DV国家 …73
田畑修一郎3
私の脳裏から、「DV」という言葉が離れなくなった。
自分が夫から受けていたのは果たしてこれだったのだろうか。
確かに経済的に追い詰められ、たびたびの暴言に傷つけられ、
不可解で危険な目にも遭ったが、殴られることは皆無だった。
だが、「何かおかしい」という違和感は常にあった。
その「何か」をはっきりさせたくて、
以来、DVに関する本をむさぼるように読んだ。
夫婦間の殺人事件が報道されるたびに記事を切り抜いて、
スクラップブックに張り付けたりもした。
交通事故車の中で死んでいた女性は、
実は夫の偽装工作だったという記事を目にしたとき、
夫を疑うことなく同乗したその妻の心理が身に染みて理解できた。
「夫の愛人でもめていたにも関わらず、同乗した妻に危機感なさすぎ」
との世間の批判があったが、そうじゃないよ、と反論したくなった。
入院費を払わない夫を見て、「いつまであの男に騙されてるつもりか」
と母が言ったとき、すかさず、長男がこう言って庇ってくれた。
「だって夫婦だもの、信じるのは当たり前じゃないか。
夫婦なのに疑って暮らす方がよっぽどおかしいよ」
交通事故に見せかけて殺されたこの妻に、
私はその言葉をそっくりかけてあげたいと思った。
仕事から帰ると夜遅くまで国内外の本を読んだ。
その中で強調されていたことは、
「日本はDV国家」で、「ジェンダーギャップ(男女不平等)」は、
いつも世界の最下位に近いという日本のショッキングな姿だった。
「他者への暴力は犯罪とされるのに、家族間の暴力は正当化されていた」
「高名な作家や評論家、世界平和を唱えて社会変革のために
積極的な行動をしている人たちが、俺の女房を殴って何が悪い、と」
=「被害と加害をとらえなおす」信田さよ子 春秋社 2004改訂版。
そんな折、カナダで日本大使館関係者が妻へのDVで逮捕された。
ところが「そんなことでなんで逮捕?」と驚く人が多かったことを知り、
日本人の感覚がいかにズレているかを思い知らされた。
のちに私はシニア留学に参加してカナダに少しだけ住んだ。
その仲間の男性が、カナダの女性教師にこう話した。
「現役のころは海外出張で東南アジアへしょっちゅう行ったが、
女を買って遊んだもんだよ」
恥とも思わず、むしろ武勇伝のように語るこの感覚が、
「なんで妻を殴っただけで逮捕なの?」につながっていると思った。
ジェンダーギャップについては、こんな報告もあった。
「1995年、北京で開催された第4回世界女性会議は政府と非政府(NGO)の
二つからなり、世界の国々から約4万人が集まった。
政府会議の総会で各国政府代表団長が次々スピーチしたが、
ほとんどが女性代表で、10番目ぐらいに初めて男性が姿を現したのが、
日本代表の野坂官房長官で、会場にシラケた空気が漂った」
=「北京で燃えた女たち」松井やより 岩波書店 1996
その北京大会から27年、日本のジェンダー指数はさらに低下。
この国は何も変わっていなかった、というより悪化していた。
「性虐待、性暴力」のとらえ方については、
記者時代に忘れられない事件があった。
某市で強姦事件が起きた。
被害者の女性が警察に駆け込んだが取り合ってもらえない。
そこで女性は裁判に訴えた。
ところが裁判所も門前払い同様だった。
その理由は、庶民的な言い方をすればこんな感じ。
「あなたに隙があったんじゃないの?」「あんな夜間歩いているんだから」
「あなたから誘ったんじゃないのか」
「水商売なら仕方がないでしょ」「もう処女ではないんだし、何が問題なの?」
その後、伝え聞いたことだが、
確か彼女は最高裁まで闘いついに勝った。莫大な裁判費用がかかったが、
彼女は果敢に「あなたたちは間違っているよ」と突き付け、認めさせたのだ。
前述の信田さよ子氏も1990年代にあったこととして、
著書の中でこう書いている。
「父親から性虐待を受けて訴えてもファンタジー(空想)だと言われたり、
逆に精神科へ連れていかれたりした。
日本心理臨床学会で、ある人が父親からの性虐待を報告したら、
高名な精神分析家の女性が、「ファンタジーじゃないですか」といい、
会場から賛同の拍手が沸いた。
性被害を被害者の落ち度や空想にしてしまう原因は、
フロイトのファンタジー説からで、
アダルトチルドレンや虐待、トラウマは全部、被害者のウソという
臨床心理士さえいた」
私はふと、年がら年中、彷徨い歩いていた近所の女性を思い出した。
彼女は老いた体にフリルのついた可愛い洋服を着て、
白髪交じりの長い髪に造花をつけた帽子を被り、
ピンクのハンドバックを抱えていた。
そうして永遠の少女の姿で、炎天下でも雨の日でもあてどもなく歩いていた。
小学生のころから長期間、実父の性被害に遭い、やがて精神を病んだ。
病んだまま、とうとう父の子を産んでしまったと人づてに聞いた。
そういえばバスターミナルの片隅で、赤ちゃんを抱いた彼女が、
ホームレスの男たちの輪の中に座っているのを見たことがあった。
性被害に遭ったのかと思ったが、実父の子供だったとは。
これを専門家が「被害者のウソ」と決めつけるのは、あまりにもむご過ぎる。
この人の父親が罰せられたという話はついに聞かなかった。
彼女に唯一温かく接してくれたのは、ホームレスの人たちだったのだ。
勇気を出して被害を訴えても、
裁判所でも精神分析の専門家と称する偉い先生からも「あなたの落ち度」
「あなたの空想だ」「うそつき」と嘲笑われて中傷され、二次被害を受ける。
そしてそれは決して1990年代の風潮や意識でないことは、
近年、性被害に遭った伊藤詩織さんというジャーナリストの事件が、
「現在も同じだ」と、如実に語っている。
そして加害者を擁護し、被害者を貶めるその急先鋒にいるのが、
同性の女性であるということも1990年代となんら変わらない。
女が女を叩き、貶める。
なぜなのか?
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自分が夫から受けていたのは果たしてこれだったのだろうか。
確かに経済的に追い詰められ、たびたびの暴言に傷つけられ、
不可解で危険な目にも遭ったが、殴られることは皆無だった。
だが、「何かおかしい」という違和感は常にあった。
その「何か」をはっきりさせたくて、
以来、DVに関する本をむさぼるように読んだ。
夫婦間の殺人事件が報道されるたびに記事を切り抜いて、
スクラップブックに張り付けたりもした。
交通事故車の中で死んでいた女性は、
実は夫の偽装工作だったという記事を目にしたとき、
夫を疑うことなく同乗したその妻の心理が身に染みて理解できた。
「夫の愛人でもめていたにも関わらず、同乗した妻に危機感なさすぎ」
との世間の批判があったが、そうじゃないよ、と反論したくなった。
入院費を払わない夫を見て、「いつまであの男に騙されてるつもりか」
と母が言ったとき、すかさず、長男がこう言って庇ってくれた。
「だって夫婦だもの、信じるのは当たり前じゃないか。
夫婦なのに疑って暮らす方がよっぽどおかしいよ」
交通事故に見せかけて殺されたこの妻に、
私はその言葉をそっくりかけてあげたいと思った。
仕事から帰ると夜遅くまで国内外の本を読んだ。
その中で強調されていたことは、
「日本はDV国家」で、「ジェンダーギャップ(男女不平等)」は、
いつも世界の最下位に近いという日本のショッキングな姿だった。
「他者への暴力は犯罪とされるのに、家族間の暴力は正当化されていた」
「高名な作家や評論家、世界平和を唱えて社会変革のために
積極的な行動をしている人たちが、俺の女房を殴って何が悪い、と」
=「被害と加害をとらえなおす」信田さよ子 春秋社 2004改訂版。
そんな折、カナダで日本大使館関係者が妻へのDVで逮捕された。
ところが「そんなことでなんで逮捕?」と驚く人が多かったことを知り、
日本人の感覚がいかにズレているかを思い知らされた。
のちに私はシニア留学に参加してカナダに少しだけ住んだ。
その仲間の男性が、カナダの女性教師にこう話した。
「現役のころは海外出張で東南アジアへしょっちゅう行ったが、
女を買って遊んだもんだよ」
恥とも思わず、むしろ武勇伝のように語るこの感覚が、
「なんで妻を殴っただけで逮捕なの?」につながっていると思った。
ジェンダーギャップについては、こんな報告もあった。
「1995年、北京で開催された第4回世界女性会議は政府と非政府(NGO)の
二つからなり、世界の国々から約4万人が集まった。
政府会議の総会で各国政府代表団長が次々スピーチしたが、
ほとんどが女性代表で、10番目ぐらいに初めて男性が姿を現したのが、
日本代表の野坂官房長官で、会場にシラケた空気が漂った」
=「北京で燃えた女たち」松井やより 岩波書店 1996
その北京大会から27年、日本のジェンダー指数はさらに低下。
この国は何も変わっていなかった、というより悪化していた。
「性虐待、性暴力」のとらえ方については、
記者時代に忘れられない事件があった。
某市で強姦事件が起きた。
被害者の女性が警察に駆け込んだが取り合ってもらえない。
そこで女性は裁判に訴えた。
ところが裁判所も門前払い同様だった。
その理由は、庶民的な言い方をすればこんな感じ。
「あなたに隙があったんじゃないの?」「あんな夜間歩いているんだから」
「あなたから誘ったんじゃないのか」
「水商売なら仕方がないでしょ」「もう処女ではないんだし、何が問題なの?」
その後、伝え聞いたことだが、
確か彼女は最高裁まで闘いついに勝った。莫大な裁判費用がかかったが、
彼女は果敢に「あなたたちは間違っているよ」と突き付け、認めさせたのだ。
前述の信田さよ子氏も1990年代にあったこととして、
著書の中でこう書いている。
「父親から性虐待を受けて訴えてもファンタジー(空想)だと言われたり、
逆に精神科へ連れていかれたりした。
日本心理臨床学会で、ある人が父親からの性虐待を報告したら、
高名な精神分析家の女性が、「ファンタジーじゃないですか」といい、
会場から賛同の拍手が沸いた。
性被害を被害者の落ち度や空想にしてしまう原因は、
フロイトのファンタジー説からで、
アダルトチルドレンや虐待、トラウマは全部、被害者のウソという
臨床心理士さえいた」
私はふと、年がら年中、彷徨い歩いていた近所の女性を思い出した。
彼女は老いた体にフリルのついた可愛い洋服を着て、
白髪交じりの長い髪に造花をつけた帽子を被り、
ピンクのハンドバックを抱えていた。
そうして永遠の少女の姿で、炎天下でも雨の日でもあてどもなく歩いていた。
小学生のころから長期間、実父の性被害に遭い、やがて精神を病んだ。
病んだまま、とうとう父の子を産んでしまったと人づてに聞いた。
そういえばバスターミナルの片隅で、赤ちゃんを抱いた彼女が、
ホームレスの男たちの輪の中に座っているのを見たことがあった。
性被害に遭ったのかと思ったが、実父の子供だったとは。
これを専門家が「被害者のウソ」と決めつけるのは、あまりにもむご過ぎる。
この人の父親が罰せられたという話はついに聞かなかった。
彼女に唯一温かく接してくれたのは、ホームレスの人たちだったのだ。
勇気を出して被害を訴えても、
裁判所でも精神分析の専門家と称する偉い先生からも「あなたの落ち度」
「あなたの空想だ」「うそつき」と嘲笑われて中傷され、二次被害を受ける。
そしてそれは決して1990年代の風潮や意識でないことは、
近年、性被害に遭った伊藤詩織さんというジャーナリストの事件が、
「現在も同じだ」と、如実に語っている。
そして加害者を擁護し、被害者を貶めるその急先鋒にいるのが、
同性の女性であるということも1990年代となんら変わらない。
女が女を叩き、貶める。
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