□□□月日
歴史を塗りかえた発見!
待ちに待った許可書が届きました。
県外からのお願いに加え、
世間の片隅に転がっているだけの「石ころ」ブログへの掲載許可。
感謝しかありません。ありがとうございました。

さて、本題です。
立派な式典を挙げ、新聞や広報誌にも掲載された「万治石」。
このおめでたい出来事に水を差すようで心苦しいですが、
まだ刻字の解読が残っております。
「明治」が「万治」になったんだから、それでヨシとしようじゃないか、
という声ももっともです。
ですがやっぱりね、けじめですから、どうぞお許しください。
「 万治四年
奉納力石五十六メ目ョ」
これはどなたも異存がない。
問題は左の刻字です。
拓本です。

2017年の段階で関係者はそれぞれこう読みました。
① 「丑ノ五月日」
② 「吉三月日」
③ 「辛丑月日」
詳しくは当時のブログ記事をご覧ください。
「万治石・最終回です」
これに対して、
当地の古文書会の先生お二人にご意見を伺いました。
T先生 「「吉」や「丑」とするのはやや苦しい。
また「辛」と読むには、下部の十が見えない。
月日には「〇月日」のように数字が入ると思う」
N先生 「三案の解読では「辛丑月日」がもっとも無難だと思いますが、
ただ「辛」の字、写真でも拓本でも?です。
「丑ノ五月日」については、なるほど「ノ」とある如く見えますが、
しかし、こういう書き方は文書にはよくありますが、
碑文に「ノ」字を書くのはやや不審」
というわけで結論は出ませんでした。
※ 斎藤氏の調べでは、カタカナの「ノ」は、力石の場合、 手持ちの全国の
「〇〇の力石」には皆無」だったこともお伝えしておきます。
決め手となる解読はできませんでしたが、
でも、がっかりすることはありません。
もともとの刻字に誤りがあることもママあるからです。
こちらは同じ「万治四年」の誤記とおぼしき例です。

これは平成元年、福岡県久留米市の三本松町遺跡から出土した
「色絵鳳凰文器台」です。
右側の余白部分に赤色で文字が書かれています。
これです。

「万治四年己丑閏八月吉日」
あきらかに、干支の「己丑」や「八月」は間違っています。
なぜなら、万治四年の干支は「己丑」ではなく「辛丑」ですし、
この年の4月に寛文に改元されていますから、「八月」はあり得ないからです。
このことについて、
久留米市教育委員会・文化財保護課ではこのように解説しています。
「万治四年の四月には寛文に改元されていますので、
改元以前に特別に注文された贈答品と推測されます。
また万治四年の干支は「辛丑(かのとうし)」なので、
「己丑(つちのとうし)は誤って記されているようです」
こうしたことから、今上八幡神社の「万治石」も、
改元以前に注文を受けて「五月日」と刻んでしまったと推測できるし、
または誤記ということも考えられます。
今回、地元では「丑ノ五月日」を採用しましたが、
私はこんなふうに思いました。
「万治石」の、
「万治四年」はゆるぎない事実ですから、
左の刻字は解読不能として、
「□□□月日」と記録するのも選択肢の一つではなかったか、と。
※参考文献・写真提供/「歴史散歩・年号のある遺物とその遺跡」№6
久留米市教育委員会・文化財保護課・
市埋蔵文化財センター・久留米文化財収蔵館
※拓本提供/石田年子(野田市文化財保護審議会委員・金石文研究者)
/今上中組自治会

にほんブログ村
県外からのお願いに加え、
世間の片隅に転がっているだけの「石ころ」ブログへの掲載許可。
感謝しかありません。ありがとうございました。

さて、本題です。
立派な式典を挙げ、新聞や広報誌にも掲載された「万治石」。
このおめでたい出来事に水を差すようで心苦しいですが、
まだ刻字の解読が残っております。
「明治」が「万治」になったんだから、それでヨシとしようじゃないか、
という声ももっともです。
ですがやっぱりね、けじめですから、どうぞお許しください。
「 万治四年
奉納力石五十六メ目ョ」
これはどなたも異存がない。
問題は左の刻字です。
拓本です。

2017年の段階で関係者はそれぞれこう読みました。
① 「丑ノ五月日」
② 「吉三月日」
③ 「辛丑月日」
詳しくは当時のブログ記事をご覧ください。
「万治石・最終回です」
これに対して、
当地の古文書会の先生お二人にご意見を伺いました。
T先生 「「吉」や「丑」とするのはやや苦しい。
また「辛」と読むには、下部の十が見えない。
月日には「〇月日」のように数字が入ると思う」
N先生 「三案の解読では「辛丑月日」がもっとも無難だと思いますが、
ただ「辛」の字、写真でも拓本でも?です。
「丑ノ五月日」については、なるほど「ノ」とある如く見えますが、
しかし、こういう書き方は文書にはよくありますが、
碑文に「ノ」字を書くのはやや不審」
というわけで結論は出ませんでした。
※ 斎藤氏の調べでは、カタカナの「ノ」は、力石の場合、 手持ちの全国の
「〇〇の力石」には皆無」だったこともお伝えしておきます。
決め手となる解読はできませんでしたが、
でも、がっかりすることはありません。
もともとの刻字に誤りがあることもママあるからです。
こちらは同じ「万治四年」の誤記とおぼしき例です。

これは平成元年、福岡県久留米市の三本松町遺跡から出土した
「色絵鳳凰文器台」です。
右側の余白部分に赤色で文字が書かれています。
これです。

「万治四年己丑閏八月吉日」
あきらかに、干支の「己丑」や「八月」は間違っています。
なぜなら、万治四年の干支は「己丑」ではなく「辛丑」ですし、
この年の4月に寛文に改元されていますから、「八月」はあり得ないからです。
このことについて、
久留米市教育委員会・文化財保護課ではこのように解説しています。
「万治四年の四月には寛文に改元されていますので、
改元以前に特別に注文された贈答品と推測されます。
また万治四年の干支は「辛丑(かのとうし)」なので、
「己丑(つちのとうし)は誤って記されているようです」
こうしたことから、今上八幡神社の「万治石」も、
改元以前に注文を受けて「五月日」と刻んでしまったと推測できるし、
または誤記ということも考えられます。
今回、地元では「丑ノ五月日」を採用しましたが、
私はこんなふうに思いました。
「万治石」の、
「万治四年」はゆるぎない事実ですから、
左の刻字は解読不能として、
「□□□月日」と記録するのも選択肢の一つではなかったか、と。
※参考文献・写真提供/「歴史散歩・年号のある遺物とその遺跡」№6
久留米市教育委員会・文化財保護課・
市埋蔵文化財センター・久留米文化財収蔵館
※拓本提供/石田年子(野田市文化財保護審議会委員・金石文研究者)
/今上中組自治会

にほんブログ村
