もし、生まれ変われたら
神田川徳蔵物語
DVDを見ました。
「学徒兵・許されざる帰還 =陸軍特攻隊の悲劇=」
2007年放送のNHKスペシャルです。
昭和18年6月、時の首相で陸軍大臣の東条英樹は戦局悪化の中、
「航空戦力の増強」を指示。
パイロット不足を補うため文系大学・高専生を繰り上げて卒業させ、
短期間の養成に着手、特別攻撃隊員として戦場へ送り出した。
この特攻という無謀な戦術の成り立ちには諸説があるようです。
素人の私にはとても入れない難しいテーマですが、
でも素人なりにこんな理解をしてみました。
初めはこれに反対する参謀が多かった。
しかし戦局の悪化で日本軍はアジア各地からことごとく撤退。
最後の砦となった沖縄で米軍の上陸を防がなければ、本土がやられてしまう。
それを阻止するには、全軍を特攻化するしかなかった。
また、「不時着したら帰ってこい」といわれ、
帰還したら上官から「ゆっくり休め」とねぎらわれたとの証言もある。
実際、帰還に際しては明文化されていて、
なんでもかんでも死んで来いなどということではなかった。
ただし次第に空文化。帰還しても何度も出撃命令が出て、
やっぱり生きては帰れなかった。
一つの事柄からすべては語れないけれど、
その一つの事例に出た証言もまた真実と捉えて、
DVD「学徒兵」の感想を述べてみます。
「遺書を書かせ、未熟な操縦のまま無線機も機関銃も取り外し、
爆弾と行きの燃料だけを積んだ特攻機で送り出して、
終戦までの1年にも満たない間に、約4000名もの若者を散華させた」
これもいろんなところで多く語られていることです。
だから、
「戦闘機に乗って敵機と機関銃で撃ちあって死ぬのならまだ納得いくが、
ただ敵艦に激突して死ねとは。それで軍神と美化するとは」
との怨嗟の声が起きた。

DVD「学徒兵」は、不時着などで生きて帰ってきた特攻隊員を、
人目につかないよう隔離・収容した「陸軍・振武寮」(福岡市)の真実を
世に知らしめたものでした。
寮には逃げ出せないように鉄条網が張り巡らされていたという。
そしてしばらくしたら、
今度はモーターボートなどの特攻隊員として各地へ送られた。
この寮を管理していたのが兵学校出身の軍人、K少佐で、
生還した学生たちを「なぜ死ななかったか。国賊だ」とののしり、
ビンタや竹刀でめった打ちにした。
耐え切れず割ったガラス片で自殺した若者もいたという。
K少佐の肉声が残されていた。戦後58年もたった2003年に語ったものだ。
「高等教育を受けたものはこっちの言いなりにならない。
法律とか政治を知っちゃって、
今の言葉で人の命は地球より重いなんて知っちゃうと死ぬのが怖くなるんだ」
「だから12、3歳で軍隊に入れればよい。洗脳しやすくなる」
「天皇直結の戦闘部隊は死なすわけにはいかんから、いい飛行機を与え、
特攻にはボロクソのをまわした」
この写真は、6500名もの学生による「学徒出陣式」です。
式典で答辞を読んだ学徒代表は戦場へ行くことなく、戦後は大学学長になった。

昭和18年10月21日、神宮外苑競技場
生き残った人がそのボロクソの特攻機について語っていた。
「まっすぐぶつかれない。舵が効かない。空中分解する。
だから敵艦にぶつからずにほとんどが海へ落ちた。
それを大本営発表では敵に大損害を与えたとウソを言い、
新聞もそう書いたので、国民はそれをみんな信じてしまった」
K少佐は戦後、会社社長になったものの遺族からの報復を恐れて、
枕元には軍刀を置き、拳銃は常に携帯していたという。
そのため80歳の時、銃刀法違反に問われた。
もし、遺族が尋ねてきたら撃ち殺すつもりだったのだろうか。
「そんなに死ぬのがいやか。卑怯者」と言っていた自身は、
死ぬ間際まで帰還兵を侮辱し遺族に怯えつつ、2003年、86歳で死去。
そのK少佐の上官だったS中将は、
「君たちだけを死なせない。自分も後からいく」と言って多くの隊員を送り出したが、
自決することなく生きながらえ、95歳の天寿を全うした。
「若者らはみんな自ら志願した」という話もよく聞かれます。
「日本や家族のために志願した」という純粋な気持ちがあったのも事実なら、
「熱望す。希望す。希望せずと書いた紙を渡されて、希望せずに○をつけたら
ひどい制裁を受けたり、「全員、熱望すだった」と虚偽の説明を受けたりした」
それもまた真実だっただろうと思います。
いえることは、時の為政者のかじ取り一つで、
年端もいかない少年や学半ばの若者たちの生殺まで自由にできたという事実。
それを許してしまった時代の空気が私には怖い。
戦後73年たった今、こんなことをいう政治家が出て来た。
「主権は国家にある。国民に主権なんかいらない。基本的人権をはく奪せよ」
戦時中に学徒兵に対して軍人が発した
「個人主義だ、自由主義だとぬかす腐ったキサマらを叩き直してやる」を
再び聞いた思いがして、ぞっとした。
今の政治家が発した言葉が、あの狂気の時代や、
暴力と人間性破壊が荒れ狂った「振武寮」と重なると思うのは私だけだろうか。
DVDの中で生還した元・特攻隊員がこんなことを言っていた。
一緒に飛び立って戦死した親友は、広島師範で教師をめざしていた。
その彼が出撃前夜、こう言った。

教師の夢も果たせず戦死した若者。
「もし生まれ変わることができたなら、戦争のない国に生まれたい。
そして今度こそ教師になって、子供たちと過ごしたい」
※参考文献・画像提供/「眼で見る昭和」朝日新聞社 昭和50年
/「学徒兵・許されざる帰還」NHKエンタープライズ 2007
/「悲傷 少年兵の戦歴」毎日新聞社 昭和45年
「学徒兵・許されざる帰還 =陸軍特攻隊の悲劇=」
2007年放送のNHKスペシャルです。
昭和18年6月、時の首相で陸軍大臣の東条英樹は戦局悪化の中、
「航空戦力の増強」を指示。
パイロット不足を補うため文系大学・高専生を繰り上げて卒業させ、
短期間の養成に着手、特別攻撃隊員として戦場へ送り出した。
この特攻という無謀な戦術の成り立ちには諸説があるようです。
素人の私にはとても入れない難しいテーマですが、
でも素人なりにこんな理解をしてみました。
初めはこれに反対する参謀が多かった。
しかし戦局の悪化で日本軍はアジア各地からことごとく撤退。
最後の砦となった沖縄で米軍の上陸を防がなければ、本土がやられてしまう。
それを阻止するには、全軍を特攻化するしかなかった。
また、「不時着したら帰ってこい」といわれ、
帰還したら上官から「ゆっくり休め」とねぎらわれたとの証言もある。
実際、帰還に際しては明文化されていて、
なんでもかんでも死んで来いなどということではなかった。
ただし次第に空文化。帰還しても何度も出撃命令が出て、
やっぱり生きては帰れなかった。
一つの事柄からすべては語れないけれど、
その一つの事例に出た証言もまた真実と捉えて、
DVD「学徒兵」の感想を述べてみます。
「遺書を書かせ、未熟な操縦のまま無線機も機関銃も取り外し、
爆弾と行きの燃料だけを積んだ特攻機で送り出して、
終戦までの1年にも満たない間に、約4000名もの若者を散華させた」
これもいろんなところで多く語られていることです。
だから、
「戦闘機に乗って敵機と機関銃で撃ちあって死ぬのならまだ納得いくが、
ただ敵艦に激突して死ねとは。それで軍神と美化するとは」
との怨嗟の声が起きた。

DVD「学徒兵」は、不時着などで生きて帰ってきた特攻隊員を、
人目につかないよう隔離・収容した「陸軍・振武寮」(福岡市)の真実を
世に知らしめたものでした。
寮には逃げ出せないように鉄条網が張り巡らされていたという。
そしてしばらくしたら、
今度はモーターボートなどの特攻隊員として各地へ送られた。
この寮を管理していたのが兵学校出身の軍人、K少佐で、
生還した学生たちを「なぜ死ななかったか。国賊だ」とののしり、
ビンタや竹刀でめった打ちにした。
耐え切れず割ったガラス片で自殺した若者もいたという。
K少佐の肉声が残されていた。戦後58年もたった2003年に語ったものだ。
「高等教育を受けたものはこっちの言いなりにならない。
法律とか政治を知っちゃって、
今の言葉で人の命は地球より重いなんて知っちゃうと死ぬのが怖くなるんだ」
「だから12、3歳で軍隊に入れればよい。洗脳しやすくなる」
「天皇直結の戦闘部隊は死なすわけにはいかんから、いい飛行機を与え、
特攻にはボロクソのをまわした」
この写真は、6500名もの学生による「学徒出陣式」です。
式典で答辞を読んだ学徒代表は戦場へ行くことなく、戦後は大学学長になった。

昭和18年10月21日、神宮外苑競技場
生き残った人がそのボロクソの特攻機について語っていた。
「まっすぐぶつかれない。舵が効かない。空中分解する。
だから敵艦にぶつからずにほとんどが海へ落ちた。
それを大本営発表では敵に大損害を与えたとウソを言い、
新聞もそう書いたので、国民はそれをみんな信じてしまった」
K少佐は戦後、会社社長になったものの遺族からの報復を恐れて、
枕元には軍刀を置き、拳銃は常に携帯していたという。
そのため80歳の時、銃刀法違反に問われた。
もし、遺族が尋ねてきたら撃ち殺すつもりだったのだろうか。
「そんなに死ぬのがいやか。卑怯者」と言っていた自身は、
死ぬ間際まで帰還兵を侮辱し遺族に怯えつつ、2003年、86歳で死去。
そのK少佐の上官だったS中将は、
「君たちだけを死なせない。自分も後からいく」と言って多くの隊員を送り出したが、
自決することなく生きながらえ、95歳の天寿を全うした。
「若者らはみんな自ら志願した」という話もよく聞かれます。
「日本や家族のために志願した」という純粋な気持ちがあったのも事実なら、
「熱望す。希望す。希望せずと書いた紙を渡されて、希望せずに○をつけたら
ひどい制裁を受けたり、「全員、熱望すだった」と虚偽の説明を受けたりした」
それもまた真実だっただろうと思います。
いえることは、時の為政者のかじ取り一つで、
年端もいかない少年や学半ばの若者たちの生殺まで自由にできたという事実。
それを許してしまった時代の空気が私には怖い。
戦後73年たった今、こんなことをいう政治家が出て来た。
「主権は国家にある。国民に主権なんかいらない。基本的人権をはく奪せよ」
戦時中に学徒兵に対して軍人が発した
「個人主義だ、自由主義だとぬかす腐ったキサマらを叩き直してやる」を
再び聞いた思いがして、ぞっとした。
今の政治家が発した言葉が、あの狂気の時代や、
暴力と人間性破壊が荒れ狂った「振武寮」と重なると思うのは私だけだろうか。
DVDの中で生還した元・特攻隊員がこんなことを言っていた。
一緒に飛び立って戦死した親友は、広島師範で教師をめざしていた。
その彼が出撃前夜、こう言った。

教師の夢も果たせず戦死した若者。
「もし生まれ変わることができたなら、戦争のない国に生まれたい。
そして今度こそ教師になって、子供たちと過ごしたい」
※参考文献・画像提供/「眼で見る昭和」朝日新聞社 昭和50年
/「学徒兵・許されざる帰還」NHKエンタープライズ 2007
/「悲傷 少年兵の戦歴」毎日新聞社 昭和45年