石でもごんせ俵でも
神田川徳蔵物語
中村彌兵衛が持った石が、四世杵屋六三郎によって作曲され、
七代目市川團十郎によって舞踊化された「近江のお兼」。
その長唄の歌詞がこれ。
「留めて見よなら菜種に胡蝶…… 色気白歯の團十郎娘
力だめしの曲持ちは、石でもごんせ俵でも、ござれござれに指し切って
五十五貫は何のその
中の字きめし若い衆も、女に出さぬ力瘤(こぶ)」
「中の字」はもちろん、中村彌兵衛のことです。

東京都江東区富岡・富岡八幡宮
清元「喜撰」のはこちら。
「わっちもそんなら、きほい(気負い)肌 五十五貫でやら(ろ)うなら」
常磐津「松魚(かつお)買」のがこちら。
「いさみ肌なる中ッ腹、五十五貫もなんのその」
まあ、知ったかぶって書きましたが、実は私、
長唄、清元、常磐津の違いなどトンとわからない。
だからこれみんな、福士民蔵の本からの引用です。
「深川力持睦会」初代会長の福士民蔵は、著書でこう語っています。
「彌兵衛、六三郎、團十郎の三人とも深川の関係者。
まさにこれは力石と江戸文学が直結した大事な資料です。
それを深川の富岡八幡宮に奉納したことは、
深川江戸時代の史蹟として最も意義あることと存じます」
この石は元から富岡八幡宮にあったものではなく、
豊島区雑司ケ谷の鬼子母神からの寄贈だそうです。
こちらは浅草・浅草寺にある彌兵衛の力石です。

「奉納 五十二貫目 深川八幡前 中村彌兵衛」
浅草寺にある鬼熊の「熊遊」碑です。
弥兵衛の石はここに置かれています。

彌兵衛が持った石は現在、豊島区の法明寺や神奈川県寒川町の
一之宮不動堂など4ヵ所に5個確認されています。
團十郎や六三郎はその名声を長く後世に残しましたが、
力持ちの彌兵衛だけはどんな人だったか、今では知る人は誰もおりません。
「中の字」は、石だけ残して、
きれいさっぱりこの世から消えたのでございます。
七代目市川團十郎によって舞踊化された「近江のお兼」。
その長唄の歌詞がこれ。
「留めて見よなら菜種に胡蝶…… 色気白歯の團十郎娘
力だめしの曲持ちは、石でもごんせ俵でも、ござれござれに指し切って
五十五貫は何のその
中の字きめし若い衆も、女に出さぬ力瘤(こぶ)」
「中の字」はもちろん、中村彌兵衛のことです。

東京都江東区富岡・富岡八幡宮
清元「喜撰」のはこちら。
「わっちもそんなら、きほい(気負い)肌 五十五貫でやら(ろ)うなら」
常磐津「松魚(かつお)買」のがこちら。
「いさみ肌なる中ッ腹、五十五貫もなんのその」
まあ、知ったかぶって書きましたが、実は私、
長唄、清元、常磐津の違いなどトンとわからない。
だからこれみんな、福士民蔵の本からの引用です。
「深川力持睦会」初代会長の福士民蔵は、著書でこう語っています。
「彌兵衛、六三郎、團十郎の三人とも深川の関係者。
まさにこれは力石と江戸文学が直結した大事な資料です。
それを深川の富岡八幡宮に奉納したことは、
深川江戸時代の史蹟として最も意義あることと存じます」
この石は元から富岡八幡宮にあったものではなく、
豊島区雑司ケ谷の鬼子母神からの寄贈だそうです。
こちらは浅草・浅草寺にある彌兵衛の力石です。

「奉納 五十二貫目 深川八幡前 中村彌兵衛」
浅草寺にある鬼熊の「熊遊」碑です。
弥兵衛の石はここに置かれています。

彌兵衛が持った石は現在、豊島区の法明寺や神奈川県寒川町の
一之宮不動堂など4ヵ所に5個確認されています。
團十郎や六三郎はその名声を長く後世に残しましたが、
力持ちの彌兵衛だけはどんな人だったか、今では知る人は誰もおりません。
「中の字」は、石だけ残して、
きれいさっぱりこの世から消えたのでございます。