お釈迦さまでも気がつくめえ
柴田幸次郎を追う
埼玉の研究者、斎藤氏から封書が届きました。
「晴風の墓石のさし石は力石本には未登場。正しく”誌上新発見!”ですね。
やりましたねぇ。おめでとうございます」
ひやー、嬉しいなあ。大先輩に褒められちゃった。
で、斎藤氏の凄さはそのあとです。
なんと、すぐ本妙寺に出向いて詳細を調べてきたとのこと。
そして新たな写真を送って下さったのです。
改めて、おもちゃ博士・清水晴風の力石の墓石です。
どうです、この堂々とした風格。東京の町が小さく見えます。
東京都豊島区巣鴨5-35-6 本妙寺
斎藤氏は寸法も計ってきてくれました。
墓石の寸法を計るなんて、「かなり怪しい人」ですが、
これも大事なことですから、お寺さま、勘弁してくださいね。
寸法は、61余×42×23㎝
正面 「泰雅院晴風日皓善男子」
左脇 「大正二年七月十六日歿」 右脇下 「十一代目 清水仁兵衛」
左側面 「園笹院妙厳日達大姉」
真下に、「昭和十五年十二月六日」「俗名 清水クノ 七十八□」
この「清水クノ」さん、奥さまのようですが、奥さまの名は「タツ」なので、
墓石の字は細字だったということから、
磨滅して「クノ」になってしまったのかもしれません。
別の角度から見ると、かなり大きな力石だということがわかります。
大正14年、晴風の三回忌に知人らが記念碑を建てました。
それがこちら(左)。かなり磨滅して不鮮明なので、右に、
「おもちゃ博士・清水晴風」(林直輝ほか 社会評論社 2010)
からお借りした拓本を載せます。
碑の中央に晴風が描いた「玩具涅槃図」が彫られています。
これは釈迦入滅のパロディで、
寝釈迦の周りを弟子たちの代わりに玩具が囲んでおります。
これには94人の名が刻まれていますが、山中笑(共古)、淡島寒月、
市川団十郎、松本幸四郎、四代目歌川広重、内田魯庵、巌谷小波、
などのほかに千社札の「いせ万」や「高橋藤」なども名を連ねています。
斎藤氏が「こんな墓もありました」と送ってくれたのは、
あのテレビ時代劇「遠山の金さん」こと「遠山金四郎景元」の墓。
おお、北町奉行の金さんじゃないですか。
片肌脱いで桜の彫り物を見せてのあの啖呵、
「この桜吹雪、散らせるもんなら散らせてみろい!」
中村梅之助も高橋英樹もカッコ良かったなあ。
あ、でも桜吹雪ってすでに散り始めた桜ですよね。
散り始めた桜に「散らせるもんなら」ってのは、?
ここは一つ、こちらのセリフでどうでしょう。
「背中に咲かせた遠山桜、
散らせるもんなら散らせてみやがれ!」
金さんが見せるのは背中じゃなくて肩から腕なんだけど、まあいいか。
奇しくもこの遠山様と晴風さん、享年が同じ63歳なんです。
さて、斎藤氏は埼玉から東京、再び埼玉へととんぼ返りしたあと、
「東京の力石」(高島愼助 岩田書院 2003)などに掲載の番付から、
清水晴風こと「筋違車半」の名をまたまた見つけてしまいました。
今まで、清水晴風が「筋違車半」だとは誰も気づかなかったため、
見逃してしまっていたのです。
というより、
力石研究の上智大学の故伊東先生からも地元の研究者からも、
晴風の名は一度も出てこなかったのです。
言われてみれば、確かにありました。
明治21年の「力持興行広告」の中に年寄として出ていました。
(赤矢印)
こんな細かい文字の中から、よく見つけますねえと驚きのみなさま、
私たち力石ハンターには、虫眼鏡は必需品でございます。
とまあ、粋がることもありませんけどね。
それにしても、過去を探るって本当に面白い。
「おもちゃ博士の墓石が、
100年たった今の世に、「新発見の力石」と注目されるたァ、
お釈迦さまでも気がつくめえ」
<つづく>
「晴風の墓石のさし石は力石本には未登場。正しく”誌上新発見!”ですね。
やりましたねぇ。おめでとうございます」
ひやー、嬉しいなあ。大先輩に褒められちゃった。
で、斎藤氏の凄さはそのあとです。
なんと、すぐ本妙寺に出向いて詳細を調べてきたとのこと。
そして新たな写真を送って下さったのです。
改めて、おもちゃ博士・清水晴風の力石の墓石です。
どうです、この堂々とした風格。東京の町が小さく見えます。
東京都豊島区巣鴨5-35-6 本妙寺
斎藤氏は寸法も計ってきてくれました。
墓石の寸法を計るなんて、「かなり怪しい人」ですが、
これも大事なことですから、お寺さま、勘弁してくださいね。
寸法は、61余×42×23㎝
正面 「泰雅院晴風日皓善男子」
左脇 「大正二年七月十六日歿」 右脇下 「十一代目 清水仁兵衛」
左側面 「園笹院妙厳日達大姉」
真下に、「昭和十五年十二月六日」「俗名 清水クノ 七十八□」
この「清水クノ」さん、奥さまのようですが、奥さまの名は「タツ」なので、
墓石の字は細字だったということから、
磨滅して「クノ」になってしまったのかもしれません。
別の角度から見ると、かなり大きな力石だということがわかります。
大正14年、晴風の三回忌に知人らが記念碑を建てました。
それがこちら(左)。かなり磨滅して不鮮明なので、右に、
「おもちゃ博士・清水晴風」(林直輝ほか 社会評論社 2010)
からお借りした拓本を載せます。
碑の中央に晴風が描いた「玩具涅槃図」が彫られています。
これは釈迦入滅のパロディで、
寝釈迦の周りを弟子たちの代わりに玩具が囲んでおります。
これには94人の名が刻まれていますが、山中笑(共古)、淡島寒月、
市川団十郎、松本幸四郎、四代目歌川広重、内田魯庵、巌谷小波、
などのほかに千社札の「いせ万」や「高橋藤」なども名を連ねています。
斎藤氏が「こんな墓もありました」と送ってくれたのは、
あのテレビ時代劇「遠山の金さん」こと「遠山金四郎景元」の墓。
おお、北町奉行の金さんじゃないですか。
片肌脱いで桜の彫り物を見せてのあの啖呵、
「この桜吹雪、散らせるもんなら散らせてみろい!」
中村梅之助も高橋英樹もカッコ良かったなあ。
あ、でも桜吹雪ってすでに散り始めた桜ですよね。
散り始めた桜に「散らせるもんなら」ってのは、?
ここは一つ、こちらのセリフでどうでしょう。
「背中に咲かせた遠山桜、
散らせるもんなら散らせてみやがれ!」
金さんが見せるのは背中じゃなくて肩から腕なんだけど、まあいいか。
奇しくもこの遠山様と晴風さん、享年が同じ63歳なんです。
さて、斎藤氏は埼玉から東京、再び埼玉へととんぼ返りしたあと、
「東京の力石」(高島愼助 岩田書院 2003)などに掲載の番付から、
清水晴風こと「筋違車半」の名をまたまた見つけてしまいました。
今まで、清水晴風が「筋違車半」だとは誰も気づかなかったため、
見逃してしまっていたのです。
というより、
力石研究の上智大学の故伊東先生からも地元の研究者からも、
晴風の名は一度も出てこなかったのです。
言われてみれば、確かにありました。
明治21年の「力持興行広告」の中に年寄として出ていました。
(赤矢印)
こんな細かい文字の中から、よく見つけますねえと驚きのみなさま、
私たち力石ハンターには、虫眼鏡は必需品でございます。
とまあ、粋がることもありませんけどね。
それにしても、過去を探るって本当に面白い。
「おもちゃ博士の墓石が、
100年たった今の世に、「新発見の力石」と注目されるたァ、
お釈迦さまでも気がつくめえ」
<つづく>