「伝吉の石を追う」第3弾
力石・力士の絵
再び、伊豆・大島出身の大島伝吉(島田伝吉)のお話です。
と、ちょっとその前に…。
埼玉在住の研究者S氏から、「大嶋直吉」についてのご指摘がありました。
重要なご指摘です。
3月20日掲載の「伝吉の石を追う」に追記として書き込みました。
今一度お読みいただけたら幸いです。
さて、本題に入ります。
前回、大島伝吉銘の力石は、現在9個確認されているとお伝えしました。
そして、
出身地の大島・岡田港の「勇鑑石」と千葉県市川市本行徳・八幡神社の石は、
すでにご紹介しました。
これは江戸名所図会に描かれた「行徳船場」のうちの「行徳八幡宮」です。
赤丸のところに力石が描かれています。
ここには前回お伝えした「超有名力持ち力士4人」の名が入った石のほかに、
もう一つ、伝吉が持った石があります。
これです。
「五十八メ目 傳吉」
ここで、静岡県伊東市にある「大傳石」を除き、あとの力石を一挙公開します。
「連城石」
=東京都世田谷区北烏山・幸龍寺
「連城石 矢向弥五郎 豆州大島 傳吉持之
世話人 □鬼熊 代地芳次郎 本町東助」
「萬代石」ほか
=神奈川県三浦市三崎・海南神社
(右端の石) 88×48×37㌢
「萬代石 豆州大島岡田港 嶋田傳吉持之 □□□□□」
(真ん中の石)
「豆州大島岡田港 □□□□□ 嶋田傳吉持之」
「昇龍石」と「扶桑石」
=東京都江東区南砂・富賀岡八幡宮
「昇龍 店鬼熊 豆州大島 傳吉持之
世話人 扇橋 金兵衛 同音吉 四ツ目吉五郎 四十町力蔵 本町東助」
「扶桑石 大嶋傳吉
世話人 本町東助 小合己之助 玉山厚書 印」
「扶桑石」に刻字された大嶋傳吉の銘です。
さて、ここで、
「江戸名所図会」に出てくる「力石の絵」についてお話していきます。
今までにも何度か江戸名所図会に描き込まれた「力石」をご紹介してまいりました。
江戸名所図会に力石が描かれていることを発見したのは、
師匠の高島愼助教授です。
でも、ある日、ふと思ったんですね。
力石のようだけど、確証はない、と。
そこで調べました。徹底的に。名所図会の絵、すべてを。
虫めがね片手に隅から隅まで。教授が見落とした絵も何点か新発見。
で、とうとう見つけました。力石を持ち上げている絵を…。
これです。
「日暮里総図」(ひぐらしのさとそうず)其の四
近くに「船つなぎ松」と「こんぴら」「観音」、
下方に「青雲寺」の名が見えます。
赤丸の所を拡大するとこんな感じです。
石が4つあります。男が抱え上げております。あとの二人もやる気満々です。
二本差しのお侍が両手をあげて「すご~い!」と驚いています。
まぎれもなく、力石を使って力比べをしている状景です。
これが力石であるという資料も見つかりました。
大和郡山藩の2代藩主・柳沢信鴻(のぶとき)の日記「宴遊日記」の、
安永7年(1778)2月25日にありました。
柳沢信鴻は安永2年、家督を嗣子に譲り、
50歳にして江戸駒込染井の別邸(現・六義園)に隠居。
芝居三昧の日々を過ごします。
安永7年のこの日、中野で筆立てを買い水茶屋で休んだりしたその帰路、
日暮里(新堀・ひぐらしのさと)へさしかかったところ、
「彼岸明けゆへ辻々賑也。
力石七ツ計有。八十八歳にて未年持ち由彫付けし石有り」
このとき柳沢信鴻は7個の力石を見ています。
そのうちの一つに、「88歳で担いだ」という刻字があるのを見つけています。
でも担いだ人の名は記されてはおりません。
またこういう刻字のある石は、現在所在不明です。
残念ですが、でも大きな収穫になりました。
「江戸名所図会」上・中・下巻、すべてのさし絵742点を覗き終えて、
虫めがめをはずして、しょぼつく目で窓を見ると、
すでに白々と夜が明けておりました。
前日の宵から座りっぱなし。体中がギシギシときしんで…。
でも、すぐに喜びと満足感で、体ははちきれんばかりになりました。
狂気の沙汰、お笑いください。
<つづく>
※参考文献・画像提供
/「神奈川の力石」高島愼助 岩田書院 2004
/「江戸名所図会」下巻 斎藤幸雄・幸孝・幸成、長谷川雪旦
校註者鈴木棠三・朝倉治彦 角川書店 昭和55年
※参考文献/「日本庶民文化史料集成」第13巻・芸能記録(二)
編者・芸能史研究会 三一書房 1977
と、ちょっとその前に…。
埼玉在住の研究者S氏から、「大嶋直吉」についてのご指摘がありました。
重要なご指摘です。
3月20日掲載の「伝吉の石を追う」に追記として書き込みました。
今一度お読みいただけたら幸いです。
さて、本題に入ります。
前回、大島伝吉銘の力石は、現在9個確認されているとお伝えしました。
そして、
出身地の大島・岡田港の「勇鑑石」と千葉県市川市本行徳・八幡神社の石は、
すでにご紹介しました。
これは江戸名所図会に描かれた「行徳船場」のうちの「行徳八幡宮」です。
赤丸のところに力石が描かれています。
ここには前回お伝えした「超有名力持ち力士4人」の名が入った石のほかに、
もう一つ、伝吉が持った石があります。
これです。
「五十八メ目 傳吉」
ここで、静岡県伊東市にある「大傳石」を除き、あとの力石を一挙公開します。
「連城石」
=東京都世田谷区北烏山・幸龍寺
「連城石 矢向弥五郎 豆州大島 傳吉持之
世話人 □鬼熊 代地芳次郎 本町東助」
「萬代石」ほか
=神奈川県三浦市三崎・海南神社
(右端の石) 88×48×37㌢
「萬代石 豆州大島岡田港 嶋田傳吉持之 □□□□□」
(真ん中の石)
「豆州大島岡田港 □□□□□ 嶋田傳吉持之」
「昇龍石」と「扶桑石」
=東京都江東区南砂・富賀岡八幡宮
「昇龍 店鬼熊 豆州大島 傳吉持之
世話人 扇橋 金兵衛 同音吉 四ツ目吉五郎 四十町力蔵 本町東助」
「扶桑石 大嶋傳吉
世話人 本町東助 小合己之助 玉山厚書 印」
「扶桑石」に刻字された大嶋傳吉の銘です。
さて、ここで、
「江戸名所図会」に出てくる「力石の絵」についてお話していきます。
今までにも何度か江戸名所図会に描き込まれた「力石」をご紹介してまいりました。
江戸名所図会に力石が描かれていることを発見したのは、
師匠の高島愼助教授です。
でも、ある日、ふと思ったんですね。
力石のようだけど、確証はない、と。
そこで調べました。徹底的に。名所図会の絵、すべてを。
虫めがね片手に隅から隅まで。教授が見落とした絵も何点か新発見。
で、とうとう見つけました。力石を持ち上げている絵を…。
これです。
「日暮里総図」(ひぐらしのさとそうず)其の四
近くに「船つなぎ松」と「こんぴら」「観音」、
下方に「青雲寺」の名が見えます。
赤丸の所を拡大するとこんな感じです。
石が4つあります。男が抱え上げております。あとの二人もやる気満々です。
二本差しのお侍が両手をあげて「すご~い!」と驚いています。
まぎれもなく、力石を使って力比べをしている状景です。
これが力石であるという資料も見つかりました。
大和郡山藩の2代藩主・柳沢信鴻(のぶとき)の日記「宴遊日記」の、
安永7年(1778)2月25日にありました。
柳沢信鴻は安永2年、家督を嗣子に譲り、
50歳にして江戸駒込染井の別邸(現・六義園)に隠居。
芝居三昧の日々を過ごします。
安永7年のこの日、中野で筆立てを買い水茶屋で休んだりしたその帰路、
日暮里(新堀・ひぐらしのさと)へさしかかったところ、
「彼岸明けゆへ辻々賑也。
力石七ツ計有。八十八歳にて未年持ち由彫付けし石有り」
このとき柳沢信鴻は7個の力石を見ています。
そのうちの一つに、「88歳で担いだ」という刻字があるのを見つけています。
でも担いだ人の名は記されてはおりません。
またこういう刻字のある石は、現在所在不明です。
残念ですが、でも大きな収穫になりました。
「江戸名所図会」上・中・下巻、すべてのさし絵742点を覗き終えて、
虫めがめをはずして、しょぼつく目で窓を見ると、
すでに白々と夜が明けておりました。
前日の宵から座りっぱなし。体中がギシギシときしんで…。
でも、すぐに喜びと満足感で、体ははちきれんばかりになりました。
狂気の沙汰、お笑いください。
<つづく>
※参考文献・画像提供
/「神奈川の力石」高島愼助 岩田書院 2004
/「江戸名所図会」下巻 斎藤幸雄・幸孝・幸成、長谷川雪旦
校註者鈴木棠三・朝倉治彦 角川書店 昭和55年
※参考文献/「日本庶民文化史料集成」第13巻・芸能記録(二)
編者・芸能史研究会 三一書房 1977