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古地図にだけ存在

消えた間宮一族
11 /27 2020
消えなかった「下高野の間宮家」から、
消えてしまった「外郷内の間宮家」へ、そろそろ戻ります。

この本家・分家の交流は長く続いたと思われますが、
今も存在する間宮家へ養子に入った12世・長左衛門以外は、
そのつながりを証明するものは見つかりませんでした。

そして、
外郷内の間宮家だけが時代の波に沈んでいきました。

可能な限り現地を調査して歩いた斎藤氏、
原点へもどるしかないと判断。再び、あの「左門石」のあるスタート地点へ。

「左門石」は、最初、どこの神社へ奉納されたか、
という問題を突き止めようとしたとき、まず浮かんだのが古地図です。

これは明治40年の「外郷内」です。
外郷内香取神社マーク (3)
「今昔マップ」 埼玉大学教育学部・谷謙二(人文地理学研究室)より

なんと、
今は跡形もない「香取神社」(赤丸)が地図に載っていました。

この神社は明治44年、
平須賀の香取神社(宝聖寺隣り)に合祀されたため姿を消しましたが、

古地図の中では生きていて、
「ここだ、ここだ」と、その存在を主張していました。

地図をご覧ください。
神社(赤丸)の隣りの青丸は、今は消えてしまった「間宮家」です。

この村の若者たちは、村の鎮守の香取神社で力くらべをやっていた。
その石に「間宮左門」さんが文字を刻み奉納した。

そう思わざるを得ません。

オレンジの丸は桑畑です。緑色の丸は広葉樹。
大きな木が空へ向かって伸びていたのでしょう。

周りは一面の田んぼです。

こちらは、上の地図と同じ場所の「明治期迅速測図」です。
香取社明治期 (2)
同上

赤丸が「香取神社」、青丸が「間宮家」(ご近所の方の証言から)。

今はどうなっているのかというと、
赤い斜線のところが香取神社があったところです。

もう、間宮家も神社も、跡形もありません。

IMG_8316 (3)
同上

地上から見ると、こんな感じ。なぁーんにもありません。

IMG_8306.jpg

その場所に立ったとき、斎藤氏の脳裏に、
往時の村の様子が生き生きと浮かんできたそうです。

稲の収穫も無事終えて、今日は楽しい村祭りです。
香取神社からド-ンドーンと祭り太鼓が聞こえてきます。

田んぼのあぜ道を子供たちが駆けていきます。

お宮の境内には、ふんどし一つの外郷内の若者たちが、
間宮左門主催の「力持大会」が始まるのを、今か今かと待っています。

始まりました!
境内に置かれた力石に若者たちが次々とチャレンジ。

「担げたぞ!」「おっこどした!」と大騒ぎ。

そのたびに、見物の老若男女が笑ったり拍手したり…。
ひそかに恋心を抱いていた若者の登場に、頬を染める娘っこも。

そして間宮左門は、その石の中で一番重くて様子のよい石を選び、
今日の良き日の記念に文字を刻んで、神社に奉納した…。

img20200325_19521629 (3)img20200325_19550187 (2)
「こうしんさまの力石」野村昇司・作、阿部公洋・画 ぬぷん児童図書出版 1983


   ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(11・26)

「千葉県我孫子市江蔵地・水神社」

二句、ご紹介しています。
そのうちの一句は、三代目山遊亭金太郎師匠の句です。

金太郎師匠の趣味は俳句。
力石も詠んでくださった。嬉しいです。

でも昨年9月、63歳でご逝去。あまりにも早い。

句は、力石にドカッと腰かけて日なたぼこをしたときの句です。
本当はね、力石は神聖なものだから腰かけるなんてもってのほかなんだよね。

で、石を尻に敷いた師匠、今は石の尻に敷かれちゃって。

でも、当の力石はニコニコ。

「師匠は尻まであったかかった。だからおいら、気にしちゃいねえ。
せっかくだから、おいらを「金太郎師匠腰かけ石」と名付けてほしい。

ほらよくあるだろ? 頼朝の腰かけ石とかサ。そしたらおいらも鼻高々だよ」


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「りょう」という名称

消えた間宮一族
11 /23 2020
昔、黄檗宗の寺を訪れたことがあります。
円山応挙が描いた幽霊の絵があるというお寺です。

くねくねした山道を登り詰めると広場があって、
その入り口で迎えてくれたのがこの力神です。

img20201121_21005158 (3)

大きな甍(いらか)をのせた本堂は深い緑に溶け込み、
今はただ、かつての栄華の夢にまどろんでいるようでした。

同行者が、「お墓が一つもない珍しいお寺ね」と言うので、
「墓がないのに”幽霊”はいるのよねえ」と返して、フフフと笑い合った。

そんな経験があったのに、私はまた、いつの間にか、
寺には墓があって当たり前という思い込みにとらわれていました。

斎藤氏も、間宮家の墓は永福寺にあるはずと思い、探したものの見つからず。

そこで寺の奥様に聞いてみると、こんな返事が…。

「間宮家の「りょう」は、
この門を出て右へしばらく行った右側にありますよ」

下高野間宮墓
埼玉県北葛飾郡杉戸町・共同墓地 「下高野・間宮家陵」

「りょう」という名称が出てきたのはこれで2度目。

最初は、平須賀外郷内の間宮家跡で。

ご近所のおじいさんが田んぼの中の墓地を指しながら、斎藤氏にこう言った。

「あそこに「りょう」があった」
「粗末な小屋があって、遊女なんかがいた」

それで私は、
「子孫が絶えて住む人もいなくなった間宮家の墓守りの小屋に、
おりょうさんという遊女が流れ着いて住んでいたのか」

などといい加減な空想をしたものの、ずっと引っかかってはいた。

共同墓地田んぼの中の
埼玉県幸手市平須賀 「外郷内・間宮家陵」

「杉戸町だ、幸手市だ」と話が飛びますので、ここで地図をお見せします。

img20201028_10043417 (3)

ご覧の通り、下高野・間宮家の北葛飾郡杉戸町(永福寺あたり)と、
外郷内・間宮家があった幸手市平須賀(宝聖寺あたり)は隣り同士です。

左上の権現堂は、河岸場があったところ。
幸手出身の雷権太夫率いる勧進相撲が行われたのもこの近くでした。

右上は利根川と江戸川の分岐点に立つ「関宿城跡」。
ここは千葉県です。

昨年私は、
「万治石」お披露目の帰り、地元の方のご案内でここへ立ち寄りました。

斎藤氏は今年、愛車の黒平くんとポタリング。

平関宿城と黒
千葉県野田市関宿三軒家・千葉県立関宿城博物館

さて、この「りょう」、
寺の奥様によると、「りょう」は「陵」と書くのだという。

それで、外郷内の「りょう」も、この「陵」だったのかと合点がいった。

しかし、
「陵」は普通、天皇陵など、高貴な人の墓所をいう。
それをここでは一般人の墓所をそう呼んでいた。

土地の旧家だけがそう呼称していたのか。
それとも単なる「丘状になった墓所全体」の意味なのか。

とても興味深い名称だと思いました。

そしてもう一つ気になっていたのが、
外郷内のご老人の、「あそこに墓守の小屋があった」という証言です。

「幸手市史通史2」に、こんな記述があった。

「安戸村(現・杉戸町)の新井家には、自家抱えの庵があり…」

「自家抱えの庵」って、墓守りの小屋のことか?

これは、官寺に対する私寺とも違うし、
旅の僧が村の古びたお堂で隠遁暮らしをするのとも違う。

新井家は江戸の初め、
間宮家と一緒に新田開発をした家で、大変な名家だったという。

新井家と間宮家の名が刻まれた宝篋印塔です。

2永福寺
北葛飾郡杉戸町・永福寺

その新井家では、
「庵主を雇って庵に住まわせ、
自家の廟所のそうじや朝晩の湯茶回向をさせていた」

「庵主には新義真言宗寺院の弟子が迎えられ、
入庵の折には誓約書を書かせ、亡くなると庵地内に埋葬した」

ということは、

外郷内・間宮家の田んぼの墓所も「陵」と呼ばれていて、
そのかたわらに墓守の庵があって、庵主が亡くなったら敷地内に埋葬した。
だから、「法師」と刻まれた墓石が出て来たんだ、

などと、私は勝手な想像を巡らせてしまいました。

でも、あそこは真っ平の田んぼで、丘状の土地ではない。
なのに令和の今も土地の人は「陵」と呼んでいる。

なぜなんだろう?


   ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(11・22)

「静岡県浜松市天竜区月・路傍」

「月」という地名、素敵ですね。
「月まで3㎞」という道路標識もあります。なんかワクワクしませんか?

山間の集落です。力石は秋葉山参詣路の傍らにありました。
静岡県西部ではなかなか力石が見つからず苦労しましたが、
これは貴重な情報となりました。

喜び勇んで、高島先生と調査に行きましたよ。
「月探査」(笑)

同じ天竜区に「熊」という地名もあります。地元では「くんま」と呼んでいます。
「熊」は「隈」の意という説もあります。

今年は各地でクマが出没して人的被害が多発。
人々を恐怖に陥れて、すっかり嫌われ者になりましたが、

ここの集会所の名前は、そんなクマさんが大喜びしそうな
「熊ふれあいセンター」です。


   ーーーーー◇ーーーーー

ブログ「日々是輪日」の三島の苔丸さんから、
「力神」についてコメントをいただきました。

よかったら「力神」の過去の記事を見てくださいね。

「年がら年じゅう力んでいる「力神」のお話」

その力神がいる静岡浅間神社前の石橋の「盃状穴」もぜひ、どうぞ。

「穴です。「なんだ穴か」と”あな”どるなかれ」


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心のうたかれんだあ

私が出会ったアーティストたち1
11 /20 2020
この時期になると必ず届くカレンダーがあります。

坂村真民氏の詩と海野阿育先生の版画による

「心のうたかれんだあ」です。


海野先生は東京芸術大学日本画専攻を出られた画家さんで、
東京・西方寺本堂の天井画や明福寺奥書院の襖絵も手掛けています。

20年ほど前、某大学の会合でお会いしてそれっきりだったのに、
以後、毎年、「心のうたかれんだあ」をお送りくださる。

なんのお礼もせず、ご無礼を続けている私ですが、
この時期になると「もう届くかな」とそわそわ。

「かれんだあ」は必ず、「念ずれば花ひらく」から始まります。


img20201119_09023279 (2)

ピンクはもっときれいで,蓮の葉ももう少し明るい緑ですが、
私がケチってインク5色のプリンターに替えたため、
思うような色が出ないんです。

海野先生、すみません。


先生はお寺さんのご出身で、
お名前の「阿育」は「アショカ」と読むそうです。

「アショカ」というのは古代インドの王さまで、仏教を守護した人だとか。

七月と八月のカレンダー「光と闇」。


img20201119_08580443 (2)

「光と闇

光だ
光だ
という人には
いつか光が射してくるし
闇だ
闇だ
という人にはいつまでも闇が続く」



思えば、海野先生のことは、
大学で教鞭をとっていたこと以外、私は知らないままできた。

でも一年中、「心のうたかれんだあ」と向き合っているから、
一年中、お会いしている、そんな気がします。

と、勝手に思っていますが、果たしてこれでいいのかな?

いいんだよね?


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墓石はタイムカプセル

消えた間宮一族
11 /17 2020
今から12年前の2008年9月に、
斎藤氏はこの埼玉県杉戸町下高野で力石を新発見しています。

それも今回、追っている「間宮家」の墓域で。

永福寺の奥様に聞いてやってきたら、ここにたどり着いたそうです。

「この偶然に、不思議な因縁を感じました」と斎藤氏。

下の写真は12年前に発見したときの力石です。

2008佐源次1
埼玉県北葛飾郡杉戸町下高野・下株集会所隣り
62×42×33㎝

「奉納 力石 三十五メ目 下高野村 □□」

そして今年11月、12年ぶりにこの力石と再会

以前は地面に転がっていただけだったが、今回は下部を埋めて立ててあった。

これで刻字が消えない限り、捨てられる心配はなくなりました。

下株佐源次2

やれやれと安堵しつつ、ふと隣の六地蔵に目をやると、
そこに「間宮」姓が…。

IMG_8706.jpg

この六体のお地蔵さんのすべてに、
「施主 間宮佐源治」と刻まれていたのです。

下株佐源次1

間宮長左衛門こと「佐源次(治)」は、
下高野・間宮家の第十八代当主です。

この六地蔵の奉納年は、安永四年(1775)。
佐源次没年より17年前で、まだ15,16,17代の先代たちが生存中でした。

外郷内の「左門」石といい、ここ六地蔵の「三十五メ目」石といい、
不思議と間宮家が付いて回ります。

確証はありませんが、
間宮家との関連を思わずにはいられません。

そこから、永福寺で教えられた「下高野・間宮家」墓所へ。
墓所はこんもりと広い丘状の最高地にありました。

間宮家下高野墓地

中央正面の墓石は、間宮清氏が昭和49年(1974)に建立したもので、

「昭和四十九年彼岸吉祥日 この石塔を建つ
 施主 間宮宗家第二十五代主 清建立」

と、あります。

「間宮家の当主としてのプライドを感じました」と斎藤氏。

この方は平成5年にも大規模な改装を行っています。

せめて「三十五メ目」石発見の頃、「間宮家」を知っていたら、
まだお元気のころですから、貴重なお話をいっぱいしてくださったはず。

残念!

その斎藤氏に永福寺の奥様がこんな話を…。

「間宮家から、八十八世住職に嫁いできた人がいますよ。
二十五代目の清さんの姉妹と聞いています」 

その女性の名は永福寺のご住職の墓所にあった。

真新しい墓石で、
墓碑側面に、嗣子のご住職の述として母親のことが綴られています。

下株明朗院

淡々とありのままを綴った文章ですが、素敵だなと思いました。
母と子の愛情に満ちたお墓」、といったらおかしいでしょうか。

斎藤氏は常々、
「墓石はタイムカプセルです」とおっしゃっていますが、

この墓石に刻まれた「母への愛」は、まさに「タイムカプセル」。
時空を超えて、きっとご子孫へ伝えられていくことでしょう。

間宮家から永福寺へ嫁がれた女性の院号は「心浄院」とあります。
そのとなりの院号はなんと「明朗院」。

明るく、朗らか。

いいなあ、これ!


   ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(11・17)

「愛媛県西予市野村町四郎谷・三嶋神社」


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永福寺点景③

消えた間宮一族
11 /14 2020
寺なのに、下高野・東大寺の墓は神道式の「奥津城」と称している。

なぜかというと、

明治新政府の「神仏分離令」で、東大寺が廃寺とされたため、
住職はいち早く、坊さんから神主への転身を図った。

それで、墓も神式に呼ぶようになったというわけです。

東大寺が修験道の寺だったので、転身しやすかったのかもしれませんが、
当時は坊さんが神主に早変わりという例が多かったようです。

下は、「東家累代之奥津城」に移設された「西行見返之松」碑です。

右側面に、

「道いそぐ遠近人(おちこちびと)も駒とめて 
             みかえり松をみかえざらめや」

左側面に、「信州 池田 蓮庵負 七十八才」と、あるそうです。

西行碑

さて、明治以前は神仏習合で、神主と坊さんが一緒に祭りをおこなっていた。
そして坊さんの方がちょっと偉かった。

当時の祭りの絵巻を見ると、坊さんは重要な場所に描かれています。

神主の家で育った私の父は、時々こんな恨み言をこぼしていた。
「私たちはずっと坊さんの下に置かれてきた」

で、幕末、世の中が騒がしくなったとき、
父の祖父は神さまの復権を願って、尊王攘夷の運動に加わり、
富士山本宮浅間大社・富士氏の「駿州赤心隊」の一員になった。

でも、期待通りにはいかなかったのです。

確かに「神仏分離令」が出されて、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたけれど、
父の先祖は神社を手放すはめになり、没落して「平民」になった。

東大寺の坊さんの方が、先見の明があったということになります。

この東大寺の一族、なかなか多彩な人材揃いです。

一族の娘の中には、のちに有名な芸術家になった息子を産んだ人がいます。

その芸術家とは、彫刻家の高村光雲で、
あの上野恩賜公園の「西郷隆盛像」を制作した人です。

ドン西郷

後ろ姿です。犬のシッポにさりげない威厳を感じます。

1西郷像

光雲は「幕末維新懐古談」の中で、自分の母親の名は「増」と言っています。
でも、これがなんだかあやふやで…。

実は「すぎ」という名だったとか、本名は「すぎ」だが通称は「ます」だとか、
いや、「ます」は「すぎ」の母親の名前だとか、もういろいろ。

光雲の息子・光太郎の「高村光太郎全集」では、
光雲の母親は、東大寺25世・道甫の娘「ます」が産んだ「すぎ」としています。

で、このおすぎさん、光雲の父とどこで知り合ったかというと、
これもどうもはっきりしない。

香具師だった光雲の父親・兼松(兼吉)が、
永福寺の「どじょう施餓鬼」に露店を出していて、
そこで隣りの東大寺の「すぎ」を見初めた」なんて話も…。

下高野・東大寺の絵図です。
img20201113_16192108 (4)

すでに妻子持ちだった兼松は、妻を離縁して、
3歳年上のこの「おすぎ」さんと一緒になったそうな。

時に兼松33歳、すぎ36歳。

なんだかいろいろ
「わけありおとっつぁんおっかさん」みたいだけれど、
息子は素晴らしい彫刻家になったし、孫は高名な詩人になったし、

終わりよければすべてよし!だよね。

さて、東大寺のご子孫で幸宮神社の宮司だった東氏が、
「武州高野東大寺」に、こんなことを書いています。

「坊さんから神主に乗り換えたのが、この「すぎ」の甥っ子「道貞」で、
慶応三年いち早く、村の鎮守・木々子(このこ)神社の神主となり、
菅原を名乗ったが、のちに東(あずま)と改めた。

話題の多い人で、明治二年から7年間、八丈島へ流された。
流刑の理由はわからない」

さらに、間宮家の第25世で、平成28年に82歳でこの世を去った
間宮清氏の談話として、
「遠島になった道貞は、22世の間宮佐伍平と行動を共にしていた」

また、大橋本次郎氏の談話として、
「明治九年、道貞がご赦免となって八丈島から帰ってきたとき、
4,5歳の女の子を連れてきた」

なんともドラスティック!

東大寺、間宮家、大橋家とみんな見事につながっています。

東大寺跡に最後まで残っていた「阿闍羅堂」です。
img20201113_16192108 (3)

この建物も近年更地にしたとき撤去されて今はない。

すでにボロボロだったそうですが、
子孫の東氏によると、この堂の傍らに力石が置かれていたそうです。

永福寺のご住職が斎藤氏に話した
「解体した大橋家の床下から出てきた」というのは、ご住職の勘違いだったかも。

その流転の「忠治郎」石です。
新居になった地蔵堂裏から、かつての住まいを眺めています。

「見返りの松」と碑は、不動産屋の幟が立っているあたりにありました。

分譲地忠治郎石と

おすぎさんの孫の高村光太郎は詩集「智恵子抄」で、

「智恵子は東京に空は無いといふ ー略ー
阿多多羅山の山の上に 毎日出ている青い空が
智恵子のほんとの空だといふ」

と、精神を病んだ妻・智恵子をうたった。

「すぎ」の祖父は、和歌の門弟を多数有した文学者だったという。

そのDNAが、
すぎから光雲、光雲から光太郎へと受け継がれているのは、
確かなようです。


※参考文献・画像提供/埼玉史談第39号第4号「武州高野東大寺」東 大
         埼玉県郷土文化会 平成五年
※兼松、すぎの生没年齢は光雲の著書による。

   ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(11・14)

「埼玉県越谷市越ヶ谷・久伊豆神社②」

2014年、三ノ宮卯之助の力石6個が市の有形文化財・歴史資料になり、
私も静岡からはるばる越谷市へ出かけました。

下の写真は、
その記念講演をしている高島愼助先生(元・四日市大学教授)です。

CIMG1087_20201114104607a7d.jpg
越谷市中央市民会館。2014年2月


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永福寺点景②

消えた間宮一族
11 /11 2020
埼玉県にもあった「東大寺」。元は小さな庵(いおり)だったそうです。

隣り同士で並んでいた庵と永福寺の前を、中世の街道が走っていた。

文治二年(1186)、その街道を一人の旅の僧が歩いてきました。
元・北面の武士で歌人の西行法師です。

源平の合戦で目覚ましい働きをした義経が、
兄・頼朝の勘気に触れて追討され、奥州へ落ちて行ったころです。

かたや西行は、戦火で焼失した奈良の東大寺再建のため、
奥州・平泉の藤原氏へ砂金勧進に行く途中、ここを通ったと伝えられています。

ところが西行さん、病いに倒れこの小庵で療養することに。
数日後、村人たちの手厚い介護のおかげで病いも癒え、再び出立。

庭の松の木のところでふと振り向くと、そこには親切な村人たちの姿が…。
西行は何度も振り返りつつ、別れを惜しんだという。

それ以来この松の木は、
「西行見返りの松」と呼ばれるようになったそうな。

三代目の「西行見返りの松」です。
見返りの松
埼玉県北葛飾郡杉戸町下高野。写真は杉戸町HPからお借りしました。

「よくある話だ」などと一笑に付すなかれ。
心温まる、いいお話ではありませんか。

この僧が、たとえ西行でなかったとしても、
当時はどこの村でも、見知らぬ旅の僧を手厚くもてなしておりました。

うっかりドアも開けられない今の世の中の方が異常です。

で、グーグルマップのストリートビューで見ると、
松の木は青々と健在ですが、実はもうないんです。

昨年、斎藤氏が訪れたときは、
松の横に立っていた標石もご覧のありさま。

IMG_9088_20201109194224504.jpg

これ、町の第一号文化財なんですけどね。

で、今年、再訪した斎藤氏、再び立ち上がった標石を発見。

こちら(下の写真)です。

立ち上がったのは喜ばしいことですが、やっぱり松の木がないとねぇ。

画龍点睛(がりょうてんせい)を欠くというか、気が抜けた炭酸水と言いますか…。
 
 ※「画龍点睛を欠く」は、龍の絵が立派に仕上がったけれど、
  肝心の睛(瞳=ひとみ)を書き忘れたため、全部台無しになった意。

いずれ四代目の松が植えられることを期待して、

さらに、

 願わくは松の下にて力石(いし)生きよ
            標石と共に町の誇りに


石柱

で、この標石の新たな居場所となったのが墓地なんです。

墓地といってもただの墓地ではない。

東大寺の歴代住職を輩出した東家の歴史ある奥津城です。
 ※「奥津城」(おくつき)=神道式の墓所・墓石。神の宮居

明治新政府の「神仏分離令」で廃寺となって、寺は消滅しましたが、
歴代のご住職たちはここで静かにふるさとを見守っています。

赤矢印が「西行見返りの松」の標石。
赤い鳥居の奥が、「東家累代之奥津城」です。

奥津城東家

外郷内の共同墓地で「間宮左門」石を見つけ、
杉戸町で「忠治郎」石を見つけて、

そこから見えない糸を手繰り寄せ、
昔の人々の埋没したままの歴史や営みを明らかにしてきた斎藤氏、

ふと、こんな感想をもらしました。

「たった一つの力石から、
こんなにも濃密なドラマが掘り起こされるとは思ってもみなかった。

京都や奈良のような都でなくても、
こんな片田舎でも探せば深い歴史がいくらでもある。

そしてそれらがみんな繋がっていることを思い知らされました」


   ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(11・10)

「埼玉県志木市下宗岡・下ノ氷川神社」

力石が4個、仲良く並んでいます。

若者たちの汗に濡れ、においを嗅ぎ、見事担いだときの雄たけびを聞いた、
あの遠い日を語り合っているかのようです。


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永福寺点景①

消えた間宮一族
11 /08 2020
不思議な縁に導かれて」と斎藤氏が言った。

なにが不思議な縁かというと、

実は斎藤氏、
今回の「間宮家」を全くご存じなかった昨年11月に、ここへ来ているんです。

そして例のごとくポタ放浪中、ここで力石を見つけました。
それがこの永福寺地蔵堂だったのです。

これです。
IMG_9075.jpg
埼玉県北葛飾郡杉戸町下高野・永福寺地蔵堂裏

御用とお急ぎのない方は、当時のブログ記事をご覧ください。

「ピピッとX波が…」

「文政八酉年 幸手久㐂町 紙屋 忠治郎 六十貫目 江戸□ 庄兵衛」

力石から発せられる「ピピッ」の電波をキャッチした斎藤氏、
引き寄せられるように電波発信元へ駆け寄ると、

立派に保存された力石があるじゃないですか。
しかも高島先生の全国力石一覧にもない、未発見の石です。

ところがです。

その興奮もつかの間、
実はすでに地元の方が、ひと足お先に発見して、

すでに町の広報紙に華々しく掲載されていたのです。

やっぱりねぇ、きれい過ぎますもん。

斎藤氏、潔く敗北宣言。

「おシけぇなすって!」

でも未調査の力石でしたから、斎藤氏のこの発見によって
全国力石の一覧に記録されたわけですから、決して無駄ではなかったのです。

ちなみに力石掲載の「杉戸町広報紙」二紙とも高島先生の手で、
三重県総合博物館の力石関連資料の中に収蔵されました。

さて斎藤氏、
このときはこの永福寺が「間宮家」と縁の深いお寺とは知らずに、
ご住職とお話をしています。

ご住職のお話では、

「昔、ここに東大寺という修験の寺があったが、明治の神仏分離令で消え、
そのあとに東大寺の関係者だった大橋さんのご先祖が家を建てた。

今度、その大橋家を解体することになって…。
そうしたら、床下から立派な力石が出てきた。

あまりにも立派だったので、
寺で引き取って地蔵堂の裏へ建立したのです」

更地になった解体跡です。広いお屋敷だったのですね。
IMG_9171 (002)

鎌倉から室町時代、
さらに江戸、明治、大正、昭和、平成、そして令和。

この更地には、気の遠くなるような歴史が積み重なっています。

時代がどんどん動いていきます。

東大寺から大橋家。大橋家から更地へ。

そして今は、建売住宅を建設中です。

IMG_7453.jpg

あの西行ゆかりの由緒ある場所です。

これからここにお住いの方々に、
この力石を大切にしていただけたら、こんな嬉しいことはありません。

みなさんに、

「あれ、この石、何だろう?」「文政っていつ?」

などと、そこから力石に興味を持っていただければ…。


   ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(11・7)

「鹿児島県鹿児島市喜入瀬々串町・上公民館」


師匠のブログに「二才」という言葉が出てきます。
この「二才」は「にせ」と読みます。

鹿児島には「郷中」といって若者の自治的な教育機関があって、
これは年長者が年少者の教育をするという制度だったそうです。
「若者組」「若い衆組」に似ています。

西郷隆盛はこの「二才組(にせこ)」の頭だったそうです。
西郷さんが持ったと伝えられる力石が、
遠島処分で島暮らしをした鹿児島県大島郡天城町に残っています。


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武士から「百姓」へ

消えた間宮一族
11 /05 2020
間宮家の家譜によれば、

「間宮好高が天正18年の山中城合戦で討ち死にしたため、
子の「好綱」が下高野に帰農。
下高野・間宮家一代目長左衛門を称した」とあります。

合戦に敗れた武士が「百姓」になった例は当地にもあります。

甲斐の武田信玄の息子・勝頼は、山中城落城の10年前、
天目山の戦い(甲府市)に敗れ、嫡男の信勝、正室の桂林院と共に自害。

この正室は、山中城を築城した北条氏康の娘です。

武田家滅亡を受けて家臣の遠藤正忠は、
勝頼の妹・お市を連れて駿河(静岡市)へ逃げ延びたといわれています。

同じ「お市」でも、信長の妹のお市さんは有名ですが、
こちらのお市さんは、信玄系図の娘たちの中には見出せません。

が、ともかく、その後二人は夫婦になって帰農。

お姫様がお百姓さんになっちゃったわけですが、
安倍川の河原を開墾して「遠藤新田」を開きます。

江戸時代には名主として活躍。
ご子孫が現在に続いているのは、下高野の間宮家と似ています。

こちらは間宮家の菩提寺、永福寺です。

ここでも斎藤氏の愛車「黄子」嬢が大活躍。
1下高野永福寺
埼玉県北葛飾郡杉戸町下高野

ここに、「間宮長左衛門」の名を刻した宝篋印塔があります。

門前にドーンと聳えていて…」と斎藤氏。

これです。確かに、ドーンですね。

2永福寺

「間宮長左衛門」の名は、下段右から4番目(赤丸)にあります。

建立年は宝暦六年(1756)ですから、
この長左衛門さんは、第14代目の人ということになります。

3永福寺

この宝篋印塔には、同じ下高野の「新井又兵衛」の名前もあります。

この新井家、
幸手城主の一色氏と同族で、のちに武を捨てて下高野に土着したという。

江戸の初め頃、この家の新井佐内と間宮家の長左衛門が新田を開発。

それが今に残る「佐内新田」だということが、
「杉戸町の地名・地誌」にありました。

永福寺の宝篋印塔に刻まれた「新井又兵衛」(黄丸)です。

新井又兵衛永福寺

それ相応の地位にあっても合戦で敗れて主君を失えば、
たちまち路頭に迷います。

徳川幕府が瓦解したとき、武士がおおぜい駿府にきたけれど、
その悲惨さを知るにつけ、胸が痛みます。

荒れ地に入植して茶園を開いたり、居合抜きの大道芸人になったり、
娘を遊郭に売ったり、利殖用にウサギを飼って大損したり、
商人や牧師、新政府の役人と、その後の身の振り方は千差万別。

画家になる前の小林清親は、剣豪の榊原健吉に誘われて、
剣術の大道芸をやったり、浜名湖で漁師になったり…。

主君の場合もいろいろ。

山中城の合戦で、間宮豊前守・康俊と弟の信俊、
その信俊の子の源十郎は討ち死にしたけれど、

城将の北条氏勝はそれから約20年生き延びて、
家康から二代将軍秀忠に代替わりするころ没しました。

武田勝頼のように夫婦ともに自害する大将もいれば、
生き延びる人もいて…。

でも、自害しても生き延びても、気持ちは重かったにちがいありません。

さて、気分を変えて、

下高野の間宮一族が眠る菩提寺・永福寺の
珍しい「どじょう施餓鬼」をご覧ください。




   ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(11・4)

「東京都江東区北砂・志演神社」

「志演」とかいて「しのぶ」と読みます。

こちらは私の師匠・高島先生の、
そのまた師匠で、上智大学教授だった伊東明先生のスケッチです。

師匠のブログ写真と見比べてみてください。

img20201104_09334427 (2)


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本家と分家

消えた間宮一族
11 /02 2020
平須賀村の間宮家から、
お隣の下高野村の間宮家へ養子に入った伝次郎さん。

養子に入るからには、何らかのツテがあったはず。

と思っていたら、「杉戸町の地名・地誌」にこんな記述があった。

「間宮家の家譜によると、
豊前守好高は、小田原北条氏の勇将として相州山中城を守る。
その子、光綱、平須賀村外耕地に土着し、
二男長左衛門綱慶、下高野に分家し…」
 
ここに出てきた「山中城」とは、静岡県三島市にあった北条氏の山城です。

天正18年、豊臣秀吉軍に攻められ、あえなく落城。
なにしろ秀吉軍7万に対して迎え撃つ北条側は4000人ですから。

秀吉はこの「小田原攻め」の途中、
静岡市にある「宇津ノ谷(うつのや)集落」の茶屋で休憩。

そのとき茶屋の主人が勝ち戦になりそうな縁起のいいことを言ったので、
褒美に陣羽織を置いていった。それがこれです。和紙と絹でできています。

左上に秀吉の肖像画が…。この家には家康から拝領した茶碗もあります。
img20201101_08211318 (6)
静岡市駿河区宇津ノ谷・お羽織屋

さて、山中城の合戦で獅子奮迅に働き、壮絶な討ち死を遂げたのが、
北条氏家臣の間宮豊前守です。御年73歳。

その「山中城址」です。見どころは障子堀

「山中城跡公園」

で、あれっ、変だなと思ったのは、この合戦で討ち死した武将の名前です。

「杉戸町の地名・地誌」の著者は、「間宮豊前守好高」と書いていたけれど、
これ、「好高」さんではなくて「康俊」さんのはず。
 
この「好高」という名前が出てくるのは、近世になって作られた軍記物
「関八州古戦録」で、討ち死を覚悟した豊前守が、
孫に家名を継いでくれと伝えた「間宮氏の別れ」の場面です。

つまり軍記物では、「康俊」を「好高」に替えているわけです。

家系図なんてそんなものかもしれませんが、
なにしろ双方合わせて約8万の兵(つわもの)どもの合戦でしたから、
ひょっとして、間宮一族の一人として「好高」さんがいたのかもしれません。

真偽はともかく肝心なことは、
「平須賀村外耕地(外郷内)に土着」の個所。

ただ、「杉戸町の…」の著者の「長男が外耕地に土着し、二男が下高野に分家」
という記述は、どういうことなんだろう?

間宮好高の遺児が最初に入植したのが外郷内で、
下高野に分家した方がのちに栄えたということなのかな?

まあ、どちらにしても「同族」「本家・分家」の関係はゆるぎません。

下高野の間宮家墓所です。
間宮氏の家紋「隅立四つ目結紋」がついています。

墓所下高野間宮家

下高野の間宮家文書を調査した飯塚壮次氏は、
「百姓代官間宮長左衛門」の中で、こう言っています。

「系図がそのまま必ずしも信頼できないことは、しばしば見聞するところである。
それはさておき、光信の代、康暦二年田宮庄に住したとある。

これは昭和52年の板碑の調査に、間宮家墓地から四基発掘され、
その中に康暦二年五月二十六日と紀年が読めるものが一基あり、
この辺からおおむね信じてよいのではないかと思われる」

下の写真は、「宇津ノ谷峠」への登り口から見た集落です。
谷あいの狭い集落のその真ん中を通る、これまた狭い道が旧東海道
今も江戸時代そのまま。

秀吉が通り、大名も庶民も文人墨客もみんなここを通ったのです。

img20201101_08375814 (2)

そしてここにはもう一つ、
平安初期の歌人・在原業平が、

「駿河なるうつの山辺のうつつにも 夢にも人にあはぬなりけり」

と詠んだ中世の官道「蔦(つた)の細道」があります。

この古道は、長い間忘れられ場所も不明でしたが、
一人の民間人の長年の探索で発見され、
昭和48年付の国土地理院の地形図に初めて記載されました。

今は格好のハイキングコースになっています。

※山上の尾根道「つたの細道」の下を、
 「日本坂トンネル」が3本通っています。
 150号線、新幹線、以前、大規模なトンネル火災が発生した東名高速。

ここには中世の道、江戸時代の道、明治のトンネル、現代のトンネルと、
東西を結ぶ交通の要(かなめ)としての道の歴史がそっくり生きています。


※参考文献/「杉戸町の地名・地誌」鈴木薫 私家本 平成5年
     /「百姓代官間宮長左衛門」飯塚壮次 埼玉県郷土文化会
      昭和53年


   ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(11・1)

「富山県高岡市福岡町沢川・愛宕神社」

富山へは昔、何度かおじゃましました。
立山の花めぐりに、海王丸を見に新湊へ。

今も市内電車は走っているかしら。
まだ力石を知らなかったころです。


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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞