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「井口」本と出会う

神田川徳蔵物語
06 /26 2018
「ネットにこんな本が載っていますが…」

そんなメールを徳蔵縁者のEさんからいただいたのが先月31日。
どうやら徳蔵のことが出ているらしい。
でもネットの情報はほんのわずか。まず本を探すのが先決です。

しかし国会図書館に所蔵はなく、公共施設では全国でただ一ヵ所、
著者の出身地の岡山県立図書館に一冊と、
古書店に一冊あるのみ。

さっそく地元の図書館へ出向き、県外貸し出しを申請。
それから待つこと19日目、やっとやっとはるばる岡山県から届きました。

ハードカバーの408頁もある立派な回顧録です。
ひと目見て欲しくなり、2回読み終わったところで古書店へ注文。

本から立ち上る「臨場感」がたまりません。

注文から5日目、情報をいただいてから25日目に、とうとう我が手に。
それがこれです。
井口幸男氏の私家本「わがスポーツの軌跡」
(昭和61年発行)

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「借りて読んだのに買うんですか」と呆れられましたが、
そうなんです。
私は欲しくなったら買うんです。せっかく今までの本を処分したってのに。

古書のいいところは、以前の持ち主の思いが残っているところです。
新聞の切り抜きが挟んであったり、本以外の情報があるんですね。
今度の本には言葉を添えた「謹呈」がありました。

「老境に至り、」で始まる言葉には、こんな一文が…。
「後日重量挙の編纂史が企画されることにでもなれば、参考の一助に…」

この本の最初の寄贈者は、どんな人だったのか。
30数年前、できあがったばかりの自著を、
ちょっと恥ずかしげに手渡す井口氏の姿がほうふつとしてきます。

彫塑家・北村西望(右)制作の「旭日昇天」のモデルになった
若き日の井口幸男(左)です。

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井口氏は日本体育会体操学校(現・日本体育大学)卒業後、
戦前まであった文部省体育研究所に所属。そのとき、モデルを依頼された。
ちなみに北村西望は「長崎平和祈念像」の制作者。

戦前は大日本帝国のために、戦後は平和のために。

原爆投下された長崎に建つ「平和祈念像」が、なぜたくましい男性だったのか、
私はずっと不思議に思っていましたが、
北村が重量挙げ選手をモデルに起用していたことが、
その根底にあったことを初めて知りました。

北村自身は像の裏面に、こう記しているそうです。
「すべてを超越した人類最高の希望の象徴」

さて、本です。
これは寄贈された人のご遺族がのちに古書店へ持ち込んだものでしょう。
箱は焼けて手の跡もついていたけれど、本文は読まれたかどうか。
でも、ページの端を折った形跡が2ヵ所、残っていた。

神田川(飯田)徳蔵と同時代に生き、交流を持った人物の著書は、
若木竹丸の「怪力法」に加えて2冊目になる。

けれど井口本は若木本よりダントツに詳しい。
徳蔵の息子や甥たちとのつながりも長く深い。

次回からは井口幸男を通して、
徳蔵一族の「肉声」をしっかりお伝えしてまいります。


※参考文献・画像提供/「わがスポーツの軌跡」井口幸男 私家本 
               昭和61年

人形劇

世間ばなし①
06 /23 2018
ちょっとのんびりしたくて、
「しずおか人形劇フェスティバル」をのぞいてみました。
会場には親子連れがいっぱいです。

お父さんもお母さんもみんな若い!
そんな中に場違いな私。ちょっと恥ずかしいけど、ま、いいか。

出演はプロアマ合わせて15団体。
同時間に複数の団体が上演するので、行き当たりばったりで4団体を観ました。

こちらは大道芸人のあまるさんの「コメディ人形劇」
天井ではミラーボールがぐるぐるピカピカ。

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斬新なネタ、巧みな話術と軽やかで無駄のない身のこなし。
さすが、プロの芸人さんだけあって子供たちをグッと惹きつけます。

「だれか、この暴れるヘビをやっつけてくれェ」と叫ぶと、
男の子たちが我先に立ち上がり、ムキになってヘビを叩きのめす。
それを見ている大人たちがドッと笑う。

アッという間の30分でした。

特設広場には紙芝居のおじさんがいました。
幼い坊やとマンツーマン。

CIMG4357 (2)

紙芝居はなんと「黄金バット」
思わず、「古すぎる!」

熱演のあまり、おじさんの独演会になって紙芝居が添え物になっている。
でもあの坊やは一生懸命聞いていた。
何か心に響くものがあったのかもしれませんね。

こちらは腹話術の部屋です。
床に正座した女の子が身を乗り出して一心に見ています。

CIMG4358 (3)

客席はまばらで子供は一人だけ。
でもこの子は夢中で、一緒に歌を歌い思いっきり楽しんでいました。
他人はどうあれ大勢に流されず、おのれを貫くって、
なかなかできることではありません。

個性的で豊かな人生を歩むんだろうな。

こちらは、立ち見がでるほど人気のプロ劇団「茶問屋ショーゴ」です。
演者は二人。茶どころ、静岡県牧之原市在住というのも嬉しい。

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クマの子の誕生から冬眠までの一年を描いた「マーくんのいちねん」。

スピード、奇想天外、ユーモア、そして限りない優しさに、
子供も大人も私も、ふんわりした気分で見入ってしまいました。

写真は冬眠に入ったクマの子のマーくんが、
三日月をバナナと勘違いした夢のお話です。
演者が持っているお月さまがいろんな食べ物に変身するのです。

本日、大活躍したクマの子マーくん(右)とマーくんのお母さんです。

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「しずおか人形劇フェスティバル」パンフからお借りしました。

楽しいひとときをありがとう!

よきライバル

神田川徳蔵物語
06 /19 2018
昭和7年(1932)12月、
神田川(飯田)徳蔵若木竹丸飯田一郎の3人が、
徐相天の招きで今の韓国ソウルへ出かけたことは以前書いた。

徐相天がどこで徳蔵たちを知ったのか不思議だったが、
そのが解けた。

戦前から戦後の重量挙げの選手として、また五輪監督として活躍した
井口幸男氏の著書「わがスポーツの軌跡」に、バッチリ出ていたのです。

この朝鮮大会出場のきっかけは若木竹丸だった。

井口はこう記す。
「雑誌「キング」に、頭山満翁とともに若木君が載ったことがある」

「キング」は講談社発行の大衆娯楽雑誌で、創刊は大正14年(1925)。

創刊号です。74万部売れた。
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頭山満翁と若木竹丸です。

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「私は見た!昭和の超怪物」より

井口は続けて、こう書いている。

「そのキングに、
鍛え抜かれた肉体とあおむけに寝て、
70貫(262・5㌔)もの鉄アレイを差し上げている若木君の写真も掲載された。
その雑誌が朝鮮(韓国)へ送られ、徐相天の目に止まった。

それで当時の朝鮮日報の後援で日本選手を招待することになった。
つまり第一回の日韓交流が行われることになった」

このとき徐相天、29歳
若木も一郎も20代前半の若者。
こんな若者ばかりの大会で、41歳の徳蔵だけが1位になった。

怪力の若木の敗因を井口はこう分析している。

「若木君は寝差しのみに力をそそいだ結果、上半身はものすごく発達したが、
立って挙げるとなると脚力が伴わなかった。そのうえ、
肩の筋肉の異常発達から、うまく上に挙げ得ず失敗に終わった」

これは井口幸男愛用のバーベルです。
井口幸男氏愛用のバーベル
秩父宮記念スポーツ博物館所蔵

徳蔵、若木と共に出場した飯田一郎は、
「朝鮮力道大会」から4年後の昭和11年(1936)5月31日、
今度は井口幸男らとともに、文部省体育研究所で開催された
「第一回日本重量挙競技選手権大会」に出場した。

井口は最軽量級、一郎は中量級として。

井口は共に出場した一郎のことを著書の中で、こう評価している。

「一郎君は石差しの第一人者・徳蔵氏の甥にあたり、
飯田家系統をくんで、参加者の一人に選ばれるほど力が強かった。
この大会以来、
私と一郎君はよきライバルとしてこの道の発展に尽くしてきた」

しかし、徳蔵と共に一郎も「現代日本怪力家十傑」の一人に選んだ若木は、
著書の中で「父祖の業、多忙のため、あたら宝玉も地に埋もれる如き」と。

戦前は長男として家業を優先し、
戦後は長いシベリア抑留生活ののちそれも失って、
柔道場と整骨院という新たな自活の道を開いた。

戦争を境に一郎と井口のたどった道は同じ道にはならなかった。

ここでちょっと気分を変えて、力石です。

秩父宮記念スポーツ博物館(現在休館中)には、
井口幸男のバーベルと共に、力石「天明石」も展示されています。

これです。
霞ヶ丘・国立競技場
高島愼助・元四日市大学教授撮影         71×44×23㎝
以前は中野区東中野・氷川神社にあった。

「四十三メ余 天明二年 江左ェ門 天下泰平
万五郎 市五郎 源八」



※参考文献/「わがスポーツの軌跡」井口幸男 私家本 昭和61年
※画像提供/「私は見た!昭和の超怪物」黒崎健時 スポーツライフ社
         1989

二人の母

神田川徳蔵物語
06 /16 2018
徳蔵の縁者・Eさんから、こんなメールがきました。

「今まで喜代さんだと思っていた女性はそうではなかった」

喜代さんというのは、「飯定組」飯田定次郎の長女で、
運送業「飯隆組」を経営する飯田隆四郎の妻のこと。
 ※隆四郎は婿入りしたため、飯田姓になっています。

隆四郎と喜代には子供が5人(一人夭折)。
その長男が前回ご紹介した飯田一郎です。

飯田家一族の写真にはいつも長女然とした女性が、
妹たちを背後に従えて堂々と写っていたから、Eさんはてっきり、
「一郎たちの母の喜代」だと思ってしまったそうです。

ところが違ったのです。
よく似ていますが、のちにこの方は育ての母「お源さん」と判明。

      お源さん                 一郎
さんお源 一郎さん2 (3)

「一郎さんにも飯定にも似ているように見え、喜代の妹たちと似ていたので
姉妹と信じてしまいました。一族の集合写真に混ざっていても
少しも違和感がありませんでしたし…」とEさん。

産みの母喜代さんは大正14年(1925)、41歳で亡くなったという。
そのとき一郎、16歳。その下には幼い弟たちが3人。

お源さんは「飯定組」という大所帯へ入り、いきなり4人もの子持ちになった。
当時は珍しかった富士登山へも出かけるほど活発な女性だっという。

そんなお源さんを見ていて、私はふと、思ったのです。
お源さんって、絵本の「せんたくかあちゃん」みたいだって。

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さとうわきこ作・絵 福音館書店 1978

「せんたくかあちゃん」は、いつも元気いっぱい。
空から落ちてきた雷さままで洗ってしまうほど洗濯が大好きです。
お源さんもわんぱく坊主たちの汚れ物をこんなふうに楽しげに、
毎日毎日、ジャブジャブ洗っていたんでしょうね。

こちらは産みの母・喜代が写っている飯田隆四郎一家です。
喜代はこの3年後、4人の息子たちを残して亡くなります。

喜代に抱かれている赤ちゃんは、重量挙げの三宅義信選手が、
ローマオリンピックでバンタム級2位に入ったときのコーチだった勝康です。
三宅選手はその4年後の東京オリンピックで金メダルを獲得。

左から一郎、姪、喜代と4男の勝康、父親の隆四郎、2男五郎、3男博通
喜代隆四郎一家 (2)

一郎のお孫さんは飯田清隆さんといいます。

この「清隆」という名前は、
曽祖父・隆四郎の「隆」と実の曾祖母・喜代)から
一字ずついただいたものだそうです。

一郎さんの、
実母への想いと孫への愛情が深く込められた名前だったのですね。

ちょっと、ジンときます。

その清隆氏、高校生のころ、祖父・一郎さんから、
ウエイトトレーニングの指導を受けたことがあるという。
厳しい人だったが、それがきっかけでスポーツクラブでアルバイトを始めた。

清隆氏は現在、東京都荒川区で、
「アディ整骨院&アロマ・エステサロンADY」を経営しています。

「祖父の教えやスポーツクラブでの体験から柔道整復師の資格をとり、
それが今の仕事につながりました」と清隆氏。

その整骨院HPの冒頭にはこう記されていました。

「下町、荒川区町屋。この場所で祖父、父から受け継いだ60周年。
旧荒川体育センター飯田柔道場

あでぃ

一郎さんは戦後、この場所で、柔道場と整骨院を開いたそうです。

祖父から、そしてへ。

素敵な歴史が静かに流れています。



※「アディ整骨院&アロマ・エステサロンADY」 
      東京都荒川区町屋8-4-16 飯田ビル2F ☎03-3806-5933
 

美青年

神田川徳蔵物語
06 /13 2018
「第2回全朝鮮力道大会」へ出場した翌、昭和8年正月、
徳蔵のもとへ徐相天氏から賀状が届きます。

先に文面を記します。

「謹奉賀新年   
      元旦
                 朝鮮京城体研
                             徐相天

地方ニ行ッタ関係上 失礼致シマシタ  相変ラズ御愛顧ヲ御願イ致シマス
飯田一郎様ニモ ヨロシク御願イ致シマス
前回御来鮮ノ時 Two hands militaryPressニモ 貴殿一九五封度ガ
今大会記録ニナリマシタ 」                          

その賀状です。
今から85年も前の賀状です。アルバムに大切に保存してありました。

さし石4 (2)

徳蔵の活躍に「飯定組」の初代親方・定次郎は、
2代目を継がせた自分の目に狂いはなかったと、さぞ満足したことでしょう。
定次郎はこの5年後、78歳で豊かだった人生の幕を閉じます。

その数年後、米軍機による大空襲で東京は焦土と化し、
徳蔵は家も財産も失いますが、
「徳蔵アルバム」だけはなぜか生き延びた

そして、このブログへいただいたコメントがご縁となって、
平成の今、私は全く未知の人だった「神田川徳蔵」さんと知り合いました。
美空ひばりの「愛燦燦」の歌の文句そのまま、
「人生って、不思議なものですね」

さて、
徐相天氏の賀状に出てきた「飯田一郎」についてご紹介します。

7歳のときの飯田一郎(右から二人目)です。隣りの坊や二人は一郎の弟。
右端はのちに徳蔵と結婚するお千代さん。このときはまだ未婚。

このお千代さんが産んだ定太郎と従兄弟の一郎、一郎の弟勝康が、
その後、日本のウエイトリフティング界で活躍するとは、
このときは誰にも予想できなかった。

3 大正5年1月 飯田定次郎 (2)
大正5年(1916)1月

飯田一郎は若木竹丸の門下生だったという。
若木は著書「怪力法」の中で、一郎へこんな賛辞を贈っています。

「アマチュア重量挙界ミドル、ウエイト、チャンピオン。
技の美事なること天下一品。真に恍惚境に引き入らる」

一郎がバーベルを挙げた姿は、
若木氏が「恍惚境に引き入れられる」ほど美しかったというのですから、
すごいじゃないですか。

こちらは「全朝鮮力道大会」ごろかと思われる一郎です。

一郎さん2 (2)

若木はこうも言っています。
「一個の美青年。温厚篤実。体育家中、まれに見る優和な人」

確かに!

まぎれもなく美青年です。

プレス195ポンドで優勝

神田川徳蔵物語
06 /10 2018
第一次と第二次という二つの大きな戦争のはざま

徳蔵たちが「第2回全朝鮮力道大会」に出場した昭和7年(1932)は、
そんな時代だったような気がします。

「はざま」といっても決して平穏だったわけではありません。

第一次世界大戦が終わろうとしていた大正7年(1918)には、
物価高騰に苦しめられた富山の主婦たちが、
「生きるか死ぬかの境目だ。監獄へ行くほうがまだ幸せ」」と、
「女一揆」(米騒動)を起こします。

昭和に入ると昭和恐慌が始まり、貧困は全国に広がります。

特に東北地方は悲惨だった。

娘身売り相談所」昭和5年   「飢えて大根をかじる子供たち」昭和8年
img033_201806081618194aa.jpg
「総合資料日本史」浜島書店 1982

徳蔵たちが渡鮮した昭和7年には、
中国に日本の傀儡(かいらい)国家・満州国が成立。
国内では血盟団事件二・二六事件などの血生臭い事件が続発します。

ドイツにナチス政権が誕生したのもこの年です。
世界は第二次大戦へ突入。
日本も戦争一色となり、それが敗戦の昭和20年まで15年間も続きます。

そんな中、徳蔵たちは無事、大会への参加を果たします。

この「暗い時代」はさておき、ふと、こんなことが頭をよぎりました。

日本に重量挙げの組織がまだなかった当時、
「全朝鮮力技連盟」会長の徐相天氏は、どんなルートで徳蔵を知ったのか、
また徳蔵は初めての渡航や初めての大会へどんな気持ちで臨んだのか。

こちらは徳蔵アルバムにあった「朝鮮選手」たちです。
胸に「體研(体研)」「WhiMoon」「☆マーク」をつけています。

ご子孫がご覧になったら、「こんな写真があったとは」とびっくりするかも。

朝鮮選手

この大会で徳蔵は、プレス195ポンドで優勝します。
日本人初の快挙です。

一方、若木はダメだった。
「現代体育・スポーツ大系第21巻」によると、

若木竹丸は当時怪力の持ち主として世間一般に広く知られていたが、
朝鮮で初めて3種目(プレス、スナッチ、ジャーク)に接したため、
拳上技術に未熟さがみられ成績はよくなかった」

長年、石上げで鍛えてきた徳蔵です。
石をバーベルに持ち替えても、
技術的にはなんら変わることがなかったのかもしれません。

のちに若木は自著「怪力法」で、力技の大先輩・神田川(飯田)徳蔵を、
「現代日本怪力家十傑」の一人として讃えています。

かつて、日本人で初めて重量挙げで優勝した徳蔵という男がいた。
そのことを、もっともっと
みなさんに知っていただけたら…。


※参考文献/HP「日本ウエイトリフティング協会60年史」
        「現代体育・スポーツ大系 第21巻」講談社 昭和59年

若木竹丸、徐相天

神田川徳蔵物語
06 /06 2018
飯田徳蔵若木竹丸は、いったいどこで知り合ったのか。

徳蔵縁者のEさんから初めてメールをいただいたのは昨年の初めでした。
その後、貴重な「徳蔵アルバム」を送っていただいたおかげで、
この「徳蔵物語」をスタートさせることができました。

そのアルバムですが、
丸顔で人懐っこそうな徳蔵さんはすぐわかりました。
でも、ボディビルダーの男たちはまったくわかりません。
縁者のEさんもサッパリだという。

そこで手始めに昨年、この写真をブログに載せてみました。
左が徳蔵、右端は徳蔵の甥の一郎ですが、真ん中の人物は全然わかりません。

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ところがすかさず、岐阜在住で
「東海力石の会」を主宰する大江誉志氏からメールがきました。

「若木竹丸先生の秘蔵写真が出てきたときは驚いて、
腰を抜かしそうになりました。
怪力願望を持つ男の中では、若木先生は憧れの存在です」

そこで私は初めて、かつて「若木竹丸」という人がいて、
その人が「昭和の怪物」の異名を持つ
日本のウエイトリフティング、ボディビルの祖であることを知りました。

上の写真は、神田川沿いの米穀市場の帳場前で撮影したものですが、
いつごろの撮影かはわかりません。
ただこの3人は、
昭和7年12月、朝鮮中央体育研究所の徐相天氏の招待を受けて、
「第2回全朝鮮力道大会」に出場しています。

ちなみに韓国では重量挙げのことを「力道(ヨクト)というのだそうです。
ひょっとして、
往年のプロレスラー力道山の「力道」は、ここからとったのでしょうか?

こちらは徳蔵アルバムにあった写真です。
韓国選手2

右側が徳蔵たち3人を招待した徐相天氏。左側は李圭鉉氏。
ともに「朝鮮中央体育研究所」の師範でした。

下の写真左は、両足の板に6人の学生を乗せた徐相天、
右はブリッジで人を乗せた若木竹丸です。

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「怪力法」              「私は見た!昭和の超怪物」(東京朝日新聞)
  
当時の朝鮮は日本の統治下におかれていましたが、
その朝鮮・京城(現・ソウル)にウエイトリフティングの組織ができたのは、
大正15年ということですから、
昭和9年に柔道の嘉納治五郎によって初めてバーベルを購入した日本より
ずっと先を行っていたことになります。

さて、初めの写真に戻ります。
もしこの写真が「第2回全朝鮮力道大会」出場前後のものであれば、
このとき徳蔵41歳若木21歳一郎23歳のとき
ということになります。

徳蔵の甥の飯田一郎は、
荷揚運送業「飯定組」初代・定次郎の初孫で、
徳蔵の長男の定太郎より15歳も年長でした。

それゆえ、
東都力持界を率いる叔父の活躍は従兄弟たちの誰よりもよく知っていたし、
その叔父が早くからハイカラな舶来品のバーベルを所持していたことも
大いに誇りにしていたのではないでしょうか。

祖父の飯田定次郎と孫の一郎です。
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その一郎さん、全朝鮮力道大会へ行く前年の昭和6年に、
日本初のバーベルを製作したそうですから、
ウエイトリフティングには並々ならぬ興味を持っていたはず。
と同時に、若木竹丸とも知り合いになっていたはず。

そんなわけで

徳蔵と若木を結びつけたのは、
若木と同世代の飯田一郎だったのではないかと、
私は思っているのです。


※画像提供/神田川(飯田)徳蔵子孫・縁者
        /「私は見た!昭和の超怪物」黒崎健時 
         スポーツライフ社 1989
        /「怪力法並に肉体改造 体力増進法」若木竹丸 第一書院
         昭和13年 復刻判 壮神社 平成2年

舶来品(はくらいひん)

神田川徳蔵物語
06 /03 2018
今、図書館から大量に借りてくるのは、
格闘家筋力トレーニングの本ばかり。

そもそも私が力石に興味を持ったのは、
あくまでも石の魅力や石にまつわる民俗的な面白さからだったのに、
何の因果か
もっとも苦手な格闘技やらマッチョと向き合う羽目になった。

3、4歳のころ、母の実家へ行ったら大男の母の弟たち3人に
「きいちゃん」「きい坊」と呼ばれて、代わる代わる抱きかかえられた。
顔は渥美清で体はジャイアント馬場みたいな叔父さんたちで、
私の気分はキングコングにつかまれた女の子状態。

キングコング

叔父さんたちの曾祖母の父親は藤枝・田中藩の柔術指南の猛者、
かたや父の先祖は神主。体格の差は歴然です。

本当は気は優しくて力持ちのおじさんたちだったのでしょうが、
ほっそりと小柄な父を見慣れていた私にはただ恐ろしいばかり。
それがトラウマになってしまいました。

加えて、長距離トラックのドライバーだった2番目のマモルおじさんが、
夜間、暴走トラックに追突されて若くしてこの世を去ったことも、
ちょっぴり影を落としているのかもしれません。

さて、話を戻します。

この人は「近代ウエイト・トレーニングの父」
ユージン・サンドウという人だそうです。

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「筋力トレーニング法100年史」よりお借りしました。

ちっちゃな布一枚つけただけなので、モザイクかけようかと思ったけど、
それも失礼だからそのまま載せました。
ほかにいちじくみたいな葉っぱをつけた写真もあって、
ドギマギしつつ見入ってしまいました。

こちらは若木竹丸氏。
数えの17歳でこのサンドウの本と出会い、筋力トレーニングに開眼。
「あなた以上になってみせると自分に誓った」そうです。

ボディービルダー1

その竹丸氏が著書「怪力法」で、こんなことを言っています。
「高価な運動具を買わなくてもいいんだよ。
トタンや樽でセメントを固めればちゃんとアレイやバーベルになる」と。

そのバーベルを日本政府が初めて海外で購入したのは、
徳蔵に遅れること14年後の昭和9年(1934)。
翌年、それが届いたときには、
「まるで人体解剖をなすがごとき緊張の中で荷を解いた」という。

待ちに待った高価な器具です。
みなさん固唾をのんで見守っていたことでしょう。

「筋力トレーニング法100年史」(窪田登)によると、
この器具の正式名称は「グローブ・エンデッド・バーベル」というのだそうです。

こちらはドイツなどから輸入された
「重体操用具」明治29年の広告です。
img023.jpg
「写真で見る体育・スポーツ百年史」よりお借りしました。

一番下に、徳蔵のバーベルと同じものがあります。

長年、力石を用いて力技を見せてきた徳蔵さんが、
こんな高価な舶来品(はくらいひん)を購入するのには、
よほどの信念と理由があったからだと思います。

こちらの写真は「神田川重量挙道場」での練習です。
徳蔵さん、ついに重量挙げの道場を持ったのです。
この写真の人が誰なのか、いつごろのものなのかはわかりません。

徳蔵アルバム説明2 (2)

よく見ると、壁に若木竹丸の写真が貼ってあります。

20歳もの年齢差のある徳蔵竹丸でしたが、非常に親しく交流していた、
これはそれを裏付ける貴重な写真ではないでしょうか。



※参考文献・画像提供/復刻版「筋力トレーニング100年史」窪田登 
          体育とスポーツ出版社 2007
          /復刻版「写真で見る体育・スポーツ百年史」上沼八郎
          日本図書センター 2015
※情報・写真提供/神田川(飯田)徳蔵子孫・縁者
※参考文献/「怪力法並に肉体改造体力増進法」若木竹丸 
         第一書院 昭和13年
         復刻版 壮神社 平成2年
         「私は見た!昭和の超怪物」黒崎健時 
         スポーツライフ社 1989

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞