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アーティストさんからの手紙㉗ 大島正明

私が出会ったアーティストたち3
05 /30 2024
大島正明(おおしま まさあき) 画家(ミックス・ド・メディア)

ミックス・ド・メディア 
   和紙、銅板、水彩、油彩など違う素材を組み合わせて制作した
   コンテンポラリー・アート。
   大島氏はCM、舞台芸術を手がけた経験から独自の新素材を使用。

東京大森梅屋敷生まれ

実は大島氏にお会いしたのは、「アーティストの仕事場訪問」ではなく、
静岡の画廊をめぐる「美術の旅」シリーズで、
夫人が経営する画廊を取り上げたとき、お話をうかがったものです。


新聞記事では、
画廊名の「アートハウスM」から肝心の「M」が抜けてしまいました。
サブタイトルをつける支局デスクのミス。お二人には申し訳なかったです。
記事中の写真は1994年、サロン・ドートンヌ入選作品「或る風景」M30号
当時の支局はまだモノクロだったので、読者にカラーでお見せできなかった。
大島1

画廊の名「アートハウスM」の「M」は、
夫・正明氏と妻・真知子さんの頭文字の「M」から付けた。

だから決してはずしてはならない「M」だったんです。

東京在住のお二人が御殿場市へ来たのは取材の年の13年前のこと。

乙女峠から見たダイヤモンドを散りばめたみたいな夜景に魅せられて、
「衝動的に」移住。


東男に京女のお二人。
”べらんめえ””はんなり”がうまく溶け合って心地よい雰囲気でした。


「ぼく、”西洋コジキ”していたとき、この人に拾われたんですよ。(笑)
若いころ、挿絵を描いてまして。
その後、フランス、スペインなどへ行ったんですが、
親からの仕送りは三日で使ってしまうもんだから親もあきれて、
”それならコジキするしかないね”って」


oosima 2

「挿絵画家になったのは、着流し姿の岩田専太郎さんに憧れたからです。
カッコいいなあと思って…。
それで新聞や雑誌で瀬戸内寂聴、新田次郎、水上勉、五木寛之さんなどの
連載小説の挿絵を描いていました」

と、おっしゃる夫に、妻が応えた。


「私はこの人の挿絵を見て心惹かれて…。なにしろ極貧の人でしたし、
日本画ならともかく油絵でしょ、周囲は結婚に猛反対。
唯一、母だけが”貧乏もまた楽し、やってみよ”と」

この人も凄いが、お母さまも肝が据わっています。
「はんなり」の心は、柔よく剛を制すってことか。

しかし「それならコジキをするしかないね」の正明氏のお母さまも大したもの。
愛情があるから突き放す。昔の「おふくろさん」って本当に偉い!

母親から「やってみよ」と背中を押された真知子さん、そのまま一直線。

「ゼロから為すところが結婚の楽しさだと思っていますから、
若い人たちのいう”三高”なんてつまらないですね。
ただ画家の奥さんはみんな苦労しています。
夫としての義務は果たさず権利だけは主張するから。
(笑)
でもこういう人と一緒にいるのは楽しいですよ」

御殿場市に転居して三年目に画廊の看板を掲げた。


大島正明氏の作品を背にした大島氏と私。
img20240226_20532386_0002.jpg
「アートハウスM」

「喫茶店と間違われていきなり人が入って来て、”絵、見てもいいですか?”
って言うから、”どうぞどうぞ”って」

大島氏の受賞歴がすごい。
二科展を始め、日伯現代美術、サロン・ド・パリ賞、サロン・ドートンヌ、
東京セントラル美術館など国内外で高い評価を受けていた。


悩みは”地方では抽象画は理解されない”こと。
誰が見ても解る風景画を描いたら、
「先生もちゃんとした絵が描けるんだ」と言われてしまったと苦笑した。


「作品を理解してくれるのは、
ヨーロッパ生活の長い人や大学の心理学、理工科の先生などが多いです。
あるコラージュは、ぶらりと入ってきたデンマーク人に気に入られて、
その人の国へ渡っていきました」

「37歳のとき、二科展特選をもらったが、
受賞の大理石の楯を取りに行かなかったら、
みんな賞をもらうまで何年も努力してもらうのに不遜だと叱られました」

「でも、受賞したそのときから賞は過去のものになります。
賞は作家個人にではなく作品に対する評価。次は駄作を描くかもしれないし、
以前の賞は作家のこれからとは関係ないものですから。
だからぼくは、受賞歴など人に誇示する必要はないと思っています。
でも日本ではそれを書かないと信用されないんですね。

ヨーロッパの展覧会では名簿はアルファベット順で、
どんなに著名な画家であっても特別扱いなどしません。
絵を見ていかない限り、どんな人が出しているかわからない。
よく見たら、ぼくと同じ名簿にダリもいたりして驚いたことがあります」

寒梅や一枝一輪ほころびぬ  大島真知子

奥さまからいただいた礼状には、達筆で句が添えられていました。

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しかし五年前、順風満帆だった大島氏は突然、病魔に襲われ、
絵筆を持つ右手の自由を奪われて絶望の淵に。

顔面神経になった夫の顔を見た真知子さんは、その絶望を笑いに変え、
「足は動かなくても筆を持てること」が、画家の夫のリハビリだとして
独自の工夫を施し、懸命に介護。

そのかいあって三年後、後遺症もなく回復。
再び精力的に創作活動を開始した。

ゼロからの結婚をされ大病を乗り越えて、
より一層、相手への尊敬といたわりと感謝を強めたお二人、
口をそろえてこうおっしゃった。

「それまでの人生より、この五年間のほうがずっと充実していました」

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アーティストさんからの手紙㉖ 宮原勅治

私が出会ったアーティストたち3
05 /27 2024
宮原勅治(みやはら ときはる) チェロ奏者

岡山県生まれ

取材当時は静岡市立静岡病院の外科医長さん。
お医者さんにしてチェロ奏者。

どういうきっかけでそれを知ったのか、トンと記憶にない。
いきさつはともかく、勤務医という激務の合間の取材。
慌ただしくも貴重なお話を聞かせていただいた。


改めて記事を見たら、診察室で写真を撮らせていただいているんですね。
自分の突撃ぶりもさることながら、先生も大胆でした。
お話を伺ったのは休憩時間のたぶん10数分ほど。
宮原

「この道一筋」が尊重される日本で、
二足のワラジを履き続けるのは大変だろうなと思っていたら、
なんと履いていたのは二足だけではなかった。


音楽マネージャー、バイオリンの修理職人さん、カリフォルニアや京都で
インターネットのサーバーを管理するシステムエンジニア。
さらに今年
(1999年)2月、非営利のクラシック音楽鑑賞団体
「静岡コンサートアカデミー」まで作ってしまった。


「どれも一生懸命やっています。手を染めたら最高のところまでやりたいから。
今ぼくが一番力を入れているのがコンサートアカデミーなんです。
クラシックに馴染めない人が多いのは、
学校で音楽をおもしろく教えてこなかったからですよ。
向こうのオペラなんか観客がザワザワ笑いながら楽しんでいますから。


大切なのは理論武装しないでまっさらな状態で聴く、与えられたものを
ただ享受するのではなく自分たちでその価値を見出していくこと。
そのためにはいい音楽を安く提供したい。
そんな思いでコンサートアカデミーを作ったんです」


病院は新聞社支局の目と鼻の先。先生、わざわざ礼状を届けてくださった。
「内容的に些か強烈で、”こいつ、ちゃんと医者の仕事やっとんのかいな”
と、思われるかも」
と書かれていた。
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五歳でバイオリンを始めた。

「母親に連れられて行ったオーケストラでバイオリンを弾く人を見て
カッコいいな、と。それで幼稚園の参観会に先生が、
”大きくなったら何になりたいの?”と聞くから”バイオリニスト!”。
そしたら次の日、家にバイオリンが買ってあった。うれしかったですねぇ」


ところが小学三年生の時、バイオリンの先生が結婚。練習が打ちきりに。
そんなとき小学校の先生が声をかけてきた。

「チェロを弾いて音楽コンクールに出てみないか」ー。

これがチェロ奏者としての出発点になった。


十歳で岡山市ジュニアオーケストラに入団。
高校時代はフォークバンドを結成して停学処分覚悟で
ラジオの生番組に出演。医学部
(京都大学)在学中には、
プロのチェロ奏者として広島交響楽団で活動した。

岡山市ジュニアオーケストラ 
   自治体が運営する青少年オーケストラとして1965年に結成。
   今月26日、全国植樹祭に岡山を訪れた両陛下が練習を見学された。

二年後復学して、外科医として再出発。
群馬県での国際アカデミーで巨匠、ピエール・フルニエのマスタークラスを
受講するなど、医師と音楽家の二つの道を歩き始めた。

ピエール・フルニエ フランスのチェリスト。

1999年4月、静岡市の静岡音楽館AOIで、
J・S・バッハ「無伴奏チェロ組曲」を演奏したときの宮原先生。
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「ミツマ・ミュージックプロダクツ静岡」提供

「生命に関わる待ったなしの外科医の仕事を最優先し、
こま切れのような時間を拾い集めながら練習に励んできました」と宮原先生。

「航空工学・システム学者の故・糸川英夫さんもチェロ奏者で、
松下修也門下でぼくの兄弟子でした。
サイエンスとアート、アナログとデジタル…。
大切なことはそのバランスをとることだと思います」


この年宮原先生は、「ルーマニア・トランシルヴァニア室内管弦楽団」を
日本に招き、全国六カ所で演奏会を開催。
日本政府は昨年
(1998)、内乱で疲弊した楽団の母体、
「国立トゥルグ・ムレシュ交響楽団に対し楽器購入の資金協力を行った。

※現在、ルーマニア・トランシルヴァニア室内管弦楽団の音楽監督として、
 また国立トゥルグ・ムレシュ交響楽団の常任指揮者として、
 尾崎晋也氏が活躍している。尾崎氏はムレシュ県より栄誉賞を贈られた。

「この楽団の価値を知っていた文化官僚がいたなんて、感激です」

25年前、そうおっしゃっていた宮原先生、
今、どうされているかなとネット検索したら、ありました。

「宮原勅治のプライベートページ」

2022年、最後に勤務した神戸市立医療センター中央市民病院を
定年退職して故郷に戻り、岡山県備北保健所長に就任して地域医療に奔走。


で、HPを拝見して驚きました。
25年前、すでに何足も履いていた「ワラジ」が、さらに増えていたんです。

医師、チェロ奏者のほかに、
医療経営コンサルタント、プロジェクトマネジメント、ドローンパイロット、
それになんと、こんなことまで!


国際唎酒師!(こくさいききざけし)

国際唎酒師 外国語で適切に日本酒を案内するスペシャリスト。
       世界約30か国で4000名を超える国際唎酒師が活躍。

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アーティストさんからの手紙㉕ 坂本雅子

私が出会ったアーティストたち3
05 /24 2024
坂本雅子(さかもと まさこ) 彫刻家(テラコッタ・ブロンズ)

静岡県三島市生まれ

お会いした瞬間、「あ、優しいお母さんだな」と。

「彫刻っていいなあと思ったのは高校生の時です。
同級生のお父さんが彫刻家の堤達夫先生で、家に遊びに行って
いろんな話を聞いているうちに素晴らしいものなんだなあ、と」

堤達夫 (1918-1988) 静岡県西伊豆町仁科生まれ。
      代表作は「清水次郎長像」(静岡市清水区・梅蔭寺)、
      「徳川家康像」(静岡市駿府公園)

「それで大学(静岡大学)へ入って彫刻を始めたわけです。
卒業後は東海短大に勤務して、
それからずっと勤めと制作と家庭を同時進行で続けてきました」


「親愛なるエリザベッタ」 テラコッタ 1990 45×30×45cm
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「坂本雅子彫刻展ーイタリアの友人たちー」1992年より

「どんなに才能があっても、
女性は結婚を機にやめてしまう人が多いんですね。
広い場所もいるし家庭の理解も必要だし、
一体100㎏近いものを扱うので力もいりますし。
(笑)

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「今まで私は日常の身の回りにいる子供や学生など”ああ、いいなあ”と
思うものを作ってきました。
息子も小さいときは喜んでモデルになってくれたんですが、
今はもう裸になってくれません。
(笑)

子供が小さい頃は勤めから帰るとおんぶして制作していました。
でもアトリエには大きな像が何体もあるので、怖がって背中で泣くんです。
今でも申し訳ないと思うのは、
倒れた像で娘の顔に傷を作ってしまったことです」


「39歳でローマの美術学校へ留学した時は、
一年間、二人の子供を母に預けていきました。
ひとつには母子像をテーマにやっていますが、
それも子育てを自分でしっかりやってこなかったせいかもしれません」


「だんらん」1993年 ブロンズ
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静岡県女性総合センター(静岡市)。「坂本雅子の詩(うた)」より

子供をおんぶして制作していたー、
この話をお聞きした時、私はなんだかジンときて胸がいっぱいになった。

家庭と子育てと仕事と制作、ものすごい葛藤があったはずなのに、
坂本さんはそんな苦労を全く感じさせない柔和な方だった。


だが屋外彫刻の話になると、口調は一変。芯の強さを垣間見せた。

お会いしたのは2000年5月。
そのころの坂本さんは東海短大助教授で、屋外彫刻調査保存研究会の
会員として、彫刻の保存修復を積極的に提言していました。


1999年、伊豆の下田市で全国規模としては初めての
屋外彫刻の調査と保存に関するシンポジウムが開かれた。
対象になった像は、戦時下の昭和17年、同市の三島神社境内に建てられた
保田龍門制作の幕末の志士「吉田松陰像」。

保田龍門 (1891-1965) 和歌山県那賀郡龍門村(紀の川市)生まれ。
      代表作は「母と子」「紀陽銀行本店壁面レリーフ」

「吉田松陰先生形像」調査報告書
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坂本さんはこの調査報告書の中で、
「日本近代において、作家が環境と設置精神と像の存在を
これほど確かな意図のもとに全体設計を考えた記念像は類例を見ない」とし、
極めて貴重な芸術作品なのにセメント製のため損傷劣化の激しいことから
速やかな保存施策が必要」と提言している。

「屋外彫刻の修復の重要性を思ったのは、7年前です。
昭和57年、当時の静岡市長が”彫刻のあるまちづくり”を提唱して、
私も市民体育館北側緑地帯に「ひととき」像を設置したんです。

ところが7年前、その少女像のまげが一つとれているのを見つけて、
なんとかできないかと市に頼みに行ったんですね。そしたら職員の方が、
”屋外彫刻ってそのままでいいんじゃないの?”って言う。

確かに昔は放っておいてもいい色になりましたが、
今は酸性雨などで金属が溶けてしまうんです。
その後、市でもメンテナンスの必要性を理解してくれて、
今では市内に設置したすべての像を定期的に洗ってくれています」

「旅立ち」 1992年 ブロンズ
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静岡市清水区さつき通り。「坂本雅子の詩(うた)」より

「三年前、県の職員や保存科学者、美術史家などとともに修復したのが、
90年前、新海竹太郎が制作した護国神社
(静岡市)の「市川紀元二像」です。
新海竹太郎 (1868-1927) 山形市生まれ。
       代表作は「北白川宮像」「ジョサイア・コンドル像」
市川紀元二 日露戦争で戦死した最初の学徒出身兵。東京帝大。

「このような軍人像は作品としては素晴らしくても、
文化財の対象になりにくいので放置されがちなんですね。
今、そういう貴重な作品の存続を
真剣に考えていかなければならない時期だと思うのです」


当時坂本さんからいただいた礼状です。

第73回国展出品の時の母子ブロンズ像・ふるさと」
この作品は1999年、北海道岩見沢市の東山公園庭球場に設置された。
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現地に設置された「母子ブロンズ像・ふるさと」は、
PERKFULライター・masakazu氏の「東山公園」でご覧になれます。

ハガキの裏にこんなメッセージがありました。

「自分の歩んできた道というのは、
自分ではなかなか客観的に見れないものです。
それをあのようにまとめていただいて指針を与えてもらったように思います。
家族を大切にしながら母子像を創り続けます。

(新聞記事を)傍らで読んでいた夫が、
自分の存在がないと不満そうでしたが…。
(笑)

私はこれを読んで、??
ご主人、あの場にいらっしゃらなかったし、話の中にも出てこなかった。

でも妻が仕事や子育てをしながら彫刻家として活躍できたのは、
確かに夫の支えがあってこそなんですよね。

そのあたりの突込みが足りなかったですね。
24年もたってしまいましたが、お許しを!


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アイスクリーム

世間ばなし③
05 /21 2024
今から二年前の秋、
散歩中に「バナナのような木」を見つけたんです。

でも、バナナって日本では生育できないって植物図鑑に書いてあったし、
これはバショウかもなぁ。


と、思ったもののどう見てもバナナだよなぁと逡巡。
で、再度出かけていって道端でお話中のご老人にお聞きしたら、


「バショウじゃないよ。バナナだよ!」

やっぱりバナナでした。11月、見事に実りました。
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で、年末間近に再訪。

その時の記事がこちら。


「バナナのその後」

でもせっかく大きく成長したバナナの木、バッサリ切られていました。

な、なんで?

もう栽培をやめちゃったのかなぁ。
子供の頃、町から遊びに来る親戚のお土産がバナナで、
戦後の食糧難時代に育った私には超高級品だった。

それがこんな身近なところに生ってるなんて、夢みたいと思っていたのに。

で、それから一年たった先日、久しぶりにここを通ったら、
こんな立札が立っていた。


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「バナナのお話」と題した立札には、こんなことが書かれていた。

● このバナナは比較的耐寒性があり、0度近くまでなら、
  冬場の防寒対策をすれば路地での栽培が可能で、
  2019年からこの場所で栽培しています。
● バナナは木のように見えますが多年草なので木ではありません。
● 草なので一度実をつけた茎には二度と実がつかないので、
  収穫時に切り倒します。
● 毎年脇芽がたくさん出てきて、三年目に実をつけます。
● 先端から赤紫のツボミのような苞(ほう)が出てきます。

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● 苞が一枚ずつめくれてバナナの赤ちゃんが出てきます。
● やがてバナナになり、実がつき出したら100日ぐらいで収穫し追熟します。


最後に、たわわに実ったバナナを両手に下げたこの家のご当主の写真と、
その横に「ご視聴ありがとうございました」の文字。

私、嬉しかったですよ。こういうご配慮が…。
この木製の立札、江戸時代の「お尋ね者」の高札みたいでそれも楽しくて。

こちらが今年のバナナの木(草)です。


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立札は、
「こんなところにバナナかよ!」
と、半信半疑で立ち止まる人たちのために立ててくださったのでしょう。

持ち主のさりげない気配りとそれを受ける人の心が通い合う、
そんな時間がゆったり流れていました。

このバナナの愛称は「アイスクリーム」(品種名はブルージャバ)

畑にいたこの家の分家にあたるご主人が教えてくれました。

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アーティストさんからの手紙㉔ 前田守一

私が出会ったアーティストたち3
05 /18 2024
前田守一(まえだ もりかず) 版画家(木版)

静岡県浜松市生まれ

彫りの深い風貌に真っ白い髭をたくわえた前田氏。
素敵な方でした。
このときの取材から数年後、静岡県立美術館下車駅近くのビルで
暫定的美術館が開かれていた時、偶然お会いした。

これ以上ないという柔和な笑顔だった。

「木版銀幕風景ー五所亭へのレクイエム」と題した作品集がある。
五所亭 戦前から戦後の映画黄金期に活躍した映画監督で俳人の
     五所平之助(1902-1981)の俳号。
     「たけくらべ」「伊豆の踊子」「煙突の見える場所」「宴」など。
     晩年を妻の故郷の静岡県三島市で過ごした。

前田氏はある文化イベントの準備会で五所さんと出会い、
亡くなるまで親しく付き合ってきた。
この「木版銀幕風景」は没後12年後に、五所さんへの鎮魂として制作された。


花おぼろほとけ誘う散歩道  五所亭

これが五所亭の絶句となった。

1990-1993 前田守一作品集Ⅱ「木版銀幕風景」-五所亭へのレクイエムー 
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画楽堂 1993

1991年、
五所監督最後の映画「あやつり人形映画・明治はるあき」に踏み込んで
舞台となった明治村での取材を重ねて木版画を制作。
東京・大阪・浜松で個展「明治はるあき」を開催した。


「明治はるあきーいくさー 歩兵第六連隊兵舎」
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45×70cm 1991年制作

「五所さんに会ったころ、ぼくは海を主題にした版画を作っていましてね。
そしたら五所さんが”俳句と版画の合作をしよう”と。

初めにいただいた句は、

永き日や波のなかなる波のいろ

これを原点に据えて、
五所亭の俳句からのイメージを木版画として表現していったんです」

1981年、その五所さんが亡くなった。

没後9年後に無人となった五所宅を訪れたときのことを前田氏は、
「銀幕風景」にこう記している。


「閉ざされたままの門にはめこまれた白い石には”五所”と刻まれ、
二つ三つ咲き残りの花をつけた椿の茂みの奥の戸口にも、
いまだ”五所平之助”と書かれた表札が掛けられていた」


生きることは一筋がよし寒椿  五所亭

散るさくら死は前にあり背にも負う  五所亭

その後、
五所監督ゆかりの者たちで天城越えをして「踊り子」の道を歩いた。
そうして五所亡きあとも五所亭の句を抽象化して風景として彫り続け、
「彫りつくせぬ味わい深い世界」「抒情世界」を展開していった。


下は木版画「天城トンネル」です。
これは、五所監督の「恋の花咲く『伊豆の踊子』」の風景を彫った作品の一つ。


伊豆に帰る花の咲きしと聞くやすぐ  五所亭

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木版多色摺り。44×80cm 1999年制作

「版画は独学です。
古本屋で買ってきた本で”ああ、彫刻刀はこう使うのか”って覚えて…。

昔、松坂屋に宣伝部というのがあって、
ぼくはそこで使い走りをしていたんです。当時の松坂屋には映画館があって、
そこのロビーで開かれた県版画協会の展覧会に
ぼくも木版画を出したんです。


その打ち上げをやった喫茶店に山口源、小川龍彦、中川雄太郎、
栗山茂という創作版画のメンバーが集まって…。
ぼくは二十歳になるかならないかのころで、
そういう立派な人の中に入っていることにすごく感動しましたね」


この日前田氏は趣味の津軽三味線を聞かせてくれた。きちんと正座して。
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「版画は長い間、文学の中の短歌や俳句と同じように、
美術の中の第二芸術みたいな扱いを受けていました。
美術の表舞台に出られなかった版画を、
”複製ではなく版を使って表現する”として実践していたのが山口源です」

山口源 (1896-1976) 静岡県富士市生まれ。抽象版画の先駆者。
     1958年の「国際版画ビエンナーレ」で日本人初のグランプリ受賞。
     林芙美子の「うず潮」、井上靖の「敦煌」「風林火山」、
     松本清張の「柳生一族」などの装丁も手掛けた。

「伝統版画というのは表現より技術や道具、材料を大事にする。
山口はそういう木版画の持つ”アカ”みたいなものをなくしていこう、
現代の美術として通用するものにしていこうとがんばった。

海外で単なる日本趣味として見られるのではなく、
美術として評価されることが大事だと。
ぼくが現代美術の道に入ったのも、山口源に出会ったからなんです」


「窓辺の手ーそして木馬たち」 1998
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「ひょんなことから津軽三味線を初めて10年になります。
毎日弾くんだけど、誰も聞いてくれない。も逃げてしまうんだ。
(笑)

「ギョエッ! なんなんだこの騒音は!」
思わずクロちゃん、目が点に。「舌、噛んじゃったよ」


クロちゃん
「河野工務店 頑張る営業マンLIFE」さん提供。

「でもその三味線をやってつくづくわかったことがあるんです。
人が絵を見て心地よさを覚えて感動するのは、
絵を見る人のリズムや呼吸、脈拍と合ったときだ、と。
それを具体的にわからせてくれたのが三味線だった。
彫っていくということ自体、一つのリズムなんですね」


前田氏は「空木骨平」という筆名で小説も書いていた。
地元の文学サークル「大衆文学・しずおか」の同人で、
短編集「モリカ」で、第9回タミヤ文学賞を受賞した。


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私の記事を気に入ってくれて、
俳句の同人誌「宇宙」に掲載までしてくださった。


「宇宙」平成12年8月1日発行 発行人 島村正
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「送り手と受け手の呼吸が合うことの大切さは、三味線も絵も小説も同じ。
だけどぼくの小説はまだそこまでいってない。
ただ句読点は“息”だってことが漠然とわかってきました」


「東海道中膝栗毛」の十返舎一九、あの人はせっかちな人ですねぇ。
息つく間もなく、どんどこ話が展開していく。
ぼくもせっかちだけど、あそこまではとてもなれないよ」

そう言って笑った楽し気なお顔が、
あの「猫も逃げる」豪快な津軽三味線の音色と共に今も鮮明に蘇ってきます。

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アーティストさんからの手紙㉓ 青木洋子

私が出会ったアーティストたち3
05 /15 2024
青木洋子(あおき ようこ)
のち青木一香(あおき いっこう)に改名 美術家

岐阜市生まれ

久しぶりにネットで青木さんを拝見しました。

80歳を越えられて今なお前進を続けている姿に、
「なんでも歳のせいにして怠けている」自分が、恥ずかしくなりました。


24年前、お宅へ伺ったとき目に飛び込んできたのが、
花びらを白と黒で表現した作品だった。
私はそのときの印象を記事にこう書いた。

「床から壁、天井へ流れるように掲げられているのは、
無数の花びらを白と黒で表現した作品。
これは桜をイメージしたもので、
埼玉県立近代美術館に出品した『現代の白と黒』展の中の一枚。
お住まいは丸ごと芸術空間になっていた」


青木洋子

「4年前、ここで90歳の母を、半年前には父を99歳で見送りました。
みなさんが言うんですよ。芸術家と介護は結びつかないって。
(笑)
少し痴ほうが出ていましたけど、一緒に創作したりバイオリン弾いたり、
楽しい介護でしたよ」

「父は書の先生だったので、子供のときから手ほどきを受けていたんです。
でも父は”お前は下手だ”って。
絵は好きで小学一年生からいつも地区の代表でした。

芸大に二浪したとき、
”自分は絵がうまいんだなんて誇大妄想もいい加減にしてくれ”って
父から言われて、
それで東京へ家出したんですよ。(笑)

青木さんからの手紙
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「ありとあらゆる仕事をしながら現代美術研究所へ通って…。
研究所には日本の現代美術の巨匠たちが集まっていましてね。
そのうちの一人、田口安男先生からセザンヌを勉強しなさいと。


あまり関心のない画家だったけど本を読んだり模写したりしていくうちに、
セザンヌのセオリーみたいなものを自分のものにして、
三度目の挑戦で芸大
(東京芸術大学油画科)に入ったんです」

「普通なら芸大出たらちょっとフランスなんかへ行って高校の先生になって
結婚してとなりますが、あえて作家という厳しい道を選択してしまったんです。
でも卒業して6年ぐらいはコンクールに落ち続けて…。
いったい私は何をやりたい人間なのかって考えた時、
自分は文字を使って絵を描く人なんだって気づいたんです」


「絵画9806」 1998年 和紙と墨 130×162cm
青木絵

「1973年に人間の根元的な行為としての祈りを絵にした
「人間絵画」を発表しました。文字を”声”として捉え習字の筆を使って、
油絵の具でキャンパスに般若心経を逆さ文字で”描き”ました。


声は絵側から発するものだから、見る人は裏返しで聞くということで、
文字を逆に”描いた”んです。
次作品からのタイトルは
『The Voice 沈黙の世界』にしました。
沈黙の中にこそ本当の声がある、と」


「今はキャンパスや絵の具ではなく紙と筆を使っています。
紙や墨には伝統がありすぎるし、いかにも”くさくなる”のが嫌でしたが、
そこがクリアできたので。
文字も楷書、行書、草書と替わり、やがて文字から離れてきて、
今は”線”になりました」


この取材の17年前、青木さんは
「星を降ろす」というパフォーマンスを行った。

空から大地へ「星」を移す装置として、地面に無数の発光ダイオードを置いた。
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狩野川河川敷

場所は狩野川河川敷(沼津市)
1年目に河川敷にレンゲの種を2㎏、2年目にはクローバーを4㎏蒔き、
3年目の1983年には河川敷に豆電球30個、発光ダイオード120個を置いた。


それから2年後の1985年には発光ダイオード365個を使って、
香陵グラウンド
(沼津市)に星を降ろした。

この話をしたときの青木さんはとても楽し気で、
「あなたにもあげます」と、電池が2個入った電池ボックスを数個くださった。


それで私もさっそく、電池を庭に置いて星を降ろしてみました。
わずかな星でしたが、いっとき降りてきた星の世界で遊びました。

aoki.jpg

「多様な価値観を自分の中で納得させていくのに50年もかかりました。
今はリラックスして生きることがすごく楽しい」

そうおっしゃってからすでに24年。

旺盛な創作意欲は健在で、「沈黙の世界」はさらに進化を遂げていた。
そして美術研究所で後進を育て沼津市の美術界をけん引する、
そんな素敵な存在になっていました。

機会があったらお聞きしたいことがある。
「洋子」から「一香」に改名したその理由を…。


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アーティストさんからの手紙㉒ 七澤象聲

私が出会ったアーティストたち3
05 /12 2024
七澤象聲(しちざわ しょうせい) 書家(書・篆刻・刻字・画・詩)

静岡県富士宮市生まれ

書を西川万象に、篆刻・刻字を内藤香石に、画を望月祥堂に師事。

これだけお聞きしただけで私は逃げ出したくなった。
詩といっても高校生のとき四苦八苦したあのこむづかしい「漢詩」です。

「七澤氏をぜひ」と取材の依頼をしてきたのは、
現代書家の柿下木冠氏です。
「柿下先生のご依頼なら謹んで取材させていただきます」と返事をしたものの、
この未知の世界にどう切り込んでいったらいいものか悩みました。

柿下先生、作品は龍が天空を舞うみたいな雄渾な文字ですが、
手紙の文字はこんなに可愛らしいんです。
末尾にある「大石さん」は、先生と同門の女流書家・大石千世さんのこと。
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しかし、案ずるより産むが易し。孟子、孔子のいかめしさも長いアゴ髭もない。
ちょっと太った優しい方で、すぐに打ち解けてしまいました。

sitizawa 2

のっけから「ぼくは本当は字が下手だったんです」とおっしゃった。

「工業高校を卒業して横浜の日本鋼管に就職しまして…。
そこで図面を書いていたら上司が、
”君は字が下手だから習いに行ってこい”と。

書なんて年寄りがやるもんだと思っていたんですが、
西川
(万象)先生のところへ行ったら、
大学生なんかがいっぱいいて真剣に勉強している。びっくりしました。
ここでは最初から書を芸術として扱っていました。
この素晴らしい先生との出会いがぼくの人生を変えたんです」


「楷書七言絶句」(自詠) 「行書四屏」(李白)一部
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「七澤象聲書画金石展覧」富嶽文化振興会 1996より。
この展覧会は北京・中国美術館と富士宮市・富士美術館の共催。
同年4月に中国・北京、5月に日本・富士宮市で開催された。

「一年やってみて字(漢文)が読めないと書はできないことに気付いて…。
それで二十歳の時会社を辞めて、
大学
(大東文化大学中国文学科)へ入り直しました。
親兄弟全部から反対されましたけど、やるんだったらそこまでやらないと
単なる手習いになってしまう、そう思って…」


「卒業後は故郷へ戻りました。
南画や刻字を始めたのはこちらへ帰って来てからです」


「落陽図」
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同上

「ぼくはもともと絵が好きでしたから、
会社勤めの頃は年中、美術館へ行っていました。
レンブラントの絵を見たとき、この写実力は何だろうと、と。
シャガールにもピカソにもびっくりしました。南画の世界とは全く違いますが、
しかし、古代文字というのは、
シャガールとかピカソにものすごく通じるものがあるんです。
レンブラントには通じませんけど。
(笑)

篆刻「曲肱楽」  篆刻「水深魚極楽」
※篆刻(印)
篆刻1   篆刻2

北京と富士宮市で1996年に開催された「七澤象聲書画金石展覧」に、
当時の中国書法家協会副会長の劉藝氏がこんな言葉を寄せている。


「中国でその昔、文人と認められる基準は、詩、書、画、印すべてに才能が
あることであった。現代人でこの要素を満たしている者は極めて稀であるのに、
七澤先生は満たしている」

「彼は極めて伝統的な一面である詩と画を持ち、
また極めて現代的な一面である刻字、書法と篆刻をも持っており、
伝統と現代の間を思うままに行き来している
多才多芸な新しい文人といえよう」


下の書はそれぞれ「篆書」「金文」「隷書」ですが、違いがわかりますか?
私はうんうん唸りっぱなしでした。


「篆書五言対聨」(于良史)一部=左の二つ。
「金文四言対聨」一部=真ん中の一つ。
「隷書五言対聨」(杜甫)一部=右の二つ 
img20240428_14292166.jpg  img20240428_14173199.jpg img20240428_14215490.jpg
同上

目の前にいる七澤氏は来し方を楽し気に語っていましたが、
ここまで来るには並大抵の努力ではなかったはず。


七澤氏はこの個展(1996)の19年前の凍えるような12月に、
「文字と文化を産んだ国・北京」へ初めて降り立った。
このときの旅費は知人からの借金だったという。

「その後、中国へは二十数回行きました。
陶淵明、李白という偉大な詩人、趙之謙、呉昌碩という傑出した文人などに、
憧れを持ちつつ歩いてきた私には
その生れ出た風土から学ぶこと大でした」

「いつか自分の作品で美術館を埋める展示をしたいという
分不相応なことを巡らしていた」とおっしゃった七澤氏、
それが53歳のとき、日本と中国で開催というビッグな「正夢」となった。

その大きな目的を果たし、そこからさらにのびやかな活動を展開。

「ぼくの中で書より面白くなったのは古代文字まで遡っていったときです。
古い青銅器に彫られた金文とか甲骨文字といった中に、
原初的な文字の面白さがあるんですね。

現代人が三千年前の文字と対峙しても決して古く感じない。
古代人の感覚ってすごいものがあります」


七澤先生からの手紙。
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「ぼくは最初はまじめに勉強を、今でもまじめですけど。(笑)
とにかく十年ほど前から字って、どう書いてもいいんだ
と思うようになったんです」


「われわれは過去の人たちの書いたものを見て勉強するんですが、
よく見るとみんなそれぞれ違う。なんだ、どう書いてもいいんじゃないか。
そこに字があれば何も拘束される必要はないんだ、
そう思ったら気が楽になりました」


「最近は金魚にサトウハチローさんの詩とか、
遊んでいるみたいなこんなのばかり。
(笑)
こういう発想は文字が与えてくれますが、
作り出すたびに興味がわいてきます」


「金魚」(サトウハチロー)
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下は、刻字「永寿」

刻字とは、
毛筆で自書した紙を木板に張り付け、ノミや彫刻刀で立体的に彫り、
金箔や彩色をほどこしたもので、書の一部門。

寺の扁額や老舗の看板などに使われている。


刻字「永寿」

24年ぶりに七澤氏からいただいた書画集や金魚の写真を見て、
改めて凄い先生だなぁと。


それで、アーティストさんたちの手紙の中から柿下先生の手紙を探して、
改めて見たら「刻字に絞って取材してください」とある。

それだけ七澤先生の「刻字」は素晴らしいということなのに、
ああ、当時の私は無知ゆえ、完全スルー。
記事の中に「刻字」のコの字も触れていなかった。

せっかく柿下先生がヒントをくださって、七澤氏もそのつもりでいたはず。

「すみませんでした」と言おうにも、お二人はすでに黄泉の国へ。
きっと天上で「おお、今ごろ気づいたか」と笑い合っていることでしょう。


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そばつぶさん、自己ベスト更新!

そばつぶ
05 /09 2024
そばつぶさん、久々の登場です。

といっても、私の方が力石記事から遠ざかっていただけで、
その間もそばつぶさんは黙々と石を挙げておりました。

そしてうれしい知らせが…。

「盤持ちの報告です! 
人名刻字石を担ぎ成功し、最高記録を出しました!」

おめでとう!!\(^o^)/

挙げた盤持ち石(力石)は、139㎏
これです。


「殿村重次郎 六十三メ五十目」

そばつぶ最高記録
富山県下新川郡朝日町横尾・熊野神社

これまでの最高重量記録は、2023年12月に担いだ
石川県野々市市三納日下・日吉神社の134.7㎏でしたが、
今回はそれを4.3㎏上回りました。


下は岐阜県内3カ所での盤持ちの動画です。

丸い石ばかりで、これは重量以上に難度が高い。
さすがのそばつぶさんも失敗してしばし沈思黙考。

それでも挑戦は止めません。
クマ注意の看板にビビりつつも、夜間、ライトを点けての挑戦です。
ひょっとして木陰から見ていたクマさん、恐れを成して逃げて行ったか。

そばつぶさんは礼儀正しい青年ですから、必ず神社に許可を得て担ぎます。
石のコケも丁寧にブラッシング。


長年、人の手のぬくもりや息遣いから遠ざかっていた石たちです。
持ち上げられてさぞ嬉しかったことでしょう。

まずは動画をご覧ください。




盤持ち(力石担ぎ)は常に危険と隣り合わせの孤独な闘いです。
それだけに、
見事、成功したときの「よっしゃー!」の声が清々しく頼もしい。

文化財指定の盤持ち石も担ぎました。


そばつぶさんは技、力、知恵、自己コントロールに優れた人で、
その上、みなさんに盤持ち石の歴史や素晴らしさを知ってもらおうと、
行った先々で地元の方々と触れ合う。


私はそうしたそばつぶさんこそ、文化財指定の盤持ち石同様、
「無形民俗文化財保持者」「功労者」だと思っております。


テレビ金沢(3月8日放送)出演のそばつぶさん。0:57分頃から出てきます。


力石は景行天皇の時代からの長い歴史があります。

石占、神事、戦勝祈願、鍛錬、娯楽、スポーツとして、
武士階級から労働者、村の若者たちと密接に関わってきました。

ですが、時代が人力から動力に変わり、娯楽の多様化などで急速に廃れ、
「時代遅れ」と蔑まれるようになってやがて担ぐ人もいなくなり、
力石は無価値なものとして放置されてしまいます。


江戸時代、見世物興行として世間の耳目を集めたことも、
力石が蔑まれる一因になったことは否めません。

日本のウエイトリフティングは大正・昭和初期の力石の力持ち・神田川徳蔵が、
政府に先駆けて道場を建て後進を育成したことから始まりました。
だがそのウエイトリフティングでさえ「ただ馬鹿力を出すだけのもの」
と蔑まれ、スポーツとして認知され補助を受けるようになったのは、
戦後初の東京オリンピックで三宅選手が金メダルを取ってからでした。


神田川徳蔵です。
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ご子孫提供

以前、そばつぶさんと競演した外国のストロングマンが、
「日本人は、これだけの深い歴史がある自国の力石をなぜ評価しないのか」
と、驚いていました。

最近ではテレビで取り上げられるようになって、とても有難く思っています。
ですが、中には力石の歴史を語らずして「キワモノ」としてのみ
取り上げるところもあって、勉強不足や偏見の根強さを感じています。


そんな流れの中、
力石本来の意義と魅力を見出し、この伝統を今日まで繋げてきたのが、
岐阜の大江誉志さんや浪速の長州力さんたちでした。


そばつぶさんは、
そうした偉大な先輩たちの努力と情熱と礼儀礼節を受け継ぎ、
埋もれている石を訪ねては一人黙々と担いでいます。

屏風に描かれた力石(銘・弁慶石)です。
松の木の下で若者たちが力比べをしています。「松の木」というのは
神の宿る木。このことから石を担ぐことは神聖な行為だったことがわかります。


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国宝「上杉本洛中洛外図屏風」室町時代末制作。米沢市立博物館蔵。

私はこんなことを願っているんです。

現代の力石の力持ちたちがいつかあの園遊会に招かれて、
皇族方からねぎらいの言葉を掛けていただけたらなって。

あらら、姫、ご乱心か! なんて言われそうですが、本心です。

だってあそこに招かれる人たちは職業で名を挙げた方々で、
言ってみれば「飯の種」として自分のために仕事をしてきた人たちであって、
別段、世の中に貢献したいがために働いてきたというわけではない。

それに対して別に生業を持つ大江さん、浪速の長州力さんたちは、
収入を得るためや有名になるために力石を担いでいたわけではありません。
もちろん、そばつぶさんも。

ただただ先人が残したこの庶民文化の灯を消してはいけない、
力石の素晴らしさをみなさんに知ってほしい、
それには先人から受け継いだこの技を次世代に繋げていかなければと
自己の気力、体力の極限に挑む、

そういう純粋な気持ちで担いでいるのです。


この純粋さは大いに賞賛されるべきものだと、私、本気で思っています。
だから、
こうした隠れた価値ある人にも焦点を当てて欲しいのです。

でもそばつぶさんはどこまでも謙虚。


「まだまだ記録を伸ばしていきますので、よろしくお願いいたします」

とのことですので、
どうぞみなさま、ずっとずっとあたたかく見守ってあげてください。


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アーティストさんからの手紙㉑                                         今井アレクサンドル

私が出会ったアーティストたち3
05 /06 2024
今井アレクサンドル アーティスト

フランス・パリ生まれ

父は日本人画家の今井俊満、母はドイツ人バレリーナ。
今井俊満 (1928ー2002) 梅原龍三郎・安井曽太郎に師事。
       留学先のフランスでミシェル・タピエ提唱の
       アンフォルメル(非定型)運動に参加。日本のアンフォルメルの
       画家といわれたが、のちに花鳥風月も描いた。
       
25年前私は、ふと入った画廊で、
べニア板に塗りたくられた赤と黒のペンキの絵や、
体中からエネルギーを発散させてキャンパスいっぱいに笑う
「ううう人」を見た。


20240424_112745.jpg

いつもは額に納めた絵を重々しく並べている画廊が、
その日は遊び場と化していた。その楽しさ、元気さに引き込まれて
足を踏み入れた途端、「買って!」の声。
画家本人の営業活動に思わず、
ううう…。

これが初めてお会いした時のアレクサンドルさんだった。
その彼が叫んだ。

「ぼくも”アーティストの仕事場訪問”に載りたい!」


この記事は県内在住のアーティストが対象なんですと断ったら、
「ぼくの場合はどこでも仕事場。個展の会場でも描きますよ。
それにここでの個展開催中の13日間は、ぼくも静岡市民です!

うーん。それも一理あるかなぁ、
というわけで急きょ画廊が仕事場となり、飛び入り番外編となった。


アレク2

5歳のとき両親が離婚。
父と二人で帰国した日本で、今井さんはテレビの中のヒーロー、
闘わない優しい怪獣「ブースカ」と出会い夢中になった。


少年時代は日本人の作った「器」に収まり切れず問題を起こし、
何度も転校した。高校は都立の定時制に通い、
日本に退屈するとアルバイトで稼いではロンドンに家出した。

ピュリツァー賞受賞の報道カメラマン・沢田教一の写真集に触発されて
カメラマンを志し、卒業後はロンドンの写真家デビット・ベイリーに弟子入り。
3年後、帰国してアーティストとして活動を開始した。


このとき私が購入した絵。板に赤と黒のペンキで描いただけの絵ですが、
面白いなと思って…。それからずっと玄関に置いてあります。
花札の絵柄に似てる? でもこの黒い月(太陽?)、何かを暗示しています。
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「企画を持って企業を訪ね歩いたんだ。どこでも話を聞いてくれて、
おかげでデパートのディスプレイなどたくさん手掛けたよ。
企業とのタイアップというレールは僕が初めて日本に敷いたんじゃないかな。
そのころは、”芸術家が金のことなんか考えて汚ねえヤツだ”とか
いろいろ言われたね」

「今の若いのはダメ。特にアカデミックなところの子は弱い。
画商に血を吸われているヤツばかりだもの。
いいものは知ってもらう、それでなければ美術は広がっていかない。

ぼくは自分が売らなきゃ誰が売ると思ってやっているから、
もう10万点は売った。体制に媚びなくてもやっていけるよ」

今井さん、絵を購入したらすごく喜んで「これあげます」と。
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「美術館に納めるのはジジババになってからでいいんだよ。
生きのいい若者は外でガンガンやったほうがいい。
でも今の若い芸術家はパワーがないから三島由紀夫じゃないけど、
このままいったら日本は、
夢のない中間色の世の中になるんじゃないかな」

アレクサンドルさんのこの予言、当たりましたね。
今や政治も文化も暮らしも中間色どころかまっ黒黒の暗黒ですもん。

政治をやらない「性事バ蚊」に「裏金依存症」、
一度食いついたら離さない「権力スッポン」「世襲スッポン」
「わてら幼稚なお飾りオバン」ばっかりですもん。
「ヤトー」は単純、一部には暴言、悪態、下品さが目立って、
どっちを見ても「夜盗」「野盗」の群れ。仁徳・倫理・知性のかけらもない。

郵便局へ行ったら、「人員削減でご迷惑をおかけします」の張り紙。
スカスカになった局内でわずかに残った局員がてんてこ舞い。
そういえばスーパーでも今まで働いていた人が何人か消えた。

郵便配達の若者たちってアルバイトなんだって最近知った。
若者に夢のない働き方をさせていてはこの国に未来はない。


「次郎長親分、近ごろの日本はひでぇことになってますぜ」
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静岡市清水区港町・清水港船宿記念館「末廣」

まさにエロ・グロ・ナンセンスの大正時代に逆戻り。
この時代の次に来た昭和は戦争に明け暮れた。
当時と違うのは、今は深刻な少子高齢化社会。

その少ない若者に「お国のために死ね」と公言する人まで現れた。
やっぱりこの日本、消滅への道へ進むのだろうか。

蘇れ! 石橋湛山!

気を取り直して先へ進みます。


「怪獣ブースカはぼく自身」というアレクサンドルさん。
7年前
(1992)からブースカ人形と旅を始めた。
その「自分」を広島やアウシュビッツ、5歳のとき別れた母がいるはずの
ウィーンの風景の中に置いて、自ら撮影していると言った。


下は、アレクサンドルさんと娘・かの子さんとの合作絵本
「未来の原始人 ううう人」「ブースカのさんぽ物語」です。
この本も私にプレゼントしてくださったんです。


「ううう人」は、
人間があまりにも自然を壊すようなことをするので、
地球が怒って人間を滅ぼしてしまった。
そこで神さまが新しい未来の原始人「ううう人」を造った。
「ううう」としか話せないので「ううう人」と言うのですが、
彼らはテレパシーで通じ合う人たちなのです、という内容。


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「未来の原始人 ううう人」
さく・今井かの子 え・今井かの子、今井アレキサンドル 緑工房 1994
「ブースカのさんぽ物語」写真・今井アレクサンドル、文。今井みはる 
監修・円谷プロダクション (株)マイストロ 1998

ブースカは新幹線に乗って京都、大阪、神戸へ。
行く先々でいろんな人と出会って…。猫ちゃんが不思議そうに見ています。


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「ううう人」の巻末に載せていた父と娘の写真です。
娘のかの子さん、このとき8歳。
夏休みにお母さんに話したことをまとめたものとあり、こんなメッセージが。

「”ううう人”をいろいろな人によんでもらって、ちきゅうにやさしい人たちが
ふえるといいな、とおもいます。
ときどき、ちきゅうのことをかんがえると、しんぱいでたまらなくなります。
しぜんがこわされて てんきもいじょうです」

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1999年、アレクサンドルさんは父・今井俊満氏と
アラブ首長国連邦ビエンナーレに参加。
4×7mの和紙に目をモチーフにした「広島」を出品した。

「小学四年のとき見たアウシュビッツ展が心に引っかかって…。
最近シリアスな人間に目覚めたんだ」

そう言って、肩をすくめた。

大柄でひげ面。
一見、豪放磊落に見えるが、その顔の中の目はどこか哀しげで優しい。
それは、5歳のとき別れた母に似た目なのかなと思った。


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アーティストさんからの手紙⑳ 芳村俊一

私が出会ったアーティストたち2
05 /03 2024
芳村俊一(よしむら しゅんいち) 陶芸家

徳島県生まれ

「ぼくは作品を売り出すこともやってないし、アーティストでもないんだ。
”ものを焼く”ということはどういうことなのかを実験している
ただの技術屋。
古いやきもののかけらや土や石を集めてそれを焼く。
まあ、言ってみれば一介の”ものやき屋”ですな」


お住まいの天城湯ヶ島町(現・静岡県伊豆市)をお訪ねしたとき、
最初に芳村氏から出た言葉がこれ。


私はにこにこしながら、重々承知しておりますと、内心つぶやいた。

本屋さんに「やきもの実験 静岡の土」という本があった。
巻頭の「静岡の土は美しい」のひと言が目に飛び込んできた。

そのとき思った。あ、この人に会ってみたい、と。


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「やきもの実験 静岡の土」芳村俊一・宮本森立編 
静岡新聞社 平成9年

中にこう書かれていた。

「静岡は”貧陶県”というイメージとは裏腹に、
昔の本県はあっちにもこっちにも窯があるという窯業県でした。
古窯数は窯業県として知られる岐阜、愛知の1万以上に比べると、
約1500と少ないのですが、東の他の諸県に比べると、
静岡県はケタはずれに古窯の数が多い」


※山梨県6、神奈川県0、千葉県4、東京都40、埼玉県56地点。

「ただ静岡県は地質上、中央構造線の南に位置し、
良い陶土の原材料になる花崗岩が少なく、
ほとんどが海で出来た土、石から成り立っています。

そういう恵まれない土地でなぜ古窯数が多いかというと、
先輩陶工たちが地域の土の特性に合わせて焼成を工夫したからです。
そういう人間の知恵で1500もの窯を焚きました。
これは大変すばらしいことです」


このとき芳村氏、76歳。
自主陶芸の普及をめざす作陶グループ「へんどの会」を主宰。
「やきもの実験 静岡の土」は、県内の「ヘンドの会」会員約50人が、
県内の土を使い作陶した結果を集大成した本でした。


「へんど」は「遍路」のこと。
(遍路の本場・四国ではヘンロを訛ってヘンドという)
自然の中へ遍路(へんど)して土、石を求め、そこから
窯材、陶胎、釉材を開発していこうとの願いから命名された。


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「一般的にやきものは1250度+-αで焼くものだとか、窯は耐火レンガでとか、
土はコレでなけりゃあって言われているでしょ。
こういう”常識”にとらわれていてはダメ。
こんな状態を続けていると日本陶芸は、”頭脳硬直の寝たきり”になりますよ
と、ぼくらはアラームを鳴らしているんです。

1250度というのは中国の土を焼くための技法なんです。
中国大陸というのは海に浸った所が少ないし活火山もない。
だから土は火に強く焼きやすい。
大陸の土はどこの土を使っても1250度でトラブルは起きません。

ですが日本は逆に海と火山の国でしょ。
それなのに中国の技法を唯一の技法と信じている。
そこがおかしいんです」


「美濃、瀬戸などで中国伝来の高火度陶法による作陶が行われたのは、
ここらの土が大陸の土に似た非海成の陸水成カオリンだからです。
残念ながら静岡にはこのような土はありません。
じゃあ全く”ダメ土”かというとそうではない」

「浜松市浜名区細江町・陣座ケ谷古墳入り口の土で焼いたもの。
火に弱い土だが極めて低く焼くと備前焼のようになる。ガス窯焼成」
作陶・芳村俊一 
静岡のの焼き物2

「これ(下の写真)は清水エスパルスサッカー場の土、
つまり駿河湾がのし上がってきた土です。これをろくろでひいて焼くと、
1200度ではブクブク発泡して融け、1050度では曲がっちゃう。
ところが1030度にしたらちゃんと焼けるんですな。


そこでわかることは1200度で融けるならその前で止めればいい。
温度を下げて焼けば立派にやきものになるということです」


静岡市清水区 日本平運動公園球技場の土で焼いたもの。
灯油窯。楽透明釉。右=1020度、中=1040度、左=1030度。
いずれも水漏れせず」
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「ぼくは農学校出ですから美術的教育は受けていない。
だから初めから既成概念にとらわれず何でもやってきた。
ですがあるとき子供たち
(氏は東京で小学校教師を勤めた)に教えられた。

素焼きの器を見せて”これに何を塗ればいいだろう”って聞いたら、
子供たちが”水彩絵の具を塗ろう”って。
水彩絵の具が釉薬になるなんて常識では考えられない。
でもやってみたんです。そしたら十二色全部立派な釉薬になった。


目からウロコです。
実験もしないで頭だけで考える弱さを思い知らされました。
それから1万点以上テストした。
ケチャップ、肥料、クレンザー、マヨネーズ…。
ほとんどのものが釉薬になるんです」


伊豆市天城湯ヶ島町 猫越(土・石の産地) 宮本森立 (採土・作陶)
「電気窯830度。よく焼きしまっており、
1040度では完全に融けてトルコブルーの釉になる。
めったにない名土で、焼くだけでこのような美しい色が出ます」
amaginotuti.jpg

「ならば土の研究もやってみようと自宅の庭の土から始めて、
日本全国歩いて石や土を六万点集めましてな。
まあ人さまが見たら一つも美しくないゴミみたいなものを集めて実験して、
そんなことアホみたいにゴソゴソ続けて五十年。
遊びだからおもしろかった」


最初「ぼくはアーティストではないから、このテーマにふさわしいかどうか」
と、遠慮がちだった芳村氏。
しかし、私が口を挟む隙もないほど饒舌に語ってくださった。

掲載紙をお送りして、すぐ届いた礼状。
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礼状にはこう書かれていた。

「思えば無価値なよしなしごとを重ねて五十年。
ただ自然のままに流れてきて、自然のままに土に帰っていく人生でして…、
目の前をハラハラと舞い落ちる枯葉のようなものにすぎません。
そんなことをよくまとめて書いてくださって、ほんとうにすみません」


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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞