fc2ブログ

もし、生まれ変われたら

神田川徳蔵物語
08 /28 2018
DVDを見ました。
「学徒兵・許されざる帰還 =陸軍特攻隊の悲劇=」
2007年放送のNHKスペシャルです。

昭和18年6月、時の首相で陸軍大臣の東条英樹は戦局悪化の中、
「航空戦力の増強」を指示。
パイロット不足を補うため文系大学・高専生を繰り上げて卒業させ、
短期間の養成に着手、特別攻撃隊員として戦場へ送り出した。

この特攻という無謀な戦術の成り立ちには諸説があるようです。
素人の私にはとても入れない難しいテーマですが、
でも素人なりにこんな理解をしてみました。

初めはこれに反対する参謀が多かった。
しかし戦局の悪化で日本軍はアジア各地からことごとく撤退。
最後の砦となった沖縄で米軍の上陸を防がなければ、本土がやられてしまう。
それを阻止するには、全軍を特攻化するしかなかった。

また、「不時着したら帰ってこい」といわれ、
帰還したら上官から「ゆっくり休め」とねぎらわれたとの証言もある。
実際、帰還に際しては明文化されていて、
なんでもかんでも死んで来いなどということではなかった。

ただし次第に空文化。帰還しても何度も出撃命令が出て、
やっぱり生きては帰れなかった。

一つの事柄からすべては語れないけれど、
その一つの事例に出た証言もまた真実と捉えて、
DVD「学徒兵」の感想を述べてみます。

「遺書を書かせ、未熟な操縦のまま無線機も機関銃も取り外し、
爆弾と行きの燃料だけを積んだ特攻機で送り出して、
終戦までの1年にも満たない間に、約4000名もの若者を散華させた」

これもいろんなところで多く語られていることです。
だから、
「戦闘機に乗って敵機と機関銃で撃ちあって死ぬのならまだ納得いくが、
ただ敵艦に激突して死ねとは。それで軍神と美化するとは」
との怨嗟の声が起きた。

img116_20180827070059f0d.jpg

DVD「学徒兵」は、不時着などで生きて帰ってきた特攻隊員を、
人目につかないよう隔離・収容した「陸軍・振武寮」(福岡市)の真実を
世に知らしめたものでした。

寮には逃げ出せないように鉄条網が張り巡らされていたという。
そしてしばらくしたら、
今度はモーターボートなどの特攻隊員として各地へ送られた。

この寮を管理していたのが兵学校出身の軍人、K少佐で、
生還した学生たちを「なぜ死ななかったか。国賊だ」とののしり、
ビンタや竹刀でめった打ちにした。
耐え切れず割ったガラス片で自殺した若者もいたという。

K少佐の肉声が残されていた。戦後58年もたった2003年に語ったものだ。

「高等教育を受けたものはこっちの言いなりにならない。
法律とか政治を知っちゃって、
今の言葉で人の命は地球より重いなんて知っちゃうと死ぬのが怖くなるんだ」

「だから12、3歳で軍隊に入れればよい。洗脳しやすくなる」
「天皇直結の戦闘部隊は死なすわけにはいかんから、いい飛行機を与え、
特攻にはボロクソのをまわした」

この写真は、6500名もの学生による「学徒出陣式」です。
式典で答辞を読んだ学徒代表は戦場へ行くことなく、戦後は大学学長になった。

img009_2018082707054888b.jpg
昭和18年10月21日、神宮外苑競技場

生き残った人がそのボロクソの特攻機について語っていた。

「まっすぐぶつかれない。舵が効かない。空中分解する。
だから敵艦にぶつからずにほとんどが海へ落ちた。
それを大本営発表では敵に大損害を与えたとウソを言い、
新聞もそう書いたので、国民はそれをみんな信じてしまった」

K少佐は戦後、会社社長になったものの遺族からの報復を恐れて、
枕元には軍刀を置き、拳銃は常に携帯していたという。
そのため80歳の時、銃刀法違反に問われた。

もし、遺族が尋ねてきたら撃ち殺すつもりだったのだろうか。

「そんなに死ぬのがいやか。卑怯者」と言っていた自身は、
死ぬ間際まで帰還兵を侮辱し遺族に怯えつつ、2003年、86歳で死去。

そのK少佐の上官だったS中将は、
「君たちだけを死なせない。自分も後からいく」と言って多くの隊員を送り出したが、
自決することなく生きながらえ、95歳の天寿を全うした。

「若者らはみんな自ら志願した」という話もよく聞かれます。

「日本や家族のために志願した」という純粋な気持ちがあったのも事実なら、
「熱望す。希望す。希望せずと書いた紙を渡されて、希望せずに○をつけたら
ひどい制裁を受けたり、「全員、熱望すだった」と虚偽の説明を受けたりした」

それもまた真実だっただろうと思います。

いえることは、時の為政者のかじ取り一つで、
年端もいかない少年や学半ばの若者たちの生殺まで自由にできたという事実。
それを許してしまった時代の空気が私には怖い。

戦後73年たった今、こんなことをいう政治家が出て来た。
「主権は国家にある。国民に主権なんかいらない。基本的人権をはく奪せよ」

戦時中に学徒兵に対して軍人が発した
「個人主義だ、自由主義だとぬかす腐ったキサマらを叩き直してやる」を
再び聞いた思いがして、ぞっとした。

今の政治家が発した言葉が、あの狂気の時代や、
暴力と人間性破壊が荒れ狂った「振武寮」と重なると思うのは私だけだろうか。

DVDの中で生還した元・特攻隊員がこんなことを言っていた。

一緒に飛び立って戦死した親友は、広島師範で教師をめざしていた。
その彼が出撃前夜、こう言った。

img014_20180827073857a9e.jpg
教師の夢も果たせず戦死した若者。

「もし生まれ変わることができたなら、戦争のない国に生まれたい。
そして今度こそ教師になって、子供たちと過ごしたい」


※参考文献・画像提供/「眼で見る昭和」朝日新聞社 昭和50年
     /「学徒兵・許されざる帰還」NHKエンタープライズ 2007 
      /「悲傷 少年兵の戦歴」毎日新聞社 昭和45年         

下志津陸軍飛行学校

神田川徳蔵物語
08 /25 2018
「定太郎アルバム」には、軍服姿の定太郎の写真がたくさんあります。
初々しい少年らしい笑顔のものから、大人びて厳しい表情のものまでさまざま。

右が飯田定太郎
37 (2)

いつ、どんな形で航空隊員になったのか、それを知りたくて四苦八苦。
そんな私を尻目に、
丸顔に垂れ目の定太郎こと「タロさん」が、
「わかるかな?」と言いたげに、写真の中で笑っています。

ちなみに「タロさん」とは、
縁者のEさん姉妹が呼んでいた「定太郎おじさん」の愛称です。

ここからは推測しまくりで進んでいきます。

アルバムには写真をはがした跡がいくつかあります。
でも説明だけは残されていました。
その中で気になったのがこちらです。

32.jpg

右端に「昭和十五年九月十九日」
左端に「下志津廠舎」 

もしかしたらこの写真が「下志津廠舎」だろうか。
そして「タロさん」は前列左の人のような…。

33 (2)

千葉県に「下志津陸軍飛行学校」
(現・陸上自衛隊下志津駐屯地)がありましたから、
19歳になった定太郎は、この飛行学校にいたのかもしれません。

ざっとおさらいすると、
昭和15年に旧制豊山中学を卒業した定太郎は、明治大学へ進学。
その年、井口幸男が勤務する慶応義塾で、重量挙げの模範演技を披露。
7月には神田川倶楽部主催の「重量挙げ競技大会」へ出場。

で、その2か月後に下志津の飛行学校へ入ったことになります。

この飛行学校は主に空中偵察や特攻隊のための捜査誘導
戦果確認の任務や写真撮影などを教えていたそうです。

でも終戦の昭和20年まであと5年もありますし、
この飛行学校の修業期間は3か月から半年だったそうですから、
その後、大学へ復学したのではないかと私はみています。

井口は「明治大学卒業後、航空隊へ」と書いていますから、
定太郎は、特攻隊が編成された昭和19年から20年にかけて召集され、
再び、戦闘機乗りになったのではないだろうか。

で、気になるのが前回お見せした
雪を被った富士山を背景にしたあの写真です。
あの富士山、ここのに似ています。

img106_20180825065020daa.jpgimg113_201808250651190cc.jpg
静岡県富士宮市上井出

これは富士山の広大な裾野にあった「陸軍少年戦車兵学校」です。
戦車学校は、少年飛行兵学校と人気を二分した少年たち憧れの養成所でした。
入学資格は15歳からだったので、この年齢になるのを待っていたという。

しかし、この戦車学校出身の少年兵の多くがサイパン島で玉砕。
また、戦地へ向かう船が撃沈されて海に沈むとき、暗い波間に、
「おかあさん、おかあさん」と叫ぶ少年兵たちの声が聞こえたという。

飛行兵は「若鷲」といいましたが、
戦車兵たちは「若獅子」と呼ばれていたそうです。

今、戦車学校跡にはサイパン島から引き揚げられた戦車が展示され、
若獅子神社、若獅子の塔が雄大な富士を背に建っています。

img114_201808250443318bf.jpg
静岡県富士宮市上井出

定太郎がいたと思われる下志津陸軍飛行学校と戦車兵学校は
まったく別物。だから関係ないとは思いますが、
だったら、あの富士山の写真はいったいどこなんだろう。

「謎解き」は、まだ 続きます。



※参考文献・画像提供/「悲傷 少年兵の戦歴・平和の礎となった15歳」
               毎日新聞社 昭和45年
              /機関誌「若獅子」元陸軍少年戦車兵学校同窓会
※画像提供/飯田定太郎子孫

赤紙

神田川徳蔵物語
08 /21 2018
戦後73年目の夏だからというわけでもないのですが、
太平洋戦争の話を続けます。

飯田徳蔵の一人息子の定太郎にも、
赤紙(召集令状)が届きました。

戦争末期は跡取り息子でも容赦なかったようで、
「兄たちがすべて戦死したので、一人残った母親を残しては死ねない」と
召集を拒んだ青年に軍人がビンタを食らわせて、
戦死させてしまった話もあります。

平和の時代に私設軍隊を持ち軍服で自死した作家の三島由紀夫には、
戦時下の徴兵検査会場から「肺疾患」と偽って逃げた話が伝わっていますが、
真偽のほどはどうなんでしょう。

下の写真は、「武運長久」や寄せ書きが書かれた日の丸を背に、
白いふんどし姿の定太郎が収まっている出征記念の写真です。

縁者のEさんは「なんかいやらしい写真」と恥かしそうでしたが、
まだ戦争のにおいが残っていた時代に育った私には、
「日本男児の心意気」と映ります。

定太郎出征祝いほか

定太郎がどこの部隊へ入ったかは、はっきりしません。
唯一わかるのが、井口幸男「わがスポーツの軌跡」です。
この中で井口は、こう言っています。

「彼は明治大学卒業後、召集され航空隊に配属された。
単身操縦をし、生死の境をさまよった歴戦の勇士である」

「父は明治大学へ行ったかどうかわからない」
と定太郎の娘さんはおっしゃったそうです。

ですが、「明治大学体育会ウエイトリフティング部」公式HPに、
「明大ウエイト初代OB」とありますし、
昭和15年、井口は勤務先の慶応義塾で明大の学生だった定太郎に
重量挙げの模範演技をしてもらっていますから、間違いないと思います。

これは軍隊での写真でしょうか。
「B組 相撲部」と書いた下にそれぞれの名が記されています。
前回載せた「相撲で優勝」のときの定太郎は旧制豊山中学の5年生で18歳。

ここに写っている少年たちは、そのときの学友たちでしょうか。
どの顔にも、まだ幼さが残っています。

前列左端は「定チャン」とありますから、これが定太郎ですね。

27.jpg

次の写真をご覧ください。
笑顔が消えています。
前列右端が定太郎ではないかと思います。

急に大人びて見えます。

背後に大きく富士山が写っています。
富士の形、大きさから、
これは静岡県内で撮影されたものだろうと推測しました。

36.jpg

井口は「定太郎は航空隊に配属されて、単身操縦した」と書いていますから、
特攻隊員として訓練を受けていた可能性が大です。

ただそれが海軍なのか陸軍なのかがわかりません。
静岡県内にはそのどちらもありました。

次回はその跡地を追っていきます。

柏戸関と大正大学

神田川徳蔵物語
08 /16 2018
新情報が入りましたので、一部訂正しました。

※もう一つ、私の推理を載せました。

    ーーーーー◇ーーーーー

飯田定太郎が残した「定太郎アルバム」に、
相撲の写真が出てきます。

相撲といえば父が熱心にテレビ観戦をしていた記憶ぐらいで、
私自身はまともに見たことがありません。
なので、今回はアルバムにあった写真を並べるだけにとどめます。

写っているお相撲さんは「第47代横綱・柏戸」です。
柏戸剛(1938~1996)。山形県鶴岡市出身。伊勢ノ海部屋。
名横綱・大鵬と共に「柏鵬時代」といわれた相撲の黄金時代を築いた。

この写真、いつごろのものかわかりません。
柏戸さん、まだ若いですね。それにしても大きな体。
足元にバーベルが置かれていますが、
このころ、お相撲さんも使っていたのでしょうか。

前列にいる女の子は定太郎の娘さんです。

22350.jpeg

上の写真の続きです。
バーベルを挙げて見せる柏戸関。
周りの大学生はどこの学生さんでしょうか。

門柱に「伊勢…」と書かれていますので、
「伊勢ノ海部屋」の前で撮影したことがわかります。

22351.jpeg

次の写真は、上2枚と同じ日の同じ場所で撮影したもののようです。
柏戸関をはさんで、右に飯田定太郎、左は定太郎のさんです。
珍しいチャイナドレスを着ています。

定太郎は従兄弟の勝康井口幸男らとともに、
たびたびアジア大会などに出掛けていたので、そのお土産かも。

私もお土産にいただいたチャイナドレスを持っていますが、
一度も着ないまま、今もタンスにあります。
群青色の地にピンクのバラを刺繍したドレスです。
今晩あたり着てみようかしら。

定太郎の娘さんは現在、埼玉県で中華料理屋を経営されています。

22352.jpeg

次の写真をご覧ください。

裏書はありませんが、
「優勝盃」の文字の横に「大正大学・相撲部」とあります。
上の写真3枚は戦後のものですが、この写真は戦前の写真です。

※埼玉の斎藤氏から最後の写真の新たな情報をいただきました。
 アルバムの端に書き込みがあったとのことです。

「昭和拾四年六月 
  第三回 芝中対抗戦 豊中面目の優勝 
  
後列左から4人目が飯田定太郎、18歳。
欄外に「輝坊すかすな」の書き込みあり」

ということは、このとき定太郎は「豊中」の生徒で、
この相撲大会は、大正大学主催ということでしょうか。
 
そういえば、前回掲載した写真、あの
「神田川道場でバーベルを挙げている定太郎とそれを囲んだ生徒」の
その中のメガネの少年と似た人がこの写真にもいますね。

定太郎と大正大学とのつながりは、このころからでしょうか。
また「豊中」とはどこの学校名かご存知の方、いらっしゃいませんか?

26.jpg

井口幸男の著書には「定太郎は明治大学出身」とありましたが、
これらの写真を見る限り、大正大学とも深く関わっていたことがわかります。

伊勢ノ海部屋に柏戸関を訪問したのは、明治大学の学生さんたちか?
それとも大正大学なのか、わかりませんが、
引率者は定太郎だったに違いありません。

柏戸関定太郎大正大学のつながり。

もうちょっと知りたいところですが、残念!
写真の中の方やご子孫が気付いてくださればいいのですが…。

       ーーーーー◇ーーーーー

●私の推理(間違っていたらご指摘を)

優勝盃を持った相撲部の写真について。

※飯田定太郎が在学していた「豊中」とは「豊山中学」ではないだろうか。
この学校は、真言宗新義派・護国寺(東京都文京区)が設立した学林。
大学林(豊山大学)は、のちに大正大学に組み込まれた。
中学林は明治36年に豊山中学となり、
昭和27年、日本大学に吸収され、付属中学・高等学校となった。

相撲の対戦相手の「芝中学」は、
浄土宗・芝の増上寺(東京都港区)が明治39年に設立。
現在は芝学園の男子のみの中高一貫教育の芝中学・高等学校。

何れも戦前までは私立の旧制中学。
当時から現在に至るまで、学者、政治家、実業家、スポーツ選手、俳優、芸術家など
多彩な人材を輩出している。
坂口安吾(小説家)、安西水丸(イラストレーター)=豊山
中嶋誠之助(なんでも鑑定団)、篠山紀信(写真家)=芝  など。

井口幸男の執念

神田川徳蔵物語
08 /12 2018
日本ウエイトリフティングの草創期を支えた井口幸男
その井口が召集されたのは25歳のとき。すでに妻も子もある身だった。

2年3か月の間、中国大陸を転戦。

「ずいぶん弾丸の下をくぐった。栄養失調で体がむくみ歩けなくなった。
行き倒れの状態で破壊された民家に倒れ込み、そのまま寝てしまった。
翌朝傍らに、すでに事切れた戦友を見た。
彼は鳥のような骨だけの手で、妻の写真を胸に抱いていた」

井口は敗戦直後のこんな話も著書に残しています。

ある日、敗戦国日本に進駐してきた米国軍人の訪問を受け、
一緒に重量挙げの練習をするようになった。

この写真は駐留軍のトラック修理場で練習する井口と米国軍人です。

img073.jpg

米国海軍軍人との練習では毎回、食べきれないほどのご馳走を出され、
バーベルまでプレゼントされて、井口はつくづく思った

「こんなに物資の豊富な国と戦争して勝てるはずがない。
馬鹿なことをしたものだ」

話を戦時中に戻します。

昭和14年(1939)暮れ、井口は無事日本へ帰還。
しかし帰ってきたものの、戦場での労働賃の日本銀行債権は紙くず同然で、
何の役にもたたない。すぐ仕事探しに奔走した。

翌・昭和15年(1940)1月、ようやく慶応義塾普通部に就職。
教師になるとすぐ、重量挙部創設に動き出した。
これが日本最初の重量挙部となった。

この譜面は、井口が部員らと共に「♪燃ゆる血潮にみなぎる若さ」と歌った
「ケイオー ウエイトリフティングクラブの歌」です。

img082.jpg
作詞作曲/広門貞男(昭和27年文科卒)

しかし、クラブは設立したものの、
当時は、「低級なスポーツ」として敬遠されていたため、
希望者が集まらない。鉄不足で用具はトロッコの車輪2個だけ。

だが、努力の甲斐あって少しずつ賛同者も増えていき、
国際用具が揃い始めた。部員も5人になった。

そこで、宣伝すればもっと理解されるのでは、と考えた井口は、
当時、明治大学の学生だった飯田定太郎を招き、
全校生徒が集合する機会に福沢記念館で部員とともに紹介演技を試みた。

写真は徳蔵が作った「神田川道場」でバーベルをあげる定太郎です。
横に1年前、連盟主催の大会で優勝したときの賞状とカップが見えます。

周囲の学生は慶応の学生さんでしょうか?
ご存知の方がいらっしゃったらぜひ、ご教示ください。

kandagawa_doujou_s15_2.jpg

校長に頼み込み、定太郎を招いて披露した公開演技

「これで大変な反響があるはずだと思ったが、
案に相違して部員は増えなかった」という結果に終わってしまいます。

こちらは同じ年の7月7日に国民体育館で開催された
神田川主催 「第一回近縣重量挙競技選手権大会」です。

前列中央の袴姿、左が一郎勝康の父、飯田隆四郎
右が定太郎の父、飯田徳蔵です。

徳蔵さん、めっきり老け込んだような…。

徳蔵から一人おいた前列右端の人物は、井口幸男に似ています。

kandagawa_WL_kyougi.jpeg
昭和15年7月7日

低級なスポーツと嘲笑され続けたウエイトリフティングが、
立派なスポーツとして国民に認知されるには、長い歳月がかかった。

その機会がようやくやってきたのは、戦後19年後のこと。

もはや戦後ではないといわれた昭和39年(1964)、
東京オリンピックが華々しく開催されて日本列島は熱狂した。
私も東京の空に航空機が描く五輪の輪を見上げていた一人です。

このオリンピックで、重量挙げの三宅義信選手が金メダルを勝ち取ったことで、
世間が抱いていた「ただ馬鹿力を出すだけのもの」という偏見は、
たちまち消えていったという。

写真は、東京オリンピック出場の7人の重量挙げ選手たちです。
嬉しいことにこの中に、わが静岡県出身の三輪定広選手がいます。

img093_20180811111950128.jpg

一ノ関史郎 3位、古山征男 6位=バンタム級
三宅義信 1位、福田 弘 4位=フェザー級
山崎 弘 3位=ライト級
大内 仁3位、三輪定広5位=ミドル級

監督 井口幸男 コーチ 小林 努 

金1個、銅3個、全員入賞という偉業を成し遂げたのです。 

これをきっかけに、
今まで資産家の個人や企業に頼っていた日本ウエイトリフティング協会は、
国から支援を受けられるようになり「安堵した」と井口は書いている。

そして長年、金メダリスト・三宅選手のコーチを務めたのが、
徳蔵の甥、飯田勝康だったのです。
 

●先に「勝康は東京オリンピック直前に病死」と書きましたが、
その後の調べで間違いと判明。訂正しました。なお正確な没年は不明。

※画像提供・参考文献/「わがスポーツの軌跡」井口幸男 私家本 昭和61年
※画像提供/飯田定太郎子孫
※参考文献/「静岡県昭和人物誌」静岡新聞社 1990

つかの間の青春

神田川徳蔵物語
08 /07 2018
二千万人が特攻で死ねば、日本は勝てる」

これは先の太平洋戦争のときの軍上層部の言葉です。

負け戦が濃厚になりつつあった戦争末期、
軍の上層部は「特攻」という
若者一人がアメリカの軍艦に体当たりする戦法を次々と考え出した。
  
戦闘機で敵艦に突っ込む神風特攻
爆薬を積んだモーターボートによる水上特攻
潜水服で海底を歩き、
爆薬をつけた竹ざおで敵艦の底を爆破させる水中特攻

14,5歳の少年が戦車で突っ込む「少年戦車隊」もあった。

写真はベニヤ板で作った陸軍の特攻モーターボート「マルレ」です。
これに爆薬を積んで敵艦に体当たりした。沖縄やフィリピンで使われた。
海軍で作ったのが「震洋」。
「太平洋を震撼させる」という意味だそうです。

img060_2018080704444055e.jpg

どれも生きては帰れない戦法です。

戦後しばらくして、同じ軍人からこう批判された。

「作戦の神さまと言われた人たちが自己陶酔のあげく、
人命軽視をして、玉砕主義という机上の作戦を立てた」

下の写真は明治大学卒業後、召集されて海軍航空予科に入隊した
徳蔵の息子・定太郎のアルバムです。

16.jpg

小学1年生のときからの写真が収められていて、
どの写真にも、たれ目の定太郎が人懐っこい笑顔で写っています。

昭和13年(1938)、17歳。学友と。
真ん中が飯田定太郎。
それぞれ学生服が異なることから、幼友達でしょうか。

63_十一月六日補正済み

こちらは翌・昭和14年(1934)、
18歳になった定太郎(前列右から3人目)の「初めての新年会」です。

袴姿、背広姿、職人風、学生服とさまざまな18歳たちです。

定太郎1

アメリカの戦闘機・B29が初めて東京に現れたのが昭和19年。
以後、日本全土が波状的に大空襲を受けて、焦土と化していきます。

みんなが笑顔で写真に納まっている「初めての新年会」。

召集までのつかの間訪れた青春のひとこまです。



※画像提供/定太郎子孫
※参考文献/「図解・特攻のすべて」近現代史編纂会 山川出版社 2013
        「人間機雷・伏龍特攻隊」瀬口晴義 講談社 2005
        「天皇と特攻隊」太田尚樹 講談社 2009

     ーーーーー◇ーーーーー

広島で原爆に遭い、一人ぼっちで病気と闘って逝った山の先輩を始め、
広島・長崎で被曝した方々、
先の戦争で命を失くし傷ついた日本及び近隣諸国のすべての方々、
そして、
あの戦争を思い出さずにはいられないこの暑い夏の日にご逝去された
翁長雄志沖縄県知事のご冥福を心からお祈りいたします。

危機一髪

できごと①
08 /05 2018
肩から腕にかけての痛みがひどくなり、この暑さの中、整形外科へ。

レントゲンに石灰化した大きな白いものが映っていて、
お医者さんから「かなり前に何かの衝撃を受けたはず」といわれたけれど、

う~ん…。覚えがない。

「五十肩になっている」と言われて、
おっ! 五十歳の肩とは若いじゃないの、などとバカなこと考えて…。 

一年ぐらいで治るといわれて、とりあえず炎症止めの注射をチクリ。
注射が苦手な私の緊張した顔を見て、看護師さんが笑っていた。

で、その帰り、私、危なかったんです。
炎天下の人っ子一人通らない停留所でバスを待っていたら、
石垣の角から、アロハ風のシャツを着た男がふいに現れたのです。

足が悪いようで杖を突いていましたが、金属製の手製みたいな杖で、
それがガチャッ、ガチャッと甲高い音をたてて近づいてきた。
バスに乗るのかと思ったら、どうもそうではない素振り。

車道より一段高くなった狭い歩道なので、
通りやすいように石垣に身を寄せて道をあけました。
でも通過せず、そのまま私の前で止まったと思ったら、
うつむいたまま、いきなりドスの利いた低い声でこう言ったのです。

「恥知らずな人間のクズ!」

な、なに!? 
あまりの予期せぬ暴言に、私の頭は真っ白。

とっさに浮かんだのは、
見知らぬ老人から杖で殴られて鼻の骨を折った女子高生のニュース。

後ろの石垣と停留所の標識とのわずかな空間にいた私です。
逃げ場はないし、やられると思った瞬間、
天の助け。
タイミングよくバスがやってきて、スーッと止まってくれたのです。

男はツバのある帽子をすっぽりかぶっていて、顔は全く見えません。
故意にそういうかぶり方をしていたのでしょう。
でも、
帽子の後ろから白髪交じりの髪が見えたので、初老の男だとわかりました。

バスが入ってきたと同時に、
男はガチャガチャ杖を鳴らしながら、足早に逃げ去りました。
白く光る金属製の杖が遠のいていくのを見て、思わず脱力。
でも安堵とともに、なんだか哀れな気がしました。

もしかして、「恥知らずな人間のクズ!」って、
自虐的に、いつも自分自身に言っているセリフなのかも、と。
それにしても内容といい声のトーンといい、なんと憎悪に満ちていたことか。

バスの中ではボーッとしていたけれど、
家に帰りついた途端、恐ろしさが甦ってきて総毛立つ思いがした。
ケガを負わされなくて本当に良かった!

お医者さんは私の肩を見て、
「ずいぶん前に強い衝撃を受けたはず」なんていったけど、
まさか、その帰りにこんな衝撃を受けるとは。

それにしても変な世の中になっちゃったな。みんなねじくれちまってサ。

酷暑なのに、心が寒い一日となりました。

真夏の夜の夢

ごあいさつ
08 /02 2018
暑中お見舞い申し上げます。

こんなを見ました。

力石の神社誕生の夢!
その名も「ちから姫神命(ちからひめがみのみこと)神社」

祭神 ちから姫神 ご神体 力石 
宮司 埼玉の研究者・斎藤氏
神社惣代・力石資料館館長 力石研究の第一人者・高島師匠 
ガイド・広報担当 徳蔵縁者の美人3姉妹

併設の力石資料館で、館長による「力石講座」を毎月開講。
「力石を詠む会」による俳句・短歌の創作教室と力石吟行。
イラストレーターの章さんによる力石と力持ちのイラスト教室

境内各所にお悩み解消の力石を置き、参拝者に撫でてもらう。

さんイラスト章子
イラスト/章

元気で長生きの「長寿石」「ボケ知らず石」、受験生のための「勝ち石」、
いじめ対策・浮気防止の「懲らしめ石」、、「家庭円満石」
「金満石」「出会い叶う石」「失せもの出ろ出ろ石」、
「元気のでる石」「出世石」「子宝石」、安産の「するりと出る石」等々。

持ち上げて吉凶を占う「重軽石」も置く。

願掛け用の平たい石やハート型の模造石を販売。
願いが叶ったら(貫通したら)、それに穴をあけ紐を通して奉納する。
ハート型は恋塚へ積む。
力石のおみくじに力石のお守り。狛犬も「力石」。

歴代の力持ちのアニメ風錦絵、グッズ、菓子、
飲むと力が出る「ちから水」(酒も含む)を販売。

年に一度、「力持ち大会」を開催。
ゲストに「東海力石の会」のメンバー、浪速の長州力さん、
ウエイトリフティング愛好家など。

夏祭りにはヒップホップ調の「力石音頭」で盆踊り、
力石漫才に力石落語に力石コンサート。
大きな石をパッと消すマジックショーもいいなあ。

狂言や神楽もできたら最高。

みなさま、どんなもんでしょう?

あ、そうそう。
私、ちから姫は教祖さまでございます。
ただし、仕事は本殿・境内の清掃植木の手入れ
時々手を休めて、賑わう境内を眺めてニコニコ。

と、夢を見ていたら、
いつの間にか短い夏の夜は明けてしまいました。

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞