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アーティストさんからの手紙⑲ 番外編                                     「絵の里」 八木洋行

私が出会ったアーティストたち2
04 /30 2024
番外編です。

私は「アーティストの仕事場訪問」の前に、県内の画廊さんをお訪ねした
「美術の旅ー静岡の画廊をめぐる」を書きました。

巡った画廊は47カ所。

そのうちの一か所で、なんとこの私が絵のモデルになったのです。

描いてくださったのは、「ギャラリー絵の里」(沼津市)の経営者で、
県展や旺玄会展に入選した経歴を持ち、
本の挿絵や装丁も手掛ける池田利行氏。
取材中、私をモデルにエンピツ画を仕上げてしまったのです。


それがこれ。

焼き込み

「子供のころからの夢だった絵描きになれなかったので、
せめてその周辺にいたいと思って。
ギャラリーの名称、”絵の里”は長女の絵里からとりました」

森の中の白い家。二階がしゃれた喫茶店という素敵なギャラリー。
主に地元作家の作品を長期間展示していた。


「一部の地元作家の作品は、
中央のオークションでは値がつかず商品にはなりません。
商品と呼ぶものは流通に出るもののこと。公開株と同じです。

本来は芸術にモノサシはないんです。
普遍的なものはみんなの心にこびへつらう絵になりやすいし、
逆に独創的なものは個人の心に訴える普遍性がない。
そのどちらもないといい作品にはなりません」


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「絵の業界はつかみどころのない世界ですが、
基本的には純粋性が芸術性だと思います。
売るために創作したわけじゃなかった良寛や円空みたいに」

「日本の絵は明治以来、美意識が偏ってしまって国際的には通用しない。
もっと国際市場に出して世界の人の目にさらすことが必要ですね」


絵の世界の裏表を知り尽くした人の話は、興味が尽きなかった。
池田さん、お元気でしょうか。


ーーーーー

八木洋行(やぎ ようこう) 写真家・民俗学者

静岡県藤枝市生まれ

私は1994年から一年かけて、旧東海道の静岡県内二十二宿を歩き、
新聞に連載していました。


新聞記事はそのときで消えていくものなので、何とかカタチにして残したい、
そう思ってこれを「東海道ぶらぶら旅日記」として自費出版した。

在職中の14年間、たくさん連載してきましたから、
全部、本にしたかったのですが、費用の捻出が難しいので断念。
これ一冊だけはなんとか残すことができました。


img20240412_09221222.jpg

そこで八木洋行氏に序文をお願いしたら快諾してくれて、
「刊行によせて」の原稿をお送りくださったのです。

こんな楽しいハガキも。

img20240412_09203685.jpg

生まれも育ちも生粋の藤枝っ子。
ふるさとを愛する情熱は人一倍。

昔はよく歴史散歩を企画してみなさんを穴場に案内してくださった。
そんな中、なにやら意味ありげな場所に。

そこはかつての遊郭で、
「おやじたちが愛した」とかなんとかおっしゃったのを聞いた参加者たち、
「八木先生もなかなかの人だから」と、ニヤニヤ、ヒソヒソ。


民俗学者としてまた写真家として、
ふるさとを愛し、古きを愛し、女性をこよなく愛する人にふさわしく、
昔日の残照の路地に立つ姿は実に自然でありました。
(^^♪

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アーティストさんからの手紙⑱ 杉山侃子

私が出会ったアーティストたち2
04 /27 2024
杉山侃子(すぎやま なおこ) 画家

静岡市生まれ

当時私は取材に先立ち、
「静岡大学創立50周年記念美術展」
(静岡市のグランシップ)で、
ここの卒業生だった杉山さんの作品を見ました。


それは「石と人」と題したアクリル画で、
画面いっぱいにゴツゴツした石を描き、その基底部に人がかがんでいる、
そういう構図の作品でした。


「あれは25年前に描いたもので、
絵を続けていく中で私の転換点になった作品なんです」と杉山さん。


「流れ」 アクリル画
流れ

「27年間、中学校で美術教師をやってまして…。
彫刻の授業の中で石や土に出合ったんですね。
ちょうど自分の題材を探していたときでもあったのですが、
資料を集めていて人と石とは、
縄文のはるか昔からずっと関わり合ってきたんだということに気がついて、
コレだ!と」

作品「石と人」は「衝撃的」と評価され、
その年の「静岡県水彩画協会賞」を受賞した。


「学生時代の画題は人物でした。それが石と出合ったことで、
すぐ石だけになりました。自然物には人間を超越した何かがある、
石だけでも人間の思いや情念は出せるんじゃないかと思ったんです」

杉山部分

以来、杉山さんのキャンパス上に、白と黒の石が増え続けた。

川の水は自らの力で流れているのではなく、
石の配列によってその流れを変えていくー。
石を描いているうちに禅の精神に合っているところが感じられて、
自然に対する畏敬の念が生まれたという。

img20240415_18495388.jpg

「コンクールで賞をもらえば嬉しいという繰り返しの中で、
ふと、思ったんです。
もともと芸術はもっと人間の息遣いの近くにいたはずだと。
それで美術館の中でというより、
生きている場での仕事をしたいと思うようになって…」

その可能性を日本建築の襖(ふすま)に求めた杉山さんは、
平成元年、静岡市清水区由比の古刹、臨済宗・地持院を訪ね、
20年来、作品のモチーフにしてきた「石」
襖絵を描かせていただけないかと願い出た。

地持院(じじいん)臨済宗妙心寺派 開山は天正年間(1573~91)
          静岡市清水区由比町屋原

”寺は文化の発信地であり、人との交流の場”と考え、それを実践していた
第27代鮎川博道和尚は、その申し出を快諾。
檀家さんたちにも受け入れられ、
寺の襖絵を描くという杉山さんの挑戦が始まった。

本堂は大正10年の建立、客殿はこれから新築という寺の襖に、
日本画ではなく水彩キャンパスにアクリルで描くという新しい試みです。

それを許可したご住職の度量の大きさにただただ驚いたが、
それだけに杉山さんの決意と着手は命がけのものだったはず。


本堂と客殿を繋ぐ廊下に描かれた「橋」

「弘法大師が紀州行脚の際、向かいの大島へ渡るため天邪鬼に
手伝わせて橋を掛けたという伝説の”橋杭岩”。
橋は二つの世界を繋ぐもの」
=「襖絵展」(写真・銭谷均、デザイン・落合紀夫)解説より
ふすま4自動補正

構想3年、本制作に3年。
弟子もいないので一人でコツコツやり続け、6年後の平成7年に

「彼の岸」「五十二位の石」「山流水不流」「滝」「石積み」など、
本堂と客殿の襖四十四面を完成させた。


「作品は畳や天井など、周りの”気”に助けられました。
空間に取り込まれて作品が成り立ったんです。
アトリエの空間とは全く別なんですね。
アトリエはどんなに広くてもこういう生かされ方はしないんです」と杉山さん。


「客殿」の「五十二位の石」

「菩薩行の段階は十信、十往、十行、十廻向、十地、等覚、妙覚の五十二ある。
明恵上人はある夜の夢の中で、大海原の中に五十二ほどの石が
一丈余りの距離をおいて沖の方へとつぎつぎ並んで置かれてあるのを見て、
この石は自分が踏み渡る石だと思ったという」=同上
襖絵3

やり遂げるには健康でいなければの一念で襖絵を完成させた杉山さん。
私がお会いしたのは、この大仕事から間もないころだったので、
その興奮と安堵、達成感がビンビン伝わってきた。

「今の私の頭の中はスッカラカン」と笑いつつ、「次は床の間を」と意欲的。
「今、模索しているのはオブジェ。紙で作った石で、
虚と実の世界を表現してみたい」と、次なる夢を語ってくれた。


本堂の「彼の岸」

「彼岸は悟りの世界である。此岸にいる私たちが求め続ける世界である」
=同上
ふすま自動補正

地持院へは私も何度かお邪魔させていただきました。
襖絵が出来る前には伝説の「代かき地蔵菩薩」を礼拝させていただき、
襖絵完成後はその襖絵を。

「寺は文化の発信地であり、人との交流の場」とおっしゃったご住職は、
その言葉通りの方で、いつも快くご案内くださった。

旧東海道を歩いた時、思ったことがある。

固く門を閉ざして信徒以外は拒絶していた宗教施設は新興宗教だったり、
のちにカルトとして摘発を受けた団体だったが、
広く門戸を開けてどなたでも受け入れていたのは古くからある宗教施設、

そういう違いを行く先々で思い知らされました。

「地持院」

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アーティストさんからの手紙⑰ 八木幾朗

私が出会ったアーティストたち2
04 /24 2024
八木幾朗(やぎ いくろう) 画家(日本画)

静岡県榛原郡吉田町生まれ

日本画の世界は昔からの伝統にがんじがらめで自由な発想は許されない、
私は長い間そう思い込んでいました。

でもあるとき、絵の具や紙や手法は伝統のものでも、
作品は現代アートよりずっと大胆だということに気づいたんです。
そこで日本画家の八木氏に、あえてこんな質問をぶつけてみました。

「日本画の世界には異端の画家さんが多いですね」

すかさず八木さん、こうおっしゃった。
「ガンコおやじがいて、ちょっと変わったことをやると怒られる、
そういう反発しやすい世界ですから反骨の人が出やすいんです」

取材させていただいた前年の1999年、八木氏は平野美術館
(浜松市)で、
「先進と伝統 対極の美」と題した個展を開いた。


「風景」部分 1987年 岩絵の具・墨・和紙 227.0×540.0cm 個人蔵
平野美

個展会場には、
伝統的な墨や岩絵の具を使った絵画、和紙を使ったコラージュ、エッチング、
オブジェなどが展示されていて、その自由なことに驚かされた。

「そのときを描く」という作者の衝動が新鮮で、
それを素直に受け止めることが出来た。


「写楽や北斎、そして僕の尊敬する横山操さんにしても、
みんな異端といわれていましたが、今はそんなことを言う人は誰もいない。
異端が時代を越えると正統派になり主流になっていく。
自分もまた正統派だと思っています」と八木さん。

横山操(よこやま みさお) 
  新潟県出身の日本画家。多摩美術大学教授。1973年に53歳で没。

「森の中」 1997年 岩絵の具・墨・和紙 20.0×47.5cm 個人蔵
森2

八木氏が日本画の道へ進むきっかけになったのは、
羽子板の押絵師だった母親の影響だという。

「子供のころ、母のかたわらで面相筆で顔を描いていました。

日本画には職人的な技術がいるんですね。
岩絵の具を溶くことひとつとっても、紙一枚張るにしても
かなりの経験が必要なんです。

でも今は職人的なもの、例えば経師屋さんのやるような技術は軽視されて、
そういう高度な技術は消えようとしています。
美大でもアメリカンナイズされた人が多いので、
水墨などの良さを捨てさせられてしまうんです」

経師師 書画の幅、屏風、ふすまを表具する職人さん。

「これは明治以降、外国の真似ばかりして
日本のいいところをかなり削られてしまったこと、戦後もアメリカの影響で
簡単に物を捨てていく感覚が入ったせいだと思います」

「社会派の表現を出発点にしている日本画家」ー。

そう言われていた八木さんには、
細い糸でかすめ取られて身動きが取れないキリン
「サハリン」や、
山の静寂と、炎に包まれた飛行機の狂気が同居している絵など、
社会の矛盾や怒り、悲しみなどを込めた作品も多い。


     「サハリン」1983 岩絵の具・紙 227.3×181.8cm
img20240410_09454246.jpg kirinn.jpg
「八木幾朗の仕事 1972-1998」平野美術館より

「30代前半までは社会的なものに対する怒りを、
ダイレクトに表現していたんです。大韓航空機墜落事故を知り、
人間の浅はかさや残虐性を日常の眼を通して表現したり…。
そうするのが芸術だ、と」


「墜ちた日」 1988年 岩絵の具・墨・和紙 205.0×486.0cm
大韓航空機2

その八木氏の個展に、秋野不矩さんがこんな言葉を寄せている。

「絵の表現は作者のやむにやまれぬ自己の衝動といえるものですが、
やはり客観的に自らの作品を陳べて自己の世界を改めて眺めるとき、
今まで気づかなかったものさえも発見でき、それが次の表現に寄与し…」

秋野不矩 浜松市出身の日本画家。2001年、93歳で没。

「やむにやまれぬ自己の衝動」に突き動かされて、
制作に没頭していた八木氏に転機が訪れたのは35歳のとき。
文化庁在外研修員という話が来て、3年間、フランスで過ごすことになった。


「フランスに住むようになってから、とらえ方が変わりました。
外国では例えば新聞は同じことを取材してもメディアごと報道の仕方が違う。
だからメディアではなく、自分の目を通して見えたものしか
信用してはいけないと気づかされました」

八木氏からの手紙
img20240410_09434570_20240417071719175.jpg

美術評論家の米倉守氏は、
「この画家の作品ほど粉飾にわずらわされていない日本画も珍しい。
技術にも精神にも媚態がないから親しみが持てる」と評し、
大藪雅孝・東京芸術大学教授は、
「雰囲気だけで絵ずらを繕う類型的作家が多い中、八木君は自分の内面を
独自な表現で積み重ねてきている」と述べている。

=「ジャポニズム 八木幾朗日本画展」松坂屋美術画廊・画集より

フランスから帰国してすぐ水墨画に取り組んだ。
そうして完成した「砂の上」は、
八面のパネルに朽ちていく船と生えてくる雑草を描いた作品で、
生と死を表現したものだという。

「墨はシンプルなだけにもろに感情、表現、デッサンが出てしまい
ゴマカシが効きません。
怖い表現であるけれども強い表現でもあります」

「砂の上」1997年 金箔・墨・絹 172.0×678.4cm
img20240410_01592604_2024041002322740d.jpg砂の上
同上

アトリエにお邪魔したときの印象を私は記事の中でこう綴っています。

「木の塀を巡らした庭には近くの大井川から採ってきた雑草が茂り、
その真ん中に二階建ての建物丸ごとのアトリエが建つ。
部屋の壁面いっぱいに描きかけの墨絵。
画家の精神世界をちょっぴり垣間見た気がした」

後進の育成にも力を注ぎ、
多摩美術大学、東京芸術大学、沖縄県立芸術大学の非常勤講師や
京都造形大学教授を歴任。
2022年、教授として勤めた母校・多摩美術大学を退官された。

そして昨年2023年、同大学と原爆の図丸木美術館で、
「退職記念展」が同時開催された。

24年前の取材の時、
「異端が時代を越えると正統派になり主流になっていく」
と、おっしゃった通り、見事に正統派の巨匠になられていました。


ブログではお伝え出来ないスケールの大きさ、迫力をどうぞご堪能ください。
ご本人も登場します。

「戦争と人間 八木幾朗 退職記念展」


24年ぶりに拝見した八木氏、優しさは当時のまんまでしたが、
あのころ黒々としていた頭やおひげは真っ白。

24年前の八木氏
img20240410_00503430.jpg

そういう私も白髪のおばあさんになりましたが…。

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ついに保存! 栗橋八坂神社の力石

栗橋八坂神社・流転の力石
04 /21 2024
久々に力石のご報告です。

ーーーーー

「行って来ました。暑かったぁ~」

今月17日、斎藤氏からこんな書き出しのメールが届いた。

斎藤氏が行ってきたのは、栗橋八坂神社
(現・埼玉県久喜市栗橋北)
目的は神社移転後の力石の確認です。
※旧地は埼玉県北葛飾郡栗橋町北

17年前の2007年、斎藤さんは移転前の旧地で3個の力石を発見。
その後神社は、利根川スーパー堤防の築堤補強工事のため
近くの現在地へ移転することになった。

ここで、神社所在地の地図をご覧ください。


江戸時代ここは、日光街道と奥州街道が交差する軍事上の重要な場所で、
利根川を挟んで「栗橋宿」
(埼玉県久喜市)と「中田宿」(茨城県古河市)
という二つの宿場があった。


地図

栗橋八坂神社には「舟戸町」と刻まれた力石が2個あります。
「大橋石」と「出井石」です。

この二つの力石について、2007年当時の宮司さんは、
「日清戦争へ出征した兵士が戦勝祈願に奉納したものかもしれない」と。


舟戸町は利根川の渡船場で働く船頭たちの居住したところで、
旅人や茶葉を運ぶ「茶船」と馬を運ぶ「馬船」が常駐。


将軍の日光東照宮参詣の折には、船頭たちを動員して50艘もの浮橋を造った。
これに従事する者は、
舟戸町の身元の確かな船頭という条件があったという。


さて、斎藤さんの発見から13年後の2020年、移転工事真っただ中の神社で、
ブログ「路傍学会」の会長さんが、地面に転がっていた「享保石」を発見。

斎藤さんも知らなかった4個めの新発見です。

これを知った斎藤さん、「こりゃあ大変だ」と早速現地へ。


目的の石を見つけて水で濡らすと、見事な刻字が浮き上がってきました。

「享保十八年 丑六月 くりはし中丁組」

20201229195440c5c_2024041916055696b.jpg
旧社地

工事中の境内に置かれた2020年当時の「享保石」です。(右端)

工事の方が石面の文字に気づいて、
これは大事な物かもと思い、捨てずにおいてくださったんでしょう。


IMG_8871_20240419100323027.jpg

しかし、新発見石の喜びもつかの間、
神社はすっかり様変わりしてほかの力石が見当たりません。


旧八坂神社2021

干上がった池とその周辺です。

池

探し回ってようやく池の土嚢の隙間に、見覚えのある石を見つけた。

そこで枯れた池に降りて、縁に埋もれていた力石3個を探し出した。
土嚢をのけたらその一つに「大橋」の名が見えた。


「二十五メ 明治廿七年六月 
         納人 舟戸町 大橋源太郎」


斎藤氏がこの「大橋石」を新発見したのは2007年10月。
このときはご覧のように池の縁に埋けられて、まるまる姿を見せていました。


大橋石2007・10

こちらは新発見から13年後の2020年の「大橋石」です。
全体を見せていた石は、工事のため土嚢で埋められていました。


工事現場の大橋石
旧社地

翌2021年3月、掘り起こしたら懐かしい「大橋源太郎」が出てきた。

2021・3月大橋石

さて今年4月、真新しい神社に期待と不安を抱きつつ訪れた斎藤さん、
境内に並んだ力石を見て思わず胸を熱くした。

3年前、現・宮司さんは保存するとおっしゃっていたけれど、
その約束を守ってくれただろうかと心配でたまらなかったのです。

で、来てみたら約束通り、力石は移転先の境内にちゃんとありました。


「刻字がはっきりしなかったので、ティッシュに水を含ませて石面を拭ったら
大成功。大橋源太郎の文字が浮きあがってきました」

で、次の石をティッシュで拭いたら「出井友吉」が浮かび上がってきた。


これです。
4.jpg
移転先の新社地境内

斎藤さん、最後まで心配していたこの石が、
無事に新たな場所で生かされていたのを見て感無量。

「お前、生きていたんだなぁ~、良かった!良かった!」と。

石に写ったカメラを持つ指の影からも、斎藤さんの感動が伝わってきます。


こちらは2007年10月16日、斎藤氏に発見されたときの「出井石」です。
力石はすでに忘れられた存在になっていたようですね。

しかし、こんな場所から力石を見つけ出すのだから、
斎藤さんの眼力と執念は凄い!


出井石2007
旧社地

2021年4月25日に再会した時の「出井石」です。
14年前にあった大木は根元からバッサリ。


出井石2021
旧社地

「奉納 三十メ 明治廿七年六月 舟戸町 
              願主 出井友吉」


奉納年月が大橋石と同じ明治廿七年六月です。
日清戦争が勃発した年ですから、
やはり戦地へ赴く若者が奉納していったのでしょう。

船頭の家に生まれた屈強な若者たち。その力量を望まれて戦地へ。
その健気さを思うと、なんだかいたわしい。

で、新しい神社の境内で力石と対面した斎藤さん、
ここで力石の数が1個足りないことに気付きます。

旧社地で確認した力石は、
斎藤さん発見の「大橋石」「出井石」「三十□」石の3個と
路傍学会長さん発見の「享保石」1個、現・宮司さん発見の「二十五メ」石の
計5個あったはず。だが並んでいたのは4個。


現・宮司さん発見の「二十五メ」石です。前・宮司さん教示の石とは別物で、
これには刻字もなかったため力石の数には入っていない。現在不明。
25目

調べてみたら、
「大橋石」と一緒に池の縁から救出した「三十□」がない。

こちらが2007年発見時の「三十□」石です。
確かに「三十□」が読み取れます。


2007年の30□目石
旧社地

2020年10月30日に確認したときの「三十□」石です。

2021 年の30□石
旧社地

こちらは前回から5か月後の翌2021年3月11日に見た「三十□」石です。

三十□」?2
旧社地

不明の「三十□」石はこれでは、と目をつけたのが、
新たに設置された「厄除け石」のとなりの木の横に放置されていた石です。
「でも刻字は確認できませんでした。宮司さんもご不在で」と斎藤さん。


写真だけ見て判断はできませんが、ちょっと形が違うような…。
もしかしたら間違って違う石を持ってきてしまったのかも。
だとしたら本物は旧地の地底深く今も眠っているのかも。
それもまた後世へのロマンチックな置き土産ですね。
(^^♪

などとのんきな私。斎藤さんは涙。😢

「厄除け石」。右端に石が一つ置かれています。
7.jpg

立札もありました。

2_2024041911110057b.png

なにはともあれ立派に保存されていて、ひと安心。

下の写真
は勢ぞろいした「力石4人衆」です。
左から「享保石」「出井石」「二十五メ」「大橋石」

池の縁から救い出され、
素晴らしい終の棲家を与えられてどの力石も誇らしげです。


1.jpg
栗橋八坂神社 埼玉県久喜市栗橋北2-15-1

2021年当時、失礼をも顧みず私は遠方から、
現・宮司さんや利根川上流河川事務所の方々に連絡させていただき、
力石の重要性や歴史的背景などご説明し、保存をお願いしました。
その願いを受け入れて下さったんです。

宮司さま自ら重機で力石を掘り起こして、
ご自宅に保管
してくださったそうです。

心より感謝申し上げます。


「栗橋総鎮守八坂神社」

また「享保石」を発見してくださった「路傍学会」の路傍学会長さん。
工事現場の状況をお知らせくださった

「へいへいのスタジオ2010」のへいへいさん。
神社へ保存依頼の手紙を出してくださった「三重之助先生」
新設なった神社の力石をブログでご紹介くださった
「カメラ保護主義」のたいやきさん。

ありがとうございました。

そして真っ先にお礼を言わなければならないのは、
いつもあふれんばかりの「力石愛」で、傘寿を過ぎた体に鞭打って
今日は東、明日は西と調査を続けてこられた斎藤氏です。
斎藤氏なくして、ここの力石は救えませんでした。

今ごろ力石たちが話していると思います。

「また、お日様を浴びて参拝の人たちの笑顔も見れて幸せだねぇ。
みなさん、ありがとう!」

以下は2021年当時の私のブログ記事です。
鯉駒と亀の由来なども書いてあります。


「栗橋八坂神社・流転の力石」

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なんでもかんでも発達障害?

世間ばなし③
04 /18 2024
このごろというか少し前から、
「発達障害」という言葉をずいぶん見かけるようになった。

生きづらい。コミュニケーションが取りづらい。こだわりが強い。
学習障害に注意欠如に多動。

発達障害者は擬態(カモフラージュ)するなんてことも書かれていた。

こういう発達障害者に対して、それ以外のつまり俗にいう「健常者」のことを
「定型発達者」なんて言うそうだけど、なによ、この決めつけ。

気になってそれらしき本をちょこっと読んでみたら、
登場する「発達障害者」のみなさん、高学歴で驚いた。それも超難関の。
立派な仕事についている人もいれば、職場を転々とする人も。
中にはコンサルタント業や人さまの相談に乗る発達障害者も。


「自分はA症、B症、C症と診断されて障害者手帳を持ってます」
と、暗さもなくカミングアウト。

なんだか誇らしげに聞こえると言ったら、怒られるだろうか。

DSC01515.jpg

で、私は彼らの定義からいけば「定型発達者」になるけれど、
「発達障害」の症状を見たら、バッチリ当てはまる。

子供の頃からかなり「普通」ではなかったし、小4の時自殺未遂もした。
数学が苦手で追試も受けた。人の言うことは何でも真に受けて嗤われた。

学校でも職場でも浮きやすかったし、コミュケーションをとるのが下手だから
単独を好んだし、こだわりなんかは今でも強すぎるくらいだし、
先読みするからKYと言われて嫌われた。だからいつも生きづらかった。


こだわりが強いのも発達障害者だって書いてあったから、
力石の三重之助先生や埼玉の研究者・斎藤氏なんか
その最たるものじゃないですか。もちろんこの私も。
(笑)

そうそう、私は洗剤や化粧品などの香料アレルギーがあるのだけれど、
最近、某学者が「化学物質過敏症の人は洗剤メーカーのせいにするが、
それは冤罪。こういう人は精神疾患の合併率が42~100%」だと。

だとすると私は発達障害に精神疾患! ひゃー。


20221103_153057.png

小学生のとき、夏休みの宿題に毎日屋根に寝転んで空を眺め、
その空を一日一枚描いて夏休み明けに合計31枚提出したら、
先生が「あんたはバカか」と言って、全部ごみ箱に捨てた。


毎日空に吸い込まれながら描いた空の絵。
先生にはただの雲と空にしか見えなかっただろうが、
その一枚一枚には物語や詩がいっぱい塗り込められていた。

向こうの山の端から入道雲が沸き上がる。面白いように雲が動く。
天空いっぱいに広がったかと思う間に、怪獣になったり雪だるまになったり。
その間を銀色の飛行機が飛んでいく。後から爆音が追いかけていく。

刻々と変化する空の色。風の音や匂い。暑さでジリジリ焼ける腕。
下を覗けば人がぺしゃんこの黒い影になって歩いていく。
木陰で昼寝する猫がいて、ジージーシャンシャンとセミの大合唱。


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話が逸れました。私、本を読んで疑問に思ったんですよ。

なんでもかんでも発達障害って、なんか変じゃない?
「発達障害者」対「定型発達者」なんて二分するのもおかしいよ。

第一、この世に「定型発達者」なる者なんているの?

この「定型」ってどういう「カタチ」を指しているの?
こちとら生身の人間だよ。定型の封筒じゃあるまいし。
 
人間、誰だって個性を持ってるし、知性だって体力だってみんな違う。
考え方や心の有様も生育歴も違うのだから同じパーツなんてない。
当然ぶつかり合うから、誰しも生きづらいはずじゃないの。
ロボットじゃないんだもの。

誰が言い出したか知らないけれど、
「発達障害者」とか「定型発達者」って決めつけ、
私には「風が吹けば桶屋が儲かる」式の、ただのレッテル貼りにしか思えない。
病気にもブームがある、ブームには仕掛け人がいるという言葉を思い出す。

子供の頃は誰しもどこかに「欠陥」を持っていて当たり前だった。
だってまだなにもかも不完全だから。


明らかに障害と思える子は少数いたけれど、そんな子もひっくるめて
ちょっとはみ出しても変わっていても誰も気になんかしなかったし、
医者もそれを病気だなんて決めつけなかった。

みんな、そんなもんだと納得して世間と折り合いながら、
自力で自分の生き方を模索してきた。いっぱい悩んで傷つきながら。

第一、子供にも大人にも「完全」な人間なんているはずないじゃない。
違いがあるからこそ人間なんじゃないの。

それぞれ違うデコボコした感情やクセがあるからこそ、
突出した芸術や文学や科学が生まれるんだし、
世の中が平板にならずに済んでいると私は思う。


今どきはなんでもかんでも病名をつける。細かく細かく。
まるで神経症みたいだ。


DSC01640.jpg

なんでもかんでも病名を付けるといえば、「依存症」というのもある。
事件を起こせば酒のせい、薬物のせい、ギャンブルのせいとなる。
万引き依存症なんてのもあった。


これでいくと今、お騒がせな政治家たちはさしずめ、
擬態(カモフラージュ)症の「発達障害者」で、
金に麻痺した「裏金依存症」ってなことになる。

すると彼らは病気で弱者ってことになって罪に問われない?

ああ、やだやだ。だんだん腹が立ってきた。


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アーティストさんからの手紙⑯ 風鈴丸

私が出会ったアーティストたち2
04 /15 2024
風鈴丸(ふうりんまる) 版画家(木版)

静岡市生まれ。

「牧野という本名が出るのがいやだったので、家族みんなで考えてもらって。
男女の区別がないような、漢字で書いてきれいな名前。
私は夏の夕方が好きだったので、それで”風鈴丸”に決めたんです」

そうおっしゃった風鈴丸さん、
少年のような少女のようなとても不思議な方でした。

「自分の存在自体が不思議で、
自分はどこから来たのか今度はどこへ行くのか、死ぬってどういうことなのか、
そんなことをすごく考えながら育ちました。
いつものぞき窓から外を見ているって感じで…。
物事のとらえ方がみなさんとはちょっと違っているんだと思います」

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「ひとやすみの星」1997 16×15・5㎝ 7版8度摺り 越前手すき鳥の子紙

「父(牧野宗則氏)と同じことだけはやりたくないって、
ずっと思っていました。でもシルクスクリーンなんかやっているうちに、
やっぱり木版画だ!と気づいて…。
結局、父と同じ道を歩くことになってしまいました。
(笑)

「門前の小僧みたいに生まれた時から父の仕事を見てきましたし、
職人さんたちの話も聞きながら育ちました。

父は長い間かかって伝統浮世絵木版画の技法を習得したけど、
私は最初からその高い技術を見て育ち、
初めから一流の道具を使うことができた。
その辺、得したかなと思っています」

摺りについて風鈴丸さん自身が記した「摺り順序」と説明を、
「木版画親子展」より引用させていただきます。

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「風鈴丸・牧野宗則 木版画親子展」平成10年 静岡県裾野市

「10版13度摺りというのは、
10枚の版を彫り13回重ねて摺ったということです。
父の作品には”25版35度摺り”なんていうのがありますが、
こうなると技法的にも体力的にも超人わざです。

多く重ねて摺るほどに、前に摺った色がずれないようにしなくてはなりません。
紙は呼吸しますから、伸びたり縮んだりするのも調節しなければなりません」


こうして出来た作品がこちら。
「雨ノ原」1996 ed.100 34.1×46cm 9版10度摺り
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「画廊さんに言わせると、私の作品は心象絵画というんだそうです。
すべての生き物の細胞の奥底に眠っている記憶、
そういう記憶を通して描いているんですね。

よく”どうやってアイデアを出すんですか”って聞かれますが、
アイデアじゃなくて私は自分のいる世界を描いているだけなんです。


私、自分が生まれたときの記憶をかなりしっかり持っていて…。
ぼんやりした光の中で男の人と女の人が話しているのを聞いて、
あっ、自分は試しにここへ落とされたんだ、よかったっていう安心感があって、
そのまま眠ってしまったんです。
こんなことを言うと変な人だと思われるので、今まで言えなかったんですけど」


「planet:blue」1996 ed.180 31.5×23.3cm 11版15度摺り
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「心の中のこと、魂のレベルのことを描いているので、
最初は拒否反応を示す方もいます。
でも何度か見てくださるうちに“懐かしさを感じる絵ですね”とおっしゃって…。


こういう作品なので広くは受け入れられないだろうと思っていましたが、
年齢を問わずたくさんの人が共感してくださるんです。
自分を全部さらけ出して描いているので、近しく思ってくださるんでしょうか」

「昨年、榛原郡吉田町の健康福祉センターからの依頼で、
木彫レリーフを作ったんです。
今まで有形無形のたくさんのものを受け取ってきました。
それで何かで恩返しできたらと思っていたとき、このお話をいただいて。

やっと人のためになることがやれると思っていたら、
逆にいろんな人に助けられて、
結局また受け取るほうが多くなってしまいました」と、柔らかな笑顔を見せた。


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「今年は内に向かうベクトルと外に向かうベクトルと、
それに加えて周りと関わり合うベクトルがうまくバランスがとれるよう
やっていきたいと思っています」

24年前、そうおっしゃっていた風鈴丸さん、
今ごろは素敵なお母さんになっているのかも。


久しぶりに絵を拝見しているうちに、懐かしさがこみ上げてきました。

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アーティストさんからの手紙⑮ 牧野宗則

私が出会ったアーティストたち2
04 /12 2024
24年前私は、素敵な親子さんにお会いした。
父の名は牧野宗則、娘の名は風鈴丸。共に木版画家。

お二人は平成10年、静岡県裾野市の市民文化センターで「親子展」を開催。
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「親子展」の画集。主催は裾野市。

画風は大きく違うけれど、
その底流に流れているのは共に湧水のような清冽さ。

私はこんなことを思ったものです。


水の湧き出る穴から潜り込んで、
富士山のどこまでも続く地底の水の道を魚になって泳いでいく娘と、
湧き上がる水に半身を浸して、刻々と変化する富士山を眺めている父。

そんな父と娘のお話です。まずは父から。

ーーーーー

牧野宗則(まきの むねのり) 版画家(木版)

静岡市生まれ

牧野氏は独学で、彫りに10年、摺りに10年を費やし、
江戸時代の伝統浮世絵木版画を習得。
それを土台に創作版画への道を開拓した稀有の版画家です。


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平成三年、東京・渋谷の太田記念美術館で、
「北斎・広重からの華麗なる展開 牧野宗則木版画展」という
現存作家では初めてという個展を開催した。

※太田記念美術館 浮世絵専門の私設美術館。

これは現代木版画と浮世絵との接点を、
牧野氏の作品を使って学問的に検証するための展覧会で、
このとき氏は副館長からこう言われたという。


「牧野さんは日本の伝統版画のすべてを吸収するという、
北斎や広重にはできなかったことをやっているのだから、
本当は”展開”というあいまいな表現ではなく”発展”としたかった。
でも浮世絵美術館としては北斎・広重より牧野がいいとは言えないので」


美術館の牧野氏への期待が、いかに大きかったかわかります。

「外国人がぼくの版画を見て”何時代の人?”って聞いてきたんです」
と、ちょっと照れくさそうに笑った。


「自分がいなくなった後、ここに一点でも収蔵されたらいいなと思っていたら、
これまでの全作品と今後のものもすべて収蔵してくださるんだそうです」


「赤い風」1990 ed.180 49.3 ×742cm
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「風鈴丸・牧野宗則 親子木版画展」画集より

「浮世絵に出会ったのは中学三年生の時。展覧会場で実技を見たんです。
これはすごいと。それで毎日通って閉店までいたら職人さんが、
”そんなに好きならやってみるか”と、
広重の”さった峠”を摺らせてくれました。うれしかったですね」


「高校生になってからはこづかいを貯めて、職人さんがいる京都や
東京へ通いました。そこでみなさんがいろいろ手ほどきをしてくれて…。
高校三年間、ずっと通い続けました」

「伝統版画の技術は職人さんたちが持っていて、
美大などで教える人がいなかったんです。
ただ職人さんは絵を描く人、彫り師、摺り師と分業なんですね」

35歳の時、浮世絵版画のプロとしてスタートした。


「東京と関西で個展を開いたら来るのは職人さんばかり。
そこで初めて絵、彫り、摺りの全工程を一人でやる作家は、
ぼくのほかにはいないことを知りました」


「人の心に響く作品って何だろうっていつも自分に問いかけ、
作品の判断は見てくださる人の反応だけとずっと思ってきました。
だからグループに所属することもコンクールも私には必要なかった。
パフォーマンスになるコンクールは、
自分自身に対して不誠実な作品になりますから」


その後、「有明海シリーズ」に取り組んだ。
九州の画廊から「有明海を生命の輝きとして現わせないか」
と言われたのがきっかけだった。


「光る道」1985 ed.125 49.3 ×35.3cm
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同上

「色の深みや光の輝きの具合、そういう形で現わし得ないものを、
版画で表現しようとチャレンジしていたときだったので、
光や色が自分の言葉になり得るんだったらと…。
有明には15年通いました」


「小学生の時、病気の父を慰めようと、
安倍川などをスケッチしてみせたんですね。その時の父の喜ぶ様子を見て、
”元気出してね”と言う以上に、
絵は生きていく上で必要なものだと思ったんです」


「今、ぼくは自然と向き合い、
その中に神々しさや安らぎ、厳しさなどを感じながら作品を創っていますが、
子供のころのそんな思いが原点になっているような気がします」


1997年、父と娘は合作「STAND BY ME」(下の版画)を完成させた。
別々に活動を続けるふたりの作家が、
ひとつの作品を同じ画面で制作するという大変めずらしい作品です。

これは風鈴丸さんのお姉さんの結婚祝いに作ったもので、
中央の”希望に満ちた富士山”を父・牧野が、両端の
両端の姉と妹と、いつも傍らにいる猫と詩を娘・風鈴丸が制作した。


「皆がいつも笑って暮らせますように」と祈りつつ摺りあげたそうです。
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静岡市はこの作品を採用して、下敷きとして配布した。
で、なんと裏に書かれていたのは、結婚を祝うという作家さんの意図とは違う
税務広報課の「税金払ってね」の話。


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「税金さん、STAND BY ME(いつも私のそばにいて)
だなんて、お役所さん、冗談キツくない?
(笑)

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アーティストさんからの手紙⑭                                         小林由季 クレイグ・ハンセン

私が出会ったアーティストたち2
04 /09 2024
小林由季(こばやし ゆき) 美術家

静岡県焼津市生まれ

焼津のなまり節屋の長女として生まれた。
「芸術なんてのは何だかわからねぇ」。そう言っていた父が倒れた。

集中治療室に横たわる父親の体から、管を伝って線や数字がモニターに
流れていく。それを見た小林さんは一人の表現者として「命の線」を
自分の指先から描くことを思い立つ。

針金で小さな人形を作り、その人形の一体一体を集合体にした作品を制作。
この作品は「柳屋ギャラリー大賞」を受賞した。

そのあとに作ったのが、
綿棒の集合体による
「エモーショナル・ホワイト・ポジション」
その2年後に「体中の細胞たち」11点を制作した。

「すべて父の闘病生活と自分の病院勤務の中から生まれたテーマなんです」

「体中の細胞たち」と小林さん。
ゼロ号サイズの中にどれだけの可能性を込められるかを追及した作品。
綿棒、薬のカプセル、肌着などを使った。
体中の

「二十歳の時、書に出会ったんです。トンカツ屋で。(笑)
いいなあと思って、家でいたずら半分に書いていて、
それから桜井烏石先生の所へ通い始めました。

そこで自分の表現したいものはコレだったんだ、人間ってこんなに自由で
いいんだと気づかされて、学生時代コチコチになっていたものがやっと
壊れ始めたんです。あとでわかったんですが、トンカツ屋で見た書、
桜井先生の書だったんですよ。
(笑)

「VOICE-沈黙の声」 鳥の子紙。100×200cm
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小さい頃から絶えず言葉が体中を駆け巡っていたという小林さん。
「だから何かの形(作品)で吐き出さずにはいられなくなるんです」

取材の最後に小林さんから、
「今、お腹に赤ちゃんがいるんです」と打ち明けられた。
翌年の賀状「ゆめ」に、
「12月21日、女の子を出産しました」と書かれていた。

「自分はずっと一人で生きていくものと思っていたんです。
でも自然な形で子どもが出来て…。
今までは”テーマを探してがんばってがんばって”だったけれど、
今はなにげない日常の中でごく自然に言葉が生まれてくるようになりました」

あれから24年。
お母さんになった小林さんの力強いご活躍、ネットで拝見しております。

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ーーーーー

クレイグ・ハンセン 演奏家(パイプオルガン・チェンバロ・ピアノ)

アメリカ・インディアナ州生まれ

芸術プロデューサーの妻の故郷・富士市へやって来たのが、1986年。
私がお会いしたのは来日13年目の時。
自前の「ハウスゾンネンシャイン音楽堂」で、お話をうかがった。

「ハウスゾンネンシャインはドイツ語で、太陽の輝く家と言う意味です。
娘の名前の”太陽”
(たいよう)にちなんでつけました」と、ハンセンさん。

娘の太陽さんとリハーサル中のハンセンさん。1999年
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音楽堂の真正面に1910年フランス製のパイプオルガンがある。
鍵盤が一段しかなくて、同じ鍵盤で二つの音色を弾くという珍しいもの。
弦のような優しい音色だとか。


「あのアルベルト・シュバイツアー博士、この人はバッハ研究の第一人者で
オルガニストでもありました。その彼の古い録音を聴いたら、
このパイプオルガンと同じ音色だったんです」


ハンセンさんからいただいた礼状。
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「日本には立派なパイプオルガンがたくさんあるのに、
ただ置いてあるだけで弾く人もいないし弾かせてもくれない。
いつも弾いていないとパイプにほこりが入って錆びてしまうのに」

「日本はなんでも欧米の外側の格好だけを取り入れているので、
中身が伴っていない。音楽も同じ」

「西洋の音楽はキリスト教から生まれたものだから、本当に理解するには、
本をいっぱい読んで背景にある歴史を知る必要がある」
とハンセンさんは力説する。


「それに今のピアニストの90%はうるさ過ぎます。日本人は大きい音、
早く弾くことがいいことだと思っているけど、
音楽はサーキットではありません。
芸術は自分の心を伝えるものだから”急いで急いで”はダメ」

手厳しいが真実。

クレイグ

「夫をここに連れてきて本当によかったのだろうかと思うことがあります」
という妻に、ハンセンさんは、
「富士山の近くだし、ぼくはここが好き。
これからもコンサートを続けていきます」と、さわやかな笑顔を見せた。


「ハウスゾンネンシャイン音楽堂」">「ハウスゾンネンシャイン音楽堂」

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アーティストさんからの手紙⑬ 重岡健司

私が出会ったアーティストたち2
04 /06 2024
重岡健治(しげおか けんじ) 彫刻家(木・ブロンズ・大理石)

旧満州ハルビン生まれ

重岡健治氏の作品です。
「遊」(左)、「祈る」(右の中央)「横たわる像」(後方右)=座れる彫刻、「家族」(後方左)いずれもブロンズ。
「重岡健治作品集」撮影・武智幹夫 1999より
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静岡県伊東市のなぎさ公園

武智幹夫 伊東市生まれの写真家。
      重岡氏をローマ留学時代から撮り続けている。

私が初めて重岡氏にお目にかかったのは、取材の3年前のことだった。
そのときのことを記事にこう書いた。

「芸術家は気難しく、彫刻はいかめしい。
さらにアトリエとなれば余人を寄せ付けない聖域…。
そういう私の固定観念を吹っ飛ばす出来事があった。
三年前、「伊豆高原アートフェスティバル」に出かけたときのことだった。


著名な彫刻家の重岡さんも、期間中アトリエを開放していると聞き、
恐る恐る足を踏み入れた。すでに大勢の来訪者がいて、
木彫やブロンズ作品が林立する中を勝手気ままに歩き回っていた。


作品を壊したりしないかハラハラしながら声のする方を見ると、
なんと作家自身がいて、
素人のどんな質問にも一生懸命対応しているではないか。
信じられない光景だった」


新作の木彫作品「三美神」と重岡氏
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それから3年後、改めて取材させていただいたが、
そのとき、こうおっしゃったんです。

「彫刻は見るだけではなく、手で触って味わう芸術なんです」

この言葉に私は衝撃と感動を受け、重岡氏の大きな人間性に包まれて、
取材していることを忘れて話にのめり込んだ。

「彫刻って、みなさんにあまりわかってもらってないんですね。
それで道具を見て貰ったり、
制作過程を明らかにすることで理解していただけたらと思いまして…。

彫刻は触ってはいけないとされていますし、
鳥のフンで汚れても掃除もしないから余計親しみが持てなくなるんですね」


「20年ほど前、京都の美術館で娘が彫刻に触って叱られたんです。(笑)
じゃあ、自分が触れる彫刻を造ろうと。
そこで触れる彫刻を造るにはどうすればいいか考えました。

壊れないもの、子供がぶら下がっても危険でないものをと考えていくうちに
どんどん単純化していき、”全部つながっている”という彫刻ができました。
解剖学的に仕事をしていますので、目の見えない方たちが
手で彫刻の線を辿っていくと感じていくものがあるといいます」


確かに重岡作品は一つの作品が切れ目なく「全部つながっている」
左は、モニュメント「家族」1977 ブロンズ・テラゾー 450×680×200cm
右は「青春の詩」1996 木彫 220×80×46cm
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重岡氏にいただいた「武智幹夫写真集Ⅵ」「重岡健治作品集」の表紙

「視覚障害の方たちには、手で彫刻の線を辿って鑑賞していただきたい」
重岡氏はそういう思いも込めて彫刻展を開いていた。


氏を撮り続けてきた武智氏は、その個展会場での感動を作品集にこう書いた。

「1984年5月17日、静岡市民会館の個展会場に静岡盲学校の生徒40人が
招待された。生徒たちが木、ブロンズ、大理石などを指先や手のひらで
一点一点確かめながら鑑賞する姿に、
私は熱い感動を憶えながらシャッターを切った」


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重岡氏が「解剖学的に仕事を」とおっしゃったとき、アッと思った。

解剖学の本を読んでいた時、イタリアルネッサンス期の彫刻家は、
「人体の解剖に立ち会い、直接骨格や筋肉などに触れていた。
だからあんなに精巧な裸体彫刻が出来た。
解剖医学者が彫刻の筋を辿っていくと、人体と同じ構造になっている」

そう書かれていた。


重岡氏はそのイタリアで7年間、エミリオ・グレコに師事。
当然、「解剖学的」な教えも受けたはず。
だから「解剖学的に仕事をしていますので」とおっしゃったんだ、と納得した。

エミリオ・グレコ イタリアの代表的現代彫刻家

グレコと重岡氏 武智幹夫氏撮影
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「彫刻に触ってもいいよ」とお聞きした時、ほかでは絶対無理だと思った。
だって咳払い一つしても展示場に座っている係員から鋭い目で睨まれるし、
じっくり見ていると「立ち止まらないで」と言われてしまう。

だから「触る」なんて不可能だと思っていたら、
限定した作品のみ「触ってよい」と書かれた札のある美術館があって、
おおーっ、重岡効果だ!と思わずニヤリとしたことがあった。

「でも触るということにみなさん慣れていないから、
なかなか触ってくれない。
(笑)
そこでいやでも座れるようにベンチを造りました。(笑)
それから蛇口をつければ水を飲むときいやでも触るから水の出る彫刻を。
ブロンズの栓は誰かに持っていかれてしまいましたけど。
(笑)

重岡氏は10歳の時、家族と共に満州から引き揚げてきた。
一家は熱海の山奥に入植して農業を始めたが、暮らしは楽ではなかった。


「家計を助けるために薪を割り炭を焼いて町へ売りに行きました。
高校生のとき、玩具商から勧められて竹で最初は鶯笛を作り、
鹿や猿なんかも作って京都や奈良、広島、九州まで売り歩きました。


京都の円山公園にいたとき、雪が降ってきたので美術館に入ったら、
圓鍔勝三先生の展覧会をやっていたんです。
作品に魅かれて高校を卒業するとすぐ弟子入りしました。22歳のときでした」

圓鍔勝三(えんつば かつぞう) 広島県出身の彫刻家。

「圓鍔勝三彫刻美術館」

圓鍔氏と重岡氏。武智幹夫氏撮影
圓鍔氏と

「その後、グレコの展覧会を見たら、またまたその作品に魅せられて、
それでイタリアへ行こうと…。
費用を捻出するために、ものすごく働きました。


イタリアにはトータルで10年ほど。とにかくお金を使い切るまでいました。
あんなに長いこといたのに、
なんでイタリア語しゃべれないのっていうくらい彫刻一筋でしたね。
(笑)

「木の多くはこのあたりのクスノキを使っています。
宅地造成や道路拡張で切られ捨てられた木ですが、それをもう一度
彫刻として生かしたくて…」


制作中の重岡氏
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武智幹夫氏撮影

「木でもブロンズでも”大地より生まれた命”。
愛と祈りを彫るのが私の仕事だと思っています」


大事な制作時間を割いて、有意義なお話をお聞かせくださった。
新聞社の名刺がなければ絶対こういう機会はなかった。
ブラック待遇
(笑)のしがないフリーランスライターの私でしたが、
このときばかりは会社に感謝しましたです。
(笑)

そして今でも忘れられないのは「彫刻に触ってもいいよ」という言葉です。

「愛と祈りを彫る」

それを体現されている方だと心底思いました。


今年88歳。
毎年開かれる「伊豆高原五月祭」(伊豆高原アートフェスティバル)に、
今も変わらず参加され、
アトリエや庭を開放してみなさんを招じ入れているそうです。

27年前のアートフェスティバルで見たあの光景が甦り、胸が熱くなりました。

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アーティストさんからの手紙⑫ 柿下木冠

私が出会ったアーティストたち2
04 /03 2024
柿下木冠(かきした ぼっかん) 現代書家

静岡県榛原郡中川根町(現・本川根町)生まれ

昨年、「喪中」の報せをいただいて呆然としてしまいました。
10月に柿下先生、亡くなられてしまって…。
元気いっぱいだったし、
先生にはそういうことは起こらないなんて思い込んでいましたから。


初めてお会いしたのは2000年6月
その時の記事がこれです。


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この時60歳。
すでに毎日書道会、独立書人団などの要職にある書道界の重鎮で、
作品はシカゴ美術館やジョスリン美術館など国内外に収蔵。
のちにオマハ市名誉市民にもなった。


新聞掲載に対してのお礼の手紙です。
img20240320_11381512.jpgkaki

「木冠」の号は師の手島右卿氏(昭和の三筆)が命名。

「木」はすべて(喬木、灌木)の総称であり、
墨痕が木に三分ほど染みこんだほど筆力があったという中国の書家、
王義之の故事「入木道」
(じゅぼくどう。書道の異称)の木でもあること。
そして昭和初期の政治家・犬養毅の号「木堂」の木をも指す。
この三つがからまって生まれたのが「木冠」だという。

「重い名前です」と柿下さん。


柿下氏は大井川上流左岸の、そのまた支流・河内川の一番奥の、
戸数わずか5軒という山村に生まれた。
家は代々林業で、御父上は確固たる哲学を持った立派な林業家でした。

「蛇口をひねれば出る水も水源に木を植え育てる者がいればこそです。
都会のみなさんにはぜひこのことをご理解いただきたいものです。
山村に人がいなくなることは、水道の管理者がいなくなることです。
ぜひ、川の下流に立って上流のことに思いを馳せてください」

1993年、若き林業家をお訪ねした時、山から下りてきたご老人がいた。
それが柿下氏の父・柿下萬寿雄氏だった。このとき85歳
御子息の柿下氏を知る7年前に、私は御父上と会っていたことになります。

※私事で恐縮ですが写真の私、痩せていて自分でもびっくり。このとき50歳。
 長かった夫からのハラスメントが終わりに近づいた頃。苦労しましたです。

柿下氏の取材からほどなく、萬寿雄氏は跡取りのご長男を亡くされて…。
木冠先生宅へお花をお送りしたら、悲痛な声で「ありがとう」と何度も…。
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号の由来をお聞きしたとき、思ったんです。

三つの「木」からなる「木冠」の要素の一つである
「木はすべて
(喬木・灌木)の総称」の「木」には、
ご自身が育ち、御父上が心血を注いで守った山の命だけではなく、
この父の崇高で強靭な精神をも色濃く込められている、と。


下のURL、ぜひお読みください。私が「心血を注いで書いた」記事です。
ちょっとオーバーですみません。

「書・柿下木冠 ①」

「書・柿下木冠 ②」

どんなに高名になろうとも柿下先生は全く変わらずの自然体。
私が新聞社を辞めたあとも展覧会のお知らせや賀状をくださった。

書も習ったこともない、ただ取材でお世話になっただけの私にも、
丁寧に対応してくださった。


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展覧会の挨拶状の中に私の記事のコピーを同封して、
みなさんに送ってくださったり…。


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招待券もたくさん頂戴しました。
今度久しぶりに箱を開けたら、使わなかった招待券が出てきました。


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賀状も毎年。

右が取材の翌年の賀状
(巳)、左が最後になった2023年の賀状(卯)
かならず一筆添えてくださるんです。

最後の賀状となった2023年には、
「益々お元気でお過ごしください」と書いてきて、その10か月後に急逝。

最後にお目にかかったのは2020年の「磊展ー悪ガキ三人展」で、
書の柿下氏、彫刻の杉村孝氏、染めの鈴木健司氏の競演でした。

久しぶりにお会いしたら、おーっという顔で開口一番、
「ずいぶん逞しくなった
(太った)なぁ。えへへ」だった。
私もえへへと笑いながら、内心、こう思っていました。

「先生もすっかりジイサンになっちゃって。お互いさま!」


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いろんな要職に就かれていて国内外の知己も半端な数ではない。
お弟子さんもたくさんいらっしゃる。

今年2月の「お別れの会」には全国から250名もの方々が参列したという。

私などの出る幕はないと思いつつもささやかでも恩返しをと思い、
春彼岸の少し前に花屋さんに依頼して生花をお送りした。

菊

で、私はここで失敗をやらかした。

普通郵便は市内でも配達は二日後、土曜日は配達なしということを知らずに、
お悔やみとお花をお届けする旨の手紙を出したら、
生花が先に着いてしまったのです。

ご遺族は弟子でもない見ず知らずの「女性」から、
突然、生花が届いて驚かれたのでしょう。先生の娘さんから電話が来た。

「父とはどういうご関係でしょうか」

そう言われて私はなぜか、しどろもどろに…。

24年前の取材で初めてお会いしたことや「三人展」が最後になったこと、
そして私の勘違いで手紙がお花より遅れて着くことなどを話し、
やれやれ理解していただけたと安堵したのもつかの間、
最後に大失態。

つい言ってしまったんです。

「では、柿下先生によろしくお伝えください」って。

「ああーっ、す、すみません。よろしくだなんて…」と慌てふためいたら、
娘さん、笑いながら応えてくださった。

「はい、父に伝えます」


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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞