アーティストさんからの手紙㉗ 大島正明
私が出会ったアーティストたち3
大島正明(おおしま まさあき) 画家(ミックス・ド・メディア)
※ミックス・ド・メディア
和紙、銅板、水彩、油彩など違う素材を組み合わせて制作した
コンテンポラリー・アート。
大島氏はCM、舞台芸術を手がけた経験から独自の新素材を使用。
東京大森梅屋敷生まれ
実は大島氏にお会いしたのは、「アーティストの仕事場訪問」ではなく、
静岡の画廊をめぐる「美術の旅」シリーズで、
夫人が経営する画廊を取り上げたとき、お話をうかがったものです。
新聞記事では、
画廊名の「アートハウスM」から肝心の「M」が抜けてしまいました。
サブタイトルをつける支局デスクのミス。お二人には申し訳なかったです。
記事中の写真は1994年、サロン・ドートンヌ入選作品「或る風景」M30号
当時の支局はまだモノクロだったので、読者にカラーでお見せできなかった。
画廊の名「アートハウスM」の「M」は、
夫・正明氏と妻・真知子さんの頭文字の「M」から付けた。
だから決してはずしてはならない「M」だったんです。
東京在住のお二人が御殿場市へ来たのは取材の年の13年前のこと。
乙女峠から見たダイヤモンドを散りばめたみたいな夜景に魅せられて、
「衝動的に」移住。
東男に京女のお二人。
”べらんめえ”と”はんなり”がうまく溶け合って心地よい雰囲気でした。
「ぼく、”西洋コジキ”していたとき、この人に拾われたんですよ。(笑)
若いころ、挿絵を描いてまして。
その後、フランス、スペインなどへ行ったんですが、
親からの仕送りは三日で使ってしまうもんだから親もあきれて、
”それならコジキするしかないね”って」
「挿絵画家になったのは、着流し姿の岩田専太郎さんに憧れたからです。
カッコいいなあと思って…。
それで新聞や雑誌で瀬戸内寂聴、新田次郎、水上勉、五木寛之さんなどの
連載小説の挿絵を描いていました」
と、おっしゃる夫に、妻が応えた。
「私はこの人の挿絵を見て心惹かれて…。なにしろ極貧の人でしたし、
日本画ならともかく油絵でしょ、周囲は結婚に猛反対。
唯一、母だけが”貧乏もまた楽し、やってみよ”と」
この人も凄いが、お母さまも肝が据わっています。
「はんなり」の心は、柔よく剛を制すってことか。
しかし「それならコジキをするしかないね」の正明氏のお母さまも大したもの。
愛情があるから突き放す。昔の「おふくろさん」って本当に偉い!
母親から「やってみよ」と背中を押された真知子さん、そのまま一直線。
「ゼロから為すところが結婚の楽しさだと思っていますから、
若い人たちのいう”三高”なんてつまらないですね。
ただ画家の奥さんはみんな苦労しています。
夫としての義務は果たさず権利だけは主張するから。(笑)
でもこういう人と一緒にいるのは楽しいですよ」
御殿場市に転居して三年目に画廊の看板を掲げた。
大島正明氏の作品を背にした大島氏と私。
「アートハウスM」
「喫茶店と間違われていきなり人が入って来て、”絵、見てもいいですか?”
って言うから、”どうぞどうぞ”って」
大島氏の受賞歴がすごい。
二科展を始め、日伯現代美術、サロン・ド・パリ賞、サロン・ドートンヌ、
東京セントラル美術館など国内外で高い評価を受けていた。
悩みは”地方では抽象画は理解されない”こと。
誰が見ても解る風景画を描いたら、
「先生もちゃんとした絵が描けるんだ」と言われてしまったと苦笑した。
「作品を理解してくれるのは、
ヨーロッパ生活の長い人や大学の心理学、理工科の先生などが多いです。
あるコラージュは、ぶらりと入ってきたデンマーク人に気に入られて、
その人の国へ渡っていきました」
「37歳のとき、二科展特選をもらったが、
受賞の大理石の楯を取りに行かなかったら、
みんな賞をもらうまで何年も努力してもらうのに不遜だと叱られました」
「でも、受賞したそのときから賞は過去のものになります。
賞は作家個人にではなく作品に対する評価。次は駄作を描くかもしれないし、
以前の賞は作家のこれからとは関係ないものですから。
だからぼくは、受賞歴など人に誇示する必要はないと思っています。
でも日本ではそれを書かないと信用されないんですね。
ヨーロッパの展覧会では名簿はアルファベット順で、
どんなに著名な画家であっても特別扱いなどしません。
絵を見ていかない限り、どんな人が出しているかわからない。
よく見たら、ぼくと同じ名簿にダリもいたりして驚いたことがあります」
寒梅や一枝一輪ほころびぬ 大島真知子
奥さまからいただいた礼状には、達筆で句が添えられていました。
しかし五年前、順風満帆だった大島氏は突然、病魔に襲われ、
絵筆を持つ右手の自由を奪われて絶望の淵に。
顔面神経になった夫の顔を見た真知子さんは、その絶望を笑いに変え、
「足は動かなくても筆を持てること」が、画家の夫のリハビリだとして
独自の工夫を施し、懸命に介護。
そのかいあって三年後、後遺症もなく回復。
再び精力的に創作活動を開始した。
ゼロからの結婚をされ大病を乗り越えて、
より一層、相手への尊敬といたわりと感謝を強めたお二人、
口をそろえてこうおっしゃった。
「それまでの人生より、この五年間のほうがずっと充実していました」
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※ミックス・ド・メディア
和紙、銅板、水彩、油彩など違う素材を組み合わせて制作した
コンテンポラリー・アート。
大島氏はCM、舞台芸術を手がけた経験から独自の新素材を使用。
東京大森梅屋敷生まれ
実は大島氏にお会いしたのは、「アーティストの仕事場訪問」ではなく、
静岡の画廊をめぐる「美術の旅」シリーズで、
夫人が経営する画廊を取り上げたとき、お話をうかがったものです。
新聞記事では、
画廊名の「アートハウスM」から肝心の「M」が抜けてしまいました。
サブタイトルをつける支局デスクのミス。お二人には申し訳なかったです。
記事中の写真は1994年、サロン・ドートンヌ入選作品「或る風景」M30号
当時の支局はまだモノクロだったので、読者にカラーでお見せできなかった。
画廊の名「アートハウスM」の「M」は、
夫・正明氏と妻・真知子さんの頭文字の「M」から付けた。
だから決してはずしてはならない「M」だったんです。
東京在住のお二人が御殿場市へ来たのは取材の年の13年前のこと。
乙女峠から見たダイヤモンドを散りばめたみたいな夜景に魅せられて、
「衝動的に」移住。
東男に京女のお二人。
”べらんめえ”と”はんなり”がうまく溶け合って心地よい雰囲気でした。
「ぼく、”西洋コジキ”していたとき、この人に拾われたんですよ。(笑)
若いころ、挿絵を描いてまして。
その後、フランス、スペインなどへ行ったんですが、
親からの仕送りは三日で使ってしまうもんだから親もあきれて、
”それならコジキするしかないね”って」
「挿絵画家になったのは、着流し姿の岩田専太郎さんに憧れたからです。
カッコいいなあと思って…。
それで新聞や雑誌で瀬戸内寂聴、新田次郎、水上勉、五木寛之さんなどの
連載小説の挿絵を描いていました」
と、おっしゃる夫に、妻が応えた。
「私はこの人の挿絵を見て心惹かれて…。なにしろ極貧の人でしたし、
日本画ならともかく油絵でしょ、周囲は結婚に猛反対。
唯一、母だけが”貧乏もまた楽し、やってみよ”と」
この人も凄いが、お母さまも肝が据わっています。
「はんなり」の心は、柔よく剛を制すってことか。
しかし「それならコジキをするしかないね」の正明氏のお母さまも大したもの。
愛情があるから突き放す。昔の「おふくろさん」って本当に偉い!
母親から「やってみよ」と背中を押された真知子さん、そのまま一直線。
「ゼロから為すところが結婚の楽しさだと思っていますから、
若い人たちのいう”三高”なんてつまらないですね。
ただ画家の奥さんはみんな苦労しています。
夫としての義務は果たさず権利だけは主張するから。(笑)
でもこういう人と一緒にいるのは楽しいですよ」
御殿場市に転居して三年目に画廊の看板を掲げた。
大島正明氏の作品を背にした大島氏と私。
「アートハウスM」
「喫茶店と間違われていきなり人が入って来て、”絵、見てもいいですか?”
って言うから、”どうぞどうぞ”って」
大島氏の受賞歴がすごい。
二科展を始め、日伯現代美術、サロン・ド・パリ賞、サロン・ドートンヌ、
東京セントラル美術館など国内外で高い評価を受けていた。
悩みは”地方では抽象画は理解されない”こと。
誰が見ても解る風景画を描いたら、
「先生もちゃんとした絵が描けるんだ」と言われてしまったと苦笑した。
「作品を理解してくれるのは、
ヨーロッパ生活の長い人や大学の心理学、理工科の先生などが多いです。
あるコラージュは、ぶらりと入ってきたデンマーク人に気に入られて、
その人の国へ渡っていきました」
「37歳のとき、二科展特選をもらったが、
受賞の大理石の楯を取りに行かなかったら、
みんな賞をもらうまで何年も努力してもらうのに不遜だと叱られました」
「でも、受賞したそのときから賞は過去のものになります。
賞は作家個人にではなく作品に対する評価。次は駄作を描くかもしれないし、
以前の賞は作家のこれからとは関係ないものですから。
だからぼくは、受賞歴など人に誇示する必要はないと思っています。
でも日本ではそれを書かないと信用されないんですね。
ヨーロッパの展覧会では名簿はアルファベット順で、
どんなに著名な画家であっても特別扱いなどしません。
絵を見ていかない限り、どんな人が出しているかわからない。
よく見たら、ぼくと同じ名簿にダリもいたりして驚いたことがあります」
寒梅や一枝一輪ほころびぬ 大島真知子
奥さまからいただいた礼状には、達筆で句が添えられていました。
しかし五年前、順風満帆だった大島氏は突然、病魔に襲われ、
絵筆を持つ右手の自由を奪われて絶望の淵に。
顔面神経になった夫の顔を見た真知子さんは、その絶望を笑いに変え、
「足は動かなくても筆を持てること」が、画家の夫のリハビリだとして
独自の工夫を施し、懸命に介護。
そのかいあって三年後、後遺症もなく回復。
再び精力的に創作活動を開始した。
ゼロからの結婚をされ大病を乗り越えて、
より一層、相手への尊敬といたわりと感謝を強めたお二人、
口をそろえてこうおっしゃった。
「それまでの人生より、この五年間のほうがずっと充実していました」
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