fc2ブログ

浅草という磁場

三ノ宮卯之助
06 /30 2021
「足持石」の正体は、タヌキに化けたキツネ?

なぁんてネ!

でも稲荷神社にはなぜか、タヌキが多いんですよね。

あの神田川徳蔵一門の力石群が置かれている柳森(稲荷)神社にも、
自慢の八畳敷をご披露しているおタヌキさまがいます。

その昔、浅草の森は狐狸の棲み処だったという。

しかし森の木をどんどん伐採したため、棲み処を失ったタヌキが、
人間への怒りから悪さをするようになった。

そこでおタヌキさまに怒りを鎮めていただこうと祠を作った。

浅草寺の伝法院・鎮護堂稲荷もその一つで、
ここには昭和38年建立の「幇間(ほうかん)塚」があります。

そのとき記念碑建立の資金集めに配ったのがこの手ぬぐいです。
※タヌキは「幇間=たいこもち」の異名

img203.jpg
「たいこもち(幇間)の生活」藤井宗哲 雄山閣出版 昭和57年より

江戸城を中心とした政治の世界と、「お上嫌い」の庶民の浅草。

享楽と喧騒の庶民エネルギーは、武士をも惹きつけた。

大和郡山の2代藩主・柳沢信鴻(のぶとき)は、
49歳で隠居すると、供や側室を引き連れて毎日、物見遊山。

富くじを買ったり見世物を見たり、水茶屋で休憩したり。

中でも、「力持ちのともよに、すこぶる関心を示した」そうな。

女力持ちの「ともよ」です。越後国高田の出身。

親の借金のかたに湯島新花街(大根畑)へ私娼として奉公。
ところが、ともよの大力を見た廓主が見世物に出したところ大成功。

3か月後、借金を返して故郷へ帰ることができたとか。

ともよさん、まわしのようなものをしめています。
img195_20210627134744a16.jpg
「見世物研究」朝倉無声 昭和3年

こちらは私が見た浅草神社での「猿まわし」です。

お猿さん、健気でねぇ。一生懸命演技して…。

私は力石を見るのも忘れて釘付け。投げ銭、はずんじゃいました。
でも今はコロナ禍で、興行もままならないはず。心配です。

CIMG0961 (2)
東京都台東区・浅草神社

さて、私が敬愛するちい公さんのブログ「ちい公ドキュメントな日々」には、
たくさんのワンくん・ネコちゃんが出てきます。

ちい公さんの奥さまはタイの方で、PERNさんといいます。

PERNさんは「魔女の手紙 タイランド」のブロガーさんです。

今、コロナでご夫妻は日本とタイとに離れ離れ。
一年に一度は会える織姫と彦星よりつらい生活を余儀なくされていますが、

お二人とも、がんばれ!

そのちい公さんのブログに登場するワン、ニャンたち、たくさんおります。

どのワン、ニャンもユーモラスで表情豊か。

人間に操られているふりをしつつ、その底に秘めた
「面白がらせてやってんだい」という豪胆さがまた面白いのです。

つい笑いに誘われて、落ち込んだ時に助けられています。

今回ご紹介するのはこちらとこちら。

「はたらくニャン」

「ニャン警備」

タイのワン、ニャンは働き者揃いですが、日本のワンも負けてはいないようです。

その昔、浅草寺の参道わきによく出ていたワンくんだそうです。

img20210627_11121979 (3)
「ぼくの浅草案内」小沢昭一 筑摩書房 2005より

野坂昭如にそっくりのこのワン、
「眼鏡や造花をつけさせられておとなしくしていた」と著者。

この犬はチビといい、笠にはこんなことが書かれていたそうです。

「チビの下げているかごの中へエサ代を入れますと頭を下げます。
下げないときは平にお許しくださいませ」

あっけらかんのタイのワン、ニャンにくらべて、日本のワンはどこか物哀しい。

ワンくん、眉毛まで描かれちゃって。

ホントにしょうもないねぇ、人間ってやつは。


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(6月30日)

「さいたま市緑区三室・稲荷神社」


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

古だぬき

三ノ宮卯之助
06 /27 2021
長らく町内の方々に、

「なんだかよくわからない大きな石」

と、されてきた「足持石」ですが、変化がありました。

発見から4年目、真新しい説明板が設置されていました。

「あれ? 私が言ったからかな?」

と、斎藤氏の胸に一瞬、希望の火が点りました。

DSCF5138.jpg
東京都台東区浅草・合力稲荷神社

翌年訪れたら、鳥居の一本が折れてなくなっていたけれど立札は健在。

その4年後に行ってみたら、
あらら、説明板の柱が折れて、鳥居に縛り付けられていましたよ。

IMG_7390.jpg

でも境内は掃除が行き届いています。

お正月らしく門松も飾ってあります。

しかし、めでたし、めでたしとばかり言ってはいられません。
この石には謎が多すぎるのです。

刻まれた文字が「弘化」などのように不鮮明なものと、
世話人の名前のように鮮明なもの、というふうに不揃いなんです。

肝心の卯之助の名にしても、名字と名前の彫り具合が明らかに違います。

上の「三ノ宮」は彫りが浅く消えかかっているのに、
下の「丣之助」は、彫りも深く摩滅していません。

「丣之助」は、既存の文字の上から、
後世になって新たに彫りなおしたような感じです。

持 (4)

どうも刻字した時代が二つあるような…。

その理由の一つがこれ、

「下谷 本牧亭 長谷川※」です。

「本牧亭」とは、今の寄席・「上野・鈴本演芸場」の前身です。

この「本牧亭」の開場が安政4年(1857)。
しかし、「足持石」に刻まれている年代は「弘化」(1844~1848)。

弘化の最後の年は1848年ですから、
卯之助がこの石を持ち上げたときには、

まだ「本牧亭はなかった」ことになります。

また、卯之助は「本牧亭」開場の4年前に、すでにこの世を去っています。

このことから、この力石には二つの時代の人たちが関わり、
本牧亭ほか下段の世話人たちの刻字は、追記されたことがわかります。

こんな、たかだか数行の刻字からでも、歴史や人の動きが見えてきます。

「弘化」の刻字を見つけた意義はここにあります。

世話人3

それにしてもタヌキのお腹みたいなこの力石、
後世の私たちをあれこれ惑わして、ポンポコ腹づつみ。

「稲荷神社だけに、私を化かしているのか」と斎藤氏。

そこで一句。

  古狐の化身か力石(いし)の古狸  斎藤呆人

研究資料・ismfileget三ノ宮卯之助「足持石」新発見CIMG1459 (2)



     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(6月27日)

「愛媛県今治市馬越町鯨眠山・三嶋神社」


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村


異体字

三ノ宮卯之助
06 /24 2021
稲荷社門前の店主から、
「卯之助? 誰それ」なんて言われてガックリきたけれど、

興味のない人の当然の反応かもしれません。

それに刻字の「卯之助」の「卯」の字も変わっているし。

こんなんです。

持 (4) IMG_3014 (2)

これ、「卯」の字の異体字なんです。

顕彰碑を監修した越谷市郷土研究会の方も、
「異体字と確認できました」とおっしゃっていました。

ただ、研究会の方は、「弘化」の「弘」の字の確認までしていなかったような…。

それがこの石を顕彰碑から省いてしまった原因なら、
返す返すも惜しいことです。

「卯」の字、こんなにいろいろあります。
IMG_2339.jpg

そしてもう一つ。

石銘の「足持石」の「持」の文字です。

これもまた紛らわしい彫り方です。

チラッとみると、「待」にも見えるし、
斎藤氏によると、「特」と読んでいたブログもあったとのこと。

IMG_7370 (2)

でも斎藤氏は「です」と断言。

何度もここを訪れて、確認を怠らない斎藤氏のことですから、
判読に間違いはないはずです。

持 (5)

石工さんが間違って刻んだり、剥離して判別しにくいものもありますが、
これは写真からも部首は、

確かに、「てへん」の「扌」

「ぎょうにんべん」の「彳」でも、「うしへん」の「牜」でもないですね。

昔はみんな手彫りですから、彫りが深かったり浅かったり、
時には誤字が生じて、のちの人を惑わしたりしますが、

それもまた先人からの宿題と思って、じっくり味わうのも一興か、と。


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(6月24日)

「奈良県香芝市狐井・杵築神社」


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

ブログ開設7周年!

ごあいさつ
06 /21 2021
ブログ開設、まる7年。

2014年6月、こんな石ころだらけのブログ、
だれも読んではくれないだろう、もって1年かなと思いつつ始めました。

けれど初めこそ閑古鳥の巣でしたが、
いろんな方が来てくださるようになって、いつの間にか7年。

みなさま、ありがとうございます。

力石探しは、
中部はもちろん東は関東、西は関西から中国地方、沖縄まで。

沖縄では生まれたばかりの孫の顔を見て力石も見て…。

ーーーーー

高島先生がこの力石を詠んだ私の句を載せてくださっています。
ご覧いただけたら嬉しいです。

「今帰仁村・公民館」

CIMG1286 (2)
沖縄県国頭郡今帰仁村謝名・公民館

民俗学者の宮本常一の「あるく、みる、きく」の真似事でしたが、
なりふり構わず、歩いて見て聞く、それに資料漁りが加わった日々。

持ち場の静岡県内の図書館、博物館、資料館はほとんど訪れました。

天竜川の奥、伊豆半島南端、山梨・長野の県境。
車のない身にタクシー代は痛かったけれど、それ以上に夢があった。

図書館通いは一日一か所がせいぜい。
電車の本数もまばらな山あいの、駅のホームで見た夕日の美しかったこと。

時には神楽を見たり、盆踊りに参加させていただいてひと息ついて…。

CIMG1179~1
静岡市葵区梅ヶ島新田

img138 - コピー
静岡市葵区有東木

なにより嬉しかったのは、
いろんな方々にお会いして貴重なお話をうかがえたこと。

下の写真は、私が力石に関わり出してから保存がなされた三カ所目。
歴史の深い山上の集落です。

写っているのは、これを手掛けた石屋さんです。
「力石という名は初めて聞きました」とおっしゃるので、
参考資料をいろいろお渡しした。

完成したとき、本当に嬉しそうなお顔をされて、
「すごく勉強になりました。ありがとうございました」とお礼を言われた。

ご自分の名前を刻みましたか?とお聞きしたら、
「いや。そんなことは。ぼくは作らせていただいただけで充分です」

現役の石屋さんでお顔まで明らかなのは、古今東西この方だけ。
それだけでもここの保存は価値があります。

CIMG0613 (3)
静岡県富士宮市

ここには力石経験者が3人いらっしゃった。
経験者だけあって話は臨場感あふれていて楽しかった。

青年時代使った石を見せてくださったご主人は、ちょっとはにかみながら、
「山仕事やってたんでね。力仕事だんて、これで力つけたんだ」と。

そうおっしゃっていたこの人は、その3年後この世を去った。

人がいなくなれば力石もただの石に還っていく。

この年月、たくさんの方々との別れがあった。

石探しに奔走したこの私も、いつかはこの世から消えていきます。

でも、保存された石がかろうじて命脈を保ち、
こんな世界があったんだよ、こんな文化が生きていたんだよと
後世へとつなげていってくれます。

こちらは3カ所目の保存を快く承諾してくださった地主さんご夫妻です。
毎年、春秋のお祭りにおじゃましてごちそうになった。

その昔、この方の父上は町村合併後の村長になって、
毎朝、急な山道を馬に乗って、ふもとの役場まで通ったという。

「湯治に行った帰り、貧しそうな農婦がぼくに子をもらってくれと。
可哀そうなので連れて帰って育てた。立派になって毎年訪ねてくるよ」

CIMG0611_20210620064428d12.jpg
同上

「力石、まだ文化財にならないかねえ。なるといいなあ」
と楽しみにしていたけれど、
とうとう実現しないまま、ご主人はこの世を去った。

残された妻が夫の墓前に正座して、切々と歌い出した「武田節」

♪ 甲斐の山々陽に映えて われ出陣に憂いなし

  祖霊ましますこの山河 敵にふませてなるものか

夕闇迫る山上の墓地で、繰り返し歌い続ける老夫人に、
「おばあちゃん、もういいよ、もういいよね」と、付き添いの人が制した。

私は涙が止まらず、同行した知人に笑われた。

そのご夫人ももういない。

山上の集落は廃村になった。

  廃村はただ白し力石に花ふりつむ   雨宮清子

あ、なんだかこの世の終わりみたいな、センチメンタルなことを言っちゃって。

めげていては今までご協力いただいた多くの男衆らに申し訳ない。

「若い衆らがお堂脇の集会所に毎晩集まって。あのころは賑やかだった」と、
一生懸命、昔話を聞かせてくれた老婦人たちに面目が立たない。

「5-ALA」やマグネシウムサプリを飲んで(笑)、まだまだがんばります。

今までは娯楽、鍛錬、見世物としての力石に重きを置いてきましたが、
信仰としての力石にも言及していきたいと思っております。

私が見つけた力石は県内外合わせて約130個。
またどこかで遭遇したらとの夢を持ちつつ。

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

卯之助? 誰だいそれ

三ノ宮卯之助
06 /18 2021
この「足持石」がどうしてここに置いてあるのかは全くわかりません。

とても狭い境内ですから、
ここで奉納力持ちをやったとはとても思えません。

どこからか運んできた来たはずと思うものの資料がない。

石の下部にはたくさんの屋号名前が刻まれています。

右にも、
世話人4
東京都台東区浅草6-42-8  合力稲荷神社

左にも。
世話人6

左端に「町内頭 山金 倅 山六」とあったので、
稲荷前で営業中の「山崎工務店」を訪ねた。

そこで、
「山金 山六というのはお宅のご先祖では?」と尋ねたら、

違うんじゃねーの。わかんねえけど」

稲荷社に江戸時代の力持ちが持った石があると詳しく話すものの、

「昔からあそこに大きな石があることは知っているけど、
どういう石かなんて知らない。卯之助? 誰だいそれ

目と鼻の先に住む子孫が何も知らなかったことに斎藤氏、がっかり。

前途多難。
とりあえず石の図を書いてみた。

これです。
IMG_2812.jpg

発見の報は高島先生へすぐ伝えた。
さいたま市の酒井氏からは、「大変な発見。凄い」としたためた賛辞と共に、
「高島先生もさぞお喜びのことと拝察します」と書き添えた返事があった。

高崎氏からは、
「研究に励んでください」の簡単なハガキが届いただけだったが、
卯之助研究者として著名な方だから、内心は喜んで下さっていると信じた。

こうしたみなさんの期待に応えなければと思うものの、
どこまで刻字を解明できるかわからない。

しかし、やるしかない。

それから斎藤氏の浅草通いが始まりました。


ーーーーー外国の「卯之助」たちです

へいへいさんがアイスランドの「卯之助」たちを紹介してくれています。
岡本一平の漫画もどうぞ。

「ジュパロンサンドゥルビーチの力石」


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(6月18日)

「神奈川県川崎市川崎区大師町・川崎大師平間寺」


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

天保と嘉永をつなぐ力石

三ノ宮卯之助
06 /15 2021
天保と嘉永に挟まれた弘化時代(1844~1848)へいきます。

この時代に卯之助が足で持ち上げた力石です。

IMG_7382.jpg

弘化元年は徳川幕府崩壊の23年前です。

外国船の脅威にさらされ始め、国内では大飢饉や江戸大火。
時代が下るにつれ、
尊王攘夷や討幕運動、開国開港などの動乱が激しさを増します。

そんなさ中の弘化3年(1846)閏5月、
のちの第14代将軍家茂が誕生します。
京都ではこの同じ年に、
のちに家茂の正室となった皇女和宮が誕生。

同い年なんですね。

第2次大戦のときも朝鮮王族に嫁いだ皇女がおられましたが、
こういう動乱期には、懐柔やら敵対関係を緩和するような、
俗にいう政略結婚があったんですね。

このお二人、文久2年(1862)にわずか16歳で結婚。
朝廷と将軍家の結婚、公武合体です。

最近は訳あり庶民との自由合体が世間を騒がせているようですが…。

ま、それはさておき、
幸せも束の間、家茂は大阪城で没してしまいます。享年二十歳。

わずか4年の結婚生活です。

しかし嫁したからには、と和宮(静寛院宮)は、
家茂亡き後の徳川家のために働き、
明治10年(1877)、32歳で波乱の生涯を閉じます。

落飾したときの院号が「静かに寛(くつろ)ぐ」ですが、
その名からは程遠い一生だったことを思うと、なんともいたわしい。

中山道を通って江戸へ向かう皇女和宮の行列
MTQ3D2BLB5JTRFJ72U55DOFEV4.jpg
埼玉県立文書館所蔵・吉田(実)文書

しかし、庶民というものは実にのんびりしたもので、
将軍慶喜が大政奉還して大阪から江戸へ逃げ帰っても、

いつものように正月には門松をたて、祝い酒に酔い、
いよいよ官軍が江戸へ攻め上ってようやく慌てたというのですから、

なんともはや。

力持ちも同じで、ドンパチの隣りの神社で力持ち興行をやっています。
卯之助もこの時代の大変革の中で、悠々と石を担いでいます。

弘化の年号が刻まれた「足持石」も、その一つです。

この石は、2009年11月7日、39個目の卯之助石として新発見。

下の写真は発見者の斎藤氏と「足持石」です。

発見の翌年1月、
浅草での飲み会の折、後輩に自慢したくて再訪した時のものだそうです。

会心の笑み。斎藤さん、若い!

研究資料・ismfileget三ノ宮卯之助「足持石」新発見
東京都台東区浅草6-42-8・合力稲荷神社

なにしろ卯之助の石ですからね、
「見つけたドーッ!」と叫びたくなったことでしょう。

さいたま市の酒井正氏からも、
「この発見は本当に凄いこと」と称賛のハガキが届いた。


 目に染みる赤き鳥居の稲荷社に
         坐すは卯之助足持石なり  
  齋藤呆人

しかし、発見して終わりではない。

卯之助の「卯」の字が異体字のようだし、
下段にはわけのわからない屋号のようなものがゴチャゴチャ彫ってある。

難解そうですが、斎藤氏、黙々と挑みました。

「これこそ、天保と嘉永をつなぐ弘化年間の、
卯之助の足跡を物語る重要な力石ですから」

その発見から12年。

刻字解明へ努力し続けた斎藤氏の道のりをたどります。


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(6月15日)

「茨城県古河市久能・香取神社」


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

力なし

三ノ宮卯之助
06 /12 2021
現在、卯之助銘の力石は39個。

そのうち年号が記された石は18個で、
年代は文政、天保、弘化、嘉永の4時代です。

顕彰碑から落ちてしまった「弘化」は次回にして、嘉永へ行きます。

●嘉永(1848~1854)のうち、
  嘉永元年(1848)の埼玉県越谷市・三野宮香取神社に2個と、
  埼玉県さいたま市緑区・大門神社。卯之助41歳。

大門神社の卯之助石です。
img20210611_13014030 (3)
酒井正・画

  嘉永2年(1849)の越谷市の三野宮香取神社と、
  山梨県甲府市大田町の稲積神社。卯之助42歳。

三野宮神社には卯之助石が4個ありますが、年号があるのは3個。
卯之助は41歳のとき2個、翌年、また1個を奉納しています。

この嘉永2年には、地元で担ぎ山梨県へもでかけているんですね。
 
完全に職業化しています。

  嘉永5年(1852)の埼玉県桶川市寿の稲荷神社。卯之助45歳。

卯之助の饅頭と桶川稲荷神社のお守りです。
img675 (2)  img756.jpg 

この2年後の嘉永7年(1854)、卯之助は力くらべに招待された関西で、
謎の死を遂げてしまったといわれています。享年47歳。

突然ですが、
訂正です。謎の死の現場は関西ではなく江戸だった!

ブログ記事を見た斎藤氏より、「ちょっと違うよ~」とのご指摘。

「通説では、
とある西国大名の江戸屋敷で日本一の力持ちを決めるため、
大阪方と江戸方の力持ちを対決させたところ、卯之助が勝利。

日本一の力持ちに輝いたその晩、大名屋敷において酒宴。
その帰路、卯之助は突然苦しみだして悶死」

越谷市の郷土史家・高崎力氏の資料にも同様のことが記されており、
「卯之助はどこで死亡し、どこに埋葬されたか、今もってわからない」と。

ホントにとんだ間違いを(。-_-。)

でも埋葬地もわからないって、やっぱりなんかあったんだよなぁ。

いわば迷宮入りの「死体なき殺人事件」。
力持ち話も猟奇的になってきましたが、気を取り直していきます。
 
生家で新しく作り直した卯之助の位牌です。
img799.jpg

その100年後の昭和初期に、マネージャーだった興行師の子孫が、
手づくりの位牌を生家に持ってきたというのですから、

なんともミステリアスです。

それがまた、
後世の人が卯之助に惹きつけられる一因でもあります。

謎を残してこそ英雄ということでしょうか。

卯之助の伝説の一つに、こんなのがあります。

「卯之助は少年の頃は虚弱体質で、
相撲や力持ち大会では勝負する前から弱虫だったので、
村の仲間たちから、力なし、弱虫とあだ名されていた。

絵本に描かれた作太郎も子供の頃は力なしで、
畑を耕せばすきや鍬に振り回され、肥桶を担げば肥桶に振り回された。

img20210611_12594013 (3)
「こうしんさまの力石」野村昇司・作 安部公洋・画 
ぬぷん児童図書出版 1983

あまりの悔しさに卯之助はひそかに練習して体を鍛え、
浅瀬に乗り上げた舟を押し上げて浅瀬から離すほどの力持ちになった」

江戸、明治を問わず、国の指導者たちはこの手の話を好んだから、
似たような話は各地にあります。

川越の渡船場で客が落とした財布を無事、届けた人足に、
「正直であった」と領主が褒美をとらせた話や、
没落した主家のために生涯をささげた下男とか、孝行娘の話とか。

昭和39年の北中新聞に、卯之助のこんな話が載っていました。

「村では祭りに若者たちが集まって、ごちそうの食べ競争をした。
おでこの固さくらいに腹が固くなるのを自慢し合った。

中でも卯之助はいつもトップレベル。
卯之助にかかると、たちまち大釜は空になった。

食べ終わると元荒川の河原で力くらべをやったが、
卯之助はいつも優勝。浅瀬に乗り上げた舟を持ち上げて評判になり、
江戸へも聞こえて、やがて日本一の力持ちになった」

作太郎も努力して、村一番の力持ちになりました。
img20210611_13003523 (2)
同上

卯之助の怪力は、持って生まれた素質+努力と思う方が自然だけれど、

虚弱児童が、周囲のいじめを跳ね返すために努力して、
日本一の力持ちになったと言う方が確かに受けはいい。

ちょっと出来過ぎた話だけれど、卯之助は文句なしの力持ちだから、

良しにしときましょ。


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(6月12日)

「三重県伊賀市青山町種生・種生神社」


ーーーーーtorikeraさんへ

桶川市の力石まんじゅうは、これ(焼き菓子)です。

img792.jpg


  力石見て力石なる菓子を食う   高島愼助


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

ええーっ、どうしてよ!

三ノ宮卯之助
06 /09 2021
ようやく卯之助の「足持石」の出番です。

今年3月、越谷市中央市民会館に建立された卯之助顕彰碑。
この立派な碑に、
ただ今私は、ごちゃごちゃ文句を並べております。

建立に関わった方々にとっては、うっとうしいことでしょうが、
これも卯之助をより理解していただくためと思ってください。

今回、何に文句を垂れているかというと、
この「足持石」が顕彰碑に刻まれなかったことです。

「なぜ、顕彰碑から落としてしまったのか」
「この石の重要性をなぜ、認識できなかったのか」

「ええーっ、どうしてよ!」

と、私は驚きました。
その理由を順を追って説明していきます。

第一の理由は、この石に刻まれた年号の重要性です。

IMG_7382.jpg
東京都台東区浅草6-42-8・合力稲荷神社

はっきり「弘□」と刻まれています。

「弘」の文字の年号は、「弘化」しかないことと、
卯之助の活動期から、「弘化」と断定できます。

なぜこの弘化年が重要かというと、

卯之助石で年号がわかる石は、文政、天保、弘化、嘉永の4つしかない。
しかも弘化年間は5年しかありません。

このわずかな天保から嘉永の間の、
卯之助の行動を知ることができるのは、この石だけなんです。

ここで、卯之助の年号刻字の石を詳しく見ていきます。

●文政(1818~1830)のうちの、
  文政8年(1825)の久喜市太田袋・琴平神社。卯之助18歳。

  文政13年の千葉県木更津市・観蔵寺と、
  さいたま市岩槻区釣上・神明神社。卯之助23歳

●天保(1830~1844)のうちの、
  天保2年(1831)の越谷市・久伊豆神社と、
  横浜市港北区綱島東・諏訪神社。卯之助24歳

ここでひと言。

越谷市民会館の顕彰碑は、この「綱島東」の「東」を書き忘れています。
たった一文字でもこうしたミスはのちのち混乱をきたします。

とても残念です。

  天保3年(1832)の春日部市粕壁東・東八幡神社に2個。卯之助25歳。

img722.jpg
埼玉県春日部市粕壁東2-16-57・東八幡神社

酒井正・画
img718.jpg

  天保9年(1838)の長野県・諏訪大社秋宮。卯之助31歳。

下諏訪町の郷土史家・中村龍雄氏が土中から発掘。
昭和45年の賀状で、
「秋宮宝物館前に飾りました」と伊東先生へ報告された石です。

江戸からきた大力持の興行は大盛況だったに違いありません。
神社さん、ぜひ説明板をつけて大切にしてくださいね。

                          高島愼助先生・画
img694 (3) img20210605_20352285 (3)
長野県諏訪郡下諏訪町上久保5828・諏訪大社秋宮

天保年の最後は、

  天保11年(1840)の大阪府北区・大阪天満宮。卯之助33歳

このころの卯之助の得意技は、「舟に牛」を乗せた足差し。

自身も力持番付に載るほどの力持ちで、
明治になって全国のおもちゃを収集して「玩具博士」として有名になった
清水晴風は、こう言っています。

真打は多く足の曲持ちである。
田舟に米10俵(牛を米の代わりにすることもある)を載せ、足で曲持ちをするが、
この曲が終わって一区切りとした」

こちらが大阪で卯之助が足差しした「大盤石」です。

伊東明先生・画
img20210605_20352285 (4)
大阪府北区天神橋2-1-8・大阪天満宮

「大盤石」の「盤」ですが、
「ばん」には、「磐」「盤」があります。

一説には、
「盤」は皿状のもので「割れやすい」として敬遠されるようですが、
力石にはどちらも使用しています。

さて、「弘化」年の卯之助石です。
前述したように顕彰碑から落ちています。

次回へ続きます。


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(6月8日)

「さいたま市見沼区南中丸・白山神社」


ーーーもう一つのどうしてよ?

当地では、
昼間、海岸でバーベキューをやっていたグループで、クラスター発生。
参加者19人のうち、コロナに8人感染。
市は連絡が取れない7人に検査を受けるよう呼びかけているという。

あんなに広くて太陽が燦燦と降り注ぎ、汐風が吹く海岸で集団感染だなんて。
どうしてよ?
窓開けて、というフレーズが虚しくなります。

競技中の選手の吐く息、凄いと思うけど、本当にオリ・パラ、大丈夫なの?


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

バトン

三ノ宮卯之助
06 /06 2021
三野宮香取神社の荒れた境内で、
卯之助石4個を発見した伊東先生の元へ、その後、続々と情報が入ります。

越谷市の久伊豆神社の「奉納五拾貫目」に「卯之助」の名を発見。

昭和47年、「岩槻市の金石文」の著者、志水栄一氏による
「飯塚神社」に卯之助、久蔵併記の力石の報告。

img20210603_12240310 (2)
埼玉県さいたま市岩槻区飯塚・飯塚神社 酒井正・画

昭和48年、神戸商船大学(現・神戸大学)の岸井守一教授の
「四国地方(瀬戸内海沿岸)の力石の研究」に、

桶川市・桶川稲荷神社の「大盤石」が、昭和44年にNHKで紹介された報告。

もう一つ、
古くから知られていた姫路市魚吹八幡神社の2個の力石は、
卯之助の「曲持」石と「指之」石であることが判明したとの報告があった。

20150524084057cf2_202104272110172da.jpg
兵庫県姫路市網干区宮内・魚吹八幡神社

その後、情報は途絶えた。

昭和62年、久しぶりに情報があった。横浜からだった。

昭和62年、横浜市の郷土史家・相沢雅雄氏が、
「横浜市緑区・港北区域内の力石(2)」に、

緑区大熊町・杉山神社の「大くま」石に「岩附 卯之助」の名が
刻まれていると報告。

同年、伊東先生自身が、
川崎市・川崎大師平間寺の卯之助石を確認。

同・若宮八幡神社で卯之助石を発見。

下の写真は、手作りの卯之助の位牌です。
没後、100年近くたった戦後まもなく、
卯之助のマネージャーだった興行師の子孫が卯之助生家へ持参したという。

img801.jpg

伊東先生は力石探索の全国行脚を続けながら、
官民を問わず各地の力石研究者・調査者の「力石網」を構築。

そのキーパーソンとして貢献された。

残された論文を読むと、その誠実さがヒシヒシと伝わってきます。

「三ノ宮とはどこか、卯之助とは何者か」の謎が解けた後も、

「卯之助の切付け(刻字)には、「岩附」と「岩槻」の二つがあるが、
同一地名でよいのだろうか。
「三ノ宮」を欠いた「卯之助」は、同一人物だろうか。

確定できる資料が発見されるまでは、また新しい謎が生まれることになった」
と、慎重な姿勢を崩さない。

下の写真は、卯之助生家にあった版木です。
まな板に使っていたそうです。そのため、横一文字に割れています。

小さく見えますが、32.5×49.5㎝もあります。
まな板として使える大きさです。

        表側                     裏側
IMG_3167.jpg

ご子孫は没後100年ほどたってもたらされた位牌で、
先祖に「卯之助」なる力持ちがいたことを初めて知ったのではないでしょうか。

斎藤氏が生家を訪れたときのご当主はおばあさんで、
そのとき版木の保管に不安を覚えたので、
越谷市教育委員会へ委託することを勧めたが、聞き入れなかったという。

しかし、不安は的中。
その後、男が借りに来てそのまま返却されていないと知らされて、
あのとき、もっと強く勧めていたらと悔やんだそうです。

その版木の摺り絵=興行引き札が残されています。

横一文字の割れ目もくっきり出ています。

img673_20210603130420d63.jpg

伊東先生の話に戻ります。

先生ご逝去のあと、ご遺族は、
最後の弟子・高島愼助先生に膨大な資料を預けてあとを託した。

まだ入門間もない弟子は途方に暮れつつも、全国の方々の協力のもと、
師が残した資料に、新たな発見や保存・文化財指定などの力石を加えて収集。

さらに「力石を詠む句や歌」を全国から募集して、
力石が身近なものになるよう努めてきた。

CIMG5618 (4)

そうして孤軍奮闘すること30年余

力石研究の集大成として各都道府県別の書籍を刊行。
一昨年、三重県総合博物館への収蔵を成し遂げた。

この偉業、
全国の行政や民間研究者なしでは決して成し遂げられなかったのは事実。

ですが、その中心となる捨て身の人がいなければ、
決して陽の目を見ることもまたなかった。

滅びゆくものへ、どうしてそこまで熱心になれるのか。

その答えはのちの世に、きっと証明されると私は信じています。

時代に置いてけぼりを食いつつも、
今もなお、新発見や新たな保存など、変化し続ける力石の世界です。

バトンは未来に手渡されました。

ふうー。今回はちょっと力が入り過ぎました(#^.^#)


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(6月6日)

「静岡県賀茂郡東伊豆町稲取入谷・山神社」

先生、あの金精様の記事に反応? 反撃? 
いえいえ、民俗学的に考察しましょうという示唆かも。


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

荒れた境内に

三ノ宮卯之助
06 /03 2021
卯之助がらみで、伊東明先生の話を続けます。

先生が卯之助を知ったのは、
「江東区史」掲載の「江戸力持番付」からだった。

そこに西方関脇として三ノ宮卯之助の名が載っていて、
その「三ノ宮」が強く印象に残ったものの、
この人物のことも、三ノ宮がどこなのかもわからなかった。

しかし間もなく、
淡路島のスポーツ研究家の田尾栄一氏と神戸商船大学(現・神戸大学)の
岸井守一教授から興行引き札を紹介され、そこに描かれた絵から、

卯之助は江戸と大阪を往来して力持興行をする、
半職業的な力持力士であることを知った。

卯之助の興行引き札「江戸の花 大力持三ノ宮卯之助」です。

img20210530_11533176 (3)
神戸大学図書館・海事科学分館所蔵

そして東京オリンピックの前年(昭和38年=1964)に、
長野県諏訪市の遺跡史料収集で知り合った郷土史家・中村龍雄氏から、
決定的な知らせを受けた。

「諏訪神社境内より力石発掘できました。
奉納者の名と貫数が彫られています。
石は下諏訪秋宮宝物館前に飾りました」

諏訪の石にはこうあった。

「武州岩槻 三ノ宮住人 卯之助」

ここから先生の行動は素早かった。
以下は上智大学紀要に書き残した発見のときの様子です。

「(埼玉県)岩槻の地図から三野宮を探し出し、
三ノ宮は三野宮であろうと推理して、現地を踏査することにした」

「東武伊勢崎線 大袋駅下車。水田の中の細流に沿って、
木立の中の三野宮集落に入る。
小曽川に近い三野宮香取神社境内へ」

「荒れた境内の本殿左側に「大盤石」が立ててあり、
広場隅に放置されたままの「三王石」「指石」
集会所の車止めに「白龍石」が使ってあった」

「この4個の石すべてに「三ノ宮卯之助」の切付けがあるのを確認した」

ところが地元郷土史家の高崎力氏が、のちにここを訪れたときには、
3個しか見当たらなかったという。

この「3個」が、長い間、定着。

それに疑問を持った斎藤氏が、2005年5月に、
「大磐石」近くの土の中から、行方不明だった4個目の石を発見。

こちらが、掘り起こされた直後の4個目の力石「指石」です。

卯之助指石
埼玉県越谷市・三野宮香取神社

ここの4個目の石といい、瓦曽根の「卯之助・久蔵」の石といい、
みんな「よそ者」の手による発見です。

伊東先生や斎藤氏の地道な調査が光ります。

それから8年後の2013年、この4個の石は、
高崎力氏のご尽力で、越谷市有形文化財になります。

右から「白龍石」(約200㎏)、「大盤石」(約520㎏)、
「三王石」(約170㎏)、「指石」(約110㎏)です。
IMG_2338.jpg

写真を見て、「なんだこんな小さいのか」と思われるかもしれませんが、

実はこんなに大きいんです。

文化財になったときの新聞記事です。
20150909112829cae_20210530041928af1.jpg
朝日新聞 2013年5月1日

2018年、この石はテレビでも紹介されました。

竹下景子さんが出ています。

DSCF9307.jpg
NHKBS 埼玉発地域ドラマ「越谷サイコー」

一度は忘れられた力石ですが、見事に復活です。

伊東先生が訪れたときは、
荒れた境内に放置されたり、車止めに使われていたのに、

今では文化財です。

卯之助、あの世とやらで、

「このオレの石がかい?」と、びっくりしているかも。


ーーーーー

おなじみにへいへいさん
NHK BS、2018年放送の「越谷サイコー」をブログにアップされていました。

より詳しく紹介していますので、ぜひ、ご覧ください。

「越谷サイコー 卯之助サイコー」


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(6月3日)

「兵庫県養父市大屋町山路・郷蔵」


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村


雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞