愚直に生きた男
三ノ宮卯之助
卯之助が残した力石には、ほかの力持ちの名前はあまりない。
天保4年の「家斉御上覧」の「家斉」は、あり得ないと以前、書きましたが、
もう一つ、私見を述べれば、この番付に載った45名の力持ちたちは、
卯之助の一門とか仲間ではなく、むしろ若き卯之助を見出して育てた、
同郷で豪農の肥田文八の配下の者たちというべきです。
若干26歳の無名の力持ちに、これだけの人を集める器量はなかったはずだし、
のちの卯之助の友人や世話人の少なさを見れば、それが自然です。
残念ながら卯之助は、他のスター的な力持ちのように錦絵にも描かれず、
当時の随筆や見聞録にも登場しない。
わずかに力持ち興行の歴史の中に、
「嘉永元年、子供力持ちは廃れ、牛馬を曲差しすることが流行った」とあり、
「川崎弥五郎は板に馬を乗せ、三ノ宮卯之助は小舟に牛を乗せて差し、
世評が高かった」とあるだけ。
これです。
この足の曲持ちという芸は、すでに文政期に見世物として出てきます。
いつの時代にもそうですが、収益を挙げるためには、
より奇抜な芸を考案して客を呼びこむ必要があったわけで、
そこが、「道楽」でやるのか、「仕事」かの違いだと思います。
下の絵は、江戸の両国広小路で興行した大阪の「早竹虎吉一座」です。
仰向けの人物が描かれています。「軽業」と名乗っています。
私は子供の頃、サーカスでこうした軽業を見たことがあります。
今思うと、これが「足芸」だったんですね。
芸人は、中年の女性でした。
仰向けで天井に向けた両足に襖(ふすま)を乗せて、
その縁を足袋を履いた指でつかみ、それを器用にクルクル回すのです。
「ハッ! ハッ!」という鋭い掛け声が、今も耳に残っています。
「観物画譜」朝倉無声 東洋文庫
さて、卯之助です。
いつのころからか、興行師と行動を共にしてそれを糧にしていた。
そしてある日突然、この世から消えた。
それを100年もの間、生家では知らなかったという。
卯之助研究者の高崎力氏は、「伝承によると」と断った上で、
講演記録にこう書いています。
「戦後の昭和になって、
卯之助のマネージャーの子孫と称する人が生家にやってきて、
嘉永7年、卯之助は関西のさる大名の江戸屋敷で、
東西力くらべをやって勝った。そして祝宴のあと突然、悶死した」
そう言って、
引札の版木と位牌と称する粗末な板切れを差し出したという。
高崎資料によると、これを受け取ったのは生家の当時のご当主とのこと。
また、斎藤氏は、
このご当主の妻と思われる未亡人から、こんな話を聞いている。
「おじいさんは卯之助のものを一生懸命集めていた」
「熱心に集めていた」というのに、届けられた版木をまな板に使っていた
というのは、チト、解せません。
「大盤石」天保11年
大阪市北区天神橋・大阪天満宮 伊東明・画 115×79×23㎝
また、
同じ町内に住みながら、興行師の子孫が他人の位牌を100年も持ち続け、
戦後の昭和になって届けたというのも、
おかしな話で。
届けに来て間もなくその子孫はこの土地を離れ、その2,3年後に
高崎氏が詳細を聞きたくてももうできなかったというのも、
なんだかなあ。
「東西対決・毒殺されたかも」という話も、
「卯之助は虚弱だったけれど、努力して力持ちになった」
「川で動けなくなった舟を持ち上げた」と、今に流布している話も、
真偽は別にして資料を読むと、
どうやら出どころはすべて、生家の当時のご当主と村長だったようで…。
しかし、
そうした「英雄伝説」をすべて取っ払い、
石差しの履歴と残された力石から、私が感じた卯之助は、
とても不思議な男で、
顔が見えてこないのです。声も聞こえてこない。
見えてくるのは、
生きることに不器用で無口で人付き合いが苦手、石を差す以外に欲はなく、
英雄を気取る気持ちなど微塵もない、
そういう「愚直に生きた男」という印象だけなのです。
ーーーーー◇ーーーーー
ーーー「天空のお社・栗橋八坂神社」の近況ーーー
ブログ「へいへいのスタジオ2010」のへいへいさんが、
栗橋八坂神社の今をブログに載せてくださっています。
まだ完成は先になるそうですが、力石はこんな素晴らしい場所に置かれます。
また情報は、おいおいお知らせしていきます。
「未完成のスーパー堤防に鎮座する八坂神社」
にほんブログ村
天保4年の「家斉御上覧」の「家斉」は、あり得ないと以前、書きましたが、
もう一つ、私見を述べれば、この番付に載った45名の力持ちたちは、
卯之助の一門とか仲間ではなく、むしろ若き卯之助を見出して育てた、
同郷で豪農の肥田文八の配下の者たちというべきです。
若干26歳の無名の力持ちに、これだけの人を集める器量はなかったはずだし、
のちの卯之助の友人や世話人の少なさを見れば、それが自然です。
残念ながら卯之助は、他のスター的な力持ちのように錦絵にも描かれず、
当時の随筆や見聞録にも登場しない。
わずかに力持ち興行の歴史の中に、
「嘉永元年、子供力持ちは廃れ、牛馬を曲差しすることが流行った」とあり、
「川崎弥五郎は板に馬を乗せ、三ノ宮卯之助は小舟に牛を乗せて差し、
世評が高かった」とあるだけ。
これです。
この足の曲持ちという芸は、すでに文政期に見世物として出てきます。
いつの時代にもそうですが、収益を挙げるためには、
より奇抜な芸を考案して客を呼びこむ必要があったわけで、
そこが、「道楽」でやるのか、「仕事」かの違いだと思います。
下の絵は、江戸の両国広小路で興行した大阪の「早竹虎吉一座」です。
仰向けの人物が描かれています。「軽業」と名乗っています。
私は子供の頃、サーカスでこうした軽業を見たことがあります。
今思うと、これが「足芸」だったんですね。
芸人は、中年の女性でした。
仰向けで天井に向けた両足に襖(ふすま)を乗せて、
その縁を足袋を履いた指でつかみ、それを器用にクルクル回すのです。
「ハッ! ハッ!」という鋭い掛け声が、今も耳に残っています。
「観物画譜」朝倉無声 東洋文庫
さて、卯之助です。
いつのころからか、興行師と行動を共にしてそれを糧にしていた。
そしてある日突然、この世から消えた。
それを100年もの間、生家では知らなかったという。
卯之助研究者の高崎力氏は、「伝承によると」と断った上で、
講演記録にこう書いています。
「戦後の昭和になって、
卯之助のマネージャーの子孫と称する人が生家にやってきて、
嘉永7年、卯之助は関西のさる大名の江戸屋敷で、
東西力くらべをやって勝った。そして祝宴のあと突然、悶死した」
そう言って、
引札の版木と位牌と称する粗末な板切れを差し出したという。
高崎資料によると、これを受け取ったのは生家の当時のご当主とのこと。
また、斎藤氏は、
このご当主の妻と思われる未亡人から、こんな話を聞いている。
「おじいさんは卯之助のものを一生懸命集めていた」
「熱心に集めていた」というのに、届けられた版木をまな板に使っていた
というのは、チト、解せません。
「大盤石」天保11年
大阪市北区天神橋・大阪天満宮 伊東明・画 115×79×23㎝
また、
同じ町内に住みながら、興行師の子孫が他人の位牌を100年も持ち続け、
戦後の昭和になって届けたというのも、
おかしな話で。
届けに来て間もなくその子孫はこの土地を離れ、その2,3年後に
高崎氏が詳細を聞きたくてももうできなかったというのも、
なんだかなあ。
「東西対決・毒殺されたかも」という話も、
「卯之助は虚弱だったけれど、努力して力持ちになった」
「川で動けなくなった舟を持ち上げた」と、今に流布している話も、
真偽は別にして資料を読むと、
どうやら出どころはすべて、生家の当時のご当主と村長だったようで…。
しかし、
そうした「英雄伝説」をすべて取っ払い、
石差しの履歴と残された力石から、私が感じた卯之助は、
とても不思議な男で、
顔が見えてこないのです。声も聞こえてこない。
見えてくるのは、
生きることに不器用で無口で人付き合いが苦手、石を差す以外に欲はなく、
英雄を気取る気持ちなど微塵もない、
そういう「愚直に生きた男」という印象だけなのです。
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ーーー「天空のお社・栗橋八坂神社」の近況ーーー
ブログ「へいへいのスタジオ2010」のへいへいさんが、
栗橋八坂神社の今をブログに載せてくださっています。
まだ完成は先になるそうですが、力石はこんな素晴らしい場所に置かれます。
また情報は、おいおいお知らせしていきます。
「未完成のスーパー堤防に鎮座する八坂神社」
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