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高島先生の功績

力石の研究者
11 /20 2024
 力石(いし)探す行脚巡礼に相似たり   雨宮清子

一人で力石を探しているときはこんな心境でしたが、
高島先生と二人の時はそうはいきません。


先生は全国から寄せられた情報を元に、それをまとめて一気に各県を回る。
目的の力石を採寸し撮影すると足早に次の目的地へ向かう。
昼食なんかは走りながらコンビニのおにぎりやパンをほうばるだけで、
ゆっくり座って食べたことがない。

もうね、感慨に浸るとか昔を偲ぶなんて暇がないんですよ。

静岡県の力石は街中や神社仏閣にはほとんどなく、あるのは山間部。
そういう場所は公共の交通手段もないから、
先生の軽自動車での探訪は非常にありがたかった。


 人も石も隔絶の中に存在す
       目の前はただ海と空
  雨宮清子

伊浜集落2
静岡県賀茂郡南伊豆町伊浜落合 三社神社

伊豆は伊東明先生が頻繁に訪れた場所。
高島先生の胸に特別の思いが去来するのでしょうか。
師の足跡を辿る時、力石を前に感極まって立ち尽くすこともしばしば。


ここの力石です。とても形の良いきれいな石でした。
かつては4個あったと資料にありましたが、2011年には2個に。

伊浜集落1

下は、知人からの情報で掴んだ力石です。

この情報を得るまで私は2回この地を訪れたが、空振りに。
その後静岡市在住で、この地区をよくご存じの方から、
「ここの薬師堂から谷一つ隔てた集落に住む女性二人が知っている」
との報せが舞い込んで、急きょ、先生と駆けつけました。

紹介された女性はお二人共、昭和3年生まれでこのとき84歳。
しかし記憶は鮮明で、「薬師堂のそばに青年団の集会所があって、
青年たちは夜回りがすむとみんなで石を担いでいた」と、
青年団女子部に戻ったように快活に話してくれた。

草に埋もれた石の採寸をする高島先生。
内房大嵐
静岡県富士宮市内房大嵐 薬師堂

こちらは遠州の奥、
天竜川と山稜に囲まれた静かな集落に残されていた力石です。


 先人の思い刻みし力石
     今しっかりとカメラに収む
  雨宮清子

浜松市天竜区
静岡県浜松市天竜区佐久間町浦川 五社神社

寡黙な先生ですが、ときどきドキッとすることを口走って私を慌てさせました。

某所に「力石として若者たちが担いだ六部さんの墓石」があって、
早速、調査に。
※六部 諸国を歩いた廻国の修行僧。

この地で倒れて葬られた六部さんの墓石は普通の民家の庭にあって、
「昔は六部さんのお祭りは賑やかで夜店がずらりと並んだ」と、ご当主。
そこで先生、ポツリと、「その人はここに埋まっているんですか?」
途端にご当主が顔をこわばらせて沈黙。
この場の空気を換えるのに四苦八苦したのは、言うまでもありません。


ガックリすることもあった。

力石がなんと、石段に転用されていたんです。
以前ここには4個あったのにそれが1個に。
残ったのは、源頼朝の富士の巻狩りで勃発した曽我の仇討ち、
その主人公・曽我十郎・五郎の父、河津三郎の「手玉石」一つ。

でも先生は少しも動じず、一句。


 力石に河津桜の散りそそぐ   高島愼助

河津八幡神社
静岡県賀茂郡河津町 河津八幡神社

この珍道中と私の努力は先生のお力で2011年、「静岡の力石」
2014年、「四日市大学論集」第27巻、
2024年、「同大論集」第36巻として陽の目を見ました。

静岡の力石
「静岡の力石」高島愼助 雨宮清子 岩田書院 2011

そして2019年、全国から集めた「力石」の全資料が、
三重県総合博物館に収蔵されたのです。


力石の全資料を収納す
    日本唯一の三重県総合博物館
  雨宮清子

私はその知らせを受けてすぐ駆けつけました。

資料は文書、書籍、論文、写真、引き札、番付、酒瓶、お守り、力持ちなど、
総数642点。
(2019年時点で)
それまでは各地でバラバラだった「力石資料」が、
ここに全部、収蔵されたわけです。
ここへくれば「力石」のすべてがわかります。

私の書棚。先生から頂戴した全国の力石の本です。
本棚1

この日、久しぶりにお会いした先生の頭に白いものがチラホラ。
無理もない。ここまで来るには大変なご苦労があったはず。

その偉業を成し遂げた先生、さらりと一句。

 ひとひらのはなびらふわりちからいし  高島愼助

「力石病」

力石の研究者
11 /17 2024
高島愼助先生から封書が届いた。
開けてびっくり。
中から出てきたのは、
「文化財の力石」(1)(2)(3)の冊子3冊です。

退官からすでに十数年たつのに、こうしてまだ力石の冊子を出される。
その信念と情熱に圧倒されました。


こちらが送っていただいた最新の力石の冊子です。
文化財力石

高島先生と言えば、全国市町村では知らぬ人はいない力石の先生です。
先生は、力石を「体育史学」というアカデミックな世界に引き上げて、
学問として成立させた上智大学・伊東明先生の最後のお弟子。


伊東先生はご自分が足で歩いて収集し、全国の学者に呼びかけて
ネットワークを構築。
そのすべての資料を高島先生に託して、この世を去った。


頼みの師を失って「最初は途方に暮れた」と、高島先生。

そんな先生と私の出会いは、突然のメールからでした。

その頃私は地区の石造物の調査を一人コツコツとやっておりました。
そんな折、知人から「石造物を案内して欲しい」と頼まれて数か所歩いた。
その中に力石があって、それを知人が自分のブログに載せたら、
ネットサ-フィン中の先生の目に止まったというわけです。


これがそのときの力石です。正確には「代用力石」。
私の力石探索の出発点になった第一号です。


大御堂神社
静岡市葵区有永 大御戸神社

これは「元禄十六 午三月吉日」 に建立された鳥居で、
破損したため当時の若者たちが力石に転用したもの。

ゆえに「元禄石」と呼ばれていた。


「昔の若者たちがこの石を担いで、
神社の石段を何回上り下りできるか競ったんです」と、当時の氏子総代さん。

今は人影も絶えた石段の片隅にポツンと置かれています。


 力石残夢の杜にまどろみて   雨宮清子

高島先生、私と連絡が取れるとこちらへすぐ参上すると言う。
わざわざ遠方から来られるのに一つでは申し訳ない。
そこで私は急きょ図書館で各地の郷土史を漁り、もう一つ見付けて待機。

これがきっかけで、ほぼ一年間、先生との静岡県内の行脚が始まりました。


伊豆・伊東市の路傍に置かれた力石を撮影中の高島先生です。
CIMG0079_20241112124338d18.jpg

オンボロの軽自動車で初めて当地にやってきた先生に挨拶もそこそこ、
「では、行きましょうか」と言ったら、先生、一瞬、戸惑ったような顔をして、
「あなたはいつもこうして見知らぬ人の車に乗るんですか」と言う。

思わず吹き出しそうになりながら、
「では、先生、お一人でどうぞ」と返したら、「それは困る」と。

それが次第に、
「姫と一緒だと楽しい」とおっしゃるようになった。


だが、先生は人遣いが荒い。
しかも力石の調査はどなたも手弁当だ。
だから踏み込めば踏み込むほど出費がかさむ。
そのくせ、夢中になればなるほど全国を歩きたいという欲が出る。

そんなとき、沖縄で孫が生まれた。


このとき私、71歳。ブログを始めた年でもありました。
孫の想良

 孫の顔見がてら力石(いし)も見て歩き  雨宮清子

というわけで、見てきました。

CIMG1284_20241112173057814.jpg
今帰仁村謝名 公民館 42×32×25㎝

まあ、万事そんなわけでどっぷり嵌り込み、
「一度嵌ったら抜けられませんぜ」となりました。
そんな私を見て、
「姫もいよいよ”力石病”に罹患しましたね」
と、先生は満足そうにおっしゃった。


ここまで来ればしゃーない。やるっきゃない。

というわけで、今日まで参りました。
2024年現在、静岡県内の力石の個数は「286個」


私は行った先々で人と触れ合うのを第一としていたから、
いろんなドラマがありました。

先生はその反対。
「お茶でも飲んでってや」と、声を掛けてくださるのに、
「いらない!」

そのたびに私は冷や汗、タラ~リ。
もっとも大学教授の仕事の合間での調査だから、時間が限られている。
一度再調査に出かけると2、3県を梯子して走り回るから、
お茶などのんびり飲んでいる暇はない。

しかし、だんだん”飼い慣らし”ましたですよ。(冗談です)
でも、だんだん変化が…。
とある山間部の限界集落では、
おばあちゃんたちとニコニコ歓談するまでになりました。
\(^o^)/

この石に光を

力石の研究者
12 /26 2019
今年もいろいろなことがありました。

ブログが三重県総合博物館へ収蔵されたこと。
万治石保存式典に招んでいただいたこと。

そして、なによりも嬉しかったのは、
力石の調査に精力的に取り組んでいらっしゃる方の出現です。

どうやら「力石病」に罹患してしまったようで…。
この病い、感染力は弱いけど一度かかったら完治は難しいです(笑)

とにかく写真が素晴らしい。だから力石も引き立ちます。

そんな「へいへいさん」のブログから2点、ご紹介します。

埼玉県は日本最多の力石保有県です。
当然、過去から現在まで研究者がたくさんいました。

だから、もう新発見はないだろうと思われていたのに、
へいへいさん、見つけてしまったんです。

こちらです。
へいへいさん圓福寺

寺の本堂の横に無造作に置かれた石の一つだったとか。

「奉納 三十二メ 御寶前 東京新𣘺 
              施主 鈴木源十」


発見場所の寺です。
寺圓福
埼玉県比企郡川島町・圓福寺

詳しくは以下をご覧ください。

「力石がいっぱいだぁ~」


このお寺、境内を整備中でしょうか。
せっかくの新発見。
このままその他大勢の石にされてしまいそうで心配です。

二つ目をご紹介します。

どこの地域でも、大切に保存された力石もあれば、
草むらや道端にただ転がされているものもあります。

下の記事はへいへいさんが、
「もったいない、もったいない」
心を痛めつつ記録した一つです。

「土留の力石」

それもそのはず。
粗末に扱われていたのは三ノ宮卯之助石でしたから。

卯之助石はこの中にあります。
石卯之助
埼玉県さいたま市岩槻区新方須賀・香取稲荷神社

こちらはさいたま市在住の酒井正氏が描いた同じ場所です。
酒井氏は写真ではなく、すべてスケッチで残しています。

img20191225_10515430 (2)

力石研究者ならだれもが憧れる三ノ宮卯之助の石が、
ここでは土留石にされていたんです。

「奉納 三十貫目 須賀村 三野宮卯之助指之」

本当にもったいないですね。

実はここにはあと2個、刻字の力石があります。

これです。
img20191225_10515430 (3)
42余×48×34㎝       54余×42×35㎝

下は三野宮卯之助の力石です。

左が酒井氏の2005年以前のスケッチ。
右はへいへいさんが今年撮影した卯之助石です。

img20191225_10515430 (4) 05DSC_1740.jpg
54×42余×25余㎝

へいへいさん、記事の最後にこんな言葉を綴っています。

「さいたま市教育委員会のみなさま、
この石に光をあててください」

これは力石に携わるみんなの願いでもあります。


※参考文献・画像提供/ブログ「へいへいのスタジオ2010」
          /「さいたま市の力石」高島愼助・酒井正 
            岩田書院 2005


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遺跡から出土した力石

力石の研究者
07 /24 2014
力石が体育史学の中で取り上げられたのは、
昭和27年、当時の東京教育大学の太田義一教授が
第3回日本体育学会において発表したのが最初だといわれています。
つまり、日本の力石研究は、
体育史学の分野から始まった
というわけです。

その力石に、考古学の立場から取り組んでいる人がいます。
静岡県埋蔵文化財センターの岩本 貴氏です。

2005年、
伊豆半島の付け根にあたる静岡県田方郡函南町の「仁田館遺跡」から
「二十四メ」の切付(刻字)のある力石が発掘されました。

img191.jpgimg192.jpg
60.8×28.0×29.6㌢ 86㌔ 楕円形の礫

岩本氏は言う。
「尺貫法換算のほぼ24貫に近い重量があり、
切付が重量を示しているとみてほぼ間違いないこと、同種の切付はいわゆる
力石以外に想定しにくいことから本資料は、力石と断定できる

この仁田館遺跡は、狩野川支流の来光川沿いにあります
建物の年代は、推定18世紀後半から19世紀前半。
ここは、源頼朝の家臣、あの曽我十郎を討ち取った仁田忠常の地です。
今もご子孫がお住まいです。
鎌倉時代から連綿と続いているなんてすごいですね。

明治前半に撮影されたと推定される仁田館の母屋
礎石の配置などから、この建物と判断された。
img190 (2)

力石は母屋の南東隅柱の基礎材に転用されていたそうです。

この仁田館遺跡からは、
法華経を写経した「こけら経」(867枚)も出土しています。
500年も地下に眠っていたそうです。

img194.jpg
静岡県指定文化財。

岩本氏によると、
今までに全国の遺跡から出土した切付のある力石は
民家、地元名士宅の母屋=仁田館、城郭天守(2個)、
町屋石階段基礎の4例(5個)。
建物規模、身分階層に一貫性は認めがたく、
柱を支える礎石というような
建物基礎材に転用という共通点
が認められたという。

研究の対象外に置かれてきた力石に目を止め、
「こうした考古学・埋蔵文化財の発掘調査が提供する情報は、
力石研究に新たな視点を与えられるのではないか」
と発言した考古学者は、岩本氏が初めてではないでしょうか。

歴史、民俗学、体育史学、考古学、
いろんな分野の方がいろんな角度から、
この力石を研究してくださったなら、

力石ももっと豊かなものになるだろうと私は思います。


※仁田館遺跡出土の力石は、現在、菊川市の小笠保管庫(小笠高校内)に保管。
※資料・写真等/第17号「研究紀要」
「力石の考古学的検討~函南町仁田館遺跡出土「力石」の紹介を兼ねて~」 
岩本 貴  静岡県埋蔵文化財調査研究所(現・静岡県埋蔵文化財センター) 
2011

研究者・高島愼助・四日市大学教授

力石の研究者
07 /09 2014
谷口 優・四日市大学教授はいう。

「高島先生の”力石行脚”が、我を悟る為の内観の旅から始まったかどうかは、
私は未だ聞いていない。だが真摯に、ひたむきに、殉教者の様に
日本全土の力石を探ねるエネルギーの背景には、
先生の敬虔な自己探求性”内観の旅”をイメージするのである」

平成5年、高島先生の師、伊東 明・上智大学名誉教授が亡くなられた。
ご遺族は残された膨大な資料を、この最後の弟子に託された。
そこから高島先生の力石行脚が始まります。


調査中の先生です。
CIMG0096.jpg

シュラフ積みヤドカリの旅力石(いし)を追い  高島愼助

谷口優先生に絶えず「尻を蹴飛ばされながら」、軽自動車にシュラフを積んで、
北海道から沖縄まで、ただひたすら…。
その成果を都道府県別に本にまとめ、
さらに力士たちを紹介した「石に挑んだ男達」、
総論としての「力石ちからいし」などを出版しました。


高島先生です。
DSCF0013.jpg

ユニークなのは、
全国から力石を詠んだ俳句や短歌、川柳、スケッチなどを集め、
それを本にしていることです。
この「力石を詠む」シリーズは、7冊目となりました。


今年2月の埼玉県越谷市中央市民会館での講演です。
日本一の力持ち、「三ノ宮卯之助」の力石6個が、
市指定の有形文化財・歴史資料になった、その記念講演です。


CIMG1087.jpg

私も駆けつけました。
埼玉在住の調査研究者3名も顔を揃えました。
この方々のことはまた改めてご紹介します。


そして、コレ、先生の密かな楽しみ、「伊勢型紙」です。
伊勢型紙とは、三重県鈴鹿市白子の伝統工芸です。
柿渋で張り合わせた和紙を細かく彫って、着物の文様などの染色に使うそうです。
先生はこの伊勢型紙の技法で、
広重の「東海道五十三次」を二年がかりで完成させました。


これはそのうちの「原 朝之富士」。
tokaido14.jpg

姫路市出身。学生時代は体操選手。医学博士にして力石研究者。
「郷土および庶民の文化遺産”力石”について」
で毎日郷土提言賞三重県優秀賞受賞。


 
ひとひらのはなびらふわりちからいし  高島愼助




雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞