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ウンタラター カンマン

民俗行事
09 /28 2014
前回までの「金杉藤吉」に、かなり入れ込みましたので、
少々疲れが出ました。
本日は「不動尊の火渡り」です。
不動明王の知恵の火を浴びて、心身ともに清めて参りました。

大日山智徳院(麻機のお不動さん)
CIMG1613.jpg
静岡県静岡市葵区にあります。真言宗醍醐派三宝院末

中興開山の高井善証律師は、天保5年、駿府で与力の子として生まれます。
幼いころから大変な神通力の持ち主で、
天狗小僧と呼ばれていたそうです。

明治5年、廃寺になっていた滝ノ谷光明寺を「光明院」と号し、
現在地へ再興。明治29年に、「智徳院」と改称します。

その「滝ノ谷光明寺」跡です。山の中にあります。

CIMG1595.jpg
目と鼻の先を新東名が走っています。

左に見える石積みは「経塚」、右の三角の石は「不許葷酒入山門」碑
CIMG1602.jpg

新東名の工事以前は、寺の石垣や行場、墓石などがありましたが、
今は「不許葷酒入山門」碑とわずかな石垣を残すのみ。
行をした三段の滝は、一つだけ残しあとは埋められてしまったそうです。

「不許葷酒入山門」(くんしゅ さんもんに いるをゆるさず)

ニラやニンニクのような臭い野菜や酒を口にした者は寺内に入ってはいけないという意味。
こういう碑は禅宗の寺に多いのですが、
ここは江戸時代、密宗から黄檗宗に変わったため、
この碑が建てられたものと思われます。

廃寺になる前の光明寺の縁日には、
山門から参道にかけてムシロ張りの野天の賭博場ができて、
大変にぎわったそうです。

そういえば清水次郎長さんが、
ここらあたりに出没した話もチラホラ出てきます。

智徳院の「猫神さま」です。
CIMG1610.jpg
石仏を集めたお堂に、ほかの方々と並んでおられました。

不思議なことに何度撮ってもうまく写りません。
お堂の中で光が乱反射している感じ。
撮影を拒んでいるのかなあ。
全国の猫神社のお猫さまは、みんなニコニコ手招きしているし、
珍しい神様なので、この際お許しいただいて、小さめに掲載してみました。

護摩壇への点火を待つ子供たちです。
CIMG1615.jpg
子供たちの目的は、結界のしめ縄とそこに下がっている紙垂(しで)。

「これ、縄ごと取って一年持っていて、
来年またここへきて焼いてもらうんだよ」。子供の方がよく知っています。

点火と同時に争奪戦が始まりました。
なんと隣にいたおばあさん、
子供を押しのけて、ものすごい勢いで縄を千切りました。

さて、「太吾さん」と慕われた高井善証律師ですが、
大変な法力の人だったそうです。
悪疫退散に霊力を発揮して、生神様と崇められていたそうで、
静岡県内各地に、この太吾上人の神社や祠がたくさん現存しています。

火渡りです。
CIMG1618.jpg
今、炎の中に一人入っていきました。左端の赤く見える所がその人です。

足に塩をつけて、神妙に歩く子供たち。

CIMG1636.jpg

火渡りを待つ人の列が、山門の外にも長く続いていました。
消し炭みたいになった上を、ほんの数秒間歩くために、
こんな夜更けに我慢強く待っている。
不思議だなあ、人間って。

「…… ソワタヤ ウンタラター カンマン」
リズミカルなマントラの余韻が心地よい。

夫れ仏法遥かに非らず 心中にして即ち近し
                                弘法大師

金杉藤吉と西宮神社④

力石
09 /24 2014
9月8日掲載の「本町東助と幸龍寺③」で、
本町東助の「追善力持ち興行」のことを取り上げました。
そこで、この興行にはがあると申し上げました。

興行の日時、場所はなぜ変更になったのか、
東助の石碑の建立場所が、亀戸天神社から幸龍寺に変わったのはなぜか?

CIMG0725.jpg
世田谷区・幸龍寺に建つ「本町東助碑」

とまあ、さも大事件の様に書きましたが、
結論から申し上げれば、「さっぱりわからない」

「わからない」では身もふたもないので、ちょっと申し上げます。

当時の東京には、素人力持ちのグループが二つあった。
一つは、木場で材木の管理運搬に携わった者のグループ「川並派」
もう一つは「車力派」といい、
車両類を牽いて荷物の運搬をする者のグループです。

興行がすんなりといかなかった原因は、
この二派の間に対立があったからではないか、

というのが今の所の答えでございます。

ちなみに、実際に追善興行を行ったのは、「川並派」です。
そして、「金杉藤吉」は「車力派」の東の大関なので、
追善興行には出ていません。

幸龍寺の「力士本町東助碑」の表は、「川並派」の手になる刻字、
それから35年後、
今度は裏面に「車力派」が自分たちの力士名を刻んだというわけです。
なんとも複雑な石碑ですね。

さて、その「車力派」の金杉藤吉です。
静岡市清水区・西宮神社の力石です。

CIMG1564.jpg

刻字のある石は二つ。まんなかの石に金杉藤吉の名があります。

まずはこちらから。
CIMG1562.jpg
72×39×26cm

さし石 清水湊 忠太郎 金蔵 平吉 世話人 河岸場連中

そしてこちらが「金杉藤吉」銘の力石です。

CIMG1561.jpg
71×39×28㎝

さし石 金杉藤吉 四十八メ 
     発起人連中 魚河岸場連中 世話人 三山□蔵


刻字は磨滅していますが、まだ読み取れます。
芝大神宮や富賀岡八幡神社の藤吉石に比べると、正直、書体は負けます。

しかし、先の記事でもお伝えしたように、
藤吉の石の所在は神奈川県よりこちらには、この清水にしかありません。
「藤吉がこの清水湊に足跡を残している」
そのことに大きな価値があるのです。

清水湊は最初、巴川河口でした。
そこから対岸の向島に港橋が架かり、本格的な貿易港として発展していきます。

けれどどんなに最新式の設備が整えられていっても、
荷役は長い間、人の手を借りなければなりませんでした。

茶箱を担ぐ。
img265.jpg 

酒を担ぐ。女性たちも。
img266.jpg img268.jpg
                        
明治29年の「鈴与」の荷役頭、松下伊左衛門です。
img261.jpg

平原 直(すなお)先生という方がいました。
日本の通運事業に携わった人で、「物流」という言葉の生みの親です。
いずれ稿を改めて、ご紹介します。

著書「荷役現場を守る人々」の中に、こんな言葉を残しています。

運ぶことは生きること、生きることは運ぶこと」
城を石垣が支えているように、一番下の下積み石として、
我が国の通運事業を支えているのが、愛すべき荷役現場の人々である」

過酷な荷役の労働を少しでも軽減しようと、機械化に尽力するが、
彼らは機械より自分の力を信じ、
当時の外国人労働者がわざと、持てる力以下の荷しか持たなかったときに、
自分の力以上の荷を持つことを誇りとして、がんばっていたそうです。

平原先生と力石
img056.jpg

「荷役現場を守る人々」は静岡県内にはたった一冊しかありません。
この本は、「鈴与(株)」の鈴木与平氏が地元図書館に寄贈したものです。
たくさんの荷役労働者と共に歩んできた鈴与の経営者だからこそ、
平原先生と同じ温かいまなざしを持たれていたのだと思います。

さて、金杉藤吉です。
藤吉も荷役現場の労働者でした。
汽船から生活物資を小舟に積み替え、河岸の倉庫へ搬入。
米俵を片手で持ったり、倉庫内で上の方にほうり上げたりしていたそうです。

その藤吉がこの清水湊へ来たのはいつだったのか。何のために来たのか。
東京の力持ち界の「東の大関」という大物を呼んだのは,

魚河岸の誰だったのか

藤吉が持った石で、年号がわかるのは「明治42年8月」。
藤吉42歳のときの石です。

昭和7年、同じ力持ち力士の神田川徳蔵が、
「力道大会」でバーベルを使って優勝した。
藤吉はそのニュースをどんな思いで聞いたことでしょう。

さてさて、静岡市清水区のみなさん、
西宮神社の力石のことや石に刻まれた名前をご存知の方、
いらっしゃいませんか?ご存知の方、ぜひご一報ください!

この石、
静岡県初の民俗文化財にしたい! と私は思っているんです。
文化財になるかならないかは、地元の熱意次第。 
清水のみなさん、熱くなってくださいね!

雲流る力石(いし)どっかりと世を見据え  雨宮清子

※画像提供
/「清水港開港100年史」静岡県 編集室代表 田口英爾 平成11年
/「鈴与百七十年史」鈴与株式会社鈴与社史編集委員会 昭和46年
参考文献/「清水市石造文化財調査報告書」清水市教育委員会 2003年
/「荷役現場を守る人々」平原 直 荷役研究所 1954年

金杉藤吉と西宮神社③

力石
09 /22 2014
力石研究の大先輩、S氏から、ビッグな情報が飛び込んできました。

新たに、 金杉藤吉の刻字石が見つかりました!
しかも2つも

一つ目はこれです。
金杉藤吉江東区真蔵院 (2) 2藤吉真蔵院
東京都江戸川区東葛西・真蔵院。  拡大した写真がこちら。

確かに「芝 金杦藤吉」とあります。S氏が石を動かした証拠もくっきり。
警察官の出動がなくて良かった!

    不動さし石 芝 金杦藤吉 四拾六貫目

そしてもう一つは、東京都葛飾区奥戸・天祖神社です。
藤吉天祖
一番手前の石が新たに確認された藤吉の刻字石です。

大きくすると、こんなです。
3天祖

   さし石 芝金杦 藤吉 本億戸村 世話人 若者中

これで金杉藤吉の刻字石は、10個になりました。
やりましたねえ! Sさん。

姫路市大津区・天満神社の益荒男も、歓喜の雄たけびをあげております。
img321.jpg

藤吉銘の力石は、新発見の2個のほかに、
先にご紹介した芝大神宮、富賀岡八幡神社(共に民俗文化財)、

CIMG1051.jpg 二之江小学校

神奈川県川崎市・若宮八幡神社(左)、東京都江戸川区・二之江小学校(右)、
同・二之江神社、千葉県香取市・香取神社、同・山倉大神、
そして、我が静岡市清水区・西宮神社にあります。

中でも、力石が小学校の敷地内にあるというのは嬉しいなあ。
ここの子供たちはみんな、「力石」のことを忘れないでいてくれると思います。

img320.jpg
絵/なかはら かぜ氏
  
父さんと力石持ってみたけど重かった  松崎 岳

<つづく>

※画像・情報提供/埼玉在住の力石研究者S氏
画像・参考文献 /「ふくえの昔ばなし・力石の話」作・和木浩子 
 絵・なかはら かぜ=山口県萩市福栄地域の昔話=

金杉藤吉と西宮神社②

力石
09 /20 2014
静岡市清水区本町の西宮神社周辺を、もう少しご紹介します。

と、その前に、補足です。
中世からつづく名刹「久能寺」を「鉄舟寺」に改名した時期についてです。
先の「金杉藤吉と西宮神社①」では、言葉が足りなかったので改めて記します。

山岡鉄舟が久能寺の再興を政府に願い出て、許可されたのが明治16年。
鉄舟は京都の妙心寺管長・今川貞山老師を開山として迎えます。
昭和31年発行の「鉄舟寺禅」に、
「鉄舟禅寺 山岡鉄太郎書」と刻した門碑の記述があることから、
寺名は鉄舟の生前に改名したのは確かなようです。

寺の再興許可を得た5年後に鉄舟が没したため、
その意志を継ぎ、巨額を投じて鉄舟寺を再建したのが、
魚問屋「芝栄」の芝野栄七であったことは先の通りです。

本日の話に入ります。
向島に架かる「港橋」です。

CIMG1589.jpg

対岸は「向島」です。
巴川左岸に広がる洲でしたが、明治12年、この港橋の架橋以降、
外海港として重要な場所となっていきます。

橋のこちら側のたもとに、「西宮神社」があります。

そして、橋の向こう側の交差した道路の角にあるのが、
次郎長の船宿「末廣(すえひろ)」です。

これです。
次郎長は明治19年に、それまでいた巴川河畔からここへ移ります。

CIMG1554.jpg
地元の方々の熱心な働きかけで、平成13年に復元されました。

第二次大戦時の米軍による激しい艦砲射撃で、
この一帯は焼け野原になりましたが、
次郎長没後、この船宿は転売されていたため、奇跡的に残ったのだそうです。

明治20年代の「清水波止場」です。
そのころの波止場の石垣が、今も一部残っています。

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撮影者は徳川慶喜公     茨城県立歴史館蔵

最後の将軍・徳川慶喜は慶応4年、江戸城を新政府に明け渡し、
静岡へ移ってきます。
軍艦蟠竜丸で清水湊に上陸したそうですが、
そのころはまだ「清水波止場」はありませんから、
巴川河口から入ったのでしょうか。

徳川慶喜公は、約30年間静岡で暮らしましたが、
江戸から護衛としてついてきた新門辰五郎は、
明治4年、慶喜公の護衛を清水次郎長に託して東京へ帰ってしまいます。

清水の歴史は実に多彩です。
良くも悪くも、その歴史の中に見え隠れするのが清水次郎長です。

次郎長通りで魚屋さんを営む郷土史家のN氏が、
美濃輪稲荷神社の玉垣の中から発見した「山本長五郎」の切付です。

CIMG1581.jpg

山本長五郎は次郎長の本名です。

明治元年9月、
明治新政府に反旗を翻した旧幕臣の榎本武揚らが乗った咸臨丸が、
清水の海で官軍の艦隊に襲撃されます。
政府のお咎めを恐れて、海に浮かぶ賊軍の遺体を片づける者は誰もいません。
それを買って出たのが次郎長です。
次郎長が慕われる理由は、こんなところにあるのかもしれません。

次郎長の前半生は血みどろの極道の世界ですが、
その後半生には、「英語塾」「富士の開墾」「製塩所」
などを手掛けた実業家としての顔を見せています。

その次郎長の「船宿・末廣」に面したエスパルスロードを行くと、
大観覧車が回る「エスパルスドリームプラザ」に突き当たります。
そうなんです。
ここ清水は、サッカーの名門「清水エスパルス」の本拠地でもあるのです。

魚町稲荷神社です。
CIMG1547.jpg
清水エスパルスの選手たちが、必勝祈願に訪れる神社です。

「日本少年サッカー発祥の地の碑」によると、
昭和31年、
隣接する江尻小学校にサッカー好きの教師が赴任してきたことから、
清水がサッカーの町として発展したとか。

石のサッカーボールです。大きいですよねえ。私、思わずつぶやきました。
   
「これが力石だったらなあ」

<つづく>


※画像提供/茨城県立歴史館
※参考文献/「鉄舟寺禅」野沢広行 私家本 昭和31年
     /「次郎長翁を知る会」会報第12号
     /ブログ「お魚と僕のまち」
     /「しみずの昔・その二」多喜義郎 朝日ファミリー編集室 平成5年

金杉藤吉と西宮神社①

力石
09 /18 2014
ようやく静岡市清水区へ帰ってまいりました。

金杉藤吉の力石がある西宮神社(おいべっさん)です。
巴川西岸に存在した「魚座」
本魚町、新魚町、袋町三ヵ町(現・本町)の守護神です。

CIMG1560.jpg

力石です。
最初の「金杉藤吉と清水湊」でもお目にかけましたが、
本日は別の角度からご覧ください。

CIMG1568.jpg

玉垣の前に3個保存されています。

石柱に「芝野」と切付があります。
これは、江戸末期から戦前まで存在した魚問屋「芝栄」のことです。
世襲で、代々「芝野栄七」を名乗っていました。それで「芝栄」。

明治40年ごろまであった「芝栄」経営の「魚市場」。通称「浜通り」
img262.jpg
並べた魚がすごいですね。    「清水港開港百年史」より

現在はこんなふうになっています。
CIMG1559.jpg

この西宮神社の玉垣には、「芝野栄七」の名前がずらっと並んでいます。
近隣の淡島神社、美濃輪稲荷神社などの鳥居や灯ろうにも、
その名が刻まれています。
中でも「芝栄」の特筆すべき事業は、清水区村松の久能寺の再建です。

駿河湾を見下ろす小高い山の上に、
平成22年、国宝に指定された「久能山東照宮」があります。
中世、そこには「久能寺」という大寺があって、京の都から東国へ下る旅人は、
山上から流れてくる1千500余人もの僧侶たちの読経を聞きながら、
三保まで続く有度浜を歩いたそうです。

朝もなほ羽衣に似る雨降りて 桜の濡るる三保の松原 
                         与謝野晶子                                                                                                       

富士山と三保・有度浜。右手の山上に久能寺が描かれています。
img316.jpgimg315.jpg
「東海道名所図会」巻之四

幕末、江戸無血開城に貢献した山岡鉄舟という幕臣がいます。
鉄舟は、戦国時代に武田信玄の手で久能山から現在地へ移転させられた
名刹「久能寺」が荒れるがままになっていたのを憂い、再建に着手。
しかし明治21年、志半ばで亡くなってしまいます。

それを引き継ぎ、多額の資金を投じ、名前も「鉄舟寺」と変えて、
ついに完成させたのが、初代「芝栄」だったのです。
鉄舟没後22年目、次郎長没後17年後の明治43年のことでした。

鉄舟寺は、現存最古の平安時代の装飾経、
国宝「法華経(久能寺経)」19巻、
源義経が愛用したと伝えられる龍笛「薄墨の笛」を所蔵しています。
そしてこの寺には、「芝栄」が贈った侠客・清水次郎長の木像もあります。

CIMG1570.jpg img318.jpg

次郎長って、不思議な人ですね。
山岡鉄舟に可愛がられ、「芝栄」という大店の主人と義兄弟の契りを結び、
今なお地元の人たちに慕われている。

西宮神社の力石に名を遺した金杉藤吉も、
ひょっとしたら、この清水湊で次郎長さんに会っているかも。

※画像提供/「清水港開港100年史」静岡県 編集代表 田口英爾 1999

金杉藤吉と幸龍寺⑥

力石
09 /15 2014
金杉藤吉を尋ねる小さな旅、思いのほか長旅になりました。
東京には、それだけ魅力的な力持ちがいたということなんですね。

そしてもう一つ、関西方面から関東へやってくる「大阪渡りの力持ち」は、
興行師が差配して、力持ちを職業として見せていましたが、
江戸の力持ちたちは、別に生業を持ち
神社などで木戸銭を取らない「奉納力持ち」を行っていたため、
庶民の拍手喝采を浴びていたわけです。

さていよいよ、幸龍寺の「東助碑」にその名を遺した「金杉藤吉」の登場です。

碑の裏面です。
CIMG0717.jpg

「力持力士連名」の下に、「年寄」として9名の名前が刻まれています。
その筆頭に「金杉藤吉」がいます。
この碑の建立時、藤吉は59歳。現役だったかどうかはわかりませんが、
姫路市・才の天満神社には、
井上常五郎が53歳のとき持った力石が残されています。

「東助碑」の「年寄」欄に刻まれた金杉藤吉、竪川大兼、扇𣘺三次郎、
この3人の名前が入った石があります。

東京都江東区南砂の富賀岡八幡宮(砂村元八幡宮)です。
「富岡(深川)八幡宮」(江東区富岡)とは別の神社です。

img260.jpg motohachiman.jpg

左は長谷川雪旦が描いた「江戸名所図会」の「砂村元富岡八幡宮」。
赤丸のところに「力石」が見えます。
右の絵は初代広重の「名所江戸百景」「砂むら元はちまん」です。
ちなみに、長谷川雪旦父子の墓は、幸龍寺にあります。

CIMG0778.jpg
現在の富賀岡八幡宮です。

「富士塚」です。
CIMG0762.jpg
八幡宮の境内にあります。

江戸後期、江戸に富士山を神と崇めた「富士信仰」が興ります。
本物の富士山に登るのが本来の信仰の有り方ですが、
誰でも気軽に登れません。
そこで身近なところに富士山のミニチュアを作ったわけです。

江戸の富士塚のほとんどは、伊豆の溶岩「ぼく石」で出来ているそうです。

伊豆・伊東市付近の人たちは、
男も女も朝暗いうちから天城山などへ出かけました。
これを「ぼく石拾い」といったそうです。
拾った「ぼく石」は船着き場で商人に買ってもらいます。
それが船で江戸へ運ばれて、こんなふうな富士塚になったというわけです。

藤吉たちの力石は、この富士塚にあります。
これです。     65×44×24 
CIMG0773.jpg
江東区有形民俗文化財

この石には、「東助碑」にあった年寄、3名の名前が刻まれています。

さし石  扇𣘺三治(次)郎 代地金蔵 竪川大兼 金杦(杉)藤吉 
     世話人 扇𣘺金兵衛 桜田佐平衛 小合巳之助 小網町栃蔵


      力石名残りを止めし江戸の華  詠み人知らず

<つづく>

神田川徳蔵と幸龍寺⑤

力石
09 /12 2014
埼玉在住のS氏から、朗報がもたらされました。
やっぱり、持つべきものは、力友(リキトモ)です。感謝感謝。

その「朗報」に行く前に、
ちょっと「東助碑」の裏面をご覧ください。
CIMG0718~1 CIMG0718.jpg
上部赤丸のところに、右に示した「神田川徳蔵」の名前があります。
その横の黄色い丸のあたりに「納札睦会」、
そして、下の赤丸の中には「書 高橋藤之助」と刻まれています。
切付が細いため、皆様に高橋藤之助の名前をお見せできないのが残念です。

さて、S氏からもたらされたのはこの三つのキーワードです。
つまり、 「神田川徳蔵」「納札睦会」「高橋藤之助」
これがある一つの共通項で見事につながっていると、こういうわけなのです。

まず「納札睦会」の「納札」ということからお話しなければなりません。
とはいうものの、私は全く無知ですから、本からの引用になります。
お許しください。

建物の隅柱に貼られているのは、「千社札」(せんしゃふだ)です。
img289.jpg
                 「納札大史」より
これなら私も見たことがあります。
「せんじゃふだ」とも言いますが、仲間内では「せんしゃふだ」と濁らない言い方をするそうです。

千社札は、観音霊場巡りなどの信仰に基づくものから始まったそうです。
行った先々の神社仏閣に、お札をペタッと貼って功徳を積むわけです。

古くは、平安時代、花山天皇が粉河寺に納札したという話もありますが、
江戸で始まり、江戸後期に爆発的に流行したというのが一般的なようです。
そして、信仰としての「納札」に、江戸庶民の洗練された「遊び」が加わり、
浮世絵師や書家に依頼して作った自慢のお札を交換する「納札交換会」が、
盛大に開かれるようになります。

これは二代歌川広重が描いた「納札大会之図」の一部です。
img288.jpg
                                   国立国会図書館蔵

「本町東助碑」の裏面に出てきた「納札睦会」とは、そういう交換会の組織です。

そして、「書 高橋藤之助」は、江戸文字の名手と謳われた書家だったのです。
家業は提灯屋。初代、2代と続きますが、この碑の裏面の「藤之助」は、
絵を二代広重に、書を稲葉千秋に習った二代目ではないかと思います。

これは二代「高橋藤之助」の「交換納札」です。
img291.jpg
       「千社札」より

こういった著名人と神田川徳蔵が、どこでつながっていたかと言いますと、
やはり「千社札」なんですね。徳蔵の納札はいろんなところに出てきます。
左の札に徳蔵の名前があります。

img293.jpg   img290.jpg
「弓岡勝美コレクション」より   「二代目銭屋又兵衛コレクション」より

右側の札は、神田川徳蔵とは関係ありませんが、
力石を上げている札は珍しいので、ここにお見せしました。

浮世絵木版画摺師の関岡扇令氏は、こんなふうにおっしゃっています。
「千社札は、江戸のグラフィックデザインともいうべき逸品」

そんなわけで、幸龍寺の「本町東助碑」は、「そんじょそこらの碑では」なかったんです。

そしてもう一つ、力友・S氏はこんな情報もくれました。

神田川徳蔵こと飯田徳蔵氏の子息、飯田定太郎氏は、
明治大学体育会ウエイトリフティング部OBで、昭和23年、
クラブ設立時の顧問らと共に、天皇皇后を始め皇族方の前で重量挙げを披露した…。

            image (2)

徳蔵がそれまでの力石に代えて、
甥が制作したバーベルで力を競い、昭和7年には、「全朝鮮力道大会」で、
1位になったことは、先日お伝えしました。

この人は、
見世物としての力持ち興行をスポーツへと高めていった人だったのですね。
その分岐点に立ち、新しい時代に足を踏み出し、
永年培ってきた「力持ちの神髄」を、次世代へ橋渡ししたのです。
それが飯田定太郎氏やオリンピツク金メダリストの三宅一族を生み出したのでしょう。

日本ウエイトリフティング協会と明治大学体育会ウエイトリフティング部は、
HP上で神田川徳蔵を称えています。

「千社札」という江戸の美学に遊んだ、粋と洒落と張りの力持ち力士

神田川徳蔵に乾杯です!



<つづく>



※画像提供/「納札大史」金川志ん馬 大正13年 静岡県立葵文庫蔵
        /国立国会図書館
        /「千社札」関岡扇令編 講談社 昭和58年
        /「千社札」弓岡勝美コレクション ピエ・ブックス 2006
        /「千社札」二代目銭屋又兵衛コレクション 青幻舎 2004



神田川徳蔵と幸龍寺④

力石
09 /10 2014
世田谷区・幸龍寺にある「力士本町東助碑」です。
再度、お見せします。碑の周りにあるのは、すべて力石です。

CIMG0725.jpg

今まで碑の表側についてご説明してきましたが、
いよいよ碑の裏面にまいります。

この石碑の話、正直、こんなに長くなるとは思ってもいませんでした。
ですが、次から次へと話が広がって…。
東京は、というよりお江戸の奥深さをヒシヒシと感じております。
おかげで部屋中資料が散乱。足の踏み場もありません。

東助碑の裏面です。
CIMG0723.jpg

裏面は「大正15年」に刻まれたものです。
表の碑文は「明治25年」ですから、
表と裏とではざっと35年の開きがございます。

これはどういうことかといいますと、
大正12年の関東大震災で、崩壊した寺と共に放置されていた石碑を、
「神田川徳蔵」という力持ち力士が発起人となって、
大正15年に小伝馬町の身延別院に移します。
そのとき新たに刻んだというわけです。

以下は埼玉県在住の力石研究者、S氏の推測です。

徳蔵は大正15年に、表向きは東助碑の再建記念にして、
神田川派の旗揚げ興行を行ったのではないだろうか」

「碑の裏面には再建した理由と共に、
総勢61人もの名前を書いた「連名表」が刻まれています。
S氏は、「あくまでも私の推測」とした上で、
「連名表に口上がいることから、興行した可能性が高いと考えられる。
連名表は番付と見ていいのかもしれません」

神田川徳蔵です。
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中央、石を差し上げているのが徳蔵です。 

神田川徳蔵。本名・飯田徳蔵。
東京・神田川近くで運搬業を手広く営んでいました。

徳蔵が持った力石です。幸龍寺の東助碑の周りにあります。
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73×37×25

長寿石 神田川徳蔵持之 大正十四年

徳蔵の刻字石は13個残されています。こちらは「大玉子石」

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53×39×25

大玉子石 さし石 徳蔵

「日本ウエイトリフティング協会60年史」によると、
「徳蔵の甥、飯田一郎が
神田の古本屋で見つけた英文のウエイトリフティング書を元に、
我が国初のバーベルを制作。
徳蔵はこれを機に石や米俵の代わりに、このバーベルで力を競い合った」

また、「昭和7年12月、当時の朝鮮中央体育研究所より招待されて、
第2回全朝鮮力道大会に、ほかの日本人選手2名と共に出場。
朝鮮での正式種目P、 S、 JのPで195ポンドを挙げて一位になった」そうです。
            マークオリンピック

<つづく>

※参考文献
/「社団法人・日本ウエイトリフティング協会60年史、日本協会の歩み」

本町東助と幸龍寺③

力石
09 /08 2014
先にご紹介した「本町東助」、
優れていたのは力業(ちからわざ)だけではありません。
書物に親しみ書をよくするという
文武両道のなかなかの人物だったようです。

明治24年に没しますが、
翌25年には東助を贔屓にしていた黒田清隆伯爵の筆による
「力士本町東助碑」が完成します。

同時に、門弟たちを始め友人たちが発起人となって
「追善力持ち興行」
が開かれます。
このことは当時の読売新聞、東京朝日新聞の記事になりました。

明治25年7月16日の「東京朝日新聞」です。
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実は、この2か月ほど前の5月22日に、最初の予告記事がでています。

この記事には発起人補助として、戯作者の仮名垣魯文
剣術家の榊原鍵吉(健吉)、相撲取りの高砂浦五郎、医者の名倉弥一
馬術の草刈庄五郎といったそうそうたる人たちが名を連ねています。
東助がいかに人望があったかがわかります。

しかし、5月の記事では「6月1日より3日間、浅草公園地」で開催だったのが、
その2か月後の新聞では、
「7月15日より5日間、回向院境内」に変更されています。
開催の期日も場所も変わった、これが謎なんです。

謎解きはおいおいするとして、
さあてみなさん、お立合い! 
ここで東助の力石、2、3御覧に入れまする!」

なんだか見世物興行風にしゃべってみたくなりました。

本町東助の刻字石は、現在10個確認されています。
まずは「東助碑」の足元に並んだ石の中から、一つお目にかけます。

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連城石 矢向彌五郎 伊豆大嶌傳吉 持之 
        世話人 □鬼熊 代地芳次郎 本町東助


こちらは江東区南砂の富賀岡元八幡宮の力石です。

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扶桑石 大嶋傳吉 世話人 本甼東助 小合己之助 玉山厚書 印

昇龍 卂鬼熊 豆州大嶋傳吉 持之
世話人 扇橋金兵衛 同音治 四ツ目吉五郎 四十町力蔵 本町東助


次なるは、江東区亀戸の香取神社です。
ここはスポーツ振興の神さまなんだそうです。で、お守りも「勝守」。

昔、この神社に道祖神祭りというのがあって
子供たちが舟を担いで練り歩いたとか。
その様子を描いた歌川広重の絵が神社に残っているそうですが、
そのときの子供たちの唱え事が、なかなか威勢がいいんです。

「千艘万艘 御ふねが参った 銭でも米でもどーんといっぱい おっつめろ!」

香取神社にも、東助の刻字石はあるんです。
文化財にもなっているんです。
ですが、
剥落が激しいのや文字の磨滅したのが、あっちにバラバラこっちにポツン。

こんな感じ。
CIMG0876.jpg  CIMG0875.jpg

とうとう「□中 吉五郎 東助 力蔵」の石は、探せなかったのです。

で、代わりといってはなんですが、こんなものを見てきてしまいました。

「亀戸大根発祥の碑」

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大根に見とれて力石(いし)を見損ない   雨宮清子

<つづく>

本町東助と幸龍寺②

力石
09 /06 2014
幸龍寺(東京都世田谷区北烏山)に戻ります。

二代将軍徳川秀忠の乳母の懇願により、
浜松城外(静岡県浜松市)に創建されたこの寺は、家康の移動と共に、
駿府、江戸の湯島、浅草と移転を続けます。

力持ち力士が一番活躍したのが、この浅草時代です。
境内には、
東都の力持ちの中心的人物だった「本町東助」を称える石碑がありました。
ところが大正12年の関東大震災で寺が崩壊。
寺も石碑も放置されたままでしたが、同じ力持ち力士の神田川徳蔵によって、
石碑は一旦、小伝馬町の「身延別院」へ移転。(埼玉県在住のS氏の調査)。

昭和2年、寺が現在地の世田谷区へ再建されたのを機に、
石碑も世田谷へ運ばれて現在に至っています。

「本町東助碑」です。
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本町東助(ほんちょうとうすけ)
本名「波野氏」。酒屋の経営者。明治5年、西の大関。

※本町東助のひ孫さんからメールをいただきました。
 東助の本名を最初「波多野」と記しましたが、「波野」であるとのこと。
 「波多野」姓は私家本「夢跡集」山口豊山より引きました。
 ひ孫さんにはお詫びかたがた、訂正をここへ記します。

「神田豊嶋町の鬼熊と並ぶ力持ち。其の性酒落にして常に文庫を好ミ、
四斗入りの米俵の先に筆をさして、よく文字を書きたり」(山口豊山。夢跡集)

その絵がこちら。
八畳敷きの大紙に書いたそうです。
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国立国会図書館蔵

でも米俵に筆をさして文字を書くというのは、東助さんだけではなかったようです。
文字の巧拙はともかくとして、女力持ち淀瀧も同じことをしたということが、
朝倉治彦編の「随筆辞典・雑芸娯楽編」にありました。

東助は明治24年6月2日病没。法号は「速実院信力信士」
墓石は現在、所在不明です。

碑面です。
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 明治廿五年六月建立 力士本町東助碑 清隆謹書

揮毫者は、明治21年に第2代内閣総理大臣になった「黒田清隆」です。
この人です。
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ハンサムですねえ。私好みです。
しかし、真偽のほどはわかりませんが、
すごい酒乱で、そのために奥様を切り殺してしまったなんて風聞もございます。

でもまた、「日本が文明国になるには、女子の本格的教育が不可決」として、
明治4年、5人の少女をアメリカへ送ることに尽力したとも言われております。
その一人が、津田塾大学を創設した津田梅子です。

なかなか本命の「金杉藤吉」にたどりつけません。
次回こそは…。とは思うものの、もう少し回り道をします。

<つづく>

※参考文献/「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009
        「夢跡集」山口豊山 私家本 国立国会図書館蔵


雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞