誇らかに立つ
力石・力士の絵
大島伝吉のお話、最終回です。
伝吉の足跡を追うと、その活動の主な場所は東京、埼玉など関東近辺です。
ところが嬉しいことに、
伝吉は私が住むこの静岡県に貴重なものを残していってくれました。
巨大な力石と興行の記録です。
静岡県三島市の三嶋大社には、
「明治初年、伝吉が清酒四斗樽を下駄代わりにはいて境内を歩いた」という
伝承はありますが、確たる証拠はありません。
ですが、静岡市には伝吉の足跡を記す証拠が残されていました。
まずは興行の記録からご紹介します。
これは伝吉一行が当地で興行するという予告新聞記事です。
=明治18年7月23日発行の「静岡大務新聞」
「曲持興行 来廿六日より当岡寺町の小川座にて、曲持を興行す。
右曲持力士は国井金蔵、島田傳吉、杉忠蔵、杉浦三次郎の四人なりと。
其曲持の石は八十貫目より五十六貫目迄の物にて、
なお、四斗入りの米十二俵を、足にて曲持をするよしなり」
ここに出てくる「小川座」とは、
静岡市の繁華街、現在の七間町にあった芝居小屋です。
「七間町」は、長らく映画街として若者たちでにぎわった町で、
ここを歩くことを、
東京・銀座の「銀ぶら」を真似て「七ぶら」と呼ばれていました。
小川座の前身を「玉川座」といい、
あの浅草・奥山の侠客、新門辰五郎が明治3年に建てました。
二代目歌川貞景筆「静岡玉川座棟上の図」 =「七間町物語」より
新門辰五郎は幕府崩壊で謹慎となった最後の将軍・徳川慶喜の護衛として、
慶応4年から明治4年まで静岡市で暮らします。
その間に清水次郎長と会い、
清水湊の豪商・松本屋の援助でこの芝居小屋を建てたそうです。
こけら落としには東京から当代の千両役者が来演。
毎日大入り満員で、静岡のファンを熱狂させたといいます。
ちなみに玉川座建設に多額の資金を提供した松本屋は、
まもなく没落してしまいます。
23日に続き、25日にも掲載された伝吉一行の興業予告記事。
=明治18年7月25日「静岡大務新聞」
静岡大務新聞の「大務」とは、
ニューヨークタイムズの「タイム」を真似たものです。
「曲持興行 前々号の紙上に掲げし明二十六日より当岡寺町小川座に於いて興行する曲持国井金蔵一座は、
去る二十日より五日間当国清水向島に於いて興行したりというが、
昨今の不景気に似もやらず随分大入りを占めしという」
伝吉一行が興行を行ったもう一ケ所、明治時代の清水・向島です。
徳川慶喜撮影「清水波止場」 =茨城県立歴史館蔵
左端の2階建ての建物が、明治19年開業の次郎長経営の船宿「末廣」
この写真は徳川慶喜が明治26年に撮影。
この年の6月、次郎長は74歳で波乱の生涯を閉じます。
慶喜公は次郎長のために自分の主治医を差し向けるほど、
次郎長を可愛がっていたそうです。
※次郎長さんは文政3年(1820)の生まれですが、
この同じ年にあのナイチンゲールも生まれているんですね。
「それが何か?」といわれれば、「いえ別に」としか答えようがないのですが、
次郎長とナイチンゲールは同級生!
なあんてことに、私は思わずクスッとなってしまうのです。
こちらは平成13年に復元された「末廣」です。
伝吉一行が次郎長のおひざ元の向島で興行したのが明治18年。
この興行主はだれかわかっておりませんが、
対岸には次郎長生家や住まいがあり、船宿「末廣」も建設中のため、
伝吉たちが次郎長に会った可能性は充分あります。
また、向島へ渡る港橋の際には、金杉藤吉銘ほかの力石3個が現在もあります。
これらの力石や力持ち興行と次郎長との接点が欲しいところですが、
残念ながら、
現時点ではそうした文献を探し出すところまでには至っておりません。
さて、いよいよ大島傳吉が持った「大傳石」のご紹介です。
77×63×36㌢ 静岡県伊東市物見が丘 =「仏現寺」
「大傳石 大島傳吉 世話人 当所 武山栄七
東京力持 本町 忠蔵 同 関原金蔵」
ここに出てくる「本町 忠蔵」は、
東都力持ちの中心的人物だった本町東助の門弟です。
また「関原金蔵」は、東京力持ちの東大関を張った力持ち力士です。
この碑に記された大島傳吉、本町忠蔵、関原金蔵の3人は共に、
明治21年の力持興行の広告番付に名を連ねています。
静岡県内で、これほど立派な力石はほかにありません。
まさに静岡県が誇れる力石でございます。
大杉に負けじと肩をいからせて
大傳石は誇らかに立つ 雨宮清子
※参考文献
/「静岡大務新聞」明治18年7月23日・25日
/「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009
※参考文献・画像提供
/「七間町物語」「玉川座から若竹座までの歴史」
白倉和幸 七間町町内会 平成18年
※画像提供/茨城県立歴史館
伝吉の足跡を追うと、その活動の主な場所は東京、埼玉など関東近辺です。
ところが嬉しいことに、
伝吉は私が住むこの静岡県に貴重なものを残していってくれました。
巨大な力石と興行の記録です。
静岡県三島市の三嶋大社には、
「明治初年、伝吉が清酒四斗樽を下駄代わりにはいて境内を歩いた」という
伝承はありますが、確たる証拠はありません。
ですが、静岡市には伝吉の足跡を記す証拠が残されていました。
まずは興行の記録からご紹介します。
これは伝吉一行が当地で興行するという予告新聞記事です。
=明治18年7月23日発行の「静岡大務新聞」
「曲持興行 来廿六日より当岡寺町の小川座にて、曲持を興行す。
右曲持力士は国井金蔵、島田傳吉、杉忠蔵、杉浦三次郎の四人なりと。
其曲持の石は八十貫目より五十六貫目迄の物にて、
なお、四斗入りの米十二俵を、足にて曲持をするよしなり」
ここに出てくる「小川座」とは、
静岡市の繁華街、現在の七間町にあった芝居小屋です。
「七間町」は、長らく映画街として若者たちでにぎわった町で、
ここを歩くことを、
東京・銀座の「銀ぶら」を真似て「七ぶら」と呼ばれていました。
小川座の前身を「玉川座」といい、
あの浅草・奥山の侠客、新門辰五郎が明治3年に建てました。
二代目歌川貞景筆「静岡玉川座棟上の図」 =「七間町物語」より
新門辰五郎は幕府崩壊で謹慎となった最後の将軍・徳川慶喜の護衛として、
慶応4年から明治4年まで静岡市で暮らします。
その間に清水次郎長と会い、
清水湊の豪商・松本屋の援助でこの芝居小屋を建てたそうです。
こけら落としには東京から当代の千両役者が来演。
毎日大入り満員で、静岡のファンを熱狂させたといいます。
ちなみに玉川座建設に多額の資金を提供した松本屋は、
まもなく没落してしまいます。
23日に続き、25日にも掲載された伝吉一行の興業予告記事。
=明治18年7月25日「静岡大務新聞」
静岡大務新聞の「大務」とは、
ニューヨークタイムズの「タイム」を真似たものです。
「曲持興行 前々号の紙上に掲げし明二十六日より当岡寺町小川座に於いて興行する曲持国井金蔵一座は、
去る二十日より五日間当国清水向島に於いて興行したりというが、
昨今の不景気に似もやらず随分大入りを占めしという」
伝吉一行が興行を行ったもう一ケ所、明治時代の清水・向島です。
徳川慶喜撮影「清水波止場」 =茨城県立歴史館蔵
左端の2階建ての建物が、明治19年開業の次郎長経営の船宿「末廣」
この写真は徳川慶喜が明治26年に撮影。
この年の6月、次郎長は74歳で波乱の生涯を閉じます。
慶喜公は次郎長のために自分の主治医を差し向けるほど、
次郎長を可愛がっていたそうです。
※次郎長さんは文政3年(1820)の生まれですが、
この同じ年にあのナイチンゲールも生まれているんですね。
「それが何か?」といわれれば、「いえ別に」としか答えようがないのですが、
次郎長とナイチンゲールは同級生!
なあんてことに、私は思わずクスッとなってしまうのです。
こちらは平成13年に復元された「末廣」です。
伝吉一行が次郎長のおひざ元の向島で興行したのが明治18年。
この興行主はだれかわかっておりませんが、
対岸には次郎長生家や住まいがあり、船宿「末廣」も建設中のため、
伝吉たちが次郎長に会った可能性は充分あります。
また、向島へ渡る港橋の際には、金杉藤吉銘ほかの力石3個が現在もあります。
これらの力石や力持ち興行と次郎長との接点が欲しいところですが、
残念ながら、
現時点ではそうした文献を探し出すところまでには至っておりません。
さて、いよいよ大島傳吉が持った「大傳石」のご紹介です。
77×63×36㌢ 静岡県伊東市物見が丘 =「仏現寺」
「大傳石 大島傳吉 世話人 当所 武山栄七
東京力持 本町 忠蔵 同 関原金蔵」
ここに出てくる「本町 忠蔵」は、
東都力持ちの中心的人物だった本町東助の門弟です。
また「関原金蔵」は、東京力持ちの東大関を張った力持ち力士です。
この碑に記された大島傳吉、本町忠蔵、関原金蔵の3人は共に、
明治21年の力持興行の広告番付に名を連ねています。
静岡県内で、これほど立派な力石はほかにありません。
まさに静岡県が誇れる力石でございます。
大杉に負けじと肩をいからせて
大傳石は誇らかに立つ 雨宮清子
※参考文献
/「静岡大務新聞」明治18年7月23日・25日
/「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009
※参考文献・画像提供
/「七間町物語」「玉川座から若竹座までの歴史」
白倉和幸 七間町町内会 平成18年
※画像提供/茨城県立歴史館