いつの間にか「傘寿」㉒
いつの間にか傘寿2
二人っきりになった父と母に、何か喜んでもらえることをしたいと思った。
母はなによりも本が好きだったし、父が「隠れ本好き」なのを知っていたし、
それに私は出版社にいるのだからと本を送ることにした。
二人が好きそうな本を社員割引きの7掛けで買って送ったら、
折り返し母から手紙が来た。
「お父さんは清子の手紙をジッと読んで目をそらし、
手紙だけお母さんの方へ寄こし、楽しそうに読み始めました。
子の文のやさしさ汗の目にしみる
これでもかこれでもかとでもいうように、連日の猛暑。
清子は溶けそうなアスファルトの上をコツコツと歩いているのかしら。
パラソルをさしてください。日射病になりますから」
父に贈った林房雄氏の「西郷隆盛」
手紙の末尾に母から、さらなるお願いがあった。
「新潮社刊 俳人伝記集 吉屋信子著『底の抜けた柄杓』
手に入りましたらお願いいたします。母より」
と書いた後、気が引けたのか、
「でも今度はこちらで買いますから、心配しないでください」とあった。
しばらく逡巡したのだろう、数行あけたあと、今度は、
「『西郷隆盛』は五巻までいただきました。
出来ましたら後、おねがいします。
お父さんが楽しみに待ってゐるようですので」と、書かれていた。
こんな小さな広告でも何度も赤を入れられた。
母の希望した吉屋信子の「底の抜けた柄杓」を送ったら、
嬉しさ全開の礼状が来た。
「今日は待望の本と手紙をありがとうございました。
おどる胸をおさへて紐を解き、一気に三分の二読んでしまいました。
ほんとうにありがとう」
今東光氏の本には、勝新太郎さんが「発刊に拍手」を送っています。
「今氏の小説群は今日の壮観であろうか。
構想行文が天馬空を行く如く爽快で男性的である」
またある日の手紙には、改まった口調の礼状が届いた。
「昨日は高價な本二冊もお送りいただきありがとう。
こんな立派な本を読むのも絶へて久しき。
毎日少しずつ読ませてもらおうと心楽しく思ってをります。
心もとない巣箱から(子供たちが)順々に飛び立って行き、
ついに最後の一羽も大空めがけて飛び立ち、
破れた古巣を抱いて虚しき心も癒えし今日この頃。
運ばれた短い文のふしぶしに、楽しさ満ち溢れてゐるのを知り、
うれしく思っています。
いつの間にこんな丈夫な木になってゐるのか。
雨にも風にも嵐にも、きっと耐へて行く事を信じます」
「色にかけてはひけ目をとらず、欲にかけては並ぶものなし」などと書く私を、
編集長がからかった。「色の道を知らないから、ズケズケ書けるんだよなぁ」
若手社員たちが「雨宮清子の処女を守る会」を作った。
当時編集部は3つあった。
別の編集長から猛烈なセクハラを受けたが、みんなが守ってくれて助かった。
「艶話(えんわ)いなもの」の作者、近藤啓太郎氏のところへ行ったら、
仕事場は日本旅館だった。仲居さんに案内されて部屋へいったら、
敷きっぱなしの布団から顔だけ出して、「おお、来たか」
「僕の小説、どこが面白かった?」と聞くから、私は廊下に正座したまま、
「はい。チンクサーレがおもしろかったです」と言ったら先生、大爆笑。
チンクサーレは男性自身に塗るとそこが腐る薬のことで、
コンケイ先生の造語。浮気者の亭主への浮気防止薬だったのです。
「清子は雨にも風にも嵐にも耐えていくと信じています」
と言う手紙の中に愚痴も忘れない。
「人生及び結婚の敗残者の私が、こんなことを言うのは一寸変だけれど、
人生はやり直しがききません。
性合わぬ夫と幾年暮らしつつ
涙しつつもむち打つ我に」
母の心の動きは、相変わらず右に左に揺れているのか、
ドキッとする手紙のあと、
今度は何事もなかったような日常を綴った手紙が届いた。
「もうすぐお父さんが仕入れから帰る頃です。
お父さんも昨日から清子からの本を読んでゐます。
お父さんには講談本のほうがよいようです」
母はあからさまに「性合わぬ夫」と、父をコケにしていたが、
父は私に言ったことがあった。
「お母さんと一緒になってよかったよ」
なにはともあれ、二人で寄り添って暮らしている様子に私は安堵した。
そんなある日、社長がニコニコしながら私に近づいてきた。
「雨宮クン。ご両親からおいしいものを送っていただいたよ。ありがとう」
一瞬、ドキンとした。
すぐ母に問い合わせたら、
「社長さんやみなさんに食べていただこうと思ってね、お父さんと二人で
草餅をたくさんついたの。お餅のほかに柿と栗も入れてお送りしたの」
写真の裏に母の文字で、
「ゲバ学生ではありません。アケビを取るお父さんの雄姿」と。
父は栗もこうしてとってくれたのでしょう。
子供の頃、店を閉めた大晦日の深夜、大きな臼を真ん中に、
父が杵を持ち母が手返しをしていた餅つきの光景が浮かんだ。
実家の庭には大きな丹波栗の木があった。
甘柿の木はなかったから、父が隣町の果物屋から買ってきたのだろう。
都会の人にはヨモギの匂いはきついかもしれないし、
生の栗の処理に困っただろうと私は気を揉んだが、
東京の会社を知らない父と母からの、田舎まるだしの素朴なこの贈り物を、
社長は心から感謝して受け取ってくれた。
ありがたかった。
社員旅行で。徳間社長と普段は交流がない女性社員たちと。
改めて徳間社長の生年月日を調べたら、この時はまだ42歳。若かったんだ。
いつもニコニコしていて器の大きな人でした。
当時の奥様はミス早稲田だったとか。恐妻とのうわさも。
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母はなによりも本が好きだったし、父が「隠れ本好き」なのを知っていたし、
それに私は出版社にいるのだからと本を送ることにした。
二人が好きそうな本を社員割引きの7掛けで買って送ったら、
折り返し母から手紙が来た。
「お父さんは清子の手紙をジッと読んで目をそらし、
手紙だけお母さんの方へ寄こし、楽しそうに読み始めました。
子の文のやさしさ汗の目にしみる
これでもかこれでもかとでもいうように、連日の猛暑。
清子は溶けそうなアスファルトの上をコツコツと歩いているのかしら。
パラソルをさしてください。日射病になりますから」
父に贈った林房雄氏の「西郷隆盛」
手紙の末尾に母から、さらなるお願いがあった。
「新潮社刊 俳人伝記集 吉屋信子著『底の抜けた柄杓』
手に入りましたらお願いいたします。母より」
と書いた後、気が引けたのか、
「でも今度はこちらで買いますから、心配しないでください」とあった。
しばらく逡巡したのだろう、数行あけたあと、今度は、
「『西郷隆盛』は五巻までいただきました。
出来ましたら後、おねがいします。
お父さんが楽しみに待ってゐるようですので」と、書かれていた。
こんな小さな広告でも何度も赤を入れられた。
母の希望した吉屋信子の「底の抜けた柄杓」を送ったら、
嬉しさ全開の礼状が来た。
「今日は待望の本と手紙をありがとうございました。
おどる胸をおさへて紐を解き、一気に三分の二読んでしまいました。
ほんとうにありがとう」
今東光氏の本には、勝新太郎さんが「発刊に拍手」を送っています。
「今氏の小説群は今日の壮観であろうか。
構想行文が天馬空を行く如く爽快で男性的である」
またある日の手紙には、改まった口調の礼状が届いた。
「昨日は高價な本二冊もお送りいただきありがとう。
こんな立派な本を読むのも絶へて久しき。
毎日少しずつ読ませてもらおうと心楽しく思ってをります。
心もとない巣箱から(子供たちが)順々に飛び立って行き、
ついに最後の一羽も大空めがけて飛び立ち、
破れた古巣を抱いて虚しき心も癒えし今日この頃。
運ばれた短い文のふしぶしに、楽しさ満ち溢れてゐるのを知り、
うれしく思っています。
いつの間にこんな丈夫な木になってゐるのか。
雨にも風にも嵐にも、きっと耐へて行く事を信じます」
「色にかけてはひけ目をとらず、欲にかけては並ぶものなし」などと書く私を、
編集長がからかった。「色の道を知らないから、ズケズケ書けるんだよなぁ」
若手社員たちが「雨宮清子の処女を守る会」を作った。
当時編集部は3つあった。
別の編集長から猛烈なセクハラを受けたが、みんなが守ってくれて助かった。
「艶話(えんわ)いなもの」の作者、近藤啓太郎氏のところへ行ったら、
仕事場は日本旅館だった。仲居さんに案内されて部屋へいったら、
敷きっぱなしの布団から顔だけ出して、「おお、来たか」
「僕の小説、どこが面白かった?」と聞くから、私は廊下に正座したまま、
「はい。チンクサーレがおもしろかったです」と言ったら先生、大爆笑。
チンクサーレは男性自身に塗るとそこが腐る薬のことで、
コンケイ先生の造語。浮気者の亭主への浮気防止薬だったのです。
「清子は雨にも風にも嵐にも耐えていくと信じています」
と言う手紙の中に愚痴も忘れない。
「人生及び結婚の敗残者の私が、こんなことを言うのは一寸変だけれど、
人生はやり直しがききません。
性合わぬ夫と幾年暮らしつつ
涙しつつもむち打つ我に」
母の心の動きは、相変わらず右に左に揺れているのか、
ドキッとする手紙のあと、
今度は何事もなかったような日常を綴った手紙が届いた。
「もうすぐお父さんが仕入れから帰る頃です。
お父さんも昨日から清子からの本を読んでゐます。
お父さんには講談本のほうがよいようです」
母はあからさまに「性合わぬ夫」と、父をコケにしていたが、
父は私に言ったことがあった。
「お母さんと一緒になってよかったよ」
なにはともあれ、二人で寄り添って暮らしている様子に私は安堵した。
そんなある日、社長がニコニコしながら私に近づいてきた。
「雨宮クン。ご両親からおいしいものを送っていただいたよ。ありがとう」
一瞬、ドキンとした。
すぐ母に問い合わせたら、
「社長さんやみなさんに食べていただこうと思ってね、お父さんと二人で
草餅をたくさんついたの。お餅のほかに柿と栗も入れてお送りしたの」
写真の裏に母の文字で、
「ゲバ学生ではありません。アケビを取るお父さんの雄姿」と。
父は栗もこうしてとってくれたのでしょう。
子供の頃、店を閉めた大晦日の深夜、大きな臼を真ん中に、
父が杵を持ち母が手返しをしていた餅つきの光景が浮かんだ。
実家の庭には大きな丹波栗の木があった。
甘柿の木はなかったから、父が隣町の果物屋から買ってきたのだろう。
都会の人にはヨモギの匂いはきついかもしれないし、
生の栗の処理に困っただろうと私は気を揉んだが、
東京の会社を知らない父と母からの、田舎まるだしの素朴なこの贈り物を、
社長は心から感謝して受け取ってくれた。
ありがたかった。
社員旅行で。徳間社長と普段は交流がない女性社員たちと。
改めて徳間社長の生年月日を調べたら、この時はまだ42歳。若かったんだ。
いつもニコニコしていて器の大きな人でした。
当時の奥様はミス早稲田だったとか。恐妻とのうわさも。
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