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お釈迦さまでも気がつくめえ

柴田幸次郎を追う
05 /31 2017
埼玉の研究者、斎藤氏から封書が届きました。

「晴風の墓石のさし石は力石本には未登場。正しく”誌上新発見!”ですね。
やりましたねぇ。おめでとうございます」

ひやー、嬉しいなあ。大先輩に褒められちゃった。

で、斎藤氏の凄さはそのあとです。
なんと、すぐ本妙寺に出向いて詳細を調べてきたとのこと。
そして新たな写真を送って下さったのです。

改めて、おもちゃ博士・清水晴風の力石の墓石です。
どうです、この堂々とした風格。東京の町が小さく見えます。

img069 (2)
東京都豊島区巣鴨5-35-6 本妙寺

斎藤氏は寸法も計ってきてくれました。
墓石の寸法を計るなんて、「かなり怪しい人」ですが、
これも大事なことですから、お寺さま、勘弁してくださいね。

寸法は、61余×42×23㎝

正面  「泰雅院晴風日皓善男子」
左脇  「大正二年七月十六日歿」 右脇下 「十一代目 清水仁兵衛

左側面 「園笹院妙厳日達大姉」
真下に、「昭和十五年十二月六日」「俗名 清水クノ 七十八□」

この「清水クノ」さん、奥さまのようですが、奥さまの名は「タツ」なので、
墓石の字は細字だったということから、
磨滅して「クノ」になってしまったのかもしれません。

別の角度から見ると、かなり大きな力石だということがわかります。
img069 (3)

大正14年、晴風の三回忌に知人らが記念碑を建てました。
それがこちら(左)。かなり磨滅して不鮮明なので、右に、
「おもちゃ博士・清水晴風」(林直輝ほか 社会評論社 2010)
からお借りした拓本を載せます。

碑の中央に晴風が描いた「玩具涅槃図」が彫られています。
これは釈迦入滅のパロディで、
寝釈迦の周りを弟子たちの代わりに玩具が囲んでおります。

img069 (4) img070.jpg

これには94人の名が刻まれていますが、山中笑(共古)、淡島寒月、
市川団十郎、松本幸四郎、四代目歌川広重、内田魯庵、巌谷小波、
などのほかに千社札の「いせ万」「高橋藤」なども名を連ねています。

斎藤氏が「こんな墓もありました」と送ってくれたのは、
あのテレビ時代劇「遠山の金さん」こと「遠山金四郎景元」の墓。

img069.jpg

おお、北町奉行の金さんじゃないですか。
片肌脱いで桜の彫り物を見せてのあの啖呵、

「この桜吹雪、散らせるもんなら散らせてみろい!」

中村梅之助も高橋英樹もカッコ良かったなあ。

あ、でも桜吹雪ってすでに散り始めた桜ですよね。
散り始めた桜に「散らせるもんなら」ってのは、?

ここは一つ、こちらのセリフでどうでしょう。

「背中に咲かせた遠山桜、
     散らせるもんなら散らせてみやがれ!」


金さんが見せるのは背中じゃなくて肩から腕なんだけど、まあいいか。

奇しくもこの遠山様と晴風さん、享年が同じ63歳なんです。

さて、斎藤氏は埼玉から東京、再び埼玉へととんぼ返りしたあと、
「東京の力石」(高島愼助 岩田書院 2003)などに掲載の番付から、
清水晴風こと「筋違車半」の名をまたまた見つけてしまいました。

今まで、清水晴風が「筋違車半」だとは誰も気づかなかったため、
見逃してしまっていたのです。
というより、
力石研究の上智大学の故伊東先生からも地元の研究者からも、
晴風の名は一度も出てこなかったのです。

言われてみれば、確かにありました。
明治21年の「力持興行広告」の中に年寄として出ていました。
(赤矢印)

img074.jpg

こんな細かい文字の中から、よく見つけますねえと驚きのみなさま、
私たち力石ハンターには、虫眼鏡は必需品でございます。

とまあ、粋がることもありませんけどね。

それにしても、過去を探るって本当に面白い。

「おもちゃ博士の墓石が、
100年たった今の世に、「新発見の力石」と注目されるたァ、

お釈迦さまでも気がつくめえ

<つづく>

男の美学

柴田幸次郎を追う
05 /28 2017
埼玉の研究者、斎藤氏から玩具博士・清水晴風の新情報をいただきました。

晴風の「力持番付表」です。
正確には、明治13年(1880)11月に、
東京都江東区の亀戸天満宮に奉納された額の写しです。

「やっとこさっとこ見つけました。ちょっと感激…」と斎藤氏。

そうですよね。晴風が力持ちだったことはわかっていたものの、
今まで、晴風銘の力石も番付表の存在も不明でしたから。

それを探し出したのですから斎藤氏の興奮、そりゃ、もう。
ビンビン伝わってきます。

その「力持番付表」です。
img997.jpg
「見立番附」(山中共古)  国立国会図書館蔵

中央に一番大きく「鬼熊」と書かれています。さすが!
他に本町東助、扇橋金兵衛、四ツ目吉五郎などのビッグネームがずらり。

晴風、このとき29歳
現役ではなく「年寄」(下段の赤丸)に「筋違車半」として名を連ねています。

「筋違車半」とは、
晴風の家が「神田筋違御門」外にあったところから「筋違」(すじかい)とし、
「車半」は家業の車力と通称の半次郎にちなんだ命名です。

同図書館の大沼宜規氏によると、
番付表脇の書き入れは晴風自身が書いたもので、
「若い頃東京力持ちの群に加わり、諸方にて興行ありし毎に出ていた」
「思ひ出しても笑止の至り」などと書かれているそうです。

で、その大沼氏があげていた参考文献を早速読みました。

これです。
img998.jpg
「おもちゃ博士・清水晴風 郷土玩具の美を発見した男の生涯」
(林直輝、近松義昭、中村浩訳著 社会評論社 2010

タイトルの
「郷土玩具の美を発見した男の生涯」っていいですね。

この本は可能な限りの資料を探し出し、
「晴風のすべて」を語りつくした秀作で、
それに著者の方々の愛情が随所にあっていい感じでした。
ただ、この番付表を取り上げていなかったことが惜しまれます。

晴風は自ら書いた「小伝」で、こう語っています。

「十五の年に家督を相続したが、若い身で七、八十人の荒くれ男を
自由自在に働かせるのは容易な業ではなかった。

そこで膂力(りょりょく)の必要を感じて専心力技を練り、
二十歳のころには上達して、
米俵二俵ぐらいは片手で差し上げる呼吸を覚えた。
二十七、八のころには力持ち番付けの幕の内にまで列するに至った」

下は、「集古会」の仲間との集合写真です。明治29年撮影。
「集古会」とは、古い懐かしいものを集めて品評しあった同好会で、
画家、学者、文人や趣味人などの子供ならぬ「大供」たちが、
まじめに「遊び半分」(洒落っ気)で楽しんでいたそうです。

後列左から二人目が晴風(45歳)。
img032.jpg
「おもちゃ博士・清水晴風」からお借りしました。

実はここに登場する方々、この静岡とゆかりのある人が多いのです。

まず晴風ですが、先祖は駿河の清水(現・静岡市清水区)出身なんです。
明暦年間に江戸へ出て、車力(運送業)を始め、
加賀・前田家などの諸大名の御用達しとして繁栄したそうです。

で、その晴風と親しく交わり、「見立番附」を残した山中共古(本名・笑)は、
静岡移住の旧幕臣で、この地でキリスト教の牧師になった人です。
静岡県内などで精力的な民俗調査を行い、
柳田国男が師と仰いだほどの優れた業績を残しています。

そしてもう一つ嬉しいことは、
「清水晴風」の著者のお一人、林直輝氏は静岡県富士市の出身で、
中学生のころから、静岡市に本部を置く郷土玩具愛好会、
「日本雪だるまの会」の会員だそうです。

その「雪だるまの会」のかつての主宰者は、私のご近所だった方で、
この方も「土人形」の貴重な調査書を残しています。

その一つ「俵かつぎ」(坊之谷土人形。小笠町)。製作は明治末。
img982 (2)
「静岡の郷土人形 =大井川町・小笠町・金谷の土人形」
古谷哲之輔 日本雪だるまの会 平成8年

この本にも、晴風の「うなゐの友」の記述が出てきます。

さて、「おもちゃの美を発見した男」晴風さん。
亀戸天満宮に奉納した「力持番付」の写しに、
「思い出しても笑止の至り」などと、やや自嘲気味に書き入れましたが、
でも、自らの墓石にしたのは、若き日に持ちあげた「さし石」だったのです。

「泰雅院晴風日皓善男子」の法号が彫られた
晴風さんの力石のお墓です。

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東京都豊島区巣鴨・本妙寺  「おもちゃ博士・清水晴風」からお借りしました。

享年63歳。辞世の句です。

  「今の世の玩具(おもちゃ)博士の晴風も
           死ねば子供に帰る故郷(ふるさと)

27、8歳で番付に載るほどの力持ちになった晴風さんでしたが、
その後、神田昌平河岸の米屋に乞われて米俵で力量を披露していたとき、
誤って大けがをしてしまいます。

そのことから大いに悟るところがあって、
以来、力持ちとは遠ざかってしまったそうです。

ですがそれ以後も力石をずっと手元に置き、それを自分の墓石にした。
やっぱり、力持ちだったことは終生、誇りだったのではないでしょうか。

そしてそれもまた、清水晴風の「男の美学」だったに違いありません。

<つづく>

やっぱり勝次郎だよなァ

柴田幸次郎を追う
05 /23 2017
明治維新前の神田の力持ちの一人、米搗き屋の「柴田勝蔵」は、
「柴勝」と呼ばれていたと晴風はいった。

そんなトンカツ屋もどきの俗称ではなく、
鬼熊や鬼幸のようにを冠してほしかった、と私は思うのです。

戦国時代の武将・柴田勝家はその猛将ぶりから「鬼柴田」と呼ばれ、
明治・大正の時代になっても「英雄史談」や児童読み物になって登場した。

やっぱり「鬼」でなくちゃ。

晴風さんは言及していませんが、神田にはもう一人、有名な力持ちがいた。
1丁目の「勝蔵」のお隣、2丁目の柴田四郎右衛門です。

こちらがその四郎右衛門が持った力石です。=有形民俗文化財=
CIMG0811 (4)
東京都千代田区外神田・神田神社  110余×73×32㎝

「奉納 大磐石 神田仲町二丁目 
 柴田四郎右衛門持之 文政五年壬午三月吉日」

四郎右衛門も幸次郎同様、
この石一つだけ残して、忽然と消えてしまいました。

そして、この四郎右衛門と同じ文政期に神田を拠点に活動していたのが、
前回ご紹介した「柴田勝次郎」です。

勝次郎は「柴田連中」のリーダーとして活躍し、
群馬県桐生市に1個、都内に3個、力石を残しています。
詳細は2016年9月1日、3日のブログ記事をご覧ください。

四郎右衛門もこの柴田一門の一人かと思いましたが、
現在のところ確認できておりません。

さて、勝次郎です
文政8年、勝次郎は芝の魚屋の土橋久太郎に率いられて、
大阪・難波新地へ力持ち興行に出かけます。

そのときの絵です。演目を書いた引札(チラシ)は前回、お見せしました。
勝次郎15065487-s (4)
国広画  日本芸術文化振興会蔵

「男山」のこもかぶりを担いでいるのが美男の木村与五郎、
その隣で、「大亀」の石を「両手差し」しているのが土橋久太郎です。

そして我らが柴田勝次郎は、こちらです。
尻出して、あられもない姿で臼を「足差し」しています。

勝次郎15065487-s (5)

晴風さんが言った「柴田勝蔵」は、
やっぱりこの男、勝次郎ではないのかなあ。

<つづく>

ついに発見、でも…

柴田幸次郎を追う
05 /20 2017
風邪はピークを越え、思い出も「風邪とともに去りぬ」

現実に戻って「大王石」です。

前々回、清水晴風が亡くなる間際に書き残した
「3人の神田の力持ち」のことをお話しました。
今回はいよいよ真打登場です。

それは神田仲町1丁目で米搗(つ)き屋をやっていた男でした。

米搗き屋というのは、玄米を搗いて白米にする商売です。
今でいう精米所。

地面に埋め込んだ臼に玄米を入れ、それを杵でついて精米したそうです。
米粒の表面を削り取る仕事で、当時はこれをすべて人力でやった。
力がないと成り立たない商売です。
だから搗き屋は大力持ち揃いで、ゆえに大飯食らいだった。

そこで江戸庶民はこんな川柳を詠んだ。

    昼飯の搗き屋仁王を茹でたよう


img996.jpg mie01 (2)
狩野芳崖「仁王捉鬼図」    「三重の力石」高島愼助 三重大学出版会
                   
狩野芳崖さんの名画と並べるなんて恐れ多いですが、
まあ、こうしてみると、真っ赤な仁王さんも力持ちも似てなくもないか。

地方で玄米や雑穀を食べていたとき、江戸では白米がもてはやされた。
それで多くの出稼ぎ人が米搗き屋となって江戸へやってきた。
出稼ぎは越後(新潟)や信濃(長野)からが多かったそうです。

で、こんな言葉が江戸で流行った。
「越後米搗き、能登三助」

神田仲町の米搗き屋は定住者のようでしたが、抜きん出た力持ちで、
晴風はこんなエピソードを紹介しています。

「米俵3俵を大八車ごと担いで運んだ」「両足で15俵もの米俵を差し挙げた」

柴田名の「千社札」です。
img297 (4)

で、晴風は最後にこんなことを書き残しています。

「同人が足で差した三百貫の大王石は、両国元柳橋の川岸にあったが、
今は何れに運ばれたか解らなくなっている」

キター! 大王石に元柳橋! バッチリじゃないですか。
「竿忠の寝言」の忠吉さんに続いて二人目の証言です。

このことから、
同時期、晴風が朝倉無声に話した三百貫(実質150貫)の大王石は、
この元柳橋の大王石と同じ石であることが判明しました。

しかし、です。

本当ならここでめでたしめでたしになるはずだったんです。
でも、肝心の名前が、柴田幸次郎ではなかった。
柴田は柴田でも、柴田勝蔵
初めて見る名前です。

「実に驚くべき大力で衆人を驚愕せしめたこの柴田勝蔵は、
俗に「柴勝」と呼ばれていた」というのです。

鬼柴田や鬼幸ではなく柴勝。

さらに晴風はこんなことも書いていた。

「この柴勝が力持ち興行に出たとき、
坂本辺の鳶の組合から贈り物をして景気を添えたそうである」

オイオイ、晴風さん、
力持ち興行に出掛けたのは、勝蔵ではなく柴田勝次郎ですよ。

大阪・難波新地で興行したときの引き札(チラシ)です。
赤丸に「柴田勝次郎」の名前があります。
img636 (5)

まあねえ、あの江戸研究者の三田村鳶魚でも、
鬼熊の本名・熊治郎を「熊吉」と書いていましたから、
晴風がうっかり勝次郎を勝蔵としてしまったことは大いにあり得ます。

ですが「勘違い」という確証もありません。

せめて幸次郎のように「鬼柴田」とを冠して呼ばれていたならまだしも、
「柴勝」ですからねぇ。

ただ姓と名を縮めただけですもん。

ちっとも強そうに見えないじゃないですか。

<つづく>

恋文

世間ばなし①
05 /16 2017
久しぶりに風邪をひきました。
ストーブをつけて毛布にくるまっても寒気でガタガタ。
咽喉は干からび過ぎて、白湯もうまく通らない。

三日目の今日は鼻水が固まりだしたものの、咳が止まらない。
ああ、力が出ない。
老いの身の哀れが身に染みる。

とまあ、弱気の虫がそろりそろりと顔を出しました。
こんなとき、私は昔の恋文を取り出すのです。

10代のころ、青年僧と知り合いました。
私が就職したのと時を同じくして、彼はタイへと修行の旅に出た。

「日本は寒いでしょうね。
少し旅行をしました。ボンベイは日中30度ばかり。暑くてまいりました。
タイ国もとにかく暑いのでまいります」

「インドは貧富の差が激しい所で…。
我々日本人がなんとかしてやりたい気持ちでいっぱいですが、
でもそんな時間があればあなたに一目逢いたい」

「今度はすごく美しいラブレターをつづります」
「明日より僧堂生活に入ります」
「今、バンコクにいます。同封したのは菩提樹の葉ですよ」

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「身体の調子が悪くなりましたが心配しないで」
「21日か28日に得度式を致します。日本にはいつ帰れるか…」

「会社、相変わらずですか? 頑張ってくださいネ」
「今月帰る予定でしたが、まだしばらくタイにおることにいたしました」
「あなたはどうなりましたか? ”お嫁さん”決まりましたか?
少し気になりましたので、ペンを握ったところです」

今読み返すと、愛情いっぱい、誠実さに溢れていて、
なんでもっとしっかり向き合わなかったのかと…。
修行の邪魔をしてはいけない、という気持ちもあったけれど、
すべての面で、私はあまりにも幼すぎた。

それから20年ほどたったある日、ふと手にした月刊誌に、
仏教の社会貢献を実践する彼の記事が出ていた。
立派なお坊様になっていた。

最後の恋文にあった
「一緒にアメリカやヨーロッパの旅へ行きませんか?」を、
彼は一人でやり遂げたらしい。

今まで恋文を広げて読むことはなかったのに、今日は無性に読みたくなった。
広げると一文字一文字から、
あの日々と変わらない、ちょっとおどけた柔らかな笑顔と、
春の芽吹きのような息づかいが聞えてきました。

それなのに、
そのあふれる愛を受け止めきれず、戸惑って逃げ出したあのころの私。
なんだか滑稽です。

はるばるタイ国から届いた菩提樹の葉は、傷ひとつないまま、
たくさんの思いを秘めて、今も私の手元にあります。

ええ、じれったい!

柴田幸次郎を追う
05 /13 2017
蒔絵師の柴田是真が大石を持ち上げるほどの力持ちと知って、
「幸次郎は是真か」と思ったけれど、やはりこれには無理があった。

だって、もしそうなら、玩具博士の清水晴風は、
朝倉無声に、「150貫目大王石」の話をしたとき、
当然、知り合いだった是真の名前を出したはず。
それを言わなかったのは、是真と幸次郎は無関係ということですよね。

ヤレヤレ、また振り出しに戻ったか。
img379 (4)

でも、めげることなく、
私はますます奮い立ち、おのれの脳天に性能のよい?アンテナをピッと立てた。
そしてポンと探し当てたのが、
「都市民俗の生成」=明石書店 2002=という本。

バッチリでした。再び晴風さんとご対面です。

晴風は大正3年(1913)、「神田の伝説」という随筆を刊行していました。
それが「都市民俗の生成」に復刻収録されていたのです。

この本の中で晴風は、
「明治維新前のわが神田には、俗にいう力持というものが住まって居た」
という書き出しで、代表的な3人の力持ちを紹介していました。

胸が高鳴ります

一人目は皆さまにはすっかりお馴染みの「鬼熊」こと熊治郎。
この人です。

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菊池貴一郎画

豊島屋酒店のタルコロだった熊治郎は、老後、
「豊島町柳原通りの角に鬼熊という居酒屋を出していた」そうで、
江戸研究の三田村鳶魚(えんぎょ)は、
「相撲の話」=復刻 中央公論社 1996=にこう書いています。

「柳原の土手を下りたところ(新し橋近く)に鬼熊横町というのがあって、
私の子供の時分に、縄のれんの店頭に力石がいくつも置いてありました」

鳶魚さんは実際に力石を見ているんですね。
さらに、こんなことも書いています。

「慶応元年の『花長者』(一枚刷)に、

力持 芳治郎 伝七 六十四歳大力鬼熊

があります」

これは錦絵でしょうか。未見です。

これには、「慶応元年(1865)に64歳」とあります。
ということは、生年は1801年で、これは11代将軍家斉の時代で、
十返舎一九が「東海道中膝栗毛」を書いたころにあたります。

また、明治7年(1874)の東京日日新聞に、
「鬼熊71歳の時、古希を祝して大力持会を開催」の記事があります。

年齢にちょっと誤差はありますが、
鬼熊の没年は明治18年(1885)だそうですから、
80歳代まで生きたのは確実です。

力持ちとしては珍しいほどの長寿です。
このことから「鬼熊複数説」も出ていましたが、今は否定されています。

丸い石は鬼熊が持った力石。その後ろに頭だけ見えるのがお墓です。
CIMG0734 (3)
東京都世田谷区北烏山・妙壽時

鬼熊の店があった柳原の土手は柴田是真の住まいの対岸で至近距離です。
もともと力には自信があった是真ですから、
鬼熊のところに力石がたくさんあって、人が大勢やってきて力試しをしている、
という評判は耳にしていたはずです。

その中に「熊遊という銘の150貫目の力石があった」ことも、
のちにその石が「浅草公園奥山に移された」ことも、みんな知っていて、
鳶魚を始め、多くの人が本に書き残しています。

その「熊遊」碑です。
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東京都台東区浅草・浅草寺

年齢はまちまちですが、
是真鬼熊も江戸和竿師の中根忠吉清水晴風も、
同時代を、同じ神田川・隅田川界隈で生きていたわけです。

そして、元柳橋にはあの「大王石」がドデンと鎮座していました。
力石に関わっていたみなさんですから、
この石を知らなかったはずはありません。

なのに「幸次郎」は姿を隠したままだ。ええ、じれったい!

さて、晴風が神田の力持ちとして名をあげた二人目は、
こちらもお馴染みの酒問屋内田屋の金蔵です。

「金蔵の持ち石は100貫目以上もあって、
今では深川洲崎の元八幡境内に残っている」

と晴風が「神田の伝説」に書いているように、今でもこの石は、
富岡元八幡宮(洲崎の元八幡)で所在なげに往時を偲んでおります。

「100貫目以上もある」と晴風がいった「樊噲石(はんかいいし)です。
CIMG0746 (4)
東京都江東区南砂・富岡元八幡宮

内田金蔵は墨田区千歳の江島杉山神社に、
93貫目(348・75㎏)の力石を残していますから、
「100貫目以上」は、あながち誇張だとは言い切れません。

「それで、最後の三人目は?」

「ハイハイ。真打は次回のお楽しみということで…」

「何! それはないよ、お前さん。ええ、じれったい」

ウフフ♪

<つづく>

是真も藤村もいた

柴田幸次郎を追う
05 /09 2017
というのはただ上から下へ流れているだけじゃない。
ちょっと前までは、物資を輸送するための一大交通網だった。
その物資と人の流れとともに他国の文化習俗も行き来した。

力石や力持ちもこうした水路を行き来した。

川は今以上に人々の暮らしと密着していた、ということが、
昔の地図を見るとよくわかります。

地図に、以前ご紹介したお寿司屋さんなどの位置を記してみます。
一番右の☆あたりが「廿六メ目」の力石がある「美家古鮨本店」です。

浅草橋(浅草御門)から上へ続く道は、「蔵前通り・奥州日光街道」。
この先は浅草寺に行き当たります。ここには鬼熊の「熊遊」碑があります。

浅草橋付近には現在、総武線浅草駅があります。

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一番左の☆あたりが、
蒔絵師・柴田是真が明治24年の没年まで暮らした家です。

下の写真は82歳の是真。右は「美家古鮨本店」の力石「廿六メ目」
ひょっとしてこの石も船で運ばれてきたのかも。

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真ん中の☆あたりに、
作家・島崎藤村が明治39年から7年間暮らした家がありました。

柳橋の花柳界の一角にあり、忍び返しのついた二階屋でした。
写真の右から二番目が藤村
両脇は妻・冬子の両親。藤村の前の子どもは長男
左端の赤ちゃんをおんぶしたねんねこ姿の女性は妻の冬子でしょうか。

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ここへ転居する前に3人の幼子を相次いで亡くし、
さらに貧乏暮らしが続く中、冬子は栄養失調で夜盲症になった。
それでも転居後も毎年出産。
7人目となる4女出産の折り、ついにこの家で亡くなってしまった。享年33歳。

「まだ上げ染めし前髪の 林檎のもとに見えしとき」

なぁ~んて浪漫主義も結構だけど、家の中は火の車
でも恋愛至上主義は止まず、
妻の死後、姪と関係を持ち子供まで産ませてしまった。

「明治大正見聞録」(生方敏郎)に、こんなことが書いてあった。
「藤村は若い娘と連れだって、よくこの辺りを歩いていた」

まあねえ…。

別に藤村のことではなくて、あくまでも私論ですけど、
私つくづく思うんですよね。

昔の絵描きや文士は貧乏が当たり前で、
世間の規範からはみ出たハチャメチャな人が多かった。

ハチャメチャだったけど、神髄を極める姿勢には凄まじいものがあった。
あの北斎はゴミに埋もれながら名作を描いた。

天才狂人は紙一重」なんて言葉がありますけど、
その線引きは何かと考えてみると、
功成り名を残したかどうかってところかなって思うんです。    

だってそれなりに有名になれば、
それまでの常軌を逸した言動は帳消しかエピソードとして許されて、
世間から、文豪とか文化人とか芸術家なんて呼ばれる。
でも無名のままなら、単なる「性格破綻者」でオシマイですもんね。

しょうがないですよね、非凡とは所詮、そういうものだし…。

あ、ひと言付け足します。
光琳以来の名人とうたわれた蒔絵師の柴田是真は、
非常にまじめで模範的な人だったそうです。顔は恐いですが…。

でもそんな是真でしたが、
相手が天子様でもぴしゃりとはねつける一本気な性格だったとか。

なんでも明治初期に皇室から蒔絵の御用命があったとき、新政府に反発して、
「自分は公方様(徳川家)の世に人と成った」と言って断ったそうです。

とまあ
独り言はこれくらいにして、今度は対岸の地図をご覧ください。

img933 (2)

次回ご紹介しますが、左端の☆あたりに「鬼熊」の居酒屋がありました。

右端下の☆あたりが、釣具店「東屋」の女房で寛政の三美人の一人、
「おひさ」の水茶屋があったところです。
水茶屋のそばに元柳橋があり、「大王石」が置かれていました。

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柳橋と元柳橋の間の隅田川にかかる両国橋を渡ると墨田区で、
国技館や回向院があります。

67歳を一期にこの世を去った江戸和竿師の忠吉さんが住んでいたのは、
その先の本所徳右衛門町(墨田区立川・菊川)。
近くの裏店に「酒飲みの絵描き」(河鍋暁斎)が住んでいた。

この暁斎のことはのちのちブログに書きます。
ちなみに「暁斎」は,
「ぎょうさい」ではなく「きょうさい」と読むのが正しいとか。
そのこともそのときご説明いたします。

神田川や隅田川沿いは職人さんや絵師や文士、落語家や役者、芸者衆など、
江戸文化を支えた「人種」の宝庫でした。

そんな中にポツネンと居座り続けた「大王石」

ここで、柴田幸次郎探しの発端となった
フランス士官、ルイ・クレットマンの写真を今一度、掲げておきます。

img188 (21)

<つづく>

やっと会えた「力持の図」

柴田幸次郎を追う
05 /05 2017
4月15日のブログ記事「「追っかけ」やってます」に、
「木場名所図絵」「力持の図」に句を添えた俳人のことを書きました。

これです。

    さし石や遊びと見えぬ腕くらべ    茂丸

この句を詠んだ茂丸って誰だろう?
もしかしたら、
明治から昭和初期に暗躍?した政財界のフィクサー、杉山茂丸かも、
なぁ~んて思ったりしましたが、あえなく迷宮入り。

ま、取りあえずを見に行こうと思い立ち、静岡県立図書館へ。

県立図書館を通じて所有者の国立国会図書館より、
絵を送信していただくためです。

その絵がこれ
img934.jpg
「木場名所図絵」「腕くらべ」  国立国会図書館蔵
森田寛次郎・画 川部茶酔・解説 加藤真次郎・出版 昭和2年

本物はきれいな彩色がほどこされていたのですが、
残念ながら、モノクロのみ許可ということで…。

この絵には川部茶酔のこんな解説がありました。

腕くらべ解説
日々商戦激甚の間にも、自ら閑日月ありて、百人百種の楽しみあり」

百人百種の楽しみのうちから、大弓、囲碁、将棋、力持の4種をとりあげ、
それを絵にして、それぞれに俳句を添えてありました。

茂丸氏が詠んだ「力持の図」を拡大してみました。
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いい作品ですねえ。
やっと会えた絵ですから、もう感激!

それからほどなくして、すごい情報が飛び込んできました。
なんと、「茂丸」氏のお孫さんからのメールです。

「茂丸さん、私の祖父らしいのです

驚いたのなんの!

お孫さんの話によると、
「茂丸」は俳号で、本職は深川島崎町(現・平野町)の材木屋だった。

大阪学院大学の松村隆先生の、
明治における木材取引ー明治30年代後半の状況」
=国際学論集・第22巻1号=によると、

「明治39年当時の東京府下の材木問屋は、
千住組合に属する業者を除くと248名いた。

そのうち164名が所属する深川組は、
上木場、中木場、下木場とあり、
上木場の三好町、島崎町、久永町には大きな問屋が多かった。
これらは「巨壁たる」材木問屋で、角材、丸太の大物を扱った」

島崎町の「茂丸」氏は、大店のご主人だったんですね。

これは「神田材木町通り」の材木屋さんの絵です。
木場ではありませんが、こんな感じだったのかなあと…。
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「新撰東京名所図絵」東陽堂 明治33年より

「茂丸」氏は孫の顔を見ないまま旅立ってしまったそうで、
メールをくださったお孫さんは祖父が俳句を残していることを最近伝え聞いて、
その句を読んでみたいと思っていたところ、私のブログに出会ったとのこと。

「茂丸」氏が「木場名所図絵」に添えた俳句はまだまだありますので、
お孫さんにはぜひ、国会図書館や都立中央図書館などで、
本物を見ていただきたいと思います。

本やPC画面を通して、
知らなかった「おじいちゃん」と対面するなんて素敵じゃないですか。

さて、俳句です。
もう一つ、貴重な情報をいただきました。
東京都江東区常盤の「芭蕉記念館」の学芸員さんからです。

木場名所図絵の俳句の選者の一人である雪中庵東枝(清水東枝)は、
雪中庵十一世を継いだ俳人で、昭和12年、静岡県沼津市で没した。
茂丸については不明ですが、
大正~昭和初期に東京とその周辺で活動していた
雪門嵐雪の系統)の俳人だったと思われます」

ちょっと解説します。

「雪中庵」(せっちゅうあん)とは、其角と並ぶ江戸中期の俳人で、
芭蕉十哲の一人、服部嵐雪のことです。
この一門は「雪門」と呼ばれ、俳句界の一大勢力となりました。

芭蕉記念館の学芸員さんがおっしゃった十一世雪中庵東枝は、
「九世時雨窓・村上静雄(寿像)の軸装に賛を残しています。

で、ここに出てきた「時雨窓」(しぐれそう)ですが、これは、
江戸後期の駿府(静岡)の俳壇を代表する俳諧グループで、
初代・山村月窓は東海地方の雪門(嵐雪系統)を指導した人です。

同じ「雪門」というところで、静岡と「茂丸」氏がつながりました。

静岡市の清水寺には、
その「時雨窓系・六花庵」の俳人たちの句碑がたくさん残されています。

その一つです。
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静岡市葵区音羽町・清水寺

静岡市ゆかりの、
時雨窓、白兎園まで手を広げると収拾がつかなくなりますので、
ここはスイッと身を引いて、

次回は「幸次郎」に戻ります。

<つづく>

わたしの散歩道

世間ばなし①
05 /02 2017
今日はいい天気。
うらうらと散歩に出かけました。

近くの小川ではハヤが群れて泳いでいました。
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公園にやってきました。
サツキが八分咲き。ところどころ満開。

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公園を抜けると住宅地です。
ここへ引っ越してきたころは、茶畑ばかりだったのに、
今は谷の奥まで家がびっしり。「崖崩れ危険地帯」の看板が虚しい。

新東名が出来て、風景も変わりました。高速道路の橋脚と茶畑です。
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開通する前、「新東名ウオーク」に参加しました。
そのとき、トンネルから出た岩のかけらのお守りをいただきました。
掘削で出た石ですからね、これを持っていれば願いが「貫通」するとか。

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本当に今日は穏やかな五月晴れ。
どんどん山へ向かって進みます。
山の入り口にいる木彫りのワンくん。もう20年ほど座っています。

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さらに登り詰めると、駿河湾へ注ぐ一級河川の起点に到着。

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起点の谷あいの小さな流れに、山藤が楚々と咲いていました。
白い岩のようにみえるのが藤の花です。

どこを見ても、お山は藤の花盛り。
自然の花は出しゃばらず、強いて人の気を引こうとしないところがいい。
それなのに、あるがままの姿そのものが、山全体の画竜点睛になっている。

なんちゃって。山に屁理屈は似合わないですよね。

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農道のかたわらに、廃小屋。

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半世紀も前にはみかんの摘み取りに、
東北地方から援農の人たちが大勢やってきたそうです。
出稼ぎ先は東京などの大都会ばかりではなかったんですね。

みかんは正月前にすべて収穫。
駅のホームは、土産のみかん箱を抱えて故郷へ帰る彼らであふれ、
それが年末の風物詩のようになっていたとか。
縁あって、婿に入ったり嫁になった若者も多かったそうです。

草に埋もれた廃車を発見。
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水鳥のつがいがいましたが、撮り損ねました。
足元を、銀色のトカゲが長い尾を引いてさっそうとすり抜けて行きました。

周囲の山すべてが萌黄色に染まっています。
これが、
生まれ故郷より長居してしまった私の、美しい第二のふるさとです。

でも、こんなのもでるんですよ。

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人間の危険度はそれ以上かも(^-^)/


※追加
 弥五郎丸さまに気に入っていただいたので、木彫り犬の追加写真です。

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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞