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そばつぶさん、大活躍

そばつぶ
12 /29 2024
金沢市の力持ち・そばつぶさん、久々の登場です。
ちょっと見ない間にすごい活躍をされていたんです。


「奇才紳士名鑑」に登場。
「文春オンライン」に記事掲載。

(2022年11月掲載)

そして、今年、漫画家の取材を受けた。

その漫画「力石持つ」が、月刊「コミックビーム」KADOKAWAにて、
来年1月10日から連載スタート。

これです。
コミック

世界最強のストロングマンとの競演を果たしたそばつぶさん、
奢ることなく地道に黙々と、
郷土・石川県や近隣の富山、福井などの眠れる力石を次々担ぎ、
さまざまな旋風を巻き起こしています。

地元に深く入り、共感と理解を得るこうした努力は、
今までの力持ちにはあまり見られなかったことで、
そばつぶさんはいろんな祭りに呼ばれて石を担ぎ、祭りの後の直会には、
神官さんや氏子さんたちと酒を酌み交わすいい関係を構築しています。


こちらの動画は福井県坂井市丸岡町・末政八幡神社の「盤持ち祭り」です。

ここの祭りは、長く境内に放置されていた力石が見事に復活した例です。

福井テレビに出演していたそばつぶさんを見た総代さんが、
境内の力石を思い出し、そばつぶさんに声を掛けて始まったそうです。

今では子供たちも参加しての楽しいイベントになっています。




こちらはそばつぶさんを取り上げた北日本新聞の記事です。
場所は富山県南砺市広谷 八幡社。

76㎏、117㎏、132㎏の力石に挑戦し、すべて成功。
これを見た地元の方が、
「境内の巨石が動くのを初めて見た」と、驚きと称賛の声を挙げたという。


そばつぶさん新聞記事

そうした熱意が伝わったのか、
「最近では”力石はいつでもご自由にどうぞ”という寺社が、
全国に11カ所ほどあります。
持上げに成功すると立札に名前を書いてもらえるところも」とそばつぶさん。


今までは寺社に力石を担ぎたいと許可をお願いしても、
変人扱いや断わられることが多かったが、
理解してくださる所が増えたということですね。地道な努力が実りました。

そばつぶさんは、「力石は先人の遺した挑戦状」と捉え、

「これは受け継ぐべき伝統文化である」との姿勢・信条を持ち続け、
それを見事に実践しています。

そんな中で新発見の力石もたくさん見つけました。
いずれ拙ブログでもご紹介していきます。

さて、今年10月、そばつぶさんは念願の記録更新を果たした。
愛知県で137.3㎏の手強い石に挑戦し、見事成功したのです。

「2年前に全然歯が立たなかったこの石を、
ようやく我が肩に乗せることができました」


無念無想…。137・3㎏の「宿命の石」に挑む。
そばつぶさん愛知

場所は愛知県海部郡飛島村大宝の縣社(あがたしゃ)。
ここには6個の力石があり、
その中のボス・石銘「石五升」
(一石五升の意)です。

ここであれ?と思われるかも。「一石五升」なら「157 ・5㎏」のはず。
なのに実測したら137・3㎏ってどういうことよ、と。
昔の人は「盛った」んです。実重量でも超がつく重さなのにね。
ちなみに、力石に刻まれた重さの8掛けぐらいが本当の重さと言われています。

このことに気付いたそばつぶさん、
以後、精度の高い量り(はかり)持参で力石に挑んでいます。

さて、この快挙を成し遂げたそばつぶさん、
「大江さんが力石人生を賭けて挑んだが果たせなかった最大の宿命石です」
と、感慨ひとしお。

岐阜県出身の大江誉志さんは各地の力石に挑み、次々制覇。
秋祭り真っただ中の姫路市大津区天満の蛭子神社では、
実重量137・5㎏の力石を見事担ぎあげました。

この石は「八斗石」と呼ばれていましたが、八斗(120㎏)どころか、
実際に量ったら「9斗強。36・65貫=137・5㎏」もありました。

昭和10年に地元の方が挙げて以来、
誰も挙げたことがないという「挙がらずの石」。
それを大江さんが持上げたのですから、地元の方々は驚いた。
幸運にも私はこの快挙に立ち会うことが出来ました。

地元の方々は「挙がるわけがない」と、数人を残して立ち去ったが、
この快挙を聞いて、みんな小走りで集まってきた。


担いだ瞬間は空気が真空状態になります。
白い服のお姉さんが思わず顔を覆い、法被のお兄さんは放心状態。
拍手したご老人の手が固まったまま離れなくなり、
道路から覗いていたおじさんたちが金縛りにあっていました。


大江さん

その大江さんがこれより0・2㎏少ない愛知県の「石五升」の持ち上げに失敗。
そのときのコンディションもありますが、さぞ、無念だったと思います。

その大先輩の雪辱をそばつぶさんが果たしたのです。


無念無想…、大江さんもそうでした。
石に手を置いた姿は、古武士のような風格がありました。
兵庫県の「浪速の長州力」さんもそうでした。
浪速さんはご自分の道場に、「無念」を夢に変え「夢念道場」と命名。


浪速の長州力さんです。兵庫県姫路市大津天満・神明神社にて。
土地の有力者から送られた黒いまわしを締めて。
浪速の長州力

浪速さんは現代の力石力持ちの先駆者的存在で、現役時代は
力持ち大会と聞けば地元はもちろん福島、島根、岡山、北陸、四国と馳せ参じ、
テレビにもたびたび登場した。
京都・醍醐寺の大鏡餅の持ち上げ神事には、奥様共々優勝。
最後にお会いしてから9年たつのに毎年、クリスマスプレゼントが届く。

こうした素晴らしい力持ちさんたちにお会いし、
その場に立ち会うことが出来た。
世間広しといえどもこんな幸運をいただけた人は、そうそう多くない。
力はないけど、私の力石人生も捨てたもんじゃないと、ニコタラしております。

昔話はさておき、
そんなそばつぶさんの元に、埼玉の力持ち「どすこい坂本さん」が馳せ参じ、
ここに二人のコラボが実現します。

「坂本さんのそばつぶチャンネルデビュー」です。

どうぞご覧ください。




長い長いお正月休みです。

神話の時代から、石は神が宿る神聖なものとして尊ばれ、
力持ちの力は「神の力」として敬われてきた。

どうぞ、現代の若き力持ちの力石パワーを浴びて活力をいただいてください。
それが、新しい年の良きスタートになりますよう。


「そばつぶチャンネル」

「どすこい坂本チャンネル」

本年もみなさまからの温かい応援や励ましで無事、過ごすことが出来ました。

来年もまた、どうぞよろしくお願いいたします。

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ーーーなぜか「続きを読む」っていうのが出てしまいました。なんでだろう。↓
   このお話はここまでなんですが…。

続きを読む

豊島屋本店で酒を呑む

斎藤ワールド2
12 /26 2024
「酒を呑む」と言っても私ではありません。

ブログ「とりけらのアウトドア&ミュージック日記」のtorikeraさんの、
「満を持して訪問」した「豊島屋本店で酒を呑む」のお話です。


torikeraさんの記事、3本ご紹介しますが、
まずは最後の「その3」からお読みくださるのもいいかも。

さて、「豊島屋本店」といえば、力石ファンなら言わずと知れた
江戸一番の力持ち、あの「鬼熊」が働いていたお店です。

創業はなんと慶長元年
(1596)というんですから、
428年も続いている奇跡のお店です。


お店は、神田スクエア1Fに2020年オープンしたスタンディングタイプの
「角内ち」店。自主製造の日本酒を提供とのこと。


提灯に屋号のカネジューが付いています。いいですねぇ。
豊島屋本店

まずは下記の記事をご覧あれ。

「豊島屋本店で酒を呑むの巻 その1」

torikeraさんはご自身のブログで、身近な自然の中で生きる
「たぬき家族」の定点観測の動画を公開しています。


この「たぬき愛」と地道な観察動機はどこからきたのかというと、
若い頃から活動してきた動物の保護活動からなんですね。

私がそのことを知ったのは、拙ブログへのコメントからでした。

今年7月、私は44年前の鳳凰三山の子連れ登山を書いた。
それを見たtirikeraさんから、こんなコメントが届いた。

「ちから姫様の記事で鳳凰三山が出てくるとは思ってもいなかったので、
びっくりしました」


今から44年前の1980年8月、当時13歳と8歳の息子二人を連れて、
子連れ登山をしたときの写真です。
img20240721_17282785_20241221163333e05.jpg

この記事で「鳳凰小屋」の小屋主さんのことを書いたら、
当時torikeraさんは動物の保護活動をしていて、
数年、小屋の手伝いをしながら大学の後輩たちを連れて、
高山の動物たちの観察をしていたとのこと。

奇遇ですね。人間、どこで袖すり合っているかわかりません。
こんなことがあるから人生、楽しくなります。

さて、torikeraさん、
「たぬき徳利」のおたぬきさんが乗り移ったわけでもないでしょうが、
念願の「豊島屋酒造が醸すお酒」をいただきました。

「この日は本濁りがサービス価格で提供されていました!!」

酒を呑む

実はtorikeraさん、以前から鬼熊の足跡を丹念に調査していたんです。

そんな中で貴重な発見をします。


足立区の西新井大師の境内には「加持水」の井戸がある。
井戸のそばに「井筒」があって、そこに「豊島屋」の名を見つけます。


そのとき井戸を囲う玉垣の石柱に、なんと「鬼熊」の名前が…。

これ、たぶん、今まで知られていなかったものではないか、と。


鬼熊の玉垣

実は私、このときの発見をすっかり忘れていて、今度の記事を拝見して、
こりゃあ、「新発見だ!」と思い込み、斎藤さんに知らせると、

「2023年3月21日の雨宮さんのブログに載せていただいてありますよ」
(^-^)

慌てて見たらありました。
torikeraさんはこの発見を2023年2月25日、ご自分のブログに書いて、
それを見た私が私のブログで紹介していたんです。

で当時、これを読んだ斎藤さん、どれどれと早速、西新井大師へ。

「西新井大師は何度も訪れましたが、力石以外は観察力もゆるくなって、
まったく気づきませんでした。とりけらさんは真面目で着実で凄い!」と。

そして当時送ってくれたのがこちらの写真です。


それにしても斎藤さんの記憶力は凄い。

斎藤さん撮影の西新井大師

このときtorikeraさん、
浅草寺の「熊遊碑」の玉垣にも「豊島屋」の名を見つけます。

豊島屋訪問のこの日、たまたま居合わせた社長さんにこの話をしたら、
「あれはうちが奉納しました」と静かにおっしゃったそうです。

この「静かにおっしゃった」というのがいいですね。


「熊遊」碑です。玉垣に「豊島屋本店」の名が…。
玉垣

つづきは、
「豊島屋本店で酒を呑むの巻 その2」
でどうぞ。

下戸の私だけれど、一度はここで呑んでみたい!!
だって、ほろ酔いの中で「鬼熊さん」に会えるかもしれないじゃないですか。


さてさて、呑兵衛さん必見の「豊島屋本店」全部見せます編
「豊島屋本店で酒を呑むの巻 その3」

「豊島屋酒造」の銘酒がずらり。

IMG_0400_202412100000594c1.jpg

自家製おつまみも数々あれど、
まずは、名物「豆腐田楽」に「チーズと焼きのり」を…。


豆腐田楽

元は半導体の技術者だった社長さんも登場します。

お酒もおつまみも材料にこだわり、
培った技術と粋を集め、心を込めて丁寧に造る。

これぞ、ニッポン!


通販「事件」

できごと➁
12 /23 2024
のっけからお見苦しい写真ですみません。

通販で届いた敷マットレスを開けた途端、異様な汚れが…。


コロコロで取ったときのもの。飛び散らないようラップをかけた。
後になって保管したものだから、ゴミは少なくなっているが、それでもまだ。
ニトリ2

それにたくさんの毛髪。
男性を思わせる散髪したてのような1、2㎝ほどの硬そうな毛髪や、
女性のもののような長い髪の毛。太さもいろいろ。
布地が白なので余計目立った。

ニトリ3のAニトリ7

そういえばこの品物は最初から変だった。
包装のビニール袋は2枚。
一枚目の商品名を印刷した袋には裂け目に透明のテープがベタベタ。
剥がすことも出来ず、袋を開けるのに四苦八苦した。

ニトリ9

ようやく取り出すと中の袋は圧縮されていて、
口を開けた途端、マットレスが勢いよく飛び出して広がった。
そこでこの大量の毛髪と得体のしれないゴミに気が付いた。

しまった! 私は目の硝子体注射を受けたばかりで、
万が一、細菌感染して眼内炎を起こしたら失明は免れない。

悪さをするのは瞼やまつ毛、目の表面に付着した
大腸菌、黄色ブドウ球菌、レンサ球菌、カビ、ウイルス、原虫。
どこにでもいる細菌類だから、本当に怖い。まして海外からとなれば…。


布地が綿でなくサラサラした材質だったから、
マットレスが勢いよく飛び出したとき部屋にも散らばった。

とにかく汚い。小物なら当然、袋に入れて突っ返す。
だが一度膨らんだマットレスは大きすぎて入れる袋すらない。
かといってこの状態では、部屋には置いておけない。
とにかくなんとかしなければと、コロコロを掛け、布を剥ぎ、
夜までかかって周囲にあるもの、隣室のものや自分が着ている服など
すべて掃除、消毒、洗濯した。

その日の夜遅く、発送元に連絡すると翌日メールで「写真を送れ」という。

ゴミを見つけた当初はとにかく除去しなければと、コロコロで懸命に取った。
あまりの多さと汚さで二つ折りにして捨てたが、
最後のころになって証拠として残さなければと気が付いて、
かろうじて4枚確保し、周囲に散らばらないよう上からラップを貼って保管した。

それを写真に撮って送信したが、
証拠を残すことを最初に気が付いていれば、
あの異常な光景を相手に突き付けられたのにと悔やんだ。


この通販会社の名前は知っていたが、
「写真を送れ」のメールで、本社が北海道にあることを初めて知った。

写真を送信した後、改めて見たら、うわっ!となった。
なんだこれは! 毛髪に気を取られていて気が付かなかったが、
体毛のような動物の毛のような、もう気味が悪過ぎる。


ニトリ拡大1

拡大したら、
血液みたいな、何かの幼虫がつぶれたみたいな赤い色の染み?
昆虫?みたいなもの、糞?みたいなものまである。それも大量に。
南京虫だったらやっかいだから、敷物をめくり虫よけシートを敷き詰めた。

拡大Aニトリ拡大4

一週間後、ネットショップの担当者から電話が来た。自動録音した。

「ご迷惑をお掛けして」と謝る。でもなんだか自動音声みたいな感じ。
メールの送信者も全く同じ言葉を繰り返していたから、
マニュアルの棒読みだろうと思った。

まず相手の言葉を待っていたら、
「商品を見てから今後のことを決める」と言う。返送方法を聞くと、
「もよりの店舗から取りに行く」と。いつ行くとは言わない。

ネットのクレームを見ると、なかなか引き取らないとある。
ネットショップと店舗の齟齬だって生じかねない。
この会社の規定の中には、返送の折の送料は客負担というのもあった。

で、それ以上何も言わないので、こちらから質問した。

「どこのお国で作ってますか?」の質問に、言いよどんだ後、「中、中国」
「毛髪やゴミが付着した原因は何だとお考えですか?」に、
「現物を見てからでないとわからない」と言うので、
「すでに消毒、洗濯をしたものを見て何がわかりますか?」と聞いたら、
ひたすら「現物を見てから」を繰り返す。

その先の手順や負担、日数、自社の瑕疵を認める基準などを
明確に答えるのが、商道徳・客商売ってもんじゃないの?


「タグがついていませんね。検査済の検印もありませんが」の問いに、
「タグ?」
「品質表示とか販売元とかメイド・インなんとかという…」
「あっ、あのう、ついているものもないものもありますから。
でも現地で検査はしています」


何を聞いても「現物を見てからでないと」を繰り返す。
不思議なことに、要求されて送ったゴミや毛髪の写真に話を向けても、
話を逸らして「現物を見てから」と言う。
メールでも、
「私は白髪なのでこの黒髪は私のではない」と伝えたが、反応なし。

孫はハーフなので髪は栗色。父親の仕事の都合でここ一年会っていない。
るかちゃんクッキング

通販歴の長い私、
日本製と確かな企業を選んでいたせいか、今まで一度も事故はなかった。

ところが最近、クレカ払いが多くなって、
クレカ嫌いでコンビニ払いばかりの私には買える物が少なくなった。
そこでコンビニ払い可能なこの会社のネットショップに依頼したが、

このザマです。


よく名前を聞く大会社だから安心、誠実というわけではないことを
身をもって知った。


ここの商品は確かに安い。
安いけど手数料も送料も客が払うから決して安くはない。
3点ほど購入したがどれもちょっとで、バスタオルは町で買い直すことにした。

高価なものも売っているだろうが、不幸中の幸いといっては変だけど、
マットレスは年に1、2回しか使わない客用に買った低価格のもの。
だから損失は少なくて助かった。

安かろう悪かろうは承知の上だが、
「不潔なゴミ」付きまでは想定していなかった。


この先、不潔感と病原菌や害虫の不安は残る。

最初の苦情の折「一番知りたいのは毛髪やゴミが付着した原因だ」と伝え、
「一度返品されたものを私に送りましたか?」と聞いたら、
「圧縮は現地でやるからそれはない」と、メールで回答してきた。

ならば原因の場所は中国の生産工場しかないではないか。
しかも付着が集中していたのは、三つ折りの真ん中の内側だったから、
工場内部でしか考えられないだろう。
そこで男女の頭髪や体毛?動物?の毛や正体不明のゴミが付いたとしか。

そういう杜撰な場所なら、たとえ交換しても今度は目に見えない汚染に
怯えなければならない。結局、さらなる徒労が重なるだけ。

ニトリ4のその2

これ以上、ここに関わったらメンタルまでやられる。
そう思いつつ相手からの電話を取ったが、
案の定、解決する気はないと早々に悟った。

相変わらず「現物を見てから」を繰り返す相手を遮って、
「残念ですが、
次回からはもうお宅はやめておきます。以上です」と電話を切った。


「電話をするからご都合のよいお日にちを」と言ってきて、
すぐまた請求書を送ると伝えてきたので、
「まだ電話で話もしていないし問題は解決していないから延期を」と伝えたら、
「そのような処置を致しました」と。
しかしなんのことはない、翌日送られてきた。

電話を切ったあと、支払いを済ませ、即退会。
すっきりしました。
すっきりしたが、個人情報の不安は残る。
最近頻繁に来る中国からの危険な電話が頭をよぎった。


喉が痛い。あの日、慌てていてマスクをしなかった。
心配は尽きないけれど、腹をくくるしかない。


ふと、対応したのは若者だったのだろうかと…。
本心は違うだろう、そう思ったら気の毒にもなった。


土肥神社に私の句碑が…。

できごと➁
12 /20 2024
埼玉の力持ち、坂本さんから思いがけない報せが飛び込んできました。

「私の知人が静岡へ行って、
その時力石を見つけたと言って写真を送ってくれました。
雨宮様の名前が書いてありました。
(^o^)

そう言って送ってくれたのがこの写真です。

土肥神社の力石
静岡県伊豆市土肥7291 土肥神社

私、これ、初めて見たんです。
こんなふうになっているのを今の今まで知らなかったんです。

私の拙い句まで使ってくださって、
こんな立派なものに名前も彫ってくださって、
もうびっくりするやら、なにがなんだか。

使ってくださったのはこの俳句です。


  肌ざわり美男の力石(いし)の心地よさ  雨宮清子

これを建立してくださった方々は、
きっと「静岡の力石」
高島愼助 雨宮清子 岩田書院 2011の中の
私の「力石つれづれ日記」吟詠句をお読みくださったんですね。
ありがたくて胸がいっぱい。


「静岡の力石」より。
伊豆市土肥神社頁
ちょっと長くなりますが、「力石つれづれ日記」に書いたものを掲載します。

「力石から力を
力石には若者たちの力や熱気がしみ込んでいるのだから、これを活用しない
のはもったいない。全国には社殿や寺の境内に力石を置いて「力石を撫でて
力石から力をいただいてください」と看板を立てているところがある。
楕円形の石の表面はツルツルしていて実に気持ちがいい。
昔の人から今生きる人への力石を介しての、これが本当の幸せの手渡し」

これが碑の「力をいただいて」になったようです。

私がここへ調査に入ったのは13年前の2011年です。
そのとき力石は、こんなふうに置かれていたんです。


土肥神社力石

改めて「土肥神社」で検索したら、「伊豆市 観光情報」が出て来て、
見たら、坂本さんから送られてきた写真と同じものがありました。

こんな立派な神社に、しかも市の観光情報にまで載せていただいて…。
身も心もふわふわ宙に舞ってしまって、不覚にも泣けて来て…。

句碑なんて生まれて初めて。それも私の知らない方々が建ててくださった。
こんなことがあるなんて、信じられなくて何度も写真を見てしまいました。

長生きはするもんだななんて言葉が浮かんできて、
自分で照れ笑いしてしまいましたが、
なんだか大きな大きなプレゼントをいただいたように思えて、
ああ、力石をやってきてよかった!と、しみじみ。

「土肥神社」の写真に、力石と私の句が出ています。
写真を拡大すると、くっきりきれいに見えます。
「伊豆市 観光情報」

それもこれも高島先生や斎藤さんをはじめとする先輩方、
力持ちの兵庫県の「浪速の長州力」さんや岐阜県の「大江誉志」さん、
石川県の「そばつぶ」さん、埼玉県の「さかもっちゃん」
そして多くの協力者の方々や全国市区町村役所の担当者さん、
ブログを応援してくださっているみなさまのおかげです。

この嬉しさ、一人では抱えきれなくて斎藤さんに知らせたら、
こんなメールが…。

「うわっ! 本当だ! 凄い! 素晴らしい!
こんなに立派な素敵な温かみのある句碑は初めて!」

それでまたまた泣けて来て…。


嬉しくて、今夜は眠れそうにありません。

またまた発見!②

どすこい坂本
12 /17 2024
私からの問い合わせで、
坂本さんが大急ぎで送ってくれた一つがこれ。


坂本さんの小祠の石3
埼玉県越谷市越ケ谷2‐2‐16  八幡神社

一足早く斎藤さんから送られてきたのが下の写真。

お日さまの差し具合で暗く写っていますが、実際に見るとこんな感じでしょう。
さすがに斎藤さんです。判読もしっかり、寸法もきちんと測って。

「奉納 四拾貫余 市助」 50×42×22㎝

「下部欠損。こんな無骨な形の力石は珍しい」と斉藤さん。

「埼玉の力石」高島愼助 岩田書院 2007には、
越谷市役所市史編さん室が1976年に発行した「越谷ふるさと散歩」から
として、「會田石」と無刻字石のみ紹介して、「三拾□目」石と、
「四拾貫余」石を外している。


形が悪いからはずしてしまったのか、気になります。

斎藤さんの八幡神社2

小祠にあった気になるもう一つの石も、斎藤さんが送ってくださった。
これです。


斎藤さんの八幡神社3

「無刻だが坂本さん発見の石(三拾□目石)に似た形だから、
力石かもしれないが、沓石かもしれない。
坂本さんが裏返したような跡がある」と斉藤さん。


こちらが坂本さん撮影の「無刻字石」

白く粉が吹いたように見えるのは、私が刻字を判読する方法として、
水を掛けるほかに、墓石研究の東北の大学教授が実践していた
片栗粉や小麦粉を掛ける方法をお伝えしたため、それを実践したのかも。

この方法、うまくいかなかったのかな。


坂本さんの小祠の石1

ここで問題勃発

斎藤さんから送られてきた「四拾貫余」石。

「坂本さん、この石、見ませんでしたか?」との私の問いに、
「見ました! でも雨宮さんへの送信がうまくいかなくて送れなかったんです」
そう言って、大慌てて送ってきたことは前回の記事で書いた。


さて、ここで私は迷いました。新発見者をどちらにしたらいいのか、と。
力石の調査者にとって「新発見」は特別なものですから。

というより「新発見」というのは、「新大陸発見」で大騒ぎした昔から
人の心を沸き立たせるもの。考古学者は歴史を覆す新発見に歓喜し、
物理・化学ではノーベル賞のチャンスもある。

しがない「力石」だって、その喜びと興奮は同じ。

それでお二人同時というのが一番いいかなと思っていたら、斎藤さんから、
「坂本さんの新発見にしてください」との温かいメールです。


右が坂本さん発見の「三拾□目」石、
左が斎藤さん、坂本さん発見の「四拾貫余 市助」石です。
越ケ谷さいとうさんP

斎藤さん、さらにこの若き力持ちにこんなエールも送ってくれました。

「持ち上げる、担ぐだけでは飽き足らず、見つけること、判読することの
重要性に気付いたのでしょう。当初とはずいぶん違ってきました。
彼の強味は石をひっくりかえす膂力を所有していることで、
今後もこれを多様していただきたい。
これからも力石と思しき石をひっくりかえして刻字を明かにし、
無刻と思われた石を「力石」に変えてくれることを期待しています」


ありがとうございます、斎藤さん。
この力強い大きな心遣い、きっと坂本さんに届きます。


最後に、
越ケ谷・八幡神社の新発見の数日前に坂本さんが発見した
茨城県守谷市の八坂神社の力石をご紹介します。


八坂神社です。
守谷市本町八坂神社1
茨城県守谷市本町629  八坂神社

こちらが既存の力石です。

「奉石 二十八メ目 施主 松屋」 44×37×27㎝

守谷市本町八坂神社3

下の写真が坂本さん、新発見の2個の力石です。
宮司さんの話では、最近発掘したとのこと。


送られてきた写真から私メが判読。間違っているかも。

左、「三十七メ目 下村氏□□」
右、「奉納□□ 市兵衛 七十八メ目 當町 久□□村」

同じ写真から斎藤さんにも読んでいただきました。

左、「三十七メ目 上 下村氏 弥□」
右、「奉納 七十八メ目 重兵ヱ 當町 久□ノ村□」

守谷市1 守谷市2

「78貫目はさすがに重かったです!!」と坂本さん。

現代の力持ちはみなさん、孤独な挑戦者です。
坂本さんはご家族の熱い後押しと協力があって活動しています。

みなさん、どうか応援してあげてください。


ーーブログを見た坂本さんからーー

「”粂吉持”と刻字があるように見えました」

とのメールと新たな写真が届きました。どれどれと拝見したら、確かに!


粂吉2

「重兵ヱ
奉納 七十八メ目 當町
 粂吉持」

坂本さん、お見事!

さらにメールが…。

初めにお伝えした越谷市・八幡神社の「市助石」
(四拾貫余)、
この石、坂本さん、昨年12月に新発見していたそうです。
そのときの写真、改めて載せますのでご覧ください。

八幡神社四十貫余

またまた発見!①

どすこい坂本
12 /14 2024
日曜日に、さかもっちゃんこと坂本さんからメールが来ました。
「昨日、またまた力石を発見しました」

実は坂本さん、茨城県で2個、新発見しているのですが、
ブログで紹介しようとしていた矢先、またの新発見。
先にこちらを取り上げることにしました。

この場所には、
「龜(亀)吉さんが持上げた力石で有名な、“會田石”があります」とのこと。
すぐに斎藤さんに連絡すると、なんとその日のうちに再調査に。


ハヤッ!

帰宅した斎藤さんから、
「雨宮さんがこちらに来られた時、會田石を見ている私を雨宮さんに
撮られた記憶が蘇ってきました」と言われて、写真を探しました。

ありました。これです。


会田石2
埼玉県越谷市越ケ谷2‐2‐16  八幡神社

「會田石」と聞いて、私はなぜか久伊豆神社の會田石と思い込んでしまって。
斎藤さんとメールでやり取りしていて、どうも辻褄が合わないと思い、
坂本さんからのメールを再度見て、「あ! 八幡神社だったか」と。

富山県南砺市から町の花や植物、生き物などを発信している
ブログ「嘘だまり」の素姓乱雑さんからついこの間、
「誤字のない整った文。さすが」と、褒められたばかりなのに。嗚呼…。


そうなんです。確かにこの八幡神社へは10年前、
斎藤さんとまだお元気だった酒井正さんに案内されて行きました。

写真左の石が「會田石」、右の防火水そうの看板の下の石が無刻字石です。

「奉納 會田石 嘉永五壬子九月 會田□兵衛 會田庄右衛門
世ハ人 藤田庄右衛門 田中与一郎 神奈川龜吉持之
石工 卯之助」
 79×43×42㎝

このときからすでに10年。あっという間でした。
越ケ谷八幡神社

帰宅した斎藤さんから改めて、
「坂本さんは一つあったと言ってましたか?」と聞かれて、
「はい。写真が一枚送られてきて、
"私が発見したのは、三拾貫目と刻字してあるように見えました"と」

これが坂本さんから送られてきた新発見の力石です。
さかもっちゃん

でも、斎藤さんから送られてきた写真を見たら、あれれ?
なんだかゴミ置き場みたいな場所だけど、他にも力石らしき石が写っている。


kosigaya八幡神社小祠

「小祠の右側の杉の根元に放置してあるのが、
坂本さんの新発見力石です」と斎藤さん。


「奉納力石 三拾□目 越ケ谷甼」
51×36×28余㎝

斎藤さんp坂本さん新発見石

この小祠の写真を見て、
これなら他の石も見逃すはずはないと思い、坂本さんに連絡すると、
「斎藤さんは行動力が早いですね!」と驚きつつ、
「実は僕も他のを見つけていましたが、写真の送信ができなかったんです」


そう言って、即座にあとの2個の写真を送ってくれた。

それにしてもこの短期間に二人も調査にきて、
石に水掛けたり撫でまわしたり持ち上げたりされて、力石もびっくりですね。

でも長い間放置されていたんです。
久しぶりに人の手のぬくもりに触れて、力石もきっと喜んでいると思います。

力石の墓石・大湊和七

斎藤ワールド2
12 /11 2024
今回は広島県の力持ち・和七です。

力石の記事、どうしても関東圏に偏ります。
私が中部圏に住んでいる事や埼玉県や近郊の力石に熟知した
斎藤さんの存在など、理由は様々あります。

また力石の数が関東圏に比べて少ないというのもその一つ。
埼玉県には3000個近い力石が、また文化財指定の力石は東京都に集中。


これに対して、広島県の力石総数は「265個」。
これは力石貧困県の我が静岡県より少ない。

しかし、総数は少ないものの文化財指定の力石があり、
今回ご紹介する「和七」のような有名力持ちを輩出、
後世の人たちにその名声が受け継がれているという輝かしい県でもあります。


西濱和七の像
「力石 西濱 和七」の刻字がある本物の力石を担いでいます。

御袖天満宮の和七像
広島県尾道市長江1‐11‐16 御袖(みそで)天満宮
「山陽の力石」高島愼助 岩田書院 2007より

「湊、湊に女あり」ならぬ「力石あり」

というわけで、大湊和七の活躍の場は北前船で賑わった尾道港。
和七はそこで荷役の沖仲士として働いていました。

で、この「和七」、一人ではないんですね。


「大湊家は代々”和七”を襲名。力の強い者を養子にしたようで、
二代目は養子、三代目は甥が継いだ。
明治十五年、府中の向東で相撲興行があったときの番付に出てくる
”大関 尾道大湊和七”は、二代目和七のこと。
和七の曾孫によると、何代前かの先祖は貸座敷業をしていた
という話を聞いたが、本当かどうかはわからないと言う」

(昭和60年9月22日 府中市 金只彰宏)

湊にはそれぞれ仲士組合があって、互いに力を競い合っていたという。
和七は「西浜」に所属。ゆえに力石には「西浜 和七」」と刻まれてる。


しかし、競い合ったのは力持ちだけではなかった。

「尾道の石屋にはそれぞれ東浜、西浜と贔屓があったらしく、
力石を見ると”石幸作”は東浜、”石徳作”は西浜となっていたようだ。
力石一つ一つ調べてみるのも楽しいものだ」

(同上)

沼名前(ぬなくま)神社の力石です。
(平成12年、福山市文化財に指定)この中にも和七奉納の力石があります。

「奉納(神社紋章)  尾道西濱 和七 トモ 吉兵衛
江戸 加奈川権治郎 嘉永七申寅年」


沼名前神社の力石
広島県福山市鞆町後地1225 沼名前神社。同上より。

「広島県福山市鞆の沼名前神社には、力石が19個ある。
ここ鞆の浦はかつて出船入船で賑わった。約170年前の文化年間に、
この浦には廻船問屋と船問屋が計82軒ものれんを掲げていたという。
荷の陸揚げ、荷下ろし、蔵へ運ぶ雇人は沖仲士と呼ばれた。

そうした人たちが祭りなどの折に力比べをした。
問屋の主人たちは”花”をはずんだか、花街の女たちもひいきの仲士に
祝儀をひねったか。“有磯”と呼ばれた遊興の町に13軒が競い立ち、
100人を越える遊び女がいたという」

(朝日新聞「こころのページ」石の声。大阪書籍 1987年)

福山市教育委員会が2001年に出した文化財指定の概説によると、

「沼名前神社に20個、住吉神社に3個の計23個を市の文化財に指定した。
この力石はすべて花崗岩製で楕円状を呈し、
重さは61貫
(230㎏)から32貫(118㎏)とかなりの幅がある。
制作年代のわかるものは5個あり、
天保15年
(1844)から安政5年(1858)まで年号が刻まれている。
鞆の津には東濱、湊濱、西濱の沖士組合があり、互いに競い合っていた
ことが知られる」

(福山市教育委員会 「鞆の津の力石」福山の文化財(指定文化財概説)
福山市文化財協会 2001年)

ここで私メ、あれっ?と思ったんです。
沼名前神社の写真に写っている力石は19個なのに、なんで20個なの?と。
誤記かと思ったがHPにも「20個」とある。そこで福山市へ問い合わせました。
お返事、早かったですよ。それによると、


「沼名前神社の20個のうち1個は、
鞆の浦歴史民俗資料館へ貸し出し、同館で展示中です」

納得。スッキリしました!
福山市文化振興課の担当者さま、ありがとうございました。

さて、初代・大湊和七が持った力石は、現在15個
江戸の力持ち・新川七五郎や木村吉五郎、加奈川権治郎などと競演したり、
江戸本場所の相撲興行の折には、力士と地元の浜仲士が力比べをした。


和七自身が会主になるなど、財力もあったという話も伝わっている。

太宰府天満宮松竹梅(福岡県指定文化財。昭和37年)

太宰府天満宮
福岡県大宰市宰府4丁目7‐1 大宰府天満宮
「九州・沖縄の力石」高島愼助 岩田書院 2009年より。

「花崗岩を加工して楕円形にし、松・竹・梅の文字をそれぞれ一字筆太に
陰刻したものである。松印のものは、縦78㎝、横46~38㎝。
”備後尾道住人和七 博多世話人角力連中 同鰛
(イワシ)町若連中
頭取床孝 嘉永七甲寅年”の刻銘があり、
竹印のものには和七ほか5名、梅印のものには和七ほか6名の名がある。


嘉永7年に博多鰮町(当時の船着場)に来た尾道の船頭・水夫が
力自慢の末に博多角力連等の世話で、角力の祖・野見宿祢に所縁の
天満宮に参詣奉納に及んだものである」

(福岡県教育委員会)

こちらが「大湊和七」の墓です。

和七墓石
広島市尾道市西久保町2‐2 浄泉寺 
「山陽の力石」高島愼助 岩田書院 2007より

正面
「如乕」
裏面
「明治二巳巳年六月廿日 大紺屋 大湊和七」

「頭石が力石で、次の台石が酒樽、その下の台石が斗升でその下が
角な台石の立派な墓である。
寺が明治22年火災にあい、それ以前のことは詳しくわからない」

(尾道市文化財保護委員)

「如乕」「乕」はコ。ネコ科の猛獣。虎。「如乕」=「虎の如し」
勇猛、勇敢なもののたとえ。和七をそう表現したものと思われます。
「大紺屋」は不明。普通「紺屋」は染物屋のことですが…。


前出の金只章宏氏はこう書き残している。

「墓石には行年が刻まれていないから、何歳で没したかわからない。
曾孫によると、初代和七の位牌には、”釈教證信士 明治二年六月廿日”
二代目和七の位牌には、
”釈清海信士 大正十五年旧二月二十七日 七十五才と五ケ月”と」


和七さんの家は浄土真宗だったようですが、
墓石の台石が「酒樽」ということは、
和七さん、力石同様お酒も「如乕」、大如乕だったんですね。
ヽ(´∀`)ノ

力石の墓石・廣吉、長三郎

斎藤ワールド
12 /08 2024
有名無名を問わず、力持ちが自分が持った力石を己れの墓石にする、
その気持ち、なんだかすごくわかります。

斎藤さんの調べでは、そうした力石が全国に30個確認できたとのこと。
力持ち一人一人の思いが込められた力石の墓石、
このまま見過ごすのは惜しいので、少しずつ紹介していきます。

ここでは石に力の人生をかけた力持ち、お二人をご紹介します。

● 須賀廣吉

野田市須賀家
千葉県野田市中野台651‐1  報恩寺

<一つ目の力石>
正面
「(紋)成圓放光信士  淨苑紫光真女
裏面
「大正三年十一月建立 施主 須賀廣吉
※大正三年(1914)、55余×40×20㎝

<二つ目の力石>
一つ目の墓石の台石
「須賀」 60×38×24㎝

墓主の孫の談話。(2006年)
「父親は万寿丸という高瀬舟の船頭で、今上上河岸でキッコーマン醤油の
運送に携わっていたから、恐らく祖父も力持ちの船頭だったと思います」

「千葉の力石」2006年では、
「成圓放光信士 さし石 大正三年十一月建」とあり、
「さし石」が入り、「建立」の「立」と「施主 須賀廣吉」が抜けているが、
2019年2月21日の斎藤さんの再調査では、「さし石」の刻字はなかった。


この調査をした人は同市今上八幡神社の力石「万治四年」を「明治四年」と
誤読した人で、どうも「誤読・未読・捏造」が多い。
須賀廣吉の「さし石」は捏造。しかも肝心の「施主 須賀廣吉」が抜けている。

その須賀家の墓所に変化がありました。
「今年(2024年)11月5日に再調査したら、須賀家墓所が更地になっていて、
力石の墓石は所在不明だった。墓仕舞いか」と斎藤さん。


2019年2月21日の調査時の「須賀家墓所」です。
右横に「力石の墓石」があります。
2019.jpg

2024年11月5日に再々調査の時の墓所。
立派な墓石もすべて消えていました。遠方へ転居でもされたのでしょうか。


2024.jpg

● 小林長三郎

<一つ目の力石>
正面
(梵字)常念怡法清信士 大正十一年二月春
                 
             小林長三郎 六十九才
               

             常楽妙法清信女 仝人妻 つ祢 
※大正十一年(1922)
裏面
「さし石 三拾貮貫目 長三郎」 65余×33×24㎝

<二つ目の力石>
一つ目の力石の台石。
小林 四□□□目 長三郎」 69×39×15㎝

野田市小林家
同上

須賀廣吉さんも小林長三郎さんも、今ごろはあの世とやらで力石を担いで、
皆々様から拍手喝采を受けているかも。(^∇^)

※ 朱書はすべて、前調査者の未読・誤読を斎藤さんが判読し直したもの。

自然薯

世間ばなし③
12 /05 2024
胃に優しいというので、
農協市場で掘りたての自然薯を買ってきました。

目の静脈血栓になり、血液サラサラにしなくてはと生玉ねぎやらカボスやら
ガバガバ食べていたら、体に異変が…。

咳が出始め、背中が痛い。
これ、持病の逆流性食道炎の再発だと気が付いて慌てました。

バカですねぇ。
この病気にとって最悪のものをセッセと食べていたんですから。
なんでも徹底的にやる悪い癖が出てしまいました。

すぐ服薬と食事療法に切り替えました。
服薬は以前、消化器科でいただいたガスターなんとかではなく、
常備薬の大正漢方胃腸薬を服用。私は漢方薬とは相性がいいので。

キャベツ、大根、サトイモ、ほうれん草、人参などの野菜と白身魚の
牛乳スープにお粥。細かく刻んだ鶏肉のささみに湯豆腐に茶碗蒸し。


サクラエビのかき揚げともしばしお別れ。
さくらえび

食後の体操にウォーキング。横隔膜体操、といっても腹式呼吸ですが。
夜は上半身を高くして寝る。これ、まあまあいいかなと思っていますが、
寝ているうちに体がだんだん下がって来るんですよ。

まぁ、その甲斐あって
一週間ほどで痛みも軽くなり、少しずつ快方に向かっています。

ときどき、"さぼてん”のヒレカツが宙に浮かびますが、
ついつい手が出た甘いものを食べたいという気が
起こらなくなったのが不思議。
でも自粛食事は、なんだか力が出ないんですよね。


で、胃に一番優しかったのがとろろ

土の匂い、ムンムン。くねくねと世間の荒波に耐えてきた自然薯です。

じねんじょb

自然薯が折れないように、割った孟宗竹を支えに使っています。
こういうのに、私、すぐ感動しちゃうんです。

竹林で竹を切って、鉈でスパッと割っている姿が浮かんできて…。
紐はシュロ紐。ビニールでないのがまた嬉しい。

自然薯あ

自然薯は洗ってヒゲを焼いて、ここからは手袋はめてひたすら摺り下ろす。
すり鉢はないから、このまま小分けしてラップに包んで冷凍庫へ。
これでいつでもOK.
生卵は胃に響くので今は我慢。

800円也。4食分。
最初の自然薯

農家さん直送の掘りたてがいつでも手に入る農協市場。
でも、今年12月で閉店が決まり、もう朝の採りたて野菜も有精卵も、
生落花生も生の原木椎茸もワサビの葉もマクワウリも買えなくなるんです。

野菜についていた青虫を育てたり、農家さんから食べ方を教わったり、
年季の入った焼き芋売りのおじいさんがいたり、
新茶の季節にはお茶の接待があったり…。
ああいう空間がもうなくなるんだと思ったら、残念で残念で…。

なんだかこの世から人間的な温かさがどんどん消えていくような、
そんな寂しさを感じます。

で、また買ってしまいました、自然薯。

今度のは、筒の中だけが我が世と思い、ご主人様の思惑通り
反抗もせず真っ直ぐ育った「筒入り息子?(娘?)」の色白さん。


太さもあって摺り下ろしたらきれいなとろろになりました。486円也。3食分。
新たな自然薯

胃に優しくておいしかった。

ありがとう、農家さん!


ーーーーー

二回目の目の注射を4日に受けました。
しばらく目の静養です。
予約投稿していきますので見てくださいね。
また、訪問返しが出来ませんので、ご了承ください。


筋違車半(すじかいしゃはん)

斎藤ワールド
12 /02 2024
「やっとこさっとこ見つけました。ちょっと感激…」

興奮冷めやらぬ斎藤さんから送られてきたのは、「力持番付表」

これです。

明治13年(1880)11月に、
江東区の亀戸天満宮に奉納された額の写しです。
正確には
「見立番付」(山中共古)

番付
国立国会図書館蔵

真ん中に大きく「鬼熊」。他に本町東助、扇橋金兵衛、
四ツ目吉五郎、四十町力蔵などのビッグネームがずらり。
清水晴風こと「筋違車半」は、下段に「年寄り」として載っています。


車半、このとき29歳。

国会図書館の大沼氏によると、
「番付表脇の書入れは晴風自身が書いたもので、
”若い頃は東京力持ちの群れに加わり、諸方にて興行ありし毎に出ていた。
思い出しても笑止の至り”などと書かれています」とのこと

そこで斎藤さん、ほかにもあるかもと思い、
「東京の力石」
高島愼助 岩田書院 2003などを再点検。
予想は的中。
そこに掲載されていた番付の中から、筋違車半の名を見つけたのです。


これです。
明治21年「力持興行広告」。左上の赤矢印が「車半」です。


晴風引き札

薄ぼんやりした印刷物のこんな細かい文字から、よくぞ見つけたと思います。
神経を集中させて、虫眼鏡で丹念に文字を確認している姿が彷彿として、
頭が下がります。


さて、問題はここからです。
これまで晴風と筋違車半が同一人物とは、誰も気付かなかったのです。
というか、おもちゃ博士・清水晴風そのものをご存じなかった。


だから、力石研究の先駆者・上智大学の伊東明先生や高島先生、
地元の調査者からは今まで晴風の名は一度も出てきていません。

私が国会図書館の方から、「おもちゃ博士」の本を教えていただくまでは…。


そこから墓石が力石であることや晴風が「筋違車半」であることがわかり、
この二つの名前がようやく繋がりました。

決して先人たちを非難しているわけではありません。
どんな世界でも、先人の調査を土台にしてさらに模索し、
新事実を見つけて後世に繋いでいく。
だからどの時代の調査や探索は決して無駄ではない。
それをいかに生かして後につなげていくかは次世代の仕事、そう思います。

さて、力持ちの車半が何ゆえ、忽然と力持ちの世界から消えたのか。


DSC05242.jpg

車半は家業が米などを運ぶ車力(運送業)だったので、当然、力量がいる。
そこで日夜鍛錬に励み、20代後半には番付にも載るほどになった。
ところがある日、神田昌平河岸の米屋に乞われて、
米俵で力量を披露していた時、大けがをしてしまいます。


これを機に力持ちの世界を去り、伝統玩具の世界へ入ります。
晴風は日本の伝統玩具が次々姿を消していくのを惜しみ、
伝統玩具を求めて全国行脚。

そんな晴風が入会したのが「集古会」という団体でした。

「集古会」のメンバーと。
後列左から2人目が「清水晴風」です。まだ20代後半。
昔の若者は確固たる人生の目標を持った大人だったとつくづく思います
晴風写真風
「おもちゃ博士」からお借りしました。

「集古会」とは、
古い懐かしいものを集めて品評しあった同好会。


東京大学の坪井正五郎の提唱で、明治29年に発足。

最初は石器や土器などから始まり、
次第に古書、茶道具、古習俗など多岐に渡り、
学者や画家、彫刻家、文人、趣味人などの各界の士が集結。
中でも晴風の活動は異彩を放ち、一歩抜きん出ていたようです。

会には侯爵や子爵などの賛助会員も多数名を連ねたという。
この会は昭和19年まで続きました。


自分の名が載った「見立番付」の欄外に、
「思い出しても笑止の至り」と、やや自嘲気味に書いた晴風でしたが、
墓石を若き頃持ち上げた「さし石」にしたのは、
力持ちだったことは終生、誇りだったからではないでしょうか。

享年63歳。辞世の句です。


今の世の玩具(おもちゃ)博士の晴風も
      死ねば子供に帰る故郷
(ふるさと)

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞