていやになってきたといい、早速ご飯を炊き始めた」
勝康はここバンコクでもうどん、そうめん、味噌汁を作っては
選手たちにふるまっています。
食欲のない井口には、海苔茶漬けを作ってあげたり…。
さらに、持参した石鹸の泡が立たず困っていた井口に、
バンコクの赤い石鹸を出してくれたという。
「泡立ちもよく、いい石鹸だった」
これがその赤い石鹸「IMPERIALブランド石鹸」です。
この写真は、タイ在住のちい公さんが送ってくれました。
「現在は外国ブランドに押されて、あまり売れず、
購買層も高齢者になったのかもしれません」とのこと。
ちい公さんは日本とタイを行き来して、ライターとして活躍されています。
また、ブログ「ちい公ドキュメントな日々」を書いています。
奥さまはタイの方で、かわいい「魔女さま」です。
さて、バンコク到着の4日後、いよいよ入場行進の日を迎えました。
「スタンドへ入り、周囲を見回すとバンコクのハイクラスの人ばかり。
女性はみな美しく、指にダイヤが光っていた。
スタンドでは人文字で王さまの顔を出したり、
コプラの前で笛を吹いたりの演出。みんな学生さんとのこと」
「日本選手団のプラカードを持ったお嬢さんは、
振袖姿の美しい人だった」
井口はバンコク日本人会の会長と日本料理屋「花屋」で、
別の日には味の素の専務と日本料理の「大黒」で会食したとあります。
このお店、今もあるのでしょうか。
また、韓国の李氏をブラワンホテルに訪ねたら、
ルームクーラー付の部屋で、
「さすがバンコク第一のホテルだ」と思ったとの感想を述べています。
井口は滞在中、頭痛に悩まされ食欲不振になったりしていた。
でもそれは暑さや虫のせいばかりでなく、
アジア重量挙連盟の会長選出のゴタゴタや各国の分担金、
タイのレフリーの未熟さへの抗議など、
たくさんの問題を抱えていたことにあったのかもしれません。
「午前中は洗濯、午後は試合場、帰村すれば日は暮れ、
夕食後はぶらぶらして寝るだけ」
と、どこか元気のない井口に比べて、勝康はいつも陽気。
「バンコク市長の招待会の帰り、飯田君は酔っぱらってしまい、
帰りのバスの中で踊り出す始末」
井口たちは歓迎の夕食会で、
「仏さまみたいなピカピカの冠を頭上に載せた踊り」を見た。
「悪の物語の一幕であった」と書いている。
酔っぱらって踊り出す勝康がノウテンキだったわけでは決してない。
指導者二人がウツウツとしていては、選手は頑張れません。
勝康は選手たちの士気を高め、体力気力を最大限引き出すため、
あるときは鬼になり、またあるときは道化に徹して、
選手たちを鼓舞していたのだと私には思えます。
この大会で三宅義信と大内仁が金、
佐々木、木村、藤本、継岡は銀、
小松は5位入賞という好成績を残したのですから。
※参考文献・画像提供/「わがスポーツの軌跡」井口幸男 私家本 昭和61年
/タイ在住・ちい公さん
重量挙の飯田勝康は第5回アジア大会の開催地、
タイ王国の首都バンコクへ飛んだ。
今度はさらに責任の重い監督として。
今から52年前のバンコクの様子を、井口幸男の目で見て行きます。
「羽田空港からバンコクまでの所要時間は6時間10分。
時差はわずか2時間。
覚悟はしていたものの暑い!」
「空港から選手村まで30分。
水田の中に下駄をはいたような家が建っているのを見た」
「宿舎では金属製の筒のようなものを持った男が、
石油臭い煙をもうもうと出して各部屋を回っていた。
蚊の駆除だそうだが、臭くて部屋へ入れない」
でも、これで蚊に刺される心配はないと安心したのもつかの間、
このあと井口は就寝中、
耳の中へ虫に入り込まれて七転八倒。
「やけくそでジョニーウォーカーを一杯飲んだ」
「入浴しようと思ったもののシャワーが一本あるのみで、
水はチョロチョロとしか出ない。暑くてどうにもならない。
そんなとき、飯田君が親切に氷水を持ってきてくれた」
勝康はここでも元気いっぱいです。
国際審判員として大会に臨んだ井口や7人の選手たちだけでなく
ほかの競技の選手たちや外国の友人たちにもあれこれと気を配っています。
16年前の第1回アジア大会では、
胸の文字は「JAPAN」でしたが、今回は「NIPPON」になっています。
「バンコクへ着いた当初、豊富な果物を口にして、
「うまい。当分、飯は果物でいい」と言っていた飯田君だったが、
次第に鼻についていやになってきたといい、早速ご飯を炊き始めた」
勝康はここバンコクでもうどん、そうめん、味噌汁を作っては
選手たちにふるまっています。
食欲のない井口には、海苔茶漬けを作ってあげたり…。
さらに、持参した石鹸の泡が立たず困っていた井口に、
バンコクの赤い石鹸を出してくれたという。
「泡立ちもよく、いい石鹸だった」
これがその赤い石鹸「IMPERIALブランド石鹸」です。
この写真は、タイ在住のちい公さんが送ってくれました。
「現在は外国ブランドに押されて、あまり売れず、
購買層も高齢者になったのかもしれません」とのこと。
ちい公さんは日本とタイを行き来して、ライターとして活躍されています。
また、ブログ「ちい公ドキュメントな日々」を書いています。
奥さまはタイの方で、かわいい「魔女さま」です。
さて、バンコク到着の4日後、いよいよ入場行進の日を迎えました。
「スタンドへ入り、周囲を見回すとバンコクのハイクラスの人ばかり。
女性はみな美しく、指にダイヤが光っていた。
スタンドでは人文字で王さまの顔を出したり、
コプラの前で笛を吹いたりの演出。みんな学生さんとのこと」
「日本選手団のプラカードを持ったお嬢さんは、
振袖姿の美しい人だった」
井口はバンコク日本人会の会長と日本料理屋「花屋」で、
別の日には味の素の専務と日本料理の「大黒」で会食したとあります。
このお店、今もあるのでしょうか。
また、韓国の李氏をブラワンホテルに訪ねたら、
ルームクーラー付の部屋で、
「さすがバンコク第一のホテルだ」と思ったとの感想を述べています。
井口は滞在中、頭痛に悩まされ食欲不振になったりしていた。
でもそれは暑さや虫のせいばかりでなく、
アジア重量挙連盟の会長選出のゴタゴタや各国の分担金、
タイのレフリーの未熟さへの抗議など、
たくさんの問題を抱えていたことにあったのかもしれません。
「午前中は洗濯、午後は試合場、帰村すれば日は暮れ、
夕食後はぶらぶらして寝るだけ」
と、どこか元気のない井口に比べて、勝康はいつも陽気。
「バンコク市長の招待会の帰り、飯田君は酔っぱらってしまい、
帰りのバスの中で踊り出す始末」
井口たちは歓迎の夕食会で、
「仏さまみたいなピカピカの冠を頭上に載せた踊り」を見た。
「悪の物語の一幕であった」と書いている。
酔っぱらって踊り出す勝康がノウテンキだったわけでは決してない。
指導者二人がウツウツとしていては、選手は頑張れません。
勝康は選手たちの士気を高め、体力気力を最大限引き出すため、
あるときは鬼になり、またあるときは道化に徹して、
選手たちを鼓舞していたのだと私には思えます。
この大会で三宅義信と大内仁が金、
佐々木、木村、藤本、継岡は銀、
小松は5位入賞という好成績を残したのですから。
※参考文献・画像提供/「わがスポーツの軌跡」井口幸男 私家本 昭和61年
/タイ在住・ちい公さん