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誇らかに立つ

力石・力士の絵
04 /04 2015
大島伝吉のお話、最終回です。

伝吉の足跡を追うと、その活動の主な場所は東京、埼玉など関東近辺です。
ところが嬉しいことに、
伝吉は私が住むこの静岡県に貴重なものを残していってくれました。
巨大な力石興行の記録です。

静岡県三島市の三嶋大社には、
「明治初年、伝吉が清酒四斗樽を下駄代わりにはいて境内を歩いた」という
伝承はありますが、確たる証拠はありません。
ですが、静岡市には伝吉の足跡を記す証拠が残されていました。

まずは興行の記録からご紹介します。

これは伝吉一行が当地で興行するという予告新聞記事です。

img576.jpg
 =明治18年7月23日発行の「静岡大務新聞」

  曲持興行 来廿六日より当岡寺町の小川座にて、曲持を興行す。
  右曲持力士は国井金蔵島田傳吉杉忠蔵杉浦三次郎の四人なりと。
  其曲持の石は八十貫目より五十六貫目迄の物にて、
  なお、四斗入りの米十二俵を、足にて曲持をするよしなり

ここに出てくる「小川座」とは、
静岡市の繁華街、現在の七間町にあった芝居小屋です。
「七間町」は、長らく映画街として若者たちでにぎわった町で、
ここを歩くことを、
東京・銀座の「銀ぶら」を真似て「七ぶら」と呼ばれていました。

小川座の前身を「玉川座」といい、
あの浅草・奥山の侠客、新門辰五郎が明治3年に建てました。
玉川座
二代目歌川貞景筆「静岡玉川座棟上の図」 =「七間町物語」より

新門辰五郎は幕府崩壊で謹慎となった最後の将軍・徳川慶喜の護衛として、
慶応4年から明治4年まで静岡市で暮らします。
その間に清水次郎長と会い、
清水湊の豪商・松本屋の援助でこの芝居小屋を建てたそうです。

こけら落としには東京から当代の千両役者が来演。
毎日大入り満員で、静岡のファンを熱狂させたといいます。
ちなみに玉川座建設に多額の資金を提供した松本屋は、
まもなく没落してしまいます。

23日に続き、25日にも掲載された伝吉一行の興業予告記事
img577.jpg
 =明治18年7月25日「静岡大務新聞」
静岡大務新聞の「大務」とは、
ニューヨークタイムズの「タイム」を真似たものです。

曲持興行 前々号の紙上に掲げし明二十六日より当岡寺町小川座に於いて興行する曲持国井金蔵一座は、
去る二十日より五日間当国清水向島に於いて興行したりというが、
昨今の不景気に似もやらず随分大入りを占めしという

伝吉一行が興行を行ったもう一ケ所、明治時代の清水・向島です。
img269.jpg
徳川慶喜撮影「清水波止場」 =茨城県立歴史館蔵
左端の2階建ての建物が、明治19年開業の次郎長経営の船宿「末廣」

この写真は徳川慶喜が明治26年に撮影。
この年の6月、次郎長は74歳で波乱の生涯を閉じます。
慶喜公は次郎長のために自分の主治医を差し向けるほど、
次郎長を可愛がっていたそうです。
※次郎長さんは文政3年(1820)の生まれですが、
この同じ年にあのナイチンゲールも生まれているんですね。
「それが何か?」といわれれば、「いえ別に」としか答えようがないのですが、
次郎長とナイチンゲールは同級生!   
なあんてことに、私は思わずクスッとなってしまうのです。

こちらは平成13年に復元された「末廣」です。
CIMG1554 (2)

伝吉一行が次郎長のおひざ元の向島で興行したのが明治18年
この興行主はだれかわかっておりませんが、
対岸には次郎長生家や住まいがあり、船宿「末廣」も建設中のため、
伝吉たちが次郎長に会った可能性は充分あります。

また、向島へ渡る港橋の際には、金杉藤吉銘ほかの力石3個が現在もあります。
これらの力石や力持ち興行と次郎長との接点が欲しいところですが、
残念ながら、
現時点ではそうした文献を探し出すところまでには至っておりません。

さて、いよいよ大島傳吉が持った「大傳石」のご紹介です。

CIMG0178 (2)
77×63×36㌢ 静岡県伊東市物見が丘 =「仏現寺」

「大傳石 大島傳吉 世話人 当所 武山栄七 
         東京力持 本町 忠蔵 同 関原金蔵」


ここに出てくる「本町 忠蔵」は、
東都力持ちの中心的人物だった本町東助の門弟です。
また「関原金蔵」は、東京力持ちの東大関を張った力持ち力士です。
この碑に記された大島傳吉、本町忠蔵、関原金蔵の3人は共に、
明治21年の力持興行の広告番付に名を連ねています。

静岡県内で、これほど立派な力石はほかにありません。
まさに静岡県が誇れる力石でございます。

大杉に負けじと肩をいからせて
     大傳石は誇らかに立つ 
  雨宮清子
                                         
※参考文献
/「静岡大務新聞」明治18年7月23日・25日
/「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009
※参考文献・画像提供
/「七間町物語」「玉川座から若竹座までの歴史」
白倉和幸 七間町町内会 平成18年
※画像提供/茨城県立歴史館

「伝吉の石を追う」第3弾

力石・力士の絵
03 /30 2015
再び、伊豆・大島出身の大島伝吉(島田伝吉)のお話です。
と、ちょっとその前に…。

埼玉在住の研究者S氏から、「大嶋直吉」についてのご指摘がありました。
重要なご指摘です。
3月20日掲載の「伝吉の石を追う」に追記として書き込みました。
今一度お読みいただけたら幸いです。

さて、本題に入ります。
前回、大島伝吉銘の力石は、現在9個確認されているとお伝えしました。
そして、
出身地の大島・岡田港の「勇鑑石」と千葉県市川市本行徳・八幡神社の石は、
すでにご紹介しました。

これは江戸名所図会に描かれた「行徳船場」のうちの「行徳八幡宮」です。
img589.jpg
赤丸のところに力石が描かれています。

ここには前回お伝えした「超有名力持ち力士4人」の名が入った石のほかに、
もう一つ、伝吉が持った石があります。

これです。
本行徳・伝吉石3

「五十八メ目 傳吉」

ここで、静岡県伊東市にある「大傳石」を除き、あとの力石を一挙公開します。

「連城石」
CIMG0711 (2)
 =東京都世田谷区北烏山・幸龍寺

「連城石 矢向弥五郎 豆州大島 傳吉持之  
世話人 □鬼熊 代地芳次郎 本町東助


「萬代石」ほか
img580.jpg
 =神奈川県三浦市三崎・海南神社

(右端の石) 88×48×37㌢
「萬代石 豆州大島岡田港 嶋田傳吉持之 □□□□□
(真ん中の石)
「豆州大島岡田港 □□□□□ 嶋田傳吉持之」

「昇龍石」と「扶桑石」
CIMG0759 (3)
 =東京都江東区南砂・富賀岡八幡宮

「昇龍 toshimaya_logo (2)店鬼熊 豆州大島 傳吉持之
世話人 扇橋 金兵衛 同音吉 四ツ目吉五郎 四十町力蔵 本町東助

「扶桑石 大嶋傳吉 
世話人 本町東助 小合己之助 玉山厚書 印


「扶桑石」に刻字された大嶋傳吉の銘です。
CIMG0750 (3)

さて、ここで、
「江戸名所図会」に出てくる「力石の絵」についてお話していきます。

今までにも何度か江戸名所図会に描き込まれた「力石」をご紹介してまいりました。
江戸名所図会に力石が描かれていることを発見したのは、
師匠の高島愼助教授です。
でも、ある日、ふと思ったんですね。
力石のようだけど、確証はない、と。
そこで調べました。徹底的に。名所図会の絵、すべてを

虫めがね片手に隅から隅まで。教授が見落とした絵も何点か新発見。
で、とうとう見つけました。力石を持ち上げている絵を…。

これです。
img588 (2)img588.jpg
「日暮里総図」(ひぐらしのさとそうず)其の四

近くに「船つなぎ松」と「こんぴら」「観音」、
下方に「青雲寺」の名が見えます。

赤丸の所を拡大するとこんな感じです。
img588 (3)img588 (4)
石が4つあります。男が抱え上げております。あとの二人もやる気満々です。
二本差しのお侍が両手をあげて「すご~い!」と驚いています。

まぎれもなく、力石を使って力比べをしている状景です。

これが力石であるという資料も見つかりました。

大和郡山藩の2代藩主・柳沢信鴻(のぶとき)の日記「宴遊日記」の、
安永7年(1778)2月25日にありました。

柳沢信鴻は安永2年、家督を嗣子に譲り、
50歳にして江戸駒込染井の別邸(現・六義園)に隠居。
芝居三昧の日々を過ごします。

安永7年のこの日、中野で筆立てを買い水茶屋で休んだりしたその帰路、
日暮里(新堀・ひぐらしのさと)へさしかかったところ、

「彼岸明けゆへ辻々賑也。
力石七ツ計有。八十八歳にて未年持ち由彫付けし石有り」

このとき柳沢信鴻は7個の力石を見ています。
そのうちの一つに、「88歳で担いだ」という刻字があるのを見つけています。
でも担いだ人の名は記されてはおりません。
またこういう刻字のある石は、現在所在不明です。

残念ですが、でも大きな収穫になりました。

「江戸名所図会」上・中・下巻、すべてのさし絵742点を覗き終えて、
虫めがめをはずして、しょぼつく目で窓を見ると、
すでに白々と夜が明けておりました。

前日の宵から座りっぱなし。体中がギシギシときしんで…。
でも、すぐに喜びと満足感で、体ははちきれんばかりになりました。

狂気の沙汰、お笑いください。

<つづく>

※参考文献・画像提供
/「神奈川の力石」高島愼助 岩田書院 2004
/「江戸名所図会」下巻 斎藤幸雄・幸孝・幸成、長谷川雪旦
校註者鈴木棠三・朝倉治彦 角川書店 昭和55年
※参考文献/「日本庶民文化史料集成」第13巻・芸能記録(二)
編者・芸能史研究会 三一書房 1977

「伝吉の石を追う」第2弾

力石・力士の絵
03 /24 2015
「ついに寄って見極めてきました」

3年前の春、埼玉在住の研究者・S氏は、
以前から気になっていた千葉県市川市本行徳・八幡神社の力石に足を運び、
今まで発表されていた石の刻字が間違いであったことを証明しました。


これがその力石です。
1千葉・本行徳八幡神社
石の表面がかなり剥離しています。=市川市本行徳・八幡神社
撮影/S氏

S氏は刻字の判読の間違いだけではなく、
それまで判明していた島田伝吉、内田金蔵のほかに、
新たに万屋金蔵と八丁堀平蔵の名を発見します。


六十八メ目 八丁堀 平□ 伊豆大島岡田村 島田傳吉 
飯田町 萬屋金蔵 湯島天神下 内田金蔵

「平□は八丁堀と同じ書体。平蔵に間違いない。
この超有名な4人の力持ち力士の刻字のある石は、
この力石しか現存していない。
大変貴重な石です。驚くやら嬉しくなるやら…」

そのときのS氏の興奮が伝わってまいります。


ここに出てきた万屋金蔵は、
あの渡辺崋山の「喜太郎絵本」に描かれた人物ですが、
もう一人の金蔵は、埼玉県三郷市出身で天明4年(1784の)生まれの、
神田明神下・酒問屋内田屋のタルコロです。


内田金蔵が持った力石の一つをご紹介します。
CIMG0746 (2) img587.jpg
「樊噲石」(はんかいいし)  右は故・伊東明上智大学名誉教授の作図
 =東京都江東区南砂・富賀岡八幡宮  
※樊噲(はんかい)とは、
中国・漢の武将の名で、高祖劉邦に仕えて戦功を立てた強力の人。

朝倉無声の「見世物研究」に、こんな話が載っています。

文政3年(1820)3月、
江戸の両国広小路で大阪下りの力持ち太夫・力松が興行をした。
百二十貫目の釣鐘を軽々と差し上げるというので評判を呼んだ。

「お江戸八百八町、広大大繁盛の土地ではござりまするが、
このような怪力士は恐らくござりまするまい」


との口上が内田金蔵の耳に入った。
子分を連れて見物に行った金蔵、
どう見ても釣鐘は90貫以上あるとは思えない。そこで力松に問うたところ、
力松、冷笑して、「あるかないか持ってみればわかる」と。

「もし持ち上げたらどうする」
「お持ちなさったらこの釣鐘を進上致しましょう」

というので、金蔵、つかつかと舞台へ上がって、
何の苦もなく差し上げてしまった。
それを見た力松、舞台の片隅でブルブル。
金蔵は約束どうり釣鐘を子分たちに担がせて、悠々退場。
力松一行は手をついて謝り、
一札を入れ、早々に大阪へ帰ったというお話です。


まさに金蔵は「樊噲」の名に恥じない力持ちですね。
それにしても当時の江戸っ子は、お隣りのお国の歴史をよくご存知です。


内田金蔵の手形が残されています。
img585.jpg
埼玉県三郷市高洲の香取神社に奉納されている金蔵の手形。

奉納年月は文化12年(1815)3月。
金蔵、このとき32歳。
世話人の八丁堀亀嶋平蔵、59歳。


S氏が市川市の八幡神社で発見・解明した力石に
刻まれた超有名力持ち力士は、
八丁堀平蔵、島田傳吉、萬屋金蔵、内田金蔵の4人。

このうち平蔵、内田金蔵、萬屋金蔵は江戸を代表する力士です。
その力士たちの刻字石に、
明治の力士・伝吉の名が追刻されているということは、
伝吉がいかに優れた力持ちであったかの証しでございます。


そして八丁堀平蔵は、金蔵の手形の世話人を買って出るほどに、
この親子ほども違う若者を可愛がっていたものと思われます。

しかし惜しいことに金蔵は、30代半ばで没してしまいます。


故郷・三郷市高洲の共同墓地に、
金蔵が建立した実家・福岡家のお墓があります。

<つづく>

※参考文献・画像提供/「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009
               「伊東明教授退任・古希記念原著論文」
               「江東区内の力石の調査・研究」1988
※情報・画像提供/S氏
※参考文献/「見世物研究」朝倉無声 昭和3年

伝吉の石を追う

力石・力士の絵
03 /20 2015
伊豆・大島出身の力持ち、
大嶌傳吉(本名・島田伝吉)の足跡をたどります。

伝吉の名が刻まれた力石は全部で9個。
残念ながら年代を刻した石はありませんので、
各地に残された石から、伝吉の活躍の痕跡をご紹介していきます。

静岡県伊東市の郷土史家、故・木村博氏が書き残した「伊豆の大力伝記」に、
「伝吉は明治初年、三島大社の境内で興行したとき、
清酒四斗樽2個を下駄代わりにはいて歩いた」との記述があります。


かつて力石が展示されていた三島大社・宝物館です。
img583.jpg
昭和10年ごろ =静岡県三島市

木村氏が「伊豆の大力伝記」を書いた1985年当時は、
この宝物館の前に立派な立札と共に力石が置かれていたそうですが、
現在は神社裏の藪の中に打ち捨てられており、
神社関係者はその存在すらご存じありません。


裏の藪に放置されたままの力石。
三島市・三嶋大社 (2)
写真からもまだしっかりと「力石」の刻字が読み取れます。

「奉納 力石 元飯田町 金蔵 彦太郎 福□真□ 直吉」

神社関係者の皆様には、
今一度郷土の庶民のこうした文化的価値を再考していただき、
ぜひ保存を、と切に願っています。

三島大社の当時の説明文によると、
「石は80貫(約300㌔)、
伊豆大島の出身、直吉と申す者が角技の上達を当社に祈願して奉納した」
とあったそうです。

この石には、「飯田町金蔵」「直吉」などの名が刻まれていますが、
これについて木村氏は、
「大島伝吉と大島直吉とを混同したのではないか」としています。


img062 (2)
渡辺崋山が描いた「飯田町金蔵(万屋金蔵)」

ですが、四日市大学の高島愼助教授は、
「飯田町金蔵と併刻されていたのなら、直吉は大島出身の直吉ではなく
飯田町直吉のことではないか」
「金蔵と飯田町直吉の名を併刻した力石は全部で5個。これとは別に
大島村 直吉の刻字石は2個存在する」としています。

つまり同名の「直吉」は別人だということです。


img584.jpg
飯田町金蔵と飯田町直吉の名が併刻された力石 
=観蔵寺(千葉県木更津市)

「五十五貫余 文政癸未冬十月六日此自持 於之内田 子刻之其人誰東都
三有力 芝土橋久太郎 飯田町直吉 萬本店金蔵 彌吉 定七 □右衛門
権蔵 權治郎 文政庚寅七月 武刕岩附 卯之助 江戸□□久蔵」

この石には、力持ちの超有名人が名を連ねています。
610㌔の石を持ち上げた日本一の力持ち「卯之助」の名も見えます。

こちらは大島村 直吉の銘の入った力石
CIMG1024.jpg
石観音堂 =神奈川県川崎市

「八丁堀亀嶋平蔵 本八丁堀一町目 権平 五十八貫余
長五郎 百組 長吉 大嶋村 直吉 伊之助」

こちらの石にも八丁堀平蔵や伊之助など有名力持ちが名を連ねています。


さて、飯田町金蔵(万屋金蔵)ですが、
この人は文化文政期に活躍した江戸を代表する素人力持ちです。
ですから、明治初年の力持ち・伝吉と一緒に興行した可能性は低い。


しかし木村氏によると、
「大正時代、地元の沼上徳兵衛がこの石を持ち上げて境内を歩いた」
とのことですから、石に伝吉の名が刻まれていなかったとしても、
時の総理大臣に贔屓されるほどの伝吉です。


明治初年の三島大社での興行のとき、
江戸の西方大関を張った飯田町金蔵銘の石に挑んだことは、
充分考えられます。


そのころ伝吉は二十歳ぐらいの若者だったと思われます。

「伝吉の石を追う旅」、次回へと続きます。

※追記
埼玉在住の研究者S氏より貴重なご指摘がありました。
「大嶋村 直吉」についてです。

上記の記事中、私は神奈川県川崎市川崎区の石観音堂の力石を、
「伊豆大嶋村出身の直吉」としましたが、S氏によると、
川崎区に「大嶋」という地名があり、この石観音堂に刻まれた銘は、
伊豆大嶋ではなく川崎の大嶋のことではないか、ということです。
 
「川崎にいた力持ちコンビの直吉、伊之助が力技を披露し、
その記念に互いの名を刻して奉納した」


とのご指摘です。重要なことなので、ここにご報告いたします。
そういえば、同じ川崎区の川崎大師平間寺の「虎龍石」も
「大嶋村 直吉 伊之助」ですね。
Sさん、ありがとうございました。


※参考文献
/「静岡の力石」高島愼助・雨宮清子 岩田書院 2011
/「伊豆の大力伝記」木村博 伊豆新聞 1985  
/「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009
/「神奈川の力石」高島愼助 岩田書院 2004
※画像提供
/「写真集 静岡県の絵はがき」監修・若林淳之 羽衣出版 平成5年
/「江戸名作画帖全集3 文人画 文晁・崋山・椿山」「喜太郎絵本」
 駸々堂出版株式会社 1993

力士・大嶌傳吉

力石・力士の絵
03 /16 2015
2年前の平成25年、
伊豆の大島で第68回国民体育大会・相撲競技が開催されました。

その応援イベントとして行われたのが「伝吉まつり」です。

まつりの主人公は大嶌伝吉、本名・島田伝吉
=弘化4年(1847)~明治23年(1890)=
大島が生んだ怪力の力持ち力士です。


伝吉の肖像画(油彩)です。
肖像画伝吉

このイベントにちなみ、
東京都大島町・大島町立第二中学校の当時の校長先生が、
学校通信に伝吉のことを紹介しています。


「伝吉まつりの主催者は地元の人たちです。
自主的に動いた活力には敬服します」

「島田伝吉、通称は大嶌伝吉。岡田出身。
明治初年にかけて活躍。伝吉の碑が岡田漁港入口にある。
碑文は、伝吉のファンだった二代総理大臣・黒田清隆の書で、
裏面には当時の関取名や有志の名前が刻まれ、
伝吉の人気ぶりがうかがえる」


として、
保護者や地域のみなさんにまつりへの参加や碑の見学を勧めています。

なんだか素敵だなあ、校長先生。
力持ち力士を取り上げる学校なんて、恐らくここだけではないでしょうか。


校長先生が学校通信に書いていた「伝吉の碑」です。
img579.jpg
左が黒田清隆揮毫の碑、
右は伝吉が持った力石「勇鑑石」=東京都大島町岡田

伝吉は44歳の若さで亡くなりますが、
お墓は今もご子孫が大切に守っておられます。
碑は没後の明治27年に建立。
碑の裏面には後援者として、相撲取りの高砂浦五郎、阿武松緑之助、
剣術家の榊原健吉、東京力持連、房州勝山等の名前が刻まれています。

この勇鑑石は100×58×37㌢あります。
阿武松、高砂の両大関が二人で押しても動かすことができなかったこの石を、
伝吉は両手で高く差し上げたそうです。

碑を図にしたものです。
img575.jpg
作図/高島愼助四日市大学教授

碑文を書いた人、黒田清隆です。
img276 (3)
黒田清隆は力持ちの大ファンだったそうです。
ほかに「力士 本町東助碑」=東京都世田谷区・幸龍寺=
も揮毫しています。

江戸時代、相撲取りを抱えていた大名がたくさんいました。
あまり目立ちませんが、お抱え力持ち力士も大名の庇護を受けていました。
そうした風潮は明治になっても同じで、
政治家たちの贔屓があったわけです。

地方へ行きますと、地元の政治家が地元の力士を連れて、
選挙区を自慢げに歩いたなんて逸話も残っております。


伝吉が持った力石は、現在9個確認されておりますが、
碑や石だけではなく、番付にもその名が残されています。

明治21年の「東京力持興行」の広告。
img578.jpg

この絵の上部、「東京力持番付」の右端に、
「豆州 大嶌傳吉」の名前があります。

img578 (2)

伝吉の故郷では今でも
力持ち・伝吉のことを忘れず、イベントまで開きました。
幸せですね、伝吉さん!

相撲は知っていても、力持ちや力石のことを知る人はあまりおりません。
過去のこと、見世物のたぐい、時代遅れ…。
そんな意識が博物館の学芸員さんたちにも濃厚です。

「力石? あんなマイナーなもの、よくやってるねえ」

調査の時、私がよく投げつけられた言葉です。
でもめげずに続けているうちに、理解され、賛同者も増えてきました。
講演会にも呼ばれるようになって、お話をすると、
みなさん、「初めて知った」「素晴らしかった」「感動した」とおっしゃいます。
旅行先で力石を見つけたといって、写真を送って下さる方々も増えました。

岐阜の若者たちは力石の会を立ち上げて、実際に力石を担いでいます。

少しずつですが、力石がみなさんに知られるようになりました。

嬉しさ、しみじみ…

<つづく>

※参考文献・画像提供/「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009
※画像提供/HP「伊豆大島の風景」

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞