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愚直に生きた男

三ノ宮卯之助
09 /28 2021
卯之助が残した力石には、ほかの力持ちの名前はあまりない。

天保4年の「家斉御上覧」の「家斉」は、あり得ないと以前、書きましたが、
もう一つ、私見を述べれば、この番付に載った45名の力持ちたちは、

卯之助の一門とか仲間ではなく、むしろ若き卯之助を見出して育てた、
同郷で豪農の肥田文八配下の者たちというべきです。

若干26歳の無名の力持ちに、これだけの人を集める器量はなかったはずだし、
のちの卯之助の友人や世話人の少なさを見れば、それが自然です。

残念ながら卯之助は、他のスター的な力持ちのように錦絵にも描かれず、
当時の随筆や見聞録にも登場しない。

わずかに力持ち興行の歴史の中に、
「嘉永元年、子供力持ちは廃れ、牛馬を曲差しすることが流行った」とあり、

「川崎弥五郎は板に馬を乗せ、三ノ宮卯之助は小舟に牛を乗せて差し、
世評が高かった」とあるだけ。

これです。
img690 (4)

この足の曲持ちという芸は、すでに文政期に見世物として出てきます。

いつの時代にもそうですが、収益を挙げるためには、
より奇抜な芸を考案して客を呼びこむ必要があったわけで、

そこが、「道楽」でやるのか、「仕事」かの違いだと思います。

下の絵は、江戸の両国広小路で興行した大阪の「早竹虎吉一座」です。
仰向けの人物が描かれています。「軽業」と名乗っています。

私は子供の頃、サーカスでこうした軽業を見たことがあります。
今思うと、これが「足芸」だったんですね。

芸人は、中年の女性でした。

仰向けで天井に向けた両足に襖(ふすま)を乗せて、
その縁を足袋を履いた指でつかみ、それを器用にクルクル回すのです。

「ハッ! ハッ!」という鋭い掛け声が、今も耳に残っています。

img20210924_09173414 (2)
「観物画譜」朝倉無声 東洋文庫

さて、卯之助です。

いつのころからか、興行師と行動を共にしてそれを糧にしていた。

そしてある日突然、この世から消えた。
それを100年もの間、生家では知らなかったという。

卯之助研究者の高崎力氏は、「伝承によると」と断った上で、
講演記録にこう書いています。

「戦後の昭和になって、
卯之助のマネージャーの子孫と称する人が生家にやってきて、

嘉永7年、卯之助は関西のさる大名の江戸屋敷で、
東西力くらべをやって勝った。そして祝宴のあと突然、悶死した」

そう言って、
引札の版木位牌と称する粗末な板切れを差し出したという。

高崎資料によると、これを受け取ったのは生家の当時のご当主とのこと。

また、斎藤氏は、
このご当主の妻と思われる未亡人から、こんな話を聞いている。

「おじいさんは卯之助のものを一生懸命集めていた」

「熱心に集めていた」というのに、届けられた版木をまな板に使っていた
というのは、チト、解せません。

「大盤石」天保11年
img752 (1)
大阪市北区天神橋・大阪天満宮 伊東明・画 115×79×23㎝ 

また、
同じ町内に住みながら、興行師の子孫が他人の位牌を100年も持ち続け、
戦後の昭和になって届けたというのも、

おかしな話で。

届けに来て間もなくその子孫はこの土地を離れ、その2,3年後に
高崎氏が詳細を聞きたくてももうできなかったというのも、

なんだかなあ。

「東西対決・毒殺されたかも」という話も、
「卯之助は虚弱だったけれど、努力して力持ちになった」
「川で動けなくなった舟を持ち上げた」と、今に流布している話も、

真偽は別にして資料を読むと、
どうやら出どころはすべて、生家の当時のご当主と村長だったようで…。

しかし、
そうした「英雄伝説」をすべて取っ払い、
石差しの履歴と残された力石から、私が感じた卯之助は、

とても不思議な男で、

顔が見えてこないのです。声も聞こえてこない。

見えてくるのは、
生きることに不器用で無口で人付き合いが苦手、石を差す以外に欲はなく、

英雄を気取る気持ちなど微塵もない、

そういう「愚直に生きた男」という印象だけなのです。


              ーーーーー◇ーーーーー

ーーー「天空のお社・栗橋八坂神社」の近況ーーー

ブログ「へいへいのスタジオ2010」のへいへいさんが、
栗橋八坂神社の今をブログに載せてくださっています。

まだ完成は先になるそうですが、力石はこんな素晴らしい場所に置かれます。
また情報は、おいおいお知らせしていきます。

「未完成のスーパー堤防に鎮座する八坂神社」


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ヒントは「本牧亭」にあり

三ノ宮卯之助
09 /25 2021
卯之助の「足持石」は、いつ浅草寺境内から
合力稲荷神社へ移されたのかを検証していきます。

まず、石の刻字(切付け)を、図でご覧ください。

IMG_2812.jpg
斎藤・作図

斎藤氏の見解はこうです。

上部の「足持石」「三ノ宮卯之助」「弘化□」は、同時期に彫られたもの。
つまり弘化四年に刻まれた。

下部に彫られた人名などは、のちに追刻されたもの。

ただし、「丣(卯)之助」の文字は彫りに不自然さが見えることから、
下部の文字を刻んだとき、元の文字をなぞって彫ったものと推定される。

というわけで、この石の刻字には二つの時代があることがわかりました。

そしてそれを決定づけるものが、
これ、「下谷 本牧亭 長谷川※」です。

世話人3
東京都台東区浅草・合力稲荷神社

追刻と移転時期を知るヒントは、「本牧亭(ほんもくてい)」にありました。

本牧亭は2011年まで存在した講談の定席だったそうです。

開場は安政4年(1857)。

何度か開場、閉場を繰り返しています。

こちらは戦後、再建されたときの本牧亭主人(席亭)の石井英子さん。

田代光・画
img20210921_22374663 (2)
「巷談 本牧亭」安藤鶴夫 筑摩書店 1992より拝借しました。

そもそも講談の始まりは、
慶長年間、赤松法印という人物が徳川家康公の御前で、
「太平記」や「源平盛衰記」などの軍記物を進講したのが始まりだという。

軍談や物語を講義講釈したところから、進講した人を「講釈師」といい、
その場所を「講釈場」といったと、

吉川潮の「本牧亭の鳶(とんび)
(ランダムハウス講談社。2007)に書いてあった。

私はこの本を読んで、思わず泣きましたですよ。

下足番の中村勝太郎と講釈師たちとの、
柔らかい湯気みたいな交流にです。

下足番と本牧亭の人々以外の講釈師は架空の人物というのですが、
実際の講釈師たちも、
この物語と同じ気持ちの人たちだったに違いない、と。

下の動画の中ほどに、下足番の勝太郎さんが出てきます。

子供のころから過酷な運命に翻弄され、苦労を重ねた末、
好きな鳶職の姿でここで86歳まで働いたという。



身寄りのない勝太郎の遺骨は、
本牧亭の主人の家の墓に納められたというのを読んで、

さらに胸にグッときて…。

あ、でも泣いてばかりいたら先へ進めませんよね。

この本牧亭、安政4年に開場して、19年後の明治9年(1876)に閉場。

このことから「足持石」の下部の追刻は、この期間ということになります。

さらに絞って行きますと、こうなります。

明治新政府は各地の森の公園化を急ピッチで進めます。

浅草寺の森の木も明治4,5年くらいからどんどん切られて、
明治6年浅草公園となります。

その翌年の明治7年7月、鬼熊の150貫目の石「熊遊」は、
新門辰五郎が世話人となって、奥山に建立。

「熊遊」の足元には、門人や友人たちの持った力石が置かれています。
img20210921_21592093 (2)
高島愼助・画

さらに、同年11月の3か日、浅草寺境内で鬼熊、古希の賀として、
一世一代の「大力持會」を開催。

当時の新聞、東京日日は、
「各地から力持ちが集まりこれを助く。
71歳の鬼熊、熊遊と題せし巨石を挙げて…」と、予告記事を載せた。

翌・明治8年、世話人の新門辰五郎没。

静岡もこの新門辰五郎とは浅からぬ縁があります。

新門は幕末、徳川慶喜の護衛として駿府(静岡市)にやってきました。
清水次郎長と会談したのもこのとき。
町火消し「静岡消防組」を作り、江戸木遣りを伝授していった。

鳥羽・伏見や戊辰の戦争で犠牲となった子分の供養塔も建立した。
CIMG2174.jpg
静岡市葵区常盤町・常光寺

話を戻します。

明治6年以降に、「足持石」を移転・追刻したという証拠は、
世話人の中に「公園 勇天」があることから証明されます。

こうした一連の流れから、浅草公園ができたことによって、
卯之助の「足持石」と鬼熊の「熊遊」運命を分けたことは確かで、

「足持石」は、この明治6、7年から本牧亭閉場の9年までの間、
さらに言えば、明治7年の「熊遊」碑建立以前に移転
新たに世話人たちの名を刻んで、合力稲荷神社に奉納されたと推測されます。

それは、
卯之助がこの石を足ざししてから約27年後、
人知れずこの世を去ってから、20年後のことでした。

そしてご近所さんに、
「卯之助って誰だい?」といわれたように、すっかり忘れられ、
小さな稲荷神社の入り口に一人ポツネンと置かれ続け、

パパンパン!(講釈師が張り扇で釈台を叩いた音)

卯之助が差した弘化四年の御代から過ぐること
160有余年目の2009年・霜月、
野良犬的力石ハンターの斎藤氏によって見出され、

晴れて天下にその名をとどろかせたのでございます。

パン!


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錦絵に描かれなかった卯之助

三ノ宮卯之助
09 /22 2021
今年7月、ご逝去されたノーベル物理学賞受賞の益川敏英先生、
生家の家業が砂糖の問屋だったとか。

2階建ての自宅の下が倉庫、上が住居。

両親は早朝から働きづめ。父親は重い砂糖袋を担ぐ毎日。

高校生のころ、父の体力も限界と感じた益川さん、
その父に代わって、
百㎏のキューバ糖(ザラメ)が入った麻袋を担いでいたそうです。

ノーベル賞受賞者がそんな力持ちだったとは。

ちょっと嬉しくなりました。

それはさておき、

下の絵は、昭和40年ごろの東京の石屋さんです。
大きな石が置いてあります。ここの石、力持興行にも調達されたかも。

「谷中の石屋」 川辺菊久・画
img20210627_16541027 (2)
「上野浅草五十景」台東区役所 昭和40年

この絵の石屋さんかなと思う店が、
安藤鶴夫の「巷談 本牧亭」(桃源社 1963)に出てきました。

講談の寄席・本牧亭の常連で、
「谷中でも古い石屋「石初」の隠居・岩井初五郎です。

「足持石」に刻まれていたのは「石佐」だけれど、
同じ石屋ならひょっとして、
「石初」のご隠居、「足持石」のことをご存じだったかも。

この石には「本牧亭」と彫ってありますから。

話を幕末に戻します。

同時代に生きた卯之助鬼熊を可能な限り、推測も交えて対比していきます。

この二人の大きな違いは、生まれと職業です。

鬼熊は江戸生まれ。
酒問屋・豊島屋の奉公人で、のちに居酒屋の主人になった。
生業を持ち、力持ちはあくまでも木戸銭を取らない奉納に徹した。 

卯之助は武州岩槻藩(埼玉県)生まれ。
香具師(興行師)配下の力持ちとして見世物興行に従事した。

江戸っ子が特に重視したのは、
江戸生まれで、ほかに生業を持ち木戸銭を取らなかったこと。

これが江戸っ子の自尊心と心意気をくすぐった。

鬼熊は酒問屋のタルコロ時代から幕末まで、たびたび絵に描かれた。

タルコロ時代の鬼熊
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「鬼熊の戯れの図」絵本風俗往来

相撲の高砂部屋で稽古を見ている鬼熊。
右上、腕組みをしているのが鬼熊です。

力持ちが相撲部屋にいるという、
こういう形で錦絵に描かれた力持ちはほかにはない。

「改正相撲稽古場之図」蜂須賀(歌川)邦明・画
img052_20180715081616ff6.jpg
国立国会図書館蔵

下は、幕末のペリー来航当時に幕府が配ったかわら版

右から3番目、米俵を2俵持ち上げているのが鬼熊です。
あとはすべて、相撲力士。

アメリカから見たこともない献上物をもらい、そのお返しに米を献上。
その運搬に力持ち力士を使った。

「日本人は米俵を一人でこんなに持ち上げることができるんだぞ。
お前たちアメリカ人よ、持ち上げて見ろ。
一俵でへたばっているではないか!

というかわら版を幕府がつくって、民衆に配った。
力持ちも意外なところで、国威発揚をしたものである」(平原直)

img051_20180715084535626.jpg
「物流史談・人間の知恵」平原直 流通研究社 2000

以下の記事にも載せました。
ご覧ください。

「相撲力士と力持ち力士」

錦絵に描かれたのは鬼熊だけではなく、
万屋金蔵、土橋久太郎など多くの力持ちがいますが、

卯之助にはありません。

当時の江戸庶民や素人力持ちたちは、
香具師と共に一座を組んで興行して歩いた関西の力持ちを、
一段下に見ていました。

事実、江戸の素人力持ちの方がプロより実力があったことを、
「十方庵遊歴雑記」が書いています。

絵に描かれた力持ちたちのほとんどは、地元で八百屋や材木商、
酒屋などの経営者や奉公人でしたから、

稀有の力があっても生業が見世物という卯之助は、
関西の力持ち同様、
素人力持ちとは一線を引かれていたのではないかと思います。

こんなことを言うと、卯之助の贔屓筋から、

「オイオイ。お前さんはずいぶん卯之助に冷たいんじゃないかい」

なんて言われそうですが、そうです。冷たいんです。
なにしろ私は、美男の木村与五郎にぞっこんですから。

7e985789-s.jpg  

悔しかったら、卯之助の錦絵を出しゃあがれ

あれ、私としたことが、はしたない…。

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「足持石」はなぜ、外に出されたのか

三ノ宮卯之助
09 /19 2021
「まだ続くのかよ!」と、言われそうですが、続きます。

一旦食らいついたらスッポンのごとく、離しません(笑)

ここでの問題提起は、

なぁーんて少々大げさですが、
「足持石」はなぜ、こんな小さな稲荷社へ運ばれたのか、

ということです。

この石は最初からこの稲荷社にあったのではないことは、
下記の記事で証明しました。

「謎が解けた」

斎藤氏が執念で、この石は、

「弘化四年三月、浅草観音境内」で興行したときのもの、

ということを下記の引札から突き止めました。

そしてこの年の3月は浅草寺の開帳の日であったことを、
「藤岡屋日記」「浅草寺日記」で確認できました。

しかも石の貫目までわかった。
120貫(450㎏)

img20210530_11533176 (3)
神戸大学図書館・海事科学分館所蔵

「足持石」はなぜ、浅草寺の外へ出されたか、という問題は、

同時代に生きた力持ちで、
「卯之助」とは4歳しか違わない「鬼熊」こと熊治郎と対比させて、
考えていきます。

二人は同時代の力持ち力士ですが、その生きざまは全く違います。

卯之助の「足持石」は、興行場所の浅草・奥山から外に出されましたが、
鬼熊の力石は、今も浅草寺・新奥山にあります。

「熊遊」碑です。

しかもこの石は、飛ぶ鳥を落とす勢いの町火消し「を組」の頭取、
新門辰五郎の肝いりで建立されたという箔付き。

新門辰五郎は、
言わずと知れたこの奥山の見世物の取締りを務めた大親分です。

中央の石が「熊遊」碑です。150貫(562・5㎏)
CIMG0799 (3)
東京都台東区浅草 浅草寺・新奥山

新門はなぜ鬼熊を取りたて、卯之助には目もくれなかったのか。

それを二人の対比を通して、私の推理を交えて明らかにしていきます。

この碑の台座には、17もの団体や町、個人の名前が書かれています。

書は「應需梅素」

誰が名付けたのか、「熊が遊ぶ」とは、いかにも江戸っ子好み。
洒落ています。

名前に「鬼」を冠して呼ばれることは、
その人物がいかにずば抜けているかを現わしています。

「鬼」の名称、後援者の多さ。
これらを見ても、鬼熊が江戸っ子の人気者で、
その名声がいかに高かったかを如実に表しています。

さて、
江戸・浅草といえば、奥山の見世物、芝居、花火、吉原遊郭に舟遊びと、
江戸文化の華やかさばかりが浸透していますが、

「新撰江戸名所 両国納涼花火ノ図」 一立斎広重
納涼
国立国会図書館デジタルコレクションより

世の中,飢饉続きで、
天保期より地方からの没落農民が流入。

当時の江戸の人口の56%は窮民だったと、
堀切直人が「浅草 江戸明治篇」(石文書院。2005)で語っています。

このころから、外国船が北から南から押し寄せ、
いよいよ徳川幕府崩壊へと向かい始めます。

浅草の森は狐狸の棲み処。

幕末には「貧窮組」が徒党を組んで町に現われて豪商らを脅し、
夜ともなると「辻斬り」が横行。

切られたばかりの被害者が口をパクパクの断末魔がよく見られたと、
「幕末百話」(篠田鉱造 岩波書店 1996)にあった。

そんな世相の中に、鬼熊と卯之助はいたのです。


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善意の提供

三ノ宮卯之助
09 /16 2021
顕彰碑の「検証」、いよいよ最終回です。
「足持石」を取り上げます。

今から12年前の2009年11月、
斎藤氏が見つけた卯之助、39個目の石です。

浅草を歩いていたら赤い鳥居の小さな稲荷神社があった。
鳥居のそばに大きな石が…。

力石ハンターの直感で、

「足差しした石だ! これを持ち上げられるのは卯之助しかいない!」

しかし石は、埃まみれであちこち剥離。無残な状態です。

かろうじて「丣(卯の異体字)之助」が読めた。
高鳴る胸を押さえて、水をかけると「三ノ宮」が現れた。

これがその時の写真です。
img20210423_19343073 (2)
東京都台東区浅草・合力稲荷神社

背筋ゾクゾク。胸、ドッキンドッキン。

思わず「やったあ!」

力石に興味のない方には、「いい大人が…」と笑われるかもしれませんが、
関東地方、とりわけ埼玉では「卯之助」は特別な存在ですから、
卯之助石の新発見は、砂の中からダイヤモンドを見つけたに等しいんです。

しかも「弘化」という年号まで確認できたのです。

そこで卯之助研究者として知られていた憧れのT氏に、
人を介して報告。

さらに、さいたま市の酒井正氏(スケッチをたくさん残された方)から、
「すごい発見です! Tさん、喜んでくれるはずだから」と背中を押されて、
再度、写真を添えて送った。

が、反応なし。

39個目のこの発見は、
翌2010年の「新発見・力石」(高島愼助 斎藤保夫)に、すぐ掲載された。

しかし、T氏から新たな論文は出されなかった。

それから12年目の今年、
卯之助の顕彰碑が建てられて、斎藤氏は今度こそと期待したのだが、
「足持石」は碑のどこにも刻まれてはいなかった。

斎藤卯之助1
埼玉県越谷市・中央市民会館

斎藤氏、落胆。

「なぜ、ここまで無視されるのだろうか」という思いにさいなまれた。

見かねて、私から碑の建立に関わった方にお聞きしたら、

「現地へ行き、卯之助の名前も確認しました。
今になって思うと、碑に加えるべきだったと…」

卯之助の現存力石39個のほとんどは地元埼玉にあり、
東京にはこれを加えて3 個しかない。

卯之助は、例の「御上覧力持」の天保4年以降は、
憧れの大先輩、土橋久太郎の足跡をたどり、信州を経て大阪へ出かけている。

その大坂での興行から嘉永元年の地元埼玉での興行までには、
8年間の空白がある。

この石はまさにその「空白の8年間」を埋める石だったのです。

斎藤氏がいうように、
「天保と嘉永をつなぐ弘化年間の卯之助の行動を知る貴重な石」
だったわけです。

IMG_7372.jpg

そのことを今回、碑の建立に関わった郷土研究会の方々が、
知らなかったとは思えない。

いずれも、歴史に造詣の深い郷土史専門の方々で、
T氏亡きあとも、
卯之助を「郷土の偉人」と称え、熱い思いを論文で発表している。

だから、その重要性は充分理解されていたはず。

それは、以下の新聞記事を読んたら一目瞭然。

東京新聞の記事(2020年2月15日)
「合力稲荷神社に説明板」

記事によると、研究会では寄付を募り、集まった約30万円もの寄付金で、
合力稲荷神社に「足持石」の説明板を作ったという。

台東区では「足持石」を区の史跡に認定。

これを受けて地元では、
力士の参列や手踊りの披露などを催し、説明板の除幕式を行った。

力石を見つけることはなかなかできません。
見つけても、その石に刻まれた文字を判読することは簡単ではないのです。

それなりの知識根気、それに怪しまれるという不安もあります。
そんな中で、「三ノ宮卯之助」「弘化」を読み取ったのです。

IMG_7382.jpg

研究会の方々が、そうした発見の経緯や真の発見者を、
把握していたかどうかはわかりません。
ですが、
T氏や研究会の功績でないことはどなたにもわかっていたはず。

大金をかけて説明板を作ったことからも、
この石の重要性を十分理解していた。なのに顕彰碑からはずした。

私もそうですが、
石発見者の多くは、自分の研究発表の場を持っていません。

新発見したら、それが力石の歴史に少しでも寄与することを願って、
発表の場を持つ人に全くの善意で、情報を託しているだけなのです。

いわば協力を惜しまない「共同研究者」としての立場なのです。

「善意・無償の情報提供」とは、

「無視されても構わない」「あなたの功績にしていいですよ」
ということではない。

もちろん、
「碑に発見者の名前を書け」などという低級な要求をしているのでもない。

ただ、
善意には敬意感謝を、

ということを、

私は言いたいのです。


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「御上覧」を検証してみた

三ノ宮卯之助
09 /13 2021
「江戸力持 三ノ宮卯之助」の引札には、
4種類あることを前回、お伝えしました。

そのどれにも、「御成先 御上覧仕候」、つまり、
「御成先(出向いた先)で、ご上覧いただいた」という文言が入っています。

その文言のもとになったのがこちら、
「御上覧力持」の文字が入った天保4年引札番付です。

img20210908_19375866 (2)
どの資料にも掲載されているものの、この引札と番付だけ出典や所有者は
書かれていない。唯一、「見世物興行年表」に「報條」「古書目録」とあるのみ。

これを卯之助は後の引札、「江戸力持 三ノ宮卯之助」に、
「御成先 御上覧仕候」と書き入れて宣伝に使った。

それをさらに自分たちのこととして、ちゃっかり流用したのがこちら。

この3人、天保4年の番付にも載っていないのに、
卯之助の名前を消して、自分たちの名前を書いています。

img20210719_18563747 (2)

さて、そのもとになった天保4年の「御上覧」番付、

卯之助研究者の高崎力氏は「将軍家斉」の御上覧と明言していますが、
それはあり得ないということを、下記の記事(青文字)で少し触れました。

今回はもっと踏み込みます。

この「御上覧」の目玉になる力持ちは、卯之助大木戸仙太郎の二人だけ。
あとは肥田文八を除けば、利根川辺の雑魚ばかり。

なんていうと、越谷市民から石つぶてが飛んできそうですが、

まず、この「御上覧」では、卯之助は「江戸力持」を名乗ってはいません。
つまり、まだ、
「岩槻三ノ宮」しか名乗れなかったということだと思います。

また、この番付には「甲府」「石和」の地名があったり、
「御成先」が「□□川八幡」とあって、場所が特定できないことなど不明な点が多く、

ときの将軍様が自ら出向いて行くほどの興行とは、とても思えないのです。

「卯之助には悪いけど」

参考までに、明治3年生まれの風俗研究家・三田村鳶魚の著作から、
「家斉将軍の子供相撲上覧」をご紹介します。

「家斉将軍の相撲上覧は5回。そのうち子供相撲が2回あった。
この子供相撲は見世物ではなく、

裕福な町人や商人たちが市中の10歳から14,5歳の者を4,50人集め、
百両、二百両ものお金をかけて化粧まわしから幟まで立て、
本場所通りやらせた本式の相撲だった。

これを家斉は14歳のときと30歳のとき召し寄せて、
吹上の苑中で相撲をお取らせになった」

では、出先で見る「御成ご上覧」はどうだったかというと、
まず、力持ちから見ていきます。

img20210908_19522455 (3)
「我衣」加藤曳尾庵 日本庶民史料集成十五巻 三一書房 1971

「我衣」文政7年(1924)の記事です。

「当春、深川八幡の開帳ありし時に、江戸所々の酒屋抱えの者、5,6人
かしこに至りて酒樽の曲持ち、重き貫目の大石等を担ぎて、
諸人に見物させしより、往々所々の開帳に出てこれを見せしむ。

9月中より高田南蔵院に於いて開帳ありし節は、大いに見物群集す。
木戸銭は取らず見物の勝手次第。相撲の如き番付を売り歩く。

10月5日、雑司ヶ谷の御鷹部屋でこのことありとて、続々と人が行く」

img20210908_19522455 (2)

著者はそのあと、
「近日高田馬場にて、清水公のご上覧ありとかや」と記し、

その「高田南蔵院力業」の者たちとして、
芝土橋久五郎(久太郎の間違い)、飯田町萬屋金蔵、本所四ツ目久蔵など、
当時の江戸の有名力持ち13人の名を記しています。

ちなみに久太郎や金蔵はこの前年、
木更津市の観蔵寺にある「五拾五貫余」の石を担いでいます。

ここに出てくる「清水公」を、この本の校注では、
「清水徳川家の斉順(なりゆき)」としていますが、

斉順はこの年の8年も前に紀州家へ養子に入り、
この文政7年には藩主になっていますから、
これは次の当主で、当時14歳の斉明(なりのり)でしょう。

二人とも、将軍家斉の子供ですが、
斉明は南蔵院でのご上覧の3年後、わずか17歳で早逝。

img20210908_19530901 (3)
3枚すべて、「我衣」の著者・画

三田村鳶魚の著書に戻ります。

鳶魚も清水家のことに触れています。

「文政5年5月26日、田安家、清水家お揃いで、
日暮里の浄光寺で子供相撲をご覧になった」

このときの清水家当主も12歳の斉明(なりのり)。
「浄光寺」は、歴代将軍の鷹狩の時の休憩所です。

この相撲見物も、
「御鷹部屋をご覧になる」というのにかこつけての見物だったそうです。

一方、将軍家はどうだったかというと、
家斉が大人の相撲を3回、子供相撲を2回、吹上御所で上覧し、

家斉の二男・家慶は10歳の時、浅草観音堂で子供相撲を「御成ご上覧」。
大人の相撲は12代将軍の地位にあった51歳の時、吹上御所で上覧した。

将軍二人とも上覧したのは、すべて吹上の苑中で、
一流の力士と華美な子供の「相撲」のみ。「力持ち」は一度もない。

残念ながら当時の力持ちは、「我衣」の著者が言う
「誠に下賤のことといえども」という存在でしかなかった。

これは最近、越谷市中央市民会館に建立された卯之助の顕彰碑です。

へいへい3
へいへいさん撮影

これには、

「天保四年、
江戸深川八幡境内において徳川第十一代将軍家斉御上覧の栄を受ける」

と刻まれています。

しかし、
家斉の吹上御所での相撲上覧でさえ、天保前の文政期が最後です。

まして、天保4年にはまだ征夷大将軍太政大臣を兼務しており、
(じいさんが権力の座にいつまでも居座っていた)

二男の家慶に将軍職を譲ったのはその4年後の65歳のとき。
そのまた4年後の天保12年、69歳でこの世を去ります。

今まで大々的に吹聴し、碑にも書き入れた「家斉御上覧」の証拠は、
本当にあるのでしょうか。

いくらなんでも、

子供時代ならまだしも、老境に差し掛かった最高権力者が、
今まで一度も吹上の苑に召し寄せなかった「下賤」の力持ちを、
わざわざ「深川八幡」くんだりまで、見に出かけたりはしないでしょう。怒!

行ったとしたら、あの「藤岡屋日記」「我衣」の著者や三田村鳶魚
黙ってはいなかったでしょうし、番付売りのヨミウリも大騒ぎしたはず。

記事や番付を売り歩くヨミウリ
20141122173033a48_20210910182248a45.jpg

また、「□□川八幡」を「深川八幡」にしている根拠も示さず、
「家斉ご上覧の根拠は天保4年に将軍だったから」というのでは、
あまりにも短絡的で非学問的。歴史の検証としてはお粗末です。

「御上覧」=将軍ではないのです。

たかが石碑一つに、
なにもそんなに目くじらを立てなくても、と思われるかもしれませんが、
それなりに権威ある人や研究会の名において、一旦、流布されてしまったら、

それが間違いでも、いつの間にか正しいこととしてまかり通っていきます。
すでに「高崎論文」を引用した論文が長年月の間に数種類、出回っています。

この顕彰碑も、
「2004年の「高島愼助・高崎力論文」を元に制作した」と聞きました。

紙の資料は興味のある人が見るだけですが、公共の場での石碑は、
様々な人の目に触れ、そのまま刷り込まれて定着していきます。

事実、顕彰碑建立では、各メディア「家斉将軍ご上覧」と記事に書き、
それを見たブロガーなどがブログやフェイスブックで拡散。

発信元が同じですからどこの社も同じ記事になります。
「新聞記事」

こうなると、修正はもう困難でしょう。

紙の資料にも言えることですが、特に石に刻むときは、
古い資料のみを無条件に踏襲するのではなく、また権威にとらわれず、
新しい視点で多人数で再検証を重ねるなど、もっと神経を使ってほしかった。

もし、「家斉ご上覧」を証明する新資料が出てきたら、私は潔く降参します。

書いているうちに、やたら腹が立ってきた。短気は損気だよね。

ふうー…


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3枚の引札+1

三ノ宮卯之助
09 /10 2021
ここで引札(ひきふだ)について、聞きかじりの蘊蓄(うんちく)を傾けます。

引札とは、今でいう「広告」「宣伝ビラ」のことです。

幕末に刊行された「近世風俗志」(喜多川守貞)に、
「関東では「引札」、関西では「ちらし」と云う」とあります。

「ちらし」は、あまねく世上に散らして商品などを宣伝したから「散紙」
引札は、人の「気を引く札」の意味とか。

「飛羅(びら)という言い方もあります。
「ビラを配る」なんて、今でも言いますよね。

ビラはポスターのこと。「絵びら」は絵が描かれたビラのこと。
電信柱や塀なんかに貼った。

芝居、寄席、相撲、見世物の引札はみんな「びら」。
力持ち興行の引札も、ビラの一つ、「絵びら」です。

ここで、卯之助の「絵びら」を見ていきます。

この絵びら(引札)、現在、3種類残っています。

一つ目は、「昭和26年 木版刷り 高崎力・蔵」とありますから、
昭和26年に、卯之助生家にあった版木から摺ったものでしょう。

img20210719_21302130 (2)

その証拠は、横一文字の割れ目です。

版木は桜の木などの固い木を用いるそうですから割れにくい。

生家ではまな板として使っていたそうですから、その時、できたものかも。

こちらが版木です。(現在、所在不明)
※この版木、平成18年以降、何者かが借りに来て返却しないままだとか。

引札はポスターですから意外に大きい。

34.3×46.5㎝もあります。

IMG_3167.jpg

二つ目はこちらです。

割れ目のないきれいな摺りです。
絵柄はよく似ていますが、よく見ると、ところどころ違う個所があります。

一番上の赤丸からいきます。

力士の左手が消えています。
真ん中の赤丸では、
乗っている人のが消えていて、馬の衣装の模様も違います。

一番下、左から2番目の力士の持つ
一つ目は扇のかなめだけしかありませんが、こちらは全部描かれています。

三ノ宮卯之助の「助」の下に引いた横棒が、これにはありません。
人物の顔もかなり違います。まだありますが、割愛。

横一文字の割れ目がありませんから、先の版木とは別モノですね。

img20210719_18554454 (2)
三重県総合博物館所蔵

三つ目をお見せします。

かなり違います。

一番の違いは、右の表題です。

先の二つは「江戸力持 三ノ宮卯之助」ですが、
こちらは、
「江戸力持 岩附七五郎 栗橋徳治郎 岩附長治郎」です。

右上、青丸のにあった「卯之助」の名前も消えています。

青丸にあった文字は全部、消えています。

馬に乗る人の消えていたは再び現れて、1つ目の絵と同じになりました。

右端の桶から力士の腰まで延びていた小枝が消えています。

力士の持つの文字が全部「力持」に変っています。
左側の横倒しになったつり鐘から文字が消えています。

img20210719_18563747 (2)

ただし、この3点の引札で共通しているものもあります。

左横の但し書きです。(黄色の丸)

「御成先 御上覧仕候」

御成先とは、
将軍が諸大名に下賜した上屋敷や大名の菩提寺、神社などのことです。

ご上覧は将軍だけではなく、
藩主などに相撲や力持ちの妙技を見せた場合にも言います。

さて、この3つの引札、似ているようで違うし…。

ハテハテ?

そこで調べたら、版木というものは、

「版元の版権の移動で所有者が変わるたびに、
新たな人物名を彫った材に変更したりする」

そうです。

このことから、この3点ともそれぞれ別の版木から摺られたものかな、と。

「卯之助」の名を削って、新たに3人の名を彫った最後の引札は、
明らかに全く別の版木で作ったものということがわかります。

この3人、嘉永2年に卯之助と共に山梨県甲府市で興行していて、
太田町の稲積神社に連名の力石が残されています。

img20210907_16490915 (2)
「群馬・山梨の力石」高島愼助 岩田書院 2008

このことから、卯之助とはつながりがあったことが判明。

しかし、引札では大先輩・卯之助の名を消し、「御成 御上覧」は残した。

この3人、
例の「卯之助一座の御上覧」番付には名前が載っていないのに、
ここだけは、ちゃっかり流用した。

この流用がバレないためには、
卯之助没年の嘉永7年以降でなければまずいはず。

さては、卯之助の謎の死と何か関係があるのか!
なぁ~んて勘繰りたくなりますが、こうなると今度は、

「卯之助ミステリー劇場」になってしまいますから、憶測はこれにて、

お・し・ま・い

と、ここで、新情報です。

斎藤氏によると、
最近、ネットオークションにこれらと類似した引札が出たそうです。
憶測ですが様々な要素から、これが一番最初に彫られたものではないか、と。

なので、現在までに確認できたのは、「4種類」ということになりました。


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その人、誰?

三ノ宮卯之助
09 /07 2021
卯之助の顕彰碑建立に端を発した「いちゃもん」記事、
途中から、滑川市での新発見力石へ話が飛びました。

記憶を巻き戻して再開です。

この一連の記事を書くきっかけは、
顕彰碑の卯之助年譜に腑に落ちない部分があったからです。

一つ目は「家斉ご上覧」とあるが、「家斉」という証拠はない。
二つ目は上り坂に差し掛かり、江戸でその実力が知れたころを証明した、
「弘化年間の石」が、無視されてしまったこと。

卯之助の位牌の戒名についても、面白おかしく解釈していますが、
見当違いで、配慮を欠いている。

おいおい書いていきます。

     ーーーーー◇ーーーーー

まずは、木更津の船頭たちが江戸から運んできたという、
千葉県木更津市の観蔵寺の石の続きです。

さて、この石には、たくさんの文字が刻まれていますが、
これがさっぱり読めません。

意味が通じないのです。

石の発見者の高崎氏やそれを孫引きした研究会の方々が、
もう一歩踏み込んでいてくれたら、江戸のどこにあったのかなど
解明できたかも。ちょっと残念。

観蔵寺の石です。
観蔵寺1

文字の配列はどうなっているかというと、下図の通りです。

私自身が現地で見ていないので、
「越谷市郷土研究会」の資料をお借りしました。

拓本があればなぁと思いますが、今、手元にあるのはこれ一枚。
そこから、なけなしの知恵をしぼって見ていきます。

ただ、斎藤氏によると、この資料には、
「文政癸(未)」「未」「此(石)自持」「石」が抜けているとのこと。

私見では、最初の判読者の誤読があるのではと思っていますが、
ここでは資料に従って見ていきます。

IMG_4366 (3)
「木更津の卯之助石」西村 功

「五拾五貫余」の下部に、5人の名前が並んでいます。
この5人は世話人なのか? 

世話人なら、こんな場所へ刻まないし、
かといって、この5人も石を持ったとも思えません。

左端の「権治良」「本所 柳島 権治郎」ではないかと思っていますが、
これはあくまでも推測です。

卯之助と権治郎を結びつけたきっかけはこの石かも、と、
想像を膨らませていますが、証明は難しい。

これはひとまず置いといて、問題の個所に移ります。

「文政癸(未)冬十月六日」

癸未(みずのとひつじ)」は、文政6年(1823)のこと。
10月6日は、今の暦で11月初めごろ。

「冬」は、「立冬」という意味か?

IMG_4366 (5)

次がよくわからない。

「其人誰」(赤線)=「その人誰」なんて書き方するかなぁ。

なんだか出来の悪い日本語翻訳機か、音声文字変換を見ているみたいだ。

直訳すると、

「文政6年10月6日、この石持った、内田において子の刻。
その人誰、東都3有力」

意訳すると、こんな感じ。

「文政6年10月6日の子の刻、内田において、この石を持った人がいた。
その人は誰かと言うと、東都(江戸)の三人の有力な力持ちです」

通常は、持った人の名前のあとに「持之」と書きますが、
ここでは、「東都の有名な3人の力持ち」を強調したかったのか?

「於之内田」は、「内田という場所で」という意味か?

それで、次の「子刻」
何でこんな場所に時刻が来るのかわかりませんし、
力石に時刻まで彫るなんて、あり得ません。

それとも、
「内田子、之を刻む」なのか? 

でも、これもなんだか変だ。ここはひとまず「子刻」として、

子の刻は、午後11時から午前1時までの時刻です。

img20210815_14282379 (2)

そんな真夜中に力持ちをやったとも思えません。

「子の日」には、「子の刻参り」といって、
深夜にお参りをする風習があった。ことに、
正月の子の刻参りは新しい年の始まりで、神社に集まって年越しをした。

また、
年6回60日ごとに来る「甲子の日」は、運が開く日として、
大黒天の寺社へ深夜、お参りに行くことが盛んだった。

でも、この石の年月日と「子の刻参り」とは無関係みたいだし、

本当に人騒がせな「文章」です。

ちなみに、この2か月前の8月、大捕り物があった。
ゆすりや詐欺の大悪党・河内山宗俊が召し捕られて獄死。42歳だったとか。

そういう時代に、久太郎たち「江戸の3有力」は生きていたんですね。

この大悪党は、死後、日本左衛門同様、歌舞伎狂言に仕立てられて、
江戸っ子の人気を博した。

江戸っ子ってのは、こういうのが好きなんですね。
悪党をすぐ義賊にしてしまいます。

桃川燕国講談「河内山宗俊」より。坊さん姿が河内山宗俊。右は子分の権次。
jpegOutput (3)
国立国会図書館デジタルデータより

で、子の刻の次に来るのが「丑の刻」。

よく知られているのが「丑の刻まいり」です。

うらみのある相手の藁人形をつくって、丑三つ時に、
ご神木に5寸釘で打ち付けるという身の毛もよだつ行為です。

実は私、これを見たことがあるんです。当地に転居してきたころでした。
現場ではなくその痕跡だけ。しかも神社ではない場所で。

農道をテッペン近くまで歩いて行ったら、ガードレールに木がくくり付けてあって、

その木の途中に、ビニールで包んだ板が打ちつけてあって、
それにフォークがグサリ、突き刺してあった。

板に張り付けた紙を見たら、とんがった文字で恨みつらみが書き連ねてあった。

img20210905_11580721 (2)

見た瞬間,あ、これ、丑の刻まいりだな、と。

5寸釘じゃなくて、食事に使うフォークってのがまた異様で…。
硬い木の板にフォークが刺さるなんて、恨み骨髄って感じだった。

まだ新しかったので、
これを打ち付けた人の怨念や狂気が、生々しく残っているような気がして、

ゾーッ…。

でも、相手の名前は書いてなかったんですよ。

当時はまだ小さな集落だったし、この農道を通る人は限られていたから、
地元の人なら、恨んだ人も恨まれた人もすぐわかったはず。

ヨソモノの私には見当もつかなかったけれど、
怖い半分、やじ馬根性半分の私、あのときは、まさに、

「その人、誰?」

の心境でした。


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そばつぶさんの新発見!

そばつぶ
09 /04 2021
そばつぶさん、着々と成果をあげております。

今回は新発見の力石と、「盤持ち第2弾」をご報告します。

担ぐだけではなく、石も発見してしまうんですから、
凄いとしか言いようがありません。

まずは新発見の盤持ち石(力石)から。

これです。立派な石碑も建ててあります。

野々市白山
石川県野々市市本町・白山神社

他にこんな石も。
場所は同じ白山神社です。

「地面にあったので不明ですが、力石っぽいので」と、そばつぶさん。

こちらと、
野々市 本町 白山神社DSC_0754~2 (002)

こちら。

DSC_0753~2 (002)

うーん?

これ、難しいですね。

一つには、もし盤持ち石なら、
先の盤持ち石を保存するとき一緒に保存したはずだし、

もう一つには盤持ち石のようだけれど、すでに証言者がいなかったり、
文献としても残っていないので、というものです。

でも、捨てずに残してあるということは、
そばつぶさんが「力石っぽい」と感じたように、
地元の方にもそういう感触があったということかもしれません。

判定は今後に持ち越しですね。

さて、お待ちかね。
そばつぶさんの「担ぎましたーァ!」の第2弾、新作動画アップです。

場所は金沢市横川の横川日吉神社。

と、その前に、ここの盤持ち石(力石)をお見せします。

img20210827_19172116 (2)
「新発見・力石」高島愼助 斎藤保夫 岩田書院 2010

写真では小さく見えますが、3個とも横が70㎝前後の大きさです。

そばつぶさんの動画を見ると、
いかに大きな石か、おわかりいただけるかと思います。

それをなんと、3個全部担いじゃったっていうんですから、もうびっくり!

しかも何度失敗してもめげず、果敢に挑戦です。

こんな重い石に担げるまで挑戦した上、3個も担いだなんて、
怪力はともかく、その根性に驚きましたが、

私は心配性だから動画に向かって、「も、もうその辺で…」と。

で、この3個の石に刻字はありませんが、
それぞれ、「紫石」「赤石」それに、「そばつぶ」の愛称がついています。

「そばつぶさん」「そばつぶ石」を担いだ!

とにかく動画をご覧ください。



そのころ私は、そばつぶさんがここへ担ぎに行っているとは露知らず。

同じく予想もしていなかった斎藤氏から、こんなメールが。
「ひょっとしてそばつぶさんのネームは、このそばつぶ石からでは?」

早速、それをお伝えしたら、

そうです。
雨宮さんから横川日吉神社のメールがきたことは、本当にすごい偶然です!」
と、興奮気味のお返事。

「石川県にはほかにも「そばつぶ」という盤持ち石がありますが、
名前的に愛嬌があっていいかなと!

山椒は小粒でもピリリと辛い。

「そばつぶさん」も「そばつぶ石」も小粒ではありませんが、
どこまでも自然体で、万事、控えめ。

控えめではありますが、
その存在感は、見る者をピリリとさせるほど強烈です。


 ーーーーーこの虫、なんていう虫ですか?ーーーーー

突然ですが、虫に詳しい方、教えてください。

物干し竿にいました。左側に写っているのは洗濯ばさみです。


CIMG5638 (3)

「無視」しないで教えてくださいね!


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原点

みなさまからの力石1
09 /01 2021
今回、美山論文を目にして、浮き彫りになってきたことがあります。

それは、
同じアカデミックな体育史学の立場にありながら、
重量挙げの方々が、力石や石差しに言及し研究していたのに対し、

力石の研究者たちは力石のみに留まって、
重量挙げの世界へ踏み込もうとしなかったことです。

九州の美山豊(北九州大学教授)、東京の井口幸男(慶応義塾高校教師)、
この二人が戦前から取り組んできたのが重量挙げの普及でした。

井口幸男氏愛用のバーベル
秩父宮スポーツ博物館所蔵

しかし二人は、そのことのみにとらわれず、
石差しを欧米から来た重量挙げと「同質のもの」ととらえ、
力石からバーベルへの移行に注目。

その原点にいたのが、
神田川沿いにあった米穀市場の荷揚げ業「飯定組」の親方で、
大正・昭和初期の力持ち飯田(神田川)徳蔵だったことを公けにします。

各大学で力石研究が始まったのは戦後7年たってからですが、
重量挙げのこの二人は、戦前の早い時期から力石や石差しに言及。

美山は地元の北九州や富山で力持ちの調査までしていた。

そして「日本重量挙史」で、重量挙草創期にあった3つのグループの一つに、
飯田徳蔵の「神田川グループ」を挙げている。

徳蔵を重量挙げの草創期の人物と認めていたわけです。

下は、大正14年(1925)、重量挙の日朝対抗試合に出場した3人です。
左から飯田徳蔵、若木竹丸、徳蔵の甥の飯田一郎

tokuzou_juukiti_itirou (2)

井口もまた20歳年上の徳蔵を「力の大先輩」と称え、尊敬し続けた。

徳蔵の息子の定太郎が在籍した明治大学体育会ウエイトリフティング部は、
「徳蔵は日本の重量挙競技の原点」と賛辞を贈った。

しかし、力石研究者はどなたも、その徳蔵がバーベルを使ったことも
朝鮮の重量挙大会に出場したことにも触れていない。

これでは、徳蔵の存在意義も魅力も半減です。

徳蔵は力石とバーベルの分岐点にいた人で、ほかの力持ちとは、
実力はもちろん、発想の豊かさ、交流の広さが圧倒的に違います。

写真は、用具もなく練習もままならなかった若者たちのために、
徳蔵が秋葉原に自費で作った「神田川重量挙道場」です。

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その道場に通った井口は自著にこう書き残している。

「徳蔵氏はときどき道場に顔を出しては、
強くなれよ、韓国(朝鮮)に負けるな!」と激励されたが、
その顔が今も瞼(まぶた)に浮かぶ」

石差し日本一の男が、
当時、重量挙げ先進地だった朝鮮の選手たちにその力技を学び、
一線を退いた後は援助を惜しまず、後輩たちを見守り続けた。

しかし、終戦の翌・昭和21年5月、
一人息子が戦地から帰ってきた一週間後、急逝。55歳だった。

戦後、息子や甥たちが徳蔵の遺志をつぎ、活躍します。

昭和23年、日本国憲法発布を祝う記念演技が、
天皇・皇后、宮様方ご臨席のもと、明治神宮競技場で行われた。

5年前、若い学徒らが戦地へ出陣していった同じ会場での平和の祭典。
ちょっと複雑な思いがしますが、

これに徳蔵の息子や甥が出場した。

前から甥の飯田勝康、その後ろが息子の飯田定太郎。
56.jpg

下の写真は、飯田勝康の演技です。

勝康は井口と共に監督としてアジア大会やオリンピックに参加。
東京オリンピックの金メダリストの三宅選手のコーチも務めた。

しかし、井口が「勝ちゃん」と呼んでいた勝康は突然、他界。

井口は「もっと生きたかっただろうに」と慟哭しつつ、
「重量挙げの発展にあれほど尽くしてくれた勝ちゃん」の、
その恩に報いるためにせめて叙勲を、と奔走。

「葬儀の日に間に合わせることができた」と、自著に記している。

img015_20180909104440989.jpg

井口の同窓の美山は、昭和55年(1980)、急逝。

「食うのにも事欠く戦後、井口は奉仕的に一人で協会をけん引。
協会はできても経済的に貧困で、すべて自己負担

家庭経済もどん底においての奉仕は大変な負担であったが、
すべては重量挙げを愛し、普及させようとした彼の熱意の現われであった」

生前の美山からそう評価されていた井口幸男は、
平成5年(1993)、日本の重量挙げの基礎を固め、道をつくり、
あとを後輩たちに託してこの世を去った。享年81歳。

井口幸男氏です。
img20210830_11152715 (2)

滑川市立博物館の力石から、とんだ方向に行ってしまいましたが、お許しあれ。

すでにこの世を去った方々ばかりですが、
力石と力持ちの歴史や人物まで探求し、
こよなく愛してくれた重量挙げの先駆者たちに、改めて感謝したい。

また、貴重な情報をくださった
(株)ベースボール・マガジン社・相撲編集部の門脇利明氏と、
快く画像を提供してくださった滑川市立博物館に、心よりお礼申し上げます。

※このブログで私が最も力を入れて書いたのは「神田川徳蔵物語」です。
  お読みいただけたら幸いです。

※参考文献/「わがスポーツの軌跡」井口幸男 私家本 昭和61年
  この本はいつも目につくところに置いてあります。
  ページを開くと、著者の肉声が流れ出てくるように感じます。

※写真提供/飯田徳蔵のご子孫・縁者

※滑川市立博物館の企画展「なめりかわスポーツの輝き」は9月5日まで。


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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞