高島先生の功績
力石の研究者
力石(いし)探す行脚巡礼に相似たり 雨宮清子
一人で力石を探しているときはこんな心境でしたが、
高島先生と二人の時はそうはいきません。
先生は全国から寄せられた情報を元に、それをまとめて一気に各県を回る。
目的の力石を採寸し撮影すると足早に次の目的地へ向かう。
昼食なんかは走りながらコンビニのおにぎりやパンをほうばるだけで、
ゆっくり座って食べたことがない。
もうね、感慨に浸るとか昔を偲ぶなんて暇がないんですよ。
静岡県の力石は街中や神社仏閣にはほとんどなく、あるのは山間部。
そういう場所は公共の交通手段もないから、
先生の軽自動車での探訪は非常にありがたかった。
人も石も隔絶の中に存在す
目の前はただ海と空 雨宮清子
静岡県賀茂郡南伊豆町伊浜落合 三社神社
伊豆は伊東明先生が頻繁に訪れた場所。
高島先生の胸に特別の思いが去来するのでしょうか。
師の足跡を辿る時、力石を前に感極まって立ち尽くすこともしばしば。
ここの力石です。とても形の良いきれいな石でした。
かつては4個あったと資料にありましたが、2011年には2個に。
下は、知人からの情報で掴んだ力石です。
この情報を得るまで私は2回この地を訪れたが、空振りに。
その後静岡市在住で、この地区をよくご存じの方から、
「ここの薬師堂から谷一つ隔てた集落に住む女性二人が知っている」
との報せが舞い込んで、急きょ、先生と駆けつけました。
紹介された女性はお二人共、昭和3年生まれでこのとき84歳。
しかし記憶は鮮明で、「薬師堂のそばに青年団の集会所があって、
青年たちは夜回りがすむとみんなで石を担いでいた」と、
青年団女子部に戻ったように快活に話してくれた。
草に埋もれた石の採寸をする高島先生。
静岡県富士宮市内房大嵐 薬師堂
こちらは遠州の奥、
天竜川と山稜に囲まれた静かな集落に残されていた力石です。
先人の思い刻みし力石
今しっかりとカメラに収む 雨宮清子
静岡県浜松市天竜区佐久間町浦川 五社神社
寡黙な先生ですが、ときどきドキッとすることを口走って私を慌てさせました。
某所に「力石として若者たちが担いだ六部さんの墓石」があって、
早速、調査に。※六部 諸国を歩いた廻国の修行僧。
この地で倒れて葬られた六部さんの墓石は普通の民家の庭にあって、
「昔は六部さんのお祭りは賑やかで夜店がずらりと並んだ」と、ご当主。
そこで先生、ポツリと、「その人はここに埋まっているんですか?」
途端にご当主が顔をこわばらせて沈黙。
この場の空気を換えるのに四苦八苦したのは、言うまでもありません。
ガックリすることもあった。
力石がなんと、石段に転用されていたんです。
以前ここには4個あったのにそれが1個に。
残ったのは、源頼朝の富士の巻狩りで勃発した曽我の仇討ち、
その主人公・曽我十郎・五郎の父、河津三郎の「手玉石」一つ。
でも先生は少しも動じず、一句。
力石に河津桜の散りそそぐ 高島愼助
静岡県賀茂郡河津町 河津八幡神社
この珍道中と私の努力は先生のお力で2011年、「静岡の力石」、
2014年、「四日市大学論集」第27巻、
2024年、「同大論集」第36巻として陽の目を見ました。
「静岡の力石」高島愼助 雨宮清子 岩田書院 2011
そして2019年、全国から集めた「力石」の全資料が、
三重県総合博物館に収蔵されたのです。
力石の全資料を収納す
日本唯一の三重県総合博物館 雨宮清子
私はその知らせを受けてすぐ駆けつけました。
資料は文書、書籍、論文、写真、引き札、番付、酒瓶、お守り、力持ちなど、
総数642点。(2019年時点で)
それまでは各地でバラバラだった「力石資料」が、
ここに全部、収蔵されたわけです。
ここへくれば「力石」のすべてがわかります。
私の書棚。先生から頂戴した全国の力石の本です。
この日、久しぶりにお会いした先生の頭に白いものがチラホラ。
無理もない。ここまで来るには大変なご苦労があったはず。
その偉業を成し遂げた先生、さらりと一句。
ひとひらのはなびらふわりちからいし 高島愼助
一人で力石を探しているときはこんな心境でしたが、
高島先生と二人の時はそうはいきません。
先生は全国から寄せられた情報を元に、それをまとめて一気に各県を回る。
目的の力石を採寸し撮影すると足早に次の目的地へ向かう。
昼食なんかは走りながらコンビニのおにぎりやパンをほうばるだけで、
ゆっくり座って食べたことがない。
もうね、感慨に浸るとか昔を偲ぶなんて暇がないんですよ。
静岡県の力石は街中や神社仏閣にはほとんどなく、あるのは山間部。
そういう場所は公共の交通手段もないから、
先生の軽自動車での探訪は非常にありがたかった。
人も石も隔絶の中に存在す
目の前はただ海と空 雨宮清子
静岡県賀茂郡南伊豆町伊浜落合 三社神社
伊豆は伊東明先生が頻繁に訪れた場所。
高島先生の胸に特別の思いが去来するのでしょうか。
師の足跡を辿る時、力石を前に感極まって立ち尽くすこともしばしば。
ここの力石です。とても形の良いきれいな石でした。
かつては4個あったと資料にありましたが、2011年には2個に。
下は、知人からの情報で掴んだ力石です。
この情報を得るまで私は2回この地を訪れたが、空振りに。
その後静岡市在住で、この地区をよくご存じの方から、
「ここの薬師堂から谷一つ隔てた集落に住む女性二人が知っている」
との報せが舞い込んで、急きょ、先生と駆けつけました。
紹介された女性はお二人共、昭和3年生まれでこのとき84歳。
しかし記憶は鮮明で、「薬師堂のそばに青年団の集会所があって、
青年たちは夜回りがすむとみんなで石を担いでいた」と、
青年団女子部に戻ったように快活に話してくれた。
草に埋もれた石の採寸をする高島先生。
静岡県富士宮市内房大嵐 薬師堂
こちらは遠州の奥、
天竜川と山稜に囲まれた静かな集落に残されていた力石です。
先人の思い刻みし力石
今しっかりとカメラに収む 雨宮清子
静岡県浜松市天竜区佐久間町浦川 五社神社
寡黙な先生ですが、ときどきドキッとすることを口走って私を慌てさせました。
某所に「力石として若者たちが担いだ六部さんの墓石」があって、
早速、調査に。※六部 諸国を歩いた廻国の修行僧。
この地で倒れて葬られた六部さんの墓石は普通の民家の庭にあって、
「昔は六部さんのお祭りは賑やかで夜店がずらりと並んだ」と、ご当主。
そこで先生、ポツリと、「その人はここに埋まっているんですか?」
途端にご当主が顔をこわばらせて沈黙。
この場の空気を換えるのに四苦八苦したのは、言うまでもありません。
ガックリすることもあった。
力石がなんと、石段に転用されていたんです。
以前ここには4個あったのにそれが1個に。
残ったのは、源頼朝の富士の巻狩りで勃発した曽我の仇討ち、
その主人公・曽我十郎・五郎の父、河津三郎の「手玉石」一つ。
でも先生は少しも動じず、一句。
力石に河津桜の散りそそぐ 高島愼助
静岡県賀茂郡河津町 河津八幡神社
この珍道中と私の努力は先生のお力で2011年、「静岡の力石」、
2014年、「四日市大学論集」第27巻、
2024年、「同大論集」第36巻として陽の目を見ました。
「静岡の力石」高島愼助 雨宮清子 岩田書院 2011
そして2019年、全国から集めた「力石」の全資料が、
三重県総合博物館に収蔵されたのです。
力石の全資料を収納す
日本唯一の三重県総合博物館 雨宮清子
私はその知らせを受けてすぐ駆けつけました。
資料は文書、書籍、論文、写真、引き札、番付、酒瓶、お守り、力持ちなど、
総数642点。(2019年時点で)
それまでは各地でバラバラだった「力石資料」が、
ここに全部、収蔵されたわけです。
ここへくれば「力石」のすべてがわかります。
私の書棚。先生から頂戴した全国の力石の本です。
この日、久しぶりにお会いした先生の頭に白いものがチラホラ。
無理もない。ここまで来るには大変なご苦労があったはず。
その偉業を成し遂げた先生、さらりと一句。
ひとひらのはなびらふわりちからいし 高島愼助