いつのまにか「傘寿」㊸
いつの間にか傘寿3
母は私の入院中、
「旅行に行きたいからここに2週間でも3週間でもおいてもらえ」といい、
退院したら「あそこの前で車に轢かれた人がいて死んじゃった」などと、
私を動揺させるような言葉ばかり吐いた。
だがそうした言葉とは裏腹に、家に帰れば部屋は掃除も行き届き、
生まれたばかりの二男の寝場所もきちんと整えてくれていた。
テーブルにはおむつと新生児用の真新しい産着が用意されていて、
孫と娘を迎える温かい心遣いがそこここにあって、
優しい祖母像そのものが垣間見えた。
長男がここにいたころの母は、店番をしながらタロウを膝に乗せ、
商品のお菓子を手に持たせて、何やら楽し気に話していたし、
客が来ると「これ、私の孫」と嬉しそうに見せていた。
それが姉のW子が帰宅すると、たちまち別人になった。
不安を抱えながら退院した初日の夜を迎えた時だった。
二男が泣き出したと同時に隣の部屋のふすまが開いて、
なぜか姉の部屋から母が怒鳴り込んできた。
「うるさい! 泣かすんじゃないよ! W子が眠れないじゃないか!」
慌てておっぱいを含ませると、母は夜叉のような顔のままふすまを閉めた。
新生児は2、3時間おきにお乳が欲しくて泣く。
泣くとまた母が怒鳴り込んできた。
私はあたふたして赤ん坊を抱いた。
赤ん坊が泣いて、母が鬼の形相で怒鳴り込んできて、
また2、3時間すると赤ん坊が泣いて母が怒鳴り込む。
朝までそんなイタチごっこが続いて、私はふらふらになった。
母乳は一日で出なくなった。否応なくミルクに変えた。
だが、ミルクを作るのに時間がかかる。
そのかかる時間だけ母の怒鳴り声は今までより長く大きくなった。
「泣かすな! W子が眠れないじゃないか!
明日の授業に差し支えるじゃないか! ダメな母親だね、あんたは!」
そう言われ続けて私は途方に暮れた。
二男が泣く前に授乳するしかないと思い、みんなが寝静まった中、
足音を忍ばせて台所に入りミルクを作った。
作ったミルクを手に部屋へ戻ると、泣き出しそうになる頃合いを見計らい、
まだ眠っている二男の口に哺乳瓶の乳首を無理やり押し込んだ。
ほとんど眠らなかった。
神経を張り詰めていたせいか全身がピリピリして目が冴え、
頭の中が空洞みたいになって眠気も食欲も忘れたようになった。
感情というものさえどこかへ吹っ飛んでしまい、
何日たったのかもわからなくなった。
そんな状況の中、助産婦のとらさんが訪ねてきた。
昼にはまだ早い時間だった。
とらさんは自宅から20分ほどかけて坂道を上ってやってきた。
「どうかね」
とらさんがドアから顔をのぞかせた途端、私はハッと我に返った。
開けた部屋の中に憔悴しきった私を見て、とらさんは異変に気付き、
「何かあったのか」と聞いてきた。
私は一気に母の仕打ちを打ち明けた。
聞いていたとらさんの顔が、みるみる驚きと怒りの顔になった。
私は力が抜けて涙が止まらなくなった。あとは涙で何も言えなくなった。
「大丈夫。心配しなくていい」
とらさんはそう言い残して部屋を出て行き、しばらくして戻ると、
きっぱりとこう言った。
「今、あんたのお母さんを叱ってきたから。うんと叱ってきたから。
〇〇さん、アンタ、5人も子供を産んどいて、
新生児がどんなものか知らないわけがないだろう。
忘れたのかい。赤ん坊は泣くもんじゃなかったのかい。
おっぱいが欲しくて泣くのは当たり前じゃないか、そう言ってきたからね」
それからとらさんはあの優しい顔になって、
「だからもう心配しなくていいよ」と、微笑んでくれた。
そしてそのまま二男のベッドに近づいて顔を覗き込むと、
「おお、おお。よく育ってる」。そう言って帰っていった。
とらさんの優しさに触れて、正気が甦ってきた。
ここにいてはダメだ、なんとしてもここから逃げよう、そう思った。
頼みは、
子供の頃の惨めな私を気にかけてくれていた長兄しかいなかったから、
すぐ東京の兄の元へ電話を掛けた。
「おお、元気か」
幸い兄は会社にいた。
「なにかあったのか」と聞くので、「迎えに来て欲しい」と告げると、
兄は一瞬、押し黙り、それから何も聞かずにこう言った。
「わかった。すぐ行くから。荷物をまとめて待ってろ」
兄は電話を受けてすぐ車を飛ばしてきたのだろう。
日没にはまだ充分間がある時間に到着すると、
玄関からいきなり「清子、いるか」と声を掛けてきた。
車の止まる音を聞きつけて母が廊下を走ってきたが、
兄は何も言わず、母を見ることもしなかった。
私は生まれてからまだ2週間もたたない二男を抱いて、
荷物を下げていく兄のあとを追った。
廊下に立ち尽くしていた母が突然、背後から声を掛けてきた。
「お産のあとは、3週間は寝ていないとあとあと体に障るから」
なにを今さら。
私はその声を無視したまま、兄の車に乗り込んだ。
父は倉庫の隅で、自責の念に駆られつつ泣いているだろうと思いながら。
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「旅行に行きたいからここに2週間でも3週間でもおいてもらえ」といい、
退院したら「あそこの前で車に轢かれた人がいて死んじゃった」などと、
私を動揺させるような言葉ばかり吐いた。
だがそうした言葉とは裏腹に、家に帰れば部屋は掃除も行き届き、
生まれたばかりの二男の寝場所もきちんと整えてくれていた。
テーブルにはおむつと新生児用の真新しい産着が用意されていて、
孫と娘を迎える温かい心遣いがそこここにあって、
優しい祖母像そのものが垣間見えた。
長男がここにいたころの母は、店番をしながらタロウを膝に乗せ、
商品のお菓子を手に持たせて、何やら楽し気に話していたし、
客が来ると「これ、私の孫」と嬉しそうに見せていた。
それが姉のW子が帰宅すると、たちまち別人になった。
不安を抱えながら退院した初日の夜を迎えた時だった。
二男が泣き出したと同時に隣の部屋のふすまが開いて、
なぜか姉の部屋から母が怒鳴り込んできた。
「うるさい! 泣かすんじゃないよ! W子が眠れないじゃないか!」
慌てておっぱいを含ませると、母は夜叉のような顔のままふすまを閉めた。
新生児は2、3時間おきにお乳が欲しくて泣く。
泣くとまた母が怒鳴り込んできた。
私はあたふたして赤ん坊を抱いた。
赤ん坊が泣いて、母が鬼の形相で怒鳴り込んできて、
また2、3時間すると赤ん坊が泣いて母が怒鳴り込む。
朝までそんなイタチごっこが続いて、私はふらふらになった。
母乳は一日で出なくなった。否応なくミルクに変えた。
だが、ミルクを作るのに時間がかかる。
そのかかる時間だけ母の怒鳴り声は今までより長く大きくなった。
「泣かすな! W子が眠れないじゃないか!
明日の授業に差し支えるじゃないか! ダメな母親だね、あんたは!」
そう言われ続けて私は途方に暮れた。
二男が泣く前に授乳するしかないと思い、みんなが寝静まった中、
足音を忍ばせて台所に入りミルクを作った。
作ったミルクを手に部屋へ戻ると、泣き出しそうになる頃合いを見計らい、
まだ眠っている二男の口に哺乳瓶の乳首を無理やり押し込んだ。
ほとんど眠らなかった。
神経を張り詰めていたせいか全身がピリピリして目が冴え、
頭の中が空洞みたいになって眠気も食欲も忘れたようになった。
感情というものさえどこかへ吹っ飛んでしまい、
何日たったのかもわからなくなった。
そんな状況の中、助産婦のとらさんが訪ねてきた。
昼にはまだ早い時間だった。
とらさんは自宅から20分ほどかけて坂道を上ってやってきた。
「どうかね」
とらさんがドアから顔をのぞかせた途端、私はハッと我に返った。
開けた部屋の中に憔悴しきった私を見て、とらさんは異変に気付き、
「何かあったのか」と聞いてきた。
私は一気に母の仕打ちを打ち明けた。
聞いていたとらさんの顔が、みるみる驚きと怒りの顔になった。
私は力が抜けて涙が止まらなくなった。あとは涙で何も言えなくなった。
「大丈夫。心配しなくていい」
とらさんはそう言い残して部屋を出て行き、しばらくして戻ると、
きっぱりとこう言った。
「今、あんたのお母さんを叱ってきたから。うんと叱ってきたから。
〇〇さん、アンタ、5人も子供を産んどいて、
新生児がどんなものか知らないわけがないだろう。
忘れたのかい。赤ん坊は泣くもんじゃなかったのかい。
おっぱいが欲しくて泣くのは当たり前じゃないか、そう言ってきたからね」
それからとらさんはあの優しい顔になって、
「だからもう心配しなくていいよ」と、微笑んでくれた。
そしてそのまま二男のベッドに近づいて顔を覗き込むと、
「おお、おお。よく育ってる」。そう言って帰っていった。
とらさんの優しさに触れて、正気が甦ってきた。
ここにいてはダメだ、なんとしてもここから逃げよう、そう思った。
頼みは、
子供の頃の惨めな私を気にかけてくれていた長兄しかいなかったから、
すぐ東京の兄の元へ電話を掛けた。
「おお、元気か」
幸い兄は会社にいた。
「なにかあったのか」と聞くので、「迎えに来て欲しい」と告げると、
兄は一瞬、押し黙り、それから何も聞かずにこう言った。
「わかった。すぐ行くから。荷物をまとめて待ってろ」
兄は電話を受けてすぐ車を飛ばしてきたのだろう。
日没にはまだ充分間がある時間に到着すると、
玄関からいきなり「清子、いるか」と声を掛けてきた。
車の止まる音を聞きつけて母が廊下を走ってきたが、
兄は何も言わず、母を見ることもしなかった。
私は生まれてからまだ2週間もたたない二男を抱いて、
荷物を下げていく兄のあとを追った。
廊下に立ち尽くしていた母が突然、背後から声を掛けてきた。
「お産のあとは、3週間は寝ていないとあとあと体に障るから」
なにを今さら。
私はその声を無視したまま、兄の車に乗り込んだ。
父は倉庫の隅で、自責の念に駆られつつ泣いているだろうと思いながら。
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