古地図にだけ存在
消えた間宮一族
消えなかった「下高野の間宮家」から、
消えてしまった「外郷内の間宮家」へ、そろそろ戻ります。
この本家・分家の交流は長く続いたと思われますが、
今も存在する間宮家へ養子に入った12世・長左衛門以外は、
そのつながりを証明するものは見つかりませんでした。
そして、
外郷内の間宮家だけが時代の波に沈んでいきました。
可能な限り現地を調査して歩いた斎藤氏、
原点へもどるしかないと判断。再び、あの「左門石」のあるスタート地点へ。
「左門石」は、最初、どこの神社へ奉納されたか、
という問題を突き止めようとしたとき、まず浮かんだのが古地図です。
これは明治40年の「外郷内」です。
「今昔マップ」 埼玉大学教育学部・谷謙二(人文地理学研究室)より
なんと、
今は跡形もない「香取神社」(赤丸)が地図に載っていました。
この神社は明治44年、
平須賀の香取神社(宝聖寺隣り)に合祀されたため姿を消しましたが、
古地図の中では生きていて、
「ここだ、ここだ」と、その存在を主張していました。
地図をご覧ください。
神社(赤丸)の隣りの青丸は、今は消えてしまった「間宮家」です。
この村の若者たちは、村の鎮守の香取神社で力くらべをやっていた。
その石に「間宮左門」さんが文字を刻み奉納した。
そう思わざるを得ません。
オレンジの丸は桑畑です。緑色の丸は広葉樹。
大きな木が空へ向かって伸びていたのでしょう。
周りは一面の田んぼです。
こちらは、上の地図と同じ場所の「明治期迅速測図」です。
同上
赤丸が「香取神社」、青丸が「間宮家」(ご近所の方の証言から)。
今はどうなっているのかというと、
赤い斜線のところが香取神社があったところです。
もう、間宮家も神社も、跡形もありません。
同上
地上から見ると、こんな感じ。なぁーんにもありません。
その場所に立ったとき、斎藤氏の脳裏に、
往時の村の様子が生き生きと浮かんできたそうです。
稲の収穫も無事終えて、今日は楽しい村祭りです。
香取神社からド-ンドーンと祭り太鼓が聞こえてきます。
田んぼのあぜ道を子供たちが駆けていきます。
お宮の境内には、ふんどし一つの外郷内の若者たちが、
間宮左門主催の「力持大会」が始まるのを、今か今かと待っています。
始まりました!
境内に置かれた力石に若者たちが次々とチャレンジ。
「担げたぞ!」「おっこどした!」と大騒ぎ。
そのたびに、見物の老若男女が笑ったり拍手したり…。
ひそかに恋心を抱いていた若者の登場に、頬を染める娘っこも。
そして間宮左門は、その石の中で一番重くて様子のよい石を選び、
今日の良き日の記念に文字を刻んで、神社に奉納した…。
「こうしんさまの力石」野村昇司・作、阿部公洋・画 ぬぷん児童図書出版 1983
ーーーーー◇ーーーーー
高島先生ブログ(11・26)
「千葉県我孫子市江蔵地・水神社」
二句、ご紹介しています。
そのうちの一句は、三代目山遊亭金太郎師匠の句です。
金太郎師匠の趣味は俳句。
力石も詠んでくださった。嬉しいです。
でも昨年9月、63歳でご逝去。あまりにも早い。
句は、力石にドカッと腰かけて日なたぼこをしたときの句です。
本当はね、力石は神聖なものだから腰かけるなんてもってのほかなんだよね。
で、石を尻に敷いた師匠、今は石の尻に敷かれちゃって。
でも、当の力石はニコニコ。
「師匠は尻まであったかかった。だからおいら、気にしちゃいねえ。
せっかくだから、おいらを「金太郎師匠腰かけ石」と名付けてほしい。
ほらよくあるだろ? 頼朝の腰かけ石とかサ。そしたらおいらも鼻高々だよ」
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消えてしまった「外郷内の間宮家」へ、そろそろ戻ります。
この本家・分家の交流は長く続いたと思われますが、
今も存在する間宮家へ養子に入った12世・長左衛門以外は、
そのつながりを証明するものは見つかりませんでした。
そして、
外郷内の間宮家だけが時代の波に沈んでいきました。
可能な限り現地を調査して歩いた斎藤氏、
原点へもどるしかないと判断。再び、あの「左門石」のあるスタート地点へ。
「左門石」は、最初、どこの神社へ奉納されたか、
という問題を突き止めようとしたとき、まず浮かんだのが古地図です。
これは明治40年の「外郷内」です。
「今昔マップ」 埼玉大学教育学部・谷謙二(人文地理学研究室)より
なんと、
今は跡形もない「香取神社」(赤丸)が地図に載っていました。
この神社は明治44年、
平須賀の香取神社(宝聖寺隣り)に合祀されたため姿を消しましたが、
古地図の中では生きていて、
「ここだ、ここだ」と、その存在を主張していました。
地図をご覧ください。
神社(赤丸)の隣りの青丸は、今は消えてしまった「間宮家」です。
この村の若者たちは、村の鎮守の香取神社で力くらべをやっていた。
その石に「間宮左門」さんが文字を刻み奉納した。
そう思わざるを得ません。
オレンジの丸は桑畑です。緑色の丸は広葉樹。
大きな木が空へ向かって伸びていたのでしょう。
周りは一面の田んぼです。
こちらは、上の地図と同じ場所の「明治期迅速測図」です。
同上
赤丸が「香取神社」、青丸が「間宮家」(ご近所の方の証言から)。
今はどうなっているのかというと、
赤い斜線のところが香取神社があったところです。
もう、間宮家も神社も、跡形もありません。
同上
地上から見ると、こんな感じ。なぁーんにもありません。
その場所に立ったとき、斎藤氏の脳裏に、
往時の村の様子が生き生きと浮かんできたそうです。
稲の収穫も無事終えて、今日は楽しい村祭りです。
香取神社からド-ンドーンと祭り太鼓が聞こえてきます。
田んぼのあぜ道を子供たちが駆けていきます。
お宮の境内には、ふんどし一つの外郷内の若者たちが、
間宮左門主催の「力持大会」が始まるのを、今か今かと待っています。
始まりました!
境内に置かれた力石に若者たちが次々とチャレンジ。
「担げたぞ!」「おっこどした!」と大騒ぎ。
そのたびに、見物の老若男女が笑ったり拍手したり…。
ひそかに恋心を抱いていた若者の登場に、頬を染める娘っこも。
そして間宮左門は、その石の中で一番重くて様子のよい石を選び、
今日の良き日の記念に文字を刻んで、神社に奉納した…。
「こうしんさまの力石」野村昇司・作、阿部公洋・画 ぬぷん児童図書出版 1983
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高島先生ブログ(11・26)
「千葉県我孫子市江蔵地・水神社」
二句、ご紹介しています。
そのうちの一句は、三代目山遊亭金太郎師匠の句です。
金太郎師匠の趣味は俳句。
力石も詠んでくださった。嬉しいです。
でも昨年9月、63歳でご逝去。あまりにも早い。
句は、力石にドカッと腰かけて日なたぼこをしたときの句です。
本当はね、力石は神聖なものだから腰かけるなんてもってのほかなんだよね。
で、石を尻に敷いた師匠、今は石の尻に敷かれちゃって。
でも、当の力石はニコニコ。
「師匠は尻まであったかかった。だからおいら、気にしちゃいねえ。
せっかくだから、おいらを「金太郎師匠腰かけ石」と名付けてほしい。
ほらよくあるだろ? 頼朝の腰かけ石とかサ。そしたらおいらも鼻高々だよ」
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