fc2ブログ

いつの間にか「傘寿」⑭

いつの間にか傘寿1
10 /29 2023
秋の修学旅行が終わると、いよいよ次のステップへ踏み出すことになった。
だれもが進路を決めなくてはならない、
そういう決断の時がきたのです。

来年3年生になれば理数系と文系に分かれていく。
この時期になると、一様にみんなの顔つきが変わってきた。

でも私は相変わらずのんびり、ふわふわしていた。

何になりたいとか、どこの大学を目指すのか、少しも考えていなかったから、
今思うと「お前、バカじゃないの?」としか言いようがない。

子供のために自分たちのすべてを犠牲にして働いてきた両親には、
全く親不孝な不遜極まりない娘だった。

ただ兄や姉たちと同じ道を行くのが当然のように思っていたから、
大学生になって東京へ行くことだけは、私の中で規定路線になっていた。

両親が一番、幸せだったのがこのころではないだろうか。
長女は教師に、長兄は大学生(このころはまだ学帽を被っていた)、
次姉と次兄は高校生。そして私が中学一年生
img20231020_19252776.jpg

そんな中、私はラブレターをもらった。

朝、靴箱を開けたら、室内履きの中に小さく折りたたんだ紙が入っていて、
開けるとこれまた小さな丁寧な字で、なにやらびっしり書かれていた。

「雨宮さんのことを書く僕をお許しください」

今どきの高校生には通じないかもしれない古風な書き出しです。


「好きで、ずっと思っていました。
でも友人からは今は我慢しろと言われています。
これから本格的に勉強しなければいけない時期なのに、と」

それで思いを断ち切ろうと、
電車の車両を私が乗っている車両から、わざと変えてみたとのこと。

私は同じ車両に乗っていたことも全然気付いていなかった。


あの通勤、通学で込み合う車内で私を見つけて、
胸を熱くしていた少年がいたんだと思ったら、急に顔が火照った。

でも、このレターには名前がなかったから誰かはわかりません。
だが、ヒントが書かれていた。

「いつか釣りに行ったとき、お会いした者です」


DSC05353.jpg

アッと思った。
あれは高校一年生の秋ごろではなかっただろうか。もう一年以上も前だ。


その日は日曜日で、ちょうど注文してあったセーターが編みあがって、
浮き浮きしていた時だった。

セーターはクリーム色の地に青い縞模様が二本入ったおしゃれなもので、
外をうろつきたい気分になって坂道を下って行ったときだった。

軽快に歩いていくと反対側から、
坂道を登ってくる釣り竿を持った少年が二人やってきた。
だんだん近づくと、それは同級生で見覚えのある顔だった。


先に向こうが気づいたのか、すでに足が乱れている。

すれ違うとき、背の高い色白の美少年がふいに下を向き、
隣にいたもう一人の少年が困ったような顔で私を見た。

私は揺れる心を読み取られまいと、そのままズンズン坂道を下っていった。

そうか、あの時の…。


だがこの恋はそれきりになった。
彼はこの恋文を出したことで踏ん切りをつけ、志望する大学目指して
勉強に集中していったのだろう。

でもこのラブレターは、別の意味で私を勇気づけてくれた。


あれは高校に入学して間もない頃だった。

登下校の道は広大な梨畑の中にあったから、その日も私と友人は、
梨の白い花が一面咲きほこる美しい道を駅へ向かっていた。
そのとき、
大荷物を満載した荷車が坂の途中で立ち往生しているのを見た。


回り込んでみるとそこには、
いかにも陰険そうなおやじに「役立たず」と怒鳴られ、
鞭打たれている犬がいるではないですか。

犬は痩せこけた肩にロープを食い込ませて、荷車引きの助手をしていたのだ。

かなり酷使したのだろう。犬の体は変形して見るからに痛々しい。


「ひどーい! ぼくの先輩がそんな目に遭ってたなんて」
img20231020_19252776_0001.jpg

こんな光景、江戸末期や明治、大正の錦絵でも見た事がない。
貧しさの極限みたいな「今どきあり得ない現実」を目の当たりにして、
私はいたたまれなくなり、

「義を見てせざるは勇なきなり」


とっさにカバンを友人に預け、
スカートをたくし上げて荷車の後押しをした。

ようやく坂の上に上がって、礼も言わずに立ち去る荷車引きを見送り、
友人を振り返ると彼女はさっきの場所で固まっている。
近づくと真っ赤な顔で睨まれた。

「恥ずかしくて恥ずかしくて。みんなが笑っていたじゃない!
またあんなことをするなら、もう一緒に歩かないから!」

笑って通り過ぎた生徒たちと、これから同じ電車に乗らなくてはならない。
駅までの道々、彼女はそればかりくどくど言い続けていた。

でもそんな「恥ずかしい」私を、ずっと思い続けてくれた少年がいた。
凄いことだと思ったし、たまらなく嬉しかった。


もうボロボロになってしまったけれど、今でもこの恋文を私は持っている。
そしてこれを見るたびに思い出すんです。


20231020_161240.jpg

あの梨畑の道と鞭打たれていた犬と荷車と、
そして、
恋と学業を天秤にかけつつ、告白した釣り竿を持った少年の白い顔を…。

にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

目からウロコのかぐや姫

書籍
10 /26 2023
「竹取物語と中将姫伝説」(梅澤恵美子 三一書房)という本を読んだ。
1998年発行だから、今から25年前の本ということになります。


目からウロコでした。

著者はこう語っています。
この物語は、藤原一族に抹殺されたヤマトの豪族たちの末裔が、
おとぎ話に託して藤原氏の悪行を暴き、世に知らしめたものだ、と。


「竹採公園の竹採塚」 ここはかぐや姫伝説発祥の地とか。
右は「富士山かぐや姫ミュージアム」(富士市伝法)で購入した一筆箋。
img20231022_16223089_0001_202310232103422f5.jpgimg20231023_10173079.jpg
静岡県富士市中比奈

私も単なるおとぎ話ではないとは思っていたものの、
それ以上、関心を持たずにきてしまいました。


ただ、かぐや姫誕生の「竹」について、考えたことはあります。

日本の代表的な竹は、「孟宗竹」「真竹」「ハチク」の3種類だそうですが、
かぐや姫誕生の竹はこのうちのどれだったのか、考えたんです。

「竹取物語」の成立は平安前期。
「孟宗竹」が日本にもたらされたのは江戸初期ということですから、
これではない。

三寸(約9cm)というかぐや姫のサイズから考えると、
直径3~10㎝の「ハチク」では小さすぎる。
残る「真竹」は、5~15㎝ということですから、たぶんこれだろうと。

真竹を使った自在鉤
節の輪が二本あります。孟宗竹は1本。
山村の「かあさんの店」にそばを食べに行ったとき、購入したもの。
地元のご老人作製。竹製のうぐいす笛も買いました。
20231023_101024.jpg

さらに、姫を見つけた「竹取の翁」の職業が竹細工の職人で、
その材料は「真竹」ということからも、
かぐや姫が入っていた竹は「真竹」に確定できた。

残念ながら私の追及はそこまでだったが、
この本がその続きを見事に明かしてくれたのです。

平安時代、権勢を誇った藤原一族の祖は、中臣(藤原)鎌子(鎌足)。
著者はこの人物は日本人ではなく、
当時日本にいた百済王子の豊璋(ほうしょう)ではないかと。


豊璋の来日は631年。
この14年後の645年、鎌足と中大兄皇子(のちの天智天皇)が、
ヤマトの豪族の一人、蘇我入鹿を誅殺。

この間にヤマトの豪族たちの血を引く天皇や皇子、一族の変死が続いた。


660年、百済は唐と新羅の連合軍に破れて滅亡した。
なのに、その翌年、天皇、中大兄皇子、豊璋たちは、
百済再興軍を率いて九州へ。そこから朝鮮半島を目指した。

2年後、唐と新羅の連合軍にボロ負け。(白村江の戦い)。
これを機に百済人難民がたくさん日本へ流入した。


このとき駿河国から船団を送ったものの、この船はお粗末なもので
日本の何処かの海で沈没したという。


旧東海道沿いの「籠製造所」。30年ほど前に撮影。
籠を編んでいたので写真を撮らせていただいた。
カゴ
静岡県沼津市

最初から勝ち目ゼロの戦いなのに、
なぜこうも「百済」に固執し、肩入れしてきたのか。

それがずっと不思議でしたが、
「時の権力者、鎌足は豊璋と同一人物」と言う説明で納得できた。

この大胆な説、あまり重要視されていないのはどうしてだろう。

鎌足の子の藤原不比等の時代になると、さらに非道になり、
ヤマト豪族たちは殲滅に近い抹殺にあう。

そしてこの不比等が全般にわたって編纂などに関わったのが「日本書紀」。
「歴史書は勝者の歴史」というのは古今東西の通説ですが、
やっぱり不比等さん、いろいろ捏造やら創作やら工作しているみたいです。

東京から静岡の田舎に転居した際、
農家のみなさんが使っている籠に魅せられて購入。
50年後もこの通りきれいです。マグカップと比べるとかなり大きい。
20231022_162652.jpg

こうなってくると、
物部氏と蘇我氏の仏教を巡って争った話も眉唾に思えてきます。

著者の梅澤氏は言う。

「ヤマトに最初に王権を築いたのは物部であり出雲。
三輪山の大神神社の大物主神は物部氏の祖・ニギハヤヒと同一で、
日本の皇祖神で太陽神(男神)」

「権力掌握を狙う藤原氏は持統天皇(天智天皇の娘・女帝)と与し、
アマテラス神話の天孫降臨を創作。
これにより、本来の大和朝廷の神・ニギハヤヒは消された」


そうか。太陽神が男神から女神に代わり、
祭祀場所も大神神社から伊勢神宮に変わったのはこういうことだったのかと、
妙に納得した。


竹で編んだ弁当箱
もう半世紀以上立ちますが壊れず美しいままです。これぞ職人技の美。
夏の登山のとき使っていました。冬はメンパ(井川メンパ)
20231023_100030.jpg

さて、かぐや姫です。
美しい娘に成長した姫は、都の公達5人から求婚されます。
この5人は藤原一族に滅ぼされたヤマト豪族にとって、
「穢き世にのさばる許せない」実在した人物ばかりだという。


その一人「車持(くらもち)皇子」は藤原不比等のことで、
物語には「心たばかりある人」=二枚舌で奸計を巡らす人物=
と書かれている。


著者はこの本で滅ぼされたヤマト豪族側の「かぐや姫」と、
権勢をほしいままにした藤原氏一族の「中将姫」を対比させています。

中将姫は藤原不比等の孫で、17歳で仏門に入り29歳でこの世を去った。

奈良・當麻寺の国宝、本尊・當麻曼陀羅は、
この姫の手になるものとの伝承があります。

「かぐや姫は藤原氏を呪い、その罪を世に告発し、かたや藤原の娘中将姫は
藤原氏が作り出した罪を背負い、ひたすら神仏にすがって許しを乞うた」

(著者)

知人手作りの竹製品「タオル掛けやのれんに使うといいよ」と。
つるつるした肌触り、美しい色と光沢。自然のものは人にも自然にも優しい。
こういう技術が失われてしまうのは本当に惜しい。
20231022_205410.jpg

かぐや姫が奸智に長けた男どもを手玉に取って打ちのめし、
意気揚々と月の世界へ戻っていくのは痛快ですが、

いくら藤原一門の人間とはいえ、
中将姫が一族の男どもの罪を一身に被るってのは、
理不尽というか不憫すぎます。

でも、おとぎ話を使って悪辣な権力者や悪いやつらを告発するって、
案外いいやり方かも。


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

窃盗誘発罪

ショートショート
10 /23 2023
新しいカテゴリ「ショートショート」を始めました。
 受けなかったらどうしよう…。

         ーーーーー◇ーーーーー

「窃盗誘発罪」


うち、無人販売やってます。
弁当とかお惣菜とか、あ、アイスなんかも置いてます。

でもこの頃は悪いヤツが増えて、
そう、万引き。
金払わないで品物だけ盗んでく。

あんまりやられるんで、捕まえようと思ってサ、
いろいろ仕掛けして。
料金箱の中にも防犯カメラを設置したり…。

DSC05658.jpg

そんで俺、店の奥に隠れて見張ってたんですよ。
見張り始めて一週間ぐらいたったころ、来たんだよ、いつものヤツが…。
防犯カメラに写っていたドロボーが。

中年の男だった。
身なりはまあまあ、普通。


で、この男、慣れた手つきでやり始めた。
弁当にアイス、一つじゃないよ、いくつも取り上げては袋に詰めてた。
さて、ここからが勝負だと思って、はやる気持ちを抑えて…。
金払うか払わないか、見極めなきゃなんないから。

で、やっぱり払わなかった。


俺は飛び出して行って、そいつに声を掛けたら、
「あ、お金、すいません。払うのを忘れた」って抜かしやがった。

今までのカメラで証明できるから、俺はヤツの目の前で警察に電話した。
警察官が二人来た。

ところがこの二人の警察官、俺に手錠かけてきやがったんだ。


「お、俺じゃないよ。ドロボーはこの男のほうだよ」と叫んだら、
警察官、首振って、自信たっぷりに言ったんだ。

「あんたを逮捕する」って。


一瞬、ニセ警官だと思ったけど、俺が電話したのは確かに警察だ。

ええーっ、な、なんでですか! 
と叫んだつもりだったが、あまりの出来事に口だけパクパク。

ヤツを見たら、ニヤニヤしている。


DSC09575.jpg

やっとこさっとこ「なんで、俺が…」と聞いたら、
警察官が言ったんだよ。


「窃盗誘発罪だ!」

「はぁ?」

「あんた、そういう法律出来たのを知らなかったのか」
「そ、そんなの知りません」

「あんたの店、弁当なんかを並べているよな」
「はい」

「そこには誰もいないよな」
「いません。無人販売ですから」
「それがダメなんだよ」
「えっ?」
「うまそうなものをたくさん陳列しておいて誰もいない」
「し、しかし…」


「陳列棚から弁当が、ちょいとそこの旦那、私、うまそうでしょ?って誘う。
昔から言うじゃないか。据え膳食わぬは男の恥って」
「エエーッ! それとこれとは…」


「色香に迷うのも弁当の誘いに手を出すのも、違いはない。
人間は弱いからな。わかるだろ?」

「いえ、わかりません」

「あのな、
かあちゃんを裏切るつもりも、法を犯すつもりもなかったにもかかわらず、
状況がついその気を起こさせてしまう。それがいけないって言ってんだよ。
腹が減ってればなおさらだ」

「そ、そんなァ…」

「つまりだな、
あんたの店は、善良な市民に犯罪を誘発しているってことだよ。
だから、あんたを窃盗誘発罪で逮捕する!」

にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

いつの間にか「傘寿」⑬

いつの間にか傘寿1
10 /20 2023
高校生になったら、すぐ上の兄も東京へ出て、
ここは父と母と私だけの家になった。

3人だけになったら母は優しくなり、父はますます寡黙になった。

今まで兄や姉たちがいた2階の部屋全部が私のものになった。

日曜日には1階の屋根に布団を干して寝転んだ。
私の上にあるのは空。動くものは流れる雲だけ。


恥ずかしながら、当時作ったポエムをご披露します。

DSC00069.jpg

あの雲に乗っかって

あの雲に乗っかって どこか遠くへ行きたい
どんなに気持ちがいいんだろう

はてしない空に浮かんで水色に染まって
突風を体で受け止めて
そうだ、雲の上で大きく背伸びをしよう
ああ、どんなに気持ちがいいんだろう


独り占めした空の中で
私は大声で泣き、大声で歌い出す
一人になった喜びと 一人になったさびしさを
両手にいっぱい抱えながら

     ーーーーー

屋根の上の私を見つけて、猫がやってきた。
一匹、二匹、三匹。

茶とら、ぶちねこ、からすねこ。

      ーーーーー

転居先で。家が出来るまで仮住まいした借家で。
二男が庭に出ると、どこからともなく大きな猫が現れて、
毎日、こうして寄り添い、二男がゴニョゴニョ言うのを目を細めて聞いていた。
img20231012_20091420.jpg

ねるねこ

ねこ ねこ ねる ねこ
ねんねこ ねこ ねる

横向いてスースー
両足伸ばしてフーッ


ひげピク
耳ピク
しっぽピク
いい夢見たのかな

ねこ ねこ ねる ねこ
ねんねこ ねこ ねる


チョンと鼻つついたら
丸くちぢんで ギュッと顔隠した

ねこ ねこ ねる ねこ
ねんねこ ねこ  ねる

どうにも眠くてたまらない
フーッ


    ーーーーー

田舎の猫は自由気ままだったけど、
後に暮らした新興住宅地の猫は大変でした。

     ーーーーー


猫嫌いの自治会長とお仲間がアジの干物をぶら下げたオトリカゴを仕掛け、
毎晩、住宅地を巡回して猫狩りをして歩いた。捕獲した猫をどうしたのか
追及されて答えられず、愛護団体から動物虐待で摘発され、
市からオトリカゴの返還を命じられた。

我が家へ来た捨て猫さん。無言で窓の外に佇んでいた。
化膿した前足をぶらぶらさせた猫も来た。薬を塗り、一晩、段ボールに。
img20231012_20073622.jpg img20231012_20073624.jpg

ねこはともだち

家の向かいのおくさんは
ねこを見張るのが仕事です
ねこよけのペットボトルに
水を入れ換えるのが生きがいなのです

家の隣りのおくさんは
ねこの通り道を見つけるのが仕事です
見つけた道に、
ガラスの破片を撒くのが生きがいです

はす向かいのおくさんは
ねこのフン探しが仕事です
どこにも落ちていないときは
しそうなねこがやってくるまで待ってます

みんなそれが生きがいなのです
ねこのおかげで楽しんでいるのです

ごはんを食べて布団を干して
テレビと電話と立ち話
子供の世話とときどき房事
次の日もまた繰り返し…
単調な日々の慰みに
どこの家のおくさんも肉食獣に変身し
小さな獲物を待ってます
ペットボトルの水を換え
道にガラスの破片を撒き
大事な庭に目を凝らす

ある日
夫たちが提案した
向かいの夫はこう言った
「アジの干物をぶら下げたオトリカゴを置いたらどうだい」
隣りの夫はこう言った
「トラバサミを仕掛けよう」
自信ありげに言ったのは
はす向かいの家の夫
「毒ダンゴならイチコロさ」

ところがおくさんたちは腹を立て
「とんでもない!」と首振った

向かいも隣りもはす向かいも
この世にねこがいなければみんな生きがいを失くすのです

おくさんたちとねこたちは
とても不思議な関係です

     ーーーーー

片手に乗るほどの捨て猫を息子が拾ってきた。
私の最後の飼い猫。エサの袋から顔が抜けなくなって七転八倒。
あずき

一人になった15の春。

赤いトタン屋根の上の私と猫たちは、
頭上に広がる空に溶け込んで、いつまでもまどろんでおりました。

にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

いつの間にか「傘寿」⑫

いつの間にか傘寿1
10 /17 2023
前回、同窓会のことを書いたらすっぽりはまり込んでしまい、
懐かしさから抜けられなくなりました。

修学旅行で。右端が私。
img20231015_05425535_0002.jpg

同窓会のあとにいただいた同窓生からの突然の手紙を改めて見た。
手紙の書き出しはこうだった。

「前略 突然ですが懐かしさに駆られてお便りいたします」


そしてそこには思いがけないことが書かれていた。
彼は私が書いた山登りの本2冊を読んでくれていたのです。

私の登山の始まりはこうだった。


東京から静岡に転居してみたら、ここには魅力的な山がいっぱいあった。
指をくわえて見ているだけではもったいない。
そこで私は地元の山岳会に入れていただいた。30代で二人の子持ち。

旧住民の主婦たちからは、
「私らPTAかママさんバレーしか外出を許されていないのに」と、
お門違いの文句を言われ、


新興住宅地の奥さんたちには、格好のいじめの材料にされて、
「登山って若い人がやるもんなのに、いい歳してみっともない。
遭難したらみんなに迷惑かけるのに無責任な人だ」と、
これまたお門違いな非難をされた。


苗場にて。息子たちを連れてスキーに。
「あの家、また変わったことを始めたよ」と、スキーも誹謗の対象に。
苗場

主婦たちが大勢働くパートの部品組み立て工場では、
こんなことが広まっていると、PTAで知り合った主婦から告げられた。

「あんた、ここでは有名人だよ。みんな言ってるよ。〇〇の変人って」

〇〇はここの土地の名。

しかし間もなく本を出版し、テレビや新聞に出ると状況は一変。
「〇〇の変人」はアッと言う間に「〇〇の貴重品」に格上げされた。

あのいやがらせ大学教授夫人までもが「わたしを山へ連れてって」ときた。

どんな相手であろうと、頼まれれば一生懸命尽くす私。
大学教授夫人とそのお仲間を数人、近くの低山に連れて行ったら、
途中で「疲れたから帰りたい」と言い出して、1時間もしないうちに下山。


別のグループからまた頼まれて連れて行ったら、途中から小雨になった。
途端に「こんな日に連れてくるなんて」と文句タラタラ。

「女子と小人は養い難し」そのものではないですか。

あ、同窓生の手紙から横道に逸れ過ぎました。

さて、同級生の彼が読んでくれていたのは、
私の登山の本「おかあさんは今、山登りに夢中」「お母さんの歩いた山道」。

これは二人の息子を高山に連れて行ったり、
私自身の生きざまと山を絡めた山行記録だったが、
まだ主婦や子連れ登山が珍しい時代だったため、注目された。

「お母さんになっても山登りしてもいいんですね」「勇気をもらいました」
というお便りを全国からたくさんいただいた。


そうか、みんなも同じ目に遭っていたんだと、驚いたり安堵したり。

私も見知らぬ農家の主婦から「よくそんなに遊んでられるねぇ」と言われたり、
近所の男どもからは「主婦のくせに」とあからさまに悪態をつかれた。
山仲間の友人はそんな地元を避けて、東京の山の会で活動していた。

他人のことばかり気にしてあげつらう人が、どうしてこうも多いんだろう。
自分が夢中になるモノを見つける方が、ずっと心豊かに生きられるのに。


体育祭で仮装大会の衣装を着て。その名の通り、いつも明るい照ちゃんと。
右端には胸を膨らませて女装した男子生徒が…。
img20231015_05425535_0001.jpg

同窓生は手紙にこう書いてきた。

「山登りの本二冊を読み終わり、
あなたの足跡と自分の人生をダブらせて感慨に耽っております。
気持ちはとても清々しく、こんな時を創ってくれた貴女に、
「有難うございました」を言いたくて、この手紙を書き始めました。


貴女の小気味の良い書き振りに感心する私の頭の中に、
咄嗟に「ふもと」とそこに書かれたあなたの詩が思い浮かび、
変色した七冊の小冊子を取り出して検めて見つけました。


昭和三十二年十一月五日発行の中学二年版「ふもと」NO45

練習       〇〇中学     雨宮清子

「きおつけー」
という声が運動場中に聞こえる
みんながくすくす笑う
わたしは兵隊さんのように
ピーンと立った
「ラジオ体操のたいけいにひらけー」
又もピリッとした声がする
消ぼう団のようにだだだととんでいく
道ゆく人がたちどまって
それを見ている


『だだだ』と飛んでゆく。同じ人だという証拠ですね。

雨宮さんとは高一の時一緒のクラスだったように思い、
写真を見たのですが見当たらず、高二の修学旅行の写真を見たら、
清楚な乙女がいるではありませんか。
ほっとして嬉しくなりました。


「お母さんの歩いた山道」に、K先生のことが書かれていますが、
私にも思い当たることが在り更に嬉しくなりました。

年老いた父が病の床に就き、家計も苦しく、
進学の可能性を考えられなかったその頃の私は、
勉強に励むことなど毛頭なく、バスケットボールと映画に熱中していて、
映画を観に行く為によく早引けをしました。

「蓄膿症の治療に病院へ行くので」と、K先生には偽り続けていました。
心の何処かに、
先生に対する痛みを抱えていた私をK先生が信用してくれたことが、
私には無上の張り合いとなり、『人を信じることが人を動かす』
ということを教わったように思いました。

貴女が同窓会の際、K先生に(追試の時の気遣いに対する)礼を
言いそびれたのと全く同じことを私も味わいました。

先生はもう私のことなど覚えてはいないだろうし、先生は誰彼の差別なく
自分の信ずるところを行っていた人だと思っていましたので、
挨拶をするのも変なもののような気がして、時をやり過ごしてしまいました。


今日までいろいろな人と接して来ましたが、『尊敬する』と言う言葉に
ぴたりと嵌る人は、K先生だけだったように思います」


体育祭・ほかのクラスの仮装。
当時はバイクで騒音を立てて走り回る若者たちを「カミナリ族」と言った。
1960年代の高校生たちです。
高校体育祭1

高校卒業からはや60余年。
改めて読んでみた同窓生からの手紙。

手紙は生き生きと語り掛けてきました。
涙もろい私はタオルで涙を拭き拭き読みました。


彼は、
失恋、組合運動の挫折、職場をいくつか変えたと赤裸々に綴っていました。


「平凡な人間として普通の男としての生活を作るまでには、
かなりの永い歳月が流れ、
それでも生きなければならないと経理の勉強を始め
…略…

現在の妻と見合い結婚をし、
六畳一間のアパート暮らしから新たな出発をした。
何かを背負うことにより
それを生き甲斐としなければ生きて行けないように思い、
ごく平凡な女を伴侶とすることが自分に合っていることを納得した。

今私の家族は妻と、妻の病気の実父と二匹の猫。
食っていければいいんだと腹を括ってのんびりやっています」


手紙には知り合いの山男から聞いたというケルト語のこんな言葉も。

「ア ファン アール ゴーディ(緑の谷間 希望の大地)」 

そして末尾をこう結んでいた。

「雨宮さんの本を読んで、元気を分けて貰ったような気がしています。
いろいろ昔のことを思い出して、楽しい気分です。
有難うございました」


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

いつの間にか「傘寿」⑪

いつの間にか傘寿1
10 /14 2023
無事、高校生になったが、勉強に身が入らなかった。
60年安保の前年で、世間が揺れていた時代だった。

私はというと、「虚無」という言葉に取りつかれ始めていた。
虚無というより「ニヒリズム」。
同じだけどなぜかカタカナの方が気に入っていた。

なんだかわからないまま、自分にピッタリだ!なんて興奮して…。

もうなんでも虚しく思った時代。高2の修学旅行の車中で、
「あれっ、アメちゃんが笑ったのを初めて見た」と言われてしまった。
img20231009_12494733.jpg

遅刻の常習犯にもなった。

登校がいやだったわけではない。
電車の本数が少ないため、前の電車で行くと40分ぐらい早く着きすぎる。
一本送らせると5分ぐらい遅刻するだけなので、どうしても後の電車になった。

当時の先生は「お前、また遅刻か」と言うだけ。気楽な時代でした。

なにしろこの世のすべてが虚しく思えていたから、
「人はなんのために生きているんだろう」なんて、いっぱし煩悶して。
その昔、華厳の滝へ飛び込んだ藤村操の言葉に反応して、
「ふむふむ、大いなる悲観は大いなる楽観に一致する。そっかぁ」と。

「勉強なんてやる意味あるの?」なんて真剣に考えていたから、
当然、勉強は疎かになった。

結果は如実に現れた。

「お前の姉さんや兄さんは優秀だったのになぁ」と担任から言われたし、
高2の時は数学で赤点をとった。

夏休みのある日、電話が鳴って私が出ると、担任からだった。

「今、近くに親はいるか?」
「いえ、いません」
「そうか。あのな、数学、ダメだった。追試に来い。親には内緒で来いよ」

勉強は嫌いだったが、この学校は大好きだった。

同窓会で。「きよちゃーん! オレ、好きだったんだよ」「ふええー」
あのころは笑顔も消えて、ラブレターもらってもトキめかず。

そういえば、当時「僕の可愛いみよちゃんは」って歌が流行ってて、
みよちゃんをきよちゃんに替えてからかったのは、もしや?
img20231009_12512398.jpg

ここは旧制中学から新制高校になった学校で、私は新制高校第十四回生。
圧倒的に男子生徒が多く、私のクラスは53人中、女子生徒は13人。
少ないところは4人。男子だけのクラスもあった。

バンカラが色濃く残り、先生と生徒の間にはいい絆があった。

教師の移動はほとんどなかったから、
「〇〇高のホコリ(誇り)、ゴミ(五味)先生」などのあだ名も
代々引き継がれていて、そんな「伝統」に私は感動したりしていた。

電車を降りたら駅で先生たちが並んで、「安保反対」のビラを配っていた。
ここの高校の専用みたいな小さな駅だったから、
この時間、降りるのはここの生徒たちだけ。

「先生何してんだよ」と生徒から声を掛けられて、
先生は照れながらビラを手渡してきた。
配る方も受け取るほうも和気あいあいの変な安保反対です。

ほかの高校なら大問題になっただろうが、ここは違った。

「剛健進取の志操は堅き 若き人生の闘志我らの 使命は重きこの濁世に」
の校歌のままの活力漲り、意見をはっきり言うことが許されていたから、
居心地は最高だった。

同窓会で久々に聞いた在校生からの応援エール。
このときからすでに30年。光陰矢の如し。
応援団

あのころは「未来の日本は安泰だよね」なんて信じていたけれど、
「剛健進取の志操」のかけらもない政治家や稚拙なゲーノー人種や、
エセジャーナリストがはびこるこんな濁世になるとは思いもしなかった。

とまあ、憎まれ口はこの辺にして、

高校時代の私、勉強はしなかったが映画はよく見た。

「禁じられた遊び」
戦争孤児の女の子と農民一家の少年の別れに胸が詰まった。
このころは戦争を批判する映画が多かった。
禁じられた遊び

実家が映画館という教師が、さりげなく割引券を置いていくので
そこへ行ったり、下校のとき途中下車した町て3本立てを見たりした。

「西部戦線異状なし」の、戦争推進者への痛烈な皮肉を
情緒的な表現の中で描いて見せたあの感動は格別だった。

主人公は愛国心を説く教師の言葉に感動して入隊したものの、
戦争はただの殺し合いだったことを知る。この主人公も戦死するが、
大本営は「今日も西部戦線異状なし」と発表した。

私は泣き泣き憤慨した。

「アラビアのロレンス」では、
ロレンスが熱砂漠の陽炎の中からユラユラ現れるシーンや、
砂漠の蟻地獄に落ちた少年の恐怖の目が、いつまでも瞼に残った。

「顔のない眼」では事故で顔を失った娘のために医者の父親が、
他人の顔を移植しようと殺人を犯す。だが移植した顔は次第に腐っていく。
人間って恐ろしいことを考えるものだなあと思ったが、
今や移植は普通のことになった。でも私にはこの映画がチラついて…。

「戦場に架ける橋」
第二次大戦中、日本軍が捕虜を使ってタイとビルマを結ぶ鉄道を建設した。
その過酷さから「死の鉄道建設」と言われた。実話から創作した作品。
戦場に架ける橋

「戦場に架ける橋」のララ、ラララ、ラッラッラーの主題歌の口笛、
「地下水道」の壁を叩く音、
「禁じられた遊び」の、哀しくしのびやかに響くギターの音色、
ミュージカル映画「ウエスト・サイド物語」のトゥナイトの透き通る歌声、
マリア、マリア、マリアの若者の力強い叫び、


どの映画の主題歌にも本当に感動した。「グレンミラー物語」もよかった。

西部劇もよく見た。
「リオ・ブラボー」では、リッキー・ネルソンに惚れ込み、
ジョン・ウエインにはスクリーン上で何度も会った。

「ローマの休日」ではヘプバーンに憧れた。


「鳥」に恐怖し、「老人と海」にはしみじみ。「渚にて」の人類滅亡の町で、
コーラの瓶が風に揺れて音を立てているシーンに、近未来はこうなんだと。

「ぼくの伯父さん」も楽しかったし、「チャップリンの独裁者」では笑った。

チャップリン

日本映画にもいい作品がたくさんあったはずだが、
「椿三十郎」しか思い浮かばない。

就学前、父に連れられて見た「東海道四谷怪談」が人生初の映画鑑賞で、
その後は美空ひばりとマーガレット・オブライエン共演の華やかなものに。

映画の前にパラマウント・ニュースがあって、これも楽しみのひとつだった。

最初にライオンがウワーオとひと声吠えるのだが、
私には顎がはずれかけたライオンが、
けだるそうに吠えているとしか見えなかった。

「ウエスト・サイド物語」
リチャード・ベイマー、ナタリー・ウッド、チャキリス、リタ・モレノ出演。
ウエストサイド物語

見終わって映画館を出るころはすでに夜。

商店街はシャッターが下りていて、街灯だけが歩道を照らしていた。
誰もいない町をコツコツと駅へ向かい、そうして辛抱強く電車を待った。


私の下車駅で降りる人はほんの数人で、
そのほとんどは駅近くの路地へ消えていくので、その先へは私一人になった。

坂道を上る途中に「大入道のお化けが出る」発電所の導水管があった。

小学生の時買い物を言いつけられて、胸に買い物かごを抱いて、
走り抜けた場所だが、高校生のこのときは緊張しつつも難なく通り過ぎた。

当時、近所の娘さんが強姦されて大騒ぎになっていたから、
私に何もなかったのは奇跡というほかはない。

夜遅く帰宅する娘を両親はどう思っていたのだろう。

あのスーパーカブ事件以来、父も母も何も言わなくなったが、
このときも何も言わなかった。

にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

いつの間にか「傘寿」⑩

いつの間にか傘寿1
10 /11 2023
高校生になった。
初めての電車通学。手首には真新しい腕時計。

クラスの女の子もみんな腕時計をはめていたが、
どれも小さくておしゃれなもので、私のものとは大違いだった。

私のはというとそれより一回りも大きくて、いかにも田舎じみたデザインで、
あ、町の女の子はこうなのかと、人生初のカルチャーショックを受けた。

これは母が雑誌の裏にあった通販で購入したものだった。

昭和34年にすでに通販なんてシステムがあったことに、今になって驚く。
たぶん母は郵便局から現金書留で代金を送ったのだろう。

そのころ、村の中学校から高校へ進学する生徒は、
ひとクラスにほんの数人だった。

母がよくこんなことを言って憤慨していた。

「この辺の人にしょっちゅう言われているんだよ。
女の子に金をかけるなんて馬鹿じゃねぇの?
どうせ他人にくれてやる子なのにって」


CIMG4278.jpg

そういえば、
昔の「オレ女子会」の二人も、卒業後は浜松の紡績工場に就職した。
都会の会社社長や医者の家のお手伝いさんになった女生徒も何人かいた。

「東京の大きな会社の社長さんの家に行くんだよ」と、無邪気に話していたが、
私は「15歳で女中さんになる」ということにひどく動揺した。

昔読んだ読み切り雑誌には、女中部屋に忍び込むその家の主人や
手籠めにされても黙って耐えるしかないまだ幼さの残る女中さんの話が
これでもかというくらい載っていたから、
その雑誌の挿絵と目の前の同級生がダブって見えて、ゾッとしたのだ。

60年ほど前の日本では、
地方の田舎の中学校に都会から「女中募集」という求人がきていたのだ。

お手伝いさんのことを当時は「女中」と言っていたが、本人は、
「行儀見習いに行く」と言い「東京に住む」ことを誇らしげに吹聴していた。

紡績工場へ行った幼なじみの一人は、工場を辞めてバーのホステスになり、
そこに来た客と結婚したと聞いた。


高校2年のころ、そこのおばあさんがやって来て、
「やだやァ、ここんちの娘は行かず後家かね」と、蔑むように言い、
「うちの孫の婿は〇〇高校出だからね。いいのを捉まえたよ」と、自慢した。


そうか、〇〇高校はこのあたりの人には特別な存在だったのか。

おばあさんは私がそこの生徒だということを知っていたのだろう。
目の前に赤ちゃけた皺だらけの顔を突き出して、
「女が偉くなると嫁の貰い手がないからねぇ」と、
とどめを刺すように言い放った。


私、やっぱり合わないなぁ、こういう田舎。つくづくそう思った。

DSC09934.jpg

子供の頃、よその家で何かをいただくと私は母の言いつけ通り、
それをしっかり握って家へ走った。

家に着くころにはいただいた飴玉は溶けてべたついていたが、
母はそれを手から丁寧にはがし、
神棚に挙げてご先祖さまに報告してから私に下げ渡した。

飴玉を口に入れて、急いでみんなの所へ引き返したがもう誰もいない。
そんな私を遊び仲間も大人たちも笑った。


万引きの見張りもさせられた。

顔見知りのご近所さんがホイホイと品物をエプロンのポケットに入れる。
電話を借りに来たおじさんが通話しながら、棚の缶詰を服の下に隠す。

私はただドキドキして固まり、万引きおじさんやおばさんが帰ってから、
「今の人が…」と母に伝えるのがやっとだった。

母はその報告を聞くなり怒り出した。
「なんでそのとき言わなかったのか」と。


この顔見知りが盗みをするという現実は、今でも理解できないままだ。
だって彼らは犯行の翌日も会えばいつもの通り、
「お暑うございます」だの「今日はいい塩梅で…」なんて言うんだから。

工事用に購入した砂を、真っ昼間、一輪車で堂々と運んでいくおばさんもいた。

母が咎めると「こんなにたくさんあるんだから」と食って掛かった。

「そんなケチなことを言うんなら、もうアンタんとこで買ってやんないから!」

この「買ってやらない」という捨て台詞を、子供の頃は何度も聞いた。
こんなゲスどもに「あんたはシンデレラみたいな子だねぇ」
なんて言われていた私。屈辱が何倍にも膨れ上がった。


とある神社の賽銭箱に書かれていた戒めと警告の張り紙。
「お賽銭を盗む方に申し上げます」「悪いことは止めましょう」
CIMG0300.jpg

まっぴらごめんのこの田舎で、町から来た父と母は商売を始めた。
万引き男や女にも頭を下げなければならないその悔しさ理不尽さは
私の比ではなかったはずだが、沈黙を貫いていた。

ただ母はこうした環境の中で子どもを育てるのを嫌って、
姉や兄を町の学校へ通わせた。

だが、次々大学へ進学するようになると、教育費の捻出が難しくなり、
次兄と私は村の中学校へ入った。
それほど違和感を感じずに過ごせたのは、
相変わらず詩を書き、本に夢中だったせいかもしれなかった。


むしろ違和感を覚えていたのは、まわりの級友たちだったようで、
みんなと親しく遊んだ記憶は数えるほどしかない。

田舎の人たちには馴染めなかったそんな私が、
子供のころ遊んだ山や川や美しい田んぼや生き物が忘れがたくて、
母親になってから田舎暮らしを始めたのだからおかしなものだ。

子育ては自然の中でと思い立ったのは、結婚6年目のとき。
長男5歳、次男1歳の時で、東京から静岡へ転居した。


わざわざ静岡市を選んだわけではなかった。

手持ちの頭金で買える土地を探して新幹線駅を順々に南下して来たら、
ここしかなかったというだけのこと。
購入したのは、静岡駅からバスで30分もかかる山を削った新興住宅地。

広大な沼が広がり、周辺の山々にはミカンやお茶畑。
沢ガニが這い、田んぼではカエルの大合唱。蛍まで飛んでいた。

この風景、大好き。自然に罪はないですもん。
CIMG4072.jpg

そんな山村に突如できた新興住宅地に、しゃれた家々が立ち並び、
新しい息吹を放っていた。

だがすぐに私は失望することになった。


干してある布団の値踏みから、
「お宅は何間ありますの?」と部屋数まで聞いてくる。

暇さえあれば道にたむろして、雑談に興じている。
エアコンをつけていたら「あんなもの必要ない」と、声高に言い、
「あれま、この家、車を持ってないよ」と嘲笑。

なにしろ「水洗トイレ」というのがこの住宅地の売りという時代だったから、
エアコンなんて妬みの対象にしかならなかった。

新興住宅地で知り合ったばかりの人から、
「あなたのところ、噂になってるよ。
東京で何か悪いことでもして逃げてきたんだろうって」と聞いて仰天した。

「みんなが憧れる東京からこんな田舎にわざわざ来るのは、
そこにいられなくなったからだ」と。

そういえばこんなこともあった。
転居して間もなく某案内所で県庁の場所を聞いたら、
係の人が憮然として「行けばわかる!」と。

後日、知り合った公民館の館長さんに話したら、こう言われた。

「静岡はまだまだ田舎なんですよ。
外から人が入ってくることに慣れていないから、
誰でも知っているそんな当たり前のことをなぜ聞くんだと、
そういうことなんですよ」

あれから半世紀。少しは変わっただろうか。

大学教授夫人がポストに投げ入れた嫌がらせメモ。
こういう意味不明のメモを頻繁に投げ入れて困った。

「回覧板からあなたが都合のいいものだけ、
私んちのポストへお入れください」って、何のこっちゃ。
いやがらせ

大学教授や医者や公務員がたくさんいても盗難はあった。
庭のつつじを根こそぎ持ち去られ、オートバイから部品だけ盗まれた。

次男と同級生の隣家の子供には放火、空き巣、タイヤのパンクと、
被害を受け続けた。放火についての親の言い訳は、
「たかがボヤにおおげさな。夜、寒かったんで温まろうとしただけじゃないの」

一人っ子のこの子にたくさんの習い事や塾通いをさせて、
成果が上がらないと、雨が降ろうが夜中だろうが折檻して外へ放り出した。
そのたびに「おばちゃん、助けて」と我が家のドアを叩いた。

その子が放火した。

乾燥注意報が出ていた真冬で、次男をつれて実家に行っていたため、
家には中学生の長男が一人でいた。

運よくその晩だけ雨が降ったので、火は外壁を焼くだけで済んだが、
燃え広がれば長男の命は危なかった。
決して「たかがボヤ」ではなかったのに。

仕事上では毅然としている私だが、こういうことには腰砕けになる。
あとから、なぜ警察に相談しなかったのかと悔やむのは毎度のこと。


長年一人で会計係をやっていた男が自治会費800万円余を横領、
という仰天の事件も起きたが、刑事事件にすると土地の値段が下がる
という理由からうやむやにされ、
(これも別の教授さまの発案)
横領を見つけて表沙汰にした住民二人がムラハチブにされた。

DSC08693.jpg

こうした新興住宅地の自称エリート新住民の悪質さに比べれば、
転居後入会した地元郷土史会の「旧住民」の発言は、
笑って済ませられるもので、例えばこんなものだった。

「新住民に俺の村を勝手に歩き回られては困る」
「女を連れて歩くと村の衆に笑われて後ろ指をさされるから、
あんたは調査に連れていけない」

井の中の蛙のたわ言で、脅威にもならなかった。


高校生になりたての頃に戻ろう。

駅へ向かう途中に同級生の男の子の家があった。
紳士服の仕立て屋さんで、
その子が父親から仕立物を習っている姿がガラス越しに見えた。

高校の制服を着た私と仕立て屋になった男の子。
そこを通るたびになんだか見てはいけないような気がして、
なるべく足早に通り過ぎた。

それから10数年たって実家へ帰る途中、ふと見たら、
あの仕立て屋さんは電気店になっていた。


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

いつの間にか「傘寿」⑨

いつの間にか傘寿1
10 /08 2023
中学3年生、15歳。

この年私は事件を起こした。

父はその年、
発売されたばかりのスーパーカブというオートバイを購入した。
たしか灰色か白と深いブルーの車体だったと思う。

年代で検索したら「1958年モデルC100 」というバイクだったようだ。

父は商品の仕入れをそれまでの電車からマイバイクに変え、
隣町の問屋まで通い始めた。

あれは確か、秋の終わりごろだった。

私はその買ったばかりの父のバイクを持ち出して、
小学校の校庭で乗り回したのだ。

こんなすごいバイクではなかったが、気分はこんな感じだった。
20231001_203554.jpg

高額なバイクを購入するかどうか、父は迷いに迷ったはず。
そうして一大決心をして手に入れた大事な商売道具だった。

それを私は持ち出して、小学校の校庭を走り回った。

イライラしていたわけではない。衝動にかられたわけでもない。

なぜそんなことをしたのか、自分でもさっぱりわからない。
今もってわからない。

無意識で、というほか表現のしようがない。

おかしなことに、乗り回したことだけは鮮明に覚えているのに、
その前後の記憶がポッと消えている。


たぶん倉庫から引きずり出して、道路を引いて歩いて行ったはずなのだ。

動かしたときどんなだったかと言う覚えがない。
車体が重いなどという記憶もない。

触るのも初めてだったから、それまで乗ったことなどもちろんなかった。
父がエンジンをかけるところは、なんとなく見ていた。


校庭へ辿り着くまでの道のりを、今、辿ってみると、
初めに家の前の坂道を引きずりあげ、坂のテッペンに辿り着いたはずだ。

そこから小高い場所に立つ校舎の脇を通り、第一校庭の脇へ出て、
そこから下の大きな校庭へ続く急な坂道を下って行ったはずなのだ。

放課後の校庭には野球をしたりゴム跳びやボール投げをする子供たちが、
思い思いに遊んでいたことは、かすかに覚えている。

CIMG5635_20231001202200ad7.jpg

寒い季節ではなかった。
日が落ちるまでにはまだ少し時間があった。

エンジンは難なくかかった。

座って右のハンドルを内側にひねると、
いきなり車体がグワンと跳ね上がり、そのまま突っ走り出した。


鉄棒の脇を通り、ブランコの前を曲がり、講堂が建つ石垣の前を左へ曲がり、
砂場の前に出ると、朝礼で校長先生が挨拶をする演台をすり抜けて走った。

2周目になったら、ますます速くなった。
3周目になってもバイクは止まらない。

スピードが出過ぎてなんとかしようとハンドルを強く握ったら、
ますます速くなった。

焦れば焦るほどスピードが増す。
このまま永遠に走り続けていなければならないのか、
そんな考えが頭に浮かんだ。


4周目に入ったころ、ハンドルを持つ手がだるくなって、
ふと、力が抜けた。

その途端、ストンストンとバイクが減速を始めて、やがて動かなくなった。

その後のことはここへ来るまでと同じように、全く記憶がない。

子供たちは恐れをなして逃げたのだろう。
気が付いたら校庭には誰もいなかった。


バイクを家まで引いて帰った覚えがなかったから、
きっと誰かが家に知らせて、家の者がすっ飛んできたに違いない。

来るとすれば父親しかいないが、誰が来たのかまったくわからない。
駐在さんが来た覚えもない。どんなふうに家に帰ったかも。

走ったこと以外、今もって記憶がスッポリ抜けたままだ。


CIMG4071.jpg

ただ誰からも叱られなかった。

「あんたは気味の悪い子だね。何を考えているのかさっぱりわからない」

いつもそう言っていた母もこの時は何も言わなかった。

私は少しも慌てず動揺もせず、
その後は何事もなかったかのようにそのまま普通に戻った。


「清子は戦争の真っ最中に生れ、母乳も出ずミルクもなし、玄米で育つ。
おとなしくスヤスヤ。小さいときからあまりしゃべらず、
何か夢見るような子供だった。
お祭りに行くと他の子供たちはいろいろ欲しがったのに、
清子はいらないといって、母親の私は理解に苦しんだ」

母は自叙伝にそう書いた。


お祭りに連れて行っても、綿あめもなにも欲しくないと言う私は、
確かに子供らしさのない「気味の悪い子」だったに違いない。

兄は欲しいものの前から動かず、それがかわいいと嬉しそうだった母が、
「いらない」と言う私のひと言で、怒りが頂点に達した。

今にも鉄拳が飛んできそうな気配を察して、
私はとっさに目の前のおもちゃを指さした。

それはネジを巻くと4本の足がギコギコ動くブリキの亀で、
ちっとも欲しくなんてなかった。

少しも嬉しがらない私を見て、母はますます不機嫌になった。


「母乳は出ないしミルクはないし。それで考えて玄米を粉にして
それを飲ませたんだよ。だからあんたは玄米っ子なんだよ」と母。
img20230919_13040906.jpg

私にはモノよりもワクワクするものがあった。

露店のタライの中を走り回る小舟、おみくじを口にくわえて運んでくる小鳥、
ガマの油売りのおじさんが自分の腕に刀を突き刺して叫ぶ口上、
サーカスの子供たちのどぎつい化粧に見世物小屋のおどろおどろしい看板。

私にはブリキの亀よりも、
こうした異次元の世界がたまらなく楽しかった。想像力が目まぐるしく働いた。

むりやり持たされたブリキの亀を暗い顔で握りしめている私を、
いまいまし気に睨んだ母。


そんな母が、新品のスーパーカブで走った15歳を叱らなかった。

「気味の悪さ」が度を越し過ぎて、恐れを成したのだろうか。
自叙伝に「母親の私は理解に苦しんだ」と書いた母は、
この娘を理解しようとするのは苦しむだけだからと諦めたのかも。


常に緊張を強いられていた小学生時代から少し解放されてホッとしたものの、
身の処し方がわからず、今度は糸の切れた凧状態になってしまった。
勉強もさぼり放題だったが、運よく高校生になれた。
img20231001_20540757.jpg

父も何も言わなかった。

未成年者が無免許で走り回り、
校庭の子供たちを轢いたかもしれない大事件だったのに。

桜の木から落ちた長兄や肺炎で危篤になった次兄のことや、
自転車にぶつけられて顔にケガをした次姉ことを、
母はまるで昨日のことのように事細かに自叙伝に記しているのに、
私のこの大事件については口を閉ざした。

もしかしたら、コーナーを曲がり切れず、
そのまま高台に建つ小学校から真っ直ぐ飛び出して崖下へ転落、
ということを父も母も想像して、
恐怖のあまり言葉を失くしてしまったのかもしれなかった。

この出来事を二人共、生涯、口にすることはなかったが、
私の手にはあのときのハンドルの感触が、今も残っている。


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

いつの間にか「傘寿」⑧

いつの間にか傘寿1
10 /05 2023
何かを書いているときは、嫌なことはすべて忘れられた。

書くのはいつも夜。
腹ばいになって、布団から頭と両手だけ出し、
電気スタンドの光の輪の中で書いた。

背中に乗った猫が肩越しに見ているのもいつものこと。

腰に乗っかる猫や足の間にすっぽりハマって眠る猫もいて、
私は重さに耐えかねると、体を揺すって猫たちを振り落とした。

猫の日記も書いた。
一番小さい猫のコロを書いた。


コロ日記

先生が赤ペンで褒めてくれた。

「だんだん面白いものが書けますね。
観察もとても細かく表現の仕方も上手です」


中学一年生のときの詩集にも、担任の女性教師が書いてくださった。

中一の詩

家で褒められたことがなかったから、すごく嬉しかった。

母との思い出はつらいことばかりのように思っていたが、
昔の写真の中にはこんなのもあった。


母と私。
電車に飛び込もうとして踏切に向かった1年前の小学3年生のときの写真。
母はこんなふうな優しさから一転、鬼になる。これがつらかった。

でも、改めて見ると母はずいぶん痩せている。
カナダへ渡った次姉が「父の兄の後妻さん、母を見下して家へ来るときは
持参したおにぎりを食べたそうよ。母の料理は汚いからって」

母は心身ともに疲弊していたのだろうと、今にして思う。
img20230923_08485051.jpg

母が子供たちを大切にしてきたことは、残された写真から理解できる。

あの過酷な戦前戦後に、
母は子供たちのために町の写真館で、七五三の記念写真を撮っていた。

全員、真新しい服や着物。母は和裁も洋裁も難なく出来た。


後年、地元の郷土史の会で「ひな祭り」の展示を催したとき、
土人形の芥子びなと7歳のお祝いの写真を展示した私に、
30歳も年下の女性が羨ましそうに言った。

「雨宮さんは七五三をやってもらったんですか。お金持ちだったんですね。
私にはこういう写真がないんです」


長女         長男       二女
img20230919_13040906_0002.jpg img20230919_13070925.jpg img20230919_13070925_0001.jpg

二男        三女の私
img20230919_13093378.jpg img20230919_13001125_0002.jpg

21歳で嫁いできた母は、昭和11年から18年まで絶え間なく出産。
その間も働き詰め。

父も母も慣れない商売で散々な目に遭いながら、黙々と働き続けた。

この地区で電話があるのはうちだけだったから、みんなが借りに来た。
東京や名古屋で働く子供たちへの長距離の長電話ばかりなのに、
通話料を払う人は一人もいない。
たまりかねて母が「タダではないんですが」と言っても誰も払わなかった。

父は父で大晦日は掛け取りに出向くものの、すんなり払う家はない。
夜逃げをされてがっくりして帰ってきた父の姿が、目に焼き付いている。

真夜中まで働いたので、お餅つきはいつも除夜の鐘を聞きながらだった。

そんな中で二人は5人もの子供を育ててくれた。


「姉さんや兄さんたちには立派なお雛さんや五月人形があるのに、
あんただけは何もないから」と買ってくれたのが、親指ほどの芥子びなだった。

戦時中、行商のおばさんから買ったものだという。

ひな祭りになると姉たちの立派な御殿飾りの一番下の段にこれが置かれた。
私は嬉しくてたまらなかった。私と共に80年。今も毎年飾っています。
CIMG5519.jpg

小学6年生になるころには、長姉や長兄は大学生になって家を離れた。
急に家の中が静かになった。

母が優しさを見せるようになったのもこのころ。


中学1年の時の日記を見たら、こんなことが書いてあった。

「今日は私の誕生日である。
母からスイカをもらった。スイカの上に貼った紙に、
丸きもの スイカのごとく 十五夜のごとく 太陽のごとく 
まるき心になってくれ、と書かれていた」


当然、嬉しかった。

小学6年生の私と母。
歯がボロボロになってしまった母は、
渡り者のインチキ歯医者に変な入れ歯をはめられておかしな口元になった。
これをいつも悩んでいたが、後年、作り変えて元の愛らしい口元になった。

この時の母はまだ42歳。年齢以上に老けているのが痛ましい。
img20230924_08350208.jpg

だが、以前の母はこうではなかった。
姉の誕生日に、母は一人一人に名前の由来を語って聞かせた。

長女のW子は皇族の名から、次男は海軍大将にとの願いを込めて、と。
順々にそう言って、次はいよいよ私の番だと待ち構えていたら、
何も言わない。恐る恐る、「私は?」と聞いたら、

「ああ、あんたはね、欲しくて産んだ子ではなかったから。
それでぎりぎりになって、なんでもいいから思い付いたのを届けた」

高校生のとき、ふと友人に話したら、話しているうちに涙が止まらなくなった。
そんな私に友人はこう言って慰めてくれた。

「いい名前よ。清らかな子ってあなたにピッタリ。苗字と合ってるし」

img20231002_09304906.jpg

どれが母の本心なのか、今もってわからない。

ただ言えるのは、10のうちの9個は優しさであっても、
残りの1つが理由なき鉄拳やグサリと胸に突き刺さる残酷な言葉であれば、
9個の優しさは雲散霧消して、すべてが不幸に置き換えられてしまう、と。

それでも、
星明かりのない冬の夜、ふみきりへ向かったあの小学4年を境に、
母は少しずつ変わっていった。
私に手を挙げることがなくなり、突き刺すような暴言も少なくなった。

だが、私は決して気を緩めはしなかった。


中学2年生になると、次姉も東京へ行ってしまい、
子供は次兄と私だけになった。

子供が去っていくたびに母は覇気を失うように見えた。
その開いた穴を埋めるかのように、母は私に近づいてきた。

だが、そうして急接近されればされるほど私は逃げた。
あれほど「お母さん、たまには私も見て!」と願っていたのに。

みんながいなくなったその穴埋めなんだなという思いがあったし、
近づき方がぎこちなかったし、
さらに姉や兄が休みで帰省したとき、たちまち元の母親に戻るのを見て、
やっぱりあれは幻想だったんだと落胆した。

母の心の揺れに、私は相変わらず影響を受け続けていたから、
幼いころからの緊張をどうしても解くことが出来なかった。

これがいつ逆方向に変わるかもしれないという不安や恐れ、
本当に人ってそんなに変われるものなのかという不信感、

そういうもろもろが、14歳の私にのしかかってきた。

にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

いつの間にか「傘寿」⑦

いつの間にか傘寿1
10 /02 2023
二階に上がる階段の下に三角形の隙間があって、そこに本棚があった。

本棚の前は廊下だったが、電気はなく昼間でも暗い。
その暗い中で本棚の扉を開けると、中でいろんな本が待っていた。

母の婦人雑誌、姉が読んだ詩集や小説、絵本や購読していたキンダーブック。
村には幼稚園がなかったから、これが私の「学びの場」になっていた。

絵本の「さるかに合戦」は、今でも覚えている。

「くりがポカンとはぜましたッ。さるはびっくりおおやけど。
かにをいじめたさるさんは、みんなにいじめッ、られましたッ」

いつも一人で大きな声で読んでいた。
登場する臼にも栗にも手足が生えている。あり得ないことがここにはある。
ワクワクした。


私は自分が母親になったとき、
息子たちに次から次へと絵本や児童書を読み聞かせた。

次男が高校入試の面接で、教師から「好きな本は?」と聞かれて、
「ロアルド・ダールのチョコレート工場の秘密」と答えたら、
「君は15歳にもなってそんな子供の本しか読んでいないのか」と言われ、
居合わせた受験生たちにも笑われたという。


チョコレート お化け桃

「先生はこの本や作者をよく知らないんだよ」と、私は息子に言った。

ロアルド・ダールには、
「来訪者」「昨日は美しかった」などの異色の短編集がある。
この作者は、ひねりとユーモアと恐怖をさらりとまとめる短編小説の名手。

その摩訶不思議な物語には、大人とか子供とかを超え、区別などない。


来訪者 昨日は

だから私の書棚には今も、
「チョコレート工場の秘密」も「おばけ桃の冒険」も並んでいる。

沖縄の長男の家に行ったら、やっぱりあった。

「これ、好きでね。こっちに来てから買った」
と言うのを聞いて、私は内心、ニヤリとした。


私を本の世界に導いてくれたのは、まぎれもなく母だった。
読んでくれた覚えはない。だが、いつも本は用意されていた。

あの階段の下の三角形の薄暗がりの、観音開きの扉を開けると、
待ちかねていたように本たちが語りかけてきた。

詩集もあった。
姉が大声でそらんじていた「からまつの林を過ぎて」
(北原白秋)もあった。
後年、山登りでカラマツの林を通ると、きまって
「からまつはさびしかりけり」が口を突いて出た。

「からまつはさびしかりけり たびゆくはさびしかりけり
からまつの林の奥も わが通る道はありけり」


堀口大学の「夕ぐれの時はよい時 かぎりなくやさしいひととき」も、
一瞬、物音が消えた夕ぐれに遭遇するたびに、この一節が浮かんだ。


中原中也は最も好きな詩人だった。
山之口獏の「妹へおくる手紙」も好きになった。

文語調の藤村の詩は難しかったが、なんとなくわかるような気がして、
後年、本を買った。


小学6年生。少し気取りが出てきた。
img20230924_19125710.jpg

小学校に上がると、母は小学館の小学一年生を本箱に入れてくれた。

学年があがるたびに、
母は今まで通りの本がいいか、「少女」という雑誌かを決めなさいというので、
迷いつつ「少女」にしたら、松島トモ子や小鳩くるみなんていう童謡歌手が
たくさん出ていて、世の中にはいろんな人がいるんだと驚いた。


母の婦人雑誌も盗み見た。
女性の性について書かれていて、秘密を知ったようでドギマギした。

そのうち、小銭を握りしめて近くの貸し本屋で、
分厚い読み切り雑誌を借りてくるようになった。

何人もの手垢や汗でめくりあがった汚い雑誌だったが、気にならなかった。


好きな女の家に忍び込むのに飼い猿を小窓から入れて、
戸口の錠前を開けさせた話など、夢中で読んだ。
総ルビだったから、難なく読めた。

学校で先生がみんなに「小公子」だの「野口英世伝」など読み聞かせたが、
しらけながら聞いていた。思えば生意気な小学生だった。


小学6年生の修学旅行は東京だった。
昭和30年ごろの羽田国際空港。閑散としていました。
img20230924_19125711.jpg

夜は枕元にノートと鉛筆を置いて寝た。

天井を見つめていると、ふいに言葉が浮かぶ。それをすぐ書き留めた。
はらばいになって書いていたので、背中に乗った猫が肩越しに見ていた。
猫の手が鉛筆の動きにじゃれるのを、払いのけながら。

当時、この県東部には「ふもと」という文集があった。


富士山のふもとに点在するそれぞれの小・中学校が連携して作った文集で、
先生は私の詩をそれによく応募してくれた。

そんなことなどすっかり忘れていた50代のとき、
突然、分厚い手紙が届いた。


それは初めて出席した高校の同窓会から帰って間もなくのことで、
差出人の名前に覚えはなかったが、開けてみると同窓生からだった。

名前も顔もほとんど覚えがない。
だが、読み進むと、思いがけないことが書かれていた。


「同窓会であなたを見て、やっぱりこの人だと思いました。
あなたは子供の頃、ふもとに詩を載せていましたよね。
僕はあなたの詩が好きで、今でも全部持っています」

手紙には当時の私の詩がすべて書かれていた。


昔の詩のノート。かろうじてこれだけ残っていた。
img20230923_08471626.jpg

このとき、
「ふもと」が発刊されていた時代からすでに40年以上もたっていた。
しかもこの人は、今は故郷を離れて暮らしているという。
なのに私の詩が載った「ふもと」を持ち続けているというのだ。

夢を見ているようだった。

もがき続けていた少女時代の、
同じ富士山のふもとに住む見知らぬ女の子の私を、
この人は詩を通してひそかに見続けてくれていたのだ。

CIMG4984.jpg

しかも高校生の時も40年後の同窓会でも名乗りもせず、
手紙という形でそれを伝えてきた。

私はこの時、初めて知りました。
意図せず知らないまま、人を感動させることがあるってことを。

しかし、2回ほど手紙をやりとりしたあと、音信がプツンと途絶えた。


数年して再び開催された同窓会で、私は意外なことを聞かされた。

「彼は亡くなりました」

あのときすでに不治の病いだった、と。


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞