神話とサイエンスの融合
盃状穴②
「日本史サイエンス 弐
邪馬台国・秀吉の朝鮮出兵・日本海海戦の謎を解く」講談社 2022を読んだ。
著者は播田(はりた)安弘氏。
「古代史のテクノロジー」の著者・長野正孝氏と同じ、エンジニアです。
長野氏は「海の技術屋」と自己紹介していましたが、
播田氏は「船の技術屋」と。
「父は造船所経営。母の実家は江戸時代から続く船大工「播磨屋」の棟梁。
ご自身は三井造船で大型船から特殊船までの基本計画を担当した」という。
どっぷり「船」と共に歩んできた播田氏、
「エンジニアなりの発想で、邪馬台国の謎解きに挑戦した」
そうです。
この本と並行して、
「歴史道・卑弥呼と邪馬台国の謎を解く!」
(監修・武光誠 朝日新聞出版 2021)も読んでみた。
こちらの執筆陣は日本古代史、中国古典、文化財、日本史、考古学などの
アカデミックな学者さんたち。
どちらも「邪馬台国の謎解き」だが、その捉え方が違って興味深かった。
エンジニアのお二人は、当時は「瀬戸内海航行」は無理といい、
大陸との「交易」を重視しているのに対し、
学者連は「瀬戸内海航路」をとり、中国への「朝貢」に重きを置いていた。
技術者のお二人が「瀬戸内海航行は無理だった」として、
山陰航路を主張した理由はこうだ。
播田氏は、かつていろんなチームが行った大陸から日本への
実験航海を取り上げ、その失敗の一つをこう説明していた。
「一見、瀬戸内海は穏やかに見えるが、
潮流が速く、渦を巻き、干満の差が激しく、浅瀬が多く難しい海域。
だから平清盛時代までは宋からの船は福岡止まりで、
瀬戸内海は航行していなかった」
「日本史サイエンス 弐」より
では山陰ルートはどうかというと、
「日本海側の対馬海流は速く困難を極めるが、古代人は往来していた」
それを可能にしていたのは「流れに任せていたから」と播田氏はいう。
「釜山を船出し、対馬の北端の韓崎まで行き、
そこから南に向かって出港すれば、そのまま対馬海流に流されて北上し、
山陰の益田や浜田に向かって船が進む。
やがて海上から山陰の三瓶山、大山が見えてくる。
そのまま陸伝いに海路を行けば、出雲の方向に高い塔が見えてくる。
九州を目指すより山陰を目指すほうがはるかに楽で、自然に到着する」
「往路で九州から朝鮮半島へ行く場合は、福岡から出航するより、
西の唐津や平戸から船出して壱岐へ行き、海流に乗って対馬の北端へ。
そこから陸沿いに南下して対馬海流を利用すれば朝鮮半島へ着く。
古代の船でも楽に航海できたと思われる」
難しい「流体力学」などについては、本書をどうぞ。
矢印が「韓崎」
海流のほかに播田氏が強調しているのは、
「翡翠と鉄の交易」です。
「5500年前の縄文時代、
新潟県糸魚川支流の姫川や海岸で翡翠が発見され、加工が始められた。
ここには世界最古の翡翠加工所があった。
その翡翠が大陸の人々に届けられ、大陸からは鉄が入ってきた。
その証拠に、
6000年前に日本で作られた曽畑式土器が朝鮮半島で出土したり、
逆に朝鮮半島で作られた櫛目式土器が日本で出土している。
韓国の「天馬塚金冠」(5~6世紀のもの)に、姫川の翡翠が使われている。
このことから、糸魚川から山陰へ向かう「翡翠の道」と、
大陸から山陰へ向かう「鉄の道」が存在した」と播田氏はいう。
これは長野氏の「大陸とを結ぶ縄文時代からの交易路」と同意見です。
ただ、長野氏の「倭国は日本海沿岸の竪穴住居群の連合体。
卑弥呼は丹後あたりにいたのではないか」に対して、播田氏は違います。
この邪馬台国の所在地について「九州説」と「近畿説」がありますが、
未だに決着がついていません。
だから「魏志倭人伝」が示す邪馬台国までのルートも未確定です。
確定しているのは、対馬、壱岐を経て北九州の博多までで、
これはどの学者さんたちにも異論はないとのこと。
では、「技術屋さん」お二人が考えた「山陰ルート」はどうかというと、
「畿内説」の学者さんたちにも取り上げられてはいますが、
やはり、圧倒的に支持されているのは「瀬戸内海ルート」だそうです。
「船の技術屋」播田氏は、ルートと邪馬台国についてこう考えました。
対馬→壱岐→松浦→糸島→博多と確定ルートは同じですが、
その先から違ってきます。
「博多から福岡県遠賀郡へ行き、そこから船に乗り山口県下関を経由して
山陰に渡り、日本海を進んだ」
「邪馬台国は最初九州にあり、卑弥呼の死後山陰ルートで但馬から
円山川を遡って豊岡に上陸。そこから近畿に入り纏向勢力を併合した」
「古代史サイエンス 弐」より
私はもう、「なるほど!」と唸りっぱなし。
学者さんたちの説より播田氏のいう
「神話とサイエンスを融合させた視点からの検証」のほうが、
技術に裏付けされて、説得力があって、断然、面白かった!
サイエンス、最高!
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邪馬台国・秀吉の朝鮮出兵・日本海海戦の謎を解く」講談社 2022を読んだ。
著者は播田(はりた)安弘氏。
「古代史のテクノロジー」の著者・長野正孝氏と同じ、エンジニアです。
長野氏は「海の技術屋」と自己紹介していましたが、
播田氏は「船の技術屋」と。
「父は造船所経営。母の実家は江戸時代から続く船大工「播磨屋」の棟梁。
ご自身は三井造船で大型船から特殊船までの基本計画を担当した」という。
どっぷり「船」と共に歩んできた播田氏、
「エンジニアなりの発想で、邪馬台国の謎解きに挑戦した」
そうです。
この本と並行して、
「歴史道・卑弥呼と邪馬台国の謎を解く!」
(監修・武光誠 朝日新聞出版 2021)も読んでみた。
こちらの執筆陣は日本古代史、中国古典、文化財、日本史、考古学などの
アカデミックな学者さんたち。
どちらも「邪馬台国の謎解き」だが、その捉え方が違って興味深かった。
エンジニアのお二人は、当時は「瀬戸内海航行」は無理といい、
大陸との「交易」を重視しているのに対し、
学者連は「瀬戸内海航路」をとり、中国への「朝貢」に重きを置いていた。
技術者のお二人が「瀬戸内海航行は無理だった」として、
山陰航路を主張した理由はこうだ。
播田氏は、かつていろんなチームが行った大陸から日本への
実験航海を取り上げ、その失敗の一つをこう説明していた。
「一見、瀬戸内海は穏やかに見えるが、
潮流が速く、渦を巻き、干満の差が激しく、浅瀬が多く難しい海域。
だから平清盛時代までは宋からの船は福岡止まりで、
瀬戸内海は航行していなかった」
「日本史サイエンス 弐」より
では山陰ルートはどうかというと、
「日本海側の対馬海流は速く困難を極めるが、古代人は往来していた」
それを可能にしていたのは「流れに任せていたから」と播田氏はいう。
「釜山を船出し、対馬の北端の韓崎まで行き、
そこから南に向かって出港すれば、そのまま対馬海流に流されて北上し、
山陰の益田や浜田に向かって船が進む。
やがて海上から山陰の三瓶山、大山が見えてくる。
そのまま陸伝いに海路を行けば、出雲の方向に高い塔が見えてくる。
九州を目指すより山陰を目指すほうがはるかに楽で、自然に到着する」
「往路で九州から朝鮮半島へ行く場合は、福岡から出航するより、
西の唐津や平戸から船出して壱岐へ行き、海流に乗って対馬の北端へ。
そこから陸沿いに南下して対馬海流を利用すれば朝鮮半島へ着く。
古代の船でも楽に航海できたと思われる」
難しい「流体力学」などについては、本書をどうぞ。
矢印が「韓崎」
海流のほかに播田氏が強調しているのは、
「翡翠と鉄の交易」です。
「5500年前の縄文時代、
新潟県糸魚川支流の姫川や海岸で翡翠が発見され、加工が始められた。
ここには世界最古の翡翠加工所があった。
その翡翠が大陸の人々に届けられ、大陸からは鉄が入ってきた。
その証拠に、
6000年前に日本で作られた曽畑式土器が朝鮮半島で出土したり、
逆に朝鮮半島で作られた櫛目式土器が日本で出土している。
韓国の「天馬塚金冠」(5~6世紀のもの)に、姫川の翡翠が使われている。
このことから、糸魚川から山陰へ向かう「翡翠の道」と、
大陸から山陰へ向かう「鉄の道」が存在した」と播田氏はいう。
これは長野氏の「大陸とを結ぶ縄文時代からの交易路」と同意見です。
ただ、長野氏の「倭国は日本海沿岸の竪穴住居群の連合体。
卑弥呼は丹後あたりにいたのではないか」に対して、播田氏は違います。
この邪馬台国の所在地について「九州説」と「近畿説」がありますが、
未だに決着がついていません。
だから「魏志倭人伝」が示す邪馬台国までのルートも未確定です。
確定しているのは、対馬、壱岐を経て北九州の博多までで、
これはどの学者さんたちにも異論はないとのこと。
では、「技術屋さん」お二人が考えた「山陰ルート」はどうかというと、
「畿内説」の学者さんたちにも取り上げられてはいますが、
やはり、圧倒的に支持されているのは「瀬戸内海ルート」だそうです。
「船の技術屋」播田氏は、ルートと邪馬台国についてこう考えました。
対馬→壱岐→松浦→糸島→博多と確定ルートは同じですが、
その先から違ってきます。
「博多から福岡県遠賀郡へ行き、そこから船に乗り山口県下関を経由して
山陰に渡り、日本海を進んだ」
「邪馬台国は最初九州にあり、卑弥呼の死後山陰ルートで但馬から
円山川を遡って豊岡に上陸。そこから近畿に入り纏向勢力を併合した」
「古代史サイエンス 弐」より
私はもう、「なるほど!」と唸りっぱなし。
学者さんたちの説より播田氏のいう
「神話とサイエンスを融合させた視点からの検証」のほうが、
技術に裏付けされて、説得力があって、断然、面白かった!
サイエンス、最高!
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